▼行間 ▼メニューバー
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
【番外編】 無欲の聖女は金にときめく 作者:中村 颯希
4/7

◆レオ、口で禍を招く(前)

活動報告にてリクエスト頂いたエイプリルフール投稿、の予定でしたが、

最近の世の中暗いことばっかなので、前倒しで投稿しちゃいました!詳細は活動報告にて。

「無欲の聖女」っていう作品を読むと、いっぱい笑えて免疫力上がりますよ(良質なデマ)


還俗二回目のある日、昨年のドタバタを振り返るレーナたちのお話。

 ハンナ孤児院は、リヒエルトの下町の中でも、ひときわ治安の悪い場所にある。


 隣接するのは花街、行き交うのは目つきの悪い大人たち。

 活気あふれる地域でもあるのだが、柄は悪く、必然、そこの住人たちの言葉遣いは蓮っ葉で、交わされるジョークは下品なものとなりがちだった。


 大人がそうだと、やはり、粋がる子どもたちもそれに倣いたがる。

 ハンナ孤児院に属する子どもたちもまた、意味もよくわからないままに、下卑た言い回しを使って喜ぶ、というのが、よく見られる光景だったのだが――。


「ひゅーひゅー! かっこいいやブルーノ兄ちゃん! 今すぐそいつに、デカい、えーっと、いちぶつ? を、ぶち込んでやってよぉ!」

「ブルーノ兄ちゃんかっけー! 俺、兄ちゃんになら抱かれたってい――」

「馬鹿野郎おおおおお!」


 だがこの日、エミーリオとマルセルは、絡んできた敵勢力をぶっ飛ばしてくれたブルーノに喝采を浴びせようとした途端、横からすっ飛んできた少年に、凄まじい勢いで頭をはたかれ、悲鳴を上げる羽目になった。


「いって! なにすんだよ、レーナ(・・・)兄ちゃん!」

「錯乱したのかよ!」


 年少組二人は、涙目で頭を押さえながら抗議する。

 ぎっと睨み付けた相手は、彼らの大好きなレオ兄ちゃん――ではなく、期間限定還俗の間、レオの体に収まっているレーナであった。


「おまえら……今、この孤児院界隈を、どんだけ恐ろしい禍に晒そうとしたか、わかっているのか……?」


 が、レーナは、子どもたちの抗議にも、ついでに言えば裏路地で伸びている悪漢どもにも取り合わず、おどろおどろしい声で告げるのみ。


「たしかに、その手の言葉は言うなと、ちょうど去年の今頃ハンナが決めたはずだぞ。エミーリオ、マルセル」


 しかも、基本的に子どもたちの味方であるはずのブルーノまでもが、疲れた様子でぼそっと呟いたので、エミーリオたちは困惑に眉を寄せた。


「え……? そんなこと、言われたっけ?」

「たしか去年、レオ兄ちゃんの還俗の頃あたりって、僕たち、遠くの市に売り子修行に出てたからな。聞き逃したかも」


 だがそれにしたって、下町流のやり取りに対して、下町育ちの彼らがそこまで目くじらを立てる理由がわからない。

 不満げに「厳しすぎー」「お堅ーい」と口を尖らせるエミーリオたちに、レーナは、なぜだかふっと儚げな笑みを浮かべた。


「……聞きたいか?」

「へ?」

「なんで、おまえらが『抱かれたい』って言っちゃいけなくなったか、理由を聞きたいか? ああ、聞きたいよなぁ、そうだよなぁ?」


 笑みは、次第にどすの効いたものに転じてゆく。

 えもいわれぬ恐怖を覚えたエミーリオたちは、なんとなくその場から腰を浮かしかけたが、がしっと肩を掴まれた。


「まあ、聞いてけよ。おまえらがだーい好きなレオ兄ちゃん、もとい、レオノーラ様の話をよぉ……」

「ひぃっ」

「な、なんだかレーナ兄ちゃん、レオ兄ちゃん本人が入ってる時より恫喝が板についてない!?」


 子どもたちはもはや涙目だ。

 が、頼みの綱のブルーノも、遠い目で、


「あれは、去年。初めてレオが『還俗』した日のことだった……」


 と空を見上げはじめてしまったので、彼らに成す術はなかった。

 そうして、悪漢どもの背中に腰を下ろして、レーナとブルーノによる、ちょっとした昔語りが始まったのである――。




 ***




(うはぁああ! 充実した一日だったぜ!)


