◆レーナ、怪談に震える
還俗の前日譚
合理性を愛し、しかも魔力に恵まれたレーナは、幽霊の類をまるで信じていない。
この世に幽霊など存在しないし、仮に目撃されたのだとしたら、それは魔力や精霊力の残滓だ。
よって彼女は、数少ない友人たちが先ほどから披露してくる怪談を、鼻でもほじりそうな態度で聞いていた。
『最後に男が振り返ると、無人の空間から恐ろしい声が響いた。「決シテ逃ガサナイ」……』
『こっえぇええええ! ブルーノの語りがなおさら怖ぇえええ! 鳥肌総立ち!』
『うるさいわね。男のくせにぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃないわよ、レオ』
すぐ隣で絶叫するレオのことも、一刀両断する。
すると、両手でぎゅうぎゅうと頬を押しつぶしていた彼は、白けた顔つきになってこちらを振り返った。
『んだよレーナ、ノリ悪ぃな。こういうのは怖がってなんぼだろ。ついでに言えば、
反論する彼は、今この瞬間、黒髪に紫瞳を持った絶世の美少女――つまりレーナの姿を取っている。
そう。
レオとレーナは今、一年ぶりに互いの体を入れ替えていたのであった。
『まったく。明日から三日間も「還俗」するっていうのに、怪談なんかしてる場合じゃないでしょ。人がせっかく早めに体を入れ替えてやったんだから、さっさと「レオノーラ」の勘だけ取り戻して、寝なさいよ』
だいぶ嵩の減ってきた燭台の蝋燭を眺めて、レーナはげんなりと溜息を吐く。
窓から見える月はだいぶ傾いていて、ずいぶんな深夜だということがそれでわかった。
あと数時間もすれば、レオの、いや、レオノーラの「還俗」が始まる。今回はとうとう三日間という長さだ。
(だいたいこいつは、危機感ってもんがないのよ)
一昨年、昨年。
年を追うごとに「還俗」日数は延びてゆき、それに比例して諸々のリスクが高まっているに違いないのに、この守銭奴は相変わらず金のことしか考えず、へらへらとしている。それが腹立たしかった。
(シャバに留まる期間が長引くほど、本性がバレる確率も、それ以外の確率も高くなるっていうのに……)
正体がバレるのなら、いっそ、もうそれでもいい。
大騒動にはなるだろうが、どうせ傷つくのは貴族連中だけ。この心労の日々に終止符を打てるなら、もはや真実を明らかにし、人間関係を仕切り直してもいいくらいだ。
だが、この勘違いの星のもとに生まれたとしか思えないレオのこと――むしろ、聖女伝説が強化されるだけに終わるかもしれない。そして、未練をこじらせた貴族連中が、思い余って「レオノーラ」を攫おうとするかもしれない。
レーナはそちらのほうを、よほど恐れていた。
(見なさいよ、十五歳となって、今や咲きこぼれんばかりとなったこの美貌。髪も伸びて、体つきも変わってきたというのに、あどけない表情を浮かべるこの危ういバランス。誰がどう見たって、攫って手籠めにしたい女の子ナンバーワンじゃないの!)
