第四章 「難民船」
スロリア地域内表示時刻7月21日 午前11時23分。 スロリア亜大陸南方海域
二層に分かれた雲の間を、重厚なターボファンの響きが駆け抜けていく。
灰色一色の機体は、その異例なまでに太い胴体に比して薄く、そして短い主翼を持っていた。揚力と燃料消費効率を上げるべく施されたウイングレットの印象的な、灰色の主翼の真ん中に申し訳程度に小さく描かれた日の丸が、雲間から注がれる陽光を直に吸い込み、眩いばかりに赤く照り映えていた。
その主翼に四基搭載されているジェットエンジンの内、稼動しているのは内側の二基のみだったが、それでも見るからに鈍重そうな機体を驚くほどの軽快さで空高く舞わせていた。機は燃料節減のための巡航モードに入っていたが、これでも前任機P-3Cの最高速度ぐらいは出ている。
操縦席からの眺めは、ただ壮観の一言に尽きた。見渡す限りに広がる白銀の雲海を、海上自衛隊第五航空群所属のP-1哨戒機機長 小田桐 毅二等海佐は食い入るように見詰めていた。
P-1は、従来型のP-3Cの後継として「転移」の遥か以前より開発が開始され、「転移」前後から実戦部隊に配備が始まった海上自衛隊の新鋭哨戒機だ。エンジンを従来のターボフロップからより高出力を出せるジェットエンジンに換装したことにより、機動性、上昇力に飛躍的な性能向上を見たことはもちろん、兵装搭載能力もまた従来の対潜魚雷、対潜爆弾、対艦ミサイルに加え、P-1では自機防御用の空対空ミサイル及び対地攻撃用のミサイルや誘導爆弾まで搭載できるまでに向上している。対空/対水上レーダーもまた高精度のものを搭載し、広範囲な策敵距離と高い解像度とを持ってこの哨戒機に大きな威力を加えていた。だがそれら以上に画期的な点は、新開発の戦術コンピューターの導入により、より自動化され、かつ迅速な対潜作戦を実施できることにあった。
透明な風防ガラスに映し出される緑色の数値……現在の対気速度470ノット/時……飛行高度24300フィート……第二、第三エンジン出力六〇パーセント……兵装管制装置オフ……P-1では
大小数十ものアナログ計器とセンサー端末に溢れていたP-3Cの操縦席に比して、P-1の各種飛行情報は、機体コントロール、戦術情報表示、航法表示の大きく三つに大別される
『……機長。あと三分で返針点です』
「転移」前の国際情勢の混乱に起因する在日米軍撤退により、日本政府にその管轄を引き継がれた沖縄県嘉手納飛行場を発進し、何の寄る辺も無い洋上を飛ぶこと四時間余り……すでにP-1は高度を下げ、エメラルドブルーの海原を睥睨するように飛んでいた。ここからさらに北へ飛べば、スロリアの南岸に到達するはずだ。
日本周辺にこれといった安全保障上の脅威が無いという事実は、いささか逆説めくものの、皮肉なことに周辺地域の安全保障に最も充実した防衛力を持つ日本が責任を負わねばならないという事態を引き起こしていた。国外からの要請を受けての災害派遣や救難業務。外部から侵入する海賊や異種族の武装集団への対処。はたまた南洋の集落を襲撃する巨大海獣の駆除など、これらの脅威への対処能力を欠く周辺の友好国へ協力する形での自衛隊の任務は、国際復興支援活動や対テロ特別行動に明け暮れていた「転移」前と同じく、多忙と多彩さを究めている。
本来なら領海から遥か外の、スロリア海周辺まで足を伸ばして行う監視飛行も、そうした「対外貢献」の一つだった。現在この海域は、南西地域からもたらされる工業原料や鉱物資源を満載した船舶、もしくは当地域へ輸出する工業製品を積んだ多国籍の船舶の行き交う国際海域と化している。さらに近年、ちょっとした海底岩盤の調査の結果、この海域に豊富な石油が埋蔵されていることが確認され、日本の商社の主導で試験的に建設された石油掘削施設の稼動が始まったばかりだった。この辺りはいわば、日本のみならずその周辺地域の生命線ともなり得る海域だったのだ。
