第二章 「玄関口」
ノイテラーネ国内基準表示時刻7月14日 午前11時43分 パン‐ノイテラーネ空港
灼熱に揺らぐ滑走路を前に、C-2戦術輸送機はゆっくりとした動作でアプローチを始めていた。絞り込まれたジェットエンジンの轟音がキャビンの中に吸い込まれるようにして、やがて着陸のショックと共に消えた。
C-2戦術輸送機は、航空自衛隊の主力戦術輸送機だ。「転移」前のPKF活動に対するニーズの拡大により開発され、その後に頻発した国際紛争に対応するようにして就役が本格化した。その前進のC-1は優れた操縦性を誇る機体だったが、その貨物積載量、巡航速度、そして航続距離の面で、もはや時代遅れになっていたのだ。
C-2の外見上の特徴はC-1を二回りほど大きくしたようなフォルムにある。当然積載量は従来のC-1に比して増大しており、C-1では積載不可能だった装甲車両やヘリコプターまでも輸送可能となった。また、コンピューターによって高度に自動化された貨物管制システムを搭載しているのに加え操縦系統にフライ‐バイ‐ワイヤ方式を採用することによってスムーズな操縦性を実現しているため、乗員四名を想定しているにも関わらず貨物積載から飛行までパイロット一人で機体の運用が可能だ。
広大な滑走路のぎらつきの上を、滑るように走るC-2、その向こうには慌しく離発着する旅客機とターミナルの群がりが、烈日のもと熱気を伴った異様な空気の揺らぎを放っていた。
C-2が向かうのは滑走路のずっと隅に設けられた専用駐機スペース。そこでは先着のC-2が二機翼を休めている。その光景はまた、何よりも国際的な商業と流通の振興に重きを置くこの国では、自衛隊が歓迎されざる客であることを示していると言えるのかもしれない。
やがて機体が完全に停止し、やかましい機械音を響かせて、機体後方の貨物室の巨大な扉が開くと、私物を詰め込んだバッグを思い思いに抱えた隊員たちがぞろぞろと地上へ降り立っていく。
「貴様らさっさと歩け! 修学旅行じゃねえんだぞ。ピシッとせんか!」
古参陸曹の怒鳴り声がPKF臨時派遣隊の航空司令部が置かれている空港敷地内のプレハブ倉庫中に響き渡った。
「そんなことじゃ先発隊になめられるぞ!」
「メシが済んだらすぐ移動だ。さっさと動け!」
「高良! 何をしとるか!」
陸曹が、さっきからただ一人、向こうの離発着の様子を眺めている青年を怒鳴りつけた。
「あ、はい! 今行くであります!」
名前を呼ばれた青年―――高良俊二 二等陸士は、慌てて隊員の列に駆け寄った。その様子を、陸曹は無感動に見送った。
食事と点呼を終え、新たにノイテラーネの土を踏んだ隊員たちが並んだ。その総数八六名。彼らの眼前には同じく新たに運び込まれた大型兵員輸送トラック二両と、各種重機が五台。そして最も隊員の目を引いている八七式偵察警戒車が一両だ。だが、その砲塔からは最大の装備である二五ミリ機関砲が取り外されていた。それらのいずれもが真っ白に塗装されている。白がPKO活動の明確な証であることはこの「新世界」でも変わらない。
スロリア亜大陸中央部に位置し、パン‐ノイテラーネ空港のあるノイテラーネの一都市ハン‐クットからはるか西方二〇〇キロに広がるニーベア地方の開発調査の支援と警備が彼らPKF派遣部隊の任務だ。一〇年前、ソラ‐テラーゼ島とモナド島の二島と群立する複数の子島から成る「中央シャリア群島」及びその周辺海域を領域とするノイテラーネ都市連邦共和国がスムリア大陸の東方に三〇〇キロメートルの距離を挟んで「転移」を果たして以来、ノイテラーネ、日本ほか数カ国によるスロリア亜大陸開発の前線基地として七年前大陸東端に建設されたのが、俊二たち派遣部隊が降り立ったハン‐クット市であった。
「気を付けぇ!!」
班長の号令が響いたのは、整列が完成してやや間を置いてからのことだ。途端に、その場の全員の顔が引き締まる。
「中隊長の間宮一尉である!」
戦闘服に一尉の階級章をつけた壮年の幹部が、ゆっくりとした足取りで隊列の前面に立ちはだかるように進み、隊列の中央で歩を止めた。そしていかにもたたき上げのそれを思わせるぎょろりとした目つきで隊列を一通り見回した後、おもむろに引き締まった口元を緩めた。
「諸君、われわれはこうしてスムリア大陸の地を踏んだわけであるが、君達の中にも気付いた者がいるだろう。われわれは決してここのノイテラーネ市民に歓迎されているわけではない……」
「……おい、あれ見ろよ」
訓示に聞き入る俊二の背後で、誰かが言った。先ほどからPKFの撤退を求めるノイテラーネの市民団体が司令部の敷地を囲むフェンスの向こうで抗議集会を開いていたのだ。
「話には聞いてたけど、やっぱり俺らって嫌われてるんだな……」
「俺は別に構わねえよ。慣れてるもん」
「PKFというより外人が来ること自体お断りだと……」
「見てみろ、日本人もいるぜ……」
「労働党の回しモンかぁ? ありゃ……」
私語は無視することにして、俊二は視線を中隊長のほうに移すことにした。その時、プレハブ作りの司令部の傍らに設けられた掲揚台に翩翻と翻る部隊旗が目に入った。
……アラビア数字の「12」を外枠にあしらい、赤い日本列島を背景に脚の爪に護り刀をしっかと掴んだ金色の鷲……これを部隊章とする陸上自衛隊第12旅団の即応予備連隊が、俊二の属する部隊だった。
第12旅団は通常の師団、旅団に比して直轄の航空戦力を充実させることで空中機動能力を高め、広域への迅速な展開を可能とした「空中機動旅団」だ。俊二が即応予備自衛官として自衛隊の一員となってすでに一年、内、この第12旅団に籍を置いて三ヶ月が過ぎようとしていた。
即応予備自衛官とは、登録した一八歳から二六までの民間人を予備役に編入し、定期的に招集、訓練することによって有事の際に適宜使用可能な予備戦力を確保しておく制度のことだ。俊二は去年から登録している。
