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後金

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後金

←建州女真 1616~1636 清→
地図(右上が後金)
公用語:満洲語:漢語:蒙古語
首都:ヘトゥアラ:ᡥᡝᡨᡠ ᠠᠯᠠ:hetu ala:興京
指導者:ヌルハチ(太祖):ホンタイジ(太宗)
変遷
1616年 建国
1636年 清に移行

概要

後金(こうきん、1616年 - 1636年 満州語: ᠠᡳ᠌ᠰᡳᠨ ᡤᡠᡵᡠᠨ、転写: aisin gurun、金國)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人、jušen)の国家で、清の前身。
1588年までに女真の建州女直を統一し、満洲国(満州語: ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡤᡠᡵᡠᠨ、転写: manju gurun, 滿洲國)を建てていた愛新覚羅氏のヌルハチ(満州語: ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ、転写: nurgaci、努爾哈赤)は、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ(満州語: ᠶᡝᡥᡝ、転写: yehe)部族を除く全女真を統一して、この年ハンの位につき、天命の年号を立てて建国を宣言した。ヌルハチはこのとき国号を金国(満州語: ᠠᡳ᠌ᠰᡳᠨ ᡤᡠᡵᡠᠨ、転写: aisin gurun, 金國)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(満州語: ᡥᡝᡨᡠ ᠠᠯᠠ、転写: hetu ala、興京)に置かれた。
また国名については、ホンタイジが「...我々は金の後継者でもない。それはまた別の時だった。」と述べているが、満洲実録には本来ならば国名が金なのだから「金」と表記するべきところを(公式文書なのだから現代の通称としての後金とは考えにくい)しっかりと「後金(amaga aisin gurun)」と書かれていることからヌルハチが金を意識していたのは明らかである。

歴史

女真時代

元々建州地域は牡丹江と松花江の合流地付近だった。金の時代には完顔部に従属する五国部がその地には存在し、のちの元の時代には女真万戸府が形成された。元朝末期には、胡里改部族と斡朶里部族の首長は蒙古支配から離れた後、次第に北上してきた明朝の従属国になった。

明の時代には、女真は建州女直(ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡤᡠᡵᡠᠨ, Manju gurun?)、海西女直(ᡥᡠᠯᡠᠨ ᡤᡠᡵᡠᠨ, Hūlun gurun)、野人女直(ᠸᡝᠵᡳ ᡤᡠᡵᡠᠨ, Weji gurun)の3つに分かれていた。そこから明はその中で更に衛制に基づき分割し、建州は明の時代には建州衛、建州左衛、建州右衛に分裂されていた。また明は東北に統治機関として「奴児干都司」を設置、すべての女真を従属させた。1403年、明は地域の元名の渤海建州に基づき、その地域を建州女真と称し、地方の軍事行政機関を設置し、阿哈出(このとき李承善という名を与えられた)を司令官に任命、建州左衛の指揮官に猛哥帖木児(または孟特穆(ᡩᡠᡩᡠ ᠮᡝᡢᡨᡝ᠋ᠮᡠ, dudu mengtemu)、愛新覚羅家の先祖)を任命した。 その後、1416年に設立された建州は司令官として孟特穆が任命され、明は孟特穆に童という苗字を与えた。建州は初期には奴児干都司に属していたが、廃止後は遼東都司に属していた。

明中期には建州女直の指導者になった孟特穆は、1433年、女真部族間の争いで野人女鎮に殺害され、その後、建州の戦いで朝鮮に攻められいくつか土地を接収され(清の朝鮮併合で奪還された。)、部族は何度かの大移動や苦難に見舞われた。
1442年、明代は右衛と左衛の統帥権を分離し、右衛を凡察、左衛は董山が率いて、建州の三衛を形成した。三衛はすべて羈縻衛であり、指導者は明に承認された後に相続することができた。

ヌルハチが生まれた時、女真同士の怨みつらみから三衛による平和が崩れ、大と小問わず衛同士が土地や家畜、奴隷を略奪するために殺し合った。これは彼の人生に大きな影響を与える。

統一女真までの道のり

ヌルハチの台頭は、女真社会の部族と民族の複雑な争いの中であった。部族間の対立は日増しに激しくなり,比例するように部族間の戦争もますます激しくなっていった。『満洲実録』には、

"滿洲國之蘇克素護河部、渾河部、完顏部、棟鄂部、哲陳部;長白山訥殷部、鴨綠江部;東海窩集部、瓦爾喀部、庫爾喀部;呼倫國之烏拉部、哈達部、葉赫部、輝發部,各地盜賊蜂起,各自僭稱汗、貝勒、大臣,每村每寨之主,各族之長,互相征伐,兄弟相殺,族眾力強之人欺凌搶掠懦弱者,甚亂。"
「滿洲國圏内の蘇克素護河部、渾河部、完顏部、棟鄂部、哲陳部、長白山訥殷部、鴨綠江部、東海窩集部、瓦爾喀部、庫爾喀部、呼倫國の烏拉部、哈達部、葉赫部、輝發部などの各地で盜賊が蜂起し、それぞれ汗(ᡥᠠᠨ, han)、貝勒(ᠪᡝᡳ᠌ᠯᡝ,beile)、駐箚大臣(昂邦, ᠠᠮᠪᠠᠨ, Amban)を僭称して、村の主、各寨族を討ちあっていた。有力者は弱人を略奪したりしており、とても混乱していた。」

