認定NPO法人れんげ国際ボランティア会

実録!コロナ感染体験記

お久しぶりです。鈴木です。

題名のとおり、ミャンマーで平野所長と一緒にコロナ(デルタ株)に感染し、色々な経験をしました。

今回は、その一部始終を記します。

※今は両名とも回復しております。

 

 

私は、同僚工藤とともに5月14日にミャンマーに到着し、6月1日からイラワジ管区パンタノウ教員研修センターに赴任しました。しかし、外国人の滞在許可が降りず、6月中旬からヤンゴンの平野所長宅にて2人で生活していました。

 

7月14日夜 「全身に力が入らない。」と平野さんが訴えました。「でもまあ寝たら治ると思いますよ。」と。

 

しかし翌朝、「力も入らないし、頭痛も抜けない。」

平野さんは事務所を休みました。

ミャンマー人スタッフは「平野さんが休んだのは初めて」と非常に驚き、心配していました。

その日、自分も少し倦怠感を感じながらも、とりあえず事務所に行って仕事をしました。帰る時には倦怠感も増し、熱っぽさもあり、フラフラの状態でした。

 

そこから数日間、私は40℃を超える高熱と倦怠感、頭痛に襲われ、ろくに物も食べられないでいました。

平野さんは私より熱は低かったものの倦怠感、頭痛は変わらずありました。

平野さんがコロナにかかったことを聞きつけた建設会社の社長(Mr.ナウン)が、毎日食べ物を持ってきてくれて、なんとか生き延びることができました。

 

 

7月20日、平野さんが別件で日本大使館に連絡し、コロナにかかっていることを伝えると、日本大使館お抱えのクリニック(東京クリニック)の受診を勧められました。

 

 

7月21日、東京クリニックで診察してもらいました。私は病院で座って待つことすらしんどく、うずくまりながら診察を待っていました。平野さんは病院では元気そうでした。この日は診察と注射、薬を処方してもらい、家に帰りました。

ちょうど帰ってきた後でしょうか。平野さんが電話で誰かと話している声が聞こえました。

「鈴木くんは、心が病気です。全然仕事しようという気はないです。」

 

(はああああ!?なにこのひと。。。)

(しんどい人に対してそういうこと言う?)

 

ベッドで起き上がれないから、文句を言いにもいけず、ただただ悶々としていました。

 

数日間、薬を飲み、私の症状は回復に向かいました。

平野さんも一時は回復に向かっているように見えました。

 

 

しかし、7月24日深夜、容態が悪化し始めました。

解熱鎮痛剤、肺炎の薬等を服用しても、体温39.2℃、酸素飽和度88%でした。

 

 

25日朝には、私が日本大使館の医務官に連絡し、入院に向けた準備を始めてもらいました。Mr.ナウンには酸素ボンベを確保するように頼み、入院までの間、自宅療養できるように環境を整えました。東京クリニックにも再度受診し、血液検査を実施し、薬を処方してもらいました。昼には酸素ボンベが到着し、自宅で酸素吸入を始めました。酸素飽和度を90%以上に保つよう医務官から指示がありましたが、常時吸入できるほど十分な酸素は確保できていないため、苦しくなったら酸素吸入するようにしました。昼夜問わず、まだ熱のある私がつきっきりで看病していました。

ある日、Mr.ナウンが食べ物を持ってきてくれたときに、今まで持ってきてくれた分のお金を払おうとしました。しかし、彼は断り、涙ながらに何かを訴えていました。ふと平野さんを見ると、平野さんも涙を流していました。まだミャンマー語がわからない私は

(え、ど、どうした?)