先月、俊二は一九歳の誕生日を都内の大学生活の中で迎えた。その翌日に予備自衛官の召集令状が地方の親元を離れて俊二の暮らす安アパートに投げ込まれた。入隊を決心した頃から覚悟していたとはいえ、人並みな大学生活を送れない現実が確定してしまったことは、遊び盛りの若者には辛かった。
ハン‐クットの市街を東西一直線に走る幹線道路を行くトラックの中で、俊二は自らのめぐり合わせの奇異さをゆっくりとかみ締めていた。先程の中隊長の訓示の内容など、もはやどうでもよくなっていた。隊員を満載した荷台に吹き込んでくる風が、俊二の短めにまとめられた髪をなで上げた。
トラックと先遣部隊の高機動車及び重機運搬車と一両の偵察警戒車から成る隊列の周囲を取り囲むように、大小さまざまな形状の車が行き交うさまを、俊二は肩越しに眺めていた。
設立から間もないというのに、ハン‐クットの繁栄振りには目を見張るものがある。ここ二,三年で郊外の住宅地は拡張に告ぐ拡張を繰り返しており、市内には東京やノイテラーネの首都ティナクールに勝るとも劣らない規模の高層ビルが雨後のタケノコのように建ち始めていた。その一方で、一歩この都市圏を出れば、あとは俊二たちの目的地二ーベア地方にかけて約三〇〇キロメートルの距離を見渡す限りの荒野が支配している……以前から日本を筆頭にこの広大な荒地の緑化計画が主張されてはいるものの、実利益重視のノイテラーネ人にとってそんな「金のなる木が生えるわけではない無駄金使い」など笑止とも言うべきものであった……要するに、何の経済的好影響の期待できない緑化計画よりニーベア地方を始めとするスロリア大陸中央部の豊富な天然資源開発の方に金を注ぎ込むほうが、ずっと現実的な選択だと彼らは考えていたのである。といっても、ノイテラーネが期待していたのは新たな天然資源産出地帯の形成に伴う、国際資源市場に占める自国金融資本の占有率強化であって資源開発それ自体によってもたらされる新たな自国産業の創出にあるわけではなく、またその方面の技術力も持ち合わせていなかった。
――――自分の知らない世界を見たい。日々の暮らしでは得られない「何か」に少しでも接することが出来れば……――――それが、俊二が自衛隊に志願した理由だった。
大学進学の準備と並行してそれを実現するために、当時浪人が決定したばかりの俊二は民間と自衛隊との「二束のわらじを履く」方法として、即応予備自衛官に登録した。もっとも、ただ「自分の知らない世界」を見るためなら、自衛隊でなくともほかに進むべき道はあった。事実、自衛隊に行くか対外無償支援のNGOに入るかで散々悩んだ挙句、彼は阿弥陀くじで自衛隊に行くことを決めたのだ。次の月か
ら始まった短期間の練成訓練は俊二にそんな選択をした自分を後悔させるほど過酷だったが、その翌年俊二は一浪の末、どうにか都内の大学に合格した。
――――あれが、正しい選択だったのか、俊二にはまだわからない。また、積極的にわかろうとする気も無かった。
ただ―――自分の選んだ道は正しかったのか?――――入隊以来、一日に一回はそう自身に問いただしてしまう癖が付いてしまったことは確かだ。もちろん、強いて答えを出そうとは思っていない。その日――――俊二がハン‐クットの地に初めて降り立った日――――もそうだった。
「高良二士」
俊二を呼ぶ声がした。分隊長の渡部三曹が自分のそばまで近づいているのに、俊二は気が付かなかった。
「班長……」
「どうだ、もう隊には慣れたろ?」そう言って渡部三曹は俊二の肩を軽く叩いた。
「はい……!」
「高良はだめだぁ、娑婆っ気がまるで抜けねえ」と、隣の津田一士が冷やかした。その場の全員が
つられるように笑った。
「ニーベアって、さぞ空気がうまいところなんでしょうね」俊二が言った。
「ほら見ろ! はなから観光気分でいやがる」場が、爆笑に包まれた。
渡部三曹がトラックの面々を見渡して言った。
「貴様ら、着いたら早速訓練だからな、無駄口は叩けるうちに叩いとけ」
ひそひそ話が聞こえてきた。
「班長殿、まだ現場にも着いていないのにやる気満々だな」
「なあに、いずれぐうの音も出なくなるさ」
隊員の中には、俊二と同じような予備自衛官も数名いる。先程の津田一士も、本職はバイク店の経営者だ。入隊は俊二とほぼ同時期だが、要領がいいのか昇進は俊二よりも早かった。
トラックが、止まった。俊二の眼が、自然に外のほうへ向いた。どうやら信号待ちのようだった。
隣の車線には、一台の車が同じように止まっていた。見覚えのある流麗なデザインから、日本製のスポーツカーであるとわかった。車内には、二組の男女が見えた。年の頃は、俊二とさして変わらない様子だった。
周囲を構わず車内でじゃれ合う彼らの様子が、トラックの荷台からそれを見下ろす俊二には手にとるようにわかった。自分もあの環の中に入れたら……などと思う俊二にも今頃そのような選択肢が与えられていてもいいはずだった。
次の信号待ちで、隣に来たのはワゴン車だった。これも日本製だった。恐る恐るワゴン車を見下ろした先には家族連れがいた。これから出掛けるのだろうか、その団欒の光景が俊二にはやけに眩しかった。その中でトラックを見上げた一人の子供の眼と、俊二の眼が合った。
無邪気な笑顔を浮かべて、俊二に手を振る子供。意外な光景に、俊二は戸惑いと救われるような喜びを覚えた。……しかし、それも一瞬の間……子供の挙作に気付いた母親が、咎めるように子供を窓から離したのだ。それを見送った俊二に残る虚無感と悔い……俊二は、もう外を見るのをやめた。自分で選んだ道とはいえ、つらい現実だった。
俊二の苦悩をよそに、幹線道路を取り巻く風景が、次第に単調な丘陵の連なりに変わってゆく。
隊列は、次第に街を離れつつあった。
ノイテラーネ国内表示時刻7月18日 午前8時45分 首都ティナクール
モナスとクナス。双子の事業家の名が冠せられた二基の高層ビルディングの間を太陽が登り、最上階の執務室に温かい光を注ぎ込んでくる光景を楽しみに彼は毎朝早くから出勤し、執務室に入っているのだった。
