固定されたツイートみちる@michiru_888·2017年11月14日ああここから。。わたしの好きなフランス兄さんの言葉だ。 「しいて言えばわたしは船だな。 政府はマスト。国民は風。時代は海って言うだろ。 帆がぴんと張ってて、良い風が吹いていれば、ちゃんと進むんだ」 #ヘタリア #ルートヴィヒ・ベルネ121
みちる@michiru_888·1時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん同時に、"歴史銘記 忘却仇恨”という言葉もあると、ある中国の人から教えてもらいました。 戦争はどちらの側にも痛みを残すのですよ。満洲国にいた私の知人は日本へ引き揚げる時の話は一切しません。何もなかったからではない。何かあったからこそ、話さないのです。
みちる@michiru_888·1時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん中国人らしくないお言葉。 もっと大らかな人達と思ってきました。 中国には”実事求是”という言葉があると聞き及んでいます。それに沿って話をしています。2
みちる@michiru_888·1時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人後を任せようとした張作霖は民衆からの略奪を止めようとしませんでした。 断りを入れると、満州事変は正しいとは思っていません。 それでも、満洲国はただの領有論ではなく、独立論の上に運営されてきたのです。皆の能力を評価していました。
みちる@michiru_888·1時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人だからと言って、清へそのまま返すのはあまりにもお人好しです。英米などから借りた莫大な戦費は返さなければなりません。だから、しばらくはと満州に残りました。1
みちる@michiru_888·1時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん話が長くなりましたmm 日露戦争でロシアから得た満州にある鉄道やその周辺地。アメリカの実業家が共同経営を持ちかけました。日本は清への義を重んじて断りました。生意気な極東の島国。太平洋戦争の遠因です。 →1
みちる@michiru_888·1時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん違いますよ。 私は、過去の嘘付きが私達を支配するのを許せないだけです。 1937年の南京事件に関しては、あまりにも嘘が多すぎるのです。1
みちる@michiru_888·1時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん孫文の大アジア主義は日中韓力を合わせて欧米の帝国主義に立ち向かうというものでした。どこかの国がどこかの国を呑み込むというものではありません。近代的な考え方です。 私は今もその考え方に惹かれます。日中友好、共存共栄。2
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人私には、日本は大陸の奥へ奥へと引き摺り込まれたように見えます。 結果、中国大陸は共産党が制しました。日華事変の一番の勝利者はソ連と言われています。目的を果たしたのです。 台湾へ逃れた蒋介石は西安事件で自分を誘拐した部下達を生涯許すことはありませんでした。1
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人国民党はソ連やドイツを始めとする欧米からの大量の武器や食糧の援助、トーチカの敷設を受け、準備万端でした。 大陸にいる日本軍の有力者はそれでも日本からの援軍を断っていました。中国と事を起こすのは本意ではないから。 押し返したのは、度重なる事件に沸騰する国内世論でした。1
みちる@michiru_888·2時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん日華事変(日中戦争)の鍵は西安事件です。背後にはソ連の姿が見えます。ソ連にとって西のドイツに対するため、東の敵である国民党と日本が互いに戦ってその力を削ぐことは好都合でした。始まりは第二次上海事件です。国民党軍が上海の日本人居留区を前触れなく襲撃した事件。→1
みちる@michiru_888·2時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん彼は結核に罹った間も、興亜観音のお参りを欠かすことはなかったのですよ。 日本は当事者の片割れですから。 中国では知られていない物事や資料が色々残されているのです。4
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人12月17日の入城の際に略奪や暴行が数十件あったという報告を受けて涙を流さんばかりに嘆いた軍人らしい軍人でした。 その彼が東京裁判では「大虐殺なんて外国人記者から聞いて初めて知った」と述べています。私は彼の言葉を信じます。
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人翌年の2月に軍服を脱ぎ帰国した後は、南京の土を取り寄せ興亜観音を造りました。日中双方の犠牲者を弔う為です。そのお参りは一日足りとも欠かすことはありませんでした。 収監される前日の近親者との酒の席では「親愛なる中国人を虐殺とあっては浮かばれない。願いは興亜の礎、人柱となりたい」と言う1
みちる@michiru_888·2時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん南京戦において指揮を執った日本軍の松井石根大将は親中派の筆頭でした。蒋介石とは旧知の仲です。共に孫文の大アジア主義を支持していました。市民の集まる区域への攻撃は避けました。孫文の陵墓である中山陵は戦に巻き込まれないよう守りました。後には墓守の兵を置いています。→2
みちる@michiru_888·2時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さんその記念館でさえ、昔は全く別の出来事の写真を展示していました。指摘されて取り外し、また指摘されては取り外し。その繰り返しです。2
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人こちらもそういう全然関係ない出来事の写真かもしれないですし、もしかしたら、南京で中国兵捕虜が処刑された時の写真かもしれません。 どちらにしても、日本軍が民間人を襲った証拠にはなりません。3
みちる@michiru_888·2時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん私が子供の頃見た南京大虐殺の写真集には同じような写真も多く載っていました。よく知られている写真は実は満州で張学良の配下の者が馬賊を銃殺、斬首した時の写真でした。 ひとつ偽物が交じっていたらまず全体を疑う。そこの所は許してください。その写真は人気で朝鮮半島で広く売られていたそうです1