建州女真は16世紀末までに、「建州三衛」は事実上すでに建州五部と化していた―――蘇克素護河部、渾河部、完顔部、棟鄂部、哲陳部、長白山部の鴨綠江、珠舍哩、訥殷に分裂したのである。当時、建州女真の太小族、強部弱部、あるいは各城寨、または自主屯堡の人々が、雌雄を決すため、争っていた。『聽雨叢談』には、

“數十姓巨族,則各踞城寨,小族亦自主屯堡,互相雄長,各臣其民,均有城郭。”
“数十の巨族が、それぞれ敵方の砦を占拠する中、小族も自ら砦を築き、互いに雄長を争うため、各臣ですら皆城郭を持っていた。”

とある。

しかし、建州諸部の中では結局王杲の勢力が最も強かった。王杲(ヌルハチの母方の祖父 ᠠᡨᡠᡥᠠᠨ, atuhan)は撫順、東州、会安、威寧、遼陽、孤山、湯駅諸営堡を攻めたことすらあった。王杲は副總兵黑春、提調王三接、李松、備禦彭文洙、指揮陳其學、戴冕、王國柱、楊五美、李世爵、王重爵、王宦、康鎮、朱世祿及把總溫欒、於欒、王守廉、田耕、劉一鳴等の明の武将をも何十人か殺害していた。1574年、王杲は1574年に父の敵を討つべく大挙して遼、沈を攻撃した。明の遼東総兵の李成梁などはこのとき「彼らの隠れ家を破壊し、1,000人以上の首をはねた。」と言っていた。翌年、王杲は再び出兵したが、明軍に敗れた。王杲は海西女真哈達部の王台(別名万汗, ᠸᠠᠨ ᡥᠠᠨ, Wan han)に身を寄せたが王台の子である扈尔干(ᡥᡡᡵᡤᠠᠨ,Hūrgan)は王杲を縛って明に献上した。これにはヌルハチの父塔克世(ᡨᠠᡴᠰᡳ, Taksi)、覚昌安(ᡤᡳᠣᠴᠠᠩᡤᠠ, Giocangga)が関与していた。覚昌安、塔克世は遼東総兵の李成梁に通じていたのだ。また侯汝諒が《東夷悔過入貢疏》に、

「建州の賊の頭の差草場(索常阿)など4名を鳴場(覚昌安)などの部落長、麻子などが関所に送った」

と記したこともあり、彼らは明と良い関係を結んだ。知昌安と塔克世の親子は二世代とも李成梁の一族と結婚した。故に浙江道御史楊鶴稱は李成梁の子の李如柏とヌルハチの関係を「香火の情がある」と言っていた。《籌遼碩畫》にも、

“叫場(覺昌安)、他失(塔克世)皆忠順,為中國出力。”
“覺昌安や、塔克世は皆忠順で,中國のために尽力するだろう。”

とあるように彼ら親子は皆明に忠実であることがわかる。特に明軍が王杲寨に侵攻する時、塔克世は明に大きく貢献した。『皇明通紀輯要』にも、塔克世が明に王杲寨を攻めるときに明を助け、大きな功績を挙げたとし、彼は建州左衛の指揮使に任じられた。
このこともあって、当時の満洲は、遼東半島の総軍である李成梁の軍隊が主な軍事力だった。

王杲の死後、息子阿台章京(ᠠᡨᠠᡳ ᠵᠠᠩᡤᡳᠨ, Atai janggin)と阿亥は逃げ出し、古勒寨(ᡤᡠᡵᡝᡳᠵᠠᡳ, Gureijai、現:新賓上夹河鎮古楼村)に、阿亥は沙済城に戻ったが互いに連絡を取っていた。哈達部の王台らが王杲を献上した後、明から龍虎将軍の地位と都督僉事,賜黄金二十両、大紅師子紵衣一襲を封じられたが、1582年に死んだ。息子の扈尔干は報復を恐れていた。阿台、阿亥は恨んでいたためその父を献上して、扈尔干に向って報復した。同年、阿台、阿亥や葉赫(イェヘ、ᠶᡝᡥᡝ, yehe)部の清佳努貝勒と揚吉努貝勒で共に海西女真の哈達(ᡥᠠᡩᠠ,Hada)を攻めた。明遼東総兵の李成梁は曹子谷まで兵を進め、敵軍を大破させ1563名を捕虜にした。成梁乃は兵を率いて撫順王剛台から百里の距離を突撃し、古勒寨を突いた。砦は険しく、三面の壁立や濠が大量に建設されていた。配下の諸軍は二日の昼夜にわたって火攻めを行い、阿台を射た。秦得倚はこの時阿海寨を破っており、海(阿亥)を殺した。
阿台の妻は覚昌安(ᡤᡳᠣᠴᠠᠩᡤᠠ, Giocangga, ギオチャンガ)の孫娘だったため、1583年に李成梁が古勒寨を攻撃した際、覚昌安と塔克世(ᡨᠠᡴᠰᡳ, Taksi、ヌルハチの父)は説得、降伏させるために町に入ったが、戦況の切迫のためにそのまま包囲された。李成梁の指揮の下、建州女直の蘇克素滸川部の図倫市の領主である尼堪外蘭(ᠨᡳᡴᠠᠨ ᠸᠠᡳ᠌ᠯᠠᠨ, Nikan wailan, ニカンワイラン)は、阿台を誘き出し開城させた。なお、古埓(ᡤᡠᡵᡝ, gure, グレ)塞開城後に尼堪外蘭の手引きで阿台、また一家諸共殺害され、一家ではなんとかヌルハチたった一人が生き残った。
この役で、古埒城と沙済城は破壊され、阿台と阿亥は戦死した。このとき明軍は合計2,222名、曹子谷の戦いでは合計3,000名以上の捕虜を獲得した。大明はこの功を郊廟に記録し、録周咏、李松、李成梁の功を記した。

