4.レオ、国外雄飛を決める(前)
「うーん……」
ハーケンベルグ侯爵家の、優美な屋敷の一室。
薄い紫と柔らかなベージュで、品よくコーディネートされたその空間で、黒髪の美少女は小さく唸った。
高級な書き物机に姿勢よく座した彼女の、その白く小さな手には、質の悪い便箋が握られている。
潤むような紫の瞳が向けられた先には、かくかくとした筆跡の、恫喝のようなフレーズが覗いていた。
「なぜ……」
レオは苦悩していた。
彼が読んでいるのは、レーナからの手紙だ。
先の安息日に尻切れトンボで追い出されてしまってから、昨日になってようやく学院に手紙が――水晶を使うのはもったいないので、日々のやり取りには手紙を優先している――届いた。
それを、今日は侯爵家に来る用事があったために持ち出して、こうしてこっそりと読んでいるのである。
そこには、エミーリオたちがレオの婚約を妨げるために、反故紙に中傷を書きつけてばら撒いたという事件が書かれていた。
レーナたちが慌てて回収に乗り出したものの、一部は読者の手に渡ってしまったということも。
手紙の大半は、「中傷を見た読者たちが同調するか、逆に反目して騒ぎ立てたとしても、くれぐれもそれを利用して皇子に婚約解消を迫りに行ったりしないように」との注意書きで占められていた。
(なんでだよ? せっかく交渉材料があるのに、それを活用しないなんて)
参考までに、と同封されていた中傷の紙を見ただけで、「おお! これを利用して皇子に婚約解消を……!」とひらめきかけたレオとしては、レーナの指示が不満でならなかった。
だが、自分の行動が、最近なんだか事態を悪化させてばかりだというのも事実だ。
自分だってなにか動きたいのに、と逸る心をぐっと抑え、レオは溜息を漏らした。
(それに……)
指先で、中傷の一文をそっとなぞる。
(俺、こいつらの教育方針、間違ったかねえ……?)
孤児院の兄貴分として、下町出身であることを「卑しい」と表現する彼らの発想が、レオは少々気に掛かっていた。
純粋な事実だし、自分に向けられた言葉であれば「その通りだ」と胸を張って答えるくらいなのだが、子どもたちもそうだというのは頂けない。
もし自分の態度が、彼らに誤った言葉遣いをさせているのだとしたら、これを機に改めなくては。レオは、レーナの懸念などそっちのけで、そんな斜め上な道徳的葛藤にとらわれていた。
と、そのとき、
「レオノーラ様、よろしいでしょうか」
部屋がノックされ、はきはきとした声が掛けられる。カイだ。
レオは「はい!」と慌てて立ち上がり、ついでに手紙を暖炉にさっと放り投げた。
孤児院からの手紙は基本的に検閲されなくなったものの、手紙の最後には「この手紙は、読み終えたら迅速かつ内密に、焼却処分すること!」と太字・二重線で書かれていたからである。
だが、便箋に火がつくかつかないかのタイミングで、身のこなしの素早いカイが入室してきてしまう。
レオは内心で「あわわわ」となりながら、さりげなく、暖炉の前に移動し、燃える手紙を隠した。
「レオノーラ様……? もしや、お部屋が寒かったでしょうか?」
「え? ああ、いえ、まあ。そうですね。そう、懐は、いつも、寒いかもしれません……」
咄嗟にごまかそうとするあまり、妙なフレーズが飛び出す。
レオの懐が、満足レベルまでに温まる日は永遠にないというのは事実だが、ここで言うべきセリフでもなかった。
が、人を疑うことを知らない従者は、特にツッコミをすることもせず、「なんてお労しい」みたいな顔つきになって、腕まくりを始める。
「――申し訳ございません。もう光降月だから、などと思って、薪の量を減らしておりました。すぐに足しますね!」
寒いわけではまったくなかったレオは、慌ててそれをとりなした。
「いえ! 全然! 全然寒くないです! 薪、もったいないです。やめましょう。もうこの部屋、出ますもんね? エミーリア様、呼んでいますもんね?」
そう。
この日、レオはエミーリアに呼び出されたがために、侯爵家に足を運んでいたのである。
精霊祭からこちら、レオは夫妻に呼び出されることが増えた。
内容は、食事会や観劇、散歩に園芸にピクニック、とさまざまであったが、それらがすべて、「我が愛・レオノーラを嫁に出す前にやりたいことリスト」に沿っているのだということを彼は知らない。