 初の試みとなる「期間限定還俗」を実行したその日の夜、レオノーラ――の皮をまとった守銭奴レオは、ご機嫌で食卓に着いていた。


 金の精霊アルタの粋な計らいにより実現した、一日限りの「還俗」。

 正直、一度出家した人間に戻って来られても迷惑かな? などと思わないでもなかったのだが、蓋を開けてみれば、侯爵夫妻は手放しで帰還を歓迎してくれた。


(うんまあ……手放しっつか、こっちが動揺するレベルっつか……)


 アルタの趣味に最も合致するという理由で、レオの魂とレーナの体というこの組み合わせのとき、レオは最も金運が上がる仕様になっている。

 そこで、午前中は、リヒエルト最大の市場に顔を出し、夫妻への土産でも買っていこうとしていたレオだったのだが、「市場でお土産を買っていきたい」との知らせを聞いていた夫妻により、すでに市場中に赤絨毯が敷かれていたのだ。


 手配された馬車から降りるや、たちまち市場中に鳴り響くラッパに、舞う花吹雪。

 レオが「あ、これ欲しいかも」と視線を向けただけで、精霊の前に身を投げ出した兎のように店主が「店ごと持っていってください!」と飛び出し、値切るどころか、むしろ「私どもの露店を見に来てくださるなんて! 聖女様、どうかこちらをお持ちください!」と寄付を捧げられる始末。

 なんでも、「レオノーラによる購入分はすべて侯爵家に付けで」との触れが出ているらしく、市場の店主たちは、むしろ競って少女の来店を待ちわびていたらしいのだ。


 突っ立っているだけで続々と物品が押し寄せる怪奇現象に、レオはひくっと顔を引き攣らせた。


 なんか違う、と。


(いやいやいや。タダでもらえるのは嬉しいんだけど。嬉しいんだけどさぁ!? 今日この市場に限っては、俺はこの金運を最大限発揮してえんだよ! それってつまり、高価なものを最もリーズナブルな値段で買い叩きたいんだよ! 無料じゃなんかちょっと違ぇんだよ!)


 例えばそれは、狩りの弓矢を放つ前に、獲物自らが鍋に入って来てしまうような。

 いや、日頃ならそこで「ひゃっほう!」と喜ぶのがレオなのだが、今ばかりは、この自慢の金運を試してみたかったのだ。


 結局レオは、なんとか本来の値段に戻してもらったうえで盛大に値切り倒し、充足感を味わっていたのだったが、それによって「まあ、無償でいいのに自らのお金を払うなんて、なんと無欲な……!」と感動されてしまったことには、残念ながら気付いていなかった。


 その後も、屋敷に訪れて真っ先に振舞われたのは、三カ月かけて準備したという豪勢なランチコース。

 からの、エミーリア夫人による怒涛のレオノーラファッションショーを済ませ、これまた大陸中から茶葉を選りすぐったというアフタヌーンティー。

 夫妻とのゆったりとした語らいを経て、いよいよこれからは、侯爵家の面々で遅めの夕食を、という時分である。


(なんか今日、買うか食うしかしてねぇな、俺)