ヌルハチは父の殺害について、
"私の祖父と父には何の落ち度もないのに、なぜ殺されたのか?"
と問うた。 明は使者を送り、
"あなたの祖父や父は確かに兵士に殺されたが、誤って殺されただけだ。"
と伝えた。そして、祖父と父の遺体と勅書三十道、馬三十匹、都督勅書を送付した。ヌルハチは明の使者に対して
"私の祖先と父が尼堪外蘭によって殺された、奴をここに連れて来てくれ。"
と述べた。しかし明の使者は厳しく彼の要求を拒絶して、更にこの要求を出すならば、尼堪外蘭が嘉班で城を築くことを助け、彼を建州の主とすると脅した。

1583年、愛新覚羅努尔哈赤は、先祖と父の遺産である甲冑兵13組のみで、建州の左衛司令部を攻撃、5月には古勒寨に攻撃を開始した。しかし何者かに扇動されたのか、共に攻撃してくれたのは伊尔根覚羅氏(ᡳᡵᡤᡝᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ ᡥᠠᠯᠠ , Irgen gioro hala)と郭絡羅氏(ᡬᠣᠯᠣᠯᠣ ᡭᠠᠯᠠ, Gololo hala)、サルフ城(ᠰᠠᡵᡥᡡ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Sarhū hoton)のノミナ (ᠨᠣᠮᡳᠨᠠ, nomina)、弟のナイカダ(ᠩᠠᡳᡴᠠᡩᠠ Naikada, 鼐喀達)ギャムフ城のガハシャン(ᡤᠠᡥᠠᡧᠠᠨ, gahašan , ヌルハチの妹婿)のみだった。しかし、図倫城(ᡨᡠᡵᡠᠨ ᡥᠣᡨᠣᠨ, turun hoton)への攻撃は、ノミナと内通していた尼堪外蘭が攻撃前にギヤバン城 (ᡤᡳᠶᠠᠪᠠᠨ ᡥᠣᡨᠣᠨ, giyaban hoton)に逃れた。この戦いはヌルハシの人生で初めての戦いだった。同年8月にギヤバン城を攻めたが、またも尼堪外蘭はノミナから密告を受け、オルホン城(ᠣᠯᡥᠣᠨ ᡥᠣᡨᠣᠨ, olhon hoton)に逃げた。ヌルハチはノミナの内通に気が付いた。
そのころ、ノミナはフネヘ部(ᡥᡠᠨᡝᡥᡝ ᠠᡳᠮᠠᠨ, Hunehe aiman, 渾河部)のバルダ城(ᠪᠠᡵᡩᠠᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, bardai hoton, 巴爾達城)攻めをヌルハチに提案。ヌルハチはこれを利用して二人を除くことにした。
ヌルハチはノミナの呼びかけに応じたふりをし、自ら兵を率いノミナの軍勢とともにバルダ城の前にやってきた。ヌルハチはノミナに「先に攻めよ」と言ったが、ノミナはこれを拒否した。そのためヌルハチは
「そちらが攻めないのであれば、我々が先に攻める。そちらの武器を我らに与えよ」
と述べた。計略とは知らないノミナに応じ、武器をすべてヌルハチの兵士に与えた。
ノミナの兵の武器が全て自軍に渡ったのを見たヌルハチはその場でノミナとナイカダを捕縛し、殺害した。武装解除された形となったノミナの兵は何の抵抗もできなかった。二人を殺害したヌルハチは兵を率い、城主を失ったサルフ城を陥落させた。
ところがその後の後フネヘ部(ᡥᡠᠨᡝᡥᡝ ᠠᡳᠮᠠᠨ, hunehe aiman)のジョーギヤ城ᡷ(ᠣᡤᡳᠶᠠ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Joogiya hoton, 兆嘉城)のリダイ(ᠯᡳᡩᠠᡳ, lidai, 理岱)とギオチャンガの息子の子孫がフルン四部(海西女真)のハダ (ᡥᠠᡩᠠ,Hada, 哈達)の兵を引き入れ、ヌルハチに属していたフジ寨(ᡥᡡᠵᡳ ᡤᠠᡧᠠᠨ, Hvji gaxan, 瑚済寨)を襲撃させたため、尼堪外蘭の追撃は中止した。

