第三章 「寧日のスロリア」
スロリア地域内表示時刻7月20日 午後6時43分 スロリア中部
まどろみの中で、木の香を嗅ぎ続けてどれ程の時間が流れて行ったことだろう。
填めっ放しのイヤホンからは、MPプレイヤーが何度目かのクラシック曲を相変わらずに奏で続けていた。音楽を聴きながら眠りこけているのは余計な無駄だ。日本の都会と違って、ここでは気軽に充電できるわけではないというのに……。
何かに弾かれるかのように長谷川 真一は半身を起こした。見上げるとここに着いた時にはあれほど空高くから黄色い光を投掛けていた太陽は、とっくに深紅に腫れ上がり、縁側から臨む緑の丘陵の遥か向こう側にその下端を接しかけていた。初々しい木の香と共に、何処からか漂ってくる野焼きの臭いが、独特の哀愁を帯びて長谷川の鼻と胸を擽るのだった。
藁を編んだだけの寝床から起き上がり、胡坐の姿勢のまま、長谷川は縁側まで動いた。彼はもっと近くで外の田園風景を見ようと思ったのだ。ここからずっと向こう側の、山の稜線までの一帯に広がる甘藷畑が、この地で初めて青々とした葉を覗かせるようになってすでに一週間が過ぎようとしていた。
縁側から右手の丘の中腹。最近岩がちの荒地から切り開いたばかりの畑に入れた鋤を、漫然と引くグボグボの雄叫びが、間延びしたように聞こえてきた。グボグボとは、スロリア中部から東部に分布して生息している巨大な有蹄類だ。ちょうど角を矯めた牛を毛むくじゃらにし、さらに1.5倍ほど大きくしたような印象を受ける。現地では主に農耕用、もしくは輸送用として使われていた。
何かを思い出したかのように、派手な寝癖の付いた頭髪を掻き毟りながら、長谷川はカーキ色の作業衣を弄った。ややあって取り出した携帯電話の端末を開き、電波が届いているかどうかを確認する。
舌打ちと共に節電モードを解き、端末に目を凝らした途端、長谷川の顔が曇る。携帯の端末は、持主が一眠りしている間にノイテラーネに拠点を置く出張所から十件ほどのメールが断続的に入って来ていることを示していた。科学の力というやつは、こんな辺鄙な場所にまで上の指示を押し付けるのに役立っている。
「転移」後まもなくして、日本が衛星軌道に張り巡らせた衛星通信網は、この異世界においても素晴らしい成果を発揮している。何せ何時でも何処でも、前世界―――つまり、「転移」前に日本が存在していた元の世界―――にいた時のように通話が出来るし、メールの遣り取りも出来るのだ。こうした世界規模の情報網の急速な整備は、「転移」後の日本をこの世界でも地域随一の経済大国として復興させる上で大きな原動力となった。
もっとも、そんな利便性など、今の長谷川にとっては束の間の休息の邪魔でしかない。メールとは言っても、どうせ何時もの定時連絡の催促ぐらいなものだ。東京にいる恋人にも、こんなところまでメールを送ってくれる機転など期待してはいない。そんな漠然とした予感は、携帯のメールを開いた際に、瞬時に確信へと変わる。
長谷川 真一は、JICA(国際協力機構)の職員だ。国際協力事業の行われている現地に赴き、本部と現地スタッフとの折衝や事業日程の調整を担当している。職員……とは言っても実際には彼は通商産業省からの出向組であり、本来なら東京は霞ヶ関の本省で、連日を表計算ソフトの数字と睨めっこして過ごしているところを、時節の廻り合わせは彼をして、普通なら恐らく一生涯縁を持つことの無いはずのスロリアまで赴かせるに至ったのであった。
