◆レオ、1日限り還俗する(後)
フエル・アドは小扉の方から強引にレオを連れ出すと、通路と裏道を素早く進み、路地裏の幽霊屋敷のような場所にやってきた。
そこは上流市民の居住エリアの内では寂れてしまい、空き家になってしまった所で、フエル・アドはそこで姿と名前を偽って、住み着いているのだという。
『エランドでは我が家への風当たりが強く、とても生きてはゆけなくてな。皮肉なことに、「アリル・アド本人以外には手を出さない」と宣言したヴァイツ帝国のお膝元のほうが、よほど安全だったというわけだ』
かつてブルーノがヴァイツに流れ着いた理由と同じのようだ。
フエル・アドはそこで、いくらか持ち合わせた精霊力とアド家に伝わる医師の技術、そして調香技術を使って、最初はなんとか生計を立てていたという。
『一時は、大陸で五本の指に入っていたラハッサ商会の、主力の香水の調合を任されたりな。だが……それを、オスカー・ベルンシュタインがめちゃくちゃにした』
『え……?』
成り行き上、大人しく体育座りをして聞いていたレオは、急に身近な名前が出てきたことに目を瞬かせた。
ちなみに、学院にいた頃から何度か攫われたり拉致られたりして慣れているし、いざとなればアルタが力を貸してくれるとわかっているので、今レオはかなりリラックスしている。
『奴らはな、あんたとの再会を望み――「善行」という名の賄賂を差し出すべく、この三年しゃかりきになって商会を拡大してきた。そして競合相手だったラハッサ商会を追い抜き、蹂躙するその直前、会頭の元にオスカーと名乗る男がやってきて、こう尋ねてきたんだよ』
――そちらに、大切な少女を俺たちから奪うきっかけを作った、
彼を至急解雇するなら我々は連携しよう。
だが、そうしないならば、我々は……少なくとも俺は、あなた方を駆逐する。
『えっ……!?』
レオは驚いた。
ビジネス的にまるでナンセンスな駆け引きだ。
ベルンシュタイン現会頭のハーゲルや、後継者のフランツなら、敵であっても素知らぬ顔で手を組みそうなものなのに。
(なにやってんすか、オスカー先輩いいいいいい!?)
ああでも、時に損得勘定よりも感情を優先してしまうのがオスカーという人物だった。
とびきり情の深い彼は、一度懐に入れた相手は徹底的にかわいがるぶん、敵とみなした相手に対しては、その縁者まで憎んでしまうような激しさがあったのだ。
レオの驚愕をどう受け取ったか、フエル・アドは皮肉気に肩を竦めた。
『結局、当時二十歳にも満たない男の脅しを受けて、会頭は俺を即座に解雇した。そこからは……転落の人生だ』
フエル・アドは、元エランドの貴族らしい精悍な容貌を、恥辱の色に染める。
彼は褐色の拳を握り、石の床に叩き付けた。
『名を偽り、姿を偽り……本当なら医師として人々を救うための技術を、大道芸のように貶めて過ごす日々。媚薬の開発に辻占の真似事、催眠ショーに呪いグッズ販売。
『え、普通にすごくないです!?』
庶民暮らしに順応、というかそれ以上にしっかりスキルを活かしているフエル・アドに、レオは純粋に感心した。
なんなら医師として一生を終えるより、そちらのほうが儲けられそうだ。
大きな瞳を丸くして、ぐっと距離を詰めてきた美少女に、フエル・アドは一瞬たじろいだように顎を引いた。
『はっ、媚びて難を逃れようという魂胆か?』
『いえいえいえ、本心です! 心の底から、ぜひその詳しい経緯と、技術について語ってほしいと思っています!』
『なにを……。俺がコツさえ教えれば、そのへんのゴロツキだって簡単にできるようになるだろう、仕事とも言えない仕事だ。そんなものを語ってなんになる』
『誰でも……簡単に……!?』
彼自身がスキルを活かすだけでなく、他者のことも容易に教育してしまえるというのか。
(この兄ちゃんすげえ……!)
