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無欲の聖女は金にときめく 作者:中村 颯希

第三部(完結編)

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0.プロローグ

 エランドが都、ルグラン。


 かつて宮殿として使用されていた大聖堂は、細かく砕いたタイルで覆われ、夕刻の燃えるような日差しに赤く照らされている。

 光の精霊の一日最後の祝福である夕陽を、不敬にも靴で踏みしめぬよう、その場にいるものは皆、裸足になって褐色の肌をあらわにしていた。


 色鮮やかな精霊布がぐるりと壁を覆うその空間に、座すのは十名程度の男たちだ。

 その多くは、装飾の少ない白いローブを身に着け、少しずつ意匠の異なる頭巾グトゥラを金の輪で止めている。

 彼らは一様に、部屋の中央に据え置かれた台座を見つめており、老齢の導師がそこにかかっていた布を取り払った瞬間、はっと息を呑んだ。


『なんということだ……』


 布の下から現れた、赤子の頭ほどもある水晶の珠。

 精霊珠とも呼ばれ、儀式の際には光の精霊の依り代ともなるエランドの至宝に――禍々しい斑点が浮かんでいたからである。


 本来太陽のように輝いているべき珠が、血のような赤を凝らせていることに、誰もが動揺を隠せなかった。


 そんな中、ひとりだけ黒のローブとグトゥラをまとった人物が、すっと立ち上がる。

 彼は、珠の傍に跪いていた老齢の導師を見下ろすと、静かに口を開いた。


『――……これはどういうことだ、アリル・アド』


 漏れる声は、抑揚を欠いた低音。

 グトゥラから覗く彫りの深い相貌は、褐色の肌と切れ長の青灰色の瞳が目立ち、熱気の残るこの大聖堂内にあっても怜悧(れいり)である。


 名をサフィータ。

 家名をマナシリウス・アル・エランド。


 特別尊い家名である「守る者(マナシリウス)」の呼称を避け、サフィータと呼ばれる彼は、七年前に滅ぼされ、以降「エランド自治区」となったこの地域を治めてきた血族の末裔であり――つまりは、亡国の王子であった。


 年の頃は二十に届くか、届かぬか。

 美麗な者が多いと評判のヴァイツ帝国の宮廷内であってさえ、きっと注目を集めたに違いない、エキゾチックな美貌を持った彼は、しかしその瞳を物騒に細め、低く問うた。


『珠は、契約祭のために七年の封印を解かれ、禊ぎをされ、今最も美しく輝いていなくてはならぬはず。それがなぜ、このように穢れている?』

『は』


 アリル・アドと呼ばれた導師は、平身低頭したまま短く応じる。

 穏やかに年輪を重ねた風貌に、小柄な体。

 どことなく教師然とした彼は、王国時代よりその座にあった高位の大導師であり、長らくサフィータに仕える世話役、そして現在の摂政でもあった。


 彼は、その柔和な顔を、今は苦々しくゆがめ、奏上した。


『恐れながら申し上げます。私がきたる契約祭に備え、封印を解いたときには、すでに珠はこの状態でした。文献を漁れど珠のこのような状態については記載がなく、また、どれだけ禊ぎの祈りを捧げても、斑点は消えず。……おそらくこれは、穢れではなく、腐蝕に近いものだと思われます』


 その報告を聞いた途端、周囲がざわめく。

 ある者は『不吉な……』と眉を寄せ、またある者は『精霊よ……!』と祈りの言葉を口ずさむ。

 それを制したサフィータが視線で促すと、アリル・アドは続けた。


『珠はエランドの守護にして、大陸を統べる光の精霊の依り代。突然穢されたのならば、この世界にも、それ相応の変異があったことでありましょう。しかし、前回の契約祭から七年、この国――いえ、この地域にも、またヴァイツ帝国にも、目立った禍は起きませんでした』


 栄えある王国を「地域」と言い換えたアリル・アドの声には、一瞬苦渋の色がにじむ。

 しかしサフィータはそれをあえて聞き流し、質問を重ねた。


『……つまり、珠は時間をかけて腐蝕を進めていったと?』

『おそらくは。……そう。まるで、果物が、水をかぶったところから少しずつ腐ってゆくように』


 その比喩に、周囲が息を吞む。

 サフィータもまた、相手の意図するところを察し、声音を一層険しいものにした。


『……魔力をかぶったことによる、腐蝕か?』

『…………』


 アリル・アドは答えない。

 みだりに他者を責めない大導師らしく、一方的な断定を避けるようにして、慎重に答えを紡いだ。


『……魔力とは、龍の血。光と大地を寿(ことほ)ぐ精霊力と、忌まわしき血に依る魔力は、古くより相容れませぬ。七年前――先の戦争時、この大聖堂が一時期ヴァイツに占拠され、魔力で蹂躙されたのは事実。その際、魔力の片鱗が珠に飛び散ったのなら……時間をかけ、珠を腐蝕させていったとしても、不思議ではありませぬ』


