◆四の月の愚か者!(前)
2021年エイプリルフールリクエスト企画。
レオたちが入れ替わりを終えた翌年の、そしてその五年前の、とある春の夜のお話。
先に、本編第3部最終話「《閑話》ただいま」をお読みください。
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「まったく、面倒だねぇ」
インク壺にペン先をつけたハンナは、皺の寄った顔を一層しかめて、重い溜息を落とした。
「毎度毎度、なんで嘘をつかれたくない側が手間を掛けなきゃならないんだ。嘘をつくほうが自重すりゃあいいのに」
ぶつぶつとこぼしながら向き合うのは、緑色に染められた用紙だ。
縁には小さく「王都リヒエルト東自治区長」のサインが施され、役所が発行した特別な紙であることがわかる。
題字の部分には「虚偽禁止書」の文字、そして続く数行の文章。
これは、リヒエルトの住人が、「
空欄に、嘘をつかれたくない理由と責任者の名を記入し、掲示すると、その空間で嘘をついた者は罰金を払うことになるのである。
これはもともと、たとえば役所や医療機関、金貸しなど、嘘が命取りになりかねない者たちのために取られた措置であった。
ただし、銅貨三枚を払えば一般市民でも手に入れられるので、嘘を嫌う頑固者や、喪中の家庭なども、これを掲示することがある。
そしてハンナは、かれこれ五年以上も、この日が来るたびに十枚もの禁止書を買って、孤児院の壁という壁に貼り出していた。
「どうせ嘘なんて皆毎日のようについているだろうに、なんだって愚者の日になるや、どいつもこいつも張り切って嘘をつこうとするんだい。くだらない……」
「おーい、院長ー」
愚痴を呟きながらペンを動かしていると、控えめなノックの音がする。
ハンナは「入りな」と声を掛けつつも、入室してきた少年に憮然とした一瞥を向けた。
「こんな真夜中までなにしてんだい。さっさとクソして寝な」
「いやあ、内職で盛り上がってたら、すっかり頼まれごとを院長に伝えるのが遅くなっちゃって」
へら、と笑うのは、頬に残るそばかすと、はしっこい鳶色の瞳が印象的な少年――レオだ。
「頼まれごと?」
「うん。アンネやエミーリオたちに、伝言を頼まれちまってさあ」
彼は、商売をするときのような上目遣いのまま、ハンナに近寄ってきた。
「明日の『愚者の日』なんだけどさ。今年はその『虚偽禁止書』貼るの、なしにしてくれないかって」
「なんだって?」
ハンナはあからさまに不機嫌な顔になった。
「いやだよ、もう銅貨も払っちまったしね」
「そこをなんとか! 銅貨は半分は俺が補填するからさ。アンネたち、ほかの院の子たちは嘘をつけるのに、うちは禁止で、拗ねてんだよ。嘘なんてタダで楽しめる娯楽なんだから、禁じなくてもいいじゃん」
「お断りだよ、あたしゃ嘘なんて大嫌いなんだから。だいたい、なんでそれを、アンネたち本人じゃなくて、あんたが言いに来るんだ」
書き物机に近付いてきたレオのことを、ハンナはしっしと追い払う。
だが、ここ最近少しずつ大人びてきた彼は、それに「ひでえよ!」と叫び返しもせず、困ったように頬を掻いた。
「だってほら、院長が禁止書を書くのって、……たぶん、俺のせいじゃん?」
声変りが近付いてきた声。
それを聞き取り、ハンナは一瞬、息を呑む。
「なんのことだい」
ごく自然な、落ち着いた返事をしたつもりだったが、レオの苦笑は変わらなかった。
「気にしてるんだろ、院長。五年前の愚者の日のこと」
「……なんのことだい」
握りしめていたペンに、視線を戻す。
後は、署名をするだけだった。
「なんの話だか、さっぱりわからないねえ」
言い捨てる声が、我ながら強張っている。
記憶はいやおうなく、五年前のあの日――レオがまだ十にもならなかった頃の愚者の日に、引き戻されていた。
***
その日、ハンナは息を荒らげながら川べりを走っていた。
少し先を、ブルーノが走っている。
年のわりに大人びた雰囲気をまとった彼は、遅れているハンナを振り返ると、「早く」とばかり無言で顎をしゃくった。
「これでも、十分、急いでるってんだ……」
はあ、はあ、と胸を上下させる。
こめかみには汗が伝っていた。