発展途上の状態のままこの世界に「転移」してきた国家、種族を困窮から救済し、安定した地域安全保障を確立することは「転移」後の日本外交にとって重要な懸案となっていた。援助や技術協力、そして地域の将来を担う人材育成に代表される各種方策は、やがては地域に順調な発展をもたらす。こうした地域の安定確保は、軍事力に拠らない日本の安全保障に寄与するのは勿論、それに続く地域、種族の経済的発展は長期的には日本製品の輸出市場の開拓にも繋がる。しかし、政府が直接関与するのでは内政干渉との謗りも免れ得ず、ここで独立行政法人たるJICAの存在が光ってくるというものであった。
自分が現在従事している仕事が、前述の点からも重要なものであることぐらい、長谷川も理解していないわけではなかったが、ここに赴くに当たって朝暗い内からノイテラーネの大都市群を発ち、そこから先月に陸自の施設科部隊により漸く舗装の終ったばかりの幹線道路を、まる三日かけて四輪駆動車を飛ばし、農業支援の行われているこの村に辿り着いた時には、立ち上がる性根すら残されてはいなかったのである。
お役人には、酷な仕事だ……と、内心では思う。
時間にして二時間四三分遅れで定時連絡を送信し、長谷川は再び板葺きの床に横たわった。仰向けの姿勢のまま目を転じた庭に停めた彼の四輪駆動車には、何時の間にか村の子供達が寄ってきていて、物珍しげに運転席に座ったり、天井に上ったりしては嬌声を上げていた。それを見ても、彼には別段怒る気にはなれなかった。自動車というものなど生まれて初めて見る人間が、この地域には圧倒的に多い。それを思えば、そんな珍しいものでここに乗り付けて来た自分にも非があると言えるのかも知れない。
スロリアの子供達は可愛い。衣装といい、その顔立ちといい、まるで子供の頃夢中になったロールプレイングゲームかファンタジー小説の世界から抜け出してきたかのような印象を受ける。もっとも、過去十数年間に日本が直面してきた事象もまた、まさにファンタジー小説のそれだったが……
庭で遊ぶ子供達の様子に何時の間にか見入っている長谷川を、呼ぶ声があった。
「長谷川サン……?」
「ん……?」
気が付くと、丈の長い民族衣装を着こなした女性が、長谷川を見下ろしていた。その手には、吹かしたばかりのサツマイモを盛った竹篭。女性は微笑みかけ、腰を屈めた。
「ご飯まで、まだ時間がありますから、小腹が空くだろうと思いまして……」
「いえっ……お気使い無く」
思わず正座となり、申し訳無さそうに頭を下げる。スロリアの女性は優しい。今の日本の女性に無い奥床しさがある……というのは穿った見方だろうか?
目敏い子供達もまた、自動車を弄っていた手を止め、サツマイモの籠に駆け寄って来る。女性は眉を顰め子供達に声を荒げる。
「ダメッ!……これはお客さんにあげるんだから」
「ええーっ、一つぐらいいいいじゃん」
長谷川は苦笑すると。受取った籠から手ずからに子供達にサツマイモを分けてやるのだった。あちこちから延びる泥だらけの手で籠が空になるのに、それほど時間は掛からなかった。
「それにしても良かった。こちらが持って来たサツマイモが、こんなに好評とは……」
「……これが無かったら、おそらく私は産まれてなかった」
女性はポツリと言った。その言葉には、心からの安堵と平穏……それは、事前に「転移」前後のこの地域の惨状を聞いていた長谷川には、重く圧し掛かる。
「転移」前、ここスロリアのシンヴァイル地方は相次ぐ戦乱と旱魃により、危機的な情況にあった。今しがた蒸かしイモを持って来た彼女―――サクラの父であるグド村長は、日本の協力機構がこの地に足を踏み入れる以前から、飢えと渇きに苦しむ多くの人々と同じく、かつては見渡す限りの荒地だったこの土地と悪戦苦闘を重ねてきたものだった。
日本政府の支援と協力が無ければ、混乱と困窮は未だに続き、現在広がっているような田園風景は存在し得なかっただろう。だが最終的には、現地住民の土地に対する愛情と生存への熱意が土地を蘇らせ、人々に笑顔を取り戻したのだ……口には出さないものの、長谷川はそう思うのだった。