 てっきり、級友や皇族たちとの面会などもあるかと思っていたのだが、彼らは忙しくて都合がつかなかったのか、面会相手はあくまで侯爵家に限定されていた。

 代わりと言ってはなんだが、一年分成長したレオノーラの姿を見たい人々のために、この還俗風景を、最近開発された魔道具によって記録させているとのことだ。


(そういや、ずっと前コルヴィッツの森に行ったとき、自動立体映像記憶術を開発したとかいう先輩がいたもんな。そのあたりの技術も、俺のいない間に着々と進んでるんだなぁ)


 実際、今回侯爵家で記録に使われる魔道具は、まさにその彼の技術を応用したもので、開発者の名前を取って「ディスク」と命名されているらしい。

 なんでも、円盤の形をした媒介を部屋に置くだけで、一定範囲の光景を魔力で焼き付けてくれるのだそうだ。


 一年の歳月で進んだ技術にしみじみするとともに、レオは、映像としてしか触れ合えない級友たちとの距離感を、少々寂しく思った。


(ま、一番会いたかったのはエミーリア様……お祖母様、だからな。ほかの連中も、忙しいってことは有意義に過ごしてるんだろうし、いっか)


 心の内で、こっそりと「お祖母様」の響きを転がして照れているレオは、アルベルトたちが忙しかったのではなく、エミーリアたちが情報統制を敷いて、彼らに面会時間を割かせなかったのだとは知らない。

 また、後にこの「還俗独り占め」が原因で、ヴァイツ貴族社会が一時的に緊張状態に陥ることも知らなかった。




『一、二、三……うわ、信じられない。立体映像記録の撮影装置と思しきものが、この部屋の中だけで五個もある』


 ちなみに、知らなかったと言えば、今この光景を、ディスクで記録されているだけではなく、アルタの目を通じ、聖堂の一室に立てこもったレーナとブルーノによって監視されていることもまた、レオは知らなかった。


『きもいわー。ないわー。よってたかって、いったいいくつの角度からこいつを撮影してるわけ? 微笑ましさを通り越して恐怖しか覚えないわよ。魔力の無駄遣いだわ』

『精霊の瞳を通してのぞき見するという、精霊力の無駄遣いをしている俺たちが言えた筋合いでもないがな』


 レオの体に収まったレーナが、そばかすの残った鼻筋に皺を寄せて毒づけば、ブルーノはぼそっと突っ込みを寄越す。


 そう、彼らは、夜になっても一向に帰ってくる気配のないレオを心配し、アルタに頼んで「精霊の瞳」を開けてもらっているのだった。


 精霊の瞳とは、文字通り精霊が目にしている光景を、媒介を通じて他者が共有できるというもので、アルタの場合、金製のなにかさえあれば、彼女が見た光景をそこに映し込むことができるのである。

 幸い、熱心な信者によって、先日純金製の金盥が寄贈されたので、今はありがたくそこに映像を浮かべてもらっている。

 空気に溶けているアルタが届けてくれる光景を、レーナたちは念のため周囲に漏れないようエランド語で会話しながら、「どうかなにごとも起こりませんように」と、ひっそり見守っているわけであった。




 遠く離れた聖堂で、そんなやり取りが成されているとは露知らず、レオはといえば徐々にいい匂いの漂ってきた食堂にあってご機嫌である。

 献立はなにかな、などと、にこにこ呑気に構えていた。


(夕食の席には、アデイラ様やディートリヒ様も来るんだよな。よっし、手紙でのやりとりに終始してた下町歌劇団の話を、ここで一気に進めておかないと)


 いや、あえて言うなら、かねてから構想を温めている下町歌劇団実現の進捗については、少々気を張っているだろうか。


 隠れ有能だったディートリヒが、目を瞠る勢いで歌劇場の土地を押さえ、設計図を引き、団員も確保し、と、着々と事態は展開しているのだが、レオは発案者として、そこにもう少し工夫を加えたかったのだ。


