20.レオ、心配される(前)
「おお……! ここが、前人未到の皇子の寮室……!」
部屋に通されたロルフは、喜色を隠そうともしなかった。
日没を控え、閉められていたカーテンをわざわざしゃっと開け、少しでも陽光を取り入れて部屋の観察にこれ努める。
隣ではオスカーも、興味深げに目を細めながら、ぐるりと室内を見回していた。
「へえ。俺たちの部屋よりも一室多いようだが、それ以外は割と、普通の部屋なんだな。扉を開けるなり赤絨毯、太陽のようなシャンデリアに総ステンドグラスというのが仕様かと思っていた」
「……先輩方はなにを想像されていたんですか。質実剛健を掲げる学院なのですから、皇族と言ったって、宮殿や聖堂のような住まいが与えられるわけではありませんよ」
からかうような感想を漏らした年上の友人に、皇子が呆れたように答える。
だが、興奮に目を輝かせたロルフは、鼻息を荒げたまま拳を振り回した。
「なにを言うんだよ二人とも! だってあそこの絵、ゲープハルトの初期の作品だろ!? 本棚に並ぶ書物はどれも金彩が施されてるし、ソファセットだってダウゼンブルクの一級品、しれっと張り替えられているクロスは、ラッセン工房の最新作じゃないか! さりげないけど、きんきらきんだよ! 豪華だなあ!」
貧乏貴族のロルフには、その家具のほんの一部だってひと財産である。
彼は、レオがいたらさぞ気が合うであろう品定めトークを炸裂させてから、続いて狐のような目をさらに細めて、ベッド下や棚の脇に怪しげな視線を寄越した。
「きっと帝国第一皇子の部屋ならば、春めかしい本だってさぞや高級でスペシャルなものが……!」
「ロルフ、よせ。値踏みするのは自由だが、その手の物色は無粋だ」
「いえ、値踏みも物色もしないでいただけますか」
オスカーの真顔の制止を、皇子がさらに真顔で制止する。
陣ビジネスをきっかけに、すっかり意気投合した三人は、こうして気の置けない会話を楽しむようになっていた。
なにかと忙しいアルベルトではあるが、この日はたまたま予定がなく、年上の友人二人を誘って放課後を楽しもうとしていたのである。
皇子自ら紅茶を淹れ、手渡すと、ふたりは「おお! ロイヤル!」「どうも」とラフに礼を述べ、それを受け取った。
「ああ、そうだ」
やがてオスカーがなにかを思い出したように顔を上げると、彼はカップを置いた。
ごそごそと懐を漁り、あるものを取り出す。
それは、ベルンシュタイン商会の刺繍の入った、小さな布袋だった。
「皇子。これをやるよ。兄貴から託った」
「ベルンシュタイン氏から?」
心当たりのなかった皇子は、なんとなくそれを受け取り、中身を検めて険しい表情を浮かべた。
「……なんです? これは」
「見りゃわかるだろ、金さ」
そこには、数枚の銀貨が収まっていた。
オスカーは広い肩をすくめ、「陣ビジネスでさっそく出つつある利益の、ほんの一部だ」と告げる。
しかし、アルベルトは無言のままにそれを突き返した。
「……結構です。こういったものを、受け取る理由が見つかりませんので」
そうして、冷え冷えとした視線をオスカーに向けた。
「僕はけして、あなた方特定の商会に便宜を図ったつもりはない。陣ビジネスに手を貸したのは、それが民を利すると信じたためだし、……あなた方との友情があると信じたからです。それを金で清算されるというのは――」
「おいおい、なにかっかしてるんだ? 適正に労働を捧げた者に、適正に報いる。たとえ相手が皇子でも奴隷でもな。ベルンシュタイン商会のその方針にケチをつけてもらっちゃあ困る」
「ですが――」
眉を寄せて言い返そうとしたアルベルトを、オスカーは軽く腕を振って制した。
「勘違いするなよ。これは賄賂でもなければ、友情の対価でもない。むしろ逆だ」
「逆……?」
「ああ」
困惑に眉を寄せた皇子に、オスカーはにやりと笑ってみせた。
「皇子。おまえ、損得抜きの友情を結んだことって、実はないんだろう。――いいか? 友人同士の間にはな、片銅貨一枚の貸し借りも許してはならないんだ。たとえ商会の息子であっても……いや、だからこそ、な」
そうして、魔力と頭脳に恵まれた美貌の皇子を、とっくりと見つめた。