と思ってました。

私がこの時感じていたのは、Mr.ナウンに対する申し訳なさの一点のみでした。

だって毎日、ご飯、フルーツ、栄養ドリンク、薬を持ってきてくれて、病院に行く際は送迎もしてくれるんですよ。

自分もコロナにかかる可能性あるのに。。。

申し訳なさすぎる。。。

あなたも気をつけてよ…

そのうち平野さんは、ものを食べると激しいしゃっくりが出たりや咳こんでしまうようになり、体が食べ物を受け付けなくなっているように見えました。

 

 

そんな中、7月26日朝に、平野さんは会社に行くと言い始めました。

 

(Oh my God. この状況で行くなんて常軌を逸してる。。。)

 

素直にそう思いました。まあこうなると、どれだけ私が説得したところで、その意志は変わらないわけですよ。

平野さん「この仕事は命を削ってやっている。今日事務所に行かなきゃいけない。私には責任がある。」

私「わかりました。Mr.ナウンがいいって言うなら行ってください。(私は止めましたよ)」

Mr.ナウンに電話してもらうと「わかった。送迎する」と。

 

 

(この人ら正気かー!!!!)

 

 

そして、本当に出社しました。パルスオキシメーターを持たせ、何かあったらすぐに帰ってきてくれと伝えました。私は家に残りました。理由はありませんが、なんとなく家にいた方がいい気がして…

 

その1時間後、医務官から電話がありました。

「入院できるので、準備してください」

 

 

(うわーー!!!!!!!!)

(出社してるなんて言えないーーーー!!!!!!)

 

 

とりあえず、医務官には「わかりました。準備を進めます。」と伝え、平野さんに入院できる旨を電話しました。

 

 

すると彼は「断るので、医務官の電話番号を教えてください」と。

 

 

(なにこの人!!!!)

(よう断れんなーーーー!!!!!)

 

 

そして、本当に入院を断りました。

その後すぐに、医務官から電話がありました。

 

 

趣旨を関西弁でまとめると

「もう次はないで。自分でなんとかせーよ。どんだけアレンジ大変やと思ってんねん」

 

入院する気がない人を、無理やり入院させてもトラブルになるだけだと。

 

(確かにそうですよねーーー)

(はあ、もう大使館の入院のサポートはなくなった。。。)

(俺が自宅でずっと看病しなければいけない。。。)

 

もちろん、大使館が日本人を見捨てるはずはなく、今後も容態の変化があった場合はいつでも連絡してくださいと、優しく対応していただきました。

本当に心強かった。。。

 

 

今回の入院は7月25日午前7時に希望しましたが、準備が整ったのは7月26日の午前11時。

外国人でも、この対応。

 

つまり、ミャンマーの医療体制は非常に逼迫していたのです。

 

 

容態が悪化し始めてから、私は平野さんの経過観察をするようにしました。こまめに酸素飽和度と体温を計測。酸素吸入時間。何を食べたか。平野さんの様子などなど。

酸素ボンベは、どのくらい持つかわからなかったため、吸入時間を計測して、酸素吸入可能時間を算出しようと思いまして。

さて、事務所から平野さんが戻ってきました。大汗をかき、とても苦しそうでした。

帰ってきてすぐに、酸素吸入を開始しました。

そりゃそうでしょうよ。。。

事務所で仕事をして、銀行にお金を降ろしに行ったそうです。。。

 

 

そのあと、酸素吸入を繰り返し行いました。だんだんとボンベにある酸素の量が減ってきて、調整しなければいけませんでした。

一度、酸素を吸入しすぎて、激しいしゃっくりと激しい咳き込みが2時間続いたことがありました。

 

毎回私が酸素量を調整しているので、一瞬「申し訳ない」と思ったけど、

 

(素人じゃけぇ、しゃあないやろー!)

 

って思ってました。

 

(とりあえず生きてくれ。いや、生きろ。)

 

ただそれだけを祈ってました。

 

ここで平野さんが死んだら俺はどんだけのものを背負って生きていかなきゃいけないんだよー

 

 

日に日に弱っていく平野さんを見ながら

 

 

とりあえず自分ができることはし尽くそう

 

 

と決意しました。

 

 

 

