55の続き

稗田家が人里に占める地位。
閉鎖された里で中核に根付く隠然たる権勢。
その門を辞して百歩を行かぬ間に思い知らされた。
「お客人。九代目様から是非ともお連れするよう仰せつかっております。何卒お戻りを」
 針の如くに肌を刺す豪雨の中、傘も差さずに老爺が俺の帰路に立ち塞がった。
 老爺の背後には体格の良い数名の下男たちが石像の如く並び立って人垣となった。
稗田家に何度も招かれていた俺には見知った顔も幾つかある。しかし彼らはそんな気安さなど微塵も感じさせない据わった眼で俺を見た。
 鍛え抜かれた筋骨も然る事ながら、いずれも呼吸すら厳かなまま雨に打たれる練達した忠節がこの壁の堅牢を物語っていた。
 それだけではない。更に付近の百姓家の軒下から幾人もの農夫たちが手に手に農具を持って雨の下を近付いてくる。これらは遠巻きに緩やかな円を作って俺を取り囲んだ。
 誰一人罵声を上げる事すらせず総身を豪雨に晒しながら油断無く身構えている。
 この大地を洗う驟雨の下、ほとんど間を置く事無く家内の使用人のみならず近隣の農夫まで動員し、それら全てに忠犬の群れの如く静寂を貫かせる権力。
 敵に回したのがどれほどの者かを肌で感じる事が出来た。怒り狂って吠え掛かられるより余程。
 だが雨中に進退窮まって立ち尽くすのみでは風邪を引こう。
「連れて行ってどうする」
「稗田家の家人としてお迎えするように、との仰せで御座います。本日、今これより」
 俺は阿求とまたいつか、時間をおいてお互いが頭を冷やしてから話し合えば解決すると思っていた。だが阿求の方にはその気が無い。
最早阿求には元のような偽りの関係が我慢ならないのだ。だから本当の絆を性急に欲している。
「稗田殿にお伝えを。脅されて言う事をきく男が欲しいのか、と」
「良く考えて御返答なさるが御身のためで御座います」
 老人の声音に厳しさが混じると共に下男たちが一歩前へ歩み、農夫たちが包囲の輪を狭めた。
「決して傷つけてはならぬと厳命されて参りましたが、この場で貴方を縛り担いでお連れする事も出来る。ご自分の足で当家まで歩まれるが双方のため」
「それは助かる。丁度雨で足元が悪い。担いで貰おうか」
 不必要な挑発で俺を取り囲んでいた静かな威圧感に明らかな殺気が混じった。
 身構えながら少々自分に呆れていた。
俺は何故こんな余計な事を言うほどに苛立っているのか。そうだ。阿求と喧嘩したからだった。
しかし何故少し仲違いしたぐらいでこんなにも心が波立つのか。
何故俺は、こんなにも。
「阿求様が貴方に茶をお出しする際、貴方の手を握ったとはしゃいでおられました。生まれて初めて握った殿方の手が貴方のもので本当に良かったと。
それが先程はこの世の終わりのような顔で涙を」
 握ったとは、はしゃぎ過ぎだ阿求。茶を受け取る際に落とさぬよう添えただけではないか。
「貴方と阿求様の間に何があったのかは存じませぬ。しかしこれを聞いてもなお御心は動きませぬか」
 老人は九代目様ではなく阿求様と言い換えていた。
「外界の人間の知らぬ事ではあろうが御阿礼の子というのは哀しい宿命を背負っておる。ほとんどの者は孤独に、書に埋もれたまま静かに短い生涯を終える。
恋も知らず愛も知らずただ御役目の為に。阿求様も同様でしたろう。そんなあの方が初めてお慕いする殿方がいると仰った。稗田家の者は皆何としても叶えてやりたいと思うている。
厳しい役目を背負った子じゃ。恋ぐらい自由にさせてやりたい」
 老爺の枯れた声が雨音の中でも朗々と響くのは心底からの憤りが篭っているからに他ならない。

