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[乾隆帝晩年] 「未来永劫」などというものは何ひとつとしてない。 「三世の春」とも呼ばれる130年にも及ぶ清朝の繁栄も例外ではないのだが、その中に生きる人々にとっては、どうしてもそれを理解できない。 「繁栄」こそが、人心を腐敗させる元凶なのだ。 そして、「人心の腐敗」は破綻を誘引する。 「繁栄」が長ければ長いほど、偉大であればあるほど、次にやってくる「破綻」は悲惨を窮めるものとなる。 乾隆帝の晩年期、すでに「病膏肓」、ここから200年にわたる中国の「地獄」が始まる。
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[嘉慶帝時代] 嘉慶帝即位のわずか10日後、早くも帝国は悲鳴を上げ始めた。 白蓮教徒の乱の勃発。 この反乱は、八旗や官僚の無能ぶりを露呈させ、ついに、帝国は音を立てて崩れはじめたのだ。 天理教徒の乱に至っては、紫禁城内にまで乱入を許し、帝国の威信をいちじるしく傷つけた。 一度始まった崩壊は、何人たりとも、留めることはできない。 しかし、それでも人間は、それを食い止めようと努力する。 これからの200年は、留めもない崩壊と、それを食い止めようとする中国人の虚しい努力の歴史、といってもよい。
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[清朝対外貿易の変質] 乾隆帝の御代、清朝の対イギリス貿易は、一方的な黒字<片貿易>であった。 イギリスは茶を中心に輸入したいものは限りないのに、清朝はイギリス製品を買ってくれない。 イギリスは、公行の廃止、貿易港の拡大を望み、帝に使節を送るも、徒労に終わる。 貿易赤字を重ねたイギリスは、ついに、あろうことか、国家ぐるみで麻薬(アヘン)を密売するという暴挙に出た。 貧すれば鈍する。 白い肌、立派な洋装に身を包み、「高度文明」を自称する彼らは、その醜い本性を剥きだしはじめる。
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[阿片問題の表面化] アヘンの密貿易が浸透すると、ただアヘンが蔓延していくだけでなく、銀価格が暴騰してしまう…。 当時、清国は銀による納税システム「地丁銀制」を採用していたため、銀価格の暴騰は、直接、税額の暴騰に直結、国民生活は急速に破綻していく。 しかし、対応を迫られる宮廷では「アヘン弛禁派」が現れるような為体(ていたらく)。 この愚論にも、優柔不断の皇帝は結論を出しかねる。 ついに、「厳禁派」が勝利し、林則徐が欽差大臣に任命され、広州へ向かう。 しかし、それが、アヘン戦争への序曲となった。
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[アヘン戦争] アヘン戦争は勃発した。 しかし、あらゆる側面から勝てるはずもない戦争であった。 皇帝は無能で意志薄弱、優柔不断。 敵艦が近づけば和平を叫び、遠ざかっていけば戦争を叫ぶ。 「負け犬の遠吠え」を地でいく皇帝であった。 高官はただ保身にのみ執心。 兵器は240年前の骨董品。 勇将は「尿桶作戦」で妖術戦。 兵隊は士気劣悪。 庶民はわずかな協力金ほしさにイギリス軍に協力する始末。 帝国が隅から隅から腐り果てていることを表面化させただけの戦争であった。
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[戦後処理] 1842年、南京条約が成立した。 ここに、清朝は初めて“天朝の領土(香港)”を外国に明け渡すことになった。 守り抜いてきた“一線”が破れたとき、崩壊は一気に加速するもの。 ここからは、なし崩し的に領土を失っていくことになる。 戦後、莫大な賠償金は、庶民への増税となって跳ね返り、アヘンは戦前にも増して蔓延していく。 国民生活は窮乏の一途をたどり、もはや、生きていけない。 彼らは、会党に入る者、宗教教団にすがる者、暴徒と化して各地を荒らす者に分散していく。
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[太平天国の乱勃発前] 中国では、科挙に合格してしまえさえすれば、あとは“私腹の肥やし放題”。 「私腹を肥やすこと」は、この国にとって“正当なる権利”ですらある。 ここにも、“私腹を肥やすこと”を夢みて、科挙に挑みつづける男がいた。 しかし、何度挑んでも虚しく落第するばかり。 ついに、4度目の落第のとき、その絶望感の中で、一冊の本『勧世良言』を読んだとき、その瞬間から、彼の人生、そして、清朝の歴史が激変していくことになる。 彼は、その本を読み、「我こそは、イエス=キリストの弟なり!」と自覚するに至った。