ナルシストであることは重々承知しているが、レーナは本気でそんなことを思う。
自分の持つ色彩や体型、そして顔の造作は、美貌で知られた母譲りだ。否定する方がおかしい。
ついでに言えば、なぜだかレオの魂が収まっているときというのは、レーナ本人の魂が収まっているときよりも、やけに表情が生き生きとし、目が離せないような魅力があるのだ。
(……それって、私よりもレオの魂の方が魅力的ってこと? そんな馬鹿な)
嫌な発想に、つい鼻に皺を寄せてしまう。
だが、レオはそんなことに気付きもせずに、
『怪談はいいぞー。カネを一切かけずに涼を取れる、先人が生み出した生活の知恵だ。春のうちからいっぱい怪談を仕込んで、夏の孤児院に冷気を届けるっていうのが、毎年の俺の流儀でさあ』
などと浮かれていた。
しょせんカネか。
相変わらず発想がこすっからい。
その割に手間はやたらかかって非効率だ。
素早くツッコミを畳みかけようとしたら、レオに先を越されてしまった。
『それに、涼しい話を仕込んでおけば、うっかり興奮しちまった時でも、自分を抑えられるし』
『……は?』
『や、だからさ。この身体だと勝手に涙が出ちまったり、赤面しちまったりするんだけど、そういう時に怖い話でも思い出せば、ちょっとは症状を抑えられるじゃん?』
彼は鼻先を擦りながら、ばつが悪そうに笑った。
『去年も一昨年も、レーナには迷惑を掛けちまったからさ』
レーナは目を見開いた。
まさかレオが、そんな殊勝な心構えでいたとは思わなかったからだ。
実は、昨年も一昨年も、還俗直後のタイミングで、貴族連中が「やはり精霊に逆らってでも、レオノーラを取り戻そう」というモードに傾きかけたことがあった。
本人を目にしてしまうと、落ち着いていた未練がぶり返すということだろう。
危機管理能力に長けたレーナは、敏感にその雰囲気を察知し、アルタやブルーノとも共謀し、迅速に鎮火を図った。
同時に、あわあわと狼狽えるだけのレオのことを叱り飛ばしたのだ。
その顔でほいほい赤面したり、涙目になったりするんじゃない!
あんたが潤んだ瞳で上目遣いしたり、両手で顔を覆って頬を紅潮させたりするから、やつらは理性を持っていかれるんじゃないの!
――と。
思えば、精霊との約束があるのにそれを破ろうとする貴族連中が悪いのだし、そこでレオを非難するのは、痴漢にあった女性を「おまえが誘惑するからだ」と叱りつけるような愚行だ。
が、八つ当たりだとわかってはいても、胸倉掴まずにはいられない。それくらいに、レーナも毎年、貴族連中の執念深さには悩まされていたのである。
『よくわかんねえんだけど、俺、ここ最近失敗ばっかじゃん? だから、ちょっとでもレーナの望む方向に改善できれば、って……俺なりに、さ』
己に非は無いというのに、懸命な姿勢で臨む様は――その努力の方法は的外れであるとはいえ――、いじらしいの一言だ。
正直、レーナでさえちょっときゅんとしてしまった。
(だから……あなたの……っ、そういうところが、さぁああ……っ!)
自分の顔のはずなのに、このいじらしさはどうだ。
この身体にレーナの魂が収まっている時、男たちの嫌らしい視線を感じたことはあっても、きゅんとされたことはない。なぜレオが入るとこうなるのだ。
両手で顔を覆って床に蹲ったレーナを、ブルーノが愉快そうに眺めていたが、それに気付く彼女ではなかった。
ついでにレオも、不服そうに唇を尖らせ、
『でも、レーナは全然怖がらねえってところを見ると、怪談の質が悪いんかね? これじゃ涼の効果も薄い? どう思う、ブルーノ?』
などと言う。
ブルーノはあくまで無表情で首を傾げるだけだったが、
『いや、レーナの感受性が死んでいるだけではないか』
と続けた。
わかりにくいが、自分の怪談にケチを付けられてムッとしているのだろう。
それで平静を取り戻したレーナは、顔を起こし、ふんとせせら笑ってみせた。
『はん。お子様なあなたたちと違って、幽霊なんて作りごとを信じていないからだわ。よしんば幽霊がいたとして、彼らが物理的に何ができると言うの? よくって、この世で一番怖いのは人間なのよ』
多少の露悪性も込めて言ってやれば、レオはなぜか「おっ」と指を鳴らした。