7月27日朝、25日に行った血液検査の結果がようやく出ました。

病床、医者だけでなく、検査技師も不足していることがわかります。CDMで医療従事者の多くが職場を去り、コロナの感染爆発で、完全に医療崩壊状態です。

検査の結果を踏まえて、担当医師からのアドバイスがこちらです。

血中酸素濃度は低下しつつあり、状態は悪化しています。家にいることは危ないレベルだと判断いたします。重症化した場合に効果があると言われているお薬は弊院にはありません。また、往診に行くこともできません。ここから更に悪化する可能性もありうることを考慮して下さい。入院することができるのであれば、安全のためにも入院することを強くお勧め致します。

 

 

そうですよね。

だって怖いもん。

正直死にそうだもん。

 

 

平野さんにも入院を強く勧められていると伝えたところ、

「わかった。今回は受けます。」

と、入院する覚悟を決めてくれました。(ほっ)

 

この日から、食べ物を完全に受け付けなくなりました。少しでも食べると、その10分後には、激しいしゃっくりや咳き込みを1時間以上繰り返してしまう状態になりました。

 

酸素飽和度を計測しながら、90%を切ったら酸素吸入するものの、本人は「自分の肺で呼吸できていない」と訴え、長時間の吸入は難しくなりました。

 

しかし、医療体制は崩壊しています。

その日すぐに入院を受け入れてくれる状況ではありませんでした。

つまり、医者が入院必要と判断するレベルまで悪化している平野さんを、ど素人の私が看病するという危機的な状況ですよ。

 

でもね、もう私の覚悟も決まっているわけです。

 

平野さんを死なせない

 

その一心ですよ。それ以外のことは何も考えなかったです。

 

 

7月28日10時。

ようやく医務官から入院の準備が整ったとの連絡がありました。

すぐに準備し、11時にMr.ナウンの車で病院に向かいました。

この時の平野さんの状況は、常に激しいしゃっくりが出る状態でした。

話せない。食べられない。飲めない。

でも、もう一安心。

だって入院するのだから。

ただ、入院には付添人が必要になると言われました。

医療体制が逼迫しているため、患者のお世話する人が必要になると。

Mr.ナウンは、父親がマンダレーでコロナ重症のため、この日ヤンゴンを離れなければなりませんでした。

そうなると、必然的にこれまでの経緯を間近で見てきた私になるわけですよ。

医務官にそのことを伝えると

「あなたがするの。。。たぶん日本人初の付添人よ。頑張って。」

頑張って…?

はい、がんばります……???

大変なのか?

まあいい。自宅でど素人一人で看病するよりよっぽどいいわい。

病院入ったら死なないだろ。

酸素も上限気にせず吸入できるし、医者もいるし。

最悪しんどかったら、工藤さん(コロナ回復済)と交代しよう。

 

 

12:45 晴れてNew Yangon General Hospital (政府系。通称:JICA病院)に入院しました。

入院直後から、どうやってここで過ごすのか、必要なものは何かを把握するため奔走しました。必要なものは外から工藤さんや他のスタッフ、Mr.ナウンが手配した友達(Mr.チット)が持ってきてくれました。

病院とも連絡をとっていましたが、外国人、しかもミャンマー語があまり喋れないこともあり、コミュニケーションがうまく取れませんでした。

「東京クリニックで処方された薬は全て持参しているので、全部確認してほしい」と伝えると、

 

無視。

 

 

「栄養が取れていないから、点滴を打ってほしい。」と伝えると、

夜になってレムデシビルを投薬してもらいました。

ようやく医療行為を受けることができました。

このとき私はこれが栄養補給にもなるのかと思ったので、また少し安心しました。

ちなみに、レムデシビルの投薬スピードが少し遅かったため、医師に確認すると「スピードアップしといて!」

え、俺が?

いいの?

