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[社会矛盾の浸透] フランス革命は、ルイ16世の時代に勃発したものではあっても、その原因をルイ16世のみに帰すことはできない。 すでに、ルイ14世、ルイ15世のころから、王国は悲鳴を上げていた。 ポンパドゥール夫人の言葉、「我らの後に大洪水よ、来たれ!」にも顕れているように、すでに、ルイ15世時代の貴族の中にすら、「このシステムは歪んでおり、じきに破局は訪れるだろう」という自覚が生まれるほど、そのシステムの不敗ぶりは徹底されたものであった! このページでは、「アンシャン=レジーム」と揶揄された革命直前期におけるフランス王国のシステムを概観していく。
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[財政改革①] ついに、ルイ15世は逝去した! ポンパドゥール夫人の言った「大洪水」の時代が到来したのだ! 骨の髄まで腐り果てたこの国を立て直すならば、もはや、一刻の猶予もない。 「聖域なき構造改革」が不可避なのは、誰の目にも明らかだった。 しかし──。 新王はやさしいけれども低能なルイ16世、その王妃は美しいけれども思慮の浅いマリ=アントワネット。 どちらも、政治にはまるで無知蒙昧であり、このシステムが永遠につづくと信じて疑っていなかった。 この時点で、王国の命運は尽きていたといっても過言ではない。
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[財政改革②] 王国は、崩壊直前のきしみ音をあげて崩れ落ちつつあった。 しかし、国民への苛斂誅求を糧に、享楽にふけり、惰眠をむさぼり、私腹を肥やしつづけ、知識はあっても教養はなく、伝統と爵位だけを誇りで、プライドと能力がいちじるしく乖離していた貴族たちには、今、自分が置かれている状況を理解する力はなかった。 テュルゴー・ネッケル・カロンヌ・ブリエンヌ……。貴族たちは、ただただ、王国を維持する唯一の方策「聖域なき構造改革」をことごとくねじ伏せ、叩きつぶしていく、“抵抗勢力”となり下がっていた。それは、ひどく現代日本とオーバーラップする過程であった。
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[革命前夜①] ついに三部会が召集された! 「いよいよ綱を断ち切るときが来た(シェイエス)」のだ。 巨大な組織というものは、ひとたび崩壊が始まると、何人たりともこれを止めることはできない。 それはあたかも、911の世界貿易センタービルが崩壊する様に似る。 カビの生えたような三部会から、ひとたび、新生議会「国民議会」が分離独立すると、沈みゆく船から逃げ出すネズミのように、特権身分たちは国民議会に逃げ出しはじめる。 しかし、事ここにおよんでも、王国の滅亡はもはや止められなくなったことに気づく貴族は少なかった。
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[革命前夜②] 特権身分たちは、国会を封鎖して妨害工作を図るが、もはや、国民議会の流れを止めることはできなかった。 有名な「テニスコートの誓い」はこうした過程で宣言される。 特権身分たちは、ルイ16世の権威を以て、国民議会を抑えようと諮るも、ブレゼ公の「陛下のご命令に従うべし」の声もミラボー伯の「我々を追い出したくば武力できたまえ!」という言葉の前に無力であった。 ついには、王族のオルレアン公までが三部会を見棄て、国民議会に合流するというショッキングなニュースは、体制側を動揺させることになる。
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[革命勃発] 追い詰められた特権身分は、こたびの混乱の責任をネッケル蔵相に押しつけ、これを更迭させてしまう。 しかし、国民から人気のあったネッケルの更迭は、国民の怒りを爆発させることになる。 「ただちに武器を取れ!」 これをスローガンに集まってきた義勇兵を元にラファイエット将軍を総司令官として国民衛兵が創設され、バスティーユ牢獄が襲撃される。 ここに、フランス革命は勃発した! 革命勃発を知るや、王族アルトワ伯は、ただちに亡命しているが、ルイ16世は、いまだ事の重大性に気づいていなかなかった。