こんなにもハンナが走り続けているのは、寡黙なブルーノが思いつめたように院長室に駆け込んできて、「レオを止めてくれ」と告げたからだ。
「愚者の日のせいで……もう見ていられない。俺が言ってもだめなんだ。院長が止めてくれ」
言うが早いか、すぐに川べりへと走り出したブルーノ。
わけもわからず追いかけはじめたハンナに、彼がかいつまんで説明したのは、こんな内容だった。
その日の朝早く、レオはミルク配達のバイトに向かっていた。
まだ九つの彼がそんな重労働に手を出したのは、少しでも多くの賃金を手にしたかったからだ。
年に一度の教会への寄付が求められる今月、ハンナ孤児院の懐事情はいつも以上に厳しく、小さな子どもたちまで総動員して金策に勤しんでいたのである。
働き者のレオは、誰よりも早く配達を終えたが、すると荷台の奥に、手紙が挟まっているのに気付いた。
紛れ込んだものかと思ったが、封筒には「親愛なるレオへ」と書いてある。
不思議に思いつつ中を検めたレオは、驚きに目を瞠った。
なぜなら手紙には、
――孤児院の門前にあなたを捨てて行ってしまってごめんなさい。
彼の母親と名乗る女性から、連綿と愛情深い文章が綴られていたからである。
――当時は前夫に脅されて、あなたを手放さざるをえませんでした。
でも、一日でもあなたのことを考えなかった日はありません。
優しい再婚相手に巡り合えて、彼も許してくれたので、あなたを引き取りたいと思っています。
ただ、彼の仕事の都合で、今日にでも街を出ないといけないの。
着の身着のままでいい、十の鐘が鳴るまでに、東端の橋の下まで来てくれませんか――。
文章は、橋への呼び出しで締めくくられていた。
それを読んだレオは、興奮して孤児院に駆け戻り、話を聞いたブルーノが制止するのも振り切って、橋へと向かったのだと言う。
「ちくしょう……」
話を聞いたハンナの第一声は、それだった。
「いったいどこのどいつが、そんな胸糞悪いホラ話を仕込んだんだ!」
なぜならそれは、孤児がときどき引っ掛かる、悪意に満ちた嫌がらせだったからだ。
手口は単純だ。
仕事の斡旋、裕福な養い親の登場、あるいは実母との再会。
そうした甘い誘惑で孤児をおびき出し、期待に胸を膨らませた彼らがそこにやってきた途端、水や汚物を浴びせて大笑いする。
孤児たちは、ずぶ濡れになったまま、吹き込まれたのが嘘だったと知り、絶望するのだ。
胸糞悪い、としか言いようがないが、そんな行為も、愚者の日ならば「悪ふざけ」として処理される。相手が孤児ならなおさらだ。
だからハンナは、この愚者の日というものが大嫌いだった。
「犯人は、東十番教会の小姓連中だ。あいつらは、素行が悪いから教会学校に放り込まれたくせに、品行方正を演じなくてはいけないから、鬱憤を溜めている。前に、エミーリオたちが絡まれてしまったのをレオが庇ったから、目を付けられたんだ」
ブルーノは淡々と話しているように見えたが、すっかりヴァイツ語が堪能になっていることを、隠そうともしない。
彼なりに焦っているのだろう。
寄せられた眉の下、鋭く光る黒い瞳には、明らかな怒りが浮かんでいた。
「レオ……あいつは、いそいそと一張羅に着替えて、橋に向かった」
「…………っ」
ハンナの顔が、くしゃりと歪んだ。
だれかれ構わず、怒鳴り散らしてやりたい気分だった。
「それで、あいつは――いた、あそこだ」
ブルーノの説明が終わらぬうちに、二人は川べりに出る。
レオは、いくつかの茂みを抜けた先――レンガで作られた眼鏡橋の、橋げたの下にいた。
橋の上には、意地悪い笑みを浮かべた少年たちが、こっそりと下を覗き込んでいるというのに、遠目にもそわそわとして見えるレオは、それに気付かない。
顔を綻ばせる様子はいつになく無邪気で、それがかえって、日頃孤児を蔑んでいる人間でさえ顔を顰めるだろうほどに、痛々しく見えた。
「……遅かったか」
ブルーノはなぜだか、茂みのほうを見ながら低く呟く。
ハンナはそれを聞き取る余裕もなく、レオに向かって声を張り上げた。
「馬鹿野郎! あんたなにやってんだい! さっさとその場を離れて、こっちに――」
だが、最後まで言い切るよりも早く、ことは起こった。
バシャ!