「あの方は貴方と出会ってからというもの日々普通の少女のように胸を焦がし思い悩んでこられた。毎日のように意中の殿方と何をどう話せば良いのか、女中たちに教えを乞うあの方を我々がどれほど微笑ましく思っていたか。
どれほどあの方が今日という日の為に心を砕いてこられたか。それを貴方は無下にも! 」
 一度天を仰いだ老爺は最後に一喝してこちらを見据え俺の冷淡を咎めた。
「何処の馬の骨とも知れぬこの俺と阿求を、何故そこまで会わせようとする。家宰たる者の務めは逆ではないのか」
「大事は阿求様の御意志のみ。生まれて初めて露わになさったあの御方の我儘じゃ。貴方が何処の何様であろうと知った事ではない。
どんな悪人だろうと腰抜けであろうと何としても阿求様に相応しい殿方になって頂く。弓矢にかけても」
 成程、目前の忠義の群れは俺の意志などどうでも良いのだ。阿求が俺ともう一度仲直りしたいと念ずれば彼らは俺を何としても阿求の前に引き据えるだろう。
阿求が俺を夫と望んだならば彼らは何としても俺たちを幸せにするのだろう。
 それは常人を超越した賢者、御阿礼の子への全幅の信頼から生まれる忠節である。阿求が俺を望んだならばその判断に間違いが有ろう筈も無いのだ。
「お前たちが阿求の幸せを望む事。御阿礼の子の境遇。そして阿求が籠めた真心。全て承知した。だがしかし」
 その気持ちに裏表も私心も無い。ただ親が長じた我が子に向ける如くの清廉な祝福がある。それが分かったから猶更増した怒りが拳を固く引き締めた。
「力で無理矢理に作った男女の仲に幸福があると思っているのか」
 誰一人、阿求をただ一人の少女と見做してはいないのだ。恐らくは阿求本人でさえも。
 老爺は俺の問いに答える事無くただ俺と睨みあっていた。
「成程、見上げた男振り」
やがて老爺が深く溜息をして視線を落とした。
「力尽くとなるようならば、お帰しせよと九代目様の仰せで御座います。今日の所はお帰り下さいませ」
 いつ乱闘となるか身構えていた俺は少々拍子抜けした。
「ほう、宜しいのか」
「仕方ありませぬ。手荒になっては九代目様からお怒りを頂きます」
老爺の声音は穏やかになっていたがその顔に笑みは無い。
殺気を収め老爺は俺に歩み寄った。その手にあるのは武器ではない。
「ああ。お客人。雨脚が強い。傘をお貸ししましょう」
 柄に刻まれた稗田の家紋は閉じられたままである傘の布地にも描かれていると察せられた。
「生憎だが濡れるのが好きなので結構だ」
「黙って持って帰れ若造」
 骨が軋む程の強さで老人は俺の手に傘を握らせた。
「お客人。その傘は当家の物で御座います。必ず近日中に当家までお返し下さいますよう」
 言い残して老人は下男たちを引き連れ去った。
周囲を取り囲んでいた農夫たちもそれを合図に三々五々に散り散りとなった。
そして雨の中にただ俺が一人残された。
手渡されたのは謝罪の機会であり老人の温情である。であればこれを使うのは恥だ。
 その日は濡れて帰ることにした。

 翌日。
 雨は降り止んだが鉛色の雲は晴れる事無く里を覆っていた。
 またいつ降り出すかと気を揉む落ち着かない午後である。喜んでいるのは蝸牛ぐらいのものだ。
稗田家の権勢はあの後即座に思い知ったが、阿礼乙女という存在に人里が抱く畏敬の深さを知るには一日を要した。
どんな問題を抱えていても腹は減る。
仕事帰り人里の大通りで笊の上に並んだ川魚と目が合った。夕飯はこれにしようと考えて店番の小僧に声を掛ける。
「そこの鮎を三尾くれ」
「売れないね」
さっきまで大声で客引きをしていた小僧の顔は急に表情を失った。
「……何故だ? 」
「兄ちゃん。御阿礼様に謝ったのかよ。そんな奴に売ったらオイラはクビだ」

夕飯代わりを探していると串団子を焼く甘い匂いが鼻を突いた。団子屋の親爺は人の好い笑みで店先に立った俺を見た。
「甘ダレ三本と辛ダレを四本くれ」
「へい。畏まりやした。すぐに焼き上がりまさぁ。しかし旦那ぁ。どうせなら甘いの辛いの四本ずつの方が良いんじゃねぇですか」
「いいや。合わせて七本でいい」
「しかし二人で分けるにゃ七じゃ良くねぇ」
「……何の話をしている」
「だって稗田の九代目様に菓子でも持って行こうってんでしょうが。その為にウチの団子を選んで貰えるとは光栄だが……。もし違うならとっとと消えな」

