2021.8.6 18:54
被爆76年となる原爆の日の広島を振り返ります。
2021.8.6 18:50
被爆76年の広島の今をお伝えしています。平和公園から中継です。
2021.8.6 18:24
いつもなら願いを託した光が川に浮かぶ時間になりました。原爆ドーム周辺の川から中継です。
2021.8.6 17:00
新型コロナウイルス、6日の感染確認の発表についてです。 広島市では、新たに53人の感染確認が発表されています。広島市で1日の発表が50人を超えるのは、5月30日以来です。患者は10歳未満から70代までで、47人が軽症、6人が無症状だということです。 また、福山市では20人です。呉市では5人です。 6日、この時間までの県内の感染確認は106人となっています。
2021.8.6 16:59
感染の拡大で、広島の記憶をつなぐための取り組みもさまざまな制限を受けています。そんな中で行われているイベントを中継で河村綾奈キャスターがお伝えします。
2021.8.6 16:09
広島は、被爆76年となる8月6日を迎えました。祈りが捧げられたきょう一日を映像で振り返ります。
2021.8.6 16:08
ことしは、いわゆる「黒い雨」をめぐる裁判で、大きな動きがありました。こうした中、大学生が自ら取材を重ね、黒い雨を題材にドキュメンタリーを作ろうとしています。 「黒い雨」訴訟…。先月、広島高裁は、原告84人全員を被爆者と認めた1審判決を支持し、国などの控訴を棄却しました。その後、菅首相は、上告断念を表明。提訴から6年…、判決が確定しました。 この黒い雨をテーマにしたドキュメンタリー映像をつくろうとしている若者たちがいます。広島経済大学の3年生・西野真李花さん、奥原芽衣子さん、梶岡尚大さんの3人です。 この日、西野さんたちは、黒い雨に遭った人たちの証言をまとめ、それを裏付ける写真やデータなどについて話し合っていました。 そもそも黒い雨とはいったい何なのか…。西野さんたちも最初は全く知りませんでした。 原爆投下直後…。街を焼き尽くした火災によってチリなどが巻き上げられ、放射性物質を含んだ真っ黒い雨が降り注ぎました。爆心地から西に4キロほど離れた住宅の壁に残る黒い雨のこん跡。黒い雨が降ったというエリアは、戦後まもなく当時の広島管区気象台の職員がまとめた報告をもとに、国が1976年に指定したものです。 雨の降った時間によって「大雨地域」と「小雨地域」に分けられ、「大雨地域」にいた人については無料の健康診断など援護の対象とされ、国が指定する11の病気のいずれかを発症すれば被爆者健康手帳が交付されました。 一方、「大雨地域」の外にいた人たちも「黒い雨は激しく降った」と声をあげてきましたが、国からの救済はありませんでした。さらに、当時、雨が降っていなかったとされる地域でも同じような証言をする住民たちが次々と現れました。これらが、のちの「黒い雨訴訟」へとつながっていったのです。 「(大雨地域)の外に住んでいた方は病気で苦しんでいたりする中で、『嘘をついている』といわれてきた。そういう方はいらっしゃるというのを知ってほしいというのが一番。」(広島経済大学 西野真李花さん) 生まれるよりもはるか前から続く「黒い雨」問題…。民放で報道記者をしていた徳永博充教授の授業を通じて、このことを知り、「黒い雨についてのドキュメンタリーを作っみたい」と思うようになったといいます。 「黒い雨は、わたしも全然、知らなかったし、広島を出たら知られていないことだと思って。今、取材をされている方って80代の方が多くて、自分の祖父母と重ねあわせて、そんな方が今もつらい思いをされていると考えると、すごく感情移入するというか。」(広島経済大学 奥原芽衣子さん 島根出身) 広島市中心部から車でおよそ1時間…。山々に囲まれた小さな街・湯来町です。農家のそばを流れる小川には、光が差し込み、水遊びをする人の姿もありました。 「黒い雨の話を聞いている間に連想させるシーンとかで(映像)を使いたいな。」