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無欲の聖女は金にときめく 作者:中村 颯希

第二部

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《閑話》 おしえて、レオ兄ちゃん―図工― (前)

 褒め殺しのアンネ、呟きマルセル、泣き落としのエミーリオと言えば、下町東地区の界隈で知らぬ者はいないとまで言われる「値切り三姉弟」だ。

 彼らの兄貴分であるレオという少年も、「彼が通った後は小銅貨一枚も落ちていない」と噂されるほどの守銭奴であり、三人が、このレオを師匠と仰ぎ、大層慕っていることも、また有名である。


 が、少なくともマルセルに限って言えば、最初からレオの信者というわけではなかった。

 むしろ彼は、レオのことを苦手に思っていたし、どちらかといえば軽蔑すらしていた。


 それがどうして、今の関係に至ったのか。


 話は一年前――マルセルが、ハンナ孤児院にやってきた時にまで、遡る。






 マルセルが産まれたのは、下町の中でも最も治安が悪いと言われる花街の中――らしい。

 彼はそこで、三歳までの時間を、嬌声と暴力に囲まれながら過ごした。


 一度目の転機が訪れたのは、彼の母親である娼婦が亡くなったとき。

 「無聊(ぶりょう)の慰め」という役割を失った彼は、そこにきて最寄りの孤児院に預けられることとなった。

 残念ながら、貧困と暴力は、彼に付いて回った。


 幼く体格も小さなマルセルに、世界は厳しかった。

 経営状態の悪い孤児院では常に食いはぐれ、年上の孤児にはいじめられ。言葉や知識を身に着けるべき時期に、マルセルはただ、飢えと暴力を回避する方法だけを学んだ。


 常に観察を怠らないことは、その一つ。

 力に乏しかったマルセルの取れる、数少ない処世術だった。


 この場の支配者は誰か。

 相手は自分を傷つけるか、傷つけないか。


 じっと周囲を見つめ、息を殺し。

 目をつけられないように、極力感情は押し殺す。


 だから、いよいよ前の孤児院が潰れ――つまり、二回目の転機が訪れ――ハンナ孤児院に転院した時も、マルセルはただ、黙って周囲を観察することに努めた。




(一番えらいのは、ハンナ院長。それと、ブルーノ……さん。このひとが、ここのリーダー)


 数日もしない内に、マルセルは数十人に及ぶ孤児の力量関係を見極め、シンプルな結論を導き出していた。


 一番の権力者はハンナ。後は、年齢順。

 ただ、マルセルに近い年代の中で、最も発言権があるのはブルーノという少年のようだった。

 ブルーノの「上」にも兄貴分は何人かいたが、彼らもこの褐色の肌の少年には一目置いているらしい。たまたま今日、浮浪者に絡まれたところを返り討ちしているのを見かけたが、喧嘩もめっぽう強い。

 ひとまずブルーノに従っていれば、間違いは無いように思われた。


 また、どうやらここでは、「年下は年上に絶対服従」というルールがあるらしい。

 ただし同時に、「年上は年下を絶対擁護」という掟があるのが、前の孤児院と異なるところだ。


 年下の孤児たちが、年上の孤児のことを、こぞって「兄ちゃん」「姉ちゃん」と呼び、呼ばれた人物が相手をぐりぐりと撫でまわすのは、マルセルからすれば違和感のある光景だったが、郷に入っては郷に従え。ひとまず不思議さを押し殺し、マルセルもまたブルーノのことを、「ブルーノ兄ちゃん」と呼び始めた。


(ふしぎといえば、もうひとつ)


 まだ慣れない大きな食卓に着きながら、マルセルはちらりと厨房の奥を見やる。

 細い戸口の向こうからは、大鍋を抱え持った年上の少年が、えっほえっほとやってきたところだった。


 そばかすの残ったはしっこそうな顔。

 鳶色の髪、同色の瞳。


 レオ、と呼ばれる人物である。


 ブルーノの片腕と言われ、孤児院の皆から慕われているようであったが、特別喧嘩が強いわけでも、体格に優れているわけでもなさそうで、マルセルにはそれが不思議だった。


 食事当番であったらしい彼は、「できたぞー!」と大声を上げながら、食卓に置いた粗末な鍋敷きの上に、どしんと大鍋を下した。


「今日のメニューは、『絶品! 滋味溢れる守銭奴(スープ)』でっす! 喜べおまえら、なんと牛肉入りだぜ!」

「やったあああ!」

「レオ兄ちゃん、最高おおお!」


 牛肉入り、という情報に、他の孤児たちのテンションが目に見えて上昇し、彼らは空の皿とスプーンを勢いよく打ち鳴らした。

 よそわれた皿には、確かに牛肉の切れ端が浮かんでいて、これにはマルセルも目を丸くする。


 牛肉だなんて、目にするのも久しぶりだ。


 思わず、「すごい……」と呟くと、なぜか自分が褒められたかのようにドヤ顔を浮かべた少年、少女たちが、


「でしょー!? レオ兄ちゃんのはい材利用レシピは、ていひょうがあるんだ!」

「とさつ現場まで出向いて、肉の切れはしを集めてきたのよ!」


 と解説してくれた。

 愛らしい顔した少年はエミーリオ、おませな口調で話す少女はアンネと名乗った。


 なんでも、このレオなる人物はハンナ孤児院きっての守銭奴で、他人から金や商品を巻き上げる能力、あるいは身銭を切らずに物を作り上げる能力にかけては、右に出る者がいないらしい。