 なにしろディートリヒは、ほかに比べれば多少は下町慣れしているとはいえ、やはり貴族なので、発想がいささか高尚にすぎることがある。

 質の高い団員を確保し、レッスンスケジュールを練り、演目を研究し、というのも大事だが、やはりレオとしては、目玉となるマスコットキャラクターの発案や、単価が低くてとっつきやすいグッズ販売にも挑戦したいところだった。


(いくら安めの歌劇場ができたところで、下町の人間はそう毎日行きやしねえよ。でも、手ごろな値段で買えるマスコットのグッズでもありゃ、ミーハーな主婦は絶対手を伸ばす。ブームって、そうやって広がってくんだと思うんだよな)


 上級歌劇場が擁する、お綺麗で繊細な歌姫と違って、なんといっても下町歌劇場のウリは、圧倒的な体積、もとい存在感を放つアデイラである。


 どうにか彼女をアイコンに仕立て、下町歌劇場をほかとは一線を画したものにしたい。

 そう考えたレオは、すでに、歌姫をもじった「豚姫」なる、豚のぬいぐるみの試作品を制作済みだった。

 彼は懐に忍ばせていた小ぶりなそれをテーブル下で取り出し、ニマニマと悦に入った。


(見ろよ、このふくふくとした体のフォルムに、つぶらな瞳! ぎゅっと握れば、中に仕込んだ革風船がぷぅと音を立てるハイスペック! まったく、アデイラ様ときたら、次々と金儲けのインスピレーションを与えてくれて、感謝しかねえぜ)


『これ、売れるだろうな……いやあ、アデイラ様はまさに富を生み出す黄金の豚、豚姫だ』


 興奮が高まってしまったレオは、ぎゅうぎゅうとぬいぐるみを押しつぶしながら、ぐへへとエランド語で独白を漏らした。




『最っ低。最近ご機嫌で裁縫してると思ったら、あいつ、義理の姉のことを豚扱いして、ぬいぐるみに仕立ててたわけ?』

『本人としては、あれで本気でアデイラを褒めているつもりなのだから、どうしようもないな』


 ちなみにそのとき、精霊の瞳で覗き見していたレーナとブルーノは、遠い目になってレオをこき下ろしていた。




 さて、そうこうしている内に、侯爵夫妻と、ディートリヒがやってきて席に着く。

 どうやら、アデイラは遅刻らしい。


 前回の誕生会の時とは異なり、嫁が会に遅刻しても、エミーリアは立腹するどころか「まあ、珍しい。具合でも悪いの?」と心配そうにしていたから、彼らの関係はかなり改善されたのだろう。

 ディートリヒも顔を曇らせて、


「最近の彼女は、ダイエットに勉強にと、根を詰めすぎなんですよ。このまま倒れてしまわないか、僕は体重なんかより、そちらのほうが心配です」


 と告げたので、どうやらアデイラは女磨きを頑張っていて、その努力が認められたものであるらしい。


 レオは「さすがアデイラ様、この一年で女優としての研鑽を積んでくれてたんだな」と、うむうむ頷き、夫人の促すままに食事を先に始めたのだったが、数十分後、そんな彼の度肝を抜く事態が起こった。