(西野真李花さん) 当時の住民の証言をよそに、湯来町のほとんどは国が指定する黒い雨が降った地域に含まれませんでした。 76年前、上水内国民学校1年生だった高野正明さんが黒い雨にあったのは、学校から自宅に帰る途中でした。 「降下物がどんどん降ってくる。いっぱい降ってくるわけですから。たたきつけるような雨に最後はなりましたね。」(黒い雨訴訟原告団長 高野正明さん) 衣服や焼け焦げたふすまなどが降ってきて、その後、土砂降りの雨になったといいます。 西野さんたちは「黒い雨訴訟」の原告団長でもある高野さんをこの半年で10回近く訪ねています。高野さんもがんなどの病気を患い、入退院を繰り返しましたが、これまで被爆者健康手帳の申請を却下されてきました。 「村は『短命村』と言われた。短命村ということについては、栄養失調でなったんだろうと、その当時、昭和26年か、そういうとらえ方をされとったんですね。」(高野正明さん) 西野さんたちは、取材を通して湯来町の人たちが、長年にわたって指定地域の拡大を訴え続けてきたことも知りました。 ― 高野さんからどんなことを聞いた? 「住んでいる方が黒い雨によって病気になったりして、亡くなられたりとか、『黒い雨の会』を続けることに対しての中傷があったと聞きました。」(広島経済大学 西野真李花さん) 「赴任してきた学校の先生から『早死にの村』と言われた」―。当時のことをこう高野さんから聞いた西野さんたちは、ドキュメンタリーのタイトルを「早死にの村」とすることを検討しています。 この日、判決の確定を受け、高野さんら原告がついに被爆者健康手帳を受け取りました。 確定した2審判決では、黒い雨は、国の援護区域より広範囲に降ったとし、1審に続き、「線引き」の妥当性を否定…。さらに黒い雨が含まれた川の水を飲んだり、野菜を食べたり、雨に打たれていなくても内部被ばくによって健康被害を受ける可能性があるとして、被爆者と認める判断を示しました。 西野さんたちは、これまで取材を続けてきたほかの原告にも話を聞きました。 ― どんな気持ちで手帳を受け取られましたか? 「手帳をもらえたら安心して。5・6回いらっしゃいましたね。最初の2回はアポなしで…。」 「若い方が原爆について、黒い雨について、一生懸命来られていたんですよ。本当にわたしも感心しております。」(湯来町で被爆 本毛稔さん) 原爆投下から76年…。原告が被爆者と認められ、初めて迎えた原爆の日です。式典の会場には、高野さんの姿もありました。 一方、西野さんたち…。入場が制限されているなか、原爆投下時刻8時15分に向けて、どこでカメラを構えるか、直前まで原爆ドーム前のあたりでいろいろなポイントを探ります。 最終的に、この場所に決めました。そして…。 「わたしたちが伝えたいことは、人の気持ちの部分というか、どうつなぎ合わせれば伝わるのかなというのが、これから黒いする部分かなと思っている。」(奥原芽衣子さん) 「大学の中に発信していって、その小さな積み重ねがたぶん、多くの若者を巻き込んで、平和につながっていくと思う。若い人に知ってもらいたい。」(梶岡尚大さん) 「黒い雨が降ったという事実だけでもいろいろな境遇の人がいて、苦しんでこられている方がいた。過去のこともそうだけど、これからの人たちにも考えてもらう作品にできたら。」(西野真李花さん) 1つひとつ、自分たちで作り上げようとしているドキュメンタリー映像…。3人は、来月中には完成させるつもりです。
2021.8.6 16:08