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[人権宣言] バスティーユ襲撃事件のニュースは、ただちにフランス全土に伝わった。 すると、地方でもぞくぞくと貴族の館を襲撃するという「大恐怖」が巻きおこる。 「大恐怖」は、体制側に「恐怖」を与えただけではない、国民議会側の指導者たちをも狼狽させてしまう。 彼らもまた、特権身分の端くれであったからだ。 彼らは、大恐怖を沈静化させるために、つぎつぎと2つの「宣言」を発表する。 「封建的特権の廃止宣言」と 「人間および市民の権利の宣言」。 後者は、通称「人権宣言」と呼ばれ、後世、歴史に絶大な影響を与えることになるのだが、その裏には…。
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[革命政府の成立] さきの2つの宣言は、特権身分の傀儡と化していたルイ16世の拒絶を受ける。 しかし、こうした特権身分の抵抗は、ただ第三身分たちの怒りに火を付けるのみであった。 やがて、飢えたパリジェンヌたちが、怒り心頭、大砲までもちだして、所謂「ヴェルサイユ行進」を挙行することになる。 こうして、革命政府は生まれたものの、先行きは暗澹たるものであった。 彼らが引き継いだ政府は、すでに国家予算の10年分を超える借金にあえぎ、借金の利子だけで国家予算の6割に達していたのだ。
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[ヴァレンヌ逃亡事件] テュイルリー宮殿に幽閉されることになったルイ16世一家。 革命政府の囚われの身となったものの、それでも、彼らの身の安全は保証されていた。陰でミラボーが暗躍していたからである。 彼ミラボーにとって、革命は自分の立身出世の道具でしかなかった。ミラボーが東奔西走してルイ16世一家を革命政府の暴走から守ってやる代わりに、立身出世は約束されていたのだ。 しかし、彼は、その野望を実現させることなく、急死してしまう。 動揺したのは国王一家。シェイエスやラファイエットの説得も聞かず、着々と亡命計画は進行していった。
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[国民議会の分裂] ルイ16世の無能、マリ=アントワネットの我儘で、亡命はものの見事に失敗に終わった。 議会では、国民を見棄てた国王に処分を求める声が渦巻く。 一枚岩であった議会は、ここに、とうとう分裂、フィヤン派が分離していくことになった。 断固として国王処分を求めるジャコバン・コルドリエクラブがシャンドマルス広場で署名活動する中、事件は起こった。 国民衛兵を率いたラファイエットが、広場に集まった人々を無差別殺戮をしたのである。 その勢いのまま、議会左派は、徹底的に弾圧されていく。
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[革命期の政治クラブ] たとえば、アドルフ=ヒトラーはビアホールを政治の舞台として名を挙げてきたように、革命期のフランスでは、サロン、カフェ、クラブといったものが政治の舞台として活躍した。 そこを母体として、さまざまは政治的派閥が生まれて、分かれ、消えていったのだが、それらはどんなものであったのか。 このページでは、それらについて概説する。
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[対外関係の悪化] 議会が国王の処分問題に揺れる中、テュイルリーの国王一家は気を揉んでいた。 マリアントワネットは、オーストリア皇帝の実兄に救援を求める。 兄レオポルト2世は、ピルニッツ宣言を発することでお茶を濁そうとするが、革命政府は、ピルニッツ宣言の意図をまったく理解できず、臨戦態勢に突入してしまう。 しかし、そのためには、国内の結束、そして、憲法の制定を急がねばならない。 彼らは、急遽、憲法の制定に取りかかることにした。
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[仏墺開戦] 革命政府初の憲法制定後、ジロンド派は、盛んに開戦を要求する。 ジロンドの支持基盤は、戦争特需を当て込んで、彼らを煽っていたのだ。 一方、煮え切らない兄の態度に業を煮やしていたマリアントワネットは、この動きを好機と見る。 彼女は、ルイ16世を動かして、ジロンド内閣を成立させるが、ちょうどそのころ、オーストリア帝国では、慎重派のレオポルト2世がなくなり、好戦的なフランツ2世が即位した。 革命政府も、フランス国王も、オーストリア皇帝も戦争を望んでいる。 もはや、開戦を止める者はいなくなってしまった。
