阿求と抱き締め合っていたのは気付くと俺の家であった。
火の気のない囲炉裏に火を起こし炎の輝きが阿求の姿を映し出した時、粗末な家の中が熱とは違う不思議な温もりを帯びた。
見飽きたと思っていた日々の生活の場に阿求がいるだけでこんなにも温かみが増すものか。
 その点は感慨深かったが当の阿求は俺の胸を抱き締めたまま微動だにしない。火を起こす時もそうだったが茶でも淹れようと湯を沸かす間も全く離れてくれないので難儀した。
 やがて湯が沸く頃に阿求はようやく口を開いた。
「あの、あの……。貴方が一生懸命拓いた土地を燃やしてしまって御免なさい」
「別にもう気にしていない。お前は正当にあの土地を手に入れたのだろう。それに働いていた者は皆、日割りで日当を貰っている。
それに皆雇い主の都合で突然仕事が変わるなど毎度の事で別に不自然ではない。誰も不思議にも思わんだろう」
 阿求はまだ少し鼻を啜っている。
「他にも、色々御面倒をお掛けしました」
俺は阿求を抱きかかえたまま話を聞いた。涙声になる度、腕の中に収まった阿求の幼い肢体を赤子をあやす様に揺すっていた。
「今回の事も。それに、それ以前からずっと」
「そう言えば俺の家に忍び込んだり後を付けたりしたと言っていたな」
「はい……それを謝ろうと思って……あの、でも止められるかどうか分かりません……それもごめんなさい」

 俺のあやし方でもようやく本格的に落ち着きつつあるらしく阿求の言葉は徐々にはっきりし始めた。今更ながら俺の腕の中にいる事が恥ずかしくなったらしい。
謝罪と共にほんのり赤面して俺の首に回していた手を解いた。
それでも俺の腕の中から退こうとはしなかった。
「その話はまた今度だ。しかし良く入れたな」
「はい。貴方の事を少しでも知りたい、見守りたいと思うと」
「鍵は掛けた筈だが」
「ええ。ちゃんと掛かっていましたよ。御安心下さい」
 顔を覗き込むとこちらを見詰め返して遠慮がちに微笑んだ阿求から少々ずれた回答が返ってきた。
「いつごろからそんな事をしていたのだ」
「ずっと以前からです。貴方がこの家に住むようになってからは特に頻繁に」
 阿求は何か楽しい事を思い出したようにくすりと笑った。
「当時から貴方はなかなか私の気持ちに気付いてくれず苦労しました」
「そう言われてもな。思い当たる節がないが」
「もう。すごく勇気を出した事ばかりだったのに」
「例えばどんな事をしていたのだ」
「目が合うまで見詰めたりしていたじゃないですか。お貸しした本の栞に和歌を一首添えた事も有りました」
「奥ゆかし過ぎて分からんぞ。栞の歌は達筆すぎて既製品かと思ったしな」
「あの栞の裏に貴方から返歌があったらどうしようと夜も眠れなかったのに」
 悪戯っぽく阿求は文句を言った。
「それにお仕事の行き帰りにだって時間の許す限り貴方を見守っていたのですよ」
「いつの間に見ていたのだ」
「そうですね。例えば、貴方はお仕事帰りに良くお団子屋さんで串団子を食べておられました」
全く気付かなんだ。
「ふふ、貴方がお団子を食べている姿を遠くから見守りながら私もお団子を食べると二人で一緒に食べている気分になれるのですよ」
「はは……」
全ての蟠りが消えたその日。いつものように俺たちは話した。夜がすっかり更けるまで。
「さて、そろそろ送っていこう、支度しろ阿求」
「はい。……あ。あの。ええっと。その前にお聞きしたいのですが」
「ん? 」
「今度こそ、ええと、私の勘違いじゃなければ、その。特別な、というか、だ、男女の仲、という事で……良いんですよね……? 」
 両手の指を不安げに弄りながら阿求は問うた。
「ああ、お前は完全に永遠に一片余す所無く俺だけのものだ」
 少しからかいたくなってこれでもかと言葉を重ねると、ただでさえ赤かった阿求の顔は囲炉裏の火よりも更に赤く熱くなった。
「ふ、ふちゅ、あ、いや……不束者ですが、お願いします……ああ、ごめんなさい、こんな時に噛むなんて」
 こういう阿求を見るとずっとからかっていたくなってしまう。話題を変える事にした。
「まぁ、まずはお互いを良く知らねばな」
「そう。そうですね。すぐにお互いの事で知らない事なんて何一つ無くなるようにしましょう! 」
「それは気合を入れ過ぎだが」
「あ、そうだ。それでは、これをどうぞ。もしもまた貴方とちゃんと話せなかった時の為にお弁当と一緒に渡そうと思って……とにかく今、知って貰いたい事を書いて来て丁度良かったです」
 そう言って阿求が差し出したのは厚みのある文であった。
「手紙? どうして? 」
「まずは文通から始めないと……ど、どうして笑うんです。また何か可笑しかったですか? 」