「黒い雨訴訟の終結」というおみやげを引っ提げて、総理として初めて平和記念式典に臨んだ菅首相。しかし、面談した被爆者らからは不満の声も出ています。 こちらは、式典会場での1コマ。先日、自らの政治決断で上告を断念し、裁判を終結させた黒い雨訴訟の原告と対面を果たしました。 「ご英断に感謝すると。」(黒い雨訴訟原告団 高野正明団長) 「総理の口から残りのみんなも早急に手帳渡すと。いつもの菅首相と違う。好感持った。」(黒い雨訴訟原告団 高東征二さん) 菅首相は、この後の会見で原告と同じような事情の人たちの救済のため、先月末から政府が県、広島市との相談を始めたことも明らかにしました。 「わたしからは誠意をもって、できるだけ迅速に進めてまいりますと申し上げた。」(菅首相会見) しかし、原告2人との対面の後、菅首相は失態をしでかします。首相になって初めての式典への出席。菅首相は、あいさつの一部を読み飛ばしたのです。読み飛ばしたのは「我が国は核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要」などの文言です。 「けしからんですよ。わたしは兄を亡くしていますから。」 「許せません。きちっと言ってほしいです。」(市民たち) 「この場をお借りしまして、お詫びを申し上げる次第でございます。」(菅首相) また、式典のあいさつの中では、ことし1月に発効した核兵器禁止条約には触れませんでした。条約については、被爆者代表との面会の場で、日本政府が批准することを求められましたが、従来どおりの反対する考え方を表明。 「核保有国を巻き込むことが不可欠。現実の安全保障上の脅威に適切に対処…」(菅首相) 立場が異なる国々の橋渡し役になるという決まり文句に終始しました。 また、条約の締約国会議へのオブザーバー参加についても慎重に見極める必要があると消極的な考えを示しました。 「非常にわたしは落胆しました。外務省の姿勢というのは、これまでになく後退しているというふうに受け取りました。」(広島県被団協 佐久間邦彦理事長) 「日本こそ批准・署名することが橋渡しになるのではと言ったんですが、なかなか明快な答えが出ません。かなりお疲れのようなお顔を見せておられましたね、第一印象は。」(広島県被団協 箕牧智之理事長代行) 菅首相は、原爆資料館も20分余りかけて見学。館長の解説を聞きながら熱心に見入っていたということです。芳名録には感想など記さず、名前のみ残していった菅首相。被爆地・広島には、どれほどの存在感を残したのか…。午後、広島を後にしました。
2021.8.6 16:07
6日、田村厚生労働大臣は、耐震化の方針が決まった被爆建物「旧陸軍被服支廠」を視察し、「保存・利活用含め議論していきたい」と話しました。 被服支廠に4棟残る被爆倉庫のうち、3棟は県、1棟は国が所有しています。3棟を所有している県は、「1棟保存・2棟解体」の案を示してきましたが、再調査などを経て3棟を耐震化する方針を決めています。 去年の加藤大臣に続いて、被服支廠を訪れた田村大臣は、湯崎知事から被爆建物としての価値や、地震により崩落する危険性があることの説明を受けました。 また、湯崎知事は、被爆建物への補助金などさらなる支援を求めました。 「非常に重要な建物だと思っているという認識はしている、しっかりと連携をしていきながら、今後どのような形で保存・利活用していくということを含めて、議論させて頂きながら」(田村憲久厚生労働相) 田村大臣は、「今後、国・県・市との検討会議の状況を踏まえて、支援していきたい」としています。
2021.8.6 16:06
76年前、アメリカが広島に原爆を投下した時刻、午前8時15分―。
2021.8.6 16:05
8月6日の原爆の日。祈りがささげられたきょう一日の広島を映像で振り返ります。
2021.8.6 16:05
あの日、小さな男の子が遊んでいた三輪車…。原爆資料館で、家族の苦悩を伝える遺品として知られています。この「伸ちゃんの三輪車」にゆかりのある1人の小学生が、新たな決意とともに、8月6日を迎えました。 「平和の尊さや大切さを世界中の人々や次の世代に伝えなければならないのです。」(子ども代表「平和への誓い」 平和記念式典 6日) 小学生が読み上げる「平和への誓い」。その内容を考えたうちの1人、小西花希さんです。花希さんは、ことし、強い「使命感」もって参加していました。 平和への誓いの作成に向けた発表会です。広島市の小学生から選ばれた6年生20人が、意見を発表しました。ここに花希さんの姿もありました。 「写真や碑などたくさん展示されています。