1.レオ、陳謝する(前)
『たいっへん! 申し訳ございませんでしたあああ!』
春の訪れを告げる精霊祭から、二週間。
花舞月特有の、眠気を誘われるような陽光が差し込むハンナ孤児院の屋根裏部屋で、そんなエランド語の謝罪が、元気よく響いた。
きしむ木の床に、ぐりぐりと頭を擦りつけているのは、簡素なドレスをまとった、黒髪の少女。
『本当に! 俺が! 浅はかだったばっかりに! 目先の欲にとらわれたばっかりに! こんな事態になっちまって、俺としてももうほんとどうしていいかっていうか、マジもう言葉が見つからないっていうか、うわあああレーナごめんんんん!』
その薔薇のような唇からこぼれるのは、スラング交じりの男言葉だ。
しかし、相対する少年二人は、それをまったく疑問に思うそぶりを見せず、ただ壁にもたれて腕を組んでいた。
背の高い、褐色の肌の少年は、淡々とした表情で。
やや小柄で、鳶色の髪とわずかなそばかすが特徴的な少年は、それ以上に感情を窺わせない顔つきで。
――要は、二人とも、無表情で。
目のハイライトを消したような無表情コンボに、少女――の皮をかぶった守銭奴少年・レオは、「うぅっ」と心が折れたような呻き声を漏らした。
『マジ悪かったって……。頼むからその無表情やめてくれよ。激しく怖えよ。反省してるから、一緒に対策考えてくれよぉ……いや、考えてください。考えてくれませんか?』
へにゃりと情けなく眉を下げ、徐々に声もトーンダウンしていく。
買い物交渉の場では、店の主人が「もう勘弁しとくれ」と悲鳴を上げるまで強気の姿勢を崩さないレオだが、明らかに自分に非があるとわかっている今回の場合、その強気もどこへやらだった。
一向に無言と無表情の構えを崩さない友人たちを前に、レオはいよいよぐっと口を引き結ぶ。
そうして、覚悟を決めて己のドレスの懐に手を差し込むと、小ぶりな巾着袋を引き抜き、おずおずとそばかすの少年――レーナに差し出した。
そのためらいと苦悩に満ちた姿たるや、傍目には、怒れる魔神に己の身体を捧げる生贄そのものだ。
『詫びの印に……俺が五年の歳月をかけて貯めた、ギザ小銅貨コレクションを……お、お納め……ちくしょう……っ、お納めください……っ』
『――いらないわよ、そんなもの!』
しかし、涙声で告げたその悲壮な決意は、すぱん! と音がしそうな切れ味の叫び声によって一刀両断される。
声の持ち主は、もちろんレーナだ。
彼女は、先ほどまでの無表情をかなぐり捨てて、わなわなと両手を震わせていた。
『誰が、そんなビタ銭で喜ぶっていうのよ……!』
『ええ!? おまえ、これだけじゃ飽き足らないってか!? 殺生な!』
『だから、そんなものいらないって言っているでしょう! なんなの!? ボケなの!? フリなの!? こんな事態のさなかに、あなた、どこまで私にツッコミを求めてくるのよ!』
渾身の償いをボケ扱いされて、レオはショックを受けた。
『いつ俺がボケたよ! 俺は、金に対しては、いつもいつでもいつまでも真剣勝負だよ!』
『なおさらたちが悪いわよ! ねえ、今の私の気持ちがわかる? おイタをした馬鹿猫を叱り飛ばしたら、「これで許して」って、ネズミの死骸をぶら下げて謝ってこられた気分よ! 要は、クッソいらねえ!』
『ギザ小銅貨様を、ネズミの死骸扱い……!?』
衝撃の発言に、レオは顔を蒼白にする。
縁がギザギザになったレアな小銅貨の尊さがわからないなんて、なんと無粋で無骨な人間だろう。これぞ猫に小判だ。
というか、レーナのやつも、随分口が悪くなってきた気がする。
『……でも、じゃあ、どう謝りゃいいんだよ……』
とはいえ、謝罪すべきなのはあくまでこちらなので、レオは心底困って眉を下げた。
そう、謝罪。
精霊祭での「公開処刑」から、はや二週間。
下町行きを渋る周囲をなんとか説得し、今こうして孤児院の屋根裏部屋にこもっているのは、ひとえに先日の失態をレーナに詫びるためであった。
ちなみに、エランド語を使用しているのは、盗み聞きのリスクを減らすためで、ブルーノにも付き合ってもらっているのは、レーナに殺されそうになったら止めてもらおう、という計算のためである。
『はっ、謝る。――謝る? よく言うわ、二週間も経っておいて。だいたい、手紙には、「あなたはただ呼吸と瞬きだけしてなさい」って書いたでしょう。それを、のこのこ孤児院までやってきて……。案の定、警護レベルが跳ね上がってるじゃないの』
レーナが苛立たしげに言うのは、孤児院に「慰問」してきた「レオノーラ様」が、二十人近い護衛に囲まれてきたからである。
カイ一人だけのときと違って、人払いするのにどれだけ苦労したことか。