その日も、彼は朝早くから、広角ガラススクリーンを通してティナクール市全体を見下ろせる執務室に入り、隣のツインビルと朝日の醸し出すすばらしいショウに見入っていた。
日の高まりに呼応し、太陽の触手に触れる悦びをその身体全体で表現するかのようにぎらぎら輝きだす硝子塔のような高層ビル群の広範な林立。それらをかいくぐるように大都市の各所に設けられた緑地公園帯、商業区、居住区そして交通路の立体的な連なりが、外見の無秩序性の中に確固とした機能性を強調している。それ故に「東京を越える」とさえ言われた高度な人工都市としての完成度を誇るこの街が、ノイテラーネ都市連邦共和国の首都ティナクールだった。
もっとも、部屋の主である彼が高みからそのようなすばらしい光景を味わうことができるのには多少の内政的事情も作用している。つまり彼――――ティナクール市市長及び連邦中央政府主席 ウレム‐サレ‐クロームが政務を執る超高層ビル――――ノイテラーネ中央政府庁舎以上の高さを持つビルの建設は、法律で禁止されているのだ。
クロームがこの部屋の主となってすでに二年の時間が経過していた。七〇歳もの高齢に関わらず、老いを感じさせないくらいすらりと伸びた長身と、撫で付けられた長い銀髪、やや角ばった感じに短くまとめられた白い顎鬚、彫りの深い、引き締まった顔に刻み込まれた幾条ものしわが、歴戦の政治家としての威厳を声高に主張している。
あの「転移」から十年、他国の例に漏れず、我がノイテラーネの置かれた立場もまた大きく変わった。
「転移」前の世界では数ある貿易通商国家の一つであるに過ぎなかったこの国は、「転移」後には地域の物流、金融市場を一手に引き受け、周辺地域経済に多大な影響を及ぼす唯一無二の中継通商国家としての役割を負うこととなったのだ。その栄誉ある地位を維持し、わがノイテラーネの持続的発展へと繋げてゆくことが歴代の中央政府主席の課せられた使命であった。周辺諸国へ「商館」を置き、諸国との外交、通商の窓口とする政策もまた、そうした「新世界」における対外政策の一環であった。かつてはクローム自身も、ナルジニアの首都ククラ、エウスレニアの首都クレキス、そして日本の首都東京の各商館長を務め、中央に戻って政策立案に関わり始めたのは三年前からのことだ。その翌年に彼がノイテラーネの最高指導者たる中央政府主席の地位に就いたという事実は周辺地域に少なからぬ驚きで迎えられたのみならず、当のノイテラーネの市民にも特別な感慨を抱かせたのだった。
ノイテラーネは、「転移」より遡ることおよそ三〇〇年前、「転移」前の世界において海賊や周辺地域の戦乱から財貨や商業区域を守る目的で、複数の独立商人によって作られた自治都市が起源だ。特定の有力商人によって自治が行われた伝統は、やがて幼少時から中学期にかけて段階的に行われる国定試験によって選抜され、市政の主要な意思決定を司る「ルーエル(高等行政商官)」を頂点とする一種の階層制へと発展した。
クロームもまた、こうした典型的なエリートコースを歩んだ一人だが、ただ、彼以前の二〇年間に渡って元首職を独占してきたのがティナクール市出身のルーエル――――ノイテラーネで言うところの「ティ
ナクール閥」――――であったことからすれば、新しい時代が自分の都市に訪れつつあることを、多くのノイテラーネ市民に感じ取らせるのに十分であったのだ。そしてこれまで「ティナクール閥」同士で行われてきた醜い権力闘争とそれに伴う政治腐敗に辟易していた市民は「ティナクール閥」外出身の新元首を、期待と歓迎の声とを以て迎え、この二年間、クロームもまた彼らの期待に十二分に応えてきたのだった。
第一主席補佐官のキラ‐ネレテ‐クラクムが政府庁舎の中央を貫く高速エレベーターを使って執務室に入ったのは、ちょうど九時になったときであった。
キラ‐ネレテ‐クラクムは常に機械的なまでに抑制された表情が印象的な、若い女性だ。だが、わずか十歳で最高学府ノイテラーネ大学商学部を首席で卒業し、それから十数年後に若干二三歳で、本来最古参のルーエルの指定席であった第一首席補佐官に抜擢されたこと自体、彼女の才幹の非凡さを十分すぎるほど証明していた。
そのキラ補佐官が言った。
「おはようございます。首席閣下」抑揚に乏しい、感情の無い機械を思わせる声だった。
「おはよう。クラクム君」
そう答えて、クロームは自分の孫とあまり年の変わらない補佐官の姿をまじまじと見つめた。彼女は、クロームが中央政府の閣僚として政策運営に関わり始めたとき以来の腹心であり、今回彼が中央政府の首席についたとき、周囲の反対と懸念をよそに現在の地位を与えたのだった。
やがてクロームは、報告を促すようにした
「ご報告いたします閣下。まずは先月行われた日本とエウスレニアとの首脳会談の結果ですが。両国間の懸案となっていた地域間共通通貨の導入は二年後の実現を目途にさらに協議を進める方針が確定しました。外渉部によると来年にも地域間会議を開催させ、導入の是非を量る運びとなったようです」
「専用市場の開設準備を急ぐよう、事業部の尻を叩いておかねばならんな。それで、現在の金融市場の動向は?」
キラの手が顔の右半分に装着したモバルポートに伸びた。モバルポートとは市場活動の高度に発達したノイテラーネにおいて、個人的な情報収集、活用の必要から開発された携帯機器だ。特にキラのような、政策等の高度な意思決定に関わる立場の人間のそれは中央政府のセントラルコンピューターへのアクセス機能や秘匿通信機能を充実させている。
モバルポートの端に付けられたボタンが押されるや否や、無線送信を通じて執務室が暗くなり、モバルポートから送信されるデータが立体化して部屋全体に映し出された。執務室はまた、それ自体が巨大な情報表示端末として設計されているのだ。
ティナクール市のあるシラ‐テラーゼ島を中心に、ノイテラーネが国交を結んでいる各国の領域、それらを指し示すように各国の経済状況、主要な市場動向が数字化され、映し出される。各国間を結んでいる複数の線は、地域の陸海空の主要輸送路だ。
