「●●は俺の嫁」なんてオタク界隈ではよく使われてた言葉だけど、最近はすっかり聞かなくなった。
綾波や翠星石、長門やこなたやあずにゃんのことを嫁としていた人たちは今頃誰を嫁にしているのだろうか。
オタク分野に限らず、若い子がよく言っている「●●しか勝たん」という言い方は個人的に違和感があるなと思っている。
勝ち負けで自分や他人の好きなものに優劣をつけると必ず喧嘩になる。
自分の好きなものしか勝たないとなるとそれ以外は負けているということだが、勝手に"負け"扱いされたそれのファンはどう思うだろう。
まあこんなことまで考えて喋ってないだろうし、ただ単に文字数稼ぎで書いただけなのでみんな仲良く新しい流行語を使えばいいと思う。
最近は二次元のキャラクターしか愛せない人にも名前が付いているらしい。
昔は単なる「社会不適合者」で一括りにされていたと思うが、世間は随分と優しくなったものである。
ぼくはオタク文化に偏見はないし、好きな方ではある。
なのでこの人らの行為についてとやかく言う気はないが、率直に疑問に思ったことがあるのでブログのネタのためにとやかく言わせてもらう。
この人は名探偵コナンの登場人物に恋をし、二次元のキャラクターとの結婚は法的には認められていないため、気持ちの上で結婚をしたらしい。
婚姻届けを作成し、ソロウエディングも行ったようだ。
内面に関しては自覚するほどの変化があったらしく、生活の中でダラダラしなくなったり、孤独感を感じることも少なくなったそう。
また、彼女は自身の経験を生かして占いやカウンセリングもしているらしく、それについては以下のように発言している。
「自己評価が低いと、プラスの言葉を自分にかけられず疑ってしまうことになるんです。自己肯定感が低いと相手からの愛情をちゃんとキャッチできなくなるというのは、フィクトセクシュアルでも実在の人間を相手にした恋愛でも同じなんです」
これは同意するところが大きい。
ぼくも自己肯定感が低くネガティブであるため、他人の好意や好ましい発言を素直に受け止めることができない。
「自分にこんなことを言うなんて、何か裏があるんじゃないか」「本心で言ってないに決まっている」みたいなことを考えてしまい、いまいち円滑なコミュニケーションが取れない。
しかし、生身の人間に対する自己肯定感の低さは、同じく生身の人間との関わりの中で自ずと高まっていくものだと思う。
前述した自己肯定感の低さは、主に異性に対して発揮されるものだ。
それは、ぼくの恋愛経験のブランクの長さに起因している。
近年、女友達も含めて女性と接する機会も少なくなったが故、自分の中で女性に対する感情が醸造され、妙な苦手意識が出ているのだ。
一方で同性の友人や女性の友達からの言動は素直に受け取ることができるし、ぼくも好ましい行動でお返しをしたいとも思う。
相手のことを知らないが故に穿った見方をし、極端な例を全体にあてはめて「こうに違いない」と偏見を増していき、知らないから怖いのでせめて精神的に優位に立とうとして相手の粗を探す。
(あくまでもぼくの話)
こんなスタンスでまともな人間関係が築けるわけがないのだ。
しかし、自分にとって究極に都合のいい存在である二次元のキャラクターと接していて自己肯定感が高まるのだろうか。
彼らは自分のことを認めてくれないし励ましてもくれない。
どんな言葉も彼らが直接発した言葉ではなく、自分の頭の中にいる彼らが自分の感情というフィルターを通って届けられたものとなる。
時折突き放すようなことも言うかもしれないが、それも自分が望んだから発せられた言葉だ。
そのキャラクターの人格を逸脱しない範囲で自分が望んだことしか言わないし、自分が発した言葉も彼らに届くことはない。
愛は見返りを求めるものではないかもしれないが、"無償の愛"が儚いのもまた確かだ。
たまにはリターンを期待してしまうこともあるだろう。