所要時間にして十時間……斯くの如き長距離哨戒飛行も、5000kmに及ぶ作戦行動半径を持つP-1なればこそであるし、海自にはP-1以上の航続距離を持つ機体は存在しない。
だが、この新鋭機の配備数は総体から見てまだまだ少なかった。未だP-3Cの多くが耐用年数に達するに至ってないという事情もあるが、「転移」により日本が周辺の重大な脅威から「解放された」ことによりP-1の調達ペースは大きく削がれ、P-1は現在では青森県八戸に本拠を置く第二航空群と、小田桐二佐らの所属する第五航空群に少数機が配備されているのみだ。
前方から双眼鏡を構えていた武器員の徳田一等海曹が、声を上げた。
「一一時より海上構造物……例の施設ですね」
機体が左に傾き、洋上の碧に浮かぶ黒点に、P-1の機首が向き直る。程無くしてそれは、次第に炎を吹き上げる煙突と複数の鉄骨を組み合わせた石油採掘施設となって小田桐機長の眼前に迫ってきた。そのまま姿勢を水平に戻し、機は施設の上空をフライパスした。あと二十分も飛べば、予定として機は帰投針路をとることとなる。
「ご苦労なもんだな、あんなところにまで石油を掘りに行くなんて」
と、小田桐二佐は言った。すかさず、
「……まあ、石油はあるに越したことはないでしょうから」
実は「転移」後、日本は三つの海底油田を開発し、稼動させるに至っている。東北地方沿岸部と沖縄近海、そして小笠原諸島近海である。特に東北と小笠原の油田開発の促進には「転移」という事態の影響が大きかった。
簡単に言えば、「転移」により、以前は国内需要を満たすには程遠い、細々とした生産量を産出する程度のものでしかなかった東北のそれは元々豊富な海底油田の存在する地盤に繋がってしまったらしく、その豊富な産出量は「転移」以前に懸念されていた資源確保の不安を一気に払拭してしまったのだ。
そして第二の衝撃が小笠原諸島近海で待っていた。元来海底の地盤に含まれていたメタンハイドレードを採掘する目的で建設された施設からは、「転移後」には良質の石油が溢れんばかりに出てくるようになったのである。異世界において、日本は石油の輸入国から産油国に様変わりしてしまったのだった……もっとも、産業構造及び社会機構の過半を石油以外の自活可能なエネルギーに負っている現在では、採掘コストの問題からこれらの生産分はもっぱら非常時の備蓄用に回され、日本は南方や西方の産油国から依然として石油を輸入し続けてはいるが……
現在小田桐たちが眼下に見下ろしている施設も、現在こそ日本人スタッフで運営されてはいるものの、生産が軌道に乗り、さらに開発が進んだ遠い将来にはスロリアに譲渡され、安価な値段で日本に供給されることとなっていた。それでも輸出の過程で、スロリアの商品流通の一切を制御する立場としてノイテラーネの手が延び、若干の「手数料」がかさむこともあり得るだろう。
施設を後にさらに数分を飛んだ後、また徳田一曹が声を上げた。
「……十時より船影。貨物船と思われる……いや、待ってください」
戸惑いがちな言葉を聞いた瞬間。小田桐の脳裏で何かが弾けた。直感の赴くまま、小田桐は指示を出す。
「徳田一曹、もう少し視認してみろ」
「リョーカイ。もう少し……あと少し機を左に寄せていただけますか?」
