15.レオ、その過去を語られる(後)
言葉を継げずにいるレーナをちらりと見やると、ブルーノは再び揺らめく炎を見つめた。
『……俺にはエランドの名があった。だが、ヴァイツで過ごすからにはヴァイツ風の名前のほうが生きやすいからと、ハンナが名前を変えた。俺は受け入れたが、――本当は、ブルーノなどと、名乗りたくも呼ばれたくもなかった』
その思いも含めて、ブルーノは周囲に語ったことはなかった。
けれどなぜか、レオはそれを鋭く見破ってきたのだという。
真にレオという人間を、心の内側に入れることを認めたのは、おそらくその時。
その日以降、気付けば、ブルーノがレオと過ごす時間は増えていった。
だが、とブルーノは続ける。
彼は頬杖をついていた褐色の拳を、軽く口元に当て、遠い過去をなぞるように視線を伏せた。
『――知ってのとおり、レオはあれでなかなか人気者でな。やつがいる近辺に笑いは絶えないが、やつがその場を離れると、規律正しいハンナ孤児院でさえ、それ相応のやっかみが渦を巻く。それで……得体のしれない難民に、レオを独占されるのを不快に思った一部のやつらが、ある日、俺に言ってきた。いい加減にしろ。なぜレオが、おまえなんかと一緒にいるか、わかっているのかと』
レーナは耳を傾けながら、わずかに口の端を歪めた。
レオを慕う人間から正面切って罵られるというのは、彼女だって経験したことだ。
子どものやきもちと片付ければそれまでだが、浴びせられつづければ、十分不快だし――心に傷もつく。
『……そいつらは、なんて言ったの?』
『同情だと。レオが俺のそばにいるのは、みじめな難民を放っておけないからだと、そう言った』
すっ、と息を吸う。
しばしの後、レーナはそれを険しい表情で吐き出した。
『……最低』
プライドの高いレーナにとって、その手の発言は最も屈辱的だ。
同じく高い矜持を持っていると思われるブルーノが、そのときどのような思いであったか、レーナには手に取るように理解できた。
『私だったら、言ったやつの髪を薬液で焼いて、そいつの頭皮を永久凍土にしてやるわね。ついでに、レオとも二度と口をきかない』
『気が合うな。俺には薬液を調合する知識はなかったから、素手でそいつの髪をむしってやった。血が出そうになったところで、騒ぎに気付いた院長に水を掛けられたが。――あれは正直、今でも腑に落ちない』
どうもこの二人が会話をすると、ストッパー役を欠くためか、話が殺伐とした方向に向かいがちだ。
だが二人ともその事実に気付くことはなく、ブルーノは淡々と『それから』と続けた。
『それから、俺はレオと距離を置いた。わかるだろう? 俺をみじめだと言うやつらも許せなかったが、俺をみじめに見せるレオのことも、そのときの俺には許せなかった』
『……わかるわ』
わかる。
レーナは頷いた。
その発想は、我がことのように理解できる。
そしてまた、――それが単に、傷ついた心が上げている、悲鳴なのだということも、もう彼女にはわかっていた。
『誇りを傷つけられた怒りと、心を傷つけられた悲しみの区別は、つきにくいもの』
『……そうだな』
ブルーノが小さく笑う。
彼は、脇に集めておいた小枝を二、三掴むと、少し勢いを弱めた炎の中に放り込んだ。
『そのときの俺は、自分が怒っているのだと思った。だから、この怒りを晴らしてやらねばならないと考えた。それで――再び無口になっていた俺を、レオは懲りずに連れまわしていたんだが、……ある日、やつを教会の池に突き飛ばした。同情などごめんだ、俺には命をかけて俺を救おうとした親だっている、おまえなどより、ずっと愛され、恵まれているのだと叫んで。初冬のことだ』
レーナはちょっとだけ息を呑んだ。
やるじゃない、と言うべきか、死ぬわよそれ、と眉を顰めるべきか悩み、結局、沈黙を選ぶ。
ブルーノは、当時の池の光景を重ねるように、じっと炎の輪郭を見つめていた。
『すぐに出てくると思った。だが、やつは一向に浮かび上がってこなかった。十数えたころか、百だったか……俺は思った。レオを殺してしまったと』
殺すつもりなどなかった。
その一線は、ここでは容易に越えてはいけぬものだと理解していた。
それより、くだらない話で大笑いするレオの顔が、いくつも急に脳裏に浮かんできて、ブルーノは青褪めた。
『だが……』
そこでブルーノが、くっと笑ったので、レーナは怪訝な顔になった。
その笑みの意味は、次の言葉ですぐに明らかになった。
『その後、レオは勢いよく水面から出てきた。肩で息をしながら、満面の笑みを浮かべて、やつはなんて言ったと思う?』
――見て! 見て見て見て! この池、お賽銭が超沈んでる!
