第五章 「旭日旗VS赤竜旗」
日本国内基準表示時刻10月10日 午後1時27分 東京 防衛省
「――――植草統合幕僚長、入室いたしました」
副官の声に続いて、最後に着席した植草紘之 統合幕僚長が会議席の上座から見渡した先では、両側に居並ぶ将官や幕僚が、緑、黒、そして青の制服の壁を作っていた。
自分の間近の席からこちらを凝視する三人の将官に、植草は目を細めた。彼自身も歴戦の勇士である植草にさえ、この場で顔を合わせる度に緊張を強いる彼らこそ、陸自の緑、海自の黒、空自の青を代表する男達だった。
陸上幕僚長 陸将 松岡 智
海上幕僚長 海将 藤堂 義雄
航空幕僚長 空将 桐原 健史
元空挺部隊。短く刈り上げられた白髪、赤銅色の肌も厳しく、制服に大柄な体躯を包んだ威丈夫の陸幕長。精悍な顔立ちに口髭の似合う紳士然とした潜水艦隊出身の海上幕僚長。彫りの深い顔立ちの上に、口元にニヒルな笑みを浮べている空幕長には、植草は戦闘機パイロットとして駆け出しの頃に散々鍛えられた記憶がある。
……その彼らこそ、もし有事に突入した場合に各隊を率い存分な働きを示してくれる男達だった。
「幕僚長、全員参集いたしました」
と、植草に向き直った主席副官の篠 美里 三等陸佐のメゾソプラノが会議室に冷たく響き渡る。それが合図だった。植草は無言で頷くと、就任以来今回で18度目となる内局調整部会の口火を切った。
「……所用とはいえ、私自身が遅参したのはまことに遺憾に堪えない。では、早速始めよう……陸幕長、部隊再編の進捗状況はどうか?」
松岡陸幕長が、いかつい顔もそのままに植草に向き直った。
「現在スロリア東端のPKF各拠点に展開を完了している部隊は北部方面の第七師団および中部方面の第十師団、西部方面の第八師団の三つです。広報にはノイテラーネとの国際協力協定に基づく転地訓練と発表させておりますが、擬装である事が周知されるのも時間の問題でしょう」
「当然だ……移動もこれだけ大規模だと隠し切れない」と、幕僚達の間から声が漏れる。
一方で、松岡の報告は続く。
「……同時に、北部方面の第11旅団および東部方面の第12旅団もまた、主力地上部隊が展開を終え次第、増援と言う形で速やかにスロリアへ移動させます。有事の際、スロリアの地理的状況下で作戦行動を遂行するにあたり、これら二個旅団の機動力は必須と判断されました」
「第12旅団はともかくとして、第11旅団まで動員するのか……」
驚愕と感嘆の入り混じった声は当然のことかもしれない。第11旅団及び第12旅団は兵員数を2~3000名前後にまで圧縮し、その一方で輸送手段たるヘリコプター部隊を拡充させたことで、長距離かつ迅速な機動能力を付与した「空中機動旅団」だ。その虎の子といえる空中機動旅団を、それも二個一辺に外地へ投入するということ自体、穏やかな話ではなかった。
「また、10月11日を以て東北方面の第九師団に動員令をかけ、転地作業は即日開始します。同時に中部方面の第13旅団に待機甲を発令し、有事勃発の際の海上移動に備える予定です。また同じく中部方面の第2旅団でありますが……現況ではこれと
今回の有事では、その
桐原空幕長が挙手し、質問した。
「有事の際における第七師団の役割についてお伺いしたい」
第七師団は北海道防衛における機動打撃作戦を主任務とした陸自唯一の機甲師団である。陸自随一とされる戦力規模、火力共に今次の作戦で強力な敵地上軍を相手にするにあたり、欠くべからざる戦力だった。現在進行中の「転地訓練」の開始を発動した際、真っ先に移動が下令された部隊であることからも、その重要度は窺い知れようというものだ。
松岡は咳払いし、資料を捲りつつ言を進めた。
「第七師団は有事の際、増強を得て第71、72の二個機甲旅団に再編されます。これら二個旅団は戦闘勃発と同時に敵勢力圏下に突入、機動打撃を以て第八、第九、第十師団の進撃を援護し、スロリアにおける地上作戦の主軸となります」
「有事の際、スロリアにおける陸上自衛隊の総投入兵力は?」と、植草が聞いた。
「戦闘に従事する正面兵力だけで42000、これ以外に補給、整備、交替要員など長期の作戦遂行に必要な人員を加えますと、総兵力は60000前後に膨れ上がると試算されます」
期せずして、驚愕の溜息が漏れる。10000以上の大兵力、それも実戦部隊を国外に派遣するなど、自衛隊開闢以来の大事件だった。
「……宜しい」
植草は、藤堂海幕長に目を向けた。
「藤堂海幕長、南スロリア沖における敵海軍戦力の動静はどうか?」
「現在当該海域には四隻の潜水艦を配置し、遊弋する敵艦船の掌握に努めております。我が海幕は、うち一隻をスロリア西端のノドコール方面まで浸透させ、敵艦隊の母港近海で監視活動に当たらせております」
「……成果は?」
「これら情報収集活動により、現時点で判明致しましたことは、スロリア方面に展開する敵海軍の戦力規模です。大型巡洋艦四隻、駆逐艦八隻、フリゲート五隻、潜水艦四隻、他、警備艇及び小型の快速機動艦艇が三〇隻前後。スロリア沖には大型水上艦を主力に常時六~九隻、潜水艦二隻が
「察知されてはいないだろうな?」
「これまでのところ、そのような気配を伺わせる報告すら入っておりません」
植草は大きく頷いた。今更確認するまでもなく海自潜水艦隊の技量が高度なものであることぐらい、彼も良く弁えている。
「藤堂海幕長、護衛艦隊は有事の際、これらの敵艦隊を予想戦闘海域より排除できるか?」
藤堂は無言で、三本の指を突き出した。
「三時間……三時間頂ければ、護衛艦隊はそれら敵艦隊を完膚なきまでに殲滅して御覧に入れます。但し、敵の来援を考慮に入れればその限りではありませんが」