レオの中で、目の前の青年が単なる復讐者から、羽ばたく可能性を秘めたビジネスパートナー候補に変貌した。
婦人用試着室に踏み入ってくる非礼だとか、悪びれもなく人を拉致する思考はどんなものだろうと思っていたが、今になってみれば、そういう常識の枠に囚われない在り方こそが、これからのビジネスシーンを変えていくのだ、という気さえする。
レオは瞳を輝かせ、熱心に相手を見つめた。
『オスカーがあの時、俺の出自を理由に解雇を要求してこなければ……! 俺は真っ当で、誇り高い仕事が続けられていたというのに……!』
『そうですよね……。本当につらいですね』
『たしかに祖父は罪を犯した。おまえにも危害を加えたろう。それを申し訳なく思う心もあるが……だが血が繋がっているという理由だけで、俺はこの先ずっと苦しまねばならないのか……!』
『そうですよね……職業選択の自由は大切ですよね!』
すっかりシンパシーを覚えたレオは、うんうんと頷く。
あまりに親身な様子に、戸惑ったのは相手の方だった。
(なんだ、この女は……)
光の精霊もかくやという美貌の少女は、やけに真摯にこちらの話を聞いてくれる。
三年前、アリル・アドの歪んだ野望に巻き込まれ、命を落としかけたという少女。
その美しき精神に惹かれた光の精霊が少女をかくまったというエピソードは、大陸中で有名ではあるが、つい祖父を擁護したいという気持ちも手伝って、ヴァイツやサフィータが話を誇張したのだろうと思い込んでいた。
だが、仇の孫の、逆恨み丸出しの言葉を、こんなにも真剣に聞いてくれるなど。
(いや……落ち着け、これがこの女のやり方なんだ)
腐敗した教会関係者を見てきたフエル・アドは、聖人聖女などと持て囃される人物にろくな者がいないということを知っている。
改めて気を引き締め、彼は嗜虐的な笑みを浮かべた。
『ずいぶん呑気に話を聞いてくれるものだが……わかっているのか? おまえは今、危機のさなかにあるのだということを』
『え?』
『憎きオスカー・ベルンシュタイン……。女を渡り歩くあの男が、数年にわたって執着しつづけるのはおまえだけだ』
『いえ、そんなことはないというか、執着しているとしたらそれは髪――』
少女は言いづらそうに何か反論しかけたが、フエル・アドはそれを遮って続けた。
『そんなおまえが俺の手に堕ちたと知ったら、オスカーはどれほど苦しむか。それに、ベルンシュタインの人間が連れだした際に、おまえが危害を加えられることがあったら、ハーケンベルグ家はベルンシュタイン商会を決して許さないだろう。それはつまり、商会の破滅ということだ』
『いやそんな、侯爵夫妻を魔王みたいに……』
困惑気味の――そして相変わらずどこかのんびりしている少女を脅しつけてやろうと、フエル・アドは懐からある物を取り出した。
『これがわかるか?』
その手に握られたのは、香水を納めるような小さな瓶だった。
『もしや、アリル・アドさんと同じく、なにかこう、アレな感じの香……?』
『その通り。これは当家だけに代々伝わる秘香。女には全身の毒を祓い、免疫力を活性化する作用しか持たぬが、男にはその活性化作用が行き過ぎ――』
真剣な瞳でじっとこちらを見上げる少女を前に、フエル・アドはつい、言葉を選んでしまった。
『……そうだな、
『わ……わかります……!』
レオは震えながら頷いたが、
(すげえ……! 俺の目の前で、野郎どもが一斉にフサフサになる現場を目撃できる、ってことか!)
もちろん、まるでわかっていなかった。
エランド語での直截的な卑猥表現に慣れきっていたレオにとっては、フエル・アドの言い回しは迂遠すぎたうえに――そもそも、ここまでの時点で思考リソースをかなり不毛領域に持っていかれていたのである。
(男に自信を……力強さを取り戻させる……。活性化させる……つまり、増毛剤。これって、オスカー先輩が今求めているものドンずばじゃねえか!)
巡り合わせの妙に、レオは痺れた。
(この兄ちゃんを逃しちゃならねえ……! この人は、俺が向こう三年分の貸しを作るためにカー様が遣わせた使徒……! ネギをしょってヴァイツの地に舞い降りた鴨だ!)
いや、オスカーへの貸し云々だけでなく、純粋にその秘香で一儲けできる気がする。
ベルンシュタイン商会と組んで、特許ビジネスに乗り出すのはどうだろう。
そうだ、彼は職に困っているようだから、フランツに頼んで商会に就職させてもらったらいい。
そうすれば、フエル・アドにも貸しを作ったことになるから、今後もちょいちょい、ビジネス上有利な情報をリークしてくれるかもしれない。いや、そうさせる。
(聖堂には、魔力を持つ貴族や上流市民は近寄っちゃいけないことになってるけど……フエル・アドさんが持つのは精霊力だし、一応罪人の子孫だし。聖堂とシャバとを繋ぐ小間使いに、使える……!)