その中の1つに兄弟の大きなパネル写真があります。女の子の名前は、鉄谷道子ちゃんで、そのとなりにいるのが伸一ちゃんです。そして、その棚に飾られているのが、さびた三輪車と鉄かぶとです。」(小西花希さん) 花希さんが三輪車を題材にしたのには、ある理由がありました。 原爆資料館に置かれた焼けた跡の残る「伸ちゃんの三輪車」。鉄谷伸一ちゃんは、爆心地から1.5キロの自宅前で、三輪車で遊んでいたときに被爆しました。 当時、3歳だった伸一ちゃんは、「水、水」とうめきながら、その夜に亡くなったといいます。伸一ちゃんは、いつも遊んでいた三輪車と一緒に自宅の庭に埋められ、そこに顔が似ているという地蔵が置かれました。 その後、父親が毎日、手を合わせていました。それから40年後に掘り起こされた遺骨は墓に…。三輪車は、原爆資料館に寄贈されました。 この日、花希さんは母の佳子さんや兄弟と一緒に祖父の家を訪ねました。 「おじいちゃーん。」「ただいまー。」「いらっしゃい。」 祖父の敏則さんです。被爆2世になります。 庭にやってきた敏則さんたち。線香をたいて向かったのは…。 「水をね、こうして(地蔵に)かけると、笑っているように見える。」(鉄谷敏則さん) 伸ちゃんを埋めたときに一緒に置かれた地蔵です。この庭で40年前、伸ちゃんが掘り起こされたのです。敏則さんは、戦後に生まれた、伸ちゃんの弟です。 「はい。きれいになりました。きょうはみんなで来ましたよ。」(鉄谷敏則さん) 「小学校で習ったこととか、感じながら手を合わせました。」(小西花希さん) 敏則さんは、父親と一緒に遺骨や三輪車を掘り起こした1人です。 「おじいちゃんらも一緒になって墓を掘り返すわけよね。掘っていると、自転車が出てくるしね、自転車も本当、やっぱりあんな形で出てくるとは思わんくてね。最後に鉄かぶとをとると、おぉ、すごいねと。がいこつが出てきて、伸ちゃんだよね。」(鉄谷敏則さん) 親・娘・孫の3人が一緒になって話をするのは初めてだといいます。花希さんの母・佳子さんもわが子を持つようになって感じたことがありました。 「今、同じ状況のわたしら世代、子どもがいらっしゃる方がたにすごい伝えたいなって。どれだけ、おじいちゃんが悲しかったか、子どもを亡くして悲しかったか、それをもう1回、わかってほしいなってのは思った。」(花希さんの母 佳子さん) 真剣なまなざしで耳を傾ける花希さんに、敏則さんは「語り継ぐこと」の意味を伝えました。 「聞く人からしたら、それはもう花希ちゃんのことばがね、このおじいさんのお父さんの体験というふうにね、パッとくっついて聞くんよ。聞く人はそういうもんなんよ。」(鉄谷敏則さん) 祖父の気持ちを知った花希さん。この日、ある人の思いに触れることにしました。ひいおじいさんで伸ちゃんや敏則さんの父・信男さんの証言です。 「あ、三輪車あったよ。」(花希さんの母 佳子さん) 「出た。これでしょ。」(小西花希さん) 血のつながりがある2人の写真。花希さんたちの目には特別に映っていました。 「なんかさ、昔の人じゃないみたい。」(小西花希さん) 「ほんまじゃね。確かにね。」(母 佳子さん) 亡くなった曾祖父・信男さんの証言は、資料館の映像で見ることができます。 「伸一は、顔はやけどといいますか、はれて、目がとれそうな状態で、とにかく水をくれ、水をくれと…。」(伸ちゃんの父 故・鉄谷信男さん(当時82)) 証言は、伸ちゃんの遺骨を掘り返したときのことに…。 「それ(鉄かぶと)をどけてみると、頭がそのまん丸になって、白い木の根が囲むようになってから頭(の骨)があった。子ども(伸ちゃんの遺骨)はわたしに向かって、『お父ちゃん、年取ったなぁ』というた気がした。こういうことがあったと言うとかねば、世界の国々も核の恐ろしさを分かってもらえないんだというような気持ちがしましたから、こうして泣きながらでも話しをすることができたなと。」(故・鉄谷信男さん) 「わたしの父親の苦しみや悲しみ、くやしさを繰り返さないようにしていきたいと。」