ハンナにも手伝ってもらい、巧みな話術で勢力を分散させ、最終的には「陣構想についての秘密の打ち合わせをするから」という名目で部屋に籠っているのである。
こっそり屋敷から拝借してきた、防音魔術付きのカーテンまで扉に掛ける念入りさだ。
おかげで、エランド語とはいえ、なんとか自由に会話ができる。
『人数も異様だったが、見た感じ、相当な手練ればかりだったな』
『そう言うなよぉ……。これでもかなり、ましになったほうなんだぜ?』
沈黙を守っていたブルーノがぼそりと指摘すると、レオはごにょごにょと言い訳する。
彼の言う「ましになった」ことの論拠、および経緯は以下のようなものであった。
まず精霊祭の翌日、さっそく皇家が手配した帝国軍人が十人ほど屋敷にやってきた。
彼らはそれぞれ百人ほどの部隊を束ねる団長。――つまり、もともとレオに付けられようとしていた護衛は、千人規模であった。
それを、エミーリア夫人が「いざ見てみると、ごつごつした男ばかりで目に不快。孫が穢れる」との理由で拒否。
しかしそうしたら、代わりに、皇后の実家の隠密部隊が、やはり十人ほどやってきた。
人数的には減ったが、一人一人が諸国の王侯を暗殺できる程度の能力を持っているらしい。脅威はむしろ上がった。
すると今度は、クラウス侯が、「正式に婚約もしていない一侯爵令嬢に、とうてい背負わせるべき存在ではない」と追い払った。
『…………』
『…………』
説明を聞いていたレーナたちの表情が死んでいく。
侯爵にかろうじて常識が残っていてよかったが、これっていったいどんな事態なのだろう。
『でも、そしたら今度は、グスタフ先生率いる聖騎士団が押しかけてきてさ。レオノーラ騎士団を設立するとか言いはじめてやんの。……まあ、なんで先生が俺に忠誠なんか誓うことになっちまったかの経緯は、プライバシーの観点からちょっと省くんだけど、それが百人くらい』
これも夫妻に追い返されるかと思われたが、なんとここで、クラウス侯が目の色を変えた。
自らも紫龍騎士団を率いる彼にとって、聖騎士団は手合わせをしてみたい相手だったのだ。
よって彼は、「実力を試す」というのを口実に模擬戦を始め、最終的に勝ち抜いた二十人ほどを、「レオノーラを守り隊」として認定した。
つまり、先ほどの二十人は、紫龍騎士団と聖騎士団の混合部隊だ。
『でもさ、そんなの困るだけじゃん。何日もかけて、まじでいらないから! って説得して、とはいえ、名乗りを上げたものをやめるなんて収まりがつかないってことで、今日だけ、一日限りの護衛になったと、そういうわけ。千人規模が二十人、しかも今日限りだぜ? な、ましになっただろ? な!?』
『……ちなみに、なんて言って説得したわけ?』
『え? 別に、普通に。頼むから俺に張り付いてくれるなとか、それくらいなら教会の修繕でもしてろよとか』
レーナは悟った。
こいつ、呼吸するように聖女伝説を増やしていやがる、と。
今や皇后の次くらいに尊い女性になりつつあるというのに、自分の警護より教会の修繕を優先せよと言い放つなど、よほど謙虚で信心深い少女なのだとしか捉えられまい。
「……ただ呼吸させるだけでも駄目だったか……」
やはり息の根を止めるべきだった。
レーナは遠い目でそんなことを思ったが、やがて頭を振って思考を切り替えた。
やつがどんなに聖女の地位を強化していようと、今はそれを云々している場合ではない。
こうして人払いして会えることなど、今後ますますなくなっていくのだから、さっさとこの機会に元に戻ってしまわなくては。
なんだか痛む気のするこめかみを押さえ、レーナはレオに、
『それで、魔力は溜めてきたんでしょうね?』
と尋ねた。
前回学院に侵入したときは、レオの魔力が足りなかったこともあって、入れ替わり解消ができなかったのだ。
『え……っ!? 戻してくれんの? 今?』
『それ以外にどうするって言うのよ』
なぜか驚いているレオに、仏頂面で返す。
すると彼は戸惑ったような表情で、もごもごと答えた。
『ええっと……魔力は、溜まってると思う。ここ二週間くらいはそれどころじゃなくてサボってたけど、前にレーナが作った魔水晶を再生したり止めたりして、ちょこちょこ鍛えてたから』
地味な鍛錬だ。
レーナは呆れ顔になったが、レオは相変わらず魔術を展開できないので、唯一使える水晶の魔術で鍛えるのが精いっぱいなのだという。
まあそれでも、ギリギリ一回分くらいは賄えるだろう。
レオはなぜだか、躊躇うように口を引き結んでいる。
レーナはそれを怪訝に思いながらその腕に触れ、
「――……は?」
それから、ぽかんとした。
『……ない』
『へ?』
『魔力が、かけらも、ないんだけど!?』
『……はあああああああ!?』
予想外の事態に、レオが驚愕の叫びをあげた。