まあやったよね。やるしかないから。

レムデシビル投薬後、私が医務官に共有した情報です。

平野さんの様子と病院の状況をシェアしました。

[平野さん]

容態は安定しています。ただ、栄養が取れていないので相変わらずです。
今までの状況も全て伝えることができ、酸素を肺に吸い込めないことも理解してもらいました。
医師もしっかりケアしてくれています。先ほどレムデシビルを投与し始めました。

[病院の状況]

患者と付添人は外に出られません。
基本的には変更することも許されません。万が一付添人が途中で変わる際は、退院してから7日間の自宅待機を命じられました。
外部から必要な物をもらう場合も、病院スタッフ経由です。

部屋の状況としては、患者様のベッド枠とマットレスがあるのみです。
枕もタオルも何も用意されていません。すべて持参する必要があります。
付き添い人用の簡易ベッドもあった方が良いと思います。
トイレとバスルームは個室に設置されています。

衛生状況としては、めちゃくちゃ良いわけではありませんが、劣悪でもないと思います。
どの部屋にもエアコンが完備されているようです。
少し気になるのは、蚊の量がすごいことくらいですかね。

部屋にいる人数は、患者2人。付き添い人が患者1人あたり1~2人です。
食事は時間になると至急されます。
もし必要なものがあれば、病院スタッフに頼んでお金を渡して買ってきてもらえます。
他に必要なものは、当会の職員に頼んで受け取っています。

以上の内容から、工藤さんとの交代なんてできず、退院まで自分が付き添うことが確定しました。

まあ、俺が全部知ってるし、一番いいな。

付添人用のベッドなんてないので、Mr.テイン(Mr.ナウンの友達)が持ってきてくれたドリームベッドを使いました。

 

 

7月29日朝、

栄養に関して、全くアドバイスがないため、

再度医師に食べられなくて困っていると再度説明しました。

医師「今患者1人1人の食事を管理することはできない。外部から何か持ってきてもらえ」

 

 

ええええええええええええええ

栄養管理って病院の仕事じゃないのおおおおおおおおおおお

 

 

全く知識がないため、途方に暮れていました。

 

 

すると、そんな状況を見兼ねた同室の付添人の方(マシャニさん)が、患者(母)に摂取させている胃薬ゼリーと、Ensure(粉ミルク)をお湯で溶いたものを提供してくれました。それでやっと、内臓が落ち着いたようです。

マシャニさんは、介護や医療の経験知識豊富で日本語も喋れるため、かなり手厚くサポートしてくれました。

Ensureは絶対に買っておいた方がよいと言われたので、工藤さんとMr.チットに頼み、買ってきてもらいました。

 

また、本部にも連絡して、看護師や栄養士からアドバイスをもらいながら、栄養管理する環境が整い始めました。

Ensureは日本に売っていないため、成分表を作成して送り、確認してもらいました。

日本からのアドバイスは、水分と塩を摂取するようにとのことでした。粉ミルクは栄養的に申し分ないので、引き続き摂取する。それと合わせて、具なし味噌汁、ポカリ、梅干しを摂取しても良いとのことでした。

 

 

「ミャンマーで食べられなくなったら、Ensure!」

ミャンマー在住の皆さん、合言葉にしてください。

 

 

Ensureをメインに、油分なしのチキンスープや具なし味噌汁で塩分を取りながら、経過を観察していました。

 

確かに、栄養は取り入れられるようになったのですが、今度は酸素飽和度が、著しく低下し始めました。

 

特に睡眠後は顕著で、16:20昼寝後に測定した際、70%でした。5分吸入すると98%まで←のですが、2時間後には80%代に落ちてしまう状態でした。

20時になると、酸素吸入して98%に戻っても、20分後には70%代に落ちる。それを何度か繰り返すようになりました。

 

実は、直前に仕事の話を少ししていて、間違いなくそれが影響していると感じました。

 

 

うわ、平野さんの精神的なケア全くできてないわ…

こんな時に仕事の話したら、プレッシャー感じるだろ、俺はバカか。。。

正直、栄養が取れるようになってホッとしていました。

 

もう大丈夫だろう。その油断から、仕事の話をして、平野さんを追い詰めてしまったと感じました。

ああ、どうしよう。。。

 

 

そんなとき、私の妻に電話したのです。

コロナになって、平野さんの看病をしながら、ずっと連絡をとっていたのですが、

この日はなぜか「家族って大事よね」みたいな話になりました。

ふと、思いました。

 

 

あれ、平野さんは家族とコミュニケーション取れてない…?

