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無欲の聖女は金にときめく 作者:中村 颯希

第三部(完結編)

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11.レオ、おいしい試練を受ける(後)

『サフィータ様』


 自室に戻り、窓から月を見上げていたサフィータは、しわがれた低音で呼びかけられて、部屋の入り口を見やった。


 そこには、燭台を手にした、彼の世話役にして摂政――アリル・アドが立っていた。


『どうなさったのです。明りも灯さず』

『……ああ』


 サフィータは、立てた片膝に頬杖を突いた姿勢のまま、静かに視線を落とした。

 その怜悧な横顔に、アリル・アドが持ち込んだ火が、小さな影を落とす。

 表情は、思わしげだった。


『……考え事をしていた』

『考え事、ですか?』

『ああ。こたびのヴァイツの、寿ぎの巫女について』


 寿ぎの巫女、とアリル・アドが繰り返す。

 彼は燭台を手近な棚に置くと、サフィータの前に跪き、真摯な目つきで若き主人を見つめた。


『レオノーラ・フォン・ハーケンベルグがいかがしましたか。憂いがあるならば、どうぞこの私めにお話しを』

『……よさぬか。古くから教育係であったおまえに跪かれると、たまらぬ気持ちになる』

『お戯れを。あなたは尊き一族の末裔にして、私の主人。家老が主人に跪くことに、なんの不思議がありましょう』


 もう、何度と知れず繰り返したやりとりだ。

 サフィータは小さく息をつくと、話題を戻した。


『レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。あの娘……こちらの思っていたような人間とは、少々異なったものでな』

『はて、異なる……とは?』


 アリル・アドは、意外な様子で首を傾げた。

 彼の聞いたレオノーラ・フォン・ハーケンベルグというのは、開戦の口実に使うのにぴったりの人物のはずだからだった。


『他国の貴族事情ゆえ、多少の歪曲はありましょうが……。遠縁の娘に過ぎなかったところを、侯爵家の養子に収まり、出自の怪しさをものともせず、有力な貴族を篭絡し、今や皇妃候補にまでのしあがった野心家――ではなかったのですか』


 学生の身でありながら、先日の精霊祭では民への顔見せまで済ませ、すっかり皇妃気取りだという。

 成り上がり者ゆえの、傲慢で、地位への執着を隠さぬ娘。

 そんな人物であれば、少し挑発してやればすぐ逆上するだろうとふたりは話し合ったものだが、もしや駒にもならないほど使えぬ様子だったのだろうか。


 アリル・アドが困惑したように尋ねると、サフィータはゆるくかぶりを振った。


『いや、逆だ。予想を超えて聡明で……慈愛深い。敬語はたまにおかしかったが、エランド語をほぼ完璧に操り、どんな挑発にも動じぬ』


 そうして、褐色のこぶしを唇に当て、しばし考え込む。

 その脳裏には、夕闇に黒髪を溶かし込みながら、凛とこちらを見つめる少女の姿があった。


 息のかかった下女に用意させた、ぼろ布のような服。

 しかし、それに身を包まれてなお、彼女に委縮した様子はなく、むしろ、その清廉な美しさが際立つようだった。

 精霊がかった美貌に、強い意志をにじませて「あまねく命を祝福している」と彼女が告げたとき、サフィータはまるで、光の精霊本人に対峙しているような心持ちになったのだ。


『あの姿を前にして、挑発を続けるというのは……』


 無意識に眉を寄せ呟いたサフィータだったが、ふと口を閉ざした。

 アリル・アドが、思わしげな表情でこちらを見ていたからだった。


『――なんだ?』

『いえ……』


 問うてみるが、相手は歯切れ悪く、そう漏らすばかりだ。

 気になったサフィータが再度促すと、老齢の教育係は、しばし躊躇ったのち、ぽつりと語りだした。


『あなた様のその優しさという美徳を、私はなんとしても守らねばと、そう思ったもので……』

『どういう意味だ?』


 煮え切らぬ物言いに目を細めると、相手は意を決したように口を引き結ぶ。

 そしてまっすぐにサフィータの瞳を捕らえた。


『それこそがその娘のやり口だとは、思われぬのですか?』

『…………』


 瞠目するサフィータの前で姿勢を正すと、アリル・アドは、心配そうにその手を取った。


『言葉が巧みで、挑発に動じない。それは、聡明さや慈愛深さというより、計算高さと底知れなさに通じるものかと思います。彼女は、その口のうまさと、豪胆さでもって、今の地位にのし上がってきたのではありませんか?』

『……アリル・アド』

『別に私は、あなた様を責めているのではありません。他者の善性を信じようとする姿勢は、精霊の説く美徳。あなた様が、少女を使って、エランドの誇りを守るのは気が引けるというのなら――汚れた仕事は、すべてこの私めが引き受けましょう』