 その内容に、周囲がざわめく。

 サフィータはそれを手のわずかな動きで制すると、しばらく考え込むように視線を落とし、やがてその怜悧な顔を引き上げた。


『……それが事実であれば、ヴァイツは我らを二度にわたって辱めたことになる』


 低く、静かな声が、抑えようもない怒気をはらんで響く。

 アリル・アドは『しかし証拠は……』と、逸る元王子を宥めるように呟いたが、サフィータはより低い声で、


『証拠はない。だが、それ以外に珠が腐蝕する原因も、またない』


 そう言い切ることによって、その反論を封じた。

 そのとき、連座していた者の一人が、いやらしさをまとっただみ声を上げる。


『原因究明より、対策はどうします? これでは、契約祭に光の精霊が顕現できぬかもしれません。顕現がなかったところで、すぐに禍が起きるということもありますまいが、精霊の姿を見るのを楽しみにしている民は、大いに不安がりましょう。エランド自治区を任された我ら十人会にとっては、腐蝕の解決こそを、なにより優先すべきではございませんか?』


 と、続けた。


 内容そのものに、非難されるべき点はない。

 しかし、そのねちねちとした口調や、不遜に釣り上げられた口元、なにより相手をいたぶるような目つきが、とにかくサフィータに反論したいだけであることを示していた。


 サフィータが無言で視線をやると、その男は目を細めて言葉を継いだ。


『サフィータ様。我らが十人会の若き長にして、栄えある血族の尊き王子よ。あなた様がその責務に応じて、潤沢な(・・・)精霊力で魔力を払濯(ふったく)すれば、今この瞬間にも解決する問題なのではございませぬか?』


 揶揄(やゆ)するような言葉を皮切りに、その場の空気がぴんと張り詰める。


 だみ声の男を睨みつける者。

 気まずさを隠し切れずうつむく者。

 平静を保つ者に、にやにやと攻撃的な笑みを浮かべる者。反応は様々だ。


 よくよく見れば、等間隔で輪になり座っているはずの男たちは、それぞれ、サフィータに対して微妙に異なる姿勢を取っている。


 押しなべて、サフィータのグトゥラの紋様に似た意匠をまとう者は、彼への距離が近く、意匠が異なれば異なるほど、その座す位置は遠く、視線も背けがちであった。


『――あなたは心得違いをしているようです、サレム殿』


 やがて、サフィータと色が異なるだけで、まったく同じ意匠のグトゥラを身に着けたアリル・アドが、静かに口を開いた。


『珠の浄化が重要なのは自明なこと。だが、それ以上に、それが誰の仕業であるかを明らかにし、必要な罰を与えることは、我ら誇り高きエランドの民にとって、なにより重要な命題でありましょう』

『しかしですなあ――』

『ではあなたは、仮に美しく整えた庭を踏みにじられたとして、その狼藉者を糾弾することもなく、せっせと後片付けをすると? ――ヴァイツの使用人としては、まったくご立派な態度です』


 アリル・アドが静かな口調のまま言い放つと、サレムと呼ばれた男は怯んだように黙り込んだ。


 ヴァイツの使用人。

 誇り高きエランドの民にとって、なにより避けたい呼称である。


 サレムがちっと舌打ちを漏らして視線をそらすと、サフィータがその薄い唇を開き、低い声で告げた。


『サレムよ。おまえの言うことも一理ある。契約祭での精霊の顕現は不可欠だ。これについては、私と、アリル・アドで手を打つ。――だが、よいか。これはエランドの沽券にかかわる問題だ』


 黒いローブをすっと捌き、居住まいを正す。

 彼は青灰色の瞳を細めると、不穏に告げた。


『精霊を穢すものには、断罪を。その罪人が支配者面をした、強大な力を持つ帝国であれ、至高の存在の前に跪かせ、裁く。それが我らの掟だ』


 年齢に見合わぬゆるぎない口調に、誰かがごくりと喉を鳴らす。

 サフィータは淡々と、珠の腐蝕の原因究明と浄化、そしてなにより罪人に適切な罰を与えることを宣言すると、散会を告げた。


 気まずさを引きずったまま、男たちが部屋を去ると、その場にはサフィータとアリル・アドだけが残る。


 世話焼きの摂政は、夜を控え薄暗くなってきた室内に火を灯すと、押し黙る主人を前にしばらく言葉を探し、やがて深く(こうべ)を垂れた。


『……申し訳ございませぬ』

『なぜおまえが謝るのだ』

『精霊珠の腐蝕は、私の手落ちだからです。光の精霊の顕現は、私の名に懸けて確保いたしますが、……それでサフィータ様のお怒りが静まるとは、けして思ってはおりませぬ』


 アリル・アドが生真面目な顔を自責の念でゆがめると、サフィータは皮肉気に口の端を引き上げた。


『おまえの手落ち? ふざけたことを。それを言うならば、血で血を洗う跡継ぎ競争を勝ち抜いたにもかかわらず、十分な精霊力を持たない私の手落ちであろう』

『サフィータ様……――』

『本来、珠の管理は王族の役割だった。それができぬ私に代わり、おまえは政務に加え、祈りまで引き受けてくれているというのに、問題が発生したからと、おまえを責めたりはせぬさ。怒ってもおらぬ。私はただ、この瞳の色が金に近ければと……そう考えていただけだ』


