第六章 「あの丘を奪え」
ローリダ国内基準表示時刻7月22日 午後6時32分 首都アダロネス
ローリダ共和国の国政の中枢たる元老院は、その広大な敷地を大きく四つの区画に別つことが出来た。
南面に聳える正門から入った一角に、議員会館と元老院図書館に挟まれるようにして壮麗な元老院議事堂が建つ。つまり敷地で言えば玄関口に当たる区画で国政に関する一切が決定され、裁可されるのだ。そして敷地にはおよそ部外者の立入を容易に許さない「奥」があった。その奥に相当する区画もまた、三つに別たれるのである。
元老院の北面中央に位置するピクリア山と呼ばれる小高い丘の頂上には、ラメス神殿という国教たるキズラサ教のそれとはいささか趣の異なる小振りな聖殿が置かれ、そこではキズラサ教成立よりずっと古来から共和制の守護者として信仰されてきた神々が祭られていた。共和国ローリダを形成する市民もまた、民族として歴史上幾度も世代を重ね連続した存在である以上、現在の信仰こそ違え先人の崇拝してきた神には一定の敬意を払ってはいたのであった。
そのピクリア山を挟むようにして東西に、二名の執政官が任期中居を構え、一切の執務を行う公邸の敷地が広がっていた。
その東面――――第一執政官ギリアクス‐レ‐カメシスの
この日、カメシスは大銀行の頭取。大企業の指導者。財閥の総帥等、財界の重鎮として国家経済の指導的立場にある人々と夕食会を開いていた。その内容の豪華さも然ることながら、おそらくカメシス本人も含め、昼食会の円卓を埋めているお歴々の個人資産を合計するだけで、勇名高き共和国国防軍の三年分の予算に匹敵するであろう。
だがこの日、彼等がもっとも楽しんだのは山海の珍味をふんだんに使った料理の美味なることではなく、およそ植民地を舞台に進行中である彼らの事業に関し、現在過去未来にまたがる数億、数千億単位の資金の流れを口に出したり耳に入れたりし合う事に違いなかった。当然、この日の彼らの口の端に上った金額の何割かは、彼らの国外に於ける経済活動に「外交上の便宜」を図ってくれた謝礼として執政官たるカメシスの懐に飛び込んでくるわけでもある。まったく、酒を飲むのはこういう耳障りのいい話を聞くときに限る、と思うカメシスであった。
「外交上の便宜」とは、要するに対外戦争のことだ。戦争をし、戦勝の対価として領土と権益、さらには賠償金を得れば経済的には新たな市場と安価な労働力を得ることに繋がる。そうして国外より得られる利益は労せずして国を富ませ、余剰となった富もまた、本国を出でて国外の植民地における経済活動に再投資され、更なる富を生み出し本国に戻ってくるというわけであった。そうした富の再生産の連鎖は、偉大なる祖国ローリダをこの新世界においても他に並ぶ者のない強国へと成長させるであろう。
戦争行為自体も利益を生む。「解放戦争」の拡大に伴う新兵器の開発と軍需品の増産は、購買力が十分とは言えない民衆を対象に、どれほど売れるか分からない民需品を生産する以上に莫大な利益をもたらすのだ……戦争が続く限り。
彼ら経済人はそうした「便宜」を図ってくれたカメシスに、執政官として滞りなく執務をこなせるだけの配慮を払ってくれればいいのだ。それは具体的には選挙の票の確保であり、莫大な献金でもあった。
戦争の理由?……新聞やTV、そして一部の有志議員は「異種族の教化」「ローリダの自由の布教」「圧制からの解放」などと尤もらしい理由を半ば本気で主張しているが、現実主義者たるを公言して止まないカメシスにとってそんな大儀などどうでもいいことだった。要は領土を拡げ、国を富ませることだ。ローリダにおいて「程度の遅れた周辺の劣等種族」を相手にする限り、戦争は必ず成功する投資となっていた。また、戦争の前段階として相手を徹底的に悪に仕立て上げることで国論の統一にも繋がるし、政府や特権階層に対する民衆の不満を逸らすことも出来る。その点であの戦争未亡人――――ルーガ‐ラ‐ナードラは最良の広告塔として機能している。
カメシスは確信している―――――戦争とは悪ではなく、
美少年の給仕が、銀製の盆に乗せたデザートを運んできた。はちきれんばかりに熟れ、エメラルドの光を放つ葡萄の房……同時に、自分の盆の隅に添えられた紙切れをカメシスは見逃さない。