一座から笑いが漏れた。誰もがきっと、「前世界」の日露戦争の際、時の明治天皇の御前で敵艦隊撃滅という大啖呵を切った東郷平八郎連合艦隊司令長官の逸話を連想したのに違いない。
「よし藤堂君、その言葉をまた、官邸に行ったときに総理の前で口に出してもらおう」
植草の言葉に、一座から再び笑いが起こった。
「桐原空幕長、侵入及び阻止攻撃訓練の進捗状況をお伺いしたい」
「F-15EJ及びF-2によるH空域における夜間低空侵入訓練は、これまでに一度のトラブルもなく順調に進捗を重ねております。まあ、困難らしい困難と言えば、地元住民との折衝ですかな。訓練空域から相当離れているはずなのに、騒音で眠れなくなったとか、赤ん坊が泣き止まないとか、挙句の果てには鶏が卵を産まなくなったとか……うちの広報もこうした苦情への対応にはおおわらわですよ。ちなみに、敵基地への侵入経路策定のためのシミュレーションも始まっております。まあこれは机の上でパソコンと睨めっこするというのが大半で、効果の程を確認するのには本番しかありません。それに天ヶ森(射爆場)では狭過ぎて低空侵入爆撃なんて出来ませんから」
「技量の向上具合は?」
「訓練状況を見た限りでは、各基地に必ず二、三人は、目を瞑ってでも低空突破可能と言い張るパイロットがいる。それぐらい、我が方の練度、士気共に上がっておる。本官も二三度参加しましたが、さすがにあれは技量以前に根性の有る無しが問われる訓練ですな……ところで、幕僚長にお伺いしたいが……」
桐原空幕長の眼が、険しくなった。それが真剣な話をする時の彼の眼であることを、植草は長年の付き合いから知っていた。
「本官としては連中の努力に報いるためにも、これだけははっきりとさせておきたい。植草さんは、Xデーは何時を想定しておられるのか?」
その瞬間、場から活気が消え、緊張へと鮮やかなまでに移り変わるのを覚えたのは、植草だけではなかったはずだ。場の緊張を解くかのように咳払いすると、植草は言った。
「……実は、私が遅参した理由がそれだ。今次の部会の直前、私は総理官邸に赴き、桃井閣下を交え神宮寺総理と調整を行ってきた」
「調整……?」
と、松岡が怪訝な顔で呟く。
「今のところ隊の主力はスロリアに指向しているが、政府としてはあくまでも、最後まで事態の平和的解決という選択肢を捨てない方針である。早ければ今月末、遅くて来月初旬にも、ローリダとの新たな外交交渉が持たれることになるだろう。外務省が現在その交渉開始を、第三国を通じ打診している状態だ。来週には結果が出るらしい。もし順調に交渉へ進んだとして、それが大体合意を見るか、または決裂するのが11月の末となる……」
「……ということは、12月?」
植草は頷いた。
「明言は出来ないが、そうなるだろう……あくまで、交渉が決裂すればの話だ」
――――部会を解散させ、皆が散った会議室に只一人残り書類の整理をしている植草に、篠 三佐は躊躇いがちに質問した。ローリダ軍の上層部もまた、今頃此方と同じくあくせくと会議をやっているのだろうか?……と。
「それはどうかなぁ……」
書類を纏めながら植草はぼやいた。
「彼らなら我々より先に会議を切り上げて、今頃派手に戦勝の前祝でもやっているのかもしれんね」
ローリダ国内基準表示時刻10月11日 午前11時23分 首都アダロネス 建国広場
重厚な造りの殿堂を背景に金望鳥の群れが舞い上がり、金箔の吹雪と花びらの降り注ぐ下を、見渡す限りに観衆が埋め尽くしていた。
群集の関心は、11時を回った頃から、建国広場に面する大通りを通過する隊列に注がれている。銃を構え行進する兵士、規則正しく列を為し通りを行く車列。そして林の如き砲列……それらを目の当たりにしたある者は自国の軍事力の圧倒的なることに陶然とし、ある者は現下の戦役における自国の勝利を確信する。そしてまたある者は、隊列の中に海を越えた前線へ赴かんとする親類縁者の姿を認めんと眼を凝らしていたのだった。
やがて行進は深紅の礼装も眩しい乗馬姿の騎兵へと変わり、沿道に集る観衆の興奮は頂点へと達した。ローリダ国防軍でも良家の子息、さらには容姿端麗な美男子の集る近衛騎兵連隊はアダロネスの女子供の憧れだったのだ。
『ご来場の皆様、只今の行進は、近衛騎兵連隊です。連隊旗手は……オイシール‐ネスラス‐ハズラントス少尉……!』
爽やかな女性のアナウンスは、抜けるような青空一帯に染み透るかのように響き渡る。それに空を切るジェットエンジンの轟音が続き、馴れない者の耳を苛むのだった。そして爆音は容赦なく地上を舐めるように近付いてくる。
群集の祝福に包まれた隊列の上空を、デルタ翼も煌びやかな戦闘機の三機編隊が三群、凄まじい速さで航過していったのは、そのときだった。ゼラ-ラーガはローリダ国防軍空軍の最新鋭戦闘機だった。当初の予定ではこれらゼラ-ラーガを擁する首都圏の戦闘機隊も、スロリアにおける対日戦に投入される予定だったが、「弱小なニホン軍相手に新鋭機は不要」という元老院からの反対意見の下、最終的には撤回されている。
――――その中の一機が、自分の士官学校以来の友人エイダムス‐ディ‐バーヨ大佐であることを、広場一帯を見渡す位置に設けられた貴賓席に身を置くルーガ‐ラ‐ナードラは知っていた。国防軍総司令部付きから実戦部隊たる第一飛行師団に戻ったとはいえ、司令部将校たる彼がおおっぴらに戦闘機を操縦できる機会はこの時を置いて他になかったのだ。
根っからの戦闘機乗りたる彼にとっては、式典における展示飛行は願ってもない機会だったのだろう。展示機のパイロットを選抜するのに当たり、彼は半ば職権濫用にも等しい熱心さ(強引さ?)を発揮し、編隊長の座に自分の名を捩じ込んだと聞く……編隊が蒼穹の一点へ駆け抜けて行った瞬間、その噂を思い起こし苦笑にも似た微笑を禁じえないルーガ‐ラ‐ナードラだった。