キラがさらにモバルポートをクリックすると、各国の領域図の中から日本地図が浮き上がるように拡大された。キラの説明に連動して、立体データも適切に動くようプログラムされている。
「東京証券取引所ですが、現在1ノイル-146円で取引が始まっています。おもに工業、電子、建設分野を中心に取引が進んでおり、この傾向は午前の部にわたって続くと思われます。本日の午前三時に入った情報では、日本の三井住友銀行がクリュウアス共和国のフィロ‐クルターク電信公社の株式33パーセントの取得を決定したとのことです。また、ホンダ、トヨタの、日本二大自動車メーカーが周辺五カ国に新たな生産拠点の建設計画を発表し、五カ国とも自国民の雇用促進及び技術移転の観点からこの決定を歓迎しています。もう一つ、これは気になる情報ですが、日本の電機産業大手ソニーがわがノイテラーネの通信大手クレル社の株式45万株を取得する意向を明らかにしています。これは、クレルの全株式の20パーセントにあたり、近い将来の買収を視野に入れての行動ではないかと……」
「判った。クラクム……」続けようとするキラを、クロームは遮った。それまで彼は、キラの報告に合わせてめまぐるしく動く立体データに見入っていたのだ。
日本の経済活動の勢いには、目を見張るものがある。東京の商館長時代、つぶさに日本国内の実情に接してきたことからもわかるが、日本経済は三本の強固な柱によって支えられているのだ。三本の柱――――それは層の厚く、高度な技術を持つ製造業と、高い貯蓄率に裏打ちされた国内への効率的な投資性向、そしてこれらの市場経済を支える、ある意味では堅実な国民性に裏打ちされた人材育成システム――――は日本をして早期に「転移」後の混乱から回復させ、この「新世界」において強固な指導力を発揮させるに至った。
伝統的に製造業の基盤の欠けているわが国には、到底成しえないことだ。また、わがノイテラーネにおいても、中継貿易と併せて対日投資が国内経済において重要な位置を占めつつあることは紛れも無い事実であった。その反面、日本の急速な経済的影響力の拡大の一方で、わが国の相対的な存在感の低下を懸念する声が出ていることも確かだ。懸念はまた日本に対する反感を招く要因ともなっており、このような「反日派」の政府部内における浸透ぶりは、親日家かつ知日家を以て成るクロームには頭痛の種であった。
「日本との自由貿易協定だが、締結及び執行の日取りは決まったかね?」
「締結は来月八月の十四日を予定しておりますが、一部の電子新聞が条約締結反対キャンペーンを張り始めたことが気懸かりです。これは、閣下もご存知のはず……」
「うむ……」クロームは自分を納得させるようにうなずいた。
「私の国にはいずれわがノイテラーネが日本に飲み込まれてしまうと本気で信じている者がいるようだが、君は、どう思う?」
キラの眼が一瞬、鈍い光を放ったようにクロームには見えた。
「私見を申しますに、閣下、今回の自由貿易協定はあまり意味を成しません」
「ほう、何故かな?」
「わがノイテラーネの産業構造はこと貿易において他国の動向に左右される状況に無いからです。閣下」
感嘆の思いで、クロームはキラを見つめた。眼が、傍目から見てもそれと判るように細まっていた。
クラクムの言うことは正しい、日本のように大規模な製造業に依存する経済構造をノイテラーネは持っていない。言い換えれば貿易の主流を成す工業、農業生産物の分野において、伝統的に中継的な商業に特化したノイテラーネには日本との競合において悪影響を被るほど規模の大きい産業など存在しないのだ。
「……君の言うとおりだ。クラクム君」
「では、何故です? 何故このように無用な衝突を招く協約などを締結する必要がおありですか?」
「私はこの協約をいずれ日本との安全保障協定にまで発展させたいと思っている」
「安全保障協定!?」
キラは言葉に窮した。クロームの真意は、キラの聡明な洞察力でも測りかねたのだ。それを察して、クロームはキラに諭すように言葉を続けた。
「わがノイテラーネの商圏は、これから西方へ、そして北方へさらに拡大していくことだろう。しかし、この世界は平穏に商売を行うには程遠い状況だ。当然、商圏が拡大する分われわれが各地の紛争に巻き込まれることも多くなる」
「では、何故日本なのです?」
「昔あの国で商館長の任に就いていて判ったことなのだが……」一息ついて、クロームは続けた。
「あの国は自分の都合で戦争をした事が無い国なのだよ。過去七〇年近くもの間に一度も、だ」
「他国への侵略戦争につながる政策をとったことが無い、と?」
「そうだ、あの国が過去七〇年の間に戦争をしたのはたった二回。それも領土の帰属を巡る純粋な防衛戦争だ。侵略ではない。その点では彼らは信用に足る種族だとは思っている」
「しかし閣下、日本は特定の平和維持活動を除いて、戦争を他国との抗争解決手段とすることを憲法で禁止しておりますが」
「それは憲法解釈の問題だな。しかしどんな法であれ、解釈というものは時と場所、そして使う者の都合によって変わるものだ……一方でそれは法を司る側にとって極めて危険な状況と言える。自国の事とはいえ、彼らがそんな状況をいつまでも放置しておくとは思えないが」
人工的に作り出された暗闇の中、キラは身震いした、クロームの言い方に予言めいたものを覚えたのである……日本人が、自らの法を改める必要に迫られる事態が本当に起こるのだろうか。そしてそれは、わがノイテラーネの行く末にも関わってくることだろうか……と。
ローリダ領ノドコール国内表示時刻7月19日 午前10時23分 旧首都キビル クレトイユング地区 ローリダ駐留軍駐屯地
「――――愛するケティへ、