葡萄に手を付けるより早く、カメシスは紙切れを取り出し、開いた。
「これは……」
一読の後、思わず細い目尻が緩み、大きな口元から笑みが毀れる。一座は房を抓む手を止め、カメシスの様子を只注視するばかりだ。その沈黙が、カメシスに発言を促していることを彼は十分に心得ていた。
「皆さんは幸運だ。正にこの報告こそが今晩の主盆といえるでしょう……つい五時間前、我が軍はスロリアにおいて軍事行動を開始しました」
間を置かずして、感嘆の溜息が一座から漏れる。
「正当性はあるのだろうね?」
ニヤついた顔を隠さず、一人が聞く。
「異教徒に陵辱されしいたいけな少女を、忠勇なる民族防衛隊が救出しようと進撃しただけだ。国防軍も彼らの活動を支援しておる。民族防衛隊は敵の拠点一つを壊滅させ、なおも進撃中だ」
「……で、勝つのは何時かね?」
カメシスは笑った。確かに、初めから勝つ戦であることは皆の中ではすでに決まっている。
「そうですなぁ……一ヶ月後、またこうして皆さんにお集まり頂ける頃にはいい結果をお伝えできるとは思いますが……」
「いい結果に決まっているさ。ついでにその何だ、ニホン族とやらも一掃できればなおいい」
「その点についても抜かりは無い。報告はもう一つある。二〇日未明に我が共和国の執政下にある港から出港した船が、南スロリア沖で反乱分子に乗っ取られた。フネはそのまま航海を続け、そろそろニホンの支配領域に入るそうだ。当然、我等は海の上でも敵を排除し、解放地の民を保護する義務がある。」
「ほう……陸だけではなく海の方でも準備を……?」
「もちろんですとも、皆さん……」
わざとらしく、カメシスは声を潜めるようにした。
「わしは、半年近く前から準備をしておったのだ。文明人の企みが、成功しないはずが無いさ。行き当たりばったりの野蛮人とは違う」
ローリダ国内基準表示時刻7月22日 午後6時40分 首都アダロネス郊外 ルーガ本家 通称
「――――お嬢様?……お嬢様」
ハーブの香に満ちた浴槽での甘美なまどろみは、乳母の声に突き破られた。
浴槽から溢れ出す薬湯とともに一切の疲労を洗い流し、愁いを帯びた肢体が白亜の床を歩み、侍女の控える脱衣所へと向かう。
……美しい。胸の豊かさ、腰の豊満さ、そして胴の括れ具合ともに、彫刻の女神像のように滑らかな肌は、生来の瑞々しさと湯上りの中に数学的なまでの精巧さを併せ持った肉体美を醸し出していた。身体的な鍛錬と精神的な節制の絶妙な共演の末に生み出される、狩猟の女神の如き肉体。ナードラは少女期より自らの肉体をそのように創り上げ、軍人として、そして家庭人としての過去を経た現在でもそれを保ち続けていた。
「…………」
侍女によって四方から充てられる乾いたタオルにその白い肌を委ねながら、ナードラは熱っぽさの残る瞳で隅に控える乳母を見遣った。只それだけで「報告せよ」という意思は通じてしまう。それくらい、乳母とは心を通じ合わせる間柄だ。
「ナードラお嬢様に、電報が届いて御座います……」
「…………ふむ」
手早くローブを纏うと、ナードラは差し出された電報を手に陶製の安楽椅子に腰を沈めた。背後に立った侍女が濡れた頭髪に布を巻き、湿気を取り除く。別の侍女が、恭しい手付きで飲み物を差し出した。電報の紙を開いて一読の後、只無表情のままにナードラは目を細めた。
「始まったか……」
微笑と共に紙切れを握りつぶすと、ナードラは立ち上がった。乳母に外出の用意を命じ、足早に浴室から自室へと向かう。乳母の様子も馴れたものだ。祖父に代わり国政に携わる身となって以来、昼夜無く彼女の主は立ち回っている。
身繕いと着替えを済ますと、居間のソファーに病み上がりの身を横たえる祖父ルーガ‐ダ‐カディスの傍にナードラは立った。病み上がりとはいっても、当の病は既に殆ど癒え。その肌は血色に恵まれている。むしろ篭り生活が高じていささか太り気味の観があるのが孫娘にとってはいささか気掛かりだが、元老院の壇上に立っていた当時「雷神」と謳われた程の舌鋒の鋭さを伺わせる眼光は未だ健在だった。
ソファーの傍らには、クリーム入りの菓子を持った盆……それに、ナードラの目元がやや曇った。そして眼前の巨大なテレビ受像機は、下賎な娯楽番組を放送していた。アルコールこそ無いが、今の祖父が健康的な生活を送っているとは言い難い。