すっかり暗くなりかけた小道の向こうから、子供が駆け込んできた。
「カアチャン。只今ぁー」
と、子供はそのまま縁側に駆け上るなり、サクラに抱きついて来る。自分に蒸かし芋を振舞ってくれたうら若い女性が、実は既婚者であることに軽い失望を禁じえない長谷川であった。少し遅れて、グボグボに曳かせた荷車が野良仕事から戻った大人たちと子供達とを満載し、車輪の音もけたたましく庭に入ってきた。荷車が止まるのを待ちきれないかのように、子供達が脱兎の如く家に上がってくる。その後にグド村長をはじめ、彼の一族に連なる男達が降りてくる。
「サクラや、先生に足を洗うお水を……」
と、一同で一番背の低い、ずんぐりとした体躯の老人が言った。グド村長である。その後ろから談笑しながら敷居を跨いできた一人の日本人には、見覚えがあった。
「先生、お邪魔してますよ」
「何だ役人か、こんなところまで何の用だ?」
と、嫌なものでも見るような眼つきで、長谷川を睨みつける。ボロボロの麦藁帽子から覗く顔は真っ黒に日焼けし、どす黒く汚れたランニングシャツからは、年齢に似合わない、細いながらも針金のような筋肉が汗をテカテカと光らせていた。彫刻の如く皺の刻まれた顔の眉毛や鬢、同じく無精髭には白い物がだいぶ混じっていた。
「やだなあ先生、進捗状況を教えてもらいに来たんですよ」
「そんなもの、わざわざここまで教えてもらいに来なくたっていいじゃないか」
ブツクサ言いながら、男はサクラが持ってきた水を満たした盥を抱えると、それを地面に置き、腰を下ろす村長に足を延ばすよう促した。差し出された足を、その初老の男は自分の手で丹念に洗う。
「すいませんねえ、センセイ」
「なあに、今夜のメシ代代わりですよ。こいつの分の」
と、長谷川を指差す。長谷川は思わず目を剥いた。
「散々迷った挙句にガス欠寸前でここまで来たぼくの気持ちも察してくださいよ……! まったく……先生が正確な地図を寄越さないもんだから」
「地図が読めねえてめえが悪いんだよ」
と、初老の男は草履を脱ぎ捨て、そのままドカドカと家に上がり込んだ。その辺の酔払いのような口調でまくし立てるこの男が、かつては日本において農学の大家として馴らした逸材であることに、一体誰が思い当たるであろうか?
男の名は椎葉正一。農学博士というのが現在の彼の一般的な肩書きである。さる名門大学の教授職を定年で退任後、第二の人生としてこうした国際協力事業に関与するに至り、すでに十年近くが過ぎようとしていた。
国際協力は今のところ、この地域における日本の声望をいやが上にも高めている。周辺の中小国は競って日本と各種の協約を結び、今やそうした各国の市場には日本製品が溢れ、娯楽の輸入や放送事業を通じ日本の文化はさして拒否感を示されることなく受け入れられている。一方で中小国からは固有の天然資源や農作物などが日本に輸出され、日本は嫌な顔一つせずそれらを買ってくれる。さらには治水や港湾整備、そして道路整備など、自国の手に余る大規模な開発事業も場合によっては協力し、全面的に請け負ってくれる。何等これといった代価を要求するわけでもなく、何等見返りを期待することもない・・・・・「転移」とそれに伴う混乱の傷の癒えぬ諸国にとって、これほど頼りになる友好国は存在しなかったのだった。
空の雲行きは、長谷川が着いたときとは打って変わって怪しくなっていた。
その夜の食事は、蕎麦粥と根菜の漬物。そしてサツマイモを練って作った麺が出た。ここ一帯の住民の例にも漏れず、グド村長の家もまた大家族だ。家長である村長を上座に、彼の一族郎党二〇名近くが一斉に食事を取る。ひとつの家で、これだけの家族を養えるようになって未だ五年も経っていなかった。これもまた、椎葉たちが持ち込んだ荒地作物の育成が成功した結果、安定した食糧生産が可能になったお陰である。
