6.レオ、嫉妬される(前)
「本日はこれで、終わりにいたしましょうか」
ナターリアが声を掛けた瞬間、ビアンカはふうっと大きな息を吐き、机に広げた教科書の上に倒れこんだ。
「まあ、ビアンカ様。淑女がそのような真似をすべきではございませんわ」
「……見逃してくださいませ、ナターリアお姉様。今のわたくしは、淑女ではありませんの。古代エランド語を詰め込んだ、二足歩行するだけのなにかですの」
声がやさぐれている。
ぼやいた傍から、「あ、だめ、雑談なんかしたら、せっかく詰めた単語が漏れちゃう……」とビアンカはなぜか口を押えた。
ぐったりとしているその姿に、ナターリアは思わず苦笑する。
「湖の貴婦人と会話できるようにと、語学に励むのは殊勝な心掛けですが、あまり無理をするものではございませんわ」
そうして、従妹の代わりに教科書を閉じ、簡素な机を元の位置に戻しはじめた。
その頬には、ステンドグラス越しの夕日が差し込んでいる。
彼女たちは、古代エランド語の自主課題をこなすために、聖堂に籠っていたのだった。
通常ならばどちらかの寮室に集うものなのだが、ビアンカの部屋には誘惑が多くて身が入らないし、ナターリアの部屋には書物が多すぎて閉塞感がある。
語学の苦手なビアンカが「どうしても体に言葉が染み込んでいかない」と嘆いたこともあって、ナターリアが聖堂での自習を呼び掛けたのだ。
行き詰ったときには、精霊画や立像を示し、それに関連した聖句を教えてくれる。
おかげで、ビアンカもいくらかやりやすく、エランド語を学習できていた。
「もう三時間ですわ。少し張り切りすぎてしまったかも。大丈夫ですか?」
「大丈夫ですわ! わたくし、少しでも早く、あの方ときちんと会話をしたいの」
ビアンカが「あの方」と呼ぶのは、湖の貴婦人と呼ばれる水の至高精霊・カーネリエントのことである。
ビアンカは彼女の実像を知らないので、あくまで気高い存在だと信じ、御名の代わりに敬意を込めてそう呼んでいる。知らぬが花とはこのことであった。
「まあ。湖の貴婦人は、そんなに頻繁に顕現するのですか?」
ナターリアが尋ねるのは、カーネリエントが気難しい精霊だと評判だからだ。
いくら愛し子とはいえ、長寿な精霊の感覚では数十年単位で顔を見せないこともあるという。
しかしビアンカは、ちょっと戸惑ったように眉を寄せると、「ええ」と頷いた。
「しょっちゅう話しかけてくるわ。思ったより、ずっと気さくな方みたい。……ときどき意地悪でもあるけれど」
「意地悪、ですか?」
「ええ。例えばね、わたくしがレオノーラを目指したい、みたいな話をしたら、それが面白くなかったのか、レオノーラのことをひどくこき下ろすのよ。それも、やれ『あやつは本当はがめついのだぞ』とか『がさつで卑しい性根の持ち主なのだ』とか、根も葉もないことばかり」
根も葉もないどころか、大変実のある指摘である。
しかし、ビアンカと同じく、それをいわれなき中傷として処理したナターリアは、「まあ」と笑みをこぼすだけだった。
「随分おかわいらしい性格でいらっしゃるようだけれど……きっと、人を貶めるのは不慣れでいらっしゃるのね。よりによって、そんなありえない形容をするだなんて」
「ね? 精霊って嘘を嫌うから、いざ自分で嘘をつこうとすると、てんで下手なのだわ、きっと。でもわたくし、あまりに頭にきたものだから、そのときばかりはあの方を無視してしまったの」
「まあ! 湖の貴婦人をですか? 恐れ多いことをしますね」
ナターリアが目を見開くと、ビアンカはふふんと口の端を持ち上げた。