己の着想がもたらす完璧な筋書きに、レオの目は自然と潤んだ。
『あの……っ! まずは、ぜひ話を聞いていただきたいんですが――』
『ふん、今更怖気づいてももう遅い。来い!』
だが、フエル・アドは話を聞こうとせず、強引にレオの腕を掴んできた。
『せいぜい、そのお綺麗な魂とやらが、いつまでもつか――』
「――そこまでだ」
そして、威勢よく啖呵を切ろうとしたところを、今度は別の人物によって遮られた。
――ドゴォオオオオ……ン!
一拍遅れて、レオたちを取り囲んでいた壁が粉々に砕かれる。
「うぉ――、…………っ!」
野太い悲鳴を魔術に焼かれたレオは、咄嗟に頭を庇ったが、不思議なことに、フエル・アドを吹き飛ばした爆風は、レオのまとうドレスの裾をそよともなびかせはしなかった。
「え……? あ……――!」
戸惑い、視線を走らせ、そしてぎょっとする。
「我々の大切な少女に、いったい何をするおつもりで?」
ざり、と瓦礫を踏み分けて。
逆光を背負ってゆっくりとこちらにやってきたのは、――一時間ほど前に別れたはずの、アルベルト・フォン・ヴァイツゼッカー第一皇子であった。
「――ぁ……っ」
(あぎゃぁあああああああああっ!?)
あまりのラスボス的風格を前に、レオはつい内心で絶叫してしまう。
いや、この流れであるとか、過去の付き合いから類推するに、おそらく彼は攫われた自分を助けにやって来たのだろうが、それにしたって登場の唐突具合に、条件反射で泣けてくる。
(な、なんでいんの!? なんでこの人、いつも気が付けば背後から迫ってくんの!? ってぇか魔力の威力や制御の精密さが、またまたレベルアップしてねぇ!?)
パニックのあまり、瞳に生理的な涙が滲んだ。
それを見たアルベルトは、いったい何を思ったか、ますます身にまとう冷気を強めてくる。そろそろ大陸が寒冷化しそうな勢いだった。
「無様に伸びている、そこの男。膝をついて、彼女に詫びてください、今すぐに。さもなくば――」
パチン、と彼が指を鳴らした途端、その背後でざっと靴擦れのような音が聞こえる。
その正体を理解して、レオはいよいよ卒倒しそうになった。
「我々魔力保持者、および紫龍騎士団ならびに私兵が、骨の一片も残らぬまで――あなたを殲滅する」
ぼうっと掌に魔力の光を掲げるアルベルトのすぐ傍らには、同様のポーズをしたビアンカやナターリア、侯爵夫妻、そして彼らが率いる大群の兵士たちが並んでいたのだから。
非戦闘員のはずのフランツやオスカーまでもが、険しい顔で手にナイフや弾薬を握っている。
ここにいるはずのない人々が一斉に現れたことに、レオは動揺を隠せなかった。
「な……っ、なな……っ、なん……っ」
と、それに気付いたアルベルトは、表情一転、労りと心配とを含んだ視線をこちらに向けてきた。
「恐ろしかったろう、レオノーラ。もう大丈夫だ」
いや、どちらかというか、かなり、あんた方のほうが恐ろしいんですけど。
一瞬で、それなりに高級であったろう建造物を爆破してみせた彼らに、レオはドン引きであった。
が、レオがそうして固まっている間にも、女性陣がぱっと保護に駆け寄ってくる。
「ああ、レオノーラ! 心配しましてよ!」
「わたくしたちとの約束にはまだ早かったけれど、念のためにフランツ様を尾行していて本当によかった……! おかげで異常にすぐ気付けました」
「正直、尾行中はほかの皆さまが邪魔だと思うこともあったけれど……市内を一斉に探索する権力と、制圧しうる武力を持ち合わせていたのは、今思えば幸運だったわ……!」
ビアンカやナターリア、そしてエミーリアの発言によって、レオは外出の初めから、大人数がぞろぞろと自分たちを尾行していたことを悟った。
(っていうか、俺が試着室に消えて、十分くらいしか経ってないと思うんですけど!)