確かにその日は、素晴らしい日だった。出征式典―――――残虐非道なるニホン軍を掃討するべく、勇躍戦場へ赴く増援部隊の将兵を、歓呼と祝福と共に送り出す記念すべき日!……将兵を送り出す誰もが胸を張り、笑って兵士達を送り出せるはずだった。
だが……こうしてこの華やかな瞬間に辿り着くまでの道程が、政治の場において数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの打算と欺瞞、そして醜い論難の応酬に汚されていったかを想起するに当たり、少なからぬ暗然を覚えざるを得ないナードラもまた存在していたのだった。
―――――過日、第一執政官たるギリアクス‐レ‐カメシスが元老院に上程したスロリアへの国防軍追加派遣案は、疑問と怒声とを以てその場の半分の議員達に迎えられた。
批判の急先鋒となったのは、主に一部の騎士階層、そして学者層出身の議員から為る「平民派」だった。国内経済を圧迫するものとして際限ない軍備拡大とこれ以上の「解放戦争」の拡大に反対し、国政の刷新と階層間の経済格差の是正とを主張している彼らにとって、カメシスの案は国内経済の疲弊を一層に招くものに映ったのである。
さらには、スロリア進攻の第一段階が終了しかけた直後に勃発したノドコールにおける植民地現地種族の騒乱が、彼らの反対論に勢いを与えていた。彼らの追及をかわすために、カメシスは参考人としてデルフス‐リカ‐メディス ノドコール総督を招致し、公聴会を開く約束をしなければならなかった。それでも平民派の勢いは留まるところを知らず、増派反対派の急先鋒たる民部省民生保護局長官 ロルメス‐デロム‐ヴァフレムスはこれ以上の進攻を「時期尚早」と主張し、植民地の治安維持優先のため前線を大幅に後退させる提案を行い、カメシスを始めとする「閥族派」の反発を買った程だ。
また、ヴァフレムスと並び「平民派」の巨頭たるデロムソス‐ダ‐リ‐ヴァナスは、発言を許可された壇上でこう捲し立て、閥族派の更なる憤激を煽った。
「……手段が目的化している現況を、第一執政官閣下においては如何にお考えか? もはや戦争は、当初の崇高なる自由の理念は元より、圧制に喘ぐ諸種族の解放と教化のために為されるに非ず。我が共和国においては、戦争はもはやその行為自体が下賎にして貪欲なる経済行為である。だが、その利潤に与る者を労せずして醜く肥え太らせる一方で、戦争をする費用と人命の一切合財を負担した平民には、もはや流すべき血も汗も、そして涙もないのだ……!」
彼がそう言い放つや否や、平民派の喝采と閥族派の怒声に騒然となる議場の一席で、ナードラは議席の一角に眼を凝らしていた。その緑色の瞳は、反対派の演説に憮然とする第一執政官と、その傍らで開会時から無言のまま両派の遣り取りを伺っている、この場で唯一の軍服の男を映し出していた。第一執政官カメシスと共和国国防軍の最高実力者ドクグラム。今回の出兵案が両者の意図の一致の末に提起されたことを、ナードラは既に悟っていた。そして、その意図が、スロリアの戦局とは全く関係のないところで形成されたということも―――――
ナードラもまた、自分の友人の良人たるヴァフレムスと同じく、今次の増援案に賛同する者ではない。少なくともひとつ、スロリアから目ぼしい「脅威」が一掃された現在、これ以上、それも有力な首都防衛のための戦力を削いでまで増援を送る正当な理由はないという点で、彼女はヴァフレムスたちと同意を見ていたのである。
スロリアから追われたニホン人が、残存戦力(碌な装備を持たない「ニホン軍」に、そのようなものが在るのかどうか、ナードラたちには疑念を抱くまでも無かったが……)を糾合し反撃に出るという観測もあるにはあったが、議会の先日に外交部よりもたらされた報告は、彼女と他の議員達にそれを打ち消させた―――――あれほど体面を傷つけられ、多くを奪われてもなお、東の涯に住むあの種族は、こちらとの外交交渉を打診してきたというのだ……!
それはナードラたちにとって、まさに拍子抜けという表現では到底間に合わないほど間の抜けた対応に見えた。まったくニホン人は、何を考えているのか?あれほど愚弄され、挑発されても、剣を取る素振りすら見せない惰弱な敵など、ローリダでは侮蔑の対象でしかない。むしろ生存する価値すら無いと見做される。そしてニホン人は、自分達の前で現在に至るまでその「惰弱な敵」を演じ続けている。
――――その外交交渉が議題に上るや、俄然議場は勢い付いた。口火を切ったのは、富豪で、どちらかといえば中立的な立場にあるクルセレス‐ド‐ラ‐コトステノンであった。私生活ではナードラの祖父ルーガ‐ダ‐カディスの親友であり、肥満した体躯に劣らず抱擁感ある性格の彼を知るナードラは、微笑みと少なからぬ興味と共にのっしのっしと壇上へと歩く彼を見送るのだった。彼の皮肉の利いた言い回しは、現在病気療養中のカディスの舌鋒の鋭きことと同じく、元老院では有名だったのである。
開口一番、コトステノンはその巨体を揺すり、声を張り上げた。
「哀れにもニホン人はこれ以上の継戦能力を持たぬがゆえに、外交交渉を以て時間稼ぎを図らんとしているようだが、これに関し先ず、親愛なる第一執政官閣下のご見解を伺いたい」
それはあまりにも唐突な言い回しだったが、核心を突いたものであるように場の多くには思えた。確かに一連のニホンの反応は、交渉でどうにか反攻体勢を整えるまでの時間稼ぎとしか考えられない。コトステノンと対面する壇上に立つカメシスもまた、咳払いをしつつ彼の意見に同意を示して見せた。