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[太平天国の乱] 彼の名は「洪秀全」。 混迷を窮める清朝において、彼の「檄」は、やがて大反乱となって発展した。 しかし、哀しいかな、彼はそれを指導する才を持ち合わせていなかった。 1851年、蜂起する以前より、信者の中から現れた楊秀清や蕭朝貴らが「天父下凡」「天兄下凡」を主張して、教団をコントロールしつつあったのだ。 洪秀全には、彼らを抑える度量もなく、ただ、後宮をつくり、毎日宴会を開き、皇帝気分を満喫して、満足する始末。 急激に膨れあがった組織は、急速に崩壊していくものである。 太平天国も、北京攻略が失敗したころから、崩壊が始まった。
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[太平天国の乱末期] 一時は、北京にまで肉薄した太平天国だったが、天京事変を境に、崩壊に向かっていく。 東王、北王、翼王、天王が血みどろの殺し合いを演じる。 そんな中、北からは、李鴻章率いる淮軍、西からは曾国藩・左宗棠率いる湘軍、南からはウォード・ゴードン将軍率いる常勝軍。 内訌の上、四方から攻め立てられた太平天国は、ようやく鎮圧されていく。 しかし、清朝はホッと一息つく暇もない。 いまだ太平天国の乱の勢いも冷めやらぬ1856年、英仏艦隊がチンピラまがいの理不尽な戦争をしかけてきた。 アロー戦争の始まりであった。
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[アロー戦争] アロー戦争もまた、大敗を喫する。 先代につづき、咸豊帝もまた、父親似にて無能、腰ヌケ。 高官は自己の保身しか頭にない、とあらば、いかんともし難かった。 アヘン戦争での失地は「香港」という無人島のごとき小島ひとつにすぎなかったが、今回は、「黒竜江省」「沿海州」「九龍半島南部」など、広大なものとなっていた。 北京郊外の離宮「円明園」まで焼き払われ、皇帝は熱河で客死する。 この惨状は、すぐに日本にも伝わり、ハリスの開国要求をのらりくらりとかわしていた幕府も、ついに屈し、日米修好通商条約を結ぶことになった。
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[洋務運動] 咸豊帝から同治帝に代わったその年、清朝では、近代化運動“洋務運動”が始まった。 「中体西用」。 中国の制度・体制・伝統・文化・風習・習慣・学問・思想・価値観などには変革を加えず、ただ、西洋の軍事技術のみを導入すれば、たちまち中国は復興するはずだ!との理念の下、近代化は推進された。 しかし、 ①
長年にわたる中華思想の呪縛 ② 高官の対立 ③ 官僚の腐敗汚職 などがそれを確実に近代化を蝕んでいった。
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[19世紀後半の東アジア情勢] 洋務運動のころの清朝は、海からはイギリスの、南からはフランスの、北からはロシアの脅威が迫っていた。 李鴻章は「海防派」として、イギリスの脅威に備えた海軍増強を唱え、左宗棠は「塞防派」として、ロシアの脅威に備えることを唱え、国論は対立する。 さて、清朝が洋務運動を励行し、日本が明治維新に邁進しはじめていたころ、朝鮮は依然として鎖国にしがみついていた。 丙寅洋擾・辛未洋擾と、列強の圧力はあったものの、地理的に清国と日本の間にあって、なまじ撃退に成功してしまったことは、かえって不幸であった。 朝鮮は確実に亡国へと向かっていく。
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[日本開国] 日本にとって幸運だったのは、清朝という大国が西欧列強に打ちのめされる様を目の当たりにできたことであった。 イヤが応にも、危機感は急速に高まり、急速に開国へと傾いていく。 もちろん、朝鮮とて、清朝の失態は目の当たりにしていたが、中華思想にドップリと浸かっていた朝鮮は、目覚めることはなかった。 さて、外に、ハリスの恫喝を前にして、ついに幕府は開国を決意するも、孝明天皇の勅許が得られず。 内に、「将軍継嗣問題」とあいまって、幕政は行き詰まりを見せる。 ここにいたって、大老・井伊直弼が登場、一気に解決を図る。