「良く降るな」
「ええ。本当に」
 まるで心を映したように緩やかになった長雨の下。俺と阿求は二人で一つの傘に身を寄せ合って夜道を歩いた。
 明かりを持つ必要はない。
 辻の道々に稗田家の家人たちが手に手に明かりを携えて俺たちの夜行を照らしている。
 稗田家までの道中に、あたかも婚礼の行列が如く光の道が出来たのである。
 丁度稗田の屋敷の門を潜る頃、雨はついに止みつつあった。

夜間にも関わらず屋敷の前庭に稗田家の家人たちが集い彼らの主の帰りを待っていた。
 俺たちの姿を認めると人垣は二つに分かれていった。
 その中にあの老爺の姿を見つける事が出来た。
「有難くお借りした」
 借りた物は返さねばならない。老爺に向けて傘を差しだした。
「よくぞ」
雨傘を受け取ると老人はハラハラと落涙した。
「よくぞお返し下さいました」
 後で聞いた話であるが俺が現れなければ老爺は腹を切る覚悟であったという。
「誰ぞ手拭いを持て。お客人の肩が濡れておる」
 ぐっと涙を拭った老爺が声高に命じたので周囲の目が俺の肩に集まった。
「御自身が濡れる事も厭わず私の方に傘を差し出して下さったのです。改めて御礼を」
折悪く阿求が礼を言ったので辺り一面から熱い感動の眼差しが俺に向かって注がれた。
「それはそれは。何と温かい御心遣い」
 俺は脅されるより余程気圧された。傘一つの話で大袈裟だ。面映ゆいを通り越してこそばゆい。
 仲直りも済んだし阿求は無事に送り届けたのだ。率直に言ってさっさと帰りたかった。
しかし俺が場を切り上げる一言を考えるより早く老爺が言った。
「お客人。本日も長雨で気が滅入りますな。如何ですかな。当家で雨宿りしていかれては」
 しまった。ここで断ればさすがに悪いような気がする。
「いいえ」
 葛藤する俺を差し置いて阿求の凛と澄んだ声が老爺を制した。
「今日は遅いのでお客様にご迷惑でしょう。また雨脚が強まる前にご自宅までお送りして差し上げなさい」
 意外な気がして顔を見ると阿求は、照れ臭くてお帰りになりたいのは分かっていますから御安心下さい、というように微笑んだ。
 何だかこの数日で阿求には俺の心のかなり深い所まで見透かされ理解されてしまったような気がする。
 そして俺もだ。今、阿求の微笑み一つで声を聞くようにその心が伝わった。
「は、しかし阿求様をお連れ頂いた御仁をこのままお帰しするというのも些か……」
 言い淀んだ老爺を再び阿求が制する。
「その代わり……その代わり明日、私と二人で人里にお出掛けする旨、御快諾頂けました。御礼は私が明日改めて直接申し上げます」
――おお。お嬢様が。ついに。御覚悟を決められたぞ。赤飯を炊かねば。
 ざわめきが使用人たちの間に広まっていった。何だか取り返しの付かない事になっているような気がする。
「で、ですので丁重にお送りするように」
 さすがに恥ずかしくなったのか阿求は紅くなって視線を彷徨わせた。その彷徨った視線がまるで自然と吸い付けられるように俺を見た。
「それでは、その……また、明日――」