徳田一曹のキャリアは二十年。武器員でありながら飛行経験は操縦士である自分と同じ位ある。自分と同じく「転移」前からP-3C、P-1でフライトを重ねている歴戦の古強者だ。洋上を行く数多のフネの中で、どれが不審でどれがそうでないかを見分ける彼の眼には、皆が絶対の信頼を置いている。
「国籍は……?」
「わかりません……! 見たこと無い種類です」
「転移」から十年。周辺地域の情報収集に怠りが無いとはいえ、未だ分からないことも少なくは無かった。
「600フィートまで高度を下げる」
意思表示と共に機首を下げ、接近……巨大な、錆と重油に汚れた船体が眼前に広がったとき、さしもの小田桐二佐も、息を呑んだ。徳田一曹が後席に叫んだ。
「篠原、デジカメ……!」
同じく武器員の篠原海士長が、後方の窓から望遠レンズ付きのデジタルカメラを構え、眼下の船影に向けた。
「子供……?」
ファインダーの液晶画面に映し出された人影に、篠原士長は我が眼を疑う。甲板から出たみすぼらしい服装の子供達が、フライパスするこちらを虚ろな眼で見上げていたのだ。およそ貨物船の乗員と片付けるのには、あまりに不自然すぎる。
シャッターボタンに触れる指に、力が篭った。連続的に切られるシャッター。収集された画像は即座に基地に電送され、最終的には分析のため厚木の航空集団司令部まで送られることになる。メモリーカードを一枚使い切る頃には、P-1はすでにフネの上空を一旋回し終わり、高度を取りつつあった。
『――――こちら201。国籍不明の船舶を発見。当該船舶は速力16ノットで針路1-0-7へ航行中。針路依然変わらず。位置は……』
全搭乗員のインカムに、小田桐二佐の報告が空しく響き渡る。何気ない監視飛行の一コマ……最初は、誰もがそう思っていた。
……だが、これが後に続く波乱の幕開けとは、機内の誰もが思ってもいなかったのだ。
スロリア地域内表示時刻7月21日 午後4時40分 スロリア中西部
車を走らせている内、人が住む気配を感じ取ることが出来るようになってすでに三十分余りが過ぎていた。
あたりは人っ子一人見当たらない荒野。それでも、その黄土色の見渡す限りの平坦の中に、人の足跡を感じ取ることが出来たのだ。平坦の所々にぽつんと立つ枯れかかった木を眺める内、車内に流れる静寂を破ったのは妹のムレアだった。
「アッ……リンバの木」
あどけない口調とともに突き出された小さな指。姉妹の胸はすでに躍っていた。車窓からの風景と土の匂いに、姉妹は忘れかけていた故郷を感じていたのだ。ムレアを背後から抱くようにするムルナの瞳にも、これまでと違った輝きが宿りつつあるのを長谷川と椎葉の二人は見逃さなかった。
「家は……近いの?」
「もう少し……もう少しよ」とムルナの声――――小声の中にも、希望が宿りつつあった。
後席のヴァクサ達も驚きを隠さずに語り合ったものだ。
「それにしても……とんでもない場所に住んでやがる」
「村長の昔話を思い出すよ。昔はうちの村も、こういう風だったんだろうなぁ」
やせ細った、鹿のような動物を連れた人影と行き会ったのは、それからさらに五分ほど走った時のことだ。車を止め、長谷川は聞いた。人影は、襤褸を身に纏った老人だった。長谷川達のやって来た土地では、先ず見られない姿である。
「あとどれくらい走れば集落に着く?」
「……あんた達、見ない顔だが、何処から来なすった?」
「東だ」と言うと、老人は目を丸くしたものだ。
「東!……東はとてつもなく貧しくて野蛮な生活をしていると聞いていたが、あんたたちは何故そんな立派な身なりをしているのかね?」
長谷川達は顔を見合わせた。誰が、何の目的でそんなことを喧伝しているのか?