それだけで異常認定されて、市内をしらみつぶしに探索されてしまうのか。
恐るべき警戒水準の高さに、つい顔が引き攣ってしまう。
とそのとき、視界の隅では、男性陣によってフエル・アドが捕獲されているのが見えた。
「立たぬか、私のかわいい孫を貶めんとした、性根の腐った怪物め」
「フエル・アド……! 解雇だけで見逃してやったというのに、こんな仕打ちがよくできるものだ……!」
素早く縛り上げるクラウス侯もオスカーも、無言で視線だけを飛ばすアルベルトも実に恐ろしくて、なんだかもうフエル・アドが、秒で爆殺されてしまいそうな感じがする。
ビジネスパートナー (※希望)の危機に、レオははっと我に返った。
「ま……、待って、ください……!」
「レオノーラ?」
ぎゅうぎゅうと抱き潰してくる女性陣を引きはがし、なんとか声を張り上げる。
一斉に振り向いた周囲に、レオは言い募った。
「彼は、悪い人では、ありません! 彼に、危害を、加えないで、ください!」
その手は、秘香を生み出す奇跡の手だ。
その頭は、レオの知らないビジネスチャンスを詰め込んだ儲けの宝庫だ。
髪一筋だって傷付けてはなるものかと、レオは必死だった。
「レオノーラ……。相変わらず、君という人は……。だけどね――」
「それはダメだ」
アルベルトが、苦笑交じりに諭そうとするのを、低く冷たい声がきっぱりと言い渡す。
声の持ち主は、オスカーだった。
「おまえの慈愛深さは理解しているが、けじめを付けるときは付けねばならない。おまえを殺しかけ、人生を狂わせたアリル・アドを許してはいけないし、その孫フエル・アドも俺からすれば敵だ。かけてやった温情を、仇で返すような真似をするなどな」
「そんな、……そんなの、厳しすぎ――」
「おまえが優しすぎるからこそ、俺のような人間が厳しく対処しなくてはならないんだ」
食い下がるレオを軽々あしらって、オスカーはさっさとフエル・アドを連行しようとする。
レオは我慢ならず、オスカーに駆け寄り、その腕に縋りついた。
「待って……待ってください! アリル・アドさんの、孫というだけで、そんなに、敵視されなくては、いけないんですか!?」
「その通りだとも。フエル・アドと言ったな。あの御仁によく似たその名前すら、俺は聞きたくないね」
「そんな……! すごく、素敵な、名前じゃないですか!」
レオは咄嗟に叫んでしまった。
オスカーの心にこそ響く名前だと思ったのに。
少し前に意識を取り戻したフエル・アドは、レオの叫びを耳にして目を見開いている。
(いかん、ちょい脱線した)
フエル・アドの視線で、軌道修正の必要性を感じたレオは、慌てて話を本筋に戻した。
「オスカー先輩。感情に、囚われて、大切な出会いや機会を、毛散ら……蹴散らしてしまうのは、とても悲しいことです。私は、涙が出そうなくらい、悲しいです」
「は、こいつとの出会いが大切なもんか――」
「大切です!」
強情なオスカーに業を煮やして、レオは声を張った。
「わかりませんか!? 彼は――先輩の苦しみを、癒す力を、持っているのですよ!?」
「なんだと……?」
要領を得ないでいる相手に、唇を噛んでしまう。
ここはひとつ、はっきりと、毛根を活性化させる秘香の保持者だと告げてしまうべきか。
(いやダメだ、さすがに人目が多い……)
レオは苦渋の判断を下し、結局ソフトな言い回しに留めることにした。
「彼には……医術と、調香の、心得があります。そして、今や彼だけが知る、秘香によって、……オスカー先輩。あなたが三年ぶりに抱えてしまった、その悩みを、根本から解決することが、できるのです」
「それはもしや……」
オスカーははっとしたように息を呑み、それから押し殺した声で問うた。
「カミラの……?」
「はい。この香を使えば、きっとすぐにカミラさんも、再び先輩と街を歩くように、なってくれるでしょう」
てっきり、「毛髪障害ゆえに妹から距離を置かれている悩み」だと取ったレオは、重々しく頷いた。
「断言、したって、いいです。彼は、不毛な不幸に終わりを告げ、ベルンシュタイン家に、再び光をもたらす……まさに、
「…………っ」
その力強い言葉に絶句したのは、誰あろう――フエル・アド本人であった。
ほとんど逆恨みのような理由で、彼が手を掛けようとした少女。
なのに、ほかでもない彼女が、自分のことを庇ってくれるなど。
(俺の名を……素敵だと……?)