米屋では俺の顔を見た瞬間に店番が引っ込み店主がじきじきに対応に出た。
「お客様。大変申し訳ございませんが本日は店仕舞いで御座います」
「まだ日は高いが」
店主は太った腹を揺らして侮蔑の笑みを浮かべた。
「はぁ。しかし稗田様に目を付けられては私どもこの里で店を構える事が出来なくなりますので。それではまたのご来店を」

 さらには大通りを外れて裏通りを抜ける際。
顔に傷のあるやくざ者と擦れ違った折。
「おい、兄ちゃん。稗田のお嬢さんに詫びは入れたのかよ」
 振り向くと既に無頼漢は路地裏の影に溶け去っていた。

稗田家は俺に無理強いをする必要すら無いのだ。金があっても使える所などなく口を糊する事すら不可能になる。これでは野山で自給自足をするしかない。
しかもこれでもまだ極めて穏当な手口であろう。阿求がその気になれば自給自足すら不可能になるだろう事も予想できる。これでは秋が来る前に日干しとなろう。
思案に暮れて歩いていると呼び止められた。
「おお、久しぶりじゃないか。どうだ一杯付き合わないか」
 蒼い豊かな長髪は曇り空の鈍色の中にも鮮やかである。
「残念だが俺と一緒では酒を出してくれる店はないぞ」
「いいから付いて来い。私の奢りだ」
 夕飯の当てが無かったところだ。
 その日は上白沢慧音の御相伴に預かる事にした。

「そりゃ旦那。所謂年貢の納め時って奴だよ。観念しな」
 香ばしく肉の油が爆ぜる煙の中で美しい銀髪を揺らしながら藤原妹紅はぶっきら棒に言った。
 濛々と炭火の煙が立ち込める中、客の方を見もせず串焼きを裏返すのが妹紅の常である。
夜通し屋台を牽き歩き銀髪に煙と灰の臭いが染み込んでも、炎を慈しんでいるように寡黙に作業に没頭するその様は美人揃いの幻想郷でも更に別格の美しさだ。
「まさか、あの少女にこんな激しい一面があるとは私も思わなんだな」
 慧音は軽く酒を煽って嘆息した。
「ここで俺と話している事が知られれば先生にも迷惑にならないか」
「既に知られているよ。というより私がお前に声を掛けたのはあの子の為だよ」
無用の警告であったようだ。
「稗田家から使いがあってな。お前を説得してくれと頼まれたんだ。失望したか。守護者と言ってもやれる事には限界がある。人里に住まう以上人里の掟には従わざるを得ないんだ。
だが何故私にそんな事を頼んだかを考えてやれ。あの子はどんな手段でもとれたはずだ」
稗田家同様にこの上白沢慧音も歴史を見詰める者であるが、その生業に権力や富は結びつかなかった。
慧音は今も寺子屋と人里からの僅かな謝礼の他は自分の住家の裏庭を畑にし鍬を振るってまで生計を立てている。
「いきなり自分の物になれと脅されれば反発するのは当たり前だろう」
 慧音の物憂げな視線から目を逸らして笑ったが阿求の言葉が脳裏に蘇った。
――それはそうでしょうね。こんな根暗な女の相手はお嫌でしょうね。
――それなら、私と居てくれた時間に合わせてお給金をお支払いしますよ。
そう、反発するのは当然だ。だが何より今屈すれば阿求は本当は俺が嫌々一緒にいると思うようになるだろう。金や力に従って。
「稗田家が幻想郷の歴史を記し始めてから、彼らはこの里に生まれた全ての人間の名前を知っている。そして更に恐ろしい事は全ての人間が己の名前を知られている事を知っている事だな。
この里の中に逃げ場は無いぞ。どうやって生きていくつもりだ」
「人の世界で生きられないならどうするかは決まっている。幾つか心当たりを尋ねてみようと思う。ここは幻想郷なのだからな」
 すぐに思いつくのは永遠亭か妖怪の山、或いは紅魔館である。どれも人里の中にはなく今までの仕事で関わった事が多い。
 じっと炭火を見詰めたまま妹紅が突然口を開いた。
「輝夜の所はやめときな。あんたを気に入らなきゃあいつはあんたをただの玩具だと思うよ。あんたを気に入れば面白い玩具だと思うよ。そういう奴なんだあいつは」

