固定されたツイートみちる@michiru_888·2017年11月14日ああここから。。わたしの好きなフランス兄さんの言葉だ。 「しいて言えばわたしは船だな。 政府はマスト。国民は風。時代は海って言うだろ。 帆がぴんと張ってて、良い風が吹いていれば、ちゃんと進むんだ」 #ヘタリア #ルートヴィヒ・ベルネ122
みちるさんがリツイートねこおぢ3@necoodi3·8月11日新型コロナを5類感染症にするとどうなる? ◆メリット 5類にすると、入院勧告や感染者の追跡が不要に☞保健所・行政の負担が軽減 ◆デメリット 自宅待機要請・入院要請など、表の〇印ができなくなる。 検査(PCR検査、画像検査、血液検査)、治療、酸素投与、人工呼吸管理などは最低3割負担に11190321このスレッドを表示
みちる@michiru_888·1時間返信先: @G8lQMY6znBVAq43さん, @minofskyさん, @dig_nonfictionさん戦後、満州で起こった通化事件は全く日本の軍隊は関係ないですよ。もう戦争は終わったのに、敗戦国の若者達を八路軍は容赦無く襲いました。1
みちる@michiru_888·1時間返信先: @G8lQMY6znBVAq43さん, @minofskyさん, @dig_nonfictionさん逆ですよ。7月29日の早朝、朝鮮人も含めた日本人居留民2百数十名が中国の将兵に襲われて、惨殺された事件が通州事件です。女性子供も容赦無く狙われました。日本側も中国側も公的な資料が残されています。2
みちる@michiru_888·2時間返信先: @ishiitakaakiさん菅首相は沖縄担当大臣の時、辺野古の住民と直接膝を突き合わせたり、本島北部の米軍基地の返還に尽力したりしていましたから。こう言う時は頼りになります。711
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん, @xBfowJC1VyPsgZ6さん日華事変が起こらずその野心を露わにしたら、確かに侵略と言えるでしょう。でも、歴史はそうではありません。 自治政府がそうだと言う人もいます。そこは受け取る側それぞれだと思います。1
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん, @xBfowJC1VyPsgZ6さん私には日本は大陸の奥へ奥へと引き摺り込まれたように見えます。 日華事変の一番の勝利者はソ連と言われています。目的を果たしたのです。 満州に留まる日本軍(関東軍)の中には支那(地理的にいう長城以左)に野心を覗かせる軍人もいました。→1
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん, @xBfowJC1VyPsgZ6さんこの時、国民党軍はソ連やドイツをはじめとする欧米からの大量の武器や食糧の援助、トーチカの敷設を受けて準備万端でした。それでも大陸にいる日本軍の有力者は日本からの援軍を断っていました。中国と事を起こしたくないから。押し返したのは度重なる事件に沸騰する日本国内の世論でした。→1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん, @xBfowJC1VyPsgZ6さんこの事件の背後にはソ連の姿が見えます。西のドイツに対する為、東の敵である国民党と日本が互いに戦ってその力を削ぐことは好都合でした。 西安事件は日華事変(日中戦争)の鍵となる事件でした。 日華事変の始まりは第二次上海事変です。国民党軍が上海の日本人居留区を前触れなく襲った事件です。→1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん, @xBfowJC1VyPsgZ6さんでも、満洲国はとても豊かな国になったのは確かなのです。 日本はアジアの一員としてずっともがいてきました。 国民党と満州国は塘沽条約を結び良好な関係を保っていました。1936年の冬に西安事件が起こり、第二次国共合作となります。蒋介石が部下に誘拐された事件です。→1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん, @xBfowJC1VyPsgZ6さん英米などから借りた莫大な戦費は返さなければなりません。だから、しばらく満州に留まりその地を豊かにする道を選びました。 満州を任せようとしていた張作霖は馬賊出身でした。住民からの略奪を止めようとしませんでした。 満州事変は正しいとは思いません。→1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @xBfowJC1VyPsgZ6さん日露戦争はロシアからアジアを守る戦争でした。ロシアから日本は満州にある鉄道とその周辺地を得ました。アメリカの実業家が共同経営を持ちかけました。日本は清への義を重じて断りました。生意気な極東の島国。太平洋戦争の遠因です。 そのまま清へ返すのはあまりにもお人好しです。→1
みちるさんがリツイート渡部陽一@yoichiomar·4時間こんにちは戦場カメラマンの渡部陽一です。アフガニスタン情勢。タリバーンはかつて1996年から2001年までタリバーン政権としてアフガニスタンの約4分の3の地域を制圧。2001年9・11を経てアメリカ軍が報復攻撃を開始。その後タリバーン政権は崩壊。駐留米軍撤退に伴い勢力が再浮上。495385
みちるさんがリツイートワクチン接種済のClara Kreft@808Towns·8月9日マラソンで28位のゴリッセン選手。3年前までは運動する目的だけランニングをして、技術を改善する目的でコーチを雇ったら、その才能がわかって、はじめて大会に参加、ベルギー国内で1位総なめ。今年でマラソンも初挑戦、38歳初五輪で28位となったインタビューが可愛すぎます。2:002.2万 件の表示115891,862このスレッドを表示