「おじじ様。私はこれより所用で元老院へ出かけます。また寂しい思いをさせるようですが致し方ありません……御免」
「我が孫娘よ、何度も思うがわしの頃とえらい違いだな。信じられぬ忙しさだ」
祖父の皮肉は何時ものことだ。決して現状に倦んで身近な人間に憤懣をぶつけているわけではなく、束の間の休養期間を楽しんでいるかのような風があった。
「おじじ様……」慰めるような口調で、ナードラは言った。
「私の活動にも何れは終りがあります。そのときが来るまで、おじじ様には十分に国政の場へ復帰の準備をして頂きませんと……どうかご自愛下さいませ」
「わしなら大丈夫……」
と言いながら、カディスは菓子を持った盆に手を延ばしかけた。柳眉を顰めそれを睨みつける孫娘に気付き、慌てて手を引っ込める。
「いかんか……?」
「いけません」
と、ナードラは頭を振る。
「明日から運動をしましょう。敷地を散策するだけでも病み上がりの身には十分な気晴らしになるというもの。御覚悟下さい」
「覚悟か!……孫の分際で厳しい物言いをしよる」
カディスは笑った。今の自分の境遇だけではなく孫の成長振りを心から楽しんでいる風であった。釣られるように、ナードラも笑う。
そのとき、受像機の画像が報道番組のそれに切り替わった。
『……番組の途中ですが、政府の緊急声明をお送りします――――』
「ハン?……何事じゃ」
画面が、国防省の報道官の、抑揚に乏しい声で声明文を読み上げる姿に切り替わった。
『――――七月二二日午後七時を以て、共和国国防軍はスロリア東部において敵性勢力に対する防衛作戦に入ったことをここに宣言するものである。現在ノドコール駐留の二個師団が東進中。今次作戦の目的は教化区において東方からの侵入者に拉致されし現地人姉妹の奪回と、敵性勢力の脅威に晒されつつある現地住民の保護にある。国防軍は解放区防衛の使命の下、粉骨砕身して作戦を完遂し暴戻なる敵性勢力を掃滅せんとするものである――――』
「始まりましたわね」
「ん……?」
怪訝な表情を隠さず、カディスはナードラを見上げた。画面に見入りながら、ナードラは先程自分に与えられた新たな使命を思った。
それは、来るべき戦後処理を廻る外交交渉の采配を握り、共和国の優位を引き出すという使命。
……ただ、交渉の相手はスロリアの住民ではなかったのだ。
スロリア地域内基準表示時刻7月24日 午前7時24分 スロリア中部
高機動車は丘陵と平原を交互に越え、白みかけたスロリアの大地を西へ走っていた。
本土の濃緑色から一転し、平和維持活動部隊専用として白一色に塗られた車体は、緑と黄土色とが交互に続く地には否が応にも目立つ。そこに車体側面に記された日の丸と「JAPAN」の文字があっては尚更のことだ。
「一台800万円だ。壊すなよ」
つい先週に現地展開の施設科部隊に着任を果たしたばかりの高良俊二 二等陸士が高機動車を運転するに当たり、捜索分隊の指揮官たる木村 武 三等陸曹から言われたのは只それだけのことだった。高機動車は自衛隊に於ける調達価格が一台800万円で、民間用に改装が加えられたタイプだと店頭引渡し価格で1000万円は軽く超えてしまう。それほど値が張る車を、20になったばかりの若者が何の気がね無く運転できるのだ。予備自衛官としての役得とも言えた。
テレビで見る限りでは他の車と大して変わらなく見える高機動車だったが、間近で見ると異様なまでに幅の広く、腰高なその正体を垣間見ることが出来る。多分おそらく、交通法規に雁字搦めにされた日本の一般道で、運転免許を取って間もない俊二がこれを自在に運転することなど不可能に近い。だがここはスロリアだ。
基地を出てすでに三時間……信号も横断歩道もない道なき道を、高機動車は時速60km/時以上の快速で突っ走っていた。その車内、ハンドル捌きとアクセルの踏み加減だけで大抵の悪路なら難なく踏破してしまう高機動車の性能に酔っている俊二の姿がそこにあった。分厚い防護服や青い覆いの掛けられたヘルメットの閉塞感。そして軍用車として乗り心地を度外視したが故の腰の痛さなど、どうでも良かった。
車の助手席では、分隊指揮官の木村三曹が只ひたすら携帯用GPS端末の地形図に見入っている。口数の少ないのは、新入りの自分に信用を置いていないのか、それとも単に彼の性格なのだろうか?