みちる@michiru_888·2時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人揚子江のほとりに捕虜を集め、対岸へ逃がそうとしました。でも舟はわずか。そんな中起こったのが幕府山事件です。多くの中国兵捕虜が銃殺されました。私はどんな理由があったにしろ、とても酷い事件だと思っています。お互い命を懸けて戦った相手なのですから。
みちる@michiru_888·2時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん国民党軍は上海から南京への途上でも焦土作戦を行なっています。多くの農村が収奪、放火、暴行などの被害に遭っています。敵には何も渡さないという作戦です。 南京戦後、万単位の捕虜を抱え、日本の部隊は食糧調達に苦労していました。ただ逃すと、近郊が被害に遭うかもしれない。→1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人唐生智将軍は12日に正式な降伏なく自分の部隊を残していち早く南京城外へ脱出しています。揚子江対岸へ渡る際、わずかな小舟しか残しませんでした。残された兵士による舟の奪い合いにより多数の溺死者が生まれました。便衣兵も多かった。岸辺に打ち上げられた遺体の写真はその犠牲者も含まれます。4
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人"Set on fire shortly before the fall of Nanking, apparently by the Chinese themselves: The waterfront of the city (Hsiakwan) burning.-Associated Press" HSIA KWAN =下関(シャーカン・Xiàguān)1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん冷たい言い方ですけれど、証言以外の証拠が必要です。 中国側の焦土作戦に関しては空撮写真が残されています。 当時、大陸にいる欧米人は中国寄りの人が多かった。それなのに、日本軍が民間人を襲った証拠は無いのです。 AP通信による中国軍による焦土作戦の空撮写真31
みちる@michiru_888·3時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん特に女性子供の犠牲はわずかでした。 道教の慈善団体である紅卍字会の埋葬記録が残されています。城内外、戦死者も合わせてその埋葬数は43,023体でした。その内の女性と子供の遺体は0.3%に過ぎません。 それでも、多くの尊い命が失われたことは心から申し訳なく思っています。もちろんです。→
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人一方、ひとつあったことを百にも千にも広げて認めよ、と言われたら、話は違います。 ただただ嘘と事実を丁寧に分けるよう心がけています。 疑問に思うのは次の3点。 ・30万人というその数字 ・軍の関与 ・猟奇的な殺人 特に3つ目の証拠とされてきた写真は全て偽物でした。本当に全て。8
みちる@michiru_888·3時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん特に女性子供の犠牲はわずかでした。 道教の慈善団体である紅卍字会の埋葬記録が残されています。城内外、戦死者も合わせてその埋葬数は43,023体でした。その内の女性と子供の遺体は0.03%に過ぎません。 それでも、多くの尊い命が失われたことは心から申し訳なく思っています。もちろんです。→5
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人他の住民は蒋介石の移動に合わせて市長も裕福層も南京から脱出しています。戦があると分かっていたから近郊へ疎開した者も多かった。残されたのは移動手段を持たない貧しい人々でした。南京戦直前の人口は20〜25万人と言われています。そして翌年1月中旬の安全区の人口は25万人でした。6
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人当時の中国大陸はまだ中世でした。今は違う。現代中国。 南京戦に備えて、国民党軍は中国古来の戦法である焦土作戦、堅壁清野を行いました。城外広く、それから城内も門近くの家々を焼き払いました。その際、住民へは安全区へ避難するよう命じています。その安全区の人口が20万人でした。→2
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人実際、2発の砲撃のみでした。空爆は離れた所にある空港などの軍事目標のみ狙っています。市民も攻撃対象なら絶好の機会であるにも関わらず、攻撃を避けたのです。 30万人の民間人が殺されたと仮定すると、そういう矛盾があちこちに出てくるのです。3
みちる@michiru_888·3時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん南京戦による戦死者も多かったのですよ。その中には国民党の督戦隊による死者も含まれます。 戰による死者とその後の事件による犠牲者は分けなければなりません。 南京攻防戦の間、日本軍はほとんどの市民が避難していた城内の安全区への攻撃を避けました。砲撃も空爆も避けました。→1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人次の写真は南京陥落4日目に南京城内で撮られた写真です(12月17日)。 皆が身に付けている腕章は便衣兵と間違えられない為に日本軍が配ったり市民が真似ての手作りです。兵民の区別なく中国人と見るや襲ったなら、何故そういう目印を配ったのか。納得行く答えは未だ得られていません。1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @michiru_888さん、@wumingshi123456さん、他2人こちらに対しては日本軍は憲兵を出して取り締まっています。詳しい資料も残されています。 日本軍が組織的に民間人を襲った事件では決して無かった。 大事な所です。1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @wumingshi123456さん, @yuan59421557さん, @kotamama318さん日中双方に残る資料を検討した結果、1937年の南京戦後に起こった事件の犠牲者は兵民合わせて1万人前後という数字に行き着く事が多いです。その大半は幕府山事件に代表される中国兵捕虜の処刑や便衣兵の掃討、巻き込まれた若者という構図でした。それから日本兵個人の犯罪です。→1
みちる@michiru_888·3時間返信先: @yuan59421557さん, @kotamama318さん, @GermanyinJapanさん罪は認めないまま雨花台の露と消えました。 日中繁栄と東洋平和の礎になるなら人柱も厭わない、としたのです。 日本人は無実の罪でも黙って被る所があります。 後世が明らかにすることを期待して。 二人の遺書です。 ”中国万歳” ”日本万歳” 二人とも。