「貴公の意見に私は同調を見るものである。確かに彼らは、武器無き戦を挑むことにより、来るべき敗北の遅延を量っているようだが、我が共和国の正義はそれを許さぬ。それに、彼らには彼らに相応しい懲罰を与えることこそ、より高等なる文明を持つ我等の当然の対処であると私は考える」
「……では、彼らの誘いに敢えて乗るのも、文明人として正当なる対処とは言えぬかな?」
「何と……?」
怪訝な表情を隠さないカメシスを前に、コトステノンは堂々と持論を展開して見せた。
「彼等がいたスロリアに我等が攻め込んだのと同様、今度は我等が彼らの試合場で戦うのだ。正確に言えば、戦ってやるのだが……」
「……で、せめて一度なりとも勝ちを与えようというわけかな? 東方の異教徒どもに?」
コトステノンは首を横に振った。
「私は何も彼らのルールで戦えと言っているのではない。我等は彼らの試合場に足を踏み入れさえすれ、最後まで彼らのルールに縛られる必要はない。幸いにも、精強なるドクグラム閣下の国防軍が敵軍の主力を殲滅してくれたお陰で、ルールが気に食わなければ何時でも試合場を降りる権利を我等は有するに至った。彼らとて、我等が自分達の試合場を降りたときが、自らの死刑執行書に記銘するときと知っておろう……ここまで言えば、私が言わんとしていることは賢明なる元老院議員諸君にはお解かりとおもうが」
期せずして議場の各所から感銘の声が上がった。一方で、「ドクグラム閣下の国防軍」とは、ドクグラムによる国防軍の私物化の甚だしきことを皮肉った言い回しだったが、ナードラを始め極少数の議員以外それに気付いていない。
「……なるほど、戦争ではなく交渉で多くを要求すればよいというわけか」
「……それなら、無駄な血を流さずとも我等の目的は達せられよう」
議員達は口々に語り合った。それは戦争を回避したい平民派と、主戦論に奔る閥族派の、両者の要望を完全なまでに満たす意見のように思われたのだ。反応を確かめようと、ナードラは壇上に立つ第一執政官を見遣った。その苦虫を噛み潰したような顔は、彼が眼前の対論者の意見を歓迎していないことを何よりも物語っていた。
そのようなカメシスの表情に気付く素振りも見せず、コトステノンは溢れんばかりの笑顔を彼に向けた。溶けかけたラードのようにたるんだ頬と豊かな二重顎は、彼の笑みに威厳ではなく愛嬌を与えていた。
「親愛なる第一執政官閣下、閣下は今、歴史書に名を残す好機にあるのですぞ。戦を以てせずに敵国に勝利した偉大なる指導者としてね……」
「…………」
カメシスは、押し黙った。議場の誰もが大勢は決したと思った。自分達の第一執政官がこの期に及びどのような論を以て出兵論を肯定しようとするのか、今ではそれが誰もの関心の対象だった。
返答に窮した執政官が、議場にもたらした気まずい沈黙……それを破ったのは、意外な人物だった……あるいは、共通の利益を分かち合う者を助けるための当然の対処か。
「発言をお許し願いたい」
重厚な声で議長に発言を求めたのは、ドクグラムだった。軍人らしい、確固とした歩調を崩さずに壇上に進み出る赤い軍服。その彼がカメシスから壇上を譲られた瞬間、二人が微妙な視線で目配せするのを、ナードラは見逃さなかった。
壇上に上がると、ドクグラムは第一声を放った。
「議員諸君……!」
よく通った声を上げ、彼は議席の連なる周囲を見回した。一面白を基調とした大理石造りの議場、その中央に設えられた対論用の壇上から見上げる限りに、議席に腰を下ろした議員達が鈴生りに視線を注いでいる。ドクグラムが自らを取り巻くその周囲に睨みを利かせた時点で、彼の対論の相手がコトステノンではないことは誰の目にも明白となる。
「理性と緻密な政略とやらに基づく意見は、十分に拝聴させて頂いた。だが残念なことには、それらを生かすべき猶予はとうの昔に過ぎ去っておるということであります……!」
固唾を呑む議員達の反応を確かめつつ、ドクグラムは論を進めた。
「将官から一兵卒に至るまで、過酷なスロリア戦線を戦い抜いてきた前線の将兵が今何を一番望んでいるのか、この場の諸子にはお判りか? 本職には判り過ぎるほど判っている。諸君らがこうして自論を闘わせている間にも、本職の元には、さらなる進撃を切望する前線の将兵の手紙が続々と舞い込んで来ておるのです。彼らは口々に本職に訴える。東に進撃し、圧制よりスロリアの民を救うのには今しかない……と!」
もはやその場にドクグラム以外の言葉は存在していなかった。主戦派はもちろんのこと避戦派ですら誰もが押し黙り、この場で唯一の現役将官の言葉を見守っていた。
「現地を直に見、死線に身を置いてきた彼らの言葉は、善き弓の如くに正しく、キズラサの神の如き真摯さを以て本職に語り掛けてくる。我々が今現在、こうして空理空論に現を抜かしつつある今も、悪逆非道なるニホン人はスロリアの東部で圧制を強め、多くの無辜の現地住民が彼らの暴虐に喘いでいるであります。彼らを圧制の桎梏より解放し、生きる途を与えることが出来るものは議論でも交渉でもない、我等国防軍の進撃以外に存在しないことをこの場の諸君にはまず銘記して頂きたい!」
厳然とした表情を崩さず、議場の一点をドクグラムは指差した。何時の間にか入場し、議場の一隅で議員達の応酬を見守っていた女性の司祭には、ナードラは見覚えがあった。
「サフィシナ……」
ナードラの友人にして、キズラサ教会の司祭職たるサフィシナ‐カラロ‐テ‐ラファエナスは、その傍らに一人の少女を伴っていた。その服装はローリダの少女特有のものであったが、その顔立ちは明らかにスロリアに住む種族のそれだった。議場の誰もが固唾を呑む中を、サフィシナに付き添われ、少女は議場の中央へと進み出た。ドクグラムは壇上を降り、作り笑いもそのままに少女にそれを譲る。サフィシナとナードラの視線が交錯したのは、その時だった。