荷台では出発当初の賑やかさは既に消え、武装した六名の隊員達は未だ夜も明けきらぬ内から叩き起こされたせいか、それとも日頃の疲れか、思い思いに寝息を立てている。まあ、起きていたら起きていたで連中は内地の風俗の話しかしないのだから、初心な俊二としては寝ていてもらった方が運転に集中できるだけ都合が良かった。
先立つこと七月二三日。スロリア東部に位置する村が謎の武装集団の襲撃を受け、住民一〇名が殺害され、残余の住民は全てが拉致された。山中に避難した女子供まで連れ去り、全ての家屋や畑に放火するという徹底振りに、武装集団の規模の大きさと練度の高さが伺えた。
同じような事件は周辺の村や集落でも連続して発生し、略奪を生残った住民の多くが統制のとれた集団の存在と自分たちの意にそぐわない者に対する威圧的な態度を証言している。
当然、これらは当該地域に援助の手を延ばしている日本側にとっても看過しうる事態ではなかった。さらに看過し得ないことには、拉致された多くの現地種族の中に、対外援助事業に参加していた日本人七名も含まれていたことだ。
拉致された住民の捜索と周辺地域の偵察……それがこの日俊二たちに与えられた任務だった。任期満了までを外地における野良仕事や土木工事で過ごすものと思っていた俊二にとって、実戦に近いこの任務は、正直新鮮な驚きであり、衝撃であった。
「…………」
運転席ドアの内側に固定された小銃に、俊二は目を零した。
六四式小銃……配備されて既に半世紀以上が立つ古株が俊二の銃だった。89式小銃の行き渡っている捜索分隊の面々に比して、運転手としての役割しか期待されていない俊二にとってそれだけが彼が自分の身を守る相棒であり、手段であった。射撃訓練は何度か申し訳程度にやっただけ。それでも89式より重く、扱いにくいことこの上ないことぐらいはすぐに分かった。
だが……こいつを使う機会は近い内に廻ってくるかもしれない。それが来ないことを、こころから願わずにはいられない俊二であった。
さらに走ること一時間……車はとっくに国際協力機構の統制の届く範囲を越え、周りには煩わしい霧が立ちこみはじめ、ヘッドライトを点けてもなお徐々に分隊の視界を狭めていった。ただエンジン音以外の静寂と緊張のみが分隊を支配していた。分隊の無線機には、同じように各地に散開し、警戒活動を行っている各車と本部との遣り取りが途切れ途切れに入ってくる。何れの車両も、謎の武装勢力の攻撃を受け廃墟と化した村と死体以外に何も見つけられないようだった。
悪路に烈しく揺れる車内で、俊二は軽く生欠伸をした。
運転しているのが人間である以上、長時間の運転には疲労の蓄積を感じずにはいられない。それはもはや俊二ですら例外ではなかった。運転に倦み、運転席で長時間同じ姿勢を取っていることに耐え難い感触を覚えかけたとき、丘の向こうから立ち昇る一条の黒煙を俊二は見た。
「止まれ」
俊二にとって木村三曹の声は、天啓のように聞こえた。
ブレーキを踏んだ。さすがに悪路専用だけあって効きの良さには定評がある。
「総員降車」
静寂は破られた。肩に89式小銃を背負った六名が一斉に荷台から馴れた足取りで降車する。俊二も同じく、六四式小銃を引っ掴み降車する。その小銃には弾倉は付けられていなかった。出発の間際、木村
三曹に命じられるまま外したのだ。
「何時暴発するか判らんからな」
と、その時三曹は言った。予備自上がりの俊二の腕に信用を置いていないのか、はたまた老朽化した銃に信用をおいていないのか……おそらく両者に違いないと、俊二は思う。
木村三曹は無線手を呼び、携帯無線機の送話機を取り上げた。
「こちら一二号……送れ」
ややあって、PKO司令部より返信が入ってくる。
『……こちら本部。状況知らせ』
「前方に黒煙が一条立ち昇っている。これより分隊は散開し、偵察を開始する。位置は――――」
一通りの報告を終えると、三曹は俊二を振り返った。
「高良二士はここに残り、車両の警戒に当たれ」
やれやれ……居残りか。
別に落胆はしなかった。兵士として十分な訓練を受けているとはいえない自分が同行したとしても、足を引っ張るのは目に見えている。
「分隊、前へ!」
俊二を尻目に、分隊長の号令一下、六名は勢い良く丘を駆け上って行った。
……後には、完全にアイドリングを止めた高機動車と、一人の新兵が残された。
スロリア地域内基準表示時刻7月24日 午前一一時三八分 スロリア中部