記事を読んだ限り、この人は自己肯定感を高めるべきと言っているわけではないし、個人的にも無理して高める必要もないと思う。
だからぼくとしては単純に疑問なのだ。
どんなに好きな作品でも、いつかは終わってしまう。
自分が覚えていればその作品もキャラクターも消滅することはないのだが、終了するということは今後の展開は基本的には見込めない。
そうなったときに、どうやって頭の中のキャラクターと作品の中のキャラクターをリンクさせて乖離が起きないようにするのだろう。
そして、いかにして人物像をアップデートしていくのだろうか。
もしも、脳内でキャラの性格を都合のいいように改変したとしたら、それはもはや自分が好きになったときの彼ではない。
「彼も生身の人間と同じように成長する」という意見もあるのかもしれないが、その成長は自分の脳内でのみ成立したものである。
彼が日々の生活から物事を学んで己の糧とし、活路を見出して成長していったわけではない。
キャラの成長は作品の作者がもたらしたもののみが正しく、それ以外は「二次創作」となる。
脳内にいる彼は本当の彼なのか、それとも自分の都合のいいようにアップデートされた彼なのかとジレンマに苛まれることはないのだろうか。
実物との乖離を防ぐことに成功できたとしても、問題はある。
いつまでも変わらない彼に対してやきもきしたり、何でこんな人を好きになっちゃったのかって思ったりしないのだろうか。
キャラクターは成長しないが、生身の人間は変わっていく。
当初は惹かれていた彼の個性も、時とともに癪に障るように感じることもあるだろう。
現実にパートナーがいた場合、価値観をすり合わせるために話し合いをしたり、欠点を見て見ぬ振りをして問題がないように見せかけたりすることもできる。
しかし、パートナーが存在するのが脳内だと、気持ちの持って行き方は良くも悪くも自分次第だ。
関係の修復が困難となった場合は別居なり離婚なりになると思うが、「バツイチ」なんて言い方をされるくらい離婚にはいいイメージがないのが現実だ。
上記したように二次元の人物との結婚は法的には認められていないため、別居も離婚も完全に気持ちの問題になるわけだが、個人的には二次元のパートナーをとっかえひっかえしてそのたびに結婚式を挙げるほうが、三次元のそれより痛々しいと思う。
二次元の相手を好きになることも結婚することも、そこに相手の"意思"は介在していないわけだが、パートナーはそもそも自分と結婚したがっているのかはどうやって判断するのだろう。
例えば、世界を飛び回るスパイだったり危険と隣り合わせの殺し屋だったり、一子相伝の暗殺拳の使い手だったりが、危険な目に遭わせるかもしれないのにパートナーを持とうと思うだろうか。
また、作中で想い人や恋人の存在が描かれている場合、それを差し置いて自分を配偶者とすることは、キャラクターにとって幸せなことなのだろうか。
どうにも、自分の欲望を押し付けているだけにしか見えないのだが、そのへんを心の中でどう辻褄を合わせているのか知りたいのだ。
そもそも命名されていなかっただけでこんな人は昔からいたので、今さらという感じも否めない。
ネットやSNSの発達に伴って同好の士を見つけることが簡単になって価値観を共有しやすくなり、謎めいていた生態が白日の下に晒されたに過ぎないのだ。
以前にも、ボーカロイドの初音ミクと結婚したという日本人男性のニュースを見たことがあるが、番組出演者には全く理解されていなかった。
昔に比べてオタク文化(主に漫画やアニメ)に対する偏見は少なくなったとは言え、ゼロになったわけではない。
少数派が声を上げることは声を上げづらい他の少数派のためになるとは思うが、居心地がいいから日陰に居る人も存在すると思う。
多数派が必ずしも少数派を弾圧するわけではないし、「そんな考えもあるよね」程度で遠巻きに見ている人だっている。
何と言うか、昔のオタクの"退路を断った"感じのスタンスが好きだったんだけど、今ではそういうの古臭いのかなあ。