「この子達を知ってる?」
ダメもとで聞いたことだが、二人の顔を見るなり老人は腰を抜かし、地面に座り込んだ。
「まさか……教会の学校から逃げ出してきたのか!?」
その尋常でない狼狽振り……少なくとも、ここの住人が西方からの「侵入者」を恐れていることは容易に想像がつく。それが皆をさらに不安へと駆り立てる。
「おれたち、ここから生きて出られるんでしょうね?」
と、椎葉に聞いたのはヴァクサだ。
「少なくとも、取って食われることはないと思うがな」
と、少し投げ遣りな口調で椎葉は言う。
集落はここから十分、さらに東に歩いたところにあると老人は教えてくれた。車で行けばすぐの距離だろう。
土煙を上げ、再び発進……三分も掛からない内に車は丘を越え、幾つかの住居が立ち並ぶ盆地に出た。
そのとき、ムルナが叫んだ。
「アッ……」
「見覚え……ある?」
「そのまま行って」
言われるまでも無かった。車はそのまま集落へと突っ込むように入って行く。
「……ひでぇ」
荒れた道にタイヤを取られ、ガタガタと煩わしい振動を繰り返す車内で、椎葉はただ呆然としていた。無残に剥げた土壁。崩れかけた住居。そして、先程出会った老人と同じく襤褸を纏い、やせ細った人々……車が通るなり、物影に駆け込んだ彼らが怯えきった眼で自分たちの通過するのを見守っているのを椎葉は見逃さなかった。
「歓迎されていないようだな、俺ら」
「昔はもっと綺麗で、皆生き生きしていたのに……」
と、ムルナは涙ぐんでいる。それが皆の疑念を誘う。
「あいつらがやったのか? ホラ、教会とかなんとかって言う……」
「あの人たちは、わたしたちから何もかも取り上げて行った……土地も、言葉も、楽しいお祭りも……全部あの人たちの神様が許さないって理由で、取り上げてしまったの」
「…………」
集落の中の、畑作地と思しき場所に、椎葉は眼を凝らす。傍目から見ればどす黒いだけの、だだっ広い土地ではあったが、農業の専門家である椎葉にはそれが耕作用に拓かれた土地であることを一目で看破したのだ。
……だが、そこには一片たりとも緑は見えなかった。
「……ありゃあ、化学肥料だな。捲き過ぎの上にこの土地に合ってない。あんなことをすればいずれは何も育たなくなる」
「教会ってのが、やったんでしょうかね?」
「まあ、ムルナの親にでも直接聞いてみるさ」
そのとき、ムルナが言った。
「そこを右に曲がって……!」
言われるがまま車を進めた先。やや開けた土地に、一軒の土造りの家が建っていた。その途端、車が止まるのを待ちきれないかのようにムルナとムレアは後席から飛び出し、長谷川達の制止を振り切って家に駆け込んだのだ。
「ママ!……ママ!」
「ムルナ! ムレア!……生きていたのね!?」
溢れんばかりの歓声と泣き声を、彼等は車内から聞いた。感動の再会が一頻り過ぎ去った後、姉妹に伴われ、うら若い女性が家から進み出た。車から降りた椎葉達に、姉妹の母は、恭しく頭を下げるのだった。
「ムルナとムレアの母で御座います。娘達を助けていただいて、何とお礼を言っていいか……」
「そんなことよりお母さん、一体誰がこの子等をあんたから引き離したのかね?」
「……キズラサ教会です」
母親の語尾が震えるのを、長谷川と椎葉は聞いた。その口調と表情から、事情に疎い二人でも彼女が如何に彼らを恐れているかが判ろうというものだ。
「再会は嬉しいけど、あの人たちが何時、子供たちを連れ戻しに来るか……」
と、母親は言った。
「拒否は出来ないんですか?」
「そんなことをしたら……家に火を付けられます。只でさえ貧しい土地も、取り上げられてしまうわ。あの人たちはキズラサの神を信じないお前達に子供を育てる資格がないと言っては、私達から子供を取り上げているのよ」
「…………!」
二人は顔を見合わせた。自分たちのいる地域から、そう遠くない場所で深刻な事態が起こっている!?……それが明らかとなった瞬間だった。
一旦家から出、椎葉は長谷川の肩を掴むようにした。