七名の普通科隊員は平原の上に散開し、秩序だった間隔を開けて進んでいた。
前方に広がる窪地。そこに存在する小規模な集落から立ち昇る黒煙との距離は、未だ一向縮まる気配を見せなかった。もう少し車を接近させるべきだったことに思い当たり、分隊の中央を行く木村三曹は背後を振り返った。だが背後に車とあの新兵は見えない。只先程下ったばかりの丘の頂上に隠れてしまっていたのだ。
嫌な空気を、三曹は感じた。
口笛を吹き、分隊の注意を曳きつけておいてから「策敵を厳に」の合図を送る。木村三曹はかのアーミッドにおけるドルコロイ捕縛作戦にも参加したことのある歴戦の勇士であり、二ヶ月前に過酷な訓練を潜り抜けてレンジャー徽章を得たばかりの強者だったが、他の部下には実戦経験など殆ど無かったのだ。
もっとも、施設科部隊が過半を占めるスロリア派遣PKOにおいて、いわゆる戦闘を担当する普通科部隊などその全てを併せても100名程度しかいない。その装備も機関銃や小銃が主で、所謂正規軍を向こうに回して戦える装備ではなかった。
平和維持部隊を示す青色のカバーの掛けられたヘルメットからは、分隊内通信用無線機の送話マイクがその細い形状を覗かせている。インカムに入って来るのは部下隊員の平穏とはいえぬ息遣いと、マイクに拾われ、増幅して伝わってくる風の音だけだ。
木や土の燃える匂いを感じながら、分隊はなおも前進した。
変わり果てた集落の一角を眼前にする位置まで近付き、木村三曹は拳を上げた。「止まれ」の合図だ。
そして、銃を構えなおした。把柄の根元のセレクタースウィッチに指が掛かった。家屋の物陰に人影を感じたのだ。
「誰かいるのか……?」
……返事はない。もう一度、三曹は言った。先程より一層強い口調で。
『隊長……!』
部下の声に、三曹は自分を含め部下の多くが窮地に陥ったことを知った。
「…………!?」
戦慄とともに、木村三曹は周囲を見回した。周囲見渡す限りの丘陵に、灰色の服装をした一団が散開し銃を向けていた。彼らの数は此方より多く。そして彼らの眼差しは相手に対する拭いきれぬ敵意に満ちている。
それが合図だった。先程人の気配を感じた物陰からも、黒光りする銃身が身を覗かせた。分隊支援用の軽機関銃だと三曹は直感した。そして、知らない間に自分たちが味方ではない何者かに包囲されていることに愕然とする……しかも、それらの火線より自らを妨げることのできる遮蔽物は無い。
通信手の佐藤士長に、三曹は目配せした。それだけで十分だった。士長は携帯無線機の送話機に叫ぶように怒鳴った。
「こちら一二号!……武装勢力と思しき多数の兵士に包囲されている。指示を請う。繰り返す、指示を……!」
『――――こちら司令部。至急増援部隊をそちらへ向かわせる。交戦は許可できない。自力で包囲網を突破し、現地点を離脱せよ――――』
「分隊長っ……!」
通信手の声は、もはや悲鳴に近かった。
「撤退だ。撤退……!」
その間も、包囲網は徐々に狭まっていた。そして……
家屋に据え付けられた機銃が火を噴いた。絹を裂くような射撃音を聞いた時には瞬時に一名が弾かれるように倒れ、その場の全員が反射的に身を伏せた。
「林っ!」
頭を伏せた姿勢のまま、木村がその方向に目を遣ったときには、隊員はすでに頭から血を流し微動だにしていなかった。匍匐の姿勢のまま隊員に近付き、彼が事切れていることを驚愕とともに確認する。
「なんてことだ……!」
「分隊長ーっ、指示をっ!」
その間も、弾幕は容赦なく分隊の頭上を交差していた。引き千切った認識票を手に佐藤士長のところまで近付き、木村は送話機を握った。
「こちら一二号。敵の攻撃を受け一名死亡。反撃の許可を請う」
『――――繰り返す。交戦は許可できない。直ちに現地点を離脱せよ』
「畜生……!」
射撃は四方に広がり、次第に正確になっていく。そして隊員達は一人、また一人と声も上げずに撃ち倒されていく。跳弾や至近弾の衝撃は特殊素材製の防護服にあらかた吸収されてはいたが、それでも直撃弾を防ぐのには限界があった。一発の跳弾が隊員の顔面を直撃し、さらなる跳弾が防護服の隙間を縫って身体を貫く。初速が足りず防護服に刺さった弾丸は隊員の体内の骨を砕き、内臓を著しく傷つけ、兵士を即死よりも辛い苦痛にのた打ち回らせる。これでは反撃どころではない。
匍匐全身のまま、じりじりと後退するのにも限界があった。敵の陥穽に進んで入ってしまった後悔を噛み締めながら、木村三曹は少しずつ、そして確実に狭まってくる包囲網を感じていた。