そしてまた、一つをこなすと同時に、その満足と次への期待から、三つくらい項目が増殖していることも知らなかった。
彼はただ、春になってエミーリアも活動的になってきたのかな、などと片付け、それらを金儲けのためのインプットと位置づけつつ、それなりにエンジョイしていたのであった。
(それに、皇子を避けるためのいい口実になるしな)
ついでに言えば、週末ごと、なんなら平日にまで呼び出されることで、寮から離れられるというのもありがたかった。
婚約者候補なんてものになってからというものの、皇子からの外出の誘いなども急増したのだが――相手も相当こちらを殺る機会を窺っているものと見える――、実家の誘いであれば、それを断ることもたやすいからだ。
レオは、夫妻からの誘いと皇子からの誘いが毎回毎回妙にバッティングするたびに、安堵の溜息を漏らしていた。
「さあ、行きましょう。行きましょう。居間ですか? 食堂ですか? 庭ですか?」
「あ、はい、本日は応接間へ――」
肩を回す勢いで行き先を問うレオに対し、カイは曖昧に答える。
そのアーモンド形の瞳は、炎の踊る暖炉に吸い寄せられていた。
「応接間? 珍しいですね。誰か、来客――カイ?」
主人が怪訝そうに首を傾げたところで、はっと我に返る。
彼は慌てて視線を引き戻すと、少女に向き直った。
「あっ、申し訳ございません。はい、本日は、急遽ですが、大切なお客様がいらっしゃっています」
「大切な?」
「ええ。レオノーラ様もお待ちの――」
そこまで言いかけて、ふと言葉を切る。
カイはいたずらっぽい笑みを浮かべると、「いえ」と首を振った。
「お会いになるまでのお楽しみ、ということにしておきましょう」
「?」
少女はきょとんとしているが、補足はしない。
カイは、日ごと夫妻に呼び出され、最愛の婚約者に会えず溜息を漏らしている主人に、ちょっとしたサプライズをもたらせることを嬉しく思いながら、意気揚々と少女を応接間へと誘導した。
***
クラウス・フォン・ハーケンベルグといえば、戦場では修羅の異名をほしいままにし、一線を退いた今となっても、生きる伝説として尊敬を集める、最強の武将である。
しかし、このうららかな春の日、彼はその広い肩を心なしかすくめ、そっと胃の辺りを押さえながら、静かにソファに座していた。
隣には最愛の妻、向かいには太陽の化身であるかのような美麗な青年が座り、にこやかに会話している。
――のだが。
「うふふ。突然いらっしゃるなんて、若い方はフットワークが軽くてうらやましいですわね」
「恐縮です。失礼かとは思いましたが、
「まあ、殊勝なお心がけですね。陛下の勅命まで携え、使者の真似事までなさる、親思いで気配りのできる殿下ですもの。わたくしが今更指南できることなど、ございますまいに」
どうにもこの小一時間、クラウスは、両者から氷雪地帯と見まごう冷気が漂っているように思えてならなかった。
ちなみに、彼の持てる最大の解釈能力を行使して二人の会話を翻訳すると、
――最愛の孫と過ごす安息日に、なぜ来たこのうつけめ。
――毎回バッティングさせてますよね? それで社交界の重鎮とは片腹痛い。
――はっ。門前払いを回避するために、親の権力まで使うすねかじりの
といった感じになる。
もしかしたらそれ以上の毒が含まれているのかもしれないが、幸か不幸か、侯爵に理解できるのはここまでだった。
エミーリアは本来温厚な性格の持ち主だ。
皇子に対しても、なかなかの気骨の持ち主、と普段は一目置いている。
だが、孫との逢瀬を邪魔する輩は全力で叩き潰す。それが彼女だった。
「ああ……と。その、陛下の勅命の件なのだが」
クラウスは咳払いをして、なぜだか引きつる喉を叱咤しながら、二人の会話に割り込んだ。
自分は家長であり、このたおやかなはずの女性の夫であり、この場で一番の年長者だ。
緊張するのはおかしい。
そう自らに言い聞かせながら。
「きたる契約祭に、レオノーラを寿ぎの巫女として派遣する、というのは、どのようなお考えがあってのことなのだろうか?」
契約祭というのは、七年に一度の間隔で、エランド王国で長らく執り行われてきた、精霊教のもっとも重要な催事のひとつだ。
精霊祭が、地に降り立った光の精霊と春の訪れを祝福する「お祭り」であるのに対し、契約祭は、その光の精霊との契約を更新し、祝福を得る「儀式」である。