「……遅れてしまい、申し訳ございません……」


 弱々しい声とともに食堂の扉が開いて、なにやらか細い女性が入って来たのである。


「せっかく、レオノーラとの限られた時間だというのに――まあ、レオノーラ! あなた、また一層美しくなって!」


 すっきりとしたドレスをまとった彼女は、レオの姿を見た途端、青褪めていた顔にわずかに喜色を浮かべる。

 しずしずとディートリヒの隣の席に着いた彼女を、レオはたっぷり十秒ほど無言で見守り、やがて、からん……とナイフを取り落とした。


「ア……ッ、アデイラ、様!?」

「なぁに、レオノーラ?」

「え……っ、えええええ!? な、そ、そんなに、痩せ……ッ!?」


 そう、この折れてしまいそうにか細い女性は、あのアデイラだったのである。


 かつて、肩紐の目立つ赤いドレスをまとうとボンレスハムのトマト煮込みだったような彼女はもういない。

 そこにいるのは、澄んだはしばみ色の瞳と色白の肌を持つ、ただただ細身の女性であった。


「ふふ、驚いた? 驚かせようと黙っていたのだけど、アデイラはね、あなたに影響を受けて、このところずっとダイエットを頑張っていたのですよ」

「ええ、お義母さま。レオノーラが出家して頑張っているのだから、あたくしもせめて俗世で修行に打ち込もうと思って……。目標体重まであと少しですわ」

「まあ、順調ね。でも、大丈夫? 少し顔色が悪いのではない?」


 たおやかに微笑むアデイラに対して、エミーリアはそう気遣うが、ダイエットに否定的な感じではない。

 やはり貴族の女性として、身内がスリムな体型を維持しているというのが、好ましい様子だ。


「大丈夫ですわ。だってあたくし、早くディーにふさわしい妻に、そして、次期侯爵夫人にふさわしい姿になりたいのですもの」

「おお、アデイラ。よい志だな」


 基本的に根性論が大好きな武闘派・クラウス侯爵も、感じ入ったようにうむうむと頷いている。

 ディー、と愛称で呼ばれたディートリヒも、そうやって健気な妻の態度は嬉しいのか、「あまり無理しないでね」と軽く呼びかけるだけで済ませてしまった。


「……そん、な……」


 が、レオからすれば、冗談ではなかった。

 彼はがたっと椅子を蹴って立ち上がり、真っ青になって叫んだ。


「アデイラ様! なんてことを! 今すぐ、ダイエットなんて、やめてください!」

「まあ、レオノーラ。急にいったいどうしたの?」


 鬼気迫った形相で叫ぶ孫娘に、侯爵夫人がきょとんと目を見開く。

 レオは呑気なエミーリアに絶望の眼差しを向けた。


「どうしたも、こうしたも……まさか、皆さん、わからないのですか!? このままでは、取り返しのつかない、大惨事です……っ」




『あー……』


 悲痛な叫びの光景を遠い場所から見守っていたレーナは、この時点で半眼になって呟いた。


『はいはい、せっかく豚のマスコットまで作ったってのに、アデイラ様にスリムになられちゃ台無しってことね』

『期間限定セールに乗せられて、侯爵家のゴーサインが下りる前に、すでにぬいぐるみ用の布まで取り寄せはじめていたから、取り返しがつかないんだろうな』


 レオの思考回路を知り尽くしている二人は、どこまでも冷静である。




 だが、レオ――いや、レオノーラを、無欲で慈愛深い少女と信じて疑わない侯爵家の面々は、そのあまりの剣幕に、なにかとてつもなく深刻な事態を感じ取って、緊張を走らせた。