「まるで奈良の精進料理みたいだ」
という長谷川に、椎葉が言う。
「これがな、人間の食い物の基本なんだよ。肉なんて、ハレの日にだけ食べられれば十分だ」
「ハレの日……ですか?」
「お祭り用の食い物ってことさ」
サクラの子供のエディロが、長谷川に聞いた。
「トーキョーって、ものすごくでっかい街なんでしょう?」
「ああ、大きいよ」
「どれくらい?」
「そうだなあ、この村を十個並べても、未だ足りないなあ」
「ぼく、うんと勉強してトーキョーに行くんだ」
「そうかぁ、頑張れよ」
サクラの良人―――つまり、エディロ少年の父は二年前に薪取りに山に入ったとき、土砂崩れに巻き込まれて死んだ。それ以来サクラは息子を連れて村長の家に戻っていたのだった。自分を覗き込むエディロの瞳に、幼心に抱く母への愛を感じ取ったのは長谷川にとって決して誤りではないはずだ。
「トーキョーには、これより綺麗な灯りがいっぱいあるんでしょう?」
と、エディロが指差したのは、天井からぽつんと吊るされた白熱電球。電気が現在支援の及ぶこの最果ての村まで届くようになって、すでに二年が過ぎていた。電球だけではない。村にはすでに手動発電式のラジオも普及しているし、一部では農業の機械化も始まっている。
長谷川は、椎葉に向き直った。
「ところで椎葉先生、ちゃんと仕事をしてるんでしょうね?」
「なんだぁ? 人を泥棒でも見るような目で見やがって」
「そうじゃないですけど、三島さんと石川さんは、何処にいるんです?」
「あいつらなら、若い衆と一緒に現場で張ってるよ。若いもんはいいねえ、元気が有り余ってやがる」
「現場って、ひょっとして未だ井戸掘りやってるんですか?」
「ああ、俺ぁいずれはここで麦や米を作りたいと思ってるからな……まあ、それが本当に出来るまで俺は生きちゃあいないだろうが。要はゆっくりと、着実にってことさ」
元は大学の助教授だった三島と、大手の建設会社に勤めていた石川は、いずれも椎葉の大学時代の教え子だった。椎葉が国際事業に関わることを聞きつけた彼らは、これまでの地位も仕事も擲ってまで椎葉に付いて来たのだ。あとこの辺りにいる日本人といえば、エディロの通う学校の管理をしている横山という元中学教師がいるだけだ。
そのとき、ポツリポツリと何かが落ちてくる音を、長谷川は聞いた。
「あ……雨だ」
ささやかな音は、程無くして滝のような豪雨となった。
「雨なんて……三ヶ月ぶりですな」
「嫌な雨じゃのう……悪い予感がする」
村長が言った。ふと目を転じた先、エディロの顔が尋常でなく曇り出すのを、長谷川は見逃さなかった。
夕食が終ると、長谷川には持参したノートパソコンに向き合う時間が続いた。未作成の報告書や書類を、ノイテラーネの出張所から多く持ち込んでいたのだ。本来は椎葉に宛がわれた部屋で、長谷川が一人パソコン端末に向き合っている間に、当の椎葉は村長と地元に伝わる碁盤に興じていた。この村にやってきた当初すぐにグド村長に教えてもらったらしく、今では村でも無類に強い彼と三回やれば一回は勝てるという段階にまで腕を上げている。
エディロといえば、手作りの机にちょこんと座り、文字の書き取りをしていた。NPOにより日本から現地の子供達に贈られたノートや鉛筆は、こういう場面で役に立っている。現地の言葉の読み書き、そして文化の尊重と伝承は何よりも地域の独自性を守る上で何よりも重視され、こうした幼少世代への識字教育にJICAは最も力を入れていた。学校に通うエディロも今では、自分の名前を現地の文字で書けることはおろか祖父に字の読み書きを教えるくらいにまで上達している。