――――。
 あの日は丁重過ぎるぐらい丁重に自宅まで稗田家の使用人たちに送られた。
 思えばあの日あの雨の中で初めて、最早故郷に帰る事は無いやもしれぬと覚悟をしたのだった。
 今となっては懐かしい話だ。
 懐かしい話だがそれより問題が一つある。荷を探っても弁当が見当たらないのだ。
 どうやら今朝、阿求から渡された弁当を荷の中に入れ忘れたらしい。
 阿求には悪いが仕方ない。今日のところは職場の外に昼飯を食いに行こうか。
「お忙しいところを申し訳ございません。稗田と申します。主人はこちらでしょうか」
 と思った途端に役場の玄関の方から良く知った鈴を転がしたような声が聞こえた。
 玄関まで出てみると阿求が如才なく礼儀正しい面を被って立っていた。傍には女中が二人付き添っている。
「これはこれは九代目様。如何様な御用件でございましょう」
 俺より先に年配の職員が緊張を隠し切れぬままに応対していた。

「お騒がせいたします。主人が昼食を忘れて……」
 俺に気付いた途端に阿求の礼儀正しい淡泊な声の調子が変わった。
「あ。あなた、お仕事中に御免なさい。でもいけませんよ。うっかりして、職場の皆さんにもご迷惑でしょう」
 俺が何か返事をする前に阿求はさて、と咳払いをして職員の方に視線を戻した。
「大変失礼ですが主人と稗田家の内内について話さねばならない事があります」
「は? と申されますと」
 阿求の顔から笑みが消え少しばかり黒い影が差し込んだ。俺にはこの程度ただの無表情に見えるが、他の者にはこれが底知れず冷淡な笑みに映るらしい。
「稗田家の当主自らが本当にただ届け物をしに来たとお思いですか。夫婦で早急に話さねばならぬ秘事があるのです」
「はあっ。これは気付きもしませんで」 
 人が好い男だが少々臆病な嫌いがある。これ以上ない程に恐縮して阿求と女中たちにまで頭を下げつつ急いで引っ込んでいった。一応俺より上役なのだが。
 後で礼を言っておこうと思っていると二人の女中も何やら目配せしあい連れ立って外へ出ていく。
 役場の玄関には俺と阿求だけになった。
「驚きましたよ。あなたの書斎にお渡ししたお弁当がそのまま忘れてあるのですから」
 抗議しながらも満面の笑みである。
「お昼を抜いて体を壊したらどうするのです。まだまだ残暑が厳しいのですからね」
「ああ。助かった、ありがとう」
「もう、あなたったら普段から私の事ばかり心配して御自身には無頓着なのですから。……本当に……。全くもうっ、私がいないと駄目なんですから」
俺を叱りながらも阿求は何かに気付いて欲しそうにちらちらと視線を送ってくる。
「それにその。私はあれですよ、ほら。この酷暑の中お弁当をわざわざ届けに来たのですよ。私も仕事が立て込んでいるのですが。忙しさの合間を縫ってですね。つまり何と言いますか。信賞必罰は大事な事だと思いますよ」
 結婚後も照れていると回りくどくなる癖は相変わらずである。時には俺の方が赤面するほど直情的な愛の言葉を堂々と紡げる阿求が何故この程度で恥らうのか。女心というやつは分からない。
「おお。お前のお蔭だ。大好きだぞ阿求」
 多少棒読みになったが取り敢えず大きく手を広げてやる。
「あなたっ」
 途端に阿求が俺の首にぶら下がるようにして飛び付いてきた。
 受け止めつつも首筋のこそばゆさが気になった。阿求がくんくん、すんすんと音を立ててやたらと匂いを嗅いでいる。
「何故嗅ぐ? 」
「それはほら。あれですよ。あなたの身嗜みを確認しているのです。お仕事中なら周りに気を配らないといけませんよ。夫の身嗜みを整えるのは妻の役目ですから」
「本音は? 」
「お仕事の日は普段会えない時間なのですからこの方がお得でしょうっ」
 幻想郷の役場仕事など忙しい時期以外は毎日出勤しなければならない訳でもない。それでも阿求には耐え難いらしい。