「取り返しのつかない、ですって……?」

「そうです!」


 レオはそこで、アデイラのもとに駆け寄り、肩を揺さぶろうとしたが、その肩がすっかり薄くなってしまったことを見て取ると、耐えられないというように首を振った。


「こんな、細くなってしまって……! 今すぐ、体重を、戻してください!」


 レオの嘆きは深かった。

 これでは、マスコットデザインが全部無駄になってしまう。

 豚のぬいぐるみをはじめとしたグッズ販売計画だって一からやり直しだ。

 だいたい、アデイラはあの圧倒的な体積、もとい存在感が売りだったのに、それを、こんなどこにでもいそうな貴族令嬢体型になってしまってどうするのか。


「そんな! あたくし、こんなに頑張って痩せたというのに、なぜそんなことを言うの?」

「急激すぎるからです! ああ、せめて、痩せる過程に、自分が付き添って、いられれば……っ」


 反論するアデイラに、レオは目頭を押さえた。

 せめて痩せる過程を、それこそディスクなどを使って克明に記録できたなら、ダイエットのハウツー教材としてこの状況を活かす手立てもあったかもしれないのに。


 いやいや、やはりアデイラは太ましくてこそアデイラだ。

 歌劇団の看板女優としては、絶対に以前の体型のほうがよかった。

 ふくよかなおばちゃんの揚げる揚げ物は、なぜか痩せた姉ちゃんの揚げるそれより美味しく感じる。つまりそういうことなのだ。


 レオは、どこまでも自分勝手な理屈で事態を嘆いていたのだが、悲嘆にくれる様子は、周囲には「凄惨な事態を前に、己の無力さを嘆く少女」とでもいった具合に映っていた。


「うぅっ、以前、アデイラ様はそのままで、人目を引く華があると、お伝えしたでは、ありませんか! なのに、なぜ、こんなに、体重を、落としてしまわれたんです……っ」

「どうしたというの、レオノーラ。アデイラは、ディーの妻に、そして次期侯爵夫人としてふさわしくあろうと、こんなに頑張ったのよ。あなたはそれを認めてあげないの?」

「いや、頑張りの方向性が、間違っているでしょう!?」


 ぐちぐちとした恨み節を、やんわりとエミーリアに諭されて、レオは逆ギレ気味に目を潤ませた。


「アデイラ様は、もう、一人の体では、ないのですよ!?」


 そうとも、アデイラの体は、もはや歌劇団の資本。

 勝手にダイエットなんてされては困る。

 逞しかった彼女の肩には、レオの儲けとか儲けとか儲けとか、そうした重要なものが懸かっていたというのに……!