(……なに、それ)


 要はケチということだ。

 なぜそれで褒め称えられるのかが分からなかったマルセルは、怪訝な顔になった。


 前の孤児院でも、ケチな孤児は多かった。

 彼らは、とかく弱いマルセルに目をつけては、その小遣いや食料を略奪したものだ。


 視線の先で、けらけら笑いながらスープを配っているレオを見て、マルセルは表情を曇らせた。


 調子がいい人物は、苦手だ。

 彼らは風向き次第で、暇つぶしのように、マルセルを殴りつけるから。


(やだな……)


 マルセルが視線を逸らすと、それに気づいたらしいレオがふと顔を上げ、こちらにやってくる。


「おう、新入り。どうした? 俺のこと見てたろ」


 にこやかに話しかけられ、マルセルは肩を揺らした。


 まずい。

 これまでの経験からすると、これは、マルセルが殴られる流れだった。


「あ、の……」


 喉が渇く。

 舌が貼り付いて、言葉が出てこない。


 マルセルが固まっていると、レオは「なーんてな」と、にかっと笑った。


「わかってるよ、肉が足りねえんだろ? 物欲しそうな顔しやがって」

「は……?」

「ほら、メリーハッピーニューカマーだ。ブルーノの肉を分けてやるよ」


 そう言って、ぽいとマルセルの皿に、肉の切れ端を追加する。


 ずりい! と叫びだす周囲に、レオは「おまえらには骨をやろう、ほれ」と、出汁取りに使ったらしい牛骨を押し付けていった。


 「いらねえええ!」とか、「おい、なぜ俺の皿から取った」とか、ぎゃあぎゃあと盛り上がる食卓で、マルセルは呆然とスプーンを握りしめた。


 黙り込んだまま、周囲を窺ってみる。

 誰もマルセルを殴ろうとはしない。


 簡素な木の匙で、一口をすくう。


 ――スープは薄味だったが、時間をかけて煮込まれた料理ならではの、深みのある味がした。




***





 マルセルの平穏な日常は、数日続いた(のち)、唐突に破られた。

 ある日、孤児院のガラス窓に、真っ赤なペンキで落書きがされていたのである。


 平たい丸に、斜めに渡された太い線。

 卑猥とされるその形は――ヴァイツにおいて、娼婦を表すマークであった。


「なにこれ……」

「ひどい……!」


 朝になって嫌がらせに気付いた子どもたちが、寝間着のまま続々と窓際に集まってくる。


 教会などと比べれば小ぢんまりしているが、ガラス窓は、下町では高級品。

 寝相の悪い子どもたちが蹴破らないように――そしてまた、ガラス越しに伝わる冷気は厳しいものであったので――彼らはガラスのある部屋では寝ないというのが、ハンナ孤児院のルールだったのだ。

 それが、朝起きてみれば、真っ赤な、嫌らしいマークが殴り書きされているなど。


「いったい誰が……」


 ざわつく子どもたちをよそに、マルセルは真っ青になっていた。


(――……あいつらだ)


 彼には、心当りがあったのだ。


 前の孤児院にいた時から、マルセルのことを馬鹿にし、付け狙ってきた相手。

 マルセルが町を出歩くのを見つけては、小遣いを寄越せと脅してきたり、罵声を浴びせたりしてきた。

 親が裕福な商人だとかいう、北地区のグループの下っ端、ダミアン。

 緩みきった巨体と、顔中に散らばったニキビが特徴の、あの少年に違いなかった。


 彼は直接暴力をふるうわけではなかったが、マルセルのような子どもを的確に追い詰める方法を知っているのだ。

 そうしてマルセルが怯えたり、委縮したりするのを、まるでサーカスでも見ているかのように、にやにやと楽しそうに眺める。


(そんな……まさか、ぼくのことを追いかけてくるなんて……)


 心の片隅ではまさかとは思うが、以前いた孤児院とハンナ孤児院はそう離れてもいないし、なによりマークの書き方には見覚えがあった。

 ご丁寧に、そのすぐ下には、マルセルの頭文字が書かれ、ぐちゃぐちゃに線で汚されている。


 このやり口で、マルセルは過去にも孤児院の窓を汚されたことがあったのだった。


「どう、しよう……」


 すうっと、血の気が引く。


 過去二回、この手のことがあった時、孤児院は二回ともマルセルのことを責めた。

 弁償金までは求められなかったものの、マルセルはその清掃を命じられ、汚れを落としきれないとわかるや、新しい窓を仕入れるまで、さんざんっぱら他の孤児に責め立てられたのだ。