「だって、意思表示すべきことは、きちんとしなくては。まあ、わたくしも内心、祟られたらどうしようなどと冷や冷やしていたけれど、蓋を開けてみれば、平謝りしてくださったうえに、『レオノーラさんは大変無欲な人物です』『麗しく清らかな心根の持ち主です』と丁寧に訂正してくださったわ」
無意識に、カーネリエントのSっ気とMっ気を、見事に押さえているビアンカであった。
至高精霊と対等に接している従妹を見て、ナターリアはそっと目を細めた。
「……本当に、ビアンカ様は精霊の愛し子なのですね」
「ナターリアお姉様?」
しみじみとした口調に、ビアンカの眉が寄る。
首を傾げて聞き返すと、彼女は「あんまりにビアンカ様がまぶしくて」と微笑んだ。
「……そんな、わたくしなんて、まだまだですわ。ナターリアお姉様や――あの子に比べれば」
あの子、というのは、彼女の年下の友人、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグのことである。
ビアンカは、ペンの持ちすぎでタコのできた手を見下ろし、感嘆したように首を振った。
「聞きましてよ。あの子、寿ぎの巫女を務めるために、ここ一週間、ろくに眠りもせずに準備をしているのですって? それも、皇家側が想定していたよりも、はるかに高いレベルで
「ええ。わたくしが一週間と見ていた引継ぎなど、最初の二日で終わらせてしまって、今は各分野の講師に教えを乞うているところです。おかげで、わたくしは早々にお役御免になってしまいました」
だからこうして、ビアンカ様に教える時間ができたわけですが、とナターリアが肩をすくめたので、ビアンカはふと尋ねてみた。
「ナターリアお姉様は、引き継いでしまってよろしかったの? ずっと、巫女を務めるために準備してきたわけでしょう?」
「それはもちろん。わたくしよりもふさわしい人がいたら、いつでもそれを差し出すのが当然ですもの」
穏やかな口調。
しかし、
するとナターリアは、その視線を避けるようにして、夕陽を差し込ませるステンドグラスを見上げた。
「本当に、あの子以上にふさわしい女性はいません。奇跡のような子ですわ。下町で育ったというのに、擦れたところがまったくなくて、ひたむきで。あれだけの量の知識や技術を詰め込まれたら、誰だって逃げ出したくなるでしょうに、いつも講師役に『教えてくれてありがとう』と頭を下げてまわるのですから」
「まあ……。寝不足で本人もつらいでしょうに」
「ええ。ですが、『睡眠などより、優先したいものが、あるのです』と笑っていました」
レオとしては、脱走する前の最後の機会に、最高水準の教育をタダで施してくれることを感謝しているにすぎなかったが、それに気付くふたりではなかった。
突き抜けたがめつさの前では、「寝る間もないくらい詰め込まれる」という事実も、快感でしかないのである。
ナターリアは、なにもぶら下げていない胸元に無意識に手をやり、小さく呟いた。
「……それだけ、アルベルト様にふさわしくありたいのでしょうね。あの子はいつだって、揺るぎなくて、ひたむきで。大切なもののために走っている……」
「……ナターリアお姉様?」
今一度ビアンカが問うと、ナターリアははっとしたように顔を上げた。
なんでもない、と笑って、今度こそ勉強道具を片付けにかかる。
ビアンカはそれを黙って見つめていたが、やがてふと口の端を持ち上げ、切り出した。
「ねえ、ナターリアお姉様?」
「なんですか?」
くるりと振り返った従姉の両手を、きゅっと握る。
そうして、教師が出来の悪い生徒に教え諭すようなゆっくりとした口調で、彼女は告げた。
「あのね、お姉様。わたくしには、打ち勝ちたい、せめて並び立ちたい目標がふたりいますのよ。ひとりはレオノーラ。もうひとりは、――ナターリアお姉様。だから、そのお姉様がうじうじしているだなんて、わたくしが許しませんわ」