……私は今、新たなる戦いの準備の渦中にいる。これは、争いと憎しみに満ちた世界に自由と正義をもたらすために必要な戦いなのだ。それを君に理解してもらおうとは思わない。ただ、これから死地に赴く私のことは祈っていてほしい。今にも君の元へ還りたい気持ちを抑えて戦いに赴こうとしている私の姿を心にとどめておいてほしい。いつの日か、この新しい世界に暮らすすべての人々に自由と平等の恩恵が行き渡り、皆が暖かい微笑みの下で暮らせるであろうその日まで……」
「大尉殿!」
呼ぶ声がした。ゆっくりとした速度で軍用地上車を運転する下士官が近づいてきた。大尉と呼ばれた男は、手紙を書く手を止め、便箋を雑嚢にしまいこむと、腰掛けていた装甲車から飛び降りて車のほうへ歩み寄った。
「連隊長がお呼びです」
男はうなずいた。荷台に座っていた兵士が手を伸ばした。男は兵士の手をとると、勢いをつけて荷台に飛び乗った。
走る車の上。隣接する飛行場からは規則正しく並ぶ野砲、軍用車、物資の群れが壮大な景観を演出していた。走る間にも行進する兵士達の隊列やトラックと何度かすれ違った。今後の作戦に備えて本国や属州から新たに送り込まれた部隊に違いなかった。
それらの光景に目を奪われながら、男―――グラノス‐ディリ‐ハーレン大尉は言った。
「どうだ、みんなの様子は?」
「うずうずしております。大尉!」運転している下士官が言った。
「うずうずしている? まだ女遊びがしたりないか?」
下士官と兵士はどっと笑った。
「違います大尉、早く戦場に行きたいんであります!」
兵士が言った。まだ少年の面影を残す若い新兵だった。兵役適合年齢にまだ年の及ばない彼が、年齢をごまかして前線に志願して来たことを、男は知っていた。
「そうか、君は、戦闘は未経験だったな……」
「はい……!」兵士はうなずいた。
「まあ、あせらなくとも時は来る」
「そういえば大尉、今夜は酒と肉の配給があるらしいですよ」
下士官が声を弾ませた。男はにやりと笑った。
「君らが全中隊対抗の戦闘競技訓練で一等賞を取ってくれたおかげだろう」
「ご存知だったのでありますか?」
男はうなずいた。
「しかし中隊長はハーレン大尉、あなたでしょう?」
「そうだったか?」
三人は笑った。その和気藹々とした雰囲気だけでも、男が指揮官として部下にいかに慕われているかがわかるというものだった。
車はやがて濃緑の天幕の林立する場所に差し掛かった。行き来する将兵達の湧き起こす活気と、自然に生み出される集団特有の緊張感が、その場に独特の空気を作り上げていた。そのとき三人の頭上を、レシプロ攻撃機の二機編隊が快音を轟かせて駆け抜けていった。おそらく西部の山岳地帯でなおも抵抗を続けるノドコール軍残党の掃討作戦に出撃したのだろう。
ひときわ大きな天幕に車が差し掛かったとき、車は男を降ろした。その場になおも留まろうとする車に、男は行くように促した。
「しかし、大尉殿の帰りは……」
「君らは今日外出日だろう? 私のことは構わず遊びに行き給え」
車を行かせて天幕の入り口に差し掛かると、衛兵が捧げ筒の礼で迎え、中に招き入れた。
「第四五歩兵連隊、エイラ中隊 大尉ハーレン 参上いたしました!」
右の拳を胸に当てるのがローリダ式の敬礼だった。臨時に設営された司令部用テントの中で、多くの幕僚に取り巻かれる鷲鼻の老人が、ハーレンの敬礼の対象であった。ローリダ共和国国防軍第二六師団師団長エイギル‐ルカ‐ジョルフス中将その人である。
「来たか……ご苦労」
それだけ言ってジョルフス中将はしわに覆われた、むき出しの眼でそのままじっとハーレンを見つめた。その眼に粘液質のぎらつきが宿っているのがハーレンには気になった。やがて、ジョルフスはゆっくりと口を開いた。
「中隊対抗の戦闘訓練で優秀な成績をとったそうだな。大尉」
「はっ!」
ハーレンは背を正した。
「見事だ、君のように優秀な指揮官がいると、わしとしても心強い……」
ジョルフス中将は席から立ち上がり、ゆっくりとした歩調でハーレンの方へ歩み寄った。ハーレンと比して頭ひとつ低い彼は、難儀そうに下からハーレンを覗き込むようにした。ぎらぎらした眼光が、ハーレンの顔をえぐるように射抜いた。その様子に、ハーレンは言い様のない不快な気分を感じた。じわりじわりと心臓が握りつぶされていくような感じだ。
「君は優秀な軍人だ。常に危険な作戦に参加し、それに相応しい結果を出してきた。部下の信望も厚いと聞いておる。君はその働きにおいてわが二六師団の誇りであり、民族の模範とされるべき存在だ……そのことは、いい……だが!」
この老人の言うであろうことを、ハーレンは予想できた……だからこそ、中将の眼を、これ以上正視できなかった。
「君の、蛮族どもを弁護する性分が……気に食わん」
「…………」
ハーレンは黙りこくった。こんな男に何を言っても無駄だということぐらい、とうの昔にわかっている。
「なぜかね? なぜ庇う。彼らは無知で、無益な争いの中にしか価値を見出さない愚かな連中だ。実力を以てそのような蛮族どもに教訓を与え、正しい道に導くことこそ偉大なるキズラサの神より我らローリダ民族が与えられた権利であり、義務である。君はそんなことも判っておらんのか? だいいち、君の細君はスロリア人だというではないか。己が都合で民族の純潔を汚すとは……! 『明白なる天命』をどう読んでおるのかね!?」
「明白なる天命」とは数年前に出版され、やがて国防軍軍人必読の書とされた本だ。ローリダ民族は偉大なるキズラサの神により、争いと野蛮に満ちたこの地を浄化すべく使わされた存在であり、神より重要な使命を与えられたローリダ民族はこの世界を導く存在としてひたすら自らを高め、神が敵とみなした存在を排除しなければならない。というのがその主な内容だ。
その中には「各界の権威による研究」を参考として引用し、ローリダ民族こそ文化的、精神的のみならず生物学的、遺伝学的にこの世界で最も優れた資質を持つ存在であり、それ以外の種族をこれらの面で劣悪な資質しか受け継いでいない、「生物学的な手段」によって「矯正」すべき存在とし、属州化による文化面での「教化」もいずれ来るべき「生物学的な手段」を行使すべき時までの暫定策に過ぎないと規定する内容もある。