ほら! これ! 銅貨! 銅貨ああああ!
『…………』
案の定、というべきなのか、レオにつきまとうこの手の残念感に、レーナの目は死んだ魚のようになった。
ここまで、なかなかシリアスな語り口だったと思うのに、今のですべてが消し飛んだ。
『見せてやりたいよ、レーナ。がちがち震えて、唇も紫にして、それでも銅貨を握りしめてにこにこしていたレオの姿を』
『……結構よ。すでにありありと目に浮かんでいるもの』
丁重にお断りを入れると、ブルーノは「そうか」と小さく肩をすくめた。
結局、その一言で、ブルーノは大いに脱力し、すべてがあほらしくなったという。
美しい表現では、肩の力が抜けたというべきか。
興奮したレオが、「おまえも拾うの手伝えよ!」とブルーノを強引に池に引っ張り込んだため、濡れねずみ二匹は、がくがく震えながら、院への帰路をたどることになった。
『帰り道、俺はすっかり心に余裕ができているのを感じた。今なら、素直に謝れると思った』
そこでブルーノは、慣れぬ謝罪をすべく、囁くようなエランド語で話しかけた。
――レオ。親が云々というのは、失言だった。……悪かった。
――ん? わり、ちょっと聞き取れなかった。「この世は金がすべてだ」って言った?
――違う。俺は、親を、自慢した。すまなかった、と、言っている。
一語一語、ゆっくりと繰り返すと、レオはようやく発言を理解したようだった。
彼は「ああ」という感じで目を瞬かせると、実にこともなげに言ってのけた。
――いやいや。むしろ、自慢できるような親って、ほんとにこの世にいるんだなって、うれしくなったし。
なんか、ほっこりした。
『俺はその言葉を聞いて、横っ面を張り飛ばされたような気がした。結局……おまえだっていつか養子に取られるかもしれないとか、そんな、慰めにもならないことを呟いたきり、俺はなにも言えなくなった』
『…………』
レーナは無意識のうちに眉を寄せていた。
同じだ。
以前、孤児院の廊下で交わした会話と。
レオは、親を知らない。
そして、親というのは、永遠に自分とは無縁の存在だと思っている。
だから他人がそれを持っていると知っても、妬んだり、羨みすらしないのだ。
自分にはまったく関係ないものだと、刻み込まれているから。
彼はそれを悲しむでもない。強がるでもない。
単純な事実として受け入れていることが、レーナからすれば――痛々しかった。
『……あいつには、無償の愛なんてものが、理解できない。注がれたことがないからだ。好意とは、自分から向けて初めて――
ブルーノは、胡坐をかいていた片膝を引き寄せ、そこに寄り掛かる。
そうして、視線だけを、静かにレーナに向けた。
『愛し愛され、などとんでもない。あいつは、どれだけ俺やエミーリオが友情を差し出しても、「面倒見てるから、そのぶん慕われてるんだろうな」としか考えない。……いや、それだけならまだいい。あいつは、自分が目を掛けていない相手から好意を向けられても、それに気付くことすらできない。好意を切り捨てて生きている、と言ったのは、そういう意味だ』
『…………』
『やつを無欲の聖女などと信じて、やつの理解できない好意をせっせと捧げている学院の連中を……だから、俺は、少し気の毒だと思うよ』
そう言って言葉を切ると、ブルーノはふと空を見上げた。
日はすっかり沈み、辺りには夜のとばりが下りている。
彼は息を吐き、小さく肩をすくめた。
『休憩どころか、もうこのまま野宿だな。明け方になってから一気に山を下りたほうがいいだろう。レーナ、もう少し枝と枯れ葉を――』
『ブルーノ』
淡々と段取りを告げようとする少年を、レーナは静かな声で遮った。
『レオの話はよくわかったわ。ありがとう』
まずは、礼を言う。
そう、ここまでレオとの深い思い出話が聞けるものとは思わなかった。
このブルーノという男は、なかなかに語りが上手なようだ。
おかげでつい、長々とこの話に聞き入ってしまった。
――危うく、本題を忘れそうになるくらいに。
『でも、教えてほしいの』
視線を上げたブルーノと目が合う。レーナはその黒い瞳を正面から見つめて、問うた。
『なぜ、私にこの話をしたの?』
『……おまえが物言いたげに見ていたからだ。道中ずっと、身の上話を聞きたそうなそぶりを見せられつづけて、気にせずにいられるほど空気が読めなくはない』
抑揚のない、いつも通りの、口調。
しかしレーナは、踏み込むなら今しかないと、直感的に悟っていた。
