《閑話》 レオ、パジャマパーティーに参加する(6)
それから、数週間後。
この日の「紅薔薇の間」は、いつもと少しだけ様子が異なっていた。
「まあ、ビアンカ皇女殿下、この紅茶、溜息が出るほどおいしいです!」
高級な茶葉を惜しみなく使った紅茶が振舞われるのは、いつもと同じ。
「あ、あの飾り棚に置かれているのは、もしやルツフェン工房の金細工ではなくて!?」
さりげなく、週替わりのように高級な調度品や宝飾品が展示されているのも、いつもと同じ。
「ああ……! 私たちが、まさかこのサロンのご招待に与れるなんて、夢のようです!」
ただ一点、貴族令嬢だけでなく、市民出身の女子生徒たちが数名招かれているというのが、いつもと異なる点だった。
「そんな、夢のようだなんて。それに、わたくしのことは気軽にビアンカと呼んでと、いつも言っていてよ?」
苦笑すら艶やかなビアンカがそう告げると、女子生徒たちは一瞬言葉を詰まらせた後、おずおずと「ビアンカ様……」と呟いてみせる。
「なにかしら、ゾフィ、エルマ、ユリアーナ?」
ビアンカが嬉しそうに微笑みながら、ひとりひとりに呼びかけると、ゾフィたちもまた喜びに頬を紅潮させた。
彼女たちはみな、貴族から見れば身分の低い市民学生とはいえ、経営者の娘だったり、医者の娘だったりと、この学院に入学を許されるほどの頭脳と経済力の持ち主だ。
それだけに、彼女たちは押しなべてなかなかの気骨の持ち主で、皇族や上位貴族には、これまでなにかと反発することが多かった。
だが、そんな彼女たちは今、皆一様にビアンカへと真摯な眼差しを向けている。
それは、箱入りの貴族令嬢たちにありがちな、陶酔交じりの賛美でこそなかったが、女性が対等と認めた相手にのみ向ける、溢れるような好意に満ちていた。
「あの、ビアンカ様。私たち、本当に感謝しているのです」
「ええ。もちろん、このサロンに招いていただいたことだけでなく、その――」
少し言いづらそうにエルマが言葉を途切れさせると、ビアンカは「わかっている」というように頷く。
そして彼女は、いかにも女帝のような、毅然とした口調で、
「汚らわしい犯罪を裁くのに、いかなる甘さも許されてはならないわ。そしてまた、いかなる不公平もね」
きっぱりと言い切った。
そう。
ゾフィたちは皆、マイニッツによって下着を盗まれた被害者たちだったのだ。
ナターリアによってレオノーラを「安全な場所」に退避させた後、ビアンカはドミニクに「ちょっとした質問」を行った。
まあ、彼が「もったいぶって」なかなか話してくれなかったので、「焦れるあまり」「少々強引な」方法を取ったりもしたが、最終的には彼は「快く」すべての罪状を話してくれたので、よしとする。
それによれば、ドミニクに妹がいるなど大嘘、結局のところ彼は、家業のクリーニング店にお声掛かりを呼び込むべく、せっせと下着泥棒をしていたというのだ。
さらに厭わしいことには、盗んだ下着はそれはそれとして、大切に保管しては日夜鑑賞していたらしい。
ころころと変わる主張の裏に、そういった下種な欲望が潜んでいたのを悟り、ビアンカは思わず黄金の右脚を唸らせてしまった。
ドミニクはつぶれた蛙のような声を漏らしていたが、まあ、ゲテモノがゲテモノめいた声を上げるのは、自然の摂理というものだ。
さて、しかしながらヴァイツゼッカー帝国学院には「絶対自治」という鉄の掟がある。
学院内で起こったすべての犯罪は、軍でも司法でもなく、学院の生徒たちによって公平に裁かれなくてはならないのだ。
それは同時に、一部の生徒による私刑を禁じるということでもあり、つまり、ビアンカが単身でこれ以上ドミニクをいたぶるのは、ご法度ということであった。
とはいえ、こと今回において、ビアンカにドミニクの処分を他人任せにする気は毛頭なかった。
彼は、下着泥棒などという薄汚れた犯罪に手を染めただけでなく、ビアンカの大切な少女を押し倒し、「嫁にいけない」と言わせるほどの怖い思いをさせた罪がある。
(そんな豚野郎――ではなくって、下賤な輩を、この手で引き裂かなくてどうしますの)
レオはアルベルトにばかり恐怖の視線を向けているため気付いていないが、これでなかなか、ビアンカも龍の血を引いた恐ろしい女なのである。
ビアンカはナターリアと協働し、すぐさま被害者を割り出すと、彼女たちに秘密裏にコンタクトを取って、ある行動に打って出た。
即ち、ドミニクに裁きを下すメンバーとして、強引にナターリアや自分を割り込ませると同時に、被害者から臨場感あふれる陳述書を提出させてみせたのだ。
「あなたたちには、嫌な経験を文書にしてもらうなど、辛い思いをさせてしまったわね。今日はそのお詫びの気持ちでもあるのよ。どうぞ、好きなだけ召し上がっていって」
「そんな、ビアンカ様! とんでもないです!」