 

 

奥さんだ!!!

電話せな!!!

すぐに電話しました。経緯を話して、本人と少し話してほしいと。

苦しいながらも、奥さんの力強い励ましに耳を傾け、涙を流しながら返事をしていました。

電話を切ると、とたんに落ち着きました。

ああ、これが必要だったんだ。。。

家族、奥さんのパワーはものすごい。

 

 

一方で、こんなことも思いました。

俺は何もケアできてなかった。ただ、隣にいただけで、平野さんのことは何も考えられていない。できた気になっていただけだ。

病院にいても、栄養管理は全くやってくれない。

薬もこの日、マシャニさんにアドバイスをもらい、再度問い合わせて初めて、医師から服用指示が出ました。

平野さんは家族とのコミュニケーションも取れていない。家族はとんでもなく心配だったと思います。

 

 

7月29日の夜に、全て本部に報告し、更なる協力を仰ぎました。

自分一人で抱え込みすぎていました。

この一件から、状況は一変しました。

 

 

翌7月30日

本部は、日本から客観的に今の平野さんと私の状況を整理し、知り合いの医師や看護師にアドバイスを仰ぎ、

Mr.チットは、薬(入手困難なもの含む)を手配してくれ、ご飯を届けてくれ、

Mr.テインも、ご飯を届けてくれ、

ARTICドライバーのゾーリンも、ご飯を届けてくれ、

マシャニさんは、病院で困ったことがあったら助けてくれ、

工藤さんは、必要な食べ物や飲み物を買ってきてくれる。

 

 

何不自由なく、真っ当な医療行為を受けられる体制がようやく整いました。

 

10時になると、平野さんは直近1週間で初めて携帯をチェックし、余裕が見えました。

本当に家族から力をもらったようでした。

 

この日は、チキンスープ、ヨーグルト、すりおろしりんご、具なし味噌汁と、水分を中心に栄養をとることができました。酸素飽和度も安定して90%以上あるようになり、酸素吸入の時間も減っていきました。

とは言っても、夜は苦しそうでした。

マシャニさん曰く、コロナウイルスは夜にアタックするとのことで、昼よりも夜が苦しくなるようです。

そういえば平野さんも、自宅療養中から「夜がしんどい」と常々漏らしていました。

また、酸素吸入直後やレムデシビル投薬直後は、体に馴染むまで時間がかかるようで、しゃっくりが30~60分続いていました。

 

 

7月31日、ものすごい食欲が出てきました。

午前中までは、引き続き水分を中心に栄養を摂取していましたが、次第に「固形物が食べたい」と訴え始め、ご飯、豆や揚げ魚など、量は少ないものの、ちゃんとしたご飯を食べられるようになりました。同時に、自分のことを自分でできるようになってきました。

それまでは動ける状態ではなかったため、飲み物も食べ物も全て私が用意し、酸素吸入も手伝っていましたが、この日から、私が仮眠をとっている間に自分で全てやれるようになりました。

その状態を見て、初めて本当に安心することができました。

それでも、寝起きは息苦しさを感じるようで、酸素吸入は引き続き1回5分~10分で行っていました。

 

 

8月1日午前3時、事件が起きます。

酸素を吸入したのですが、酸素飽和度が上がりません。幸い94%あったので問題はありませんが、平野さん曰く「酸素の質が変わった」とのこと。隣のおばあちゃん(マシャニさんのお母さん)も酸素吸入中にも関わらず、苦しいと訴え始めました。

なんかおかしい。。。そう思って、病院に連絡しました。

 

病院からの返答「問題ない。」

 

 

いや、患者が変って言うてんねんから、問題やろーーーーー!!!!!!!!!