それはまた、彼らを冥界に連れ去らんとする死神の影であった。
相手は武器を持ってはいたが、戦いは終わるのに五分もかからなかった。何故なら、敵は抵抗をしなかったからだ。
明らかに武装していたのに、何故?……民族防衛隊の兵士の中で、少なからぬ数の者がそう思ったはずだ。
だが、そんなことは部下を率い、高台を下りる「
だが、敵に近付くにつれ、ルガーはある事実に気付き、興味深げに目を細める。
「……まだ生きてやがった」
敵は七名。内四名は息絶えていたが、後三名は、苦痛に苛まれるままに地べたをのた打ち回っていた。敵の撃たれ強さは、彼らの純粋に驚くところだったのだ。
人の気配は、すでに自分の傍にあった。地面に突っ伏したまま、木村三曹は自分の手を見詰めていた。
「…………」
指に力を入れてみた……動いた? 先程肩を貫かれたはずだったが……よかった、また銃を握れる。
……だが、もう遅い。
味方ならぬ息遣い。間近に迫る足音。聞き慣れない言葉……それだけでも、自分たちを襲撃した連中が、これまで遭遇したことも無い未知の集団であることは明らかだった。
……だが、今気付いてももう遅い。
断続的に全身を襲う疼痛に歪んだ木村の眼の前を、ブーツが塞いだ。
ゆっくりと、首を震わせながら木村三曹はブーツの主へ眼を泳がせた。辛うじて見える範囲では、男が精悍な体躯の持主であることはわかった。だが、その顔は丁度陰になっていて判らなかった。
男が、笑った。見えたのではない。そう感じられたのだ。さらにはその笑みは決して慈悲からのものではないということも……
「こいつを立たせろ」
両脇に立った兵士が傷付いた敵の指揮官を強引に引き摺り上げ、そして自分の前に跪かせるさまを、ルガーは剃刀のような笑みとともに見下ろしていた。
勝ち誇ったルガーの眼と、無理に引き摺り上げられ、首を抑えられた木村三曹の眼が合った瞬間。ルガーの口元からたちまち笑みが消える。彼は瞬時に悟ったのだ。この敵の指揮官が勇者であり、決して敵に媚びない男であるということに……それは最後まで狩人の影と姿に怯えているべき獲物として在るべからざる態度だった。
「…………」
ルガーは、この不遜な獲物に教訓を垂れてやることに決めた……それは罰を受ける側にとって二度と反映されることの無い教訓だった。
銃声を聞くのと、丘に駆け上るのと同時だった。
小銃を引っ掴み、俊二は荒れる息にまかせるままに急勾配を駆け上った。小銃の重さ、防護服の圧迫感などこの状況では関係が無かった。自分でも驚くほどの早足で一気に頂上まで駆け上った直後。俊二は眼下で繰り広げられている光景に、頭を殴られたような衝撃とともにただ立ち尽くしていた。
「どういう……こと?」
平原は、ついさっきまで行動を共にしていた自衛隊員の墓場と化していた。見たことの無い連中が、倒れたまま動かない隊員の周りに集り、銃を向けたり、その顔を覗き込んだりしていた。それはまさに……戦の後の光景。
両膝から跪いた姿勢のまま、木村三曹は呆然として周囲を見回した。
かつては彼の忠実な無線手だった佐藤士長は、片目を打ち抜かれ放り捨てられた人形のように歪な姿勢で彼の傍に倒れ込んでいた。間近で彼を見下ろす指揮官らしき鷲鼻の男や、嶮しい眼光で彼を見詰める兵士の一群に、不思議と恐怖は抱かなかった。ただ自分が敗者であることを、彼は知っていた。
そして……かつて自分たちが前進した丘の中腹に、あの新米の運転手の姿を見出した時、再び愕然とした彼は軽く頭を振った。
「来るな……!」という木村三曹のメッセージは、俊二には届かなかった。それでも自分の隊長が、どうしようもない窮地に置かれたことを俊二は一瞬にして悟っていた。
木村三曹は、再び前へ向き直った。そこで彼の眼は大きく見開かれた。
鷲鼻の男の手には、細長い刀身が握られていた。
眉一つ動かさず、突き立てられた刀身は一直線に三曹の喉元を貫いた。
その瞬間、俊二は叫んだ。
「ウワアァァァァァァァァァァーーーーーーーーーッ!!」
俊二は叫んだ。木村三曹が一刀の下、地べたに崩れ落ちるまで声を張り上げて叫んだ。一気に全兵士の注意が俊二に集中し、射撃がそれに続いた。着弾の土煙と振動が、俊二を反射的にもと来た道に駆り立てた。
弾幕に急かされる様に丘を登り、転げ落ちるように丘を下った。高機動車まで辿り着くと、漠々と揺れる心臓を自覚しながら俊二は何度もスタータースウィッチを捻った。逸る心が、エンジンの掛かりを甘くさせていた。それでも三度目で成功させ、高機動車は泥濘を跳ね上げながら全開にされたアクセルに任せるままに急旋回し全速で走り始めた。
