私の手元に近藤紘一著「サイゴンのいちばん長い日」という文庫本がある。
近藤氏は産経新聞記者としてベトナム戦争を取材し、サイゴン陥落の歴史的な日に立ち会った。
1975年4月30日。北ベトナム軍と解放戦線の部隊が南ベトナムの首都サイゴンを包囲していた。数日前から市内への砲撃も散発的に始まり、外国人のほとんどはメディアも含めて国外に脱出した。
近藤氏を含め、サイゴンに残った日本人たちは前日から日本大使館に避難していた。
4月30日の朝、日本大使館から見た光景を近藤氏はこのように書き残している。
『すぐ目の下のグエンフエ通りの光景は、ほとんどふだんと変わりがない。
絶え間なく行き来するモーターバイクや自転車、立ち食いソバ屋の拍子木の音、勤勉な屋台の売り子たち・・・郊外から逃げ込んできた重装備の兵士らも、銃や背のうを足元に置いてキオスクの娘たちと談笑しながらコーヒーや砂糖キビのジュースを飲んでいる。
あまりにも日常的すぎて、すべてがすでに惰性のうちに決着してしまったような錯覚にすら陥る。』
しかし午前8時をすぎると、街中の様子が一変する。北・革命政府軍が総攻撃を開始したのだ。
『30分後、通りの景観はもうすっかり変わった。辻々の屋台は姿を消し、車やモーターバイクの往来もほとんど途絶えた。河岸の遊歩道路はすでに何万人という人、人、人・・・。まだ、あとからあとからやってくる。街中が文字通り、サイゴン川の水際まで追い詰められ始めた感じだ。
波止場に停泊中の何隻かの貨物船の甲板も屋根も、人で埋まっている。動くあてもない船に乗り込んでどうしようというのだろう。岸壁のサンパンに勝手に乗り込み、夢中で川の中へ漕ぎ出していく家族も多い。
方々でケンカが起こり始めた。持ちきれないほどの荷物を抱えたおかみさんたちが何やら泣き叫び、悪童たちが、その荷物をかっさらって四方に走る、もう大使館のすぐ下の通りまで、河岸めがけてつめかけてくる人々で、手のつけようもない混乱ぶりだ。
私は窓から刻々膨れ上がっていく群衆を見降ろした。あまりに急激なこの町の空気の変化と、突然の群衆の数に呆れ、ちょっと空恐ろしくなった。
最後まで悠々と落ち着いているように見えたのに、土壇場にきて、何と唐突な、あわてふためきかたか。』
そして、10時20分、数日前に就任したばかりの南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領がラジオで演説した。一方的停戦宣言、事実上の降伏宣言だった。
そして正午、北・革命政府軍の戦車隊が大統領官邸の構内に突入。ベトナム戦争が終わった。
同じ頃、近藤氏がいた日本大使館周辺でも・・・。
『横にいたベトナム人職員のマイさんが、ハッと息を飲む気配がした。
「革命政府軍の兵士です」
目の下、わずか十数メートルの路上に、もうきていた。
AKライフル銃を腰だめに、市街戦体形を取りながらヒタヒタと波のように進出してくる。周囲にギラギラと目を配り、指揮官の合図で影のようにキオスクや建物の壁づたいに移動してくる。
くすんだ緑色の平べったいヘルメットに、同じ色のダブダブの戦闘服。皆、サンダル履きだが、動作は一糸乱れず、三階の窓にまでその磁気が伝わってくるほど、精悍な空気に包まれている。
皆、ドス黒く日焼けし、驚くほど若く見えた。その鋭い目付きが誰も同じに見え、一人一人の顔の区別もつかない。
指揮官たちはいずれも40年配に見えた。兵士と同様サンダル履きだが、左腕に白い細布を巻きつけているので、すぐ見分けがついた。
最初の分隊は、窓のすぐ下のキオスクまで来て、全員、援護物に身を隠し、次の十人ほどの分隊が来るのを待った。二隊が合流すると、指揮官同士が何事か素早く打ち合わせた。次いで、道路沿いの建物の窓々に目を走らせた。すぐ真上の私たちとも一瞬視線があった。シワの刻まれたナメシ革のような彼らの表情には、何の感情も読みとれなかった。』
『12時30分。サイゴン中心部は、全面的に北・革命政府軍の軍事制圧下に置かれた。完璧な無血入城だ。あざやか、というより、まったく白日夢を見ているような気持ちだった。
河畔の群衆は完全に気をのまれている。
動きを止め、もう逃げ出すものも、高い声を立てるものもいない。ときおり間近の兵士らの方にこわごわと目を向け、革命政府旗をかざした工作員らの演説に聞きいっている。
ほんのひと時の呆然自失状態から気を取り直した人々は、つきものが落ちたような表情で、河畔から街中へ戻り始めた。鈴なりの船の甲板からも次々降りてくる。つい先ほどまでいがみ合っていたのが、今は従順そのもののヒツジの群れだ。何万という人の塊は、いつの間にか消えていた。
人々が去った後の河岸に、次々と兵士を満載した中国製、ソ連製のトラックが到着し始めた。