机には向かっているものの、エディロの様子に何処と無くぎこちなさを感じる長谷川だった。ソワソワしていて、一度机に向かったかと思えば驟雨降りしきる外へ目を凝らしている……あたかも外に、大切な忘れ物をしてきたかのように。
「あれぇ……ここに仕舞っておいたお芋が無くなってるわ」
と、台所で声を上げたのはサクラだ。
「…………?」
口元をゆがめたエディロが、ばつ悪そうに俯くようにするのを、長谷川ははっきりと見た。
何の寄る辺も無い夜道を前に、エディロは立ち竦んだ。
ゆっくりと、彼はついさっきに飛び出した家を肩越しに見遣った。何時もと同じく、家はひっそりと静まり返り、明かりの一つも点いた様子は無かった。それが彼を安心させたが、これから赴かんとする一寸先まで闇に覆われた山道を想像し、彼は奥歯を振るわせた。決して雨の冷たさのせいではなかった。
だがそれでも、行かないわけにはいかなかった。殆ど裸足に近い足は、烈しく地面を打つ雨に塗れ、泥濘の中に埋まっていた。斯くの如き豪雨の前には、粗末な編み笠では殆ど役に立たなかった。おでこや頬に張り付いた髪の毛をそのままに、エディロは歩き出した……夜に台所からこっそりとくすねて来たサツマイモを胸に抱きながら。
孤独に耐えてしばらく歩く内、開けた農道はやがて曲がりくねった山道となった。確か家からやや離れたこの山の何処かで、彼の父は薪取りに行き、同じような豪雨の中で土砂崩れに巻き込まれて死んだはずだった。だが、少年にはもうそんなことなど関係なかった。
「…………!」
不意に森の中で蠢く複数の人影に気付いたとき、エディロは自分の心臓が勢い良く撥ね上がる音を聞いたような気がした。程無くしてそれが彼と同じくこっそりと家を抜け出してきた彼の遊び仲間たちであることに気付き、安堵のため息を吐き出す。
「何だよ……脅かすなよ」
「御免御免、さあ、行こうぜ」
手に手に食料を持った少年少女の一群は、黒一色に包まれた森の中でも明らかに異彩を放っていた。中には薪と火種を大事そうに持っている者もいた。それに気付き、エディロは言った。
「おまえ、用意がいいな」
「こういうときは、まず暖を取らなきゃあ」
と、その少年は微笑む。
少年達は、再び歩き出した。そのまま森の中に分け入り、道なき道を昇り降りすること二、三十分あまり……やがて彼らは、森の奥にある小さな洞穴の前で足を止めた。
洞窟の奥に人の気配を感じながら、エディロは小声で呼び掛けた。
「おーい……出て来いよ」
ガサガサッ……という物音とともに、洞窟から出てきたのは二人……かつては白く、小奇麗だったであろう服は、今ではすっかり灰色に色あせ、汚れていた。エディロたちより背が高く、整った顔立ちの女の子と、いつも彼女に寄り添うようにしがみ付いている彼女より一段背の低い女の子……エディロ達がこの姉妹と出会い、大人たちに黙って面倒を見るようになってすでに一週間が過ぎていた。
エディロ達にとって奇異だったのは、二人が着ていた服が、自分達が全く見たことの無い服であったことだ。上品ではあるだろうが、どちらかといえば画一的で、一片の飾り気も無いその服は、彼らに以前に橋梁架設工事でこの村にやってきたニホンの兵隊を思わせた。
エディロは、サツマイモの入った包みを差し出した。一方では、洞窟に足を踏み入れた仲間が火を熾す準備を始めていた。
「さあ、食え」
少女は笑った。静かで、そして目に優しい笑顔を少女はする……思えばこの笑みが見たいがために、エディロははるばる山道を抜け、ここまでやって来たようなものだ。
「ありが……とう」
と、少女は言った。この年齢に似合わない、たどたどしい口調も彼らの疑念の一つだった。生まれつき上手く話せないのだろうか? それとも、おれたちの言葉を知らない?