 アリル・アドは真摯な表情で言い切ったが、


『――……いや』


 しばしの後、サフィータ自身がそれに首を振った。


『甘やかすな、アリル・アドよ。情に流されるのは、統治者の仕事ではない。……感情はいつも、私の弱みだ』


 そうして、家臣から視線を逸らすように、じっと燭台の火を見つめる。

 彼は、ほんのわずかな会話で少女に魅入られ、統治者としての責務にためらいを抱きかけていた己を自覚し、痛切にそれを恥じていた。


 少女が清廉な様子だったからといって、なんだ。

 皇子を篭絡するような娘なら、それくらいの振る舞いはしてみせるだろうし、そもそも、聖なる土地の誇りを守ろうという自分が、たかだか娘一人の態度が原因で、その実現を躊躇うなどあってはならないのだ。


『――どうかしていた。忘れてくれ。当初の予定通り、娘には開戦のための駒となってもらう』


 若き統領はそう言い切ると軽く首を振り、跪く家臣に問うた。


『それで、珠の払濯(ふったく)は、その後進んでいるのか』

『……それが、……懸命に祈りを捧げてはいるのですが、一向に。先日お見せした状態から、悪化はしていないものの、よくもなっておりませぬ』


 不甲斐なさをにじませて告げられた内容に、サフィータは低く『そうか』と答える。

 二日と空けず、彼自身も奉納堂に赴き状態を確認しているが、赤黒い靄が珠をむしばむ様子は、いかにも禍々しく、サフィータの心を憂鬱にした。


『……苦労をかけるな、アリル・アド。私に、せめて祈祷の手助けになるような精霊力があったならば』

『なにを仰います。先代がエランドの地を追われたあの日から、精霊への祈祷は私めの仕事。精霊珠が汚濁したのは、そしていまだに払濯が叶わぬのは、私が至らぬせいです』


 声に苦渋をにじませて、アリル・アドが俯く。

 皺の寄った拳が強く握られているのを見て、サフィータはゆっくりと首を振った。


『おまえこそ、なにを言う。おまえほど心の正しい者が祈りを捧げ、それでも精霊が応えぬというならば、それはやはり魔力のせいなのだ。それなら私は、不得意な祈祷よりも、せめてヴァイツに兵を出させ、精霊に罰を与えさせることで役割を果たそう』