『さてはレーナ、同じホラーものだとしても、幽霊系よりも、精神異常者とか猟奇殺人とかのほうが怖いタイプか』
『そりゃ、そっちのほうが実害があるとは思うけど……なによそのジャンル分け』
『いやいや。小説翻訳バイトの時に、そういう分類があってさ。ははあ、なるほどね』
レオは勝手に納得して、なにやら頷いている。それから、瞳を輝かせて、「だったらさ!」とレーナにぐいと顔を寄せた。
『な、なによ』
『この話だったらレーナも怖いかも!』
なぜか、レーナも怖がらせなくてはという奇妙な使命感に動かされているようである。
レオの予告する怖い話とやらよりも、鼻先同士が触れあいそうな距離感にどぎまぎしていると、レオは表情を神妙なものに改め、心持ち低い声で語りはじめた。
『これは、リヒエルト在住のLさん(当時十四歳)が実際に経験したお話です……』
『おまえか』
『うっせえ、ブルーノ。黙って聞けよ』
ブルーノの茶々を素早く封じながら、レオは「怖い話」を続ける。
頼りなく揺れる蝋燭の光に乗せて、彼が語ったのは、こんな内容だった――。
Lさんは、当時十四歳の女の子。
経済観念に優れ、気立てもよかった彼女には、多くの友人がいました。
友人の属性は様々でしたが、中には性転換願望のある少年や、性経験の乏しさに悩む自称肉食系男子、はてには、己の不能、じゃない、無能さを嘆く王子様などもいて、その多様性は、時々Lさんを戸惑わせていました。
が、中でもぶっちぎりに彼女を当惑させたのは、金髪碧眼の皇子様。
ここでは彼を、仮にAさんと呼ぶことにしましょう。
『Aさんっていうか、アルベルト皇子じゃないのよ』
『というか待て、誰だ不能の王子というのは? まさかサフィ――』
『うっせえ、彼は彼の人生を生きてるんだよ、邪魔すんな。そして今重要なのはここじゃねえ。続けるぞ』
Aさんは、一見すれば金髪碧眼、文武両道の麗しい皇子様でしたが、その内面は実にどす黒く、一枚でも金貨を盗んだものは死刑に処そうとする、えげつなさを持ち合わせた人物でした。
実はこれは、Lさんの誤解であり、彼はLさんに好意を寄せていただけらしいのですが、それにしては、Aさんの言動は時折ふと凶暴性を帯びることがあります。
Lさんは、時々、Aさんが自分を好いていたなどというのは嘘で、本当は、彼は今でも、自分を殺そうとしているのではないかと疑うことがあります。
事件はそんな時に起こりました。
『あなた……。まだそんなこと言ってたの……』
『さすがに一抹の同情心を覚えるな……』
『いや、俺だって今じゃアルベ……じゃねえ、Aさんはいい人だと思ってるぜ? でも時々、マジで目つきがヤベえ時があるんだって。基本はいい人。ほんとよ?』
とある事情から、LさんはAさんと距離を置いて過ごしていましたが、一年に一度、どうしても再会する日が巡ってきます。
平静の状態では、Aさんは金払いのよい、発言も実にリーズナブルな、素敵な青年であるのですが、ちょっとしたきっかけで、ふと暗い瞳をすることがあります。
そのきっかけとは何かを、Lさんはよく理解できません。
ですが、特別な理由もなく目つきがヤバくなる人のことを、世間はこう呼ぶのではないでしょうか。
サイコパスと――。
『……待って、なんか嫌な予感がしてきた』
ぞくり、と二の腕が粟立つ感覚をレーナは抱いた。
レオが意図している方向にではなく、別の意味で、これは聞かない方がいいやつなのではないか。
ここ数年で鍛え抜かれた危機察知能力がガンガン警鐘を鳴らしていたが、それよりも早くレオは続けた。
その時も、LさんとAさんは普通に会話をしているだけでした。
あえて特筆する点があったとすればそれは、当時、Lさんが妖精を模したドレスを着せられていたことくらいでしょうか。
高級布地がふんだんに使われたそれは、言い換えれば大層暑苦しく、その時Lさんは胸元を寛げ、パタパタと煽ごうとしていました。
『レオ……! このレオ……っ! こんの、レオぉおおおおおおおお!』
『いやだって、この程度の大きさの胸じゃ、煽いでも別に――うぐぉえほ!』
『レーナ。気持ちはわかるがこの程度で殺そうとするな。俺の読みでは、この先の方がひどいぞ』
冷静な指摘に、首を絞めかけていたレーナの腕が止まる。