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[戦況悪化] 仏墺開戦とともに、フランス軍は連戦連敗しつづけた。 革命で優秀な将校は亡命していて不在であったし、マリアントワネットは軍事機密を流しつづけるし、すべてが準備不足、兵力不足、装備不足であった。 そこに、ダメ押しのようにして、不敗将軍の誉れ高い「ブラウンシュヴァイク公出陣」の報が届く。 革命政府は「非常事態宣言」を発し、緊張は臨界点に達する。 そんな中、ブラウンシュヴァイク公が「パリを死の街にするぞ」という脅し文句を発するや、パリ市民の怒りの矛先は、国王一家に向かってしまうことになる。
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[戦時ヒステリーの発生] 「蜂起のコミューン」が結成され、武器を手に暴徒たちがテュイルリー宮殿に流れ込む! 捕縛された国王一家は、とうとうタンブル塔に幽閉され、1000年つづいたフランス王制は停止されてしまう。 しかし、王を捕らえてみたところで、前線の連戦連敗が止まるわけではない。 前線からは、ほどなく「ロンウィ要塞陥落!」の報が届く。 ロンウィが落ちれば、ヴェルダンも危ない。ヴェルダンが落ちれば、パリは落ちたも同然である。 切迫した状況が集団ヒステリーとなって、大量虐殺が行われるのに、さして時間は要しなかった。
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[王制から共和制へ] いよいよ国民公会が召集され、王制廃止宣言と共和制樹立宣言がなされる。 それと時を同じうして、前線でも初勝利の報が届く。 王制から共和制に切り替わったことで、国王の処分についてがクローズアップされた。 議会は、概ね、心情的には国王処分には反対であったが、ロベスピエールとサン=ジュストの熱弁と策謀により、わずか1票差で、死刑は確定した。 理性的に考えれば、国王の処刑は、フランス国民の利益とはならないが、すでにこのとき、革命政府の暴走は止まらなくなってきてしまっていた。
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[共和政の独裁化] ルイ16世の処刑に、ヨーロッパ諸国は敏感に反応した。 イギリス首相ウィリアムピットは、ただちに諸国に呼びかけ、第1次対仏大同盟を結成。 フランスは兵力不足に悩み、動員令を発するも、これは内乱を招いたにすぎなかった。 文字通りの内憂外患に、政府は「ただ待つのみ」と無策を貫く。 政府の無能ぶりに、国民の声を受けて、クーデタが挙行され、ジロンドは追放された。 ジャコバン独裁の第1段階はこうして始まったのだ。
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[ジャコバン独裁①] 内憂外患は6月にピークを迎える。 対仏大同盟との交戦がつづく中、内からは、ヴァンデー県の農民反乱、王党派トゥーロン港反乱、ジロンド反乱…。 まさに、国家存亡の危機の中で、体制引き締めを痛感したジャコバンは、1791年憲法に代わる、新たな、ジャコバンの憲法の制定に着手。 「革命権」まで認めた画期的憲法ではあったが、「理想」ばかり追究したジャコバン憲法は、「現実」に合わなかったため、実施されることなく封印された。 ここに、ロベスピエールの政治無能が垣間見える。 そして、マラーの暗殺をひとつの契機として、ギロチン送りを急増させていく。
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[ジャコバン独裁②] 独裁権を握ったジャコバンは、つぎつぎと自らの理想とする独自政策を打ち出していった。 「封建的特権の無償廃止宣言」 「国民総動員令」 「最高価格法」 しかし、社会経済の破綻は一向に留めを知らない。 ロベスピエールは、その原因を、おのれの政治無能にあることに気づくことはなかった。 サン=ジュストの助言に従って、反革命分子の妨害のせいだと決めつけ、マリアントワネットのギロチン台送りを皮切りに、所謂「恐怖政治」を強化させていくことになる。