「元老院の皆様……私はサフィアナ‐ルシルと申します」
その発音こそぎこちなかったが、少女は見事なローリダ語を話した。そして少女が名乗ったのはローリダ風の名前であることぐらい、ナードラならずとも直ぐに察しが付く。
少女は、凛とした顔を上げて言った。
「私には、スロリアに父と母と……弟がいました。あの忌まわしい時が来るまで、私達家族は何不自由なく、平和に暮らしていたのです……あのニホン人が私達の土地に土足で踏み入る時が来るまで」
沈黙の質がドクグラムの時のそれとは違い、一層重みを増したかのように思われた。咳払いの音がはっきりと捉えられるほど、議場は静まり返り、槍のように向けられた視線を前にしても、少女は無表情のまま、平然と言を進めるのだった。
「……ニホン人は、私から全てを奪いました。ニホン人は彼らの神殿を造るのに邪魔だと言っては私達から家と畑を奪い、それらをみんな焼き払いました。抵抗した父はニホン人に散々にいたぶられ殺されました。ニホン人は父の手足はもちろん、耳や鼻に至るまで削ぎ落とし、両目を潰しました。そして最後には私の父はニホン人に首を切り落とされ、首は塩漬けにされたのです……」
沈黙はやがて悲痛さを孕んだ緊張となり、緊張は渦となって議場を漂い始めた。話を進める少女の声に、湿っぽい何かが混じりつつあるのを、誰もが聞いた。
「……母はニホン人に私の目の前で散々嬲られた後、油をかけられて生きながらに焼き殺されました。弟は……私の弟は……未だ乳飲み子だった私の弟は、母の手から取り上げられ、私と母の目の前でニホン兵の銃剣で何度も……何度もお腹を抉られ、苦しみながら死んでいったのです……!」
「…………」
少女を見詰める緑の瞳には、愕然と義憤とが渦巻いていた。ナードラは声と肩と、そして足とを震わせる少女の姿に眼を凝らし、そのたどたどしい一句一句を逃すまいと自然と耳を凝らすのだった。そして更なる衝撃は、少女の次の言葉に待っていた。
「……私の弟だけではないわ……親戚の赤ちゃんも……村中の赤ちゃんも全員、生きながらに刺し殺され、焼き殺されていきました……赤ちゃんだけではありません。お腹に赤ちゃんのいる女の人は皆、ニホン兵の銃剣にお腹を切り裂かれ、ニホン兵は引き摺り出した赤ちゃんを面白半分に突き刺しては遊んでいたのです……中には……赤ちゃんを生きながらに食べる兵士もいました……!」
そこまで声を振り絞るや否や、少女はその場に蹲った。一人の議員が弾かれたように立ち上がり、憤怒の表情もそのままに捲し立てた。
「これは許せんっ……戦争だ!」
それが合図だった。先程の避戦ムードは忽ち何処かへ追いやられ、議員達は立ち上がって口々に叫び、そして喚き、ニホンへの敵意と戦いの準備を唱えたのだ。
「スロリアに軍隊を送ろう……!」
「ニホン人に復讐せよ! 蛮族に神の裁きを!」
「獣どもをスロリアから叩き出そうっ……!」
怒りの声に導かれるようにドクグラムは再び登壇すると、声を振り上げた。
「賢明なる議員諸子にはもうお解かりのはずだ。現在スロリアを蹂躙し、数々の筆舌に尽くし難い暴虐に手を染めておるのは人間ではない。人間の皮を被った悪魔である。獣である。獣に対しては獣に対するようにせねばならない。それが真の文明人たる我等の行いうる当然の行為である。そのためには我々はあの連中に対し、我等が文明の圧倒的なること、我等の信仰の正義なることを獣どもに示さねばならない……願わくば、いたいけな少女の悲惨なる経験に報いんためにも、少女から全てを奪った東方の蛮族に徹底的な業罰を与えんためにも、議員諸子には賢明なる決断を示されんことを……!」
「…………!!」
割れんばかりの拍手を歓声が、彼への反応だった。議員の中には壇上の彼に駆け寄り、握手を求める者すらいた。議員の多くが増援と報復を叫び、ドクグラムへの支持を叫んだ。そうでない議員である者は苦々しげに、空気を変えることに成功したドクグラムを見遣り、またある者は不機嫌なまでの沈黙に身を任せるだけだ。
……燃え上がるような高揚感に占拠された議場の中、泣き崩れ、両手で顔を覆いながら議場を後にする少女を庇うように抱くサフィシナと、無言のまま少女の後姿を見送るナードラの眼が合った。だがそれはナードラにとって、一体感に包まれた議場の空気にはあまりに不自然なものに見えたのだ。
「……?」
少女を抱きながら振り向いたサフィシナの眼は、笑っていた。
――――元老院において、近衛軍団を主力とするスロリアへの増加派兵案が圧倒的多数で可決されたのは、それから三〇分後のことである。
数日前のサフィシナの笑顔の意味を、ナードラがその脳裏で持て余す内に、出征する隊列はその中程を行進曲「乙女は鉄騎兵の献身を愛せり」の勇壮な響きに包まれていた。「鉄騎兵」――――それは、ローリダにおいては戦車隊と戦車乗りの愛称を意味する。そして「乙女は鉄騎兵の献身を愛せり」は、ローリダ共和国国防軍でも唯一にして、最強の部隊を迎えるための楽曲だった。
『……皆様、御覧ください。只今行進しているのは赤竜騎兵団に属する機甲偵察大隊の軽装甲車です……!』
隊列を先導する軽装甲車の一群。その後に続く自走砲、自走多連装ロケット砲、自走対空機関砲の列……赤竜騎兵団はその正面装備の全てにおいて他の部隊より抜きん出た機動力、そして装甲を付与されている。榴弾砲の長大な砲身を掲げて行進する自走砲の隊列は、ナードラには古の装甲歩兵の進軍を思わせた。その胴体と一体化した砲塔には、所属を示す赤い竜の紋章。車列が来賓の集る壇上の前を通過する瞬間。砲塔から半身を除かせた乗員たちが一糸乱れぬ挙作で敬礼を送った。