「ローリダ共和国国防軍は、国家の構成員としての、神に選ばれた高等種族としてのローリダ民族を内外より脅かすいかなるものとも戦ってこれを撃滅せねばならない!」
ローリダの国権の最高機関である元老院議員にして、国軍最精鋭部隊の近衛軍団長カザルス‐ガーダ‐ドクグラム大将は三年前首都アダロネスにおいて行われた国家防衛軍観閲式における記念演説でそう喝破した。それはまたローリダの人種政策の対象が、国外の「蛮族」のみならず、国内にも向けられることを意味した……国内に居住する外国人に対し居住、就労、就学、その他生活面の諸権利への制限が加えられるのはこの場合自然な流れとしても、生物学的、遺伝学的、そして社会学的な観点から「民族の構成員たるに値せず、むしろ種としてのローリダ民族を衰退させる」とされた人々への社会的保護の撤廃、断種強制が各分野の学者、権威による「客観的視点」からの「選別」に基づいて行われる……そのような体制が構築されるのに、さほど時間は掛からなかったのである。
「いいかねハーレン大尉、君は将来を期待された存在だ。たった一度の気の迷いで輝かしい栄誉の約束された人生を棒に振りたくはないだろう? 君は現在君自身を取り巻く、ローリダ民族の自覚に欠ける要素をすべて決算せねばならない。これは忠告だ。汚らわしい、断罪すべき下等民族に迎合するような考えは捨てたまえ」
「……お言葉ですが、閣下」
「何かね?」
「そのような『下等民族』の意向を尊重した上で、彼らに正しい方策を提示するのも、我々の務めではないかと本官は考えますが……」
「ほう……」
ジョルフスの眼が細まった。凝縮された眼光に、とてつもない悪意のきらめきをハーレンは感じた。一通りじっとハーレンを睨んだ後、ジョルフスは言った。
「聞かなかったことにしておこうか大尉……退出してよし!」
敬礼の後、ハーレンは司令部を退出した。憮然とした表情は隠しようがなかった。部屋を出る間際に、ジョルフスが部下に向かって言い放った、
「蛮族の女など、売春婦以下の存在ではないか。そのような女のどこがいいのだ?」
という一言は、ハーレンの最高指揮官に対する感情を決定的なものにしたかもしれない。
司令部を退出し、深く深呼吸をすると、ハーレンはゆっくりと自分の中隊の宿舎へと歩き出した。外の空気が、何となく軽いものに感じられた。
十分ほど歩くと、司令部のテントで密集した区画から離れ、大小の平地となだらかな丘陵から成る錬兵場を横手に見る道路に出る。
そこでは、幾百、幾千人もの集団が、指揮官らしき人物を囲み、車座になって演説に聞き入っていた。グレー一色の制服とスラフ帽と呼ばれる網掛けの民族帽……軍正式のものとは明らかに趣の異なるその服装からして。彼らが「民族防衛隊」の民兵であることはハーレンにも判った。
「民族防衛隊」とは、熱心なキズラサ教の支援者にして富豪のレヒュラス‐ラド‐ドクリトスによって創設された最大の政治団体だ。その民兵集団は総兵力七万人を擁し、名実ともに共和国最大の私兵集団である。一連の領土獲得戦争において尖兵としての役割を果たした他、国内の反動勢力への弾圧や元老院内での政争でも重要な役割を果たしたのが彼らであった。ドクトリスの政財界に占める影響力の増大に伴い、近年重武装化が進み、その装備、戦闘力ともに正規軍に迫る勢いだ。
『要するに、ドクトリスの手駒ではないか……!』
ハーレンはそう思っている。その思いはまた、ハーレン個人だけの占有物ではなく、若手の国防軍将校や心ある一般市民に共通のものであった。
代々ローリダの建国に関わってきた世襲の「貴族」階級。そして一定額以上の租税を納める富豪などの、いわゆる「騎士」階級によって構成される元老院がすべてを決定する社会……それが、共和国ローリダの体制であった。それら特権階級の下に、政治的権利を与えられ主に都市人口を構成する自由民、移動の自由を失い特権階級の保有する土地を耕作する農奴階級が存在する。
従来ローリダでは一般自由民を対象とした徴兵制によって正規軍を維持してきたが。度重なる「新世界解放戦争」によって発生した人員不足は、こうした状況を「変質」させた。
上層階級たる貴族、騎士階級には、それぞれの財力に応じて「軍役税」が課され、その額に応じて当人の階級内でのステータスも決まる。四年前に元老院が「物納」による軍役税納入を認める決定を下すと、領地を持つ上層階級の中には領地内の農奴を納税の名の下、軍に一定期間「貸与」するものが続出し、その結果農奴出身の兵士が増大した。以来、軍上層部は兵士の質の低下という深刻な問題に悩まされることになる。つまり都市出身の自由民に比して教育面で著しく水準の劣る環境に置かれてきた農奴を一人前の兵士に育て上げることは、今まで以上の手間と時間を要する作業だったのである。
自由民階級出身のハーレン自身も、そうした農奴出身兵達の教育に関わってきたことから、その面での苦労を知っている。字の読み書きもまともに出来ないような連中に軍人として必要な規律を叩き込み、完全な統制化に置くことの苦労は並大抵のものではなかった。その反面、こうした兵士達の多くが都市民には見られない素朴な感情の持ち主であり、彼らに日々接するにつれてハーレンの心境にもある種の変化が生まれてきたのは必然の成り行きであった……それがやがてハーレンの内面で既存の体制に対する疑問に変ずるのにさほど時間を要しなかったのだった。
「――――我々は、偉大なるキズラサの神の威光をあまねく新世界の端々にまで拡大しなければならない! それはわれわれローリダ民族に与えられた高尚なる権利であり、神聖なる義務であるのだ! そこで諸君らに問う! われらの神聖なる事業を妨げんとする者には何を以て報いるべきか?」
すかさず、民兵達は唱和した。彼らのいずれもが、その目に異様な輝きを宿しているのは、気のせい
であろうか?