差し出された果物に被りつく二人を、エディロ達は慈しむように見詰めた。少しずつ果物を齧る様が、この上ない育ちの良さを感じさせた。
ふと、仲間の一人が言った。
「なあ……おれたち、このままでいいのかなあ?」
「うーん……何時までも隠し通せないだろうし」
「うるさいなあ、いずれいい方法が見つかるって……」
エディロ達だって、このままの状態を続けることの無理を子供心にも悟っている。何せ相手は人間。森の動物を手懐けるのとは、わけが違う。いずれ二人は、帰るべきところに帰るしかない。そこが何処か、皆は今夜にでも聞くつもりだった。それに、二人の住処や食料を確保する過程で露見したであろう自分達の不審な挙動が、すでに親達の勘繰るところとなっていることに、子供達は薄々と感付いていた。
「誰かいるのか?」
と、声がしたのはそのときだった。松明の灯りが、洞窟の外を見遣った子供達の顔を赤く照らし出した。
「ジッチャンじゃないか……」
「ジッチャン」こと、炭焼き小屋の主フウが、細い、節くれ立った手に松明を持って洞窟の外に立ち尽くしていた。山篭り生活に携わる者の常として、フウは気難しく、孤高の性格の老人だったが、子供達は彼によくこの地方の昔話を教えてもらったり、彼の炭焼きの仕事を手伝ったりしていることから、十分な面識と人望があった。
「ここ一週間、森が騒がしいと思ったら……お前らの仕業か?」
フウの目が固まる子供達の一群の内、真ん中の一点で止まった。二人の女の子だった。
「その子らは?……見ない顔だが……」
「ぼくらの……友達だよ」
エディロの心許ない一言は、一層勢いを増す雨音に隠れ、皆には最後まで聞き取れなかった。
スロリア地域内表示時刻7月21日 午前8時27分 スロリア中部
長谷川の運転する四駆は、泥濘を掻き分けるように道を走っていた。
エンジンをかけ、走らせることすでに十分……漸く空調が効き始めた車内から、長谷川は空を仰いだ。昨夜の豪雨とは打って変わって、眩いばかりの太陽が雲間を掻き分けるように碧空に聳え、茶色の大地に指すような光を注いでいた。
荒地の故かしきりにガタガタと揺れる車内。椎葉は助手席に陣取り、先程から運転席に装備されたGPS端末に見入っている。薄い液晶端末は、遥か上空の衛星から取り込まれたなだらかな地形を、かなりの解像度で映し出していた。
「最新モデルですよ。珍しいですか?」
と、長谷川は言った。
「ああ、浦島太郎の気持ちがわかったような気がするよ」
そう言いながら、椎葉は短パンのポケットを弄った。ややあって彼が潰れた煙草の箱を取り出したとき、長谷川は眉を顰めた。
「椎葉先生、ここは今のところ禁煙です」
「ちぇっ……」
舌打ちしつつ、椎葉は後席に目を遣る。
夜の内に家を抜け出してきたエディロ達が連れてきた二人の女の子は、後席で凭れ合うようにして眠りを貪っていた。昨夜ぐっすりと眠っても未だ、山暮らしの疲れが抜けきっていなかったようだ。かつての経験から、自動車とは自分達の自由を奪う乗り物のように思われたのだろう。出発する最初の頃には、四駆というよりも自動車という存在そのものに明確な拒否反応を示していた二人も、今ではすっかり自動車のリアシートに全てを委ねている。
事が露見すると、村中は騒然となった。何せ昨夜突然に村の子供たちが消えたかと思えば、今朝になって炭焼きの老人に連れられ一斉に山から下りてきたのだ。しかも突然の「客人」まで伴っていた。
村長の家で出された粥を残さず食べ、一息ついたところで可愛らしい二人の客人は、そこで初めて素性を明かした。自分達は元々、未だ日本の援助団体の手が及んでいないここよりずっと遠方で、貧しい土地に住んでいたこと。それでも姉妹は両親とともに平和に暮らしていたが、ある日突然に西から奇妙ななりをした集団がやってきて、無理矢理に親元から二人を引き離し、長い旅の末どことも判らない場所に放り込まれたこと。そこには姉妹と同じ経緯で連れてこられた少女が数多くいて、「司祭」と名乗る黒服の一団より自分達の教え、命令すること一切に従うことを強要されたこと。それに従わない者は鞭打ちや軟禁など厳しい罰を受けたということ……そして二人は、何度も脱出を試みた末、収容されて四年目に監視の隙をついてその場所より逃げ出し、父母の家を求めて彼方此方をさまよい歩いた末にここまで辿り着いたということ……覚束ない上に、淡々とした口調ながらも、姉妹が話したことは衝撃的なものだった。