1584年1月、ヌルハチの部将アン=フィヤング(ᠠᠨ ᡶᡳᠶᠠᠩᡤᡡ, an fiyanggv, 諳班偏格)とバスン(ᠪᠠᠰᡠᠨ, basun, 巴遜)は十二人を率いてハダ兵を奇襲し、四十人を殺し、捕虜を得て帰ってきた。
この後ヌルハチはフネヘ部のジョーギヤ城を本格的に攻めた。山道を進軍中大雪が降り潅ぎ、ガハ(ᡬᠠᡥᠠ, Gaha 噶哈)の嶺を越えられなくなった。そのためおじや兄弟たちは引き返すことを勧めたが
「リダイは我らと同じ姓の兄弟でありながら、我らを殺そうとハダの兵を引き入れた」
といって進軍を続け、山道を切り開き、兵や馬を縄でつないで山越えを果たし、ジョーギヤ城にたどり着いた。
だが、ヌルハチを妨害しようとするニングタ(ᠨᡞᠨᠩᡤᡠᠳᠠ, ningguta)のベイレ(貝勒, ᠪᡝᡳ᠌ᠯᡝ, beile)の一族の一人、三祖ソーチャンガ(ᠰᠣᠣᠴᠠᠩᡤᠠ, soocangga)の子のロンドン(ᠯᠣᠩᡩᠣᠨ, longdon)が、ひそかにヌルハチの動きをリダイに連絡していたため、リダイはすでに防備を固めていた。これをみたヌルハチの部下は撤兵を進言するが、ヌルハチはひるまずに攻め立て、ジョーギヤ城を落とした。リダイは捕らえられたが、ヌルハチの同族ということもあり命は助けられた。なお、ハダ兵によるフジ寨襲撃も、ニングタのベイレの一人六祖宝実(ᠪᠣᠣᠰᡳ, boosi, ボーシ)の子カンギヤ(ᡴᠠᠩᡤᡳᠶᠠ, kanggiya, 康嘉)、チョキタ(ᠴᠣᡴᡳᡨᠠ, cokita, 綽奇塔)、ギオシャン(ᡤᡳᠣᡧᠠᠨ, giošan, 覚善)がリダイに行わせたものだった。
同じ頃、ギャムフ城のガハシャン=ハスフ(ᡤᠠᡥᠠᡧᠠᠨ ᡥᠠᠰᡥᡡ, Gahašan Hashū, 噶哈善哈思虎、ヌルハチ妹の夫)がヌルハチの継母の弟サムジャン (ᠰᠠᠨᠵᠠᠨ, samjan, 薩木占)に殺された。サムジャンはマルドゥン城 (ᠮᠠᡵᡩᡠᠨ ᡥᠣᡨᠣᠨ, mardun hoton)に逃げ込んだがヌルハチは追い、サムジャンを殺して仇を討った。同姓同族の激しい骨肉の争いは1583年に終結し、ヌルハチの親族はヌルハチに屈服した。
しかし、これ以後『満洲実録』にはロンドンやニングタのベイレ一族のことはほとんど記述されなくなる。これはおそらくヌルハチが一族内部の反感を抑えるのに成功したためだと推測される。

ドンゴ部 (ᡩᠣᠩᡤᠣ ᡳ ᠠᡳᠮᠠᠨ, donggo -i aiman)の族長アハイ=バヤン(ᠠᡥᠠᡳ ᠪᠠᠶᠠᠨ, Ahai Bayan, 阿海巴顔)はスクスフ部(ᠰᡠᡴᠰᡠᡥᡠ ᡳ ᠠᡳᠮᠠᠨ, suksuhu -i aiman)をまとめたヌルハチを恐れ、攻撃しようとしたが、ヌルハチに気づかれた。アハイ=バヤンは四百人の兵を集め、居城のチギダ城(ᠴᡳᡤᡳᡩᠠ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Cigida hoton, 斉吉達城)に籠城した。ヌルハチは城を取り囲み、城楼や村を焼き払ったが、もう少しで落城というところで大雪が降ったので、兵を退かせた。ヌルハチは十二人の兵士を率いて自ら殿軍となり、煙が立ち込めた場所に伏兵として伏せ、城から出てきた城兵を不意討ちして四人を討ち取り、二つの鎧を得た。
ヌルハチが引き返す途中に、ワンギヤ部(ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ ᡳ ᠠᡳᠮᠠᠨ, Wanggiya -i aiman, 完顔部)のスンジャチン=グワングン(ᠰᡠᠨᠵᠠᠴᡳᠨ ᡤᡠᠸᠠᠩᡤᡠᠨ, Sunjacin Guwanggun, 遜扎秦光袞)という者がやってきて、自分は以前オンゴロ(ᠣᠩᡤᠣᠯᠣ, Onggolo, 翁鄂洛)の者に捕らえられたことがあり、仇を討つのを助けて欲しいと要請してきた。
ヌルハチはこの機に乗じてオンゴロ城(ᠣᠩᡤᠣᠯᠣᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Onggoloi hoton, 翁鄂洛城)を取ろうと考えて要請を受け入れ、予定になかったオンゴロ城を攻めることになった。
ところが、スンジャチン=グワングンの兄の子のダイドゥ=メルゲン(ᡩᠠᡳᡩᡠ ᠮᡝᡵᡤᡝᠨ, Daidu Mergen, 岱度墨爾根)という者が密かに人を遣わしてオンゴロに知らせたため、オンゴロは前もってオンゴロ城に兵を集めており、ヌルハチの軍勢と激戦となった。
ヌルハチはオンゴロ城の城楼や家屋に火を放ち、城を攻め立てた。ヌルハチも自ら民家の屋根に登り、そこから城内めがけて矢を射かけた。その時城内のオルゴニ(ᠣᡵᡤᠣᠨᡳ, Orgoni, 鄂爾果尼)という者が放った矢が頭に命中し、矢の先が兜を突き破って頭にまで達する傷を負ったが、矢を引きぬいて自分の弓につがえて、敵兵を射倒した。
ヌルハチは、頭の傷から血が流れ落ちて足の裏にまで達したが、それでもなお退かずに戦おうとした。その時、火と煙の中に隠れていたロコ(ᠯᠣᡴᠣ, Loko, 洛科)という者が矢を放ち、矢はヌルハチの首に命中した。矢は首を覆っていた鎖かたびらもろとも首に食い込んだ。ヌルハチは矢を無理やり引き抜いたため、首の肉までえぐれてしまい、傷から血が吹き出して止まらなくなった。ヌルハチは敵に負傷を悟られることを恐れて、手で首の傷口を押えながらゆっくり屋根から降り、部下二人の肩を借りた時、昏倒してしまった。その後も大量の出血が続き、気がついたり、気を失ったりを繰りかえし、翌日の未時にようやく出血が止まった。
大将が重体となったヌルハチの軍勢は兵を退き、ヘトゥアラに戻った。
傷の癒えたヌルハチは改めてオンゴロ城を攻め、今度は楽々と陥落させた。ヌルハチを射たオルゴニとロコも捕らえられた。部下は二人を殺すことを主張したが、ヌルハチは
「戦のときは敵に勝つために、自分の主人のために私を射たのだ。今私の側に付けば私のために他の者を射るだろう。このようなすばらしく、強い男を戦いで殺してしまうのは惜しいぞ。私を射たからといってなぜ易々と殺す」
と言い、オルゴニとロコを許し、ニルイ=エジェン(ᠨᡳᡵᡠᡳ ᡝᠵᡝᠨ, nirui ejen(ᠨᡳᡵᡠ ᡝᠵᡝᠨ, niru ejen, ニル=エジェン, 牛录額真)に任じた。