(伸ちゃんの弟 鉄谷敏則さん) 「こうやって涙をしながらかたってくれたおじいちゃんの気持ちをやっぱりつないでいかないといけないなというのは、すごく、あらためて何年かぶりに見たときに思います。」(花希さんの母 佳子さん) 花希さんは、血のつながった人たちの言葉を聞き、思いを知ることで、決意を新たにしていました。 「ひいおじいちゃんの気持ちをもって参加しようと思います。伝えていってほしい気持ち。」(小西花希さん) 「平和への誓い」を考えた1人として式典に参加します。2人ともこの日に実際に式典に参加するのは初めてです。 「使命」を胸に参加した式典。母・佳子さんも平和について見つめなおすことができたといいます。 「式が終わったあとに何気に『おつかれさま、暑かったね』ってぎゅっとしたときになんか、こうやって当たり前のように触れることが幸せなことなんだなと思って。」(母・佳子さん) より深く原爆の恐ろしさ、平和へ大切さ、そして、伝え続けることの意味を知ったことしの8月6日。花希さんも決意を新たにした大きな1日となりました。 「ひいおじいちゃんやじいちゃんたちが伝えていきたかったことを、わたしの言葉で1人でも多くの人たちに伝えられるように伝えていくことが、わたしの使命だと思っています。」(小西花希さん) 「本当の別れは会えなくなることではなく、忘れてしまうこと。決して忘れてはいけないのです。」(子ども代表「平和への誓い」 平和記念式典 6日)
2021.8.6 16:04
10年以上に渡って被爆体験や原爆で失われた街並みを描き続けている89歳の男性がいます。先月、原爆資料館に寄贈した絵は、あの日から今も帰って来ていない8歳の妹でした。 人々が暮らし、子どもたちが遊びまわっています。原爆で失われた街の1つ、中島新町周辺を描いたものです。 絵を描いた尾崎稔さん(89)です。被爆体験や戦前の街並みを絵に残しています。描き始めたのは、77歳のときでした。孫が使わなくなった絵の具を処分してほしいと持ってきました。 「おじいちゃんが、ごみ捨て担当だったんですよ、昔。使わなくなって捨ててもらおうと 持ってきたのが、きっかけだった。」(尾崎さんの孫 百々捺美さん) 「処分してくれって言って持ってきたわけよ。それで見たら、ええけえの。もったいないのう思って。」(尾崎稔さん) ― 絵を見て、どう? 「こんなのが、この90歳のじいちゃんが描けるなんて。ちょっと驚きもありますけど、ちょっと自慢できますよね。」(尾崎さんの孫 百々捺美さん) 尾崎さんが初めて描いた原爆の絵です。 「ピカッと来たときには伏せとったんじゃが、もう、やけど半分しとった。」(尾崎稔さん) 尾崎さんは、学校へ向かっている途中、13歳で被爆しました。顔の半分や左手に大きなやけどを負いましたが、命は助かりました。しかし、爆心地近くにいた母・妹・祖母は今も行方不明のままです。被爆から数か月経ち、3人の死亡届を出したといいます。 「ほうじゃが、心の底には、ひょこっと帰ってきやせんかというのはあったよ。いつでもあったよ。」(尾崎稔さん) 遺骨も見つからず、行方不明のままの人は自分の家族だけではない。それを知ってほしいと描いた絵があります。 「遺骨もないし、残したもの、写真1つもないし、そういう戸籍の上で、死亡ってね、なっているだけで、何にもないんよっていうのが、わしにはあったわけ。それで、これを行方不明者としてね。だーっと2、3年前に描いたわけ。」(尾崎稔さん) 尾崎さんが、これまでに原爆資料館へ寄贈した絵は80枚近くになります。 ― これが、去年度の1年で? 「そうですね。全部で32枚あります。この10年と同じ枚数分をこの1年でくださいました。」(原爆資料館 学芸員 高橋佳代さん) 10年来、尾崎さんの絵を見続けてきた原爆資料館の高橋佳代さんは、尾崎さんの心境の変化を感じたといいます。 「枚数もそうですけど、何かあせっているような。そういう感じは見受けられました。」(高橋佳代さん) 尾崎さんは、複数回のがんなど大病も患い、現在も通院しています。