みちる@michiru_888·6時間人類最速イタリアの陸上競技躍進のワケ、東京オリンピックを絶賛|World Voice 2021/8/12 >イタリア国営放送のライ2では、イタリアの記録(37.50秒)の4x100mのハイライト放送だけで、40.7%の視聴率を叩き出し、424万8千人がTVの前で金メダル獲得の瞬間に熱狂し歓喜した。人類最速イタリアの陸上競技躍進のワケ、東京オリンピックを絶賛イタリアの記事:東京オリンピックはコロナ対策バブルは全ての予想を超えて持ちこた...newsweekjapan.jp
みちるさんがリツイート東野篤子 Atsuko Higashino@AtsukoHigashino·8月11日ということで、最後はロシアにまで対リトアニア報復を呼びかけています。 本件を巡り、これぞ戦狼外交の典型という記事が1日に5本も出てきましたが、リトアニアはすでに類似の批判を中国から受け続け、すっかり慣れていると思われますので、台湾へのアプローチを変えることはまずないと思われます。7329707このスレッドを表示
みちる@michiru_888·8時間返信先: @michiru_888さん、@yuan59421557さん、他2人こちらは南京陥落4日目に南京城内で撮られた写真です(1937年12月17日)。皆が身に付けている腕章は、便衣兵と間違えられない為に日本軍が配ったり、市民が真似た手作りです。もし、兵民の区別なく襲ったのなら、なぜそういう目印を配ったのか。納得行く答えは未だ得られていません。
みちる@michiru_888·8時間返信先: @yuan59421557さん, @kotamama318さん, @GermanyinJapanさん軍による民間人への組織的な攻撃。 そんな事件は無かったのですよ。証拠は一切ありません。中国には屠城という言葉があると聞き及んでいます。そんな事件はありませんでした。 幕府山事件に代表される中国兵捕虜の処刑が主な事件でした。その人数は軍民合わせて1万人前後という数に行き着きます。1
みちる@michiru_888·8時間返信先: @6SYACdadLSvLufoさん、@xBfowJC1VyPsgZ6さん、他2人七七事変。こちらは盧溝橋で起こった事件ですね。 国民党軍と行動を共にしていた共産党の兵士が夜陰に紛れて両軍に向けて発砲したのがきっかけという説もあります。度々耳にします。中国の人から聞いたこともあります。
みちる@michiru_888·8時間返信先: @michiru_888さん、@6SYACdadLSvLufoさん、他3人話を戻します。法的責任は無いのです。 女性に辛い思いをさせた。 この人道的責任については1995年にアジア女性基金が作られました。首相の謝罪の手紙と共に、各国の元慰安婦に賠償金が支払われました。基金の半分は日本国民からの寄付です。 中国の元慰安婦は受け取っていないように記憶しています。
みちる@michiru_888·8時間返信先: @6SYACdadLSvLufoさん、@xBfowJC1VyPsgZ6さん、他2人日本兵と結婚した慰安婦もいますね。 今お示しした事項は、アメリカの公的資料に残されています。 人数は分かりません。 ただ、日本軍が無理やり拉致した強制連行はありませんでした。そのほとんどは家族のため、あるいは業者に騙されてのものです。古今東西、どこの国でも聞く話です。→2
みちるさんがリツイートソロモン諸島政府観光局(公式)@solomon_japan·16時間家に帰るまでがオリンピック引用ツイートソロモン2020応援団@gosologo2020 · 16時間ナウル到着今夜隔離施設で一泊して明日ソロモン諸島に向かいます142021,410
みちる@michiru_888·15時間返信先: @michiru_888さん、@yuan59421557さん、他2人民間人は一人も殺されなかったとは決して言いません。 多くの尊い命が奪われたことに対しては心から申し訳なく思っています。 でも、ひとつあった事を百にも千にも広げて認めよと言われたら、それは違うと言うしかない。1
みちる@michiru_888·15時間返信先: @michiru_888さん、@yuan59421557さん、他2人それから日本兵個人の犯罪です。日本軍は憲兵を出して取り締まっています。詳しい記録も残されています。 日本軍は組織的に民間人を襲ったのか。 南京戦ではほとんどの市民が避難していた城内の安全区への砲撃や空爆を避けました。軍が市民を意図的に狙った可能性は低そうです。自然と数は限られます。1
みちる@michiru_888·15時間返信先: @yuan59421557さん, @kotamama318さん, @GermanyinJapanさん細かい話をする事をお許しください。道教の慈善団体である紅卍字会の埋葬記録が残されています。戦死者も含めて遺体の総数は43,023体でした。その内、女性や子供の割合は0.3%に過ぎません。 南京戦後の南京事件は中国兵捕虜の処刑、便衣兵の掃討、巻き込まれた若者という構図でした。→1
みちる@michiru_888·16時間返信先: @6SYACdadLSvLufoさん、@xBfowJC1VyPsgZ6さん、他2人日本人も慰安婦になっていましたよ。 東南アジアで働いていた慰安婦達の給料は大将には届かなかったものの、多くの軍人よりも高かった。 また、映画を見る自由もあり、性病に罹らないよう保険衛生はしっかりしたものでした。 家族のため、覚悟して働いていた女性も多かったのです。4