「私たち、ビアンカ様にはすごく感謝しているのですから」
「そうです! 裁判員に女性のメンバーを入れてくださっただけでなく、私たちのプライバシーにも強く配慮くださって、しかも陳述書の書き方のアドバイスまで……」
ゾフィたちが強く反論するのは、実際、ビアンカの動きによって彼女たちが大いに助けられたためだ。
学生による公平な裁判。
そうは言っても、実際に裁きを下す権限を持つのは、生徒会役員などの上層の生徒たちだ。
最近になってようやく市民生徒もそこに加わりつつあるものの、やはり、被害が市民生徒だけにとどまっているこのような事件の場合、あまり真剣に審議してもらえない可能性のほうが高い。
さらに致命的なことに、これまでの裁判員には、女性のメンバーは一人としていなかった。
これは、学院内の男女比を考えれば仕方のないことではあるのだが、この手の性犯罪を裁くのには、大いに妨げになっただろう。
しかし、そこにナターリアやビアンカが加わったことで、状況は一変。
さらには、聞いたら義憤を覚えずにはいられない陳述書――監修byナターリア――も手伝って、ドミニクの軽度性犯罪は、あたかも重大で救いようのない、悪意にまみれた詐欺罪のように見なされ、彼は多額の慰謝料の支払いと、退学を命じられることとなったのである。
「私たち、すごく不気味で嫌な思いをしたけれど、きっと取り合ってはもらえないだろうと思っていたので、本当にすっとしました!」
「ビアンカ様には、感謝の一言です!」
はきはきと言うゾフィたちに、ビアンカは少し苦笑しつつ、
「そんな、お礼ならレオノーラに言ってちょうだい。最初にドミニクの欺瞞を見抜いたのは、彼女なのだから」
肩をすくめて功績を妹分に譲った。
実際、ビアンカたちはドミニクに騙される寸前だったので、それを引き留め、現実に気付かせてくれたのは少女の力だ。
ゾフィたちは、謙虚なビアンカに感服したような一瞥を向けると、次いで「レオノーラ……」と、隠しきれない尊敬をにじませた声で呟いた。
「本当に、あの子の瞳は、真実を見通すんですね……」
「でも、あの子ったら、私たちに一度もそんな功績をひけらかすことなんかせずに……」
「私たち、ビアンカ様に聞くまで、あの卑劣犯の正体を見破ったのがレオノーラだなんて知らなくって、本当にびっくりしました」
しみじみと頷く彼女たちの目には、精霊に向けるような敬虔な表情が宿っている。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。
呼吸が止まりそうになるほど美しい容貌を持ち、しかし気取らず、誰にでも笑みを向け。
触れれば折れそうな華奢な体つきでありながら、どんな場所でも凛と佇んでいる。
そして、その美しい紫水晶のような瞳は、俗な感情にとらわれることなく、いつだって真実を見分けるのだ。
「でも……今回、彼女にこんな薄汚い犯罪を見抜かせてしまったのを、逆に申し訳なく思います」
「本当に。あんな下種な衝動、彼女には理解できなかったのではないかしら」
「ああ、いっそ私たちが彼女のそばに付いて、そういった汚らわしいものから守ってあげられたらどんなにか……!」
どちらかといえば、レオノーラのことを庇護対象と思い込んでいる彼女たちは、口々にそんな声を上げたが、
「――あの、ちょっと」
そこに、それまで沈黙を守っていたある人物が、おもむろに口を開いた。
エルゼである。
彼女はきゅっと両の拳を握りしめると、その場にがたっと立ち上がった。
「レオノーラを下賤の感情から守ろうという気持ちはよくわかりますけれど、やはり、人にはそれぞれ役割というものがあると思いますわ」
「エルゼ様?」
きょとんと聞き返すゾフィたちに、エルゼは一気にまくし立てた。
「あなたたち、しょっちゅうそうやって、レオノーラのことを守りたいだとか、傍にいたいだとか、いっそ侍女として侍りたいだとか言いますけど、そ、そういうのはやはり、それなりに、教育者としてふさわしい教養や価値観を持った人物があたるべきだと思いますの。あ、あなた方が頭がいいのは知っていますけど、価値観という点ではどうかしら。誤解を恐れずに言うけれど、やはり、貴族令嬢の侍女は、貴族出身の者がすべきだと、私はそう思いますわ!」
そのあまりの剣幕に、周囲は思わず黙り込む。
エルゼもエルゼで、ぱちぱちと爆ぜる暖炉の音を聞きながら、徐々に冷静になってきた頭で「まずい」と思い始めていた。
このまま彼女たちがレオノーラの押しかけ侍女に収まることがあってはならないという思いから、ついまくし立ててしまったが、こんな発言は侮蔑も一緒だ。
ビアンカからも、貴族、市民という理由で相手を差別するなと言われたばかりなのに。
(わ……わかってはいるけど、急には変えられないんだもの……!)