 

結局何も対応なしです。

 

 

午前3時30分、

 

 

 

酸素供給が止まりました。

 

 

 

おいおいおい

 

 

こんな時のために、予備の酸素ボンベを持参していたので、平野さんには大きな問題はありませんが、他の病室にはおそらく、酸素ボンベを持っていない人もたくさんいる。嫌な想像が止まりません。

 

 

2分後、酸素が戻りました。

 

 

ふううううううう。

 

 

 

医務官から「この病院は、ミャンマーで最高水準。これ以上を求めるならプライベートジェットで日本に送りな。」と言われるほど設備の整った病院で、このクオリティ。

 

 

やはりここはミャンマーだ。

 

 

薬の投薬方法も、人によってバラバラ。

薬は、簡単に手に入るものは、病院のスタッフに買ってきてもらい、入手困難なものは、Mr.チットやMr.テインにお願いして外部に買ってきてもらうというシステムなのですが、薬購入の指示が毎日あります。まとめて買わせてくれません。

理由は、病院スタッフがチップ欲しいため。

買いに行くたびにチップを要求します。タクシー代にいくらだ、人力車に乗るからいくらだ。。。

いっぺんに買ってしまえば、もらえるチップが減る。だからでしょう。

そして、結局誰にどの薬を投薬するのか管理できていません。

買ってこいと言われた薬を、持って病室に保管していました。

投薬の時間になり、投薬担当が来ました。その薬を持って。

 

 

なぜえええええ

誰の薬が使われているのおおおお

誰か困ってるでしょおおおおお

 

 

誰も管理できていないのです。

病院スタッフは、自分がチップ欲しいだけ。

投薬担当は、自分が担当する分の注射を打つだけ。

とても人の命を預かっているようには見えません。

自分の役割を自覚していないのです。

「自分で考えて行動できる人づくり」

これは、かねてからARTICが実践してきたMMM(Milestone Movement in Myanmar)の目的です。

その重要性を肌で実感しました。

 

 

平野さんは話ができるまで元気になりました。

思い切って気になっていたことを聞いてみました。

私「平野さん、自宅療養中に、僕は心が病気って誰かに電話してました…?」

平野さん「いや、そんなこと言ってないとおもうけど…」

そう、言われてなかったのです。

おそらく、高熱で気狂って、幻聴が聞こえていたんだと思います。。。

あーよかった。

 

 

同じ病室のマシャニさんともいろいろなことを話すようになりました。

マシャニさんはミャンマーの今後を非常に心配していて

「軍のやっていることはめちゃくちゃ。自分のことしか考えていない。」と言っていました。

平野さんがMMMの内容を話すと、「絶対国のためになる。何かあれば協力したい。」と言ってくれました。

Mr.ナウンもMr.チットもMr.テインも、ARTICの平野さんの活動に対して共感し、自分たちのできることで協力しようという気持ちがあるから、今回の継続的で非常に温かくて強力なサポートをしてくれたんだと思います。

今回のコロナ感染を通して、MMMがミャンマーにとって、本当に意味があることで、ミャンマー人もその必要性を感じていることを、実際に感じることができました。MMMが新しいミャンマーを作ると確信しました。

もちろん今まで平野さんから話で聞いていたことです。だけど、自分が身を以て感じたことで、全く違う次元で理解することができました。

MMMを今後も継続していくために、自分はここに来たんだという、使命感も生まれました。

 

 

 

8/1以降、平野さんは、毎日毎日ご飯の量が増え、なんでもバクバク食べれるようになっていきました。酸素吸入も1日に5〜10分程度でほぼ必要なくなりました。

投薬や血液検査、レントゲンも適切に受けることができました。

あれ、英語通じないんじゃなかったっけ。

そう思った皆さん、そう。通じないんです。

じゃあなんで円滑にコミュニケーションが取れるようになったか。

一つは平野さんが回復して、自ら不満を言えるようになったこと。

もう一つは、私のミャンマー語レベルが格段にアップしたことです。

通じないから頑張るしかないじゃないですか。

話さなきゃいけない状況になったら、話せるんですよ。

もう最後の3日間くらいはミャンマー語で病院スタッフとコミュニケーションが取れるようになりました。

 

 