 べっとりとガラスを汚しているペンキを見やる。

 安物のペンキは水っぽく、ガラス越しに向こうが見えるくらいではあったが、それでも、この汚れを落としきるのは難しそうだった。


「どうしてこんなマークを書かれなきゃいけないのよ! うちは規律正しい孤児院だっつーの!」

「おおかた、娼婦の子って馬鹿にしようとしたんだろ? 誰の事だろ、『M』?」


(やめて……)


 年上のメンバーが、年齢相応の推理力を発揮して現場検証を始める。

 あっさりと元凶(マルセル)に辿りつこうとしている彼らに、身がすくんだ。


 どうしよう。

 責められる。


「きったないイニシャルねえ。攻撃したい相手のフルネームすら字で書けなかったのかしら」

「アルファベットを知ってるなら日曜学校くらいには行ってるんだろうが……お里が知れるよな。この辺のやつらか?」

「まっさか! ブルーノがいるのに、そんなこと仕掛ける馬鹿はいないでしょ」


 犯人がわかったら。

 その目的(ターゲット)がばれてしまったら。

 殴られる。


 ――ぽん


 きゅっと拳を握りしめて震えていると、ふと、頭に温かな感触が降ってきた。

 ぎょっとして顔を上げる。


 ブルーノだった。


「心配するな」

「え……?」


 無表情のリーダーは、その日も感情をうかがわせない顔つきのまま、淡々と言葉を紡いだ。


「犯人はすぐにわかる。わかったら、すかさず叩こう。なに、関節、一つ二つ外せば、大抵のやつは、大人しくなる」


 こともなげに言われ、マルセルはぽかんとした。


「へ……?」


 叩く? 彼らを?

 自分ではなく?


 呆然としているマルセルになにを思ったか、ブルーノは解説を重ねた。


「安心しろ、マルセル。関節を外すなど、力がなくても、できる。コツの問題だ。俺の教える通りやれば、三日もせず――」

「アホか!」


 真っ黒な瞳に真剣な表情を乗せて話す彼を、その時、スパーン! という小気味いい音とともに少年が遮った。


 レオである。


 彼は頭をはたいた右手をぱたぱたと冷やすように振り、鳶色の瞳をくりくりと吊り上げながら、向かい合うブルーノを罵った。


「こんなちっこい子の前で、なに穏やかでない話してんだよ! どこにも安心要素がねえよ! 公序良俗とか、情操教育って言葉を知らねえのかおまえは! ってか、頭蓋骨かった!」

「……あー。そういう言葉、難しい」

「嘘つけよ!」


 ひとしきりきゃんきゃん吠えると、レオは表情を改め、ブルーノに告げた。


「とにかく、まだ動くな」

「なぜ。カスパー兄ちゃんたちが、もうほとんど、犯人を割り出しかけてる。安い、速い、うまい。三拍子が、重要なんだろう?」

「まだその時じゃねえよ。見てみろ、あんな程度じゃ不十分だ」


 レオが、くいと窓ガラスを指し示すのを、ブルーノは怪訝そうに目で追ったが、やがて呆れたように「おまえ……」と呟き、やがて頷いた。


「……わかった。十分になったら、教えてくれ」

「さっすがブルーノ! まかせてくれよ」


 レオが上機嫌に返す。


 やり取りにすっかり取り残されたマルセルは、最初ぽかんとしていたが、しばらくすると、むっとしてレオを睨み付けた。


(なんだよ、これくらいのこうげきじゃ、はんげきする理由にならないってこと?)


 一度ブルーノの言葉に感動しただけに、その後の展開に落胆も大きかった。


 せっかく、ブルーノが自分のために動こうとしてくれたのに。

 嫌な奴を、やっつけてくれたかもしれなかったのに。


 体格も小さく、力も弱く、ずっと搾取される側だったマルセルは、初めて触れた「反撃」という考えの甘美さに、すっかり心奪われていたのだ。

 無表情でとっつきにくいブルーノも、マルセルの目には、凛として深遠な考えを持つヒーローのように見えていた。


 しかしそれを、レオが妨げた。


(なんだよ、こいつ)


 きゅっと拳を握りしめ、レオをこっそり睨み付ける。


 不十分だなんて、言い訳だ。

 きっと、反撃の反撃に遭うのが怖いから、言い訳を作って動かずにいようとするのだ――これまでのマルセルのように。


(こいつ、きらいだ)


 幼い嫌悪の視線の先では、レオがへらへらと上機嫌で笑っていた。

前中後編の全3話予定です。

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