「そのお着物で暑くなかったですか」
「うむ」
「お弁当の炊き込みご飯には山椒を塗してありますから」
「そうか。美味そうだな」
「辛ければお茶もすすむでしょう。夏場は水分を多く取らないといけませんからね」
「そうだな」
「辛すぎたら言って下さいね」
「ああ。分かっている」
「帰り道に買い食いなさってはいけません。お夕飯が入らなくなります」
「気を付ける」
「夕食後には頂きものですが西瓜を御用意してありますよ。お楽しみに」
「それはいいな」
「ああ。種を飲み込み過ぎてはいけませんよ。お腹が緩くなりますから」
「……ああ」
「御面倒なら私が先に除けておきますけど」
「阿求、そろそろ戻った方が良いのではないか」
「嫌です。やっぱり貴方はお仕事なんて辞めてずっと私のお部屋にいて下さい」
 聞き分けが無いのでそっと耳打ちしてやった。
「お前にわざわざ弁当を届けに来られるとあの時の事を思い出すな」
俺が何を言いたいのか瞬時に察した阿求は大急ぎで俺から離れて耳を塞いだ。
「ああああ。待って! 止めてください! あの時の話は本当に恥ずかしいですからあっ」
 あの当時の話は阿求にとって外界風に言えば黒歴史なのである。
「うむ。帰ったら先に飯を頼むぞ」
「もう……分かりました」
 不満気な阿求から弁当を受け取って俺は職場へ戻ろうとした。
「……あの、あなた……」
 阿求の真剣な声に呼び止められて振り返るとその顔も真剣そのものであった。
「あの時、紫様のスキマの中で。……あの時のあなたもとっても優しくて素敵でした……。お、お仕事頑張って下さいっ! 」
 捨て台詞のようにそう言うと阿求はひゃー、だか、きゃー、だか、わー、だとか叫びながら真っ赤になりにやけた頬を抑えて職場の玄関を走り出て行った。その後を阿求を待っていた女中たちが慌てながら追っていくのが見えた。
 早く食わねば昼休みが終わってしまう。
 俺も自分の席に戻って渡されたばかりの弁当を開いた。
 今日も包みの中に丁寧に折りたたまれた手紙があった。
 一緒に住んでいるのだから口で伝えればいいだろうと言ったのだが、朝は忙しくまた使用人たちの目も有る為に思った事を伝え辛い。だから阿求は毎日のようにこんな手段に出る。

――今日の夕食は川魚のてんぷらにしようかと思います。この間随分お気に召されたようですので。最近は少しずつ日差しが和らいできましたね。そろそろお出しするお茶は冷たいより熱い方が良いでしょうか。
あなたと二人縁側で夕涼みする夏も残念ですが過ぎ去ろうとしています。秋には秋の情緒がありますが矢張り夏の終わりというものはどうしても寂しい気がいたします。
あなたのいない虚ろな夏の夕暮れを、あなたを想いながらお待ちしております。何卒お早いお帰りを。お風呂熱めにしておきますからね。

                       ――あなたの阿求より

あの時始まった文通は今でも続いているのだ。
最終更新:2014年07月08日 21:05