橋の上から、レオめがけて大量の泥水が降ってきたのだ。
汚水路から汲んできたのだろう、水は茶色く濁り、相応の距離を隔ててすら、異臭が感じ取れるほどだった。
「あははは! 四の月の愚か者お!」
少年たちはゲラゲラと笑いだし、指を突き出して橋の下のレオを嘲笑う。
ハンナは目の前が赤くなるほどの怒りを覚え、少年たちに向かって勢いよく駆けだした。
許さない。
孤児だからと馬鹿にして。
あたしの大切な子どもたちのことを、なんだと思っているんだ――!
「あんたたち――」
「ひどいよ、ディーターさん、エーリックさん、ハンネスさん、ヨーゼフさん!」
だがそれよりも早く、レオが嘆きの叫びを上げたので、怪訝に思って立ち止まった。
レオは大層哀れめいた様子で、その場に泣き崩れていた。
「ママが僕を迎えに来てくれるっていうから、信じてやってきたのに! なのに、汚水を浴びせるなんて! ねえ、ディーターさん、エーリックさん、ハンネスさん、ヨーゼフさん、僕がいったい、なにをしたと言うんですか!?」
ママ。
僕。
とてもレオから出たとは思えない単語に、違和感ばかりが募る。
やけに少年たちの名前を連呼するレオのことを、ハンナはまじまじと見つめた。
橋の下から、少年たちの姿は見えないはずだ。
そこにいるのが誰か、レオからはわからないはずなのに。
「うっうっ、ディーターさんが僕を蹴ったときも、エーリックさんがアンネを小部屋に連れ込もうとしたときも、ハンネスさんが導師様の悪口を言ったときも、ヨーゼフさんが孤児院からの寄付をかすめ取ったときも、僕は皆さんが脅してきたから、ちゃんと黙っていたのに。なのに、さらに僕を、精霊の徒として許されざる嘘で騙すなんて!」
感情的、というより、かなり説明的な嘆きの言葉に、少年たちが不気味そうに顔を見合わせはじめる。
「おい、なんのつもりだよ。黙れよ!」
「黙るのは君たちのほうじゃないかね」
だが、次の瞬間には、少年たちはざっと青褪め、口をつぐむ羽目になった。
橋の近くの茂み――ちょうどハンナたちがいるより一つ前方の茂みから、聖衣をまとった導師が姿を現したからである。
「ど、導師様!?」
「一連のやりとりはこの目で見せてもらった。レオくんから聞いたときにはまさかと思ったが……君たちが、本当にこんな外道に、手を染めていたなんて」
汚らわしそうに吐き捨てるのは、最近教会に赴任してきたばかりの、若手の導師である。
老獪な前任とは異なり、やる気に満ち溢れた彼は、孤児たちのことは日頃あまり快く思ってはいないものの、正義感に厚いと評判の人物であった。
レオは導師の姿を見つめると、聖衣に縋りつくようにして泣き叫んだ。
「導師様! 導師様! 僕、もう限界です。あんまりです。孤児院の皆で溜めてきた寄付金を、今年もこんなやつらに奪い取られてしまうなんて」
「わかったよ、レオくん。君の言う通り、彼らの犯行を確認したから、今年のハンナ孤児院からの寄付金は半額にしよう。……だからあの、その手で聖衣に触れないでくれるかな」
「そうですよね、こんなに汚れてしまって。ああっ、これはママに見せようと張り切って着てきた一張羅。小遣いを溜めて買った一級品で、銀貨二枚もする品だったのに! まさか! 東十番教会の皆さんに! 騙されて! 汚されてしまうなんて!」
「わかった、わかったよ。後で銀貨二枚を支払うから、そんなに教会の名を叫び回らないでくれないか」
導師は慌てふためき、レオのことを必死に宥める。
とはいえ汚れた肩に触れたくなかったのか、「ひとまずこれで、体を洗う井戸水を買っておいで」と、桶代の銅貨を投げて寄越した。
「ううっ、導師様! ありがとうございますう!」
レオは銅貨を握りしめ、握った両の拳で顔を覆う。
ひれ伏して感謝するかに見えたが、その実、俯いた顔がこっそり舌を出していたのに、ハンナは気付いた。
「どういうことだい」
少年たちが導師に連行されてゆくのを見送ってから、ハンナはようやく、レオの元へと近付いた。
レオはとうにハンナたちに気付いていたのだろう、器用に川でシャツを洗いながら、「よっ」と軽やかに手を上げ、笑いかけた。
「院長おー! 今年の寄付金半額だって! やったぜ!」
目に涙の跡はなく、振り向いた顔は、うきうきとした雰囲気さえまとっている。