機械化砲兵の列が過ぎ去り、次に現れたのは、戦車の車列だった。これまで壇の前を通過してきた車両に比して車高は低く、幅の広い無限軌道は像の如くしっかりと地上のアスファルトを踏みしめている。半球状の砲塔から天を仰ぐ滑空砲の砲身と対空機関砲の組み合わせが、見る者に張り倒されるかのような威圧感を与える。それこそが、共和国最精鋭たる赤竜騎兵団の「主役」だった。
『皆様の前を行進しているのは、ガルダーン戦車。共和国国防軍の最新鋭戦車です。その装甲、火力ともに列国の戦車の水準を遥かに越え、快速を以て荒地を走破できる性能を持っています。共和国陸軍の勇敢なる鉄騎兵は、この名馬を以てスロリアの平原を疾駆し、必ずや敵を撃破蹂躙することでしょう』
濃緑色に包まれたその車体は、まさに緑色の甲を纏った、鋼鉄の肉食獣だった。沿道の観衆、そして壇上の貴人や将官はその威容に目を見張り、今次の戦役に於いて共和国の優位なることを確信する。
「素晴らしいっ……!」
と、子供のように壇上から身を乗り出し、第一執政官カメシスは甲高い声もそのままに叫んだ。
「ドクグラムよ、この赤竜騎兵団が乗り出してくるからには共和国の勝利は間違いあるまい。弱小のニホン兵相手にはいささか役不足ではあろうが」
観閲という名の見物に夢中になっている執政官をあやすかのように、ドクグラムはカメシスの耳元で耳打ちした。
「閣下、国民が望んでいるのは単なる勝利ではありません。圧倒的な勝利です。その点お忘れ無きよう……」
「わかっておる。それに、最新鋭戦車に戦いの場を与えてやらんと、破産する者が少なからず出るからのう。この際仕方が無るまい」
そう言って、カメシスは皮肉っぽいにやけ顔で、自分の背後に控える面々を見遣った。彼の眼差しの向こうでばつ悪そうに苦笑する軍需産業の面々は、開発価格の高騰を理由に財務部に圧縮されたガルダーン戦車の調達数を、スロリアへ派遣することで得るであろう戦場での実績を元に増やしてもらうよう、カメシスに働きかけていたのである。無論、「戦場での実績」が認められ受注額が増えれば、その内の少なからぬ額がカメシスの懐に転がり込むという寸法であった。受注額の増加は当然、機甲部隊の拡充を図りたいドクグラムをはじめとする軍部の意向とも合致する。
司令部戦車小隊の先頭集団が観閲席の真正面に差し掛かった瞬間、先頭を行く戦車の砲塔に陣取る機甲軍装の将官が機械的なまでの動きで壇上に敬礼を送った。彼に続き、後続車両の装甲兵が一斉に敬礼を送る。将官にしてはあまりに少壮との観を免れない青年の敬礼に、ドクグラムは背を正して答礼し、慈父の如き眼差しで微笑みかけるのだった。
「ほう!……あれがドクグラム家の婿殿か?」
「我が娘婿にして、赤竜騎兵団司令官のヒダナス‐ルーカ‐ファヴリリアスに御座います。執政官閣下に置かれましては、以後お見知りおきを」
カメシスは満足気に頷いた。
「わかっておるわかっておる。戦場から帰った暁には、相応の地位を以て報いてやらねばなるまい。わしと貴公の仲だ」
打算と目算との渦巻く観閲席の眼前で、戦車隊の行進はさながら鋼鉄の奔流と化し、未だ絶える事を知らないかのようであった。
……談笑する執政官と軍の最高実力者を遠目に見遣りながら、ナードラは午後から開かれる外交部会に思いをめぐらせていた。そこでは第三国を経由しもたらされたニホンからの外交交渉の打診に、如何に応じるかが討議されるはずであった。だが、結論は既に出ている。部会で論じられるのが外交交渉に対する具体的で、かつ紳士的な返事ではなく、ニホンを追い詰め、絶望的な反撃へと駆り立てるために突きつける要求の、具体的内容となることは決まりきっている。
……この期に及んで、今更どうするつもりなのだ。ニホン人……?
「転移」以降20数年を、
周辺国に戦いを挑み、これを征服するのに当たって共和国の方針は徹底している。まず、国内のあらゆる報道媒体を総動員して相手国の卑劣なること、非文明なることを喧伝し、国民の目をその「外敵」へと向けさせ、強硬な世論を形成する。翻って外交ではあらゆる無理難題を突きつけ、計略を駆使することで相手を追い込み、向こうに先に戦端を開かせるのだ。決してこちらから打って出るようなことはしない。
そうすれば、「敵の無法な攻撃」を受けたローリダは、反撃への正当な名分を得ることが出来る。そして事実、ローリダはこれら巧妙な外交攻勢を駆使し、他国に抜きん出た強大な軍事力を後ろ盾に、過去十年の内に行われた全ての戦役をそのように進め、その悉くに勝利し、周辺国を支配下に置いてきたのだ。
ローリダに追い込まれ、滅亡への途を
それらが決して好意的、もしくは同情的なものであったかというとそうでもない。滅び行きし国々、そして種族に対するに当たりナードラの抱いた感想は大体が一致を見ている――――曰く、彼らは弱きゆえに、滅びるべくして滅びたのだ。
では……今現在、我等の前に立ちはだかっているニホンはどうか?
『あなたの国には、戦意を持たぬ外国の代表者を武力と脅迫とを以て遇する伝統があるのか?』
かつて手を下したニホンの指導者が彼女に問いかけた言葉が、今となってはナードラからその相手を論評する術を奪っていた。単なる厭戦と惰弱から、あのニホン人は彼女に問いかけたのではなかった。何故ならナードラは、あの時自らの耳に、確固たる信念の響きを聞いたからだ。それは彼女にとって、何故か新鮮に、かつ侵すべからざる響きのように聞こえた。
「…………」
……そして、彼女は思った。
ひょっとすれば我等は、敵に回すべきでない種族に、目算の立たない戦いを挑もうとしているのではないか?……と。その思いに根拠と呼べる根拠など無きに等しかったが、それでも何故か、ナードラの胸中の奥深い何処かで少なからぬ狼狽を覚えさせていたのだった。
――――何故だ?……何故、恐れねばならぬ?