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[明治政府の成立] 強権発動による強引な政治は、反発を生み、井伊は桜田門外に散った。 これにタイミングを合わせるように、14代将軍徳川家茂、孝明天皇がたてつづけに亡くなり、公武合体工作は破綻。 事ここに至り、ついに、将軍慶喜も「大政奉還」を決意した。 しかし、新政府に実権を残そうと目論む慶喜に、岩倉具視は「王政復古の大号令」を発し、「辞官納地」を迫る。 その鍔ぜり合いは、ついに「戊辰戦争」に至り、江戸城の無血開城で、幕府は名実ともに滅亡した。 しかし、新政府の前には、やらなければならないことが山積していた。 まずは、朝鮮に向かうが…。
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[明治政府の対清外交] 幕府を倒した明治新政府は、さっそく外交折衝に取りかかる。 まずは、日朝交渉。 しかし、これは、大院君の鎖国政策の前にいきなり頓挫する。 日朝交渉の停頓を打開するため、つぎに日本は、日清条約の交渉に入る。 日清交渉の方は比較的順調に進み、やがて日清修好条規が成立する。 その一方で、日本は、本土防衛のため、国境策定にも奔走していかなければらなかった。 南では、沖縄・宮古島、さらに小笠原諸島を抑え、北では、千島樺太交換条約を結んでいく。 残る問題は、朝鮮のみだ。
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[明治政府の対朝外交] そんな折り、攘夷派・大院君が失脚する。
開国派・閔妃がクーデタを挙行したのだ。 開国派・閔妃が実権を握ったのを知った日本は、ふたたび日朝交渉を試みるも、決裂。 業を煮やした日本は、ついに、実力行使を決意する。 最後の交渉の決裂とともに軍艦「雲揚」を派遣、湾内奥深くまで浸入し、示威と挑発を実行した。 この見え透いた挑発にまんまと乗り、「雲揚」に砲撃してしまう朝鮮。 思うツボ。 「開国か、戦争か」 日朝修好条規はこうして成った。
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[壬午軍乱] 開国させられた以上、近代化は避けて通れない。 近代化できなければ、ただ、滅び去るのみだ。 国王・高宗も日本指導の下、必死で近代化を図る。 …が、しかし。 近代化は、たちまち守旧派の反乱「壬午軍乱」が誘発してしまう。 これにて、ふたたび大院君が政権の座に返り咲くも、閔妃を取り逃したことで、清国軍の介入を招き、大院君の支配は“三日天下”に終わる。 守旧派・大院君は去り、玉座を温めたのは、形の上では高宗だったが、その実権を握るのは閔妃であった。
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[甲申事変] ヴェトナムで清仏戦争が勃発! これに合わせて、清国(李鴻章)は、駐朝鮮軍の半数を撤兵させる。 清国の圧力が半減したのを見、これを千載一遇の好機と見た、開化派・金玉均はクーデタを決意する。 その後盾となる日本は、決断しかねていたが、金玉均は朝鮮弁理公使の竹添を抱き込んで強行する。 しかし。 クーデタとはデリケートなものである。 成功には、細心の配慮を必要とするものであるが、金玉均にはそれがなかった。
思慮不足による小さなほころびがやがて大きな失態となり、クーデタは破綻していく。
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[日清戦争までの10年] 一連の壬午軍乱と甲申事変は、日本に“日清戦争”を決意させた。 日本が亡びないためには、清国を乗り越えていかなければならない。 それからの10年間は、日本にとって、来るべき日清戦そのための軍拡期であった。 その10年、日本は、上は天皇から下は死刑囚に致まで、一致団結して事に臨んだが、対する清国といえば、西太后が「頤和園建立」や「還暦祝い」に湯水にごとく軍事予算を垂れ流していた。 最新戦艦の「定遠」「鎮遠」も、たちまち老朽化していく。 やがて、朝鮮半島に絶好の“口実”が生まれた。
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[日清戦争] 日清戦争勃発! この10年、死に物狂いで軍拡に力を注いだとはいえ、やはり、貧乏小国・日本と、大国・清とでは、「地力」ではまだまだ大きな開きがあった。 しかし、士気高く優秀な将兵に恵まれ、よく練兵され、挙国一致で臨む日本軍に対し、清国軍は、といえば、海では“逃げ艦長”方伯謙、陸では“逃げ将軍”葉志超と、無能将校ばかりをそろえ、兵士の士気はおしなべて低く、ならず者をそろえた寄せ集めの兵。 どれほど軍資金と兵数に勝っていても、これでは、勝負は見えていた。 海に陸に連戦連敗を喫した清国は、まもなく和を請うことになる。