1585年2月、ヌルハチは鎧を着た兵二十五人、その他五十人の兵を率い、ジャイフィアンに攻勢に向かったが、事前に襲撃を察知して防備を固めており、何も得る所がなく引き返した。
その時、ジャイフィアン(ᠵᠠᡳᡶᡳᠶᠠᠨ, jaifiyan, 界藩)、サルフ(ᠰᠠᡵᡥᡡ, Sarhū, 薩尔滸)、ドゥンギャ(ᡩᡠᠩᡤᡳᠶᠠ, Dunggiya, 棟佳)、バルダ(ᠪᠠᡵᡩᠠ, barda, 巴尔達)の四城の城主が四百の兵を率い、弓を射ながら追撃してきた。ヌルハチは後退しつつ戦い、ジャイフィアンの南のタイラン(ᡨᠠᡳᡵᠠᠨ, Tairan, 太蘭)の丘の湿地の端に至った時、追手の徒立ちの兵を率いていたネシン、バムニが前に突出してきた。
これを見たヌルハチは馬に鞭を当ててネシンへと突き進んだ。ネシンはヌルハチの隙をついて斬りかかり、ヌルハチが手に持っていた鞭を断ち切った。ヌルハチはネシンの肩に斬りつけ、馬から落とした後、素早く身を翻して弓でバムニを射抜いた。
ネシンとバムニが殺されたのを見て追手の兵はいったん後方に下がった。
だが敵に追われ続けたヌルハチ側も馬の疲労が激しく、これ以上撤退できなくなってしまった。
ヌルハチは一計を案じ、まず兵を下馬させ、相手からは見えない坂道の向こう側で馬を休ませるよう命じた。次に自らネシン、バムニの遺体の横たわる場所まで行き、遺体を収容しようとする敵兵を挑発し、さらに撤退しつつ七人の部下に命じて物陰からわざと兜を露出させ、伏兵がいるかのように見せかけて時間を稼いだ。追手の兵は伏兵を警戒してそれ以上追撃せず、ヌルハチは疲れた馬を一頭も残さず全て連れ帰ることができた。

4月、ヌルハチは歩兵と騎兵からなる合計五百の兵を率い、ジェチェン部(ᠵᡝᠴᡝᠨ ᡳ ᠠᡳᠮᠠᠨ, Jecen i aiman)への遠征に出発したが、その途中で河川の氾濫に遭ったので、大部分の兵士を戻らせて、綿甲を着た兵五十人、鎧を着た兵三十人の計八十人の兵だけを率い、ジェチェン部に向かった。
ところがヌルハチの進軍を密かに通報した者がおり、トモホ(ᡨᠣᠮᠣᡥᠣ, Tomoho, 托漠河)、ジャンギャ(ᠵᠠᠩᡤᡳᠶᠠ, janggiya, 章佳)、バルダ、サルフ、ジャイフィヤンの五城が合計八百人の兵を出してヌルハチの背後を襲った。ヌルハチはもちろん背後に見張りを置いていて、見張りも敵兵を発見していた。だが、ヌルハチへの通報に走った見張りが誤ってヌルハチ本人のいた場所を通りすぎてしまい、敵兵発見の知らせはヌルハチには届かなかった。ヌルハチは背後に見張りがいるので安心していたところに突然敵が現れたため不意を突かれたヌルハチ達は狼狽し、一族のジャチン、サングリの二人(五祖ボーランガ(ᠪᠣᠣᠯᠠᠩᡤᠠ, boolangga、包朗阿)の孫)は着ていた鎧を脱いで他の兵に着せる始末だった。
ヌルハチは激怒して
「お前たちは普段は兄弟や村人の中で強がって見せているくせに、いざ大軍を見たら怖気づいて着ている鎧を他人に着せるのか!」
と言い放ち、弟ムルハチ(ᠮᡠᡵᡤᠠᠴᡳ, Murgaci)とヤムブル(ᠶᠠᠮᠪᡠᠯᡠ, Yambulu, 延布禄)、ウリンガ(ᡠᡵᡳᠩᡤᠠ, Uringga, 武凌噶)ら三人と先頭に立ち、敵兵の中に突っ込んだ。四人は二十人近くの敵兵を打ち倒したため、四人を恐れた敵兵は渾河を渡って逃げ始めた。
ヌルハチはあまりの暑さに目がくらみ、兜を脱ぎ、鎧のひもを解くのももどかしく、引きちぎって鎧を脱ぎ、その場で涼み始めた。少し休憩してから、再び逃げる敵を追撃し、完全に打ち破った。<br>
ヌルハチは
「今日、四人で八百の兵を打ち破ったのは正しく天の助けによるものだ」
と言い、兵を納めて引き上げた。
9月、ヌルハチはスクスフ部のアントゥ=グワルギヤ(ᠠᠨᡨᡠ ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ, Antu Gūwalgiya)を攻め取った。