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[独裁体制の瓦解] しかし、それでも社会経済の破綻が改善することはなかった。 それもそのはず、その真の原因はロベスピエールの政治無能にあるのだから、どれほど政敵の首を落としたところで、経済が改善するはずもない。 しかし、今更それを認めることができるはずもなく、あらかた政敵をギロチン台に送ったロベスピエールの矛先は、同じジャコバン同志に向けられる。 いよいよ、エベール、ダントンにまで、その魔の手が及ぶにいたり、「この狂乱政治を止めるためには、もはや、ロベスピエールの首を落とす以外にない」と誰もが思うようになっていった。 こうして、クーデタは決行された。
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[総裁政府の成立] ロベスピエールは弑(しい)された。 しかしながら、ロベスピエールのギロチン政治の弊害は、その後のフランスをも苦しめつづけることとなる。 いつの世も、独裁者は、有能な者を恐れる。粛正にあうのはいつも優秀な人材なのだ。 ソ連のスターリン独裁もそうであったように、ロベスピエール独裁の中で、国家的人物はことごとく殺され、生き延びた政治家たちは、ロベスピエール以上の無能ばかりであった。 少なくとも、ロベスピエールは清廉であったが、テルミドリアンたちは、それすらない。彼らは、ただただ私腹を肥やすことに狂奔した。
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[ナポレオンの登場] 独裁体制の反動として、次に生まれた政府は「集団指導体制」を標榜する。 しかし、無能な政治家がどれほどガン首を揃えたところで、政治混乱を収めることなど不可能。 ついに、国民も「共和国」を見限り、王党派が急速に力を付け、それがヴァンデミエールの反乱となって帰結する。 このような情勢の中で登場したのが、若きナポレオン=ボナパルト。 まだ26歳の青年将校は、アッという間に反乱を鎮圧、華々しい成果を上げると、つぎに、バラス子爵の命令で、北イタリア方面軍司令官に任命され、イタリア遠征に出撃することになった。
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[第1次イタリア遠征] 粗末な装備、痩せた軍馬、士気の低いわずかな兵士を与えられたナポレオンは、大国オーストリアと北イタリアで対峙する。 しかし、ナポレオンはそれでも連戦連勝、「6日間に六戦全勝、12ヶ月に1ダースの勝利」と絶賛された。 オーストリアはほどなく和睦を請うてくる。 カンポフォルミオ条約が結ばれ、フランスは、本土防衛の地を獲得し、対仏大同盟を解消させることに成功した。 残る敵は、イギリスのみである。 フランス政府、およびナポレオンの矛先は、イギリスに向くことになった。
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[エジプト遠征] しかしながら、イギリスはドーバーの向こうにいる。 そして、海軍にかけては、当時のイギリス軍は無敵であった。 思案したナポレオンは、イギリスのインド航路を遮断する目的で、エジプト遠征することを進言し、政府もこれに許可を与える。 エジプトに上陸したナポレオンは、陸戦では連戦連勝するも、アブキール港に隠れて留守を守っていたフランス艦隊が、ネルソン提督率いるイギリス艦隊を前に壊滅。そのため、ナポレオンはエジプトに孤立化してしまう。 「ナポレオン孤立!」の報は、ただちに第2次対仏大同盟を復活させた。
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[フランス革命の終焉] ナポレオンのいない総裁政府はあまりにも無力であった。 国民の怒りは頂点に達し、総裁となっていたシェイエスも、もはや総裁政府に見切りをつけていた。 総裁政府を倒し、新政府を樹立するためには、どうしてもナポレオンの後ろ盾がほしい。 そのような情勢を察知したナポレオンは、軍をエジプトに置き去りにして帰国、シェイエスとともに、国家転覆クーデタ「ブリュメール18日のクーデタ」は挙行され、成功を収めた。 いよいよ、ナポレオンが政界にデビューを果たすこととなり、これ以降、ナポレオン時代が現出することとなる。
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