必然、契約祭は精霊祭に比べ厳格なものであり、それを執り行うのが精霊の末裔たるエランドの民でなくてはならなかったために、エランドは自治領としての存続を許されたともいえた。
さて、その契約祭には、「寿ぎの巫女」と呼ばれる女性が各国から参加することになっている。
精霊の祝福を得るために、その国で最も清らかな少女を大使として差し出すのだ。
たいていは国の王女か、年頃の王女がいない場合には爵位の高い貴族子女がその役割を果たす。
国としてのエランドは滅びたとはいえ、大陸中に浸透する精霊教の、寿ぎの巫女。
それを務めれば揺るぎない箔が付くため、これは大陸中の令嬢のステイタスだ。
しかし、年頃の娘を持つ者の最大の栄誉をちらつかされても、侯爵はむしろ、それを不審に思うだけだった。
「契約祭は、教義上非常に重要な儀式。皇女殿下か、都合がつかぬならクリングベイル公爵令嬢あたりが務めるのが、従来の慣例かと思ったが」
「そうですね。エランド王国が滅ぼされる前であったならば」
鋭い視線を向けられても、皇子の口調はよどみなかった。
「卿にだからこそ、率直に申し上げましょう。宗教上の最高の誉れを求めて、我がヴァイツ帝国ですら、かの小王国には歴代の皇女、あるいは公爵家の娘を派遣してきた。ですが、先の大戦でエランドは破れ、聖地としての権威は維持しつつも、我が国に自治を『認めてもらう』存在になりました。その力関係は、常に繊細に調整されていなければなりません」
「……属国に、皇女や公爵家の娘を差し向けたのでは、手厚すぎるということか」
「正確には、『七年前と同じ対応では』ということですが」
静かな声でなされた指摘に、クラウスは「ふむ」と顎をしゃくった。
事情はわからないでもない。
しかしそこに、夫人が穏やかな声で問うた。
「陛下のお考えに異を唱えるわけではございませんけれど、いささか急に過ぎるのではないでしょうか。通常であれば、一年以上前に打診が来ていてもおかしくない案件。それを、まさか来週に迫った契約祭に間に合うよう、一週間で支度を済ませろなど」
口調は優しいが、その滑らかな声の下には、「うちの孫を馬鹿にするなら、いつでもファイトする用意はあるんだぜ」と匂わせるような緊張感が横たわっている。
皇子はその挑発には乗らず、真摯に頭を下げた。
「それについては、私も父も申し訳なく思っています。当初は、過分を承知でナターリア嬢を派遣するよう調整していたのですが……。先日の茶会でレオノーラがデビュタントを済ませた以上、身分的にも素質的にも、最高の逸材を見逃す手はない、という話になりまして」
「……最高の逸材」
エミーリアが復唱すると、皇子は神妙に「はい」と頷く。
「かつて寿ぎの巫女を務めた母も、レオノーラならば間違いないと申していました」
「皇后陛下が」
「はい。レオノーラの精霊のごとき容貌、気品あるたたずまい、なにより、欲のない清らかな心。光の精霊から祝福を授かる巫女として、彼女よりふさわしい者はいない。彼女なら大陸一、そして史上一番の寿ぎの巫女になるだろうと、先日の茶会で確信したそうです」
「史上一番」
横でクラウスは、あ、と思った。
妻の姿勢が、少しずつ前のめりになってきている。
それを悟っているのかどうか、皇子は真剣な表情で提案を続けた。
「とはいえ派遣が決まると、その準備で夫妻と過ごす時間が削られてしまう。それはレオノーラにとっても悲しいことでしょう。ですので、巫女役を承認いただけた際には、準備および休息期間として、契約祭を挟んで一か月の休学を認めよう、と考えています」
「一か月」
その瞬間、夫妻の脳裏には「やりたいことリスト」が走馬灯のように駆けていった。
ややあってエミーリアは、少し冷めてしまった紅茶を一口すすり、小さく咳払いした。
「――……まあ、勅命で強制してもおかしくないところを、殿下を名代にして、わざわざお伺いを立ててくださった陛下の御心を無下にするわけにも、まいりませんわねえ」
皇子の訪問は、「忌々しい権力行使」から「気遣いあふれる行為」にクラスチェンジした模様である。
「もちろん、最終的には本人の意思次第ですけれど」
と夫人が付け足したそのとき、ノックの音が響き、
「エミーリア様。今日は、なんの――あっ!」
彼女の最愛の孫娘が、応接間の入り口で小さく叫んだ。