「おうちに……帰りたい」
姉妹が只それだけを望んでいることは、言葉の端々から誰の耳にも感じられた。二人の切実な思いを前に、長谷川としては自然と、ハンドルを握る手に力が入らざるを得ない。
家は西方にある……とだけ少女は言った。幼い時分に引き離され、記憶が曖昧になっているのだろう。それでも、行って見れば何がしかの答えは見出せるはずだった。
「そろそろ現場が見えるはずだけどな」と、椎葉が言った。
「……あれですかね?」
村の子供達の別れと励ましの声を背にして三十分……四人を乗せた車は、木製の板や丸太で組み上げられた構造物の各所に散らばる荒野に出た。
伸縮性に優れた木で組み立てた、複数の層に跨る足場と巨大なヒゴ車の組み合わせに、井戸堀の作業を連想できる人間は少ない。だがこれは水資源の掘削に必要な機材の搬入と整備が覚束ないような場所で、現地に存在する資材を利用することのできる最善の方法だった。この方式をこれが発明された地名を取って「上総掘り」という。
「上総掘り」とは、木材の弾力性に起因するバネの原理を応用し、先端に刃を付けた掘鉄管を地面に打ち下し掘り進めて行く方式だ。掘削時に出る土屑はヒゴ車を使って地上にまで押し上げ、最大で地下200メートル以上の地層にまで穴を到達させることが出来た。掘削に必要な人員も三、四人で済み、習熟も比較的容易なことから、日本の支援の及ぶスロリア地域では貴重な水資源を確保する手段として次第に定着しつつある。初めは椎葉が持ち込み、手取り足取りで教え込んだこの技術も、今ではその作業の殆どを村の若い衆に任せられるまでになっていた。
「すごいだろ?」
と、椎葉は「したやったり」という笑みを隠さず、横目で長谷川を見遣る。その壮観さには、さしもの長谷川といえど感嘆の溜息を隠せない。だが……「地下水を汲み上げ過ぎて、地震の頻発なんてオチは、止して下さいよ」賞賛の言葉を送る代わりに、きつい皮肉が先に出た。
「この辺りはな、地盤が頑丈なんだよ」
椎葉たちに気付いた連中が、仕事の手を止め車に駆け出してきた。
「先生、こんな早くからどうしたんですか?」
現場で張っていた三島丈志が、日焼けした顔に満面の笑みを浮かべていた。車はたちまち、現場で作業をしていた村の若者達に取り囲まれる。周囲の騒がしさに気付いた姉妹がばねの様に座席から飛び起き、キョロキョロと周囲を見回した。
「三島君、すまんがヴァクサを呼んで来てくれないか?」
「はあ……ただ事ではなさそうですね」
「うん、この子らを家まで送ってやろうと思ってね」
数刻の後、三島に連れられてやってきたヴァクサは、村の若者のリーダー格だった。彼は以前、西の神殿へ巡礼の旅に出たことがあり、西方の地域の事情には多少は明るかった。椎葉が事情を話すと、がっしりとした顎を撫でながら彼は言った。
「西の方は何があるか分かりませんから、もう少し人は多いほうがいいでしょう」
ともう一台、軽トラックの荷台一杯に腕っ節の強い連中を乗せて連れて行くことを勧めてくる。だが、他の地域の住民に威圧と取られるような態度は避けたい。結局、四駆にヴァクサともう二人、護衛のため村の若者を乗せていくということで話は落ち着いた。
ヴァクサの案内で、車はさらに三時間の道程を走った。
「まずはロンガル神殿まで行ってみましょう」と、ヴァクサは言う。スロリアの民俗信仰は精霊信仰である。自然のあらゆるものには精霊が宿り、人々は古来より神殿を窓口としてそれらと共存することを自然の途に従うことと考えてきた。その辺は日本の神社信仰と似ている。
だが、旅を始めて最初の衝撃は荒地を抜け、山道を走った先に広がる神殿で待っていた。
「…………!」
かつては各所を派手に飾り立てられ、参拝者でごった返していた土の神を祭る神殿は、無残な焼跡と化していた。
「そんなバカな……一体何があったんだ……?」
未だ煙の燻る場所に、ヴァクサは放心したように立ち竦んだ。椎葉たちもまた、狐に抓まれたような気分に任せるままに周囲を歩き回り、人の存在を確かめるようにした。崩れた外壁を押しのけ、かつては神殿の一角だった場所に足を踏み入れ、黒焦げの支柱を押し退けた。