彼女は徐々に強張ってきた顔で、「……それで?」と短く続きを促した。
ええと、それで。
Aさんは下品なLさんに苛ついたのか、ふいと顔を逸らしました。
そして、暑いのだったら着替えて来ればよいと提案しました。
声が低く掠れていたから、きっとその時点で相当苛立っていたのでしょう。器の小さい男です。
ですが、Aさんにほんのりとした恐怖心を抱いていたLさんは、Aさんの苛立ちを敏感に察知し、反論することなく、代わりに謝罪をしました。
すみません、普段はこうしたドレスを着ないので、つい暑く感じてしまって、と。
すると、Aさんは何を思ったか、「ならば自分が、聖堂でも使えるような簡素なドレスを贈ろう」と言って寄越しました。
どんなドレスがいいか、自由に言ってくれ、と。
経済観念に優れたLさんは、その時すかさず、転売のことを考えました。
どうせ皇子様のこと、簡素と言っても、最上級の品を寄越すに違いないのです。であれば、孤児院の仲間が着まわすには向かない。
となれば当然、布地にバラして有効活用できる方がいい。
デザインのことはLさんにはよくわかりません。
けれど、使いまわしやすく、かつ布地自体の価値が高いものとなると要望は一つ――
『回りくどいわね。なんて答えたのかさっさと言いなさいよ』
『白いドレスならなんでもいい、って答えた』
回答を聞き、レーナは絶句した。
『は……?』
『皇子がくださるというのなら、白いドレスであれば、なんでもいいです、って。そしたら、アルベ……Aさんの目つきが急にヤバくなってさ。なんか、暗い瞳っつうのか……いや、碧眼なんだけど』
レオはぶつぶつと首を傾げているが、レーナはそれどころではなかった。
(こいつ……なに、ウェディングドレスをおねだりしてんのよおおおおおおお!)
女性が男性に白いドレスをねだる、それは貴族階級の作法で言えば、結婚の催促だ。
こいつはどうせ上目遣いで、おずおずと告げたに違いない。
愛しい少女からまさかの逆プロポーズを受けたアルベルトは、それで一気に感情を揺るがせたのだろう。
ばっちり推測したレーナは、一気に顔色を失った。
『そ……っ、それで、その後は……っ?』
『いや、なんか急に神妙な表情になられたから、こっち――じゃねえ、Lさんはビビっちまってよ。さては転売を企んでいるのをバレたかと、慌てて言いつくろったんだよ』
Lさんは考えました。
サバランは白地が一番高級ですが、それを求めるのはさすがに欲を掻きすぎた。
相手は自分の大胆なおねだりに苛立っているのだろうから、ここはひとつ、欲の無いところをアピールしようと。
そこでLさんは、急いで主張を翻しました。
――う、嘘、です。本当は、何色でも、いいです……!
そのとき、やけにAさんがじっとこちらを見つめてきたので、Lさんは重ねて主張しました。
――白がいいだなんて、嘘です……! 忘れて、ください……!
『ひぃ……っ!』
(健気さしかアピールできてないじゃないのよおおおおおお!)
衝撃のあまり、レーナは思わず両手を髪に突っ込んだ。
動揺しすぎて、引き攣った呻きしか出てこない。
ああ、ああ、この目で見てきたかのように想像できる。
どうせこいつは、瞳を潤ませて、必死に「忘れてくれ」と言い募ったのだろう。
まるで、抑えきれない恋情が溢れ出してしまったことに怯え、慌てて発言を取り消そうとする乙女のように……!
そこらの怪談よりもよほど精神にクるエピソードに、レーナは文字通り震撼した。
これぞ、本当にあった怖い話だ。
いよいよ話もクライマックスに向かっているらしく、レオもますます声を潜めて続けた。
が、Aさんは底なし沼のような瞳で、Lさんを見つめるばかりです。
疑われているのか、何か地雷を踏んでしまったのか。
いくら本当はいい人だと理解していても、やはりこういう状況になると、これまでに追い込まれてきたあれこれの状況が蘇ります。
こうなってしまった彼はとても恐ろしい。
いや、本当は、彼が自分を好きだったなどというのは嘘で、今も彼はこうして、虎視眈々と自分を殺る機会を窺っているのではないか――。
Lさんは恐怖に涙目になりながら、しどろもどろで問答を続けました。
――レオノーラ。
――は、はい……っ!