1586年5月、ヌルハチはフネへ部(ᡥᡠᠨᡝᡥᡝ ᠠᡳᠮᠠᠨ, hunehe aiman)のボイホン寨(ᠪᠣᡳᡥᠣᠨ ᡧᠠᠨᠴᡳᠨ, Boihon šancin, 貝歓寨)を攻め取り、7月にジェチェン部のトモホ城(ᡨᠣᠮᠣᡥᠣᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Tomohoi hoton, 托漠河城)を攻め、降服させた。これで周辺勢力との抗争は一段落がついた。
1586年7月、いよいよ尼堪外蘭の居城であるオルホン城(ᠣᠯᡥᠣᠨ ᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Olhon i hoton, 鄂勒琿城)を攻めた。尼堪外蘭は明軍に逃げ込んだので、ヌルハチはオルホン城で捕らえた漢人に「ニカンワイランという者を捕らえて連れてくるように。もし引き渡さねば明を攻める用意がある」という伝言を与えて解き放ち、明軍に引き渡しを求めた。明はもはや尼堪外蘭には利用価値がないと判断したが、「皇帝に帰服した者を引き渡す法などあるか。お前が殺しに来るというのはどうだ」と提案した。明は一旦自国に亡命した者を易々とヌルハチに引き渡せば面子が潰れるとして、ヌルハチが明領内に出向いてニカンワイランを殺すよう提案した。
だが、ヌルハチが「誰が信用できるか。お前たちは私を騙そうとしているのだろう」と強硬な態度に出たので、明の使者は少人数を受け取りによこせば、ニカンワイランを引き渡すと約束した。
ヌルハチはジャイサという者に四十人の兵を与えて身柄の受け取りに行かせた。ニカンワイランは明の見張り台に登って逃げようとしたが、台の上にいた明人たちは梯子を引き上げ、ニカンワイランの退路を断ち、ジャイサたちに運ばれるに任せた。こうして、明はニカンワイランをヌルハチに引き渡した。
明は、祖父と父の死の責任を認め、毎年銀八百両、蟒緞十五疋を与えることを約束した。
挙兵から三年、ヌルハチはようやく祖父と父の仇を討った。

1587年、ヌルハチは地元スクスフ部をほぼ平定したのを機に、政権の基礎固めを行なっている。
一つ目はフェアラ城(ᡶᡝ ᠠᠯᠠ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Fe Ala hoton, 費阿拉城, 旧崗城)の築城、政治・法律制度の整備である。
フェアラ城はヘトゥアラの南方、ギヤハ河(ᡤᡳᠶᠠᡥᠠ ᠪᡳᡵᠠ, Giyaha bira, 嘉哈河)と支流のショリ河(ᡧᠣᠯᡳ ᠪᡳᡵᠠ, Soli bira)の合流点にはさまれた地点に位置している。
フェアラ城は山の北側斜面を利用し、内城、外城、さらに外側の套城の三重の城域が階段上に造成された梯郭式の平山城で、内城の城壁は海抜260m前後の斜面を囲むように築かれ、外城の城壁は麓の海抜200mの等高線にそって存在する。内城にはヌルハチの居館と三軒の楼があり、ヌルハチとその親族が居住し、外城にはヌルハチの有力な臣下とその一族たちが暮らしていた。
ヌルハチはこの時期から配下部将の集住政策を推し進めており、フェアラ城から三、四日行程の範囲内に居住する村落(ᡤᠠᡧᠠᠨ, gašan, ガシャン)の首長とその一族郎党に外城内部と外城外部に集住するよう命じている。
内城内のヌルハチの居館及び三軒の楼は全て周囲より高い盛土の土台上に築かれていた。これは後に瀋陽に造営された宮殿、即ち瀋陽宮の建築様式とも共通している。
二つ目は政治・法律制度の整備である。
ヌルハチは六月二十四日に「国政(ᡤᡠᡵᡠᠨ ᡳ ᡩᠣᡵᠣ, gurun i doro)」を発布、これは国の基本的制度及び施政方針を示した。同時に法令を施行し、悪行、騒乱、窃盗、詐りを禁じている。

その後、ジェチェン部のアルタイ(ᠠᡵᡨᠠᡳ, Artai, 阿尔泰)を攻め、その山寨を攻め取り、アルタイを殺した。
8月、ヌルハチは部下のエイドゥ(ᡝᡳᡩᡠ, Eidu, 額亦都)に命じ、スクスフ部のバルダ城(ᠪᠠᡵᡩᠠᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, bardai hoton, 巴尔達城)を攻撃させた。
バルダ城に向け進軍する途中、渾河を渡ろうとしたが増水していたため、兵士の首を縄で結び、流されないようにして河を渡りきった。河を渡りきった後、五、六人の精鋭を選び、バルダ城の城壁に梯子を掛けて夜襲をかけた。
エイドゥは城壁上で戦い、五十に近い傷を負ったが、退かずに戦い、城内の者は逃げ去り、城を攻め取った。
その後、ヌルハチ自ら兵を率い、フネへ部のドゥン城(ᡩᡠᠩ ᠨᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, Dung ni hoton, 洞城)を攻め、城主のジャハイ(ᠵᠠᡥᠠᡳ, Jahai, 扎海)を投降させた。