 

そして、8月2日には、4日に退院することが決まりました。

同じ病室のマシャニさんのお母さんも同じ日に退院することが決まりました。彼女の場合は、あと1,2ヶ月酸素は必要だが、病院にいる必要はないとのことだったので、自宅で酸素を確保して、療養するとのことでした。マシャニさんがすぐに自宅で療養できる環境整備を電話で始めていました。

みんな退院して家に帰れる目処が立ったということで、私たちの病室は穏やかな雰囲気でした。

 

 

8月3日には、みんなでオリンピックサッカー準決勝 日本vsスペインを観戦し、みんなで日本を応援していました。

 

 

8月4日、ついに退院です。

9時にゾーリンと工藤さんが迎えにきてくれました。

マシャニさんとお母さん、そしてマシャニさんが雇っていた看護師さんとみんなで写真を撮って、元気になったら会うことを約束して、病室を去りました。

1週間ぶりに外気を吸い、久しぶりに湿度を感じました。

雨の匂いを感じたと言いたいところですが、この日まで2週間ほど味覚・嗅覚がほぼなかったので、雨の匂いなんぞ全く感じませんでした。

自宅に戻り、4人で少し談笑し、2人には帰ってもらいました。

 

 

11時30分、マシャニさんから電話がありました。

 

 

「先ほど、お母さんが亡くなりました。」

 

 

同じ日の12時に退院予定だったお母さん。どこかに血栓ができてしまったとのことでした。

退院する際、お母さんに

「頑張ってね。また会おうね。」

と声をかけると、うなずいてくれていました。

でも会えなくなってしまいました。

あまりにも急に思えましたが、89歳のお母さんは、逝くタイミングを選んでくれたんだと思います。

おそらく、1,2ヶ月の自宅療養で回復に向かうのは難しかったと思います。

平野さんと私に極力悲しみを与えないように、マシャニさんへの負担も少なくするために、自宅に帰る前に病院で逝ったのかなと感じました。

入院中、毎日4,5人が棺桶に入って運ばれていく様子を見ていました。お母さんの訃報を聞いて、尚のこと誰が死んでもおかしくない状況だったなと。

そんな中で、回復した平野さんは本当に恵まれていたと思います。今まで平野さんがミャンマーでやってきたことに対する報恩が、今回の危機を乗り越えさせてくれたと感じました。

ミャンマー人の助け合う精神は、日本も見習うところがあると思います。見返りを求めず、他人のために行動する。なかなかできることじゃないです。確かに、自分で考えて行動できないミャンマー人もいる一方で、見返りを求めず他者貢献できるミャンマー人がいることも今回実感しました。

学校建設・教員養成を通して、自分で考えて他人のために行動できる人を増やす。すなわち、ミャンマーという国が変わるための種を撒いていく。

私たちに与えられたミッションは、とてつもなく果てしないように感じますが、この国を変えるために絶対に必要なことだと確信ししました。

今回ミャンマー人に助けてもらった恩を、MMMを通じてミャンマーに返していきたいと強く感じました。

 

 

最後に、今回お世話になった皆様、本当にありがとうございました。私一人では、平野さんの命を救うことはできなかったと思います。皆様の協力のおかげで乗り越えることができました。この経験を通じて得たものを必ず皆様にも還元していきます。これからもどうぞよろしくお願いします。

皆様、体調にはくれぐれもお気をつけください。

ARTIC
鈴木 謙

 

参考:ミャンマーで入院時に、事前に知っておいた方が良いこと。※コロナ禍に限らず
・ 付添人が必要。
・ 栄養管理は、付添人の仕事。
・ 注射薬や点滴時に必要な抗生物質の手配も、付添人が外部に買ってきてもらうように頼む。
・ 基本的にミャンマー語しか通じない。英語でコミュニケーション取れるのはほんの一部の医者のみ。
・ レシートは毎回必ずもらうようにする。
・ こちらの意志が伝わるまで、伝え続ける。1回は必ず無視される。とにかくしつこく伝える。

 

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