ヴァイツに流れて三年、名を偽って暮らしてきたフエル・アド。
罪人を思わせる名は、彼にとって禍でしかなかったのに、よもやこの場所で、それを寿がれるなど。
(人に光をもたらす、名前だと、言った……)
フエル・アド。
エランドの古い言葉で――「輝かせる者」。
数年ぶりに認められたその意味は、悲運に酔っていた彼の心を、急激に目覚めさせた。
(俺は……俺は、なんということを……)
辻占や催眠術師に落ちぶれたときも、ここまで自らを恥じたことはなかった。
敵の孫を赦し、その名を寿いでみせる少女を貶めようとしていたのだと気付いた、今この瞬間こそ、彼は苛烈な恥辱を抱いた。
(俺は……っ)
ああ、今、目の前の少女が「無欲の聖女」と呼ばれる理由がよくわかる。
フエル・アドが顔を俯け、静かに涙を滲ませたその時、
「――その……、こういうのはどうだろう」
ふと、わずかに上ずった男の声が響いた。
のろのろと視線を向け、声の持ち主を理解する。
栗色の髪に、平凡な顔立ち。
やせぎすのその男は、オスカーの兄、フランツであった。
彼は、緊迫した空気に圧されながら、けれどゆっくり、慎重に言葉を紡いだ。
「レオノーラさん。あなたがそこまで言うのなら……ベルンシュタイン商会次期会頭の僕の権限で、彼を保護します」
「兄貴……!?」
「オスカー。これは次期家長の命令だ。逆らわないでくれ。君の情の深さは魅力でもあるけど、ビジネス上では欠点にもなりえる。時に感情を排してでも、合理的な選択がなされるべきなんだ。少なくとも僕は、彼――フエル・アドの持つという技術に、確かに興味をそそられている」
ここ三年で磨き上げた商人としての自信が、フランツの言葉に重みを持たせていた。
細身の彼からにじみ出る気迫に、オスカーは黙り込み、アルベルトでさえ軽く目を瞠る。
フランツはひとつ頷くと、決定事項のように告げた。
「彼の秘香を使わせてもらおう。それで我が家の悩みが解決するなら、彼は恩人であり、優れた技術を持つ職人だ。当然遇さねばならない。もし解決しないなら――その時、対処すればいいことだ」
「フランツさん……!」
見事な捌きっぷりに、レオが感謝と尊敬の眼差しを向ける。
すると、フランツは顔を真っ赤にし、それから珍しく、ウインクを決めてみせた。
「まあ……どんなわがままでも叶えると言ってしまったし、外出時間もちょうど終わってしまったし。彼をお土産に、屋敷に戻ろう」
両目を瞑ってしまう、実に彼らしいウインクであった。
***
ベルンシュタイン商会が、ある頃からエランド文化や技術を積極的に取り入れ、一層の隆盛を誇ったのは、つとに知られた事実である。
そのきっかけが、エランドの調香技術によって、家人の病が完治したことにあったという事実も、歴史に詳しい人物にとっては常識だ。
が、その番頭を務め、「ベルンシュタインの西方の要」と呼ばれた人物が、かつて「無欲の聖女」を害そうとした人物の孫であるという事実は、意外にもあまり知られていない。
それというのも、その人物はエランド出身でありながら、ヴァイツ人以上にレオノーラ・フォン・ハーケンベルグに傾倒していたからである。
彼は、聖堂暮らしを続ける彼女のことを敬慕し、その暮らしに不自由が無いよう、常に心を砕きつづけたという。
同時に彼は、自分に活躍の場を与えてくれた、フランツ・ベルンシュタインへの敬意を忘れず、いつごろからか、彼を「シーゲル」――古いエランド語で「本物」の意味――と呼びはじめた。
名は体を表して、ということか、フランツはよく時流を見極め、ときに弟のオスカーが感情に流されそうな際にはそれを戒め、商会を一流の座に押し上げた。
ベルンシュタイン商会の隆盛を、陰から支えたその者の名は、フエル・アド。
古き言葉で「輝かせる者」の名の通り、その技術と熱意によって、商会の黄金時代を導いたという――。
明日、おまけにもう1話投稿します。
ご要望の多かった、アルベルトとの恋愛(※あくまで第3者視点w)エピソードを、怪談仕立てで。