森になる
セックスについて最近また考えていたら、私は〈性行為実践〉嫌悪なのだということに初めて思い至った。「セックスはすべてレイプである」というドウォーキンの問題含みなテーゼや「膣オーガズムの幻想」に惹かれるのはそのためだと。私がこの事実に思い至らなかったことにはふたつ理由があり、ひとつには2年前までは処女を捨てたいと思っていたから、そして私は性嫌悪ではないからだ。
2年前、私はたしかにセックスがしたいと思っていた。処女であることが鬱陶しく、自分が異性愛的な意味で「正常な」人間であることを確認したかったのだと思う。セックスをすること=異性愛的に魅力のある人間だと承認されることで、私の欠如が満たされると信じていたのだ。同時に、それは私を必ず傷つけるだろうという確信があった。それは私に決定的なダメージを負わせて、立ち直れなくするものだろうと、感じていた。にもかかわらず、セックスがしたいと思っていたのは、正常でありたいという願望とは別に、自分を痛めつけ、罰してほしいというねじくれた欲求を持っていたからだ。私はよく公衆の面前で用を足す夢をよく見る。なぜか壁のないトイレが公道にぽつんとあって、用を足すと、当たり前だが人はジロジロと見てくる。私は居た堪れない気持ちになり、どうしてこんなところにトイレがあるんだろうと思う。性行為とは私にとってまさに道端のトイレなのだ。不特定多数であれ、個人であれ、身体を人前に晒すこと、身体を委ねることが私にとっては苦痛で仕方がない。苦痛だからこそ、私はセックスがしたかったのだと思う。今はしたくないなら、しなくていいんじゃないと思う。罰してほしいみたいなのもあるけど、妄想で十分かな。
下ネタが嫌いなわけじゃない。ポルノも観るし、性描写のある漫画も嫌いじゃない。むしろ下品な話は(私という存在が透明化されるかぎりにおいては(と書きつつまなざしから逃れる術をもたないこともわかってはいる))好きだし、エロ漫画も好きだ。だからいわゆる性嫌悪ではない。しかし「非-性嫌悪」即「性行為ができる人」というわけでもない、というわりと当たり前のことに私は本当に最近気づいたのだった。フィクトセクシュアル/ロマンティックやAセク/Aロマのことを知っていたのになぜわからなかったのかというと、私は現実の人間に対して性的惹かれを感じるからである。人間に性的惹かれを感じるのに、性行為をしたくない/できないということの表明が許されない気がしたのだ。そもそもそういう事態になんと名前をつけていいのかわからなかったし、名前をつけたとしても、その名づけがAro/Aceコミュニティが編み出してきた言葉の収奪のもとで行われているように感じた。だから、自分は「一時的に」性行為ができないだけで、脱毛したら痩せたら歳をとったら、できるようになるのだろうと、一時の気の迷いなのだろうと言い聞かせてきた。生来的な性質だけが真実だと。でもそんなのは、性行為ができない女性を病理化し、性的な逸脱を思春期の気の迷いとしてまともに取り合おうともしなかった、悪しき歴史と同じことを自分の中で繰り返しているだけだった。名づけられなくとも、一時的であろうとも、いまここにいる私が間違っていないということを自分に言ってやるだけでよかった。もちろんマジョリティによるマイノリティの言葉の収奪の問題はつねに意識しなければならないのだけど、自分が間違っていないことを表明し、同じような人と繋がるために名づけはあるのだということすら、かつての私はわかっていなかったのだ。
ほぼ3年という長い年月をかけて、「セックスについてどう思っているのか問題」は一旦解決した。これからどうするのか、というと、どうもせず人生は続く。性行為が私にとって特に重要性をもたなくなってきているのは、幸いなことだと思う。しかし親密な関係にまったく興味がないかというとそうでもなく、性的惹かれと性行為実践の区分がつくようになった今は、自分の意志が尊重されるかぎりにおいて(もちろん相手の意志も尊重する)そうした関係が築けたらいいなあと夢想することもある。ただ、自分が臭いという謎の強迫観念があるため、抱擁も接吻も添い寝もむずかしいだろうし、親密な関係を築こうとすると相変わらず体調が悪くなるので、よっぽどのことがなければひとりでやっていくことになるだろうが。もっと自立しないと、安定した関係は築けないだろうし。どちらかというと最近は母親に「いつか出会いがあるよ」と善意で言われるとかがきつい。私の今の、不安定だけどおだやかでそれなりにたのしい日々を否定しているつもりはないだろうけど、そういうことを言われると薬飲む。とにかく薬を飲む。どうすることもできないから。
以上はあくまで私個人の問題であり、他人のセックスについて考える際にセックスの暴力性を演繹できるのかということは留保を必要とするだろう。その留保をなくして突っ切っていた時期もあったし、「個人的なことは政治的なこと」であるものの、性行為の全面的な反対は、異性愛マトリクスの内部において戦略的に有効であるとは言えないし、SWの権利運動にも矛盾が生じるだろう。そして性行為の反対は、自由な愛の関係性を広げていくというよりむしろ、道徳的な性関係という新たな幻想をつくりあげようとする勢力に加担することにもなりうる。このあたりは、私ももっと勉強しなければならないし、政治と感情、個人と社会の境界(アイデンティティポリティクス)についても最近はいろいろ考えるところがある。
セクシュアリティのことはひとまず解決したとして自分のジェンダー表現をどうするかを考えている。自分の身体をうけいれられないのをどうにかしたい。ノンバイナリのようなかたちになっていきたい。どっちでもないというのが可能なのかわからないけど、どっちでもなくなりたい。とおもう。とにかく、社会から生きることを望まれてないことだけがわかる。