もはや以前のように明確な回答を与えられなくなった自身の存在に気付いた時、それを打ち消すべく沸き起こった心中の烈しさに感応したナードラの柳眉が、撥ね上がった。
「論評する価値もない……屑と呼ぶにも値せぬ……!」
乾いた唇から発せられた呟きは、一層に盛り上がる群集の熱狂に掻き消され、誰にも聞かれることはなかった。
ノイテラーネ国内基準表示時刻10月12日 午後1時7分 ノイテラーネ領ハン‐クット市郊外
―――――幹線道路の両側より臨む光景が、林立する入植者用集合住宅より見渡す限りの荒地に変わり、すでに二時間。
「オイ見ろっ……!」
一人の記者が指差した先―――――PKF駐屯地へ向かう報道陣用マイクロバスの窓からは、信じられない光景が広がっていた。ノイテラーネ連邦籍の報道カメラマン ナンギット‐イリ‐リアンは、その紫の瞳を向けた先に広がるものを、焼き付ける様に見据えるのだった。ニホンPKOの取材でこれまでに五度、この「最果ての地」に足を踏み入れたことのある彼女にとって、今度の光景は、今まで彼女の知るそれとは全くに趣が異なっていた。
かつてはスロリアPKOの保有する建設用各種重機の並んでいた一帯は、重厚な奥行きを以て居並ぶ装甲車両の群にその場所を譲っていた。73式装甲車、96式装輪装甲車、99式155㎜自走砲、203㎜自走砲……凡そ復興とか開発とかいった、スロリアの人道援助には何の役に立ちそうもない、そうした名の付く鋼鉄の獣達を、ナンギットは以前に取材で日本に赴いた際に間近で眼にしたことがあった。その時の感慨と似た感触が、不意に彼女に襲い掛かってきたのだ。
「まるで……フジにいるみたい」
眼前の光景はかつて取材のため足を踏み入れた日本の富士演習場のそれと重なり、感触は言葉となって、ナンギットは現在ノイテラーネ市中で流れている噂の、真に迫っていることを噛み締めるのだった。
ナンギットはこの途一〇年近くにもなるフリーの報道カメラマンだ……とはいっても、ノイテラーネには元来報道カメラマンという職種は存在せず、必要な技術と経験は、主に日本の写真誌から依頼される仕事で培ってきた。いわば彼女はノイテラーネにおいて、この種の仕事の草分け的存在なのだった。中背であることも相まって、後二年で三十を迎えるとは思えないほどその顔立ちは少女っぽく、日焼けした肌は彼女を見る者に一種の愛嬌すら感じさせていた。
戦争が近い……市中では誰もがそう言っていた。
三ヶ月前、スロリアの西方より突如出現したローリダ共和国を名乗る謎の武装勢力により、日本主導のスロリア開発援助事業は頓挫し、PKOを追い散らした武装勢力は、その余勢を駆り東端のノイテラーネすら伺おうという情勢である。誰もが、「母なる市」の未来の安寧ならざることを思い、周囲の者には不安を、そして政府には不信をぶつけるのだった。
「日本と距離を置き、ローリダと結ぶという選択肢も考慮すべきだ」
政府内の反クローム政権側から、そのような声も上がっていることをナンギットは知っていた。極論の中にはこれまでの日本との友好関係を破棄し、近い将来侵入してくるであろうローリダに基地を提供することで、「誠意」を示すべきであるというものまであった。独自の軍事力を持たない商業国家の性か、一度戦乱に巻き込まれるや、あくまで勝ち組に付くべく敵味方の品定めをしてしまうのだ。
一方で、表向きは国際貢献を目的とした移動訓練ということになっていたが、それにしては日本自衛隊の移動は二ヶ月前から未だに続き、スロリア東端に集結する日本軍の兵力は日増しに拡充を続けていた。市民への配慮か、武装を外した(もしくは、武装に覆いをかけられた)日本の戦闘用車両がノイテラーネ市に陸揚げされてそのまま市内を素通りし、またあるものは分解されて大型トレーラーに載せられて市中央を通過し、そのままハン‐クット市郊外の「PKF基地」まで向かうという光景が、すでにノイテラーネの常態となりつつあった。
さらに言えば、異変は陸だけではなく空でも起こり始めていた。
商業国家にして都市国家ノイテラーネは、ノイテラーネ市自体をはじめとして、その主要市には必ず国際線専用の空港を保有している。クローム就任以前に整備が完了したそれらの空港施設は、決して必要に迫られたが故の理由ではなく、国内労働者の需給バランスを満たす公共事業としての側面と、首府たるノイテラーネへの経済的な一極集中を嫌った他都市への配慮の結果であった。一説には、これを取引材料にクロームの先代二名の連邦主席は、ノイテラーネ閥―――ノイテラーネ市出身者―――から出す合意が反対派との間で為されたと関係筋の間では現在に至るまで囁かれているが、真偽のほどは今に至るまでわからない。
その国際空港には、先月から奇妙な来客が、それも頻繁に現れるようになった。
日本国籍の大型旅客機から続々とノイテラーネの諸空港に足を下ろした迷彩服姿の面々は、表立って武装こそしていなかったが、その整然とした挙動は明らかに厳重な訓練を経た兵士達のそれであった。彼らは待ち構えていた日本の報道陣の質問にも答えず、一度空港に足を踏み入れるや、予め手配され、待ち構えていた大型バスやトラックに乗り込み、やはり整然とスロリア東端へと向かっていく。それも一度や二度ではなく、ここ数週間の内に目立って増えている。
「船で装備を運んで、その後で空から一気に人員を送り込むというわけか……」
と、日本の報道陣が語り合うのを、ナンギットは聞いたことがあった。確かにそれなら、比較的短日時の内に大規模な部隊を国外に展開させることが出来た……しかし、何のために?