――君は今……幸せかい?
これはもしや、惨殺する前に優しい声で「おまえ、今幸せかぁ? 幸せなんだろうなぁ。3分やるから、嫁に別れを告げて来いやぁ……」と告げる、ヤ的なあれでしょうか。
怯えたLさんは、一瞬返答を躊躇ってしまいましたが、するとますますAさんが身を乗り出してきたので、慌てて答えました。
――し……幸せです!
――本当に? 僕を含め、ここにいる誰に対しても、未練なく暮らせているのかい?
――もちろん……っ。むしろ、皇子と、お会いするのは、この頻度で、十分で……! いえ、十分すぎるくらいです! 精霊様の、お傍で過ごす、今の生活が、私は本当に、幸せです……っ!
聞いていたレーナは、ひき殺された蛙のような声を漏らした。
レオは心の底から本音を叫んだだけなのだろうが、傍目には、悲劇の中から必死で幸福のかけらを見つけ、自分に言い聞かせているだけにしか見えない。
庇護欲を大いにくすぐられただろう皇子が、ますます想いを強くしたことを確信し、レーナはだらだらと冷や汗を流した。
『そ……それで……っ?』
『ああ。必死の言い訳も効かなかったAさんは、そこで強引に、Lさんに手を伸ばしたんだ。片手は手首に、もう片手は頬から首筋にかけて。どちらも急所だな。確実に
違えよ。
ツッコミが喉元まで込み上げるが、もはや声にならなかった。
聞きたくない、でも続きが気になって仕方ない――まさに、怪談に臨む人の心境そのもので、レーナは震えながら続きを促した。
『そ、それで……っ?』
『ああ、ここが正念場だ――』
強い力で体を押さえられてしまったLさんは、全身を竦ませてAさんを見返しました。
Aさんは、ほの暗い笑みを浮かべながら、そっとLさんの手首を、そして頬を撫でます。
Lさんはそれを、いつでも
そしてとうとうAさんは、妖精の羽を模したドレスの袖を見つめ、それに包まれた腕を握りながら、やけに静かな声でこう告げたのです。
――いっそ……君の羽を
――え……?
――羽を捥いでしまえば……こんな想いを、しなくて済むのだろうか。
『――っつったんですよ! 羽の刺繍を! 腕を見ながら! まさかの腕切断宣言!』
『いやぁああああああああああ!』
とうとう恐怖の上限を突破したレーナは絶叫した。
もちろん、猟奇的な恐怖が原因ではない。
妖精の羽を捥いで想いを遂げる――つまり、その場で純潔を奪って巫女の座を退かせるという、アルベルトの意図を正確に読み取ったことが原因である。
『あ、あなた、あなた……そ、それで、まさか……っ、その場で……っ!?』
盛大に噛みながら問うたレーナに、レオは「あん?」と、ちょっと不思議そうに首を傾げた。
『いやいや、腕を見てみろよ、ちゃんと付いたままだろ? 結局その場でカイが「お時間です」って踏み込んできて、アルベ……じゃねえや、Aさんは我に返ったわけよ』
――なんて……ね。
淡い笑みを浮かべ、そっと頬をなぞりながら。
彼は手を離した。
『いやー、でも俺もさすがにあんときはビビったよなぁ。なんか本気そうだったもの。まじで腕捥がれちゃうかと、久しぶりに冷や汗かいたぜ。……なあ、やっぱ皇子ってホントはヤバい人だったりしねえの?』
レオは呑気に、一人で頷きながらそんなことを聞いてくる。
『おまえが、皇子は俺のことが好きだったってやたら主張するから、今までこの話も黙っといたんだけどさ。これ聞くと、ちょっと認識変わらね? 俺やっぱ、命が危ういほど嫌われてんじゃないかなー』
まったく変わらない。
むしろ皇子の重すぎる愛が確認されただけだ。
危ないのは命ではなく貞操だ。
(なんてことよ……! 単なる腹黒属性だと思っていたのが、時を経てヤンデレ属性に進化してる……!)