この数年で妻や弟も亡くなったといいます。 「わからんもんじゃのう思うての、人間は。じゃけえ、わしに絵を描けいうて、生かしとるんかのう、思うての。」(尾崎稔さん) 尾崎さんは、今も行方不明のままの妹・幸子さんの絵を描き始めていました。ふだんはスラスラと絵を描く尾崎さんですが、幸子さんの絵はそうもいかないようです。 「夢の中で思い出しているんじゃが、出んのよのう。」(尾崎稔さん) 写真は1枚もなく、あるのは記憶の中にある、ぼんやりとした面影だけ…。 「目がどうもね、違うんよね。わしが、悩むことがない、絵を描くのに。初めてや、悩むのは。」 ― 妹さんの絵だから? 「じゃろうね。やっぱり、これが、他人なら、ささっと描いての、えかろうが、えかろうがいうて、思うじゃろうが。この妹だけはかわいかったけえ。わしもかわいがりよったんじゃけえ。」(尾崎稔さん) この日、原爆資料館に尾崎さんの姿がありました。幸子さんの絵を寄贈するためです。 「妹を本気で描いたのは初めてよの。そりゃ、かわいかったよ。」(尾崎稔さん) 「本当ですね。赤い服がよく似合って、かわいい顔していますね。仲良かったですか? 妹さんと。」(原爆資料館 学芸員 高橋佳代さん) 「みんな、仲良かった。一番下じゃしな。みんな、かわいがりよったよ。」(尾崎稔さん) 「お兄ちゃん、お兄ちゃん、みたいな?」(高橋佳代さん) 「うん。そう、そう。」(尾崎稔さん) 「確かに尾崎幸子ちゃんという子が、8月6日までは生きていたというのが、本当によくわかりました。こういうふうに絵にね、残してくれて、刻んでくれて、ありがとうございます。」(高橋佳代さん) ― 尾崎さんは、将来の人のためになるのなら、ちょっとの絵を残すことが自分の役割と描き続けています。妹さんの絵を描き上げたあと、先日には新たに5枚絵を描いて寄贈し、80枚を超えました。とりあえずの目標は100枚だそうです。 ― 尾崎さんも追った原爆の日の特別番組『描く 被爆76年の広島から』は、「RCC PLAY!」で見逃し配信中です。
2021.8.6 11:02
6日、広島は被爆76年の「原爆の日」を迎え、平和記念式典が行われました。 「子どもや孫たちの世代に絶対、こういうことが起きちゃいけないなと。」(原爆で兄弟を亡くす) 広島市では、午前8時から菅総理も出席して、平和記念式典が行われました。原爆が投下された午前8時15分…。 「黙とう。」(原爆投下時刻) 「これからの若い人にお願いしたいことは、身の回りの大切な人が豊かで健やかな人生を送るためには、核兵器はあってはならないという信念を持ち、それをしっかりと発信し続けることです。」広島市・松井一実市長(平和宣言) ことしは、核兵器禁止条約が発効し、条約に消極的な日本政府に対して批准を求める声が高まっています。
2021.8.6 11:02
8月6日は、広島・原爆の日。祈りの1日が続いています。 爆心地に近い広島市の平和公園には、夜明け前から多くの人が訪れ、犠牲者を追悼しています。 「子どもたちが元気に孫と一緒に育っている。父に一度、抱いてもらいたかった。わたし自身も父の記憶がない。写真だけで。」(父は被爆死 生後2か月で被爆(76)) 「わたしたちもあまり聞いたことがない、母から原爆の体験を。それくらい、つらい出来事だった。」(被爆者の母(86)と娘) 全国の被爆者は、ことし、初めて13万人を切り、平均年齢は83.94歳。「被爆体験の継承」が課題となっています。
2021.8.6 09:46