目を見開いた相手に「でも」と続ける。
「でも、うじうじしてしまったときって、自分ひとりの力では立ち直れないということも、わたくしは知っていますの」
そうして、アイスブルーの視線を自らの手に落とした。
一か月ほど前、コルヴィッツの森でさんざんに傷ついた手の甲は、今ではすっかり滑らかさを取り戻している。
かつてそこに裂いた服を巻き付けてくれた少女を思い、ビアンカは微笑んだ。
「自分を認めるのは自分自身だけれど、そうするためには、わたくしたちって、誰かの言葉が必要なのですわ。ナターリアお姉様にとってのその『誰か』は、わたくしかもしれないし、違うかもしれない。いずれにしても、お姉様はきっと、その誰かに出会えると、わたくしは信じていてよ」
「ビアンカ様――」
なにかを言いかける相手の口の前で、ぴっと人差し指を立てて反論を封じる。
戸惑いの表情で瞳を揺らした従姉に、ビアンカはきれいにウインクをしてみせた。
「差し当たっては、経験豊富な導師様に話を聞いてもらう、なんていかがかしら?」
「……は?」
眉を顰めるナターリアの手をぱっと放し、くるりと身をひるがえす。
素早く勉強道具を拾い上げると、ビアンカは「授業をありがとうございました。ごきげんよう」と軽やかに聖堂の扉をくぐり抜けた。
開け放してあった扉の向こう――廊下の先には、今日も気だるげにローブを着崩して歩く聖騎士殿の姿が見える。
「おう、聖堂に来るなんて珍しいな。愛し子として、精霊への祈祷か?」
こちらの姿に気付いた彼がそう話しかけてくると、ビアンカはにこりと微笑んだ。
「いいえ。告解を求めて」
「ああ? なんだ、悩み事かよ」
告解とは、元は罪の許しを得るために、導師に胸の内を明かすことであったが、学生たちの間では、恋愛相談や進路相談を指すことが多い。
まさかこの、自信に溢れた皇女が? と怪訝そうに眉を寄せる相手に、ビアンカはふふっと笑う。
そして、いたずらっぽい口調でこう答えた。
「ええ。わたくしが、ではありませんけれど」
楽しげに細められた青い瞳には、無邪気な少女のような、同時に、妹を導く姉のような、明るく温かな光が浮かんでいた。
***
「ビアンカ様ったら……」
急に大人びた表情で、意味深な発言を寄越して去っていった従妹を見守り、ナターリアは軽く頭を左右に振った。
これでは立場が逆のようだ。
自分は常に、年下の皇女を導く姉であろうと思っていたのに。
「まったく、なぜ急に導師様に、などと――」
ばつの悪さをごまかすべく、そうひとりごちていたナターリアだったが、ビアンカと入れ替わりのように入ってきた人物を認めて、はっと目を見開いた。
「――……おう。おまえか」
ラフに着崩したローブ姿。
獅子のたてがみのような金茶色の髪に、鋭い琥珀色の瞳。
少し驚いたように足を止めたその人物は、グスタフ・スハイデン――ナターリアが初めて龍の血毒を与えた男だったからだ。
「……ごきげんよう、スハイデン導師」
彼に会うのは、あの日以降初めてだった。
思うさま感情を爆発させて、糾弾し、毒まで与えてしまった相手にどのように接すればよいかわからず、ナターリアはさりげなく視線を伏せた。
もはや自分は、恋に恋する少女ではないが、平静さを失った姿を見られてしまった相手と向き合うには、気まずさがあった。
「……皇女殿下に、勉強を教えておりましたの。もう終わりましたので、すぐに失礼いたしますわ」
「……ナターリア・フォン・クリングベイル」
「やはり、エランド語を学ぶなら、聖堂は気持ちのよい場所ですね。レオノーラにもここで教えればよかったかしら。まあ、もう済んだことですが」
相手に話しかけられたくなくて、ぺらぺらと言葉を続ける。