「長谷川!……こいつは重大な人権侵害だぞ」
「……判ってますって」
「とにかく、姉妹を奴等から守らないと……」
「しかし……連中……その教会の話を聞いてみる必要もあるでしょう」
椎葉は目を剥いた。
「あの土地を見ただろう? 村の連中の様子も!……この期に及んでお前は未だそんなことを言っているのか?」
「一方の意見を聞いただけでは、正確な結論は下せません。何かとんでもない間違いが起こったらどうするんですか!?」
「間違いだぁ?……状況証拠は十分じゃないか! お前は俺が目の前で殺されてもなおよく調べようとでも言うつもりか?」
さらに長谷川が反論しようとしたとき、急に遠方が騒がしくなった。
「車……?」
建物の影から沸き起こる土煙。そして絶叫……ここに向かってくる車列らしき何かが、ここの住民に歓迎されていないことは確かだった。
「教会……」
放心したように呟いたのは母親だった。ムルナ達が怯えきった顔で彼女の後ろにしがみ付く様にした。
「あの人たちがここに来るわ……きっと連れ戻しに来たのよ」
家に続く道から沸き起こる土煙はやがて二台の車の形を伴い、車の形もやがて爆音を上げて向かってくる黒塗りの車となった。
型は?……こちらのものより半世紀近くほど古めかしいという印象を受ける。だが公用車を思わせる黒塗りと、その威厳を漂わせた古めかしさが故に、遭遇する端から「冗談の通じない」相手という予感がした。
車は――――長谷川たちの予想どおり――――ムルナたちの家の前で止まった。
反射的にムルナたちを庇うように抱く母親。ヴァクサ達も親子の前に立ち、招かれざる来訪者から三人を庇うようにした。
二台のドアが同時に開き、車はそれぞれの車内から三人ずつの男達を吐き出した。男達は皆無表情で、それでいて上から爪先までを真黒い服に包んでいる……それが一層、皆の警戒心を煽るのだった。
その彼らの感情など、一片も意に介さないかのようにゆっくりとした足取りで歩み寄る六人……その中で最年長らしき初老の男が言った。
「子供がいるな……?」
穏やかだが、突き放すような感触を受ける声だった。母親は、姉妹を抱きながら無言で首を振った。それが答えだった。
「渡しなさい」
そのとき、長谷川は六人の前へ進み出た。未知の種族を前に、その顔は緊張で硬直ぎみではあったが、それでも彼の足取りは確かで、軽かった。
「我々は、ここより西の土地から子供達を送って来たものですが。宜しければ、何故こんなことをするのかお聞かせ願いませんか?」
「…………」
長谷川の言葉に、初老の男は沈黙を以て応じた。
「私の言っていること……判ります?」
「お前達は? この土地の人間ではなさそうだが……」
男の言葉を前に、長谷川は気を取り直したようにポケットを弄った。ややあって取り出したのは、スロリア公用語で印刷されたJICAの認識票と名刺……それを、おずおずと男に差し出す。
「私……こういう者です。出来れば、ここは話し合いで解決した方が……よくありません?」
「…………」
再び沈黙のまま、男は長谷川を睨みつけるようにした。遠巻きにその様子を伺っていた椎葉が、
「あのバカ……!」
と声にならない声で呟いた。言葉が通じない、否それだけではなく思考の共有すら侭ならないような相手に、こちらの習慣を持ち込んだところで余計な混乱を招くのは目に見えている。
「スロリア語は、読めるでしょう?……ひょっとして、読めない?」
「穢れた土地の言葉など、読む気にもならん」
「じゃあ話を戻しましょう。何故、子供達を親元から引き離すなんてことをするのですか?」
「我々には、この子達を救済する使命がある」
「救済だぁ……?」
唖然とする長谷川を差し置き、「オイ待てよ!」と肩を怒らせて進み出たのは椎葉だった。
「救済するべきは何もこの子達だけじゃあないだろう!? さっき車から見てきたが、ここの状況は深刻だ! このままだと皆が死んでしまうぞ! 今直ぐに住民への支援を要請する!」