1588年4月、ヌルハチは有力部族のハダ部のフルガン(ᡥᡡᡵᡤᠠᠨ, Hūrgan、王台(ᠸᠠᠨ ᡥᠠᠨ, Wan han, 別名万汗)の息子。ヤルグ部のフルガンとは別人)の娘のアミン=ジェジェと結婚している。アミン=ジェジェ(ᠠᠮᡳᠨ ᠵᡝᠵᡝ, Amin jeje)の兄ダイシャン(ᡩᠠᡳᡧᠠᠨ, Daišan、ヌルハチの息子のダイシャンとは別人)が彼女を送り届けにやってきた。
この婚姻はヌルハチの方から申し込み、明が取り持った。
ハダ部は王台時代に大勢力を誇ったが、王台死後に一族の内紛が起こり、明が支援してきた王台嫡流のフルガンと息子ダイシャンもハダ部内で孤立していた。その上、ハダ部と敵対するイェヘ部が着実に影響力を拡大し、しかもヌルハチはイェヘ部との連携を画策し、ハダ部は窮地に陥っていた。そして、明朝としてもイェヘ部の影響力が大きくなりすぎることは勢力均衡上好ましくなく、新興勢力のヌルハチも無視できない存在となっていた。
そのためこの婚姻の意義とは、ヌルハチとしてはハダ部と結びつくことで安定を確保し、ハダ部としてはヌルハチとの同盟による安全を図り、明としても新興勢力のヌルハチとハダ部を政略結婚で結びつけることで、イェヘ部の勢力が大きくなりすぎないようにしたことにある。

ヌルハチはドゥン(ᡩᡠᠩ, Dung, 洞)の野でダイシャン、アミン=ジェジェ一行を出迎えた。その時、ある男が箙を腰にし、馬に乗り、ヌルハチの前を通り過ぎようとした。ヌルハチはかたわらの大臣たちに
「この者は何という者か」
と問うた。大臣たちは
「南のドンゴ部にこれ以上の弓を射る強者はいません。弓を射る兵ニオウェンギイェン(ᡤᠠᠪᡨᠠᡵᠠ ᠮᠠᠩᡤᠠ ᠨᡳᠣᠸᡝᠩᡤᡳᠶᡝᠨ, Gabtara Mangga Niowenggiyen, 鈕翁金)とはこの者です」
と答えた。
それを聞いたヌルハチはさっそくニオウェンギイェンに百歩以上離れた柳を射させた。ニオウェンギイェンは五回射て三回当て、二回外した。三回当てたが矢は上下に散らばって刺さっていた。
ヌルハチは自ら五本の矢を射た。五本とも的に当たり、しかも五本全てが五寸の範囲内に収まっていた。矢は深く食い込んでおり、命中した場所をえぐり取ることでようやく取り出すことができた。
それから、ダイシャンがアミン=ジェジェを連れて到着したので、酒宴を行い、アミン=ジェジェを妻とした。