76年前の今日、我が故郷は、一発の原子爆弾によって一瞬で焦土と化し、罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、辛うじて生き延びた人々も、放射線障害や健康不安、さらには生活苦など、その生涯に渡って心身に深い傷を残しました。被爆後に女の子を生んだ被爆者は、「原爆の恐ろしさが分かってくると、その影響を思い、我が身よりも子どもへの思いがいっぱいで、悩み、心の苦しみへと変わっていく。娘の将来のことを考えると、一層苦しみが増し、夜も眠れない日が続いた。」と語ります。 「こんな思いは他の誰にもさせてはならない」、これは思い出したくもない辛く悲惨な体験をした被爆者が、放射線を浴びた自身の身体(からだ)の今後や子どもの将来のことを考えざるを得ず、不安や葛藤、苦悩から逃れられなくなった挙句に発した願いの言葉です。被爆者は、自らの体験を語り、核兵器の恐ろしさや非人道性を伝えるとともに、他人を思いやる気持ちを持って、平和への願いを発信してきました。こうした被爆者の願いや行動が、75年という歳月を経て、ついに国際社会を動かし、今年1月22日、核兵器禁止条約の発効という形で結実しました。これからは、各国為政者がこの条約を支持し、それに基づき、核の脅威のない持続可能な社会の実現を目指すべきではないでしょうか。 今、新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、人類への脅威となっており、世界各国は、それを早期に終息させる方向で一致し、対策を講じています。その世界各国が、戦争に勝利するために開発され、人類に凄惨(せいさん)な結末をもたらす脅威となってしまった核兵器を、一致協力して廃絶できないはずはありません。持続可能な社会の実現のためには、人々を無差別に殺害する核兵器との共存はあり得ず、完全なる撤廃に向けて人類の英知を結集する必要があります。 核兵器廃絶の道のりは決して平坦ではありませんが、被爆者の願いを引き継いだ若者が行動し始めていることは未来に向けた希望の光です。あの日、地獄を見たと語る被爆者は、「たとえ小さなことからでも、一人一人が平和のためにできることを行い、かけがえのない平和を守り続けてもらいたい。」と、未来を担う若者に願いを託します。これからの若い人にお願いしたいことは、身の回りの大切な人が豊かで健やかな人生を送るためには、核兵器はあってはならないという信念を持ち、それをしっかりと発信し続けることです。 若い人を中心とするこうした行動は、必ずや各国の為政者に核抑止政策の転換を決意させるための原動力になることを忘れてはいけません。被爆から3年後の広島を訪れ、復興を目指す市民を勇気づけたヘレン・ケラーさんは、「一人でできることは多くないが、皆一緒にやれば多くのことを成し遂げられる。」という言葉で、個々の力の結集が、世界を動かす原動力となり得ることを示しています。為政者を選ぶ側の市民社会に平和を享受するための共通の価値観が生まれ、人間の暴力性を象徴する核兵器はいらないという声が市民社会の総意となれば、核のない世界に向けての歩みは確実なものになっていきます。被爆地広島は、引き続き、被爆の実相を「守り」、国境を越えて「広め」、次世代に「伝える」ための活動を不断に行い、世界の165か国・地域の8000を超える平和首長会議の加盟都市と共に、世界中で平和への思いを共有するための文化、「平和文化」を振興し、為政者の政策転換を促す環境づくりを進めていきます。 核軍縮議論の停滞により、核兵器を巡る世界情勢が混迷の様相を呈する中で、各国の為政者に強く求めたいことがあります。それは、他国を脅すのではなく思いやり、長期的な友好関係を作り上げることが、自国の利益につながるという人類の経験を理解し、核により相手を威嚇し、自分を守る発想から、対話を通じた信頼関係をもとに安全を保障し合う発想へと転換するということです。そのためにも、被爆地を訪れ、被爆の実相を深く理解していただいた上で、核兵器不拡散条約に義務づけられた核軍縮を誠実に履行するとともに、核兵器禁止条約を有効に機能させるための議論に加わっていただきたい。 日本政府には、被爆者の思いを誠実に受け止めて、一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となるとともに、これから開催される第1回締約国会議に参加し、各国の信頼回復と核兵器に頼らない安全保障への道筋を描ける環境を生み出すなど、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たしていただきたい。