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@Leolize1024さん、他2人日本軍が組織的に民間人を襲った事件ではないのですよ。そのことは東京裁判でも認められています。そうなると、その人数は自然と限られてきます。41
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @Leolize1024さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん南京戦後に何らかの事件はありました。中国兵捕虜の処刑や便衣兵の掃討、巻き込まれた若者という構図です。それから日本兵個人の犯罪ですね。日本軍は憲兵を出して取り締まっています。詳しい資料も残されています。犠牲者の総数は兵民合わせて1万人前後でした。→11
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wchen86771986さん、@wumingshi123456さん、他2人二人は12月10日正午に戦闘の末に南京の紫金山で出会った。この記事はそう書いています。 日本軍は9日に中国軍に対して降伏勧告を行なっています。回答期限は10日正午。返答はなく、午後1時、火蓋は切られました。 歴史上、二人はこの時刻に出会うことはできません。 この記事は実にいい加減です。
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@yuan59421557さん、他2人私達はこういう嘘に対して憤っているだけです。 南京戦に関して当時の新聞は色々伝えています。僧侶出身の軍人が部下と共に中国兵の遺体を弔って歩く姿を記事にしています。落ち着いた丁寧な取材です。私はこちらと気持ちを共にします。1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@yuan59421557さん、他2人本当にあったとは読者も思ってなかったですよ。 後に浅海記者は娘と共に北京へ移り住みました。娘は中国から観光客向けの土産店を与えられました。自分の書いた記事で人の命が失われたことに関して”父は苦しんだ”と語っています。1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @yuan59421557さん, @kotamama318さん, @GermanyinJapanさんここではあくまで”百人斬り”について、話をしています。 この記事を書いた浅海記者は他にも事実と違う記事を書いています。”百人斬り”はただの読者の耳目を引く為の法螺話ですよ。勇には勇を以て答える。人々が好む話を書いたのです。”鉄兜ごと一刀両断”と書かれていたりします。→1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@Leolize1024さん、他2人この記事では、10日正午に二人の軍人は戦闘の末に紫金山で出会ったと書かれています。 日本軍は9日に中国軍に対して降伏勧告を行なっています。その期限は10日正午でした。返答はなく、午後1時、火蓋は切られました。 歴史上、二人は正午に紫金山で出会うことはできません。この記事は実にいい加減です12
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @Leolize1024さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さんここでは二人の軍人の名誉について話題にしています。 ”百人斬り”という連載記事は作り話であったことについてご理解頂ければ幸いです。12
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん同時に、"歴史銘記 忘却仇恨”という言葉もあると、ある中国の人から教えてもらいました。 戦争はどちらの側にも痛みを残すのですよ。満洲国にいた私の知人は日本へ引き揚げる時の話は一切しません。何もなかったからではない。何かあったからこそ、話さないのです。
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん中国人らしくないお言葉。 もっと大らかな人達と思ってきました。 中国には”実事求是”という言葉があると聞き及んでいます。それに沿って話をしています。2
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人後を任せようとした張作霖は民衆からの略奪を止めようとしませんでした。 断りを入れると、満州事変は正しいとは思っていません。 それでも、満洲国はただの領有論ではなく、独立論の上に運営されてきたのです。皆の能力を評価していました。
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人だからと言って、清へそのまま返すのはあまりにもお人好しです。英米などから借りた莫大な戦費は返さなければなりません。だから、しばらくはと満州に残りました。1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん話が長くなりましたmm 日露戦争でロシアから得た満州にある鉄道やその周辺地。アメリカの実業家が共同経営を持ちかけました。日本は清への義を重んじて断りました。生意気な極東の島国。太平洋戦争の遠因です。 →1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん違いますよ。 私は、過去の嘘付きが私達を支配するのを許せないだけです。 1937年の南京事件に関しては、あまりにも嘘が多すぎるのです。1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん孫文の大アジア主義は日中韓力を合わせて欧米の帝国主義に立ち向かうというものでした。どこかの国がどこかの国を呑み込むというものではありません。近代的な考え方です。 私は今もその考え方に惹かれます。日中友好、共存共栄。2