ずっと無言だったが瞬時に俺の意図を察している。この美貌の店主は黙したまま聞くともなく聞いているのだ。
「私には余り良い思いつきとは思えないぞ」
「いや、自分の事は自分でやるって事が分かっているのは大事な事だと思うけどね、私は」
 成程、どうしてあの時阿求の一言があれ程腹に据えかねたのか自覚できた。この幻想郷で誰にも頼らず一人で生き抜いてきたという矜持が俺に席を立たせたに相違無い。
 一人納得していると屋台の前に人影が立った。
「熱燗を」
「おや、酒でいいのかい? 」
「勤務時間外ですので」
暖簾を潜った新たな来客は珍しい顔であった。
「やれやれ、また説教か」
「人の好意を無下にするものではありませんよ」
 奇妙な装飾の冠に手に携えた笏。少女の姿をした閻魔。四季映姫は鷹揚に言うと俺の隣に腰掛けた。
「まさか閻魔様が直々に俺の悩み相談に来た訳ではあるまいな」
「そのまさかですよ。私にとって御阿礼の血族は長い付き合いの友人みたいなものですからね。彼岸にいても耳に入りましたよ。
今までの御阿礼の子の霊魂が随分、今回の件を心配していましてね」
「待った。俺と阿求が親しい事を彼岸の先祖まで知っているのか」
 外来人の消しきれぬ性か一瞬目の前の少女が閻魔である事を忘れてぎょっとした。外界では、先祖の霊魂が心配しているなどとのたまうのは詐欺師ぐらいのものだ。
「というか彼岸だけでなく幻想郷中の者たちが知っていましたよ。あの代々堅物の御阿礼の子についに春が来たって。何せほら、あの子の先祖もそういう方面については疎くてね。
今までの御阿礼からも浮いた話など聞きませんでしたからそれは大事件でした。物見高い幻想郷の人妖に知れ渡らない訳がないでしょう。天狗の新聞にも載っていましたよ」
「ああ。そう言えばそんな記事があったな」
 慧音が頷くのを見ながら俺は射命丸文を恨んだ。
 知らぬは当人ばかりであったという訳だ。近頃、文々。新聞に燃料以外の用途を見出さなくなった俺の不覚である。
「その先祖たちに頼まれたのですよ。今や稗田家の氏神や屋敷神になった者たちまで。あの子に記憶も異能も受け継がせた者たちです。普通の親族などより余程あの子の人生が気に掛かるのかも知れませんね。
霊魂になってもう随分と経つのに。貴方と話たがっている者もいましたよ。良ければ今度お話しなさい」
 子の恋路に親が出るのは外界でも間々ある事だ。だがこの幻想郷では死んだ先祖や過去の偉人まで顔を出す。
「今までの御阿礼の子らにとって当代の御阿礼は自分の生涯を費やした仕事を引き継ぐに足る魂の持ち主と判断した血族です。
知識や異能や御阿礼としての自覚、そういった繊細な魂の一部を受け継がせても役職を全うしてくれるに違いないという資質を有していたわけですね。人の魂を何万と見てきた私から見ても御阿礼の子の魂というのは面白いものです。
人格も年齢も思想も性別すらもバラバラなのですが矢張り何処か似ている所がありますよ。だから彼らの方でもついつい当代に肩入れしてしまうのでしょう。
自分に良く似た小説の主人公を応援する気持ちがぐっと強くなったような物でしょうか。まさに他人の気がしないというやつなのでしょうね」
 阿求と俺の間に起こった悶着が幻想郷の人間たちや管理者、さらに死者の想いにまで波及する事の煩わしさを感じた。説教している映姫の外見が年若い少女である事も手伝ったかも知れぬ。
「俺たちの問題に死人まで口を挟むのか」
少しばかり波立った心は僅かに俺の言葉を尖らせた。流石、映姫はその程度の苛立ちなど柳に風と受け流した。
「もちろん結局のところは他人なのですがね」
「そんな事は無論分かっている」
 四季映姫は我が意を得たりと含み笑いを浮かべた。
「ふむ」
「何だ? 」
「その言い方だと自分で分かったでしょう。貴方は稗田阿求その人だけは他人と思っていない事に」
 今更何を分かり切った事をと思っていたらまんまと嵌められた。さすが閻魔ともなれば説教の仕方も見事なものである。
「意志が強いのは良い事ですがもっと自分の気持ちに素直になるべきですね。そう、貴方は少し意地を張り過ぎる。その頑固な意思であの子を思いやる事。それが貴方に出来る善行です」