「おまえの持つ魔力や権力、そういった甘い蜜を求めて、友情の名のもとにおまえから搾取しようとする輩は、これからわんさか溢れるだろうよ。別に俺は、そいつらを否定しない。おまえだってそいつらを利用するなりされるなり、好きにすればいい。だが――俺は、おまえから搾取するのも、利用されるのも、ごめんこうむる」
「…………」
「おまえは陣を描き、このビジネスの根幹を築いた。それは間違いなく報いられるべきだ。友人だからとなあなあに済まされ、付け込まれるのではなく、な。だからこれは、適切な報酬だ。これを俺たちは支払い、おまえは受け取るからこそ、俺たちは対等に座って茶を飲んでいられる。言っている意味がわかるか?」
オスカーが視線を向けるころには、アルベルトの白皙の美貌には、理解と、かすかな照れのような感情が浮かんでいた。
彼は「……はい」と頷くと、ようやくその布袋を突き返す手を緩めた。
「報酬、ですね。言われてみれば、自力で金を稼ぐというのは初めてです。……なかなか新鮮だ」
「気持ちがいいだろう?」
からかうように言いながらも、オスカーはわずかにほっとしたように表情をやわらげた。
「理解が速くて助かったよ。商家のくだらん意地と言えばそれまでだが、譲れない部分なんでな。――おまえさえこれくらいの抵抗を見せるんだ。我らが無欲の聖女様にお支払いするときには、どうやって言いくるめようかと、頭の痛むところだが」
「彼女にはまだ支払っていないのですね」
「ああ。……友情を金で買うのかと、一瞬でも誤解されて、泣かれでもしたらと思うと、少々慎重になってしまってな。悪いがおまえで練習させてもらった」
仮にレオが泣きだすとしたら、それは歓喜の涙であるはずなので、慎重になる必要など全くないのだが、男三人は難しい顔をして「……お気持ち、お察しします」「難問だよね」「まったく、あいつの無欲にも困ったな」などと話し合った。
特にオスカーなどは、どさりと椅子に背を投げ出し、
「しょせん、俺は金儲けしか能のない商人だ。女の扱いは慣れているほうだとうぬぼれていたが、あいつを前にすると、勝手が違って困るよ」
嘆かわしそうにぼやく。
むしろ、金儲けしか能がなければ、その時点でここにいる誰よりも少女の心を射止めそうなものであるが、幸か不幸か、それに気付く者はいなかった。
その後ビジネスの進捗やちょっとした噂話でひとしきり盛り上がると、やがてロルフが「はああ」と大仰な溜息をつく。
彼は飲み終えたカップをテーブルに投げ出すと、やる気なさそうにソファにだらんともたれかかった。
「豪華な部屋で、高級紅茶を片手にハイソな会話。いや、いいよ? 楽しいんだけどさあ。どうして今、僕たちの傍らに、かわいいかわいいレオノーラちゃんはいないかなあ」
どうやら彼は、年下の友人にして学院のアイドル、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグの不在を嘆いているようであった。
「陣ビジネスがうまくいこうが、どこかの伯爵が釈放されてベルンシュタイン商会に加わろうがさあ、聞き手がむさ苦しい男たちばかりじゃあ、語る意味がないんだよ」
僕の情報は、すべてかわいい女の子のためにあるのに、と、ロルフは少女の身長あたりの空気を撫でるふりをした。
「レオノーラちゃんが目をきらきらさせて、すごいですね、そうなんですか、って話を聞いてくれるから、僕は情報収集を頑張ってるのにさあ。やっぱ頑張る男の子には、こう、これくらいのサイズ感で、上目遣いで、可愛くて素直な聞き手が必要なんだ。今日が契約祭二日目? 帰ってくるまであと何日? ああもう今日の夕陽も早く沈んでしまえばいいのに。僕は少しでも早くレオノーラちゃんに会いたい!」
ぎっと窓越しに夕陽を睨みつけるロルフに、アルベルトは苦笑を漏らした。
「すみませんね、クヴァンツ先輩。結果的に、あなた方から彼女を奪うような形になってしまって」
「そうだよその通りだよ! ああもう、僕はあのとき、噂話を皇子の耳なんかに入れなきゃよかったんだ」
「噂話? どういうことだ?」
話を聞いていたオスカーが、ふと首を傾げる。
するとロルフは、ぶすっとしながらことの経緯を説明しだした。
「今回、レオノーラちゃんの寿ぎの巫女就任が急遽決まったじゃん。あれはね、派遣する令嬢の身分云々ってのもあるけど、本当は、皇后陛下の一存で決まった話なんだ」
「陛下が? なぜ?」