「撃つなっ! 追え!」
サーベルを仕舞い、ルガーは丘へゆっくりと歩き始めた。複数の兵士が彼を追い抜き、野に解き放たれた猟犬の如く丘を登って行った。
「敵が逃げます!」
丘の頂上から、土煙を上げて走り去る車を、ルガーは嘲笑と共に見詰めた。追うべきか?……それとも? 彼が初めて正規の軍隊相手に上げた戦果の余韻に浸りきっていたかといえば、それは嘘である。こと戦闘において、彼はそんな軽薄な性格の持主ではなかった。
兵士達は丘の頂上から、あいも変わらず射撃を続けている。もはや当たる距離ではないのだが、無思慮な連中には丁度いい気晴らしのようなものだ。
不意に、雲を貫いて背後から迫り来る金属音に、ルガーは振り向いた。
「丁度いい……正規のやつらが動き出したか」
空を見上げるルガーたちの上空を、二機のレシプロ攻撃機が航過していく。
日本国内基準表示時刻7月24日 午後1時40分 東京 総理官邸
河首相が自民党本部に於ける勉強会を切り上げ、瀬尾国交相を伴い慌しく駆け込んだ執務室には、すでに来客があった。村川 緑 防衛大臣と、二名の制服組幹部である。
その制服組の一人――――航空自衛隊の所属を示すダークブルーの制服の男に、河は目配せした。
……若い、まだ五〇にもなっていないだろう……事実、彼は現在四〇代後半で、彼の下に立つ陸海空三人の幕僚長のいずれよりも年下だった。その容姿からさすがに若々しさは失われていたが、背の高さと、それにマッチした肩の広さもあいまって実年齢を感じさせない壮健さを感じさせた。
植草 紘之というのが、彼の名前であった。
階級は空将で、去年に陸海空自衛隊の実戦面での最高司令官たる統合幕僚長に就任したばかりだ。河首相直々の異例の抜擢であり、防大出身者に占められた歴代幕僚長の中でも異例の、大卒の一般幹部候補生出身の幕僚長だった。
だが……その経歴は数々の戦歴に彩られている。
幹部候補生課程修了と同時に植草は操縦教育を受け、その後を戦闘機パイロットとして各地の飛行隊を渡り歩いた。搭乗機種も旧型のF-4EJから新型のF-15J、そしてF-2と空自の保有する実戦機の殆どを網羅している。パイロットとしての総飛行時間3,700時間。その内作戦飛行時間は300時間で、これは「転移」前後に日本の関与した国際紛争に参加した空自の作戦機パイロットの中でも多い部類に入っていた。
その植草空将が、松岡 智 陸将 陸上幕僚長を伴い河と向かい合った。彼の澄んだ眼は、その透明感の上にも空の戦士としての隙の無さを感じさせた。短く刈り上げられた白髪、赤銅色の肌に大柄な体躯を包んだ威丈夫の陸幕長と、その彼と余りにも対照的な容姿の植草幕僚長とを見比べながら、河は切り出した。
「報告は一通り聞いた。詳細を聞きたい」
口を開いたのは、松岡陸将だ。
「本日午前一一時未明。スロリア中部を捜索活動中のPKO警備部隊が、謎の武装集団と遭遇との無線
報告の後、八名全員が消息を絶ちました。彼らの行方……そして生死は今もって不明です」
「武装集団……?」
「はい、包囲されたとの報告の後。その後は一切……」
「位置は特定できているのかね?」
「事前の無線報告により、大体の地点は判明しております。現在関係各省とも協力し衛星写真による現場撮影及び解析を進めております」
「まさか、戦闘になったわけではなかろうね?」と瀬尾。
「PKOは法令により先制攻撃を禁止されております。今回の事態は、現地部隊がそれを遵守した結果かと……」
「……松岡君」
と、植草が始めて口を開き、松岡を制する。一礼し、松岡は押し黙った。河は植草に向き直った。
「全員の死亡は、未だ確認されていないのだな?」
植草は頷いた。
「その武装集団の動静は?」
制服組に替わり、村川防衛相が説明する。
「被害はスロリア中部各地に及んでおります。村落の住民は悉くが拉致もしくは殺害されており、犠牲者は現地在留の邦人も含め400名に及んでおります。辛うじて襲撃を生残った住民も住居と田畑を失い難民化しております」
「……深刻だな」
「問題はその武装集団の規模です。村落の被害状況と時系列より察するに、少なくとも一個旅団規模の数ではないかと……」
瀬尾が声を荒げた。
「信じられん。そんな大軍が何処から湧いて出たんだ!? それに何故今なんだ?」
植草が瀬尾に向き直った。