酒が入っても映姫の説教はいつも通りに乱れる事が無かった。
「良く考えてみなさい。絆を金で求めるという行為の惨めさや無礼さは誰もが知る所です。それをあの子が理解していない訳がありません。
賢者と呼ばれるあの子が貴方に対してだけは取り乱して気に入られたくて、そんな道理すら見えなくなっていた。全て貴方に対する想い故にです。いじましい話ではないですか。
あの子は貴方に、貴方の人生に関わらせて欲しいのですよ。許しておあげなさい」
「その説教を聞き入れなければ乙女の純情を踏みにじった冷血漢として地獄に落とすか、四季映姫よ」
「まさか。そんな公私混同するわけないでしょう。あの子と貴方の問題ですよこれは。もちろん閻魔としては御阿礼の子の心情は出来る限り思いやってあげたいですが。
貴方が幻想郷中の人妖の思惑を振り切ってでも受け入れがたいなら。独り強くあろうとするのもまた人の良性です。とやかく言えることではありませんね」
「では映姫。お前が閻魔でなかったなら? 」
「それは私が個人的にどう思うかという質問ですか? 」
 ぐい、と映姫は杯を傾ける。
「幸せになって欲しいに決まっているでしょうが! 女の子なんですよ! 」
杯を叩き付けるように一気に干して映姫は吠えた。
俺たちの視線が集まったので映姫は一度咳払いをした。
「んん。少々飲み過ぎましたかね。まぁ考慮すべき所を考慮して……あとは貴方の自由です」
「照れなさんな。良い事じゃないか。そんなに心配する人がいるってのはさ。どんな形であれこの旦那はいい加減な事はしないさ。なぁ旦那? 」
 妹紅は映姫の激昂を俺と同じく好ましく思ったらしい。
「当然だ。しかし映姫――」 
「それで阿求が幸せになれなければどうするのだ」
「いつの日か失意と孤独の内に果てたあの子からゆっくり愚痴でも聞いてあげますよ。こんな風にお酒でも飲みながら。無論――」
 勤務時間外にね、と慈しみを滲ませた四季映姫の微笑みは福々しく閻魔よりも地蔵の相であった。
「そうか。世話になったな。最後の一杯は俺から皆に奢ろうか」
「何を言う。話を聞きたがったのは私だ。最後も私から奢らせてくれ」
「いいえ。衆生が素直に私の説教を受けたなら見返りも用意しましょう。私の奢りを受ける事こそ善行です」
言い募る俺たちの前に新しい杯が並べられた。
「いいや」
 藤原妹紅は今日初めてにやりと笑った。
「気分が良い。最後の一杯は私の奢りだ」

どのような答えを出すにしろ時は過ぎ、その分俺の状況は悪化する。更に一日が過ぎた。仕事を終えるとその日の晩は家に来客があった。
借家の大家である老婆、そして俺たち外来人の仕事の仲介人である。
「悪ぃが、お前ぇはこのヤマから外れてくれ。理由は分かってんだろ」
 仲介人は気まずそうに俺から目を逸らした。
「それから、他の仕事もお前ぇには回せなくなった。どんな小さな仕事でも全部だ」
 聞けば雇い主の富農が直接に仲介人の所へやって来て俺をこの仕事から外さねば全員をクビにすると喚いたそうだ。ほとんど取りつく島もなかったという。
「すまねぇな。お前ぇは今まで良くやってくれたが。突っぱねりゃ俺たち全員に皺寄せが来る。冗談抜きで一人残らず飢えて日干しだ。いやもっと手っ取り早く……殺されて仕舞いかもしれねぇ」
 その他にも有形無形の圧力が仲介人に掛かっている事は疑いなかった。
「あたしゃアンタがまさか御阿礼様にご無礼を働くような奴だとは思わなかったよ。こんなに情けない事はない」
 心の底から嘆かわしいというように老婆は吐き捨てた。
「あたしの家は曾祖父さんの代から稗田様に御恩があるんだ。あんたみたいな男を住ませているとあっちゃこの里を歩けやしない。月の終わりまで待ってやるから出て行っておくれ」
 両名共に身寄りの無い外来人を親身になって助けると評判の人柄である。俺も随分世話になった。
 耳の奥で阿求の嘲笑を聞きながら俺は深く頭を下げた。
「それから……今月の家賃は要らない。その代わり明日この時間にここへ行きな」
 大家と仲介人は俺に時と所が記された紙を渡して去った。
 その鮮やかな筆使いには見覚えがある。



※長くなりそうなので分割します
最終更新:2014年07月08日 20:50