「キズラサの神に従わぬ者に救済に足る資格はない。彼等はそれを自らの意思で選んだのだ。純朴なる子供達こそ、この呪われし地から救うに値する」
「救うやつを選り好みする神様に、誰が付いて来るって言うんだ? お前らが拝んでいるのはそんなにケツの穴が小さい神様か!?」
「貴様っ!」
一人の黒服が目を剥いた。それには目もくれず、椎葉はなおも続けた。
「俺の国にこんな言葉がある。『善人なおもて往生を遂ぐ 況や悪人をや』だ。あんたらにとっては不信心者でも、あの子達にとっては神様以上に掛け替えの無い肉親だ。あの子達を救ってやる意味でも、親子何不自由なく暮らさせてやることはできないか?」
「キズラサの神は言われた……我に従わざる者には永遠の苦行を。我に抗う者には末代までの呪いを……そして、偽りの神を信じる者には苛烈なる罰を……!」
「何……?」
「戒めよ……!」
男の命令は単純で、そして的確だった。何時の間にか背後に回りこんでいた黒服が、背後から椎葉の背を棒で強打したのだ。
「……!?」
許容度を過ぎた背部への衝撃に椎葉の意識が飛び、彼は腰から地面に崩れ落ちた。
「椎葉さんっ!」
驚愕した長谷川がさらに棒を振り上げる男に組み付き、揉み合いとなる。そこにもう一人の黒服が棒を振り上げ烈しく長谷川の腰を打った。激痛に姿勢を崩した長谷川を、再び振り下ろされた棒が容赦なく襲った。
「センセイッ……!」
ヴァクサたち三人が一斉に男達に飛び掛り、場は一気に収集の着かない乱闘へと発展する。倒れた椎葉を庇いながら乱闘の環から抜け出した長谷川の眼前に、今度は衝撃的な光景が広がっていた。
「お願いですっ……子供を連れていかないで……!」
「離せっ!……この蛮族めが!」
泣き叫び、母親にしがみ付く姉妹。それを黒服の腕が容赦なく引き剥がそうとする。それも二人掛り……! 引き離されまいと必死に追い縋る母親を、棒の一撃が弾き飛ばした。倒れ込み、そのまま動かなくなる母親を前に、姉妹の絶叫が響き渡る。
「ママァーーーーーー!!」
「…………!」
愕然としてその光景に眼を見開く長谷川の脳裏で、何かが弾けた。意識の朦朧とする椎葉を揺すり、耳元で囁く。
「椎葉さん?……生きてますか?」
「ン……?」
「車を、頼みます」と、長谷川は車のキーを握らせた。驚いたように、椎葉は長谷川を見上げた。
「……わかった!」
椎葉を車へ向かわせると、長谷川は猛然とダッシュし、姉妹を抱える一人に強烈なタックルを浴びせかけた。突然の急襲に男は派手に三メートルも吹っ飛び、腕から解かれた姉妹が倒れた母親に泣いて駆け寄る。
「ママッ! ママァッ……!」
姉妹の呼びかけにも拘らず、母親は動く気配を見せない。それが長谷川をさらに愕然とさせる。
「さあっ! 来るんだ!」
躊躇うまでも無かった。なおも母親にしがみ付く姉妹の手を引き、長谷川は駆け出した。その後を追う黒服の針路を遮るように、椎葉の運転する四駆が派手にスピンし止まった。助手席を開け、椎葉は怒鳴った。
「長谷川っ、乗れ!」
姉妹を連れて助手席に飛び込み、長谷川は勢い良くドアを閉めた。その直後、追い縋る男が振り上げた棒が、ガラスを強かに打ち、叩き割った。
「キャァァァァァァァッ!」
ムルアはムレアを庇うように抱き、その上から長谷川が覆いかぶさるようにして飛び散るガラスから姉妹を庇った。車を勢い良くバックさせながら、椎葉は声を荒げた。
「この馬鹿野郎! あとで請求書を回しておくからな。覚悟しとけよ!」
車は凄まじいまでの土煙を上げ、ターンから乱闘の環へと突っ込む。それが終わりの合図だった。さっきまで散々黒服と取っ組み合っていたヴァクサたちが、吸い込まれるようにして車に駆け込んでくる。彼等が乗り込むのを確認するまでも無く四駆は急発進し、怒声を上げて針路を塞ごうとする黒服を蹴散らし、黒塗りの車にバンパーをぶつけて弾き飛ばすのだった。
四駆は凄まじい速さで隘路を抜け、すぐに集落を飛び出した。それでも椎葉はアクセルを緩めない。