また、平均年齢が84歳近くとなった被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により、生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、黒い雨体験者を早急に救済するとともに、被爆者支援策の更なる充実を強く求めます。 本日、被爆76周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と手を取り合い、共に力を尽くすことを誓います。 広島市 松井一実市長
2021.8.6 09:40
私たちには使命があります。あの日、広島で起きた悲惨な出来事。そのことを知り、被爆者の方々の思いや願いを聞き、考え、平和の尊さや大切さを、世界中の人々や次の世代に伝えなければならないのです。 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。赤く燃え、真っ黒に焼け焦げてボロボロになった広島の町。「兄が死ぬより、わしが死んだ方がよかった。」、大切な人が亡くなった悲しみと生き延びた者の苦しみには終わりがありません。 心に深く傷を負った被爆者は、それでも前を向き、「僕ら若人の力によって、きっと平和な世界を築き上げてみせる。」と決意しました。悲しみや苦しみを抱えながらも、被爆者の方々は生きることを決して諦めず、共に支え合い、広島の町の復興に向け立ち上がりました。 本当の別れは会えなくなることではなく、忘れてしまうこと。私たちは、犠牲になられた方々を決して忘れてはいけないのです。私たちは、悲惨な過去をくり返してはいけないのです。 私たちの願いは、日本だけでなく、全ての国が平和であることです。そのために、小さな力でも世界を変えることができると信じて行動したい。誰もが幸せに暮らせる世の中にすることを、私たちは絶対に諦めたくありません。 争いのない未来、そして、この世界に生きる誰もが、心から平和だと言える日を目指し、努力し続けます。広島で育つ私たちは、使命を心に刻み、この思いを次の世代へつないでいきます。 広島市立袋町小学校 6年 伊藤まりあ 広島市立五日市東小学校 6年 宅味義将
2021.8.6 09:33
被爆76年となる「原爆の日」。8月6日、広島では、平和記念式典が開かれました。 式典は、去年に続き新型コロナ対策で参列者が制限されました。 平和宣言で広島市の松井一実市長は、日本政府に対し核兵器禁止条約への批准や第1回締約国会議に参加することなどを求めました。 これに対し、菅首相は、各国の立場には隔たりがあるとしたうえで…。 「核軍縮を進めていくためには、様々な立場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な取り組みを粘り強く進めていく必要があります。」(菅首相) このほか、原告全員を被爆者と認めた「黒い雨訴訟」に触れ、ほかの被害者の救済も「早急に検討を進める」と述べました。
2021.8.6 06:16
8月6日…。広島は、被爆から76年となる「原爆の日」を迎えました。 爆心地に近い広島市の平和公園には、夜明け前から多くの人が訪れ、犠牲者を追悼しています。 「悔しいです。毎年、来るけど心が晴れない。」(友人が原爆で犠牲に) 「鉄砲や爆弾で死んだ人も爆弾で死んだ人も原爆で死んだ人もみな同じで被害を受けている。戦争は悪い。」(2歳で被爆) 全国の被爆者は、ことし、初めて13万人を切り、平均年齢は83.94歳。「被爆体験の継承」が課題となっています。 このあと、午前8時からは平和記念式典が去年に引き続き、新型コロナの感染対策で参列者を制限して執り行われます。 広島市の松井一実市長は、平和宣言で、日本政府に対し、ことし1月に発効した核兵器禁止条約への批准や原爆投下後に降った「黒い雨」に遭った人たちの早急な救済などを求めます。