「徹底なる掃滅あるのみ!!」
指揮官は満足そうな表情で一同を見渡し、続けた。
「われわれには高度な先進文化によって培われた最新兵器と軍事組織がある。われらが最強兵器はその一撃でひとつの街を破壊するほどであり、軍事組織はわれわれが今まで戦ってきたいかなる種族よりも規律、勇敢さにおいて勝っているのだ。これらの要素はわれらローリダ民族が偉大なるキズラサの神の代理人たる、選ばれし種族であることの何よりの証明である―――――」
指揮官の演説はまだ続いていた。それまでじっと立ち尽くし、演説に聞き入っていたハーレンは、頭を左右に振ると、再び道を歩き始めた。
道の途中、駐屯地の通用門へ向かう一台の大型トラックと行き合った。その荷台には黄色い声を上げつつ談笑するうら若い女性兵を満載している。おそらく先週駐屯地の門をくぐったばかりの従軍看護婦達であろう。
その光景に、ハーレンは本国にあって家庭を守る妻を思った。
ローリダ領ノドコール国内表示時刻7月19日 午前10時43分 旧首都キビル 市内中央幹線道路
「あれ見て!」
誰かが、外を指差した。同時に、従軍看護兵の腕章を付けた女性達がどっと荷台の横手に集まった。はるか向こうの緑地帯の中、緑に囲まれるようにして聳え立つ、てっぺんに翼を広げる金色の鷲をあしらった巨大な柱……
「あれが、『開放記念塔』でしょ?」
誰かが、言った。「開放記念塔」とは、「新世界解放戦争」と銘打たれたこの一台事業において、ローリダ軍の占領地ごとに一本ずつ設けられる記念碑的な存在だ。これら「開放地」の民衆はローリダの解放に対し畏敬の念をこめて、事あるごとにこの塔に向かって敬礼するのだ。ということを、トラックに乗り合わせていたリーゼ‐タナ‐ランは聞いたことがあった。
「みんな、あれに敬礼するんでしょ?」
「私たち、それくらい尊敬されてるのよ」
「きっと、ここにはやさしい人がいっぱいいるのね」
「私、ノドコール食を食べてみたいなぁ」
女性兵たちは口々に語り合った。その口調の端々に、少女特有の幼さが残っていた。その光景が、タナには何となく微笑ましかった。
といっても、タナもまた、この場にいる女性達とさして変わらない歳だ。今年で二一歳になる。それに、もともと軍に籍を置く者ではない。本国の首都アダロネスの高等女学校で教師になる勉強をしていた彼女が、従軍看護婦として前線に志願してまだ四ヶ月しか過ぎていなかった。
「タナにもそろそろ花嫁修業をさせないと……」
半年ほど前のある日、両親が何気なく語ったその言葉に、タナは軽い反発を覚えた。彼女の父は市内に事務所を構え、主に富裕な騎士階層を相手に民事訴訟や税務手続きを取り扱う弁護士で、アダロネス市民の中でも暮らし向きは恵まれたほうだった。両親はそのコネを頼って、そうした階層から年頃の相手を見つけ、タナに引き合わせようと考えていたらしい。女性の社会的地位に関してはさほど開明的とはいえないローリダでは、さほど珍しいことではなかった。
実際、タナは美しい女性だった。その美しさは、近所でも、子供の頃からよく母に連れられて行った市場でも好意的に見られていた。そして彼女には、自分の力で生きる道を切り開きたいという強い意志があったのだ。
だからこそ、教師として自立すべく彼女は高等女学校に進んだのだった。両親はそれを止めなかった。娘に水準以上の教養を付けさせてあげたいという希望もあったのだろう……もちろん嫁入り前に。
「お父様へ
不孝をお許しください。私は従軍看護婦に志願し、前線へ赴くことを決めました。今度の戦争は、私にアダロネスから離れて今まで私の知らなかった自分を見つめ直す、またとない機会を与えてくれたように思えたのです。たとえひと時の出来事でも、その後の一生に大きな指針を与えてくれる出来事の到来を信じて、私は軍務に身をささげるつもりです。どうかお父様、この軍務を終えて帰り着くまでの今少しの間、私に猶予をお与えください。そしてお許しください。はるか遠くの前線で国のために働いた後、得がたい「何か」を得たあなたの娘が、いつの日かあなたの家に帰り着き、あなたの胸に飛び込んでくることを……」
旅立つ日に、タナは実家に手紙を残してきた。それで許されるとは思わない。ただ、一人でいる時間が欲しかった……そして現在、タナは頬に風を受け、緑にあふれた街並みを横目にキビル市内を行くトラックの荷台に揺られている。
市内の中央を貫く幹線道路は閑散としていた。時折駐留軍のトラックや装甲車とすれ違うくらいだ。タナ達は知らなかったが、これは占領軍によって一般民衆の幹線道路使用が禁止されていたためである。ちなみに今日は、タナ達の班がノドコール駐留軍に着任して初めての外出日だった。
「えーと……ノドコールはね、キノラっていうとっても珍しい宝石が採れるんですって」
「へぇー、幾らくらい?……」
「……あのさぁ、四五連隊にとってもハンサムな大尉さんがいるじゃない?」
「知ってる、エイラ中隊の隊長でしょう?」