椎葉は助手席を見遣った。
「ガキ共に怪我は無いか?」
「ええ……何とか」
眼に涙を溜め、ムルアは長谷川を見上げた。
「ねえ、ママはどうなるの? ママは……!?」
「…………」
長谷川は口篭った。見た分だと……多分、助からない。だがそんな真実は子供の前で口に出すべきではなかった。
「それにしても……何なんだあいつら」
乱闘で切った口から溢れる血を拭いながら、ヴァクサが言った。
「どう見ても、話し合いの通じる相手ではないですよ。ロンガル神殿を襲ったのも、多分あいつらだ」
「ああ、おれも身を以て知ったところだ」
運転しながらも、椎葉はなおも背中の痛みに耐えていた。締め付けられるような、勘に触る痛みである。
「……そんな連中に、話し合いを持ちかけようとしたバカもいるけどなぁ」
と、椎葉は忌々しそうに長谷川を見遣る。長谷川は不貞腐れるように俯いた。
「……我々の考えるまともな判断力を持つ人間なら、確かに議論を戦わせようとするでしょう。しかし我々と彼等とではどちらが正しいかはともかく、彼らのやり方は明らかに我々のそれとは確かに違う……だからといって対話を放棄するわけにはいきません」
「で、平和主義者のお役人はこれからどうするんだ?」
口調には多分に嘲弄の雰囲気が漂ってはいたが、それも彼なりの場を和ませるためのユーモアであるのに違いない。
「私というより、あの連中が今後どんな手に訴えるかでしょうね。彼らは明らかに我々と殆ど代わらない文明を持っているようだし、現地の様子からして住民に対する何らかの強制力も持っているはずです」
淡々とした口調が、一層その内容の深刻さを浮き彫りにさせるのだった。一瞬にして凍りつく車内の空気を他所に、長谷川は続ける。
「……彼らはおそらく、その強制力を前面に押し出して我々の方にやって来るかもしれません。この子らを『救出』にね」
「待てよ……あいつらが武装して来るってぇのか?」
「あくまで……可能性の一つです。彼等が平和的に訪ねて来れば、その限りじゃあないですけど」
椎葉は頷いた。
「それは確かだろうな。なんせロンガル神殿に火を掛けるような連中だ。ガキ共がいようがいまいがいずれうちの村にも手を延ばしてくるぞ。二人の保護なら、村よりお前の役所にでも任せてもらった方が確かだと思うが……ついでに、村の警護も要るな」
「警護の人間ぐらい、俺が近隣の村を回って集めてきますよ」と、ヴァクサが自信有り気に胸を叩く。
二人の会話を他所に、ノイテラーネへの報告書の文面についてあれこれ思案しながら車を走らせているうち、長谷川は自分に集中する微妙な視線に気付く。
「…………?」
ムルナとムレアだった。隣席から心配そうに彼を見上げる姉妹に、長谷川は微笑みかけた。だがその口元はかなり引き攣っているはずだ。
「……大丈夫、きっとママのところに帰れるさ」
「ウン……!」
瞳に涙を溜めて頷く姉妹の頷きに、長谷川は自分の言葉に後悔した。人は、自分が信じてもいないことを、他人に信じさせなければならないときがある。だが、青年にとってその時はあまりにも残酷な時間だった。
日本国内基準表示時刻7月21日 午後6時27分 東京 首相官邸
「――――現在第十、第十一管区所属のヘリコプター搭載巡視船が全速で現場海域に急行しております。遅くとも二日以内に現場に到着するかと……」
傍に付き従う国土交通次官直々に報告を受けながら、河首相は只無言のまま官邸二階の執務室へ続く廊下を歩いていた。
その表情に、つい三十分前に行われた南洋諸国代表団との会談で見せた柔和さはとっくに消えていた。背後に神宮寺幹事長と瀬尾 光一郎国土交通大臣を従え、足早に歩を進めるのみだ。
その日の午前中、海自の哨戒機により南スロリア沖を航行中の巨大な貨物船が発見されてからすでに七時間近くが経過している。単なる貨物船であるのならば普段は物資を満載したフネが行き交う南スロリア近海の、ごくありふれた光景であるはずなのだが、今回ばかりはいささか勝手が違っていた。