それに、やっぱり、貴族令嬢には貴族令嬢ならではの、優れた点があると思うのだ。
たしかに教養は、魔力持ちというだけで入学が許されたエルゼたち貴族と、激しい競争を勝ち抜いてきた彼女たちでは、比べられるはずもない。
けれど、彼女たちが勉強してきたのと同じ時間、自分たちがそれこそ血まめを潰しながら身に着けてきたマナーや、神経を削りながら学んできた話術、そういったものは、けっして彼女たちの教養に引けを取らないものだと自負している。
それを措いてまで、無条件に彼女たちを認めよ、というのは、悔しいのだ。
(そうよ。私は、悔しいのよ……!)
市民生徒がレオノーラの侍女になる――もしそんなことになったら、まるで、「おまえが身に付けてきたものに価値などない」と突き付けられるようで。
謝らなくてはならない、けれど、謝りたくない。
そんな思いをぐるぐると渦巻かせたまま、ぐっと口を引き結んでいると、
「まあ」
ぽつんとゾフィが答えた。
「それもそうですよね」
「――え?」
なんの気なしに呟かれた言葉に、思わずエルゼの方が聞き返してしまう。
するとゾフィは、傍らのエルマやユリアーナとちょっと笑いあうと、照れたような視線をエルゼに向けた。
「いえ、私たち、勢いで『レオノーラを女性らしくしてみせる!』『侍女になる!』だなんて言ってはみたけれど、じゃあ実際私たちになにが出来るかしらって話し合ってみたら、これが全然、まともな案が出てこなくて」
「もちろん身の回りの世話はこなせると思うけれど、そうではなく、レオノーラを『女性らしくする』ためにできることと言ったら、せいぜい裸に剥いて、セクシーな下着を着せる、くらいなことしか思いつかなくて」
「裸に剥……っ!」
市民生徒ならではといおうか、あまりに大胆な発想と発言に、エルゼは顔を赤らめて絶句した。
その様子を見て、ますますゾフィたちは苦笑を深める。
「これでは、レオノーラも怯えてしまうでしょう? やっぱり私たちではちょっと野蛮すぎるというか、限界があるんだわって、ちょうど話し合ってたところなんです」
「ま、もちろん、勉強を教えるのは私たちの方がうまいって、自信はありますけどね」
ユリアーナが悪戯っぽく付け足す。
どうやら彼女たちは、エルゼが考えていたよりずっと捌けていて、冷静に己の適性を見極めているようだった。
「――…………まあ、手法よりも、『レオノーラのため』というその心が大事だと思うけれど」
なぜだか、ぎこちない笑みを浮かべたビアンカが、言葉の穂を継ぐ。
フォローされてますます感動を深めたようであるゾフィたちに頷きかけると、ビアンカはエルゼにも優しい笑みを向けた。
「こう考えてはどうかしら? 大切な友人を守りたい気持ちは皆同じ。その一つの目的のもとに団結して、それぞれができることをやっていくのだと」
「それぞれが、できること……」
エルゼが感慨深げに反芻すると、ビアンカは「たとえば」と続けた。
「レオノーラの女性らしさを育むために、財力に自信のあるものはドレスを贈り、経験に自信のあるものは貴族らしい恋愛話をレクチャーする。そうね、本に詳しい者なら、世界中の恋愛話、いいえ、いっそプリンセス系童話をかき集めてプレゼントしたらいいし、エルゼ、あなたの語りは感情豊かだから、ぜひその本を読み聞かせてあげるといいわ」
「ど、童話の読み聞かせですか……?」
レオノーラ女性化教育プロジェクトの分担構想には納得したものの、「読み聞かせ」などという幼稚な行為に、エルゼはぎょっと目を見開いた。
「で、ですが、レオノーラはいくら色々幼いとはいっても、一応年齢的には――」
「いいえ、エルゼ。あの子の初心を舐めてはいけないわ」
反論は、皇女のきっぱりとした声に封じられる。
ビアンカはなぜか据わった目で、まるで現場を見たかのように語り出した。
「あの子はね、ちょっと男性に触られただけで、『もうお嫁にいけない』と目を潤ませるような、そういう、いたいけで初心で純情な子なのよ。そんな子に、どうしていきなり殿方との