そのとき、物陰からゆっくりと進み出た人影……大人五人の視線が、一片にそれに集中する。
「オババじゃないか……!」
粗末な身なりの老婆がいた。彼女はヴァクサを認めると、突いていた杖を放り出し縋り付いて来た。皺に覆われた目には、玉の様な涙が溢れていた。
「一体どうした? 何があった?」
「この人は……?」と、長谷川。
「この神殿の世話役です」
「……あいつらがやったのよ」
姉妹の姉が、ポツリと漏らした一言……今度はヴァクサが、彼女の両腕を取って声を荒げた。
「あいつらって誰だ? 何処の連中だ……!?」
少女は俯いたまま、微かに唇を震わせた。
「何と言った? 聞こえない!」
「……ローリダ人」
少女の呟きは、彼らにはまた聞こえなかった。
ヴァクサたちの強い勧めに関わらず、オババは神殿址に残ると言い張った。
「あたしゃあここしか生きる場所がないからね。ああそうだ……その子らは多分ルルファ村の子供じゃないかね。いや多分……そういう気がしただけさ」
オババの勘はよく当たる。とヴァクサは言った。
そのオババの話によれば一週間前、神殿に突然黒衣の連中に率いられた武装した一団がやって来て、神殿内を散々に荒しまわった挙句に火を掛けて行ったのだという。声を上げて難詰するオババを前に、その黒服の一人は言った。
「まやかしの神など、人心を惑わせるだけだ。こういうものは燃やすに限る」
「まやかしの神……か」
神殿を出、運転しながら漏れた長谷川の呟きを、椎葉は睨みつけるようにした。厳しい視線に口篭る長谷川に、彼は言った。
「なあ、長谷川はどう思う? ガキどもを攫ったのも、神殿を燃やしたのも、黒い連中だ。そいつら一体、何がしたいんだろうなぁ?」
「地元の人間なんでしょうかね?」
「違うわ……」
と、後席の少女は言った。長谷川が聞いた。
「そうだ、名前を聞いてなかったな。よければ教えてくれないかな?」
「……私はムルナ、そして妹のムレア」
長谷川は思い出したように物入れを開き、チョコレートの箱を取り出した。
「チョコレートなんて、二年ぶりだぜ」と歓声を上げる椎葉には目もくれず、チョコレートを二人に渡す。
「何だよ、俺に食わせてくれるんじゃねえのかよ」
「大の大人が、そんなものに感動してどうするんですか」
箱を渡され戸惑うムルナに、長谷川は微笑みかけた。
「日本のお菓子だよ」
「……ありがとう」
ムルナの発音が、滑らかになりつつあることに長谷川は内心で安堵を覚えた。封を開くと、ムルナはハート型の粒を口に運び、ムレアにも手ずから口に含ませた。
「……オイシイ」
「じゃあムルナ。君たちに酷いことをしたのはどんな連中か、知っているだけ聞かせてくれない?」
「あの人たち……私達とは違う神様を信じてる」
「どんな神様?」
「私達には、天の神様とか、水の神様とか、山の神様とか……いっぱい神様がいるけど、あの人たちには一人しか神様がいないの。その神様のためなら、どんなひどいことをしてもいいってあの人たちは信じているの」
「……ひどい奴らだね」
「あたしたちはあの人たちの学校に入れられて、お父さんやお母さんは神様を信じない人間だから……悪いやつだから、あたしたちを助けてあげるって……それで、全てを捨てなさいって……名前も変えさせられたの。帰りたいって言ったら、棒で打たれたわ……何度も」
「…………!」
さっきまで外の風景に見とれていた椎葉が、弾かれたように背後を振り向いた。
「立派な児童虐待じゃないか。てめえらJICAはちゃんと仕事をしているのか?」
「この土地は未だ、我々の手の及ぶところではないんですよ。そりゃあ、我慢できないことだってあるでしょう……でも我々は内政不干渉の方針は絶対ですから。出来るのは現地政府への勧告ぐらいです」
「……あの人たち、他所の土地から来たんだよ……海を渡って」
「え……?」
「だって言葉が違うし、顔つきからして違うもん。遠くから人を殺せる棒を持ってるの。土地や家を奪われた人もいっぱいいるわ。これよりすごく大きくて、怖い乗り物で私達の村を壊していったの……なにもかも」
ムルナは、すでに泣き顔になっていた。
「オイ長谷川……これってもしかして」
「侵略……?」
長谷川の背に冷たいものが走ったのは、そのときだった。