執務室に入り、応接用ソファーに三人がどっかと腰を下ろすのを見計らったかのように、次官が写真を取り出した。
「これが、該当船舶の甲板を捉えた写真です。この四枚は午前一一時と午後一時に、海上自衛隊のP-1哨戒機により撮影されたもののコピーです。そしてこちら五枚が、今より一時間前、海上保安庁那覇航空基地所属の長距離機により撮影され、東京の本庁に電送されてきたものです」
「ふむ……」
差し出された二枚に、河は眼を曇らせた。長旅のせいか薄汚れた甲板に集り、こちらを見上げる人影は撮影時間を追うごとに目に見えて増えていた。そのいずれも、乗客と言うより難民を思わせる粗末な身なりをした人々ばかりである。女子供が目立つその群集は素人目に見ても、乗員や乗客というなりではなかった。
黒縁の眼鏡を押し上げると、河は聞いた。
「海保の方では、何と言っている?」
「分析官によればおそらく西方の、未だ我々の関知の及ばない地域より何らかの理由で逃れてきた難民ではないかということですが」
「……で、行き先は何処かね?」
「該当船は午後四時二三分に試験操業中の海上油田施設の南西三〇キロ沖で停止、現在に至るまで漂泊中です」
ここで、神宮寺が口を挟む。
「ところで、何故報告が遅れた?」
瀬尾国交相が口を挟んだ。
「ハァ……当初はここ数年途絶えていた海賊事案の再来かと思われましたが、諸状況より勘案する限りではそうではないものと私が判断しましたので、総理には少し小耳に挟んでいただく程度で宜しいかと……現状での監視任務は海自より第十一管区海上保安部に移管しております。現在那覇空港を発進した長距離機が該当船舶上空を飛行中です」
「巡視船を差し向けて、臨検するというのは……?」
「それは現在、第十管区のヘリコプター搭載巡視船一隻が現場海域に向かっております。現場には、二日以内に到着するのではないかと……報告は以上です」
「宜しい。何か変化があったら直ぐに報告するように。今度は気兼ねする必要はないぞ」
瀬尾の肩を叩き、河は笑いかけた。二人を退出させると、すぐさま神宮寺に向き直る。
「難民だったとして、問題はその受け入れ先だな」
「我が国が責任を負わねばならんだろう。収容といっても一時的に身柄を預かるだけだ。永久に止めておくわけではないさ」
そう言いながら、神宮寺は胸ポケットをまさぐった。煙草を取り出し、一本を口に咥える。
「オイオイ……禁煙中じゃなかったかな?」
「家内の前だけさ」
黄ばんだ歯を見せて笑いつつ、神宮寺は100円ライターの摘みを擦った。二三回繰り返して煙草の先端が黄色い炎に染まる。
そのとき……ドアを烈しくノックする音。ややあって、瀬尾と次官が緊張した面持で再び姿を現す。
「再び失礼します……!」
「どうした? 忘れ物か」
「先程哨戒飛行に出た救難機より報告。国籍不明の大型機が当海域に侵入。該当船舶の上空2000mを通過しました。該当機は今なお周辺上空を飛行中です」
「敵対行動を取ったか?」
「いえ……救難機は二度接近されたそうですが。それ以外は何も……」
「瀬尾君、何か指示は出したか?」
「はっ……海上保安庁に命じ、鹿児島の第十管区所属のヘリコプター巡視船二隻を現場海域に向かわせました。福岡の第七管区にも待機を命じてあります」
「宜しい。警戒を怠らぬように。些細な変化も見逃してはいかんよ」
「ハッ……!」
「空自の戦闘機を上げないのか?」と神宮寺。
「いや、あの海域は我が国の防空識別圏外だ。あからさまな行動は取れない」
「やれやれ……周辺諸国に対する配慮というやつか。住む世界が変わっても気苦労が多い」
ソファーに凭れかかり、愚痴をこぼす神宮寺に、河は向き直った。
「前の世界と違うところは、先方に我が国の配慮を逆手に取るような狡猾な輩がいるかいないか……ただそれだけの違いだ。私は、先方がそんな思考の持主ではないと信じておるよ」
少なくとも河は、この時点では自らの判断には自信を持っていた。