『そうよ、ブルーノ。私は、
『……は。レーナ、おまえそんなに、俺のことが気になって気になって――』
『ええ、そうよ。気になって気になって仕方ない』
同じ手には乗らない。
嘘はつかないが、すぐに人をはぐらかす相手に向かって、レーナは片方の眉を上げてみせた。
『だから、話してくれる?』
『…………』
途端に、ブルーノがすっと目を細め、拒絶の雰囲気をまとわせるのがわかった。
おそらく、レオならここで引くのだろう。
いや、彼ならそもそも、人の過去を聞き出そうだなんて、思いつきもしないのかもしれない。
だが、レーナはレオとは違うのだ。
目の前に謎があったら、解き明かさずにはいられない。
知的欲求の邪魔など、誰にもさせない。
ぱち、と火が爆ぜたのを合図に、レーナはわずかに身を乗り出した。
『話しづらいのなら、先に私から話しましょうか。ここ最近の、調べ物の成果なんてどうかしら。言ったでしょう? 寿ぎの巫女について、調べたって。私、考察ってなかなか得意なのよ』
寿ぎの巫女について調べるうちに、エランドという国の成り立ちに興味を持った。
エランドの系譜を漁るうちに、かの国を支える精霊力の性質について学んだ。
そのとき、レーナはざわりと心臓が騒ぐのを感じたのだ。
それは、彼女がなにかを無意識下に閃いたときに、決まって覚える感触だった。
そしてその感触は、ブルーノの話を聞くにつれ、徐々に輪郭を明らかにし、今や触れそうなくらいに明確な形を帯びつつある。
レーナには、どうしても聞きたいことがあったのだ。
『エランド王国は宗教国家。ヴァイツでは貴族にあたる地位に大導師が、そしてその長として王が据えられているそうね。だからこそかの国では、王族に近しい、または身分の高い者ほど、強い精霊力と、厳しい宗教的戒律を抱いているのだとか』
『…………』
ブルーノは無言を貫く。
レーナは気にせず続けた。
『ヴァイツに伝わった時点でだいぶ教義が緩やかになったから、いまいちピンとこなかったけれど、戒律って、聖書原典にはいろいろ書かれているのね。嘘をつくな、感情を揺らすな。極力精霊の言葉を話せ。精霊の御前では、獣の臭いを払い、常に清らかであれ』
嘘を避け、常に淡々と話すブルーノ。
エランドの国境に差し掛かったとたん、馬車から飛び降りた彼。
もし、契約祭までのこの一週間、彼が姿を消しては、教会で禊ぎをしていたのだとしたら?
『レオが魔封じの破片を持っていた時、あなたはまるで、最初からそれに気付いていたかのような様子だったわね。魔力を持っていない人間が、魔力に気付ける――私には、それが不思議だったの』
魔力を持たない人間が、他人の魔力を察知できる理由。
鍛錬を重ねた。
もとは魔力を持っていた。
そうでなければ――
『魔力を本能的に忌避するほどの、
まるで闇そのもののような、漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめて、レーナはわずかに目を眇めた。
『エランド王国では、十の氏族が、それぞれ異なる精霊を祀っていると聞いたわ。中枢に近いほど、強力な精霊を祀るのだと。たとえば七年前、欲をかいてヴァイツに手を出した王弟の一族が祈りを捧げていたのは、――闇の精霊』
そのとき、今までは緩やかに踊るようであった炎が、まるで夜に蝕まれるかのごとく、じわりと輪郭を薄めるのが見えた。
闇が、威嚇するようにその厚みを増す。
いつの間にか握りしめていた拳の中には、意思に反してうっすらと冷や汗が滲みだした。
だがレーナはそれを無視して、ゆったりと口角を引き上げる。
これは戦いだ。
吞まれたら負ける。
そして、この世のあらゆる争い事で、自分が負けるなどあってはならなかった。
ねえ、と、レーナは小首をかしげてみせた。
『かつての王弟って、呆れるほどの愛妾と、数えられないほどの子どもがいたのね。ひとりで調べ上げるのには、随分苦労したわ。聞きたいことは山ほどあったのに、あなたったら、ずっといないんだもの。名前すら教えてくれないなんて、冷たいじゃない、ブルーノ?』
こちらを見つめる黒曜石の瞳が、まるでナイフのように鋭い光を浮かべている。
闇が唸る。
夜が、ずしりと肌に圧し掛かる。
それでも、レーナはうっすらと笑んでみせた。
『――いえ、こう呼んだほうがいいのかしら。ブルドゥル・ノーリウス・アル・エランド……闇の一族の、末裔と』
ここでまさかの引き。
(次話からしれっとレオのターンに戻ります)