私自身も何かつきものが落ちたような気分だった。信じられないことが、今目の前で起こったのだ。
「ベトナム共和国」は今、物理的に姿を消した。新しい主人公は、この青年たち、まだ警戒と、おそらくある種の恐怖に神経をたかぶらせ、獣のように敏しょうに、物音に反応する青年たちだ。』
サイゴン陥落の舞台となった大統領官邸。今は「統一会堂」と呼ばれている。
この正門から革命政府軍の戦車が構内に突入した。官邸を守っていた空挺部隊は戦うことなく門を開いた。この旧大統領官邸は、観光客に開放されている。
4万ドンの入場料を払って中に入ると、白いアオザイ姿の美女がいて、一緒に記念撮影することができる。
「統一会堂」の中には、ベトナム戦争に絡んだ歴史の舞台が残る。
1975年4月21日、南ベトナムを率いて来たグエン・バン・チュー大統領が辞任を発表した会議場。
閣議室。
1975年4月29日、和平運動を展開していたヴー・ヴァン・マウが最後の首相に指名された。しかし、翌日には国が崩壊し、「一日首相」となった。
新任大使の謁見室。
1945年4月18日、最後にこの部屋が使われたのは、日本の人見大使の信任状奉呈式だった。人見大使は就任直後、サイゴン陥落の大混乱に遭遇した。
大統領専用のヘリポート。
手前に描かれた2つの赤い円は、1975年4月8日に官邸が自国の戦闘機に爆撃を受けた場所を示している。
腐敗していたと言われる南ベトナム政権だけに、プライベート空間も充実している。
官邸の3階には立派な映画館があり・・・
ゲーム部屋に、ビリヤード部屋・・・
グエン・カオ・キ副大統領が使用した広々とした部屋には・・・
巨大な衣装部屋が付属していた。
フィリピンのイメルダ夫人を彷彿とさせるこの衣装部屋。この官邸では、初代大統領ゴ・ディン・ジエムの実弟の妻で「マダム・ヌー」と呼ばれた女性が権勢を振るった時代もあった。
このマダム・ヌー、政府による仏教弾圧に抗議して焼身自殺した僧侶について「あれは単なる坊主のバーベキューにすぎない」と発言し、反政府感情を煽った。
大統領官邸の地下は、緊急時の司令室になっている。
無線室に・・・
テレックス部屋・・・
そして司令室。壁には様々な地図が貼られている。
この地下司令部は500キロ爆弾に耐える能力を持ち、非常時に大統領が避難する部屋も設けられていた。
その隣には、大統領席も用意されていて、大統領はここからアメリカ大使館や前線の司令官と連絡を取ることができた。
地下司令部のさらに下には、シェルターも作られていた。
ここは2000キロ爆弾の衝撃に耐える構造となっていて、1975年4月8日に官邸が空爆された際には、グエン・バン・チュー大統領一家がここに避難したという。
大統領が使っていたたくさんの高級車の一台が展示されていた。
サイゴン陥落の日の戦利品として、戦後20年の記念にここに置かれた。
官邸の屋上から見下ろすと、真っ直ぐに伸びるレ・ズアン通りが見える。
1975年4月30日。反政府側の戦車部隊がこの通りを進んで正門から突入した。
そして15年に及ぶベトナム戦争が終わった時、大統領官邸の主人たちはすでに国外に脱出していた。
10年に渡って国を率いたグエン・バン・チュー大統領は、亡命先のアメリカで2001年まで生きた。同じくアメリカに亡命したグエン・カオ・キ副大統領は2011年まで生きて、2004年には祖国ベトナムへの里帰りも果たした。
こうしていち早く逃げ出した権力者たちに対し、残された市民たちの間では戦争終結後「ボートピープル」として命がけで海に脱出する動きが10年以上続いた。
多くの市民が海で命を失った。
本当に、理不尽な話だ。
わずか20年で地球上から消滅した「南ベトナム=ベトナム共和国」。
共産主義の拡大を恐れアメリカがつぎ込んだ巨額の支援で、この国の指導者たちは私腹を肥やした。
国民を顧みず、権力闘争に明け暮れた政治家と軍人たち。
無責任な指導者率いる国家が迎えた当然の帰結、それがサイゴン陥落の現実だった。
<関連リンク>
①1925年開業の老舗ホテル「マジェスティック」でよみがえる若き日の記憶
②グルメでない私たちがドンコイ通りで食べた美味しいベトナム料理
③旧大統領官邸で1975年4月30日「サイゴンのいちばん長い日」に思いを馳せる
⑤戦争証跡博物館で見るベトナム戦争の歴史とジャーナリストたち
⑥忘れてはならない枯葉剤の悲劇!「ベトドク」の思い出を胸に夕暮れのホーチミンを歩く
<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。
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