つい数週間前までは、ナターリアやアルベルトを「とろい!」と一喝していたビアンカだったが、あの夜、細い喉を震わせ、「もうお嫁にいけない」、「姉様」と涙を流していた少女を見て――実際にはレオは涙目になっていただけだったが、ビアンカにはすっかり号泣したものと認識されている――、方針を大幅に転換したのである。
かわいい妹分に、あんな涙を流させるわけにはゆかない、と。
(じっくり時間を掛けて臨まねば、あの子の心は壊れてしまうわ。わたくしはあの子の「姉様」なのだから、なにを措いてもあの子を守る人間であらねば)
要は少女の哀れすぎる姿にぐらっと来て、追究の手を緩めただけなのであった。
なに、少女の女心強化計画が多少遅れたところで、困るのは兄だけだ。
初夜までに心を整えさせねばと息巻いていたが、整わなかったら、初夜の方を遅らせてしまえばよいのである。
少し前までは、レオノーラには成人と同時にアルベルトと結婚してもらって、などと企んでもいたビアンカだったが、冷静に考えれば、結婚までの期間が長い方が、ビアンカと一緒にいられる時間が多い。皇太子妃ともなると、自由時間は限られるからだ。
(別に、だからというわけではなくって、あくまで、レオノーラのためだけれどね)
自分に言い訳すると、ビアンカは「これは、レオノーラのためよ」とダメ押しして、再度周囲を見回した。
「ビアンカ様……」
エルゼは思わず感動の声を漏らした。
ビアンカは押しの強い人物かと思い込み掛けていたが、そのように迂遠な方法を取ってまで、少女を慈しむ心の持ち主であったとは。
失礼な勘違いをしていた自分を戒めつつ、その気まずさを振り払うために、エルゼは声を張り上げる。
「素晴らしいと思います。わかりましたわ。では私、全国津々浦々の書店を巡り歩いて、最高のプリンセス系童話を集めてまいります……!」
「あら、エルゼ様。それなら、私たちがお役に立てると思います」
とそこに、ゾフィたちが声を上げた。
「実は私の父、作家をしておりますので、書店や出版業者には、少々の顔が利くんです」
「私も、父が各国を巡り歩く商人ですので、異国の童話も集めてこられると思います」
「私は、母が役場で町史を編纂していますので、口承の童話も聞き書きできるかと」
「まあ……!」
思いもよらぬクラスメイト家族のスペックに、エルゼは目を丸くした。
「では、古今東西どのような物語も集められますわね……!」
「ええ。逆に、方向性といいますか、系統を予め指定していただいた方がよいかと」
「それもそうですわね。やはり、貴族令嬢にとって押さえておくべき恋愛話、およびプリンセスものの系統というと――」
にわかに、恋バナの得意なエルゼが真剣な面持ちになって語り出す。
すると、エルゼやゾフィたちだけでなく、皇女自らも興味深げに相槌を打ち出し、やがて彼女たちは教室に走って黒板まで持ち出すと、侃侃諤々の議論を始めた――紅薔薇会が、「レオノーラの女心を育み隊」へと、まさしく変貌した瞬間であった。
小一時間もしないうちに、彼女たちはすっかり意気投合し、互いをファーストネームで呼び合う仲になっていた。
***
ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカーは、兄皇子アルベルトの名にこそ隠れがちだが、精霊に愛される気高い心と、貴賤に関係なく信賞必罰を行う公平さを持ち合せた、帝国の誇る皇女である。
事実、彼女が下級学年長として――のちには生徒会長として――学院に君臨した期間から、暗黙の掟として横たわっていた階級差別のほとんどが取り払われ、名実ともに、学院は「等しく学問を究めんとする者の場」となった。
同期間、なぜか彼女の周囲では、女性好みの童話や少女向け青春小説が頻繁に発掘、編纂されたということだが、――その真意については、歴史学者の間でも議論が分かれるところである。