パニックに陥ったレーナは、珍しく涙目になってレオに取り縋った。
『レオ! あな、あなたねっ、ま、万が一皇子に……、は、
その単語はあまりに不吉で、すべてを紡ぐことなどできなかった。
が、レオはどう受け取ったか、ちょっと目を見開く。
『んだよ、そんなハラハラしてくれなくて大丈夫だよ』
『違――っ』
『そんなにグロ話が怖かった? へへ、レーナも可愛いとこあんじゃん』
そして、にかっと笑い、子どもにするようにレーナの――今はレオの体だが――髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
『皇子も根はいい人っぽいから、大丈夫、大丈夫。そんなにビビると思わなかったからさ、こんな話して悪かったよ』
完全に、レーナが腕切断話に怯えていると誤解されている。
レオは、ちょっと得意そうに胸を張ると、「いっぱい土産をせしめてくるから、期待しとけよ」と、こちらの鼻を小突いた。
『そうじゃなくて――』
『――ん』
レーナが弁解しようと、ついでに皇子問題の傾向と対策を授けようと身を起こした瞬間、しかしブルーノがふと窓の方を向く。
彼は耳を澄ませるような素振りを見せると、淡々と告げた。
『噂をすれば影。もう、貴族連中の迎えが聖堂まで来ているようだ』
『えっ、マジ? 今まだ深夜だぞ、早すぎね?』
『今日の日付に変わっていればいいと解釈したんだろう。侯爵夫妻も、年を追うごとに強引になっているな』
『もー、あの二人は』
レオは苦笑するが、夫妻を呼ぶ声は、どことなくくすぐったそうである。
『とりあえず、誰かが出迎えなきゃならねえよな』
和やかな表情を浮かべたまま、あっさり部屋を出て行こうとするレオを、我に返ったレーナは慌てて呼び止めた。
「ま、待って、レオ!」
咄嗟にヴァイツ語が出てしまい、無意識に喉を押さえながらエランド語に戻す。
『あなたね……、あなたいい加減に、心の機微というものを踏まえて――』
が、「機微?」と首を傾げているレオを認めて、瞬時に絶望した。
だめだ、こいつに男心や恋情の機微を解説したところで、理解できるはずもなかった。
結果、レーナはやけくそになって、言葉を叩き付けるようにしてこう告げたのである。
『いい!? あなたの不注意で還俗期間中に攫われたり手籠めにされたりしたら、
――と。
レオは最後まで「え、あ、うん……」と、何をそんなに危惧しているのかわからない、といった様子で、扉を出て行った。
『……ブルーノ』
部屋にブルーノと二人きりになると、レーナはがくりと床に崩れ落ちた。
『私の身体の貞操、今回も無事かしら……』
『……来年は、還俗日数を縮小するか。あと、今回は金の精霊に見張りを頼もう』
珍しく、ブルーノが同情的な意見を返す。
その優しさが、かえってつらかった。
『金の精霊が付いている以上、そう差し迫った事態になることはないだろう』
『そう……そうよね……』
レーナは両手で顔を覆ったまま、こくこくと頷く。
『アルベルト皇子だって、一国の世継ぎですもの。精霊を敵に回すことなんて、結局はしないはずだわ……』
彼女は呪文のようにそう繰り返して、なんとか心の平静を取り戻したのである。
その数年後、アルベルトの即位によってヴァイツは隆盛を極め、「精霊の加護が無くともヴァイツは安泰」と高らかに謳われるようになる。
そのたびに、何もない空間から「決シテ逃ガサナイ」という皇子の声が聞こえてくる気がして、レーナは総毛立つことになるのだったが――
幸か不幸か、そんな未来を、現在の彼女はもちろん知る由もないのだった。
頑張レーナ!