何のために?……と首を傾げざるを得ないような光景はもう一つ、空港で繰り広げられていた。
航空自衛隊の輸送機が機材の搬入のためにノイテラーネの各空港を離発着するのは、ノイテラーネの空ではすでにありふれた光景だったが、今月の初めになると、今度は戦闘機が頻繁に飛来するようになった。着陸と同時に急発進を繰り返す、いわゆるタッチ‐アンド‐ゴーの訓練から始め、それに続く沖合いでの集合訓練や空中給油訓練、さらにはより実戦的な空戦演習に移行するにつれ、当初は好奇心からその様子を見ていた市民達の心中に、複雑で、不安すら含んだ感情が芽生えるのに時間は掛からなかった。
それに関し、先日に外国人の同業者から一枚の写真をナンギットは見せられたことがある。
アフターバーナーのオレンジの炎を引き摺りながら、他の機に混じり今まさに夜空へと機首を向けようとするそれは、細部こそ闇夜のお陰で掴めないものの、シルエットは一見すれば日本空軍の主力戦闘機F-15Jのそれだった。だが、二枚の垂直尾翼から延びた幾つかのアンテナロッドの影と、妙に屈曲した機首の影が、仕事柄軍事には多少明るい彼女には一抹の疑念を抱かせた。
同業者に拠れば、夜間も続く自衛隊機の訓練を撮影している内、偶然にファインダーに収めたのだという。
「こいつはな、ニホン空軍の最高機密の一つなんだぜ」
と、彼は誇らしげに教えてくれた。
「RF-15DJさ」
RF-15DJ ……F-15DJ複座戦闘機を改造した、そういう名の偵察機を日本の航空自衛隊が保有していることはナンギットも知っていた。それは、一度戦争状態に入るや敵地奥深くまで侵入し、搭載する各種高精度カメラや画像レーダーを以て敵の情勢を探ることは元より、作戦時にはその強力な
……では、そのRF-15DJがノイテラーネまで足を延ばし、何をしているのか?……それを思うとき、自分達の与り知らないところで、何か壮大な計画にも似た「何か」が進行していることを感じ、鳥肌を立てずにはいられないナンギットであった。
――――やがてマイクロバスは、広大な基地の一角で止まった。
「広報担当の前島三等陸佐であります。報道陣の皆様には、遠路遥々ご苦労様です」
と、バスを降りた報道陣の前に現れた迷彩服に身を包んだ中年男は、中背だったがそれを忘れさせる位、全身に分厚い筋肉を纏っていた。
その前島三佐は、その鋭い目で集合した報道陣を一瞥し、続けた。
「皆様には宿舎をご用意してあります。
宿舎といってもホテルや宿のように立派なものなど誰も想定していない。本部に近い、一群の緑色のテントが彼らに宛がわれた宿舎だった。事前の予定に拠ればこれから一ヶ月を、報道陣はここで過ごすこととなっている。
「木佐さんの隣かぁ……嫌だなあ……」
足を踏み入れた宿舎で、ナンギットにそうぼやかせた木佐慎一郎は、日本人のフリーの報道カメラマンだった。年齢にしてナンギットの1.5倍の彼は、戦場や事件現場、そして異世界の未開地など、潜った修羅場の数は恐らく彼女の三倍に及ぶはずだ。五年前にとある紛争地帯に赴いた際、自らの肩に命中した流れ弾をペンダントにして提げているあたり、彼の豪胆な性格が伺えようというものだ。
「オイオイ……人を犯罪者扱いするのは止せよ」
と、苦笑交じりに木佐は言う。バックから彼が取り出した年代物のフィルムカメラに、周囲から感嘆の声が漏れた。彼とナンギット以外の多くが、最新型のデジタルカメラで仕事をしていたからだ。「転移」以来、報道分野においても日本製品の浸透は目覚しく、こと日本の周辺国においては大部分のシェアを獲得している。
やはりと言うべきか、報道陣は日本人が圧倒的に多い。だが、出版社や新聞社に専属するカメラマンや記者は勿論のこと、木佐のようなフリーのカメラマンまでその出自は多様だ。中にはPKFに批判的な論調の新聞社の人間もかなりの数が含まれている当たり、日本という国の意見の多様さをナンギットに感じさせた。
……迎えのトラックに揺られること十分あまり。幌に視界を塞がれた荷台の中、複数のローター音が頭上を通過していったようにナンギットには感じられた。
「あの音は……コブラだな」
と、木佐は言った。唯一の視界である後部からは、ヘリコプターの機影が二つ、急速にナンギットたちの視界から離れて行くのが伺えた。剃刀のような二枚のローターブレードに特徴ある細長い機影は、確かに陸上自衛隊のAH-1Sだ。
「対戦車ヘリコプターまで陸揚げしていたのか……」
と、誰かが放心したように呟いた。
「神宮寺さん……どうやら本気らしい」
「こりゃあ訓練じゃないよ。文字通りの動員だ」
荒いブレーキ操作で止まったトラックから、前島三佐に促されるがまま降り立った先には、見渡す限りに戦車の列が広がっていた。その多くが、ナンギットが知っている陸上自衛隊主力の九〇式戦車だ。だが、群の一隅を占める九〇式より小振りな車体のそれに、彼女は怪訝そうに眼を凝らす。
「…………?」
ナンギットが知っている九〇式戦車とは、眼前の戦車はあまりに趣が異なっていた。九〇式に比して車高が低く、傾斜を多用したその砲塔は、あたかも上から押しつぶされたかのような印象を受ける。だが一方で全体的に小振りな観は免れないそのスタイルが、太い砲身と平面形の装甲板から姿を覗かせるセンサー類の姿をより際立たせている。
「あれ、一〇式戦車でしょう?」
と、誰かが言った。「転移」前、九〇式戦車の前身にして、陸自戦車部隊の数的な主力であった七四式戦車を更新する目的で開発された一〇式戦車は、機甲部隊のメッカたる第七師団や富士教導団ではその配備を最小限に留め、一般の戦車大隊に重点的に配備されている。ナンギットがそれを実際に眼にするのは、今回も含め数えるほどしかない。
「何でも、不整地でも時速100キロ出せるんだと」
「あれだけ小さいのに、防御力は九〇式より上だそうだ」
報道陣の集合を待ち構えていたかのように、一斉に轟いたデーゼルエンジンの始動音が爆雷の如き響きとなって大地を揺るがした。彼らこそ、真に鋼鉄の獣と呼ぶに相応しい一群だった。報道陣の遥か眼前で一斉に動き出す鋼鉄の獣の群れに、ナンギットは暫し惹き込まれる―――――