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[清朝半植民地化] 清国が、極東の小さな島国・貧乏小国日本に敗れたことは、ヨーロッパにも、驚きを以て捉えられた。 日本ごときに完敗を喫するような国に、もはや遠慮は要らない。 まさに、歯肉に群がるハイエナのように、清国は半植民地化の道を驀進していくことになる。 満州モンゴルはロシアの、 山東半島はドイツの、 長江一帯はイギリスの、 福建省は日本の、 華南地方はフランスの勢力範囲となっていく。 あとからノコノコやってきたアメリカは、「門戸開放宣言」で怨み節。
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[変法自強運動] 日清戦争の結果は、清朝自身にとっても衝撃であった。 それは如実に、洋務運動の失敗、そして、明治維新の優秀性を示していたからだ。 「半植民地化」が進行する1898年、清はただちに、“第二の近代化”変法自強運動を実施した。 しかし、そのリーダー・康有為は、“優秀なアジテーター”であったかもしれないが、“優秀な政治家”ではなかった。 その意味において、朝鮮の金玉均を彷彿とさせる。 強引で急激な改革は、各方面で反発を生み、彼の標榜する近代化はたちまち行き詰まってしまった。
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[北清事変] 変法運動は、わずか百日で失敗、「清国に改革の必要なし」という、ガチガチの保守政権が生まれてしまった。 折も悪く、そんなときに勃発した義和団の乱は、列強諸国の介入を招き、さらに清国を窮地に追い込むことになっていった。 「中華の物力を以て与国の歓心を結べ」 西太后は、身の保身のために国を売り渡す。 和睦は成った。 にもかかわらず、ロシアは満州から撤兵しようとしない。 ロシアの満州占領は、直接的に、日本の滅亡を意味する。 日本は狼狽した。
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[日露戦争直前交渉] ロシアは満州を不法占領しつづける。 戦慄の日本はギリギリの交渉をつづけるも、ロシアには馬耳東風。 もはや、日本に残された道は、2つのみであった。 ①
戦わずして座して滅亡を待つか ② 戦って滅びるか 最後の最後まで和平の道を模索した日本であったが、日本までも併呑する気マンマンであったロシアに、とりつく島もなく、ついに、「戦って滅びる」道を選ぶ日本であった。 いったん、戦うとなれば、全力でこれに臨む。 明治の元老は今戦争に「勝つ」べく、各方面で奔走していった。
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[日露戦争] 日露開戦! 日本は、一局地戦にすら敗れることは許されない、つねに“背水の陣”で臨んでいた。 なんとなれば、一度でも敗れれば、外債募集が滞り、ひいては戦争継続の不可能に直結してしまうからである。 しかし、フタを開けてみれば、当初、誰もが(日本ですら)予想だにしなかった、陸に、海に、日本軍の連戦連勝!! しかし、その勝利を支えていたのは、まさに、奇蹟と偶然とマグレと幸運と神助と天佑の連続の賜であった。 「日本は、まことに神国であった」 日露戦争に従軍した将校の一致した感慨である。
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[日露戦争終結へ] 奉天会戦に敗北しても、まだニコライ2世は諦めていなかった。 バルチック艦隊がウラジオに入港しさえすれば、たちまち逆転が図れたからである。 しかし、その頼みの綱のバルチック艦隊も日本海に沈む。 日露戦争は終わった。 日本が勝利したのだ。 それは、「帝国主義始まって以来、白人列強に初めてアジア人の国が勝利するという、とてつもなく歴史的意義の深いものであった。 日露戦争こそが、アジア人の目覚めを誘発することになる。
この瞬間から、白人支配の崩壊が始まったのだ!
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