『サフィータ様……』


 アリル・アドがなにかを言いかけ、やめる。

 引き結ばれた口には、さまざまな感情が凝っているようだった。

 結局彼は、安易な慰めはせず、小さく詫びると部屋を辞した。


 後には、燭台の炎と、それを見つめるサフィータだけが残された。


『……そうとも。それこそが私の――このエランドを継いだものの役割』


 夜の闇に浮かぶ炎に向かい、ぽつんと呟く。

 精霊力の乏しい彼には、その灯の周囲に、炎の精霊がいるのかどうかもわからなかった。


 サフィータは己の瞳に手をかざしながら、誰にともなく低い声で問うた。


『だが……例えば跡を継いだのがおまえだったら――違う方法はあったろうか?』


 彼が続けて口にした名前は、あまりにも小さく、燭台の炎すら揺らすことはなかった。


『……詮なきことを』


 やがて彼は、薄い唇に自嘲の笑みを刻むと、炎を吹き消し、また月を見上げた。




***




 ヴァイツの巫女が和やかに食事を終え、立ち去った後、カジェとスーリヤは女官の仕事として、粛々と東屋の片付けに当たっていた。


『ねえ、カジェ。私、サフィータ様って初めて見たけど、大層な美男ねえ』

『顔はね。だが、やることは陰湿だ。根暗そうだと思わないかい?』

『あはは、やーだ、そういうこと言うとモテないんだよ。男は傷つきやすいんだから』


 東屋と東屋の間には距離があり、ここでの会話がほかに聞かれることはまずない。

 そんなわけで、ふたりは本来の口調に戻って、のびのびとおしゃべりに興じていた。


 サフィータが手を付けなかった食事なども、遠慮なくつまんで口に放り込んでいく。

 ばれたら免職ものだが、スーリヤたちはこの手のことの常習犯だったし、ばれないだけの強かさも持ち合わせていた。


『サフィータ様ったら、全然食べずに去っちゃったねえ』

『引き換え、我らが巫女サマの皿のキレイなことだ』

『ほんと。油の一滴すら残ってない。お育ちがいいって、こういうことを言うのかねえ』


 スーリヤは『取り分が減っちまったね』と肩をすくめたが、少ししてから小さく笑みを浮かべた。


『あの子、ためらいもしないで食べたね。びっくり』

『……腹を空かせてたんだろ。子どもだし』


 カジェは皿を重ねながら、そっけなくあしらう。

 だが、スーリヤはいたずらっぽく笑うと、彼女の肩にとん、と顔を乗せ、


『そぅお? 言葉通りおいしかったんじゃない? カジェの手料理がさ』


 険しい顔をしている相手の頬を、つんつんとつついた。


『カジェ、実はあの子のこと、気に入ってるでしょ? ちょっと、おいしく作りすぎちゃったんじゃない? 生焼けとか、塩抜きで出すことだってできたじゃん』

『……それをしたら「試練」の域を逸脱するだろ。こちらに悪意はないと精霊に言い訳できる、ぎりぎりのラインを攻めろって言われてるんだから。あたしたちが普段食べてるのを、そのまま出すのがせいぜいだよ。でも普通は、それで十分侮辱的なはずだ。あの子の対応が異常なんだよ』


 カジェの口調はどこか言い訳めいていたが、スーリヤはそれを責めることはしなかった。

 代わりに彼女は、そのまま腕をすとんと落とし、背後からカジェに抱き着いた格好で、静かに言った。


『そうだね。あたしたちが、普段食べてるものを、そのまま、だったね』

『…………』

『あの子、それを、おいしいって言ってくれたんだよね』


 あたし、ちょっと――うれしかったよ。


 小さな呟きは、カジェのお仕着せのローブに吸い込まれた。


 貧民。

 スラム。

 エランドの最下層。


 望んで生まれついたわけではない身分は、いつだって彼女たちの人生の邪魔をした。

 貴族や裕福な市民の数倍、いや、何十倍の努力を重ねたところで、そこから脱却することはかなわない。

 ただ貧民というだけで嘲笑われ、白い目で見られ、蔑まれる。


 激しい競争を勝ち抜き、聖堂付きの洗濯女としての職を得ても、彼女たちが洗濯物に触れると「豚の匂いがする」と言われたこともあった。

 食事の時間に、家畜のえさが出されたこともあった。

 誰も、彼女たちが築いてきた人生や習慣を、褒めて認めるようなことはしなかった。


 だから、こうして豚の内臓なんかを出したなら、きっとあの少女も、嫌悪に顔をゆがめると思ったのだ。

 そして、それはそれで、胸のすく思いがするだろうと。


 だが、現実には違った。

 彼女はまるで至高の一皿を楽しむかのように笑みを浮かべ、おいしいと言ってくれた。

 貴族の食事よりもおいしいと。高級食材とこれの、なにが違うのかと。

 その微笑みは――きっと嫌悪にゆがんだ表情よりも、ずっとずっと、スーリヤの心を晴れやかにしてくれた。


『あの子さあ。あたしたちに向かっても、絶対敬語で話すじゃん。……たいてい珍妙だけど』

『…………』

『今朝なんて、ヴァイツ土産のお茶まで淹れてくれたじゃん? エランド人のあたしたちの舌に合うか、正直に、五段階評価で教えてくれなんて、気ぃ遣ってさ。ほかの国の巫女たちなんか、なんだかんだ身支度もままならないで、女官をこき使ってるって話だよ』


 レオはスーリヤたちをこき使う代わりに、モニターとして使っているだけなのだが、幸か不幸かそれに気付く彼女たちではなかった。


『ねえ、カジェ。この仕事――』

『スーリヤ。銀貨三枚だよ?』


 スーリヤが言いかけたのを、カジェはぴしりと遮った。

 言いよどんだ妹分に向き直り、その幼さを残した顔を覗き込みながら、告げる。


『たしかにさっきは嬉しかった。すっとした。別にあの子のことも嫌いじゃないさ。でもね、スーリヤ。あたしたちがみじめな生活をしている間、あの子は富を浴びるようにして暮らしてきたんだ。人に優しくできるのも、結局は余裕があるからさ。その格差を、あんたはたった一日優しくされただけで、なしってことにできるのかい?』

『…………でも』

『契約祭はあと二日ある。……逆に言えば、あと二日しかない。たった二日、しんどい目を見てもらうくらい、……なんてことないじゃないか』


 それはまるで、自分自身に言い聞かせるような口調だった。

 スーリヤしばし黙り込むと、やがていつもの笑みを浮かべ、小さく肩をすくめた。


『……やだな、カジェ。あたし、「この仕事、クソだね」って言おうとしただけだよ』


 そうして、中断していた片づけの作業に戻る。

 妹分を手伝って、かちゃかちゃと皿を重ねながら、カジェは静かに呟いた。


『……ああ、ほんと。クソみたいな仕事だよ』

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