 自嘲気味におのれの目に触れながら、呟く。

 しかし、古くからの臣下が困ったように口を引き結んだのに気づくと、サフィータはもの思いを振り切るように頭を振った。


『……いずれにせよ、だ。珠の腐蝕が魔力の――ヴァイツのせいであるというのが事実であるならば、我らはたがうことなく、やつらに罰を与えねばならない。領土を奪われようと、王家の血を散らされようと堪えなかったエランドの民だが、だからこそ、なによりの拠り所である精霊を穢されては、黙っておらぬ。これをできぬようでは、エランドの誇りが根本から崩れる』


 その言葉に、アリル・アドは深く頷いた。


『さようでございますな。エランドはもともと精霊の末裔から成る宗教国家。王権体制の維持をも上回って、宗教的な誇りの維持こそ、我らが本懐なのですから』


 しかし、しばらく考え込んだ後、言葉を選びながら若き主君に告げた。


『とはいえ……いくらヴァイツに非があるとて、こちらから戦を仕掛けたのでは、いささかことが難しくなりましょう。世間体や体裁などということではなく……精霊は慈愛の存在。こちらから攻撃を仕掛けることを好みませぬゆえ』

『……まあな』


 サフィータは静かに応じた。


 自然の力を「借り受ける」精霊力は、基本的に魔力よりも微弱なものになりがちだ。

 それを、相手を打ちのめすほどの威力で発揮するには、光や四大精霊など、強大な力を持つ精霊の助精を得る必要がある。

 そのためには、彼らの機嫌を損なう要素は、一欠片でも介在させてはならなかった。


 サフィータはその青灰色の目を眇めると『だが』と続けた。


『同時に彼らは、なによりも気高く、誇りを重んじる存在でもある。仮に、その誇りを踏みにじみるような真似を向こうから(・・・・・)仕掛けてきたならば、その者が属する国ひとつ苦しめることすら、躊躇いはしないだろう』

『向こうから……』


 反復したアリル・アドに、サフィータは頷いた。


『七年前は、我らエランド側の一部が、ヴァイツにまで手を出そうと欲をかいて引き起こした戦であったために、精霊の加護が得られなかった。精霊は、内乱に付け込んだ卑怯な帝国よりも、国を乱すきっかけを作った我らに罰を与えたのだ。……だが、逆に言えば』


 青灰色の瞳がすっと細められる。


『我らが、謂れなき屈辱を受けた被害者(・・・)であれば、精霊は、魔力をも凌駕する強さでもって、相手を殲滅(せんめつ)することだろう』

『は……』


 アリル・アドは圧倒されたように息を飲み、やがて間を置いて尋ねた。


『しかし……謂れなき屈辱とやらを、どう引き出したものでしょう。金剣王はあれでなかなかの狸。内心はどうあれ、自治を認めていることといい、我らエランドに一通りの敬意を払っている。息子の皇子も切れ者と噂。そうやすやすと、開戦のきっかけなど与えますまい』

『……女がよいだろう』


 顎に手をやって考えていたサフィータが、静かに答える。


『女、ですか?』

『ああ。皇女か、相応の身分がある貴族の娘でもよいが……。女とは、とかく感情に走り、くだらぬことで状況も弁えず大騒ぎする生き物。駒とするにはよかろう?』


 聖書において、女性である光の精霊の聖性を際立たせるためか、人間の女は愚かで傲慢な生き物として描かれることが多い。

 また、王子としての身分は剥奪されたとはいえ、大導師として絶対の権力を持つサフィータに擦り寄る女性は数多かったため、その女性蔑視ともいえる価値観は、彼らにとって「事実」そのものでしかなかった。


『もとより契約祭では、各国の王女や貴族の娘を「寿ぎの巫女」として招く手筈だ。……そこで、必ずや、ヴァイツの女に失態を演じさせる』

『……こたびの戦は、その女の名が付くことになりそうですな』


 返事はない。

 しかし、静かに浮かんだ笑みがその答えだった。


『……始まりの土地、エランドに、誇りを』


 サフィータは低く祈りの言葉を囁くと、窓の外に見える夕陽に向かって、すっと目を細めた。

蛇足覚悟で、第三部/完結編を始めました。

本日だけ2話投稿、明日以降は1話ずつの投稿を予定…(小声)しております。

レオたちの物語に、最後までお付き合いいただけますと幸いです。


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