「これはPKO現地司令部がJICA現地法人より得た非公式の情報ですが、四日前スロリア東部出身と思われる姉妹二名を保護し、親元に帰す途上で現地の住民とは明らかに風貌の違う集団と姉妹の処遇を廻って揉み合いになったそうです。現在姉妹は親元に戻れず、JICA職員によりノイテラーネの支部で一時保護されております」
「姉妹……?」
「それが事態の根本の原因とは断定できないが、理由の一つであることは確かでしょう。しかし、報復にしては規模とその対象においてあまりにも筋違いです。釈然としない」
「もっと別の理由がある……と?」
そのとき、松岡陸幕長が言った。
「小官が愚考いたしますに、これは一種の侵略ではないかと思われます」
河は煩わしげに顎を撫でた。
「随分と突飛で過激な見解だな幕僚長。連中はそのまま居座るというのかね?」
「その可能性は無きにしも在らずです」
暫しの沈黙……やがておもむろに河は口を開く。
「……これらの事実は、今直ぐにでも報道機関に公表したほうがいいと思うが、どうか?」
「JICAの現地支部の発表という形から公表を始めた方が宜しいでしょう。その後官房長官の口から政府見解を出した方がいい」と、村川防衛庁長官。
「宜しい、そうすることにしよう。あとは藤森君にも諮らねばならん」
藤森 伸枝 外務大臣のことに河は言及した。いずれ武装勢力との間に何等かの交渉を持つことがあろう。河は瀬尾に向き直った。
「瀬尾君。南スロリア沖の難民船の件はどうなっている?」
「その件ですが、先程該当海域に到着した海保のヘリコプター巡視船より報告が入っております。結論から申し上げますと……あれは難民船というより、奴隷船です」
河は、苦笑した。
「それは何時の時代の話かね? 瀬尾君」
「驚かれるのももっともでしょうが、臨検隊員の報告から導き出された紛れも無い事実です。ここがいわゆる『異世界』であるということをお忘れなく」
「……詳しく聞こうか」
河は、身を乗り出す。
「乗船者は合計2000名。内半分が女子供です。臨検班が彼らを事情聴取したところ、彼らはスロリアより北西に位置するノドコール王国の国民であり、侵略者に反抗した罪で奴隷に身分を落とされ、辺境に売られていく途上であったと……」
「で、その船がなぜこの海域にいるんだ?」と村川。
「航海途上で反乱を起こし、船を乗っ取ったと言っております。その反乱を起こされた乗員は、すでに海保側に引渡されております。彼らは彼らで、自分たちは雇い主に頼まれただけで、奴隷とは何の関係もないとの一点張りでありますが」
「…………」
「それともう一つ。先日からの国籍不明機からの接触はその頻度を一層増しております。低空より該当船舶の上空を航過することもしばしばあるそうです。現場によると明らかにこちらに対する挑発としか考えられないと……」
村川と瀬尾が顔を見合わせた。
「それが連中の雇い主だろうか……?」
「あるいは……」
「警戒の巡視船を増やしたまえ。あと、海自にも出動命令だ。植草君、近海を航行する
と、村川防衛相が植草幕僚長に向き直った。植草は頷いた。
「ヘリコプター搭載護衛艦が一隻。あとは汎用護衛艦が一隻南洋諸国との合同訓練日程を終え、提携港へ帰港すべく一路沖縄近海を北上しております。向かわせますか?」
「護衛艦はいい」
と、河は手を振った。そして瀬尾に向き直る。
「巡視船の数を増やす」
そのとき、頷きかけた瀬尾の携帯電話が振動した。電話を取り出し、緊張した顔を隠さずに耳に充てる。
「私だ……」
報告を受ける瀬尾の顔色が一変するのをその場の全員がはっきりと見た。報告が終わり、切れた電話を畳む瀬尾の顔は明らかに驚愕に引き攣り、強張っていた。
「総理、那覇空港を発進し、該当海域周辺の警戒飛行を行っていた海保の警備機より報告が入りました。西方向より国籍不明の艦艇と思しき複数隻の船影が全速で該当海域へ向かっています……!」
「……どうしたものか」
嘆息し、河はソファーから腰を上げた。窓際に歩み寄り執務室外からのさして広いとは言えない視界に目を細める。部屋に差し込む強い日差しを浴びつつも、河はしばらくの間じっと窓際に佇んで物思いに耽るのだった。
心なしか、未だ夕暮れという時間帯ではないのに、日が傾きかけているように河には思われた。
「…………」
粛然とする一座の中。植草は携帯電話を取り出し通話ボタンを押し始めた……海上幕僚長を通じ、幾下の護衛艦隊に待機命令を出すために。