きれいにすすいだシャツで上手に水を掬い上げ、体の汚れまで落としきったレオは、誇らしげに胸を張った。
「あのクソ野郎どもは、四人まとめて懲戒房行き。はー、すっきり!」
その言葉で悟る。
つまり彼は、甘い誘惑に乗ったふりをして、その実お目付け役の導師を呼び出し、厄介者の少年たちを一掃したのだと。
「……一張羅を着込んで、いそいそ出ていったんじゃなかったのかい」
「え? ああ、これ? うん、銅貨一枚しかしないシャツだけど、俺の手持ちの中じゃ唯一ツギハギがないから、間違いなく一張羅だぜ。ふっかけるには、こっちもそれなりじゃないと、説得力がないもんな」
困惑に声を低めたハンナに、レオはけろっと答える。
汚水を浴びせられたことなど忘れてしまったかのように、彼は上機嫌に笑っていた。
「なあ、院長。俺ってすごくない? 寄付金半額にしてやったし、エミーリオたちに手を出しそうなクソ野郎を処分してやったし、銅貨一枚で銀貨二枚を稼ぎ出すなんて。我ながら偉すぎる。っていうか英雄?」
褒めて、と言わんばかりの彼を前に、ハンナは言葉を詰まらせた。
安堵と、困惑と、怒りと、心配と。
様々な感情が込み上げて、なんと声をかけたものか、わからない。
(あんた、これであたしに褒められると、思ったのかい?)
汚物を浴びせられて、人としての尊厳を好き勝手踏みにじられて。
そうして手に入れた銀貨や優遇措置を、ハンナたちが喜ぶと思ったのだろうか。
――思ったのだろう。
にこにことした、なんの邪気もない笑顔が、その答えを告げていた。
黙りこくっているブルーノが視界に入る。
彼の訴えの意味が、今わかった。
ブルーノが懸念したのは、レオが騙されることなどではなかったのだ。
合理性を追求し、あっさりと自分を餌に少年たちを罠にかける行為。
その、自身を顧みないレオの在り方を、彼は「見ていられない」と表現していた。
それこそを、ハンナに諫めてほしかったのだ。
「……あんた、汚物を浴びるとわかって、この橋の下に来たのかい」
「もちろん。あいつら、まじでタチ悪ィよな。エミーリオたちだったら本気で騙されてたかも。その前にあいつらを処分できて、ほんとよかったよ」
「あんたは――」
あんたは騙されないというのかい。
ハンナは咄嗟に言いかけて、喉が焼けるような心地を覚えた。
あんたは本当に、一かけらも、期待しなかったというのかい。
言葉を飲み込んだハンナになにを思ったのか、レオが首を傾げる。
それから、問いの続きを自分で補足したのだろう。
彼はけらけらと笑った。
「俺? 騙されるわけないよ。俺を引き取りたがるやつなんて、いないもん」
その、なんでもない事実を告げるような、さらりとした口調に、ハンナは全身を殴られたかのような衝撃を受けた。
いっそこれが強がりであったなら、涙をこらえて告げた言葉だったなら、その方がどれだけ救いがあったか知れない。
レオは、とうに諦めてしまったのだ。
家族というものを。
己を誰より愛し、求めてくれる、大切な者の存在を。
「……――」
ハンナはなにかを言いかけ、口を開いた。
レオの胸倉を掴んで、ふざけるなと揺さぶってやりたかった。
そうでなければ、強く強く、抱きしめてやりたかった。
それで、世界中に向かって叫んでやりたかった。
ふざけるな、ふざけるな。
この子がどれだけ優しいか、おまえらは知らないだろう。
どれだけ仲間思いで、どれだけ賢くて、どれだけ素晴らしい少年なのか、おまえらはちっとも、これっぽっちも、知らないんだろうと。
「…………」
だが、言葉が実際に唇から飛び出ることは、なかった。
そんな臆面もない言葉を告げていいのは、それこそ彼の家族だけだ。
自分がその境界を越えるのは、とんでもなく恐ろしく、厚かましいことのように思われた。
(母ではない。あたしはレオの、母親じゃない)
何度も何度も、胸の内で繰り返す。
分を弁えなくてはいけない。
彼も、自分も。
孤児のレオに、愛の言葉を求める資格はないし、子を守れなかった自分もまた、それを告げる資格を持たないのだから。
「……いつまでずぶ濡れでいるんだい。さっさと帰るよ」
結局、そんな言葉とともに、ハンナは踵を返した。
失望したようなブルーノの視線が、背に痛い。
ハンナが「虚偽禁止書」を孤児院中に貼るようになったのは、この翌年からのことだった。