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人私には、日本は大陸の奥へ奥へと引き摺り込まれたように見えます。 結果、中国大陸は共産党が制しました。日華事変の一番の勝利者はソ連と言われています。目的を果たしたのです。 台湾へ逃れた蒋介石は西安事件で自分を誘拐した部下達を生涯許すことはありませんでした。1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人国民党はソ連やドイツを始めとする欧米からの大量の武器や食糧の援助、トーチカの敷設を受け、準備万端でした。 大陸にいる日本軍の有力者はそれでも日本からの援軍を断っていました。中国と事を起こすのは本意ではないから。 押し返したのは、度重なる事件に沸騰する国内世論でした。1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん日華事変(日中戦争)の鍵は西安事件です。背後にはソ連の姿が見えます。ソ連にとって西のドイツに対するため、東の敵である国民党と日本が互いに戦ってその力を削ぐことは好都合でした。始まりは第二次上海事件です。国民党軍が上海の日本人居留区を前触れなく襲撃した事件。→1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん彼は結核に罹った間も、興亜観音のお参りを欠かすことはなかったのですよ。 日本は当事者の片割れですから。 中国では知られていない物事や資料が色々残されているのです。42
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人12月17日の入城の際に略奪や暴行が数十件あったという報告を受けて涙を流さんばかりに嘆いた軍人らしい軍人でした。 その彼が東京裁判では「大虐殺なんて外国人記者から聞いて初めて知った」と述べています。私は彼の言葉を信じます。
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人翌年の2月に軍服を脱ぎ帰国した後は、南京の土を取り寄せ興亜観音を造りました。日中双方の犠牲者を弔う為です。そのお参りは一日足りとも欠かすことはありませんでした。 収監される前日の近親者との酒の席では「親愛なる中国人を虐殺とあっては浮かばれない。願いは興亜の礎、人柱となりたい」と言う1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん南京戦において指揮を執った日本軍の松井石根大将は親中派の筆頭でした。蒋介石とは旧知の仲です。共に孫文の大アジア主義を支持していました。市民の集まる区域への攻撃は避けました。孫文の陵墓である中山陵は戦に巻き込まれないよう守りました。後には墓守の兵を置いています。→22
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さんその記念館でさえ、昔は全く別の出来事の写真を展示していました。指摘されて取り外し、また指摘されては取り外し。その繰り返しです。211
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人こちらもそういう全然関係ない出来事の写真かもしれないですし、もしかしたら、南京で中国兵捕虜が処刑された時の写真かもしれません。 どちらにしても、日本軍が民間人を襲った証拠にはなりません。3
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん私が子供の頃見た南京大虐殺の写真集には同じような写真も多く載っていました。よく知られている写真は実は満州で張学良の配下の者が馬賊を銃殺、斬首した時の写真でした。 ひとつ偽物が交じっていたらまず全体を疑う。そこの所は許してください。その写真は人気で朝鮮半島で広く売られていたそうです111
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人揚子江のほとりに捕虜を集め、対岸へ逃がそうとしました。でも舟はわずか。そんな中起こったのが幕府山事件です。多くの中国兵捕虜が銃殺されました。私はどんな理由があったにしろ、とても酷い事件だと思っています。お互い命を懸けて戦った相手なのですから。
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん国民党軍は上海から南京への途上でも焦土作戦を行なっています。多くの農村が収奪、放火、暴行などの被害に遭っています。敵には何も渡さないという作戦です。 南京戦後、万単位の捕虜を抱え、日本の部隊は食糧調達に苦労していました。ただ逃すと、近郊が被害に遭うかもしれない。→1
みちる@michiru_888·8月11日返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人唐生智将軍は12日に正式な降伏なく自分の部隊を残していち早く南京城外へ脱出しています。揚子江対岸へ渡る際、わずかな小舟しか残しませんでした。残された兵士による舟の奪い合いにより多数の溺死者が生まれました。便衣兵も多かった。岸辺に打ち上げられた遺体の写真はその犠牲者も含まれます。42