そのまま無理やり「ごきげんよう」とわきをすり抜けようとすると、
「待てよ」
二の腕を掴まれた。
意図せずして力がこもってしまうのだろう男の腕力に、かすかに眉が寄る。
それに気付いたらしい相手は、「わりい」と小さく呟き、ぱっと手を放した。
が、通路をふさぎ、ナターリアを立ち去らせてくれない。
彼は珍しく、少し言葉を選ぶようなそぶりを見せたのち、低い声で謝罪してきた。
「――……この間は、悪かったな」
「……は?」
「俺が未熟なせいで、おまえの友人を侮辱した。結果……なんだ。おまえの唇を、奪う形になったろ。貴族の女にとって、口づけは……特に初めての口づけは、婚約者としか交わさないもんだと聞いている。悪かった」
これにはナターリアも大きく目を見開いた。
毒を与えられたと責めるのではなく、むしろ「あれ」を自身の責任として負っているとは。
こういうところが、騎士たるゆえんだろうか。
「……いえ。あれはキスというか……いえ、キスなんかではありませんわ」
「……ああ?」
「確かに唇は触れましたけど、毒を与えるためですもの。口づけとしては数えません」
「なんだと?」
相手の罪悪感を減らそうとしてやったのに、むしろグスタフは不機嫌そうに唸る。
やはりロマンス小説を読んでいたくらいでは、異性との接し方などわからぬものなのだ。
ナターリアは、改めて自身の奥手ぶりを痛感し、苦笑した。
「どうぞ、お気になさらず。あれでレオノーラへの誤解が解けたなら、幸いですわ」
そうして、今度こそわきをすり抜けようとしたが、またも「おい」と呼び止められた。
眉を顰め、視線を向けると、相手もまた困惑したように眉を寄せている。
グスタフはしばらく聖堂のあちこちに視線をさまよわせていたが、それで先ほどの会話を思い出したらしく、口を開いた。
「……なんだ、その。……エランド語を教えていたのか。皇女に、ハーケンベルグにも。おまえ、語学が相当得意なんだな」
「……彼女に教えたのは、わたくしが得意だからではなく、単なる引継ぎですわ」
なんとなく相手の発言を否定したくなって、そう返すと、グスタフは片方の眉を上げた。
「そうか。寿ぎの巫女は、元はおまえの役目だったんだもんな」
元は。
その言い方で、彼の中ではすでに、巫女はレオノーラの役割なのだということを悟る。
聖騎士は契約祭にあっても帯同が許される数少ない兵力なので、グスタフもレオノーラについてエランドへ向かうのだろう。
今、
なぜかそれに胸の痛みを覚えて、ナターリアはぎこちない笑みを浮かべた。
「……ルグランの聖堂に着いてしまえば、敬虔と評判の女官が付いてくれますけれど、問題は道中ですわね。護衛団も伴わず国境を越えるなど、彼女には心細いことでしょう。魔力を嫌う契約祭のエランドでは、陣で聖堂まで一気に移動することも叶わない。馬車で向かうそうですが……どうか、レオノーラをよろしくお願いいたします」
「ああ。この右手に懸けて、彼女を守るつもりだ」
力強くグスタフが請け負う。
まあ、肝心の本人が兵を連れるのを嫌がってるから、そっちのほうが問題なんだがな、と肩をすくめる様子には、もはや敬愛すらにじんでいて、以前の攻撃的な態度が嘘のようだった。
喜ばしいことのはずなのに、なぜか見ているのがつらい。
ナターリアはいよいよ立ち去ろうとしたが、またも呼び止められ、今度は腕を取られた。
「なあ」
「……なんですか」
抗議の意を込めて、取られた腕を睨みながら聞き返す。
しかし相手は頓着せず、代わりに真意を探るようにじっとこちらを見つめてきた。
「おまえ、……巫女の役を手放して、よかったのか?」
「…………」
ナターリアの鳶色の瞳が、わずかに見開かれた。