「そりゃあ、未来の嫁を思うあまりってやつだよ」
怪訝な顔をした友人に、ロルフは声を潜めて囁いた。
「実はさ、ここだけの話、下町の一部で、レオノーラちゃんのことを中傷する怪文書が出回ってて。精霊祭の後の話さ。卑しいとかなんとか……それで、その噂を聞きつけた僕は、レオノーラちゃんへの心配を共有したいあまり、ついそれを皇子に話してしまったわけ」
「ああ……」
ロルフの情報通はつとに知られたところだ。オスカーが「中傷」のあたりで顔を顰めながら相槌を打つと、しかし狐顔の友人は、なにかを思い出したようにぶるっと身を震わせた。
「それを聞いた時の皇子の顔ったら! オスカーにも見せてあげたかったよ。いや、見たら夢見が悪くなるかな? いやいや、だからこそ見るべきだった。見て僕の悪夢の半分を引き受けてくれるべきだった。とにかく、すごく怒ってしまって、政務をものすごい剣幕で片付けて、町に下りようとしたわけだ。犯人を捜しにね」
「……あの時は失礼しました」
「本当だよ、よくよく自省してね。……ところが、その日の政務ってのが陛下がご一緒のものだったとかで、様子のおかしい皇子を不思議に思った陛下が、事情を問いただしたんだよ。それで、かくかくしかじかでと皇子が語ったら、さあ大変。すっかりレオノーラちゃんの親気分の両陛下が、『未来の娘を虚仮にさせてはおけぬ! 全軍動かしてでも下町を探索せえええい! 犯人は市中引き回しのうえ処刑だああ!』って、その場でファイアしちゃったわけ」
語り口は軽いが、内容はなかなかにハードだ。勅令で軍が動く可能性もあったことを悟り「それは……」とオスカーが口の端を引きつらせると、アルベルトが気まずげに頷いた。
「あやうく、統治にのみ使われるべき龍徴が暴走するところでした。ですがそれを見て、僕も我に返ったのです。きっと彼女は、もし自分が中傷されたと知っても、周囲が勝手に罰を与えることなど望みはしない。それより、自身の高潔さを示して、その犯人を改心させてみせるのだろうと」
自分以上の酔っぱらいを見ると、酔いが冷めるというアレである。
平静を取り戻したアルベルトは、思いとどまるよう両親を説得。
代わりに、少女が皇妃候補の座に引け目を感じずに済むよう、協力してほしいと願い出た。
すると皇后が、ならば寿ぎの巫女の役目を、少女に任せてみてはどうかと言い出したのである。
内定していたナターリアには自分から話を通す、これは勅命だと言い張ったため、アルベルトはありがたくそれを受け入れることにした。
そうして、自ら大使の役割を買って出て、ハーケンベルグ邸に赴いたと、そういうわけであった。
「変に気を使わせてはならないと思って、侯爵家には身分的な事情のほうしか話さなかったのですが……どうやら彼女の紫瞳の前には、すべてお見通しだったようです」
皇子のために引き受ける、といった趣旨の発言をした少女を思い出し、アルベルトは軽く肩をすくめた。
が、その口元がどうしようもなく綻び、視線に喜色がにじんでいるのを、隠し切れなかったらしい。
ロルフがジト目を向けてきたので、軽く咳払いした。
「……彼女は、僕のために引き受けると、そう言ってくれました。なので、その……、僕の期待に応えようと頑張る彼女が、先輩方との時間を取れなくなってしまったのは、申し訳ない限りです」
「……なんっか、謝られて余計に腹が立つっていうのは、いったいさあああ……!」
カレシ気取りかよ、と頭を掻きむしりながら唸ると、ロルフはぎっとオスカーに向き直った。
「オスカー! 行けよ! 奪え! 皇子からレオノーラちゃんを奪うんだ! イケてる顔も権力もレオノーラちゃんも与えられてるなんておかしい! レオノーラちゃんを奪って、せめて二物に減らすんだ!」
「……気持ちはわかるが、自分で奪いにいったらどうなんだ」
「ばかだな、オスカーが奪って、でも浮気性のオスカーにレオノーラちゃんが愛想を尽かして、そこを僕が優しく慰めて結ばれるまでがワンセットなんだよ!」
ひょうきんな言動のわりに、誰よりこすっからい思考の持ち主、それがロルフ・クヴァンツである。
と、このように、ほのぼのとした会話で盛り上がっていた三人だが、そのとき――
「失礼、いたします……!」
切羽詰まったような声が響き、許可を告げる間もなく、とある人物がふらりと扉を開けてきた。