「でも、あの人結婚してるらしいわよ」
「えーっ、がっがりだなー」
同僚の他愛無い会話は相変わらず続いていた。彼女達もまた、その理由はどうあれタナと同じく民間から志願して前線に赴いて来たのだった。そんな中で、ロー‐ル‐スラという従軍看護婦がタナに話しかけてきた。志願する前は大病院に勤める看護婦だったと自分では言っていた、タナより一〇年年上の女性で、基本訓練期間中にはあれこれと世話になった。
「タナはどこへ行くの?」
少し戸惑った風を見せて、タナは言った。
「そうね……公園にでも、行こうかしら」
「ああ、『開放記念塔』が立ってるところ?」
「う、うん……」
タナはうなずいた。実のところ、彼女にはいく当てがなかった。ただほんの少し市内をぶらついて基地に戻ろうと思っていたのだ。
「じゃ、私も行こうかな。どこにも行く当てないし……」
「私も連れて行ってくださいよ」
一人が話しかけてきた。お下げ髪に、丸眼鏡の似合う少女だった。
「あなた、名前は?」
「第三分隊所属の、レイミ‐グラ‐レヒスです。よろしくお願いします」
少女は一礼した。発散される初々しさが、タナの顔をほころばせた。
ローリダ領ノドコール国内表示時刻7月22日 午前11時12分 旧首都キビル 旧称国立首都中央公園 現名称エドリクサス記念公園
「開放」前、この国の初代国王の銅像が建っていたというその台座には、今ではこの公園の名の元となった解放軍民兵隊司令官クラタタス‐デウ‐エドリクサスの銅像が建っている。このときの戦功により、エドリクサスは元老院議員に迎えられたということを、ここエドリクサス記念公園に一歩を記したタナは知っていたが、彼の名を記した公園の存在までは、実際この公園に足を踏み入れるまで想像の外であった。
「空気がいいわね。胸に染み渡る……」
深呼吸の後、ローが言った。確かに、緑は豊富だった。あるものは路に沿って規則正しく並んだ中で、またあるものは路ごとに区画された中にひとつの自然の単位が成立している。それらの木々の間を伝うように飛び回る小鳥のさえずりが、そよ風にそよぐ小枝の一本一本によって醸し出されるざわめきと重なって、そこを歩む者になんとも言えない爽快感と静謐感を与えていた。
横手に広がる人工池では、一人の士官が、細君と思われる女性を乗せて、ボートを漕いでいた。その対岸の小路では、家族連れが、笑いながら池の淡水魚に餌をやっていた。彼らの話し声と服装から、ローリダ人であることがタナにはわかった。ここの行政官か何かなのだろうか?
はるか向こうに広がる、背の高い針葉樹に囲まれたグラウンドでは、兵隊らしき男共が、上半身裸でドックーレム(円盤投げ)の試合をやっていた。金属製の円盤を投げて飛距離を競っているのだ。
それらの光景は、タナに本国の首都アダロネス中枢にある市民公園の様子を連想させた。そこには週末の憩いに家族と連れたって、または下校の寄り道や女学生体育団の練習に友人と連れたってよく行ったものだった。懐かしい時代の情景の一つ一つが、公園の光景に一瞬重なった。
しかし……
「きれいなところですねタナさん。毎日来てもいいなぁ……」
手放しで喜ぶレイミに同調できるような気分は、タナからすでに消えかけていた。名状しがたい違和感がタナの胸の一隅に生まれ、広がっていくのに時間を要しなかったのである。
「ノドコール人は、どこにいるの?」
呟くように、タナは言った。
「え……?」
ローが、いぶかしむような目つきでタナを見た。
「ここ、ノドコール人の国なんでしょう? その彼らがいないなんて変じゃない」
「でも、私たちローリダ人の国でもありますよ? タナさん」
レイミが言った。
「それはそうだけど……」
レイミから目を逸らすように、タナはうつむいた。瞳を転じた先に、悲鳴を伴った衝撃的な光景が飛び込んできたのはそのときだった。
「後生でございます! どうかお目こぼしを……!」
「やめろよ! 兵隊! 離せよ!」
兵士に髪の毛を?まれ、引き摺られる母親らしき女性と、彼女をかばうように兵士との間に割ってはいる少年。二人の周りを四人の兵士が取り囲むようにまとわりつき、二人を罵倒し、ごつき廻したりしていた。
「この身の程知らずが! 今すぐここから出て行け!」
兵士の罵倒に、少年は言い返した。
「ここは俺達ノドコール人の国だ! お前ら侵略者は出て行け!」
「オマエの国だと……!?」
兵士の顔が、怒りに震えた。振り下ろされた拳が、少年の頬をしたたかに打った。
「ここは神聖な場所だ! お前ら汚いノドコール人が土足で入り込んでいいような場所じゃねえ!!」
この一言が合図だった。兵士達は親子をその場で引き倒すと、一斉に殴る蹴るの暴行をふるい始めた。
「この異教徒の蛮族め! キズラサの神にこの場で詫びろ!!」
「ひどい……!」
思わず駆け寄ろうとするタナの腕を、ローが掴んだ。
一言も発せず、頭を左右に振るローの表情に、タナは戸惑うばかりだった……。