『いや、間違ってるのはあんたの価値観でしょ!? まぎらわしい言い方してんじゃないわよ!』

『いや』


 そのとき聖堂では、レーナが画面越しに突っ込みを入れていたが、ふと、ブルーノが眉を寄せた。


『そうとも言えんぞ』

『は?』


 レーナが怪訝な顔になった瞬間、事態は急転した。




「あたくし一人の体ではない? それってどういう――……うっ」


 レオノーラに合わせて席を立ち上がったアデイラが、ふらりと、口元を覆ってその場に崩れ落ちてしまったのである。


「アデイラ!」


 ディートリヒが慌てて妻を支え、着席させる。


「どうしたんだ、やはり今日は体調が悪いのかい?」

「ええ……。ここ数日、吐き気がひどくて……」

「まあ、アデイラ。吐き気ですって?」


 心配顔になったエミーリアが、急いで隣にやってくる。ふわりと鼻先をかすめた香水に、アデイラは低くうめき声を漏らした。


「ご、めんなさい、お義母様……。強い香りを嗅ぐと、ま、ますます……っ」

「まあ!」


 エミーリアはぱっと身を引き、それから、素早く侯爵を振り返る。夫妻は視線を交わし合うと、一つ頷いた。

 香水の匂いが届かぬよう、少し離れた場所から身を乗り出し、「ねえ、アデイラ」と話しかける彼女の顔には、今や、抑えきれない喜色が浮かんでいた。


「もしかしてそれは……つわり、ではないの?」

「え……?」

「へっ?」


 アデイラが、ぽかんとしたような声を上げる。

 ちなみにその傍らでは、少女がぎょっとしたような声を上げていたが、固唾を飲んでアデイラを見守る一同の耳には届かなかった。


「つわり。……あたくしが、妊娠……?」


 アデイラは無意識に腹を撫で、ぼんやりと呟く。

 それから、なにかに思い当たったように、その白い肌をじわじわと赤らめはじめた。


 興奮と、喜びの表情だ。


「そうだわ、きっと……! いいえ、間違いなく……!」

「なんてことだ、アデイラ!」


 途端に、使用人たちまでもがわぁっと歓声を上げ、食堂は大騒ぎになる。

 ディートリヒは、日頃ののんびり者の仮面すら外して、アデイラを抱き上げて熱烈なキスを落とすと、素早く周囲に指示を飛ばした。


「シェフに伝達を! 至急、妊娠初期の女性に優しい献立に変更するんだ! 侍女長! 彼女に毛布とクッションを! ああいや、それとも寝台に戻ったほうがいいかな?」

「ディー、落ち着いて。こういうのは、時間のかかることから手を付けていくものですよ。まずは、生まれてくる子どもの産着一式の製作に着手しなくては!」

「落ち着け、エミーリア。陛下への報告と、全国民に知らせる祝砲準備、それから孫に贈る領土の整備が先決だ」


 まさにお祭り騒ぎである。


「え、あ……え? アデイラ様が、妊娠……?」


 そんな中、一人展開に取り残されたレオは、ぽかんとしていたが、そこを感極まったアデイラにぎゅっと抱き着かれた。


「レオノーラ、本当にありがとう! あなたはあたくしの妊娠を見通したのね? もし気付かず、このままダイエットに躍起になっていたら……ああ、本当に、取り返しのつかない事態になるところだったわ!」

「レオノーラ。僕からも礼を言うよ。妻がダイエットを頑張っているから見守ったほうがいいのかと思っていたのだけど、このままでは、大切な命を失ってしまうところだった。君の言う通り、これからすぐに体重を取り戻させるよ」


 ディートリヒからも真剣な顔で感謝される。

 アデイラの妊娠などまったく見抜いたつもりのなかったレオは、たじたじとなった。


「え、あ、は……そのう、おめでとうございます……」

「ああ、あなたが今日限りで聖堂に戻ってしまうのが本当に残念だわ。できるならあたくし、誰よりもあなたに、生まれてくる子を祝ってほしかったのに」


 気の早いアデイラがそう言って目を潤ませたのを見て、レオははっとした。

 この還俗は、あくまで期間限定。今日を逃せば、アデイラを祝うことはできないわけだ。


(えーっ! ど、どうしよ、祝いの品なんて全然用意してねえよ!)


 まだ見ぬ孫のために、やれ産着だ領土だ別荘だと祝福の算段を付けているエミーリアたちを見ると、なにも渡さずにしゃらっと立ち去るのは、さすがに気が引ける。

 おろおろと視線をさまよわせたレオは、自席に隠していたあるものを視界に入れ、はっと息を呑んだ。


(そうだ、豚のぬいぐるみがあった……!)


 領土などという破格のプレゼントに比べれば、みじんこのようなスケールだが、まあ無いよりはマシだろう。


「あの、アデイラ様。よければ、これ、お祝いに、受け取ってください……」

「まあ、豚のぬいぐるみ? まさか、手作り……!?」

「ええ、まあ……」


 そうして、少女がおずおずと差し出したぬいぐるみを見て、一同は大いに度肝を抜かれることになったのだ。

 掌に載せられたのは、布の手触りも心地よい、小ぶりなぬいぐるみ。

 強く握れば、赤ちゃんが好みそうな、「ぷぅ」と元気な音がする。


 しかも、レオはあずかり知らないことだったが、少子化に陥りがちな貴族社会においては、豚は多産のシンボルで、こうした場面では大層好まれる意匠なのであった。


「レオノーラ……!」

「ああ、やはり、あなたはどこまでも、真実を見通すのね……!」


 少女が見せた神秘的な力に、一同は感動に身を震わせた。




『どうして……』

『こうなる……』


 一方で、聖堂で一連のやり取りを見守っていたレーナとブルーノは、額を抑えて俯いていた。


 どこまでも利己的で金に汚い言動が、レオにかかるとなぜ聖女ムーブになってしまうのか。

 レオの本性を知っている二人からすれば、目の前の事態は実にどうしようもなかったし、客観的に光景を俯瞰している者でもある彼らからすれば、楚々とした美少女面が目を潤ませて叫べば、そりゃこうなるよなと理解できる気もした。


