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特集 世代を超えて「伸ちゃん」を忘れない 遺品は「三輪車」 広島

2021.8.6 16:05
 あの日、小さな男の子が遊んでいた三輪車…。原爆資料館で、家族の苦悩を伝える遺品として知られています。この「伸ちゃんの三輪車」にゆかりのある1人の小学生が、新たな決意とともに、8月6日を迎えました。

 「平和の尊さや大切さを世界中の人々や次の世代に伝えなければならないのです。」(子ども代表「平和への誓い」 平和記念式典 6日)

 小学生が読み上げる「平和への誓い」。その内容を考えたうちの1人、小西花希さんです。花希さんは、ことし、強い「使命感」もって参加していました。

 平和への誓いの作成に向けた発表会です。広島市の小学生から選ばれた6年生20人が、意見を発表しました。ここに花希さんの姿もありました。

 「写真や碑などたくさん展示されています。その中の1つに兄弟の大きなパネル写真があります。女の子の名前は、鉄谷道子ちゃんで、そのとなりにいるのが伸一ちゃんです。そして、その棚に飾られているのが、さびた三輪車と鉄かぶとです。」(小西花希さん)

 花希さんが三輪車を題材にしたのには、ある理由がありました。

 原爆資料館に置かれた焼けた跡の残る「伸ちゃんの三輪車」。鉄谷伸一ちゃんは、爆心地から1.5キロの自宅前で、三輪車で遊んでいたときに被爆しました。

 当時、3歳だった伸一ちゃんは、「水、水」とうめきながら、その夜に亡くなったといいます。伸一ちゃんは、いつも遊んでいた三輪車と一緒に自宅の庭に埋められ、そこに顔が似ているという地蔵が置かれました。

 その後、父親が毎日、手を合わせていました。それから40年後に掘り起こされた遺骨は墓に…。三輪車は、原爆資料館に寄贈されました。

 この日、花希さんは母の佳子さんや兄弟と一緒に祖父の家を訪ねました。

 「おじいちゃーん。」「ただいまー。」「いらっしゃい。」

 祖父の敏則さんです。被爆2世になります。

 庭にやってきた敏則さんたち。線香をたいて向かったのは…。

 「水をね、こうして(地蔵に)かけると、笑っているように見える。」(鉄谷敏則さん)

 伸ちゃんを埋めたときに一緒に置かれた地蔵です。この庭で40年前、伸ちゃんが掘り起こされたのです。敏則さんは、戦後に生まれた、伸ちゃんの弟です。

 「はい。きれいになりました。きょうはみんなで来ましたよ。」(鉄谷敏則さん)

 「小学校で習ったこととか、感じながら手を合わせました。」(小西花希さん)

 敏則さんは、父親と一緒に遺骨や三輪車を掘り起こした1人です。

 「おじいちゃんらも一緒になって墓を掘り返すわけよね。掘っていると、自転車が出てくるしね、自転車も本当、やっぱりあんな形で出てくるとは思わんくてね。最後に鉄かぶとをとると、おぉ、すごいねと。がいこつが出てきて、伸ちゃんだよね。」(鉄谷敏則さん)

 親・娘・孫の3人が一緒になって話をするのは初めてだといいます。花希さんの母・佳子さんもわが子を持つようになって感じたことがありました。

 「今、同じ状況のわたしら世代、子どもがいらっしゃる方がたにすごい伝えたいなって。どれだけ、おじいちゃんが悲しかったか、子どもを亡くして悲しかったか、それをもう1回、わかってほしいなってのは思った。」(花希さんの母 佳子さん)

 真剣なまなざしで耳を傾ける花希さんに、敏則さんは「語り継ぐこと」の意味を伝えました。

 「聞く人からしたら、それはもう花希ちゃんのことばがね、このおじいさんのお父さんの体験というふうにね、パッとくっついて聞くんよ。聞く人はそういうもんなんよ。」(鉄谷敏則さん)

 祖父の気持ちを知った花希さん。この日、ある人の思いに触れることにしました。ひいおじいさんで伸ちゃんや敏則さんの父・信男さんの証言です。

 「あ、三輪車あったよ。」(花希さんの母 佳子さん)

 「出た。これでしょ。」(小西花希さん)

 血のつながりがある2人の写真。花希さんたちの目には特別に映っていました。

 「なんかさ、昔の人じゃないみたい。」(小西花希さん)

 「ほんまじゃね。確かにね。」(母 佳子さん)

 亡くなった曾祖父・信男さんの証言は、資料館の映像で見ることができます。

 「伸一は、顔はやけどといいますか、はれて、目がとれそうな状態で、とにかく水をくれ、水をくれと…。」(伸ちゃんの父 故・鉄谷信男さん(当時82))

 証言は、伸ちゃんの遺骨を掘り返したときのことに…。

 「それ(鉄かぶと)をどけてみると、頭がそのまん丸になって、白い木の根が囲むようになってから頭(の骨)があった。子ども(伸ちゃんの遺骨)はわたしに向かって、『お父ちゃん、年取ったなぁ』というた気がした。こういうことがあったと言うとかねば、世界の国々も核の恐ろしさを分かってもらえないんだというような気持ちがしましたから、こうして泣きながらでも話しをすることができたなと。」(故・鉄谷信男さん)

 「わたしの父親の苦しみや悲しみ、くやしさを繰り返さないようにしていきたいと。」(伸ちゃんの弟 鉄谷敏則さん)

 「こうやって涙をしながらかたってくれたおじいちゃんの気持ちをやっぱりつないでいかないといけないなというのは、すごく、あらためて何年かぶりに見たときに思います。」(花希さんの母 佳子さん)

 花希さんは、血のつながった人たちの言葉を聞き、思いを知ることで、決意を新たにしていました。

 「ひいおじいちゃんの気持ちをもって参加しようと思います。伝えていってほしい気持ち。」(小西花希さん)

 「平和への誓い」を考えた1人として式典に参加します。2人ともこの日に実際に式典に参加するのは初めてです。

 「使命」を胸に参加した式典。母・佳子さんも平和について見つめなおすことができたといいます。

 「式が終わったあとに何気に『おつかれさま、暑かったね』ってぎゅっとしたときになんか、こうやって当たり前のように触れることが幸せなことなんだなと思って。」(母・佳子さん)

 より深く原爆の恐ろしさ、平和へ大切さ、そして、伝え続けることの意味を知ったことしの8月6日。花希さんも決意を新たにした大きな1日となりました。

 「ひいおじいちゃんやじいちゃんたちが伝えていきたかったことを、わたしの言葉で1人でも多くの人たちに伝えられるように伝えていくことが、わたしの使命だと思っています。」(小西花希さん)

 「本当の別れは会えなくなることではなく、忘れてしまうこと。決して忘れてはいけないのです。」(子ども代表「平和への誓い」 平和記念式典 6日)
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