『……まあいいわ』


 やがてレーナは、すべてを諦めた老人のようなため息を漏らした。


『やつの聖女伝説が今さらひとつ増えたところで、さしたる実害はないわよ。とにかく、過保護をこじらせた貴族連中が、レオを拉致監禁したり、精霊に背いて奪還戦争を仕掛けるような事態さえ回避できれば、それでいいんだから』


 我ながら寛容な発言だとレーナは思ったが、しかしその呟きを聞き取ったブルーノは、なぜだか不吉そうに眉を顰めた。


『おまえな』

『は?』

『それはフリ(・・)なのか?』

『はあ?』


 レーナは怪訝な首を傾げたが、ブルーノはぱっと顔を上げると、映像を映す金盥に向かって目を細めた。


『ほら見ろ。不穏な気配がする』


 顎をくいと持ち上げた先では、レオとディートリヒが真剣な顔で話し込んでいる。

 アデイラが出産に備えて休む最中、どのようにして歌劇団実現を進めていくのかという話題のようだ。

 産後落ち着いたらアデイラもちゃんと舞台に立つと聞いて、レオはあからさまにほっとした顔をしたが、それでも一年は外出を控えることになるだろうと聞いて眉を下げていた。

 どうやら、団員にはアデイラ自らが歌唱の指導にあたる計画を立てていたようで、それが休止されてしまうのを懸念したらしい。


「ああ、でも、大丈夫。この『ディスク』は、リアルタイムで映像を配信する使い方もあってね。これを使えば、屋敷にいながら、アデイラが歌唱指導することも十分可能だ」

「ディスクに、そんな、機能が……!」


 ベルク人が通信教育の概念に目覚めた瞬間である。

 顔を輝かせる少女に、しかしディートリヒは、なぜか少しだけ気まずそうな表情を浮かべて説明を続けた。


「実を言えば、今この部屋に使っている『ディスク』も、試験的にリアルタイム配信機能を作動させていてね。のぞき見されているようで気分が悪いのだけど、それが先方・・からの条件だったから、やむをえず……。侯爵家が自力で賄うには、まだまだ高価な魔道具だからね」

「そうなのですか? のぞき見はべつに、気にしませんが、……そんなに高価な道具なんですか?」


 高価、という単語に、レオは怯んだようである。


「それを、長期間にわたって、歌唱指導に使うことは、可能なんでしょうか? その、経済的に」


 おずおずと問うと、「ああ、いやいや」とディートリヒは鷹揚に手を振った。


「それについては調整済みでね。この下町歌劇場――聖レオノーラ歌劇場にかかわるディスクは、アルベルト皇子殿下のご厚意で、無償で使っていいことになっているんだ」

「へ!?」


 とんでもない劇場名や、突然出てきた皇子の名前に驚くべきところではあったが、それよりもレオは、「無償」の単語に強く反応した。

 無償。

 世界で一、二を争うほどに好きな言葉である。


 一気に胸をときめかせたレオは、「皇子が……!?」と、紫の瞳をきらきら輝かせ、頬を紅潮させた。


 見守っていたレーナは、急激に胸に兆した嫌な予感に、画面へと反射的に身を乗り出した。

 まさか、この流れは。


「そんな、気前のよいことを……!?」

「ああ。皇室登録の魔道具は、最初の三年、特許使用料が発生してしまうのだけど、それも代わりに負担してくれるって」

「皇子……っ、なんて、素敵な方!」


 またたびを前にした猫のように、美少女――のナリをした守銭奴がふるりと身を震わせる。

 レーナはふるりと首の後ろの毛を逆立てた。


 よせ。

 やめろ。

 そこは下町ではないんだ、わからないのか。


「私、今すぐ皇子に、抱かれたい……っ!」

(おばかァああああああああああ!)


 案の定、致命的なセリフを言い放ったレオに、レーナは画面の向こう側で声なき絶叫を上げた。

続きは明日の昼頃!(推敲中)

  • ブックマークに追加
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
ポイントを入れて作者を応援しましょう!
評価をするにはログインしてください。

感想を書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。