その後、周辺勢力が相次いでヌルハチへと来降する。ヌルハチの勢力拡大を見て、それまで模様眺めをしていた勢力が態度を決めてヌルハチに服従したのである。
まず、スワン(ᠰᡠᠸᠠᠨ, Suwan)部の部長ソルゴ(ᠰᠣᠯᡤᠣ, Solgo, 索爾果)が部衆を率いて来帰した。ヌルハチはソルゴの子フィオンドン(ᡶᡳᠣᠩᡩᠣᠨ, Fiongdon, 費英東)を第一等の大臣に任じた。
次に、ドンゴ部の部長ケチェ=バヤン(ᡴᡝᠴᡝ ᠪᠠᠶᠠᠨ, Kece Bayan, 克轍、克徹殷富)の孫のホホリ(ᡥᠣᡥᠣᡵᡳ, Hohori, 何和里)も部衆を率いて来帰し、ヌルハチは長女ヌンジェ=ゲゲ(ᠨᡠᠨᠵᡝ ᡤᡝᡤᡝ, Nunje Gege, 嫩哲格格)を娶せ、第一等の大臣に任じた。
さらに、ヤルグ部の部長(ᡥᡡᠯᠠᡥᡡ Hūlahū フラフ, 滬拉瑚)も自らの兄弟の一族を殺して、部衆を率いて来帰した。ヌルハチはフラフの子のフルガン(ᡥᡡᡵᡤᠠᠨ, Hūrgan, 滬爾漢)を養子とし、同様に第一等の大臣に任じた。
スワン部、ドンゴ部、ヤルグ部の来帰により、ワンギヤ部を除く満洲国(建州五部、建州女真、ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡤᡠᡵᡠᠨ, Manju gurun)はほぼ統一され、ヌルハチは無視できない新興勢力として、周辺勢力から注目されるようになった。
これに伴い、ヌルハチ勢力は明朝との交易ルートの掌握に成功し、繁栄を迎えた。『満洲実録』にはその様子が次のように描かれている。
様子
満洲語
ᡨᡠᡨᡨᡠ ᡤᠣᠯᠣ ᡤᠣᠯᠣᡳ ᠠᠮᠪᠠᠰᠠ ᠪᡝ ᡝᠯᠪᡳᠮᡝ᠈ ᡩᠠᡥᠠᠪᡠᡵᡝ ᡧᡠᡵᡩᡝᠮᡝ ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠪᡝ ᡩᠠᡳᠯᠠᠮᡝ ᠸᠠᠴᡳᡥᡳᠶᠠᡵᠠ᠈ ᡨᡝᡵᡝᠴᡳ ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡤᡠᡵᡠᠨ ᡠᠯᡥᡳᠶᡝᠨ ᡳ ᡝᡨᡠᡥᡠᠨ ᡥᡡᠰᡠᠩᡤᡝ ᠣᡥᠣ᠈ ᡨᡝᡵᡝ ᡶᠣᠨᡩᡝ ᡩᠠᡳᠮᡳᠩ ᡤᡠᡵᡠᠨ ᡳ ᠸᠠᠨ ᠯᡳᡳ ᡥᠠᠨ ᡩᡝ ᠠᠨᡳᠶᠠ ᡩᠠᡵᡳ ᡝᠯᠴᡳᠨ ᡨᠠᡴᡡᡵᠠᠮᡝ ᡥᡡ ᠸᠠᠯᡳᠶᠠᠰᡠᠨ ᡩᠣᡵᠣᡳ ᠰᡠᠨᠵᠠ ᡨᠠᠩᡤᡡ ᡝᠵᡝᡥᡝᡳ ᡠᠯᡳᠨ ᠪᡝ ᡤᠠᡳᠮᡝ ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠴᡳ ᡨᡠᠴᡳᡵᡝ ᡤᡝᠩᡤᡳᠶᡝᠨ ᡨᠠᠨᠠ᠈ ᠣᡵᡥᠣᡩᠠ᠈ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ᠈ ᠪᠣᡵᠣ᠈ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ ᡳᠯᠠᠨ ᡥᠠᠴᡳᠨ ᡳ ᡩᠣᠪᡳᡥᡳ᠈ ᠰᡝᡴᡝ᠈ ᠰᡳᠯᡠᠨ᠈ ᠶᠠᡵᡤᠠ᠈ ᡨᠠᠰᡥᠠ᠈ ᠯᡝᡴᡝᡵᡥᡳ ᡥᠠᡳᠯᡠᠨ᠈ ᡠᠯᡥᡠ᠈ ᠰᠣᠯᠣᡥᡳ᠈ ᡥᠠᠴᡳᠨ ᡥᠠᠴᡳᠨ ᡳ ᡶᡠᡵᡩᡝᡥᡝ ᠪᡝ ᠪᡝᠶᡝ ᡩᡝ ᡝᡨᡠᠮᡝ᠈ ᡶᡠᡧᡠᠨ ᡧᠣ᠈ ᠴᡳᠩ ᡥᠣ᠈ ᡴᡠᠸᠠᠨ ᡩᡳᠶᠠᠨ᠈ ᠠᡳ ᠶᠠᠩ ᡩᡠᡳᠨ ᡩᡠᡴᠠ ᡩᡝ ᡥᡡᡩᠠ ᡥᡡᡩᠠᡧᠠᠮᡝ ᡠᠯᡳᠨ ᠨᠠᡩᠠᠨ ᡤᠠᡳᠮᡝ᠈ ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠪᠠᠶᠠᠨ ᠸᡝᠰᡳᡥᡠᠨ ᠣᡥᠣ᠈᠈
様子
満洲語転写
tuttu golo goloi ambasa be elbime, dahabure xurdeme gurun be dailame wacihiyara, tereci manju gurun ulhiyen i etuhun hvsungge oho, tere fonde daiming gurun i wan lii han de aniya dari elcin takvrame hv waliyasun doroi sunja tanggv ejehei ulin be gaime gurun ci tucire genggiyen tana, orhoda, sahaliyan, boro, fulgiyan ilan hacin i dobihi, seke, silun, yarga, tasha, lekerhi hailun, ulhu, solohi, hacin hacin i furdehe be beye de etume, fuxun xo, cing ho, kuwan diyan, ai yang duin duka de hvda hvdaxame ulin nadan gaime, manju gurun bayan wesihun oho,,
様子
漢語
太組遂招徠各部、環滿洲而居者皆爲削平、國勢日盛。輿明國通好、遣使往來、執五百道勅書、受年例金幤、本地所產有明珠、人參、黒狐、元狐、紅狐、貂鼠、猞狸猻、虎、豹、海獺、水獺、青鼠、黄鼠等皮、以備國用。撫順、清河、寛甸、靉腸四處關口互市交易、以通商賈。因此滿洲民殷國富。
様子
和訳
処々の大人らを招降し、周辺の従える国を従え、それから満洲国は日を追うごとに強く、盛んとなった。その時明の万暦帝に毎年使いを送り、五百通の勅書を手に入れ、国から出る光輝く東珠、人参、黒、白、赤の三種類のキツネ、テン、オオヤマネコ、ヒョウ、トラ、ラッコ、カワウソ、リス、イタチ等種々の毛皮を携えて、撫順所、清河、寛甸、靉陽の四ヶ所の関所で商いを営み、財宝を手に入れ、満洲国はさらに富み、盛んとなった。

李成梁は、明が制御できるほどの大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとしたため、ヌルハチが統一することができた。ヌルハチは先述の通り、1587年にジェチェン(ᠵᡝᠴᡝᠨ, jecen, 哲陳)部、1588年にワンギャ(ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ, wanggiya 完顔)部を完全に支配した。最後に残ったホホリもヌルハチに帰順した。こうして李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となった。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。<br>

女真の首長となったヌルハチは、明に朝貢して勅書500通を得た。この勅書を活用して馬市や市場を拡大し、富を増やし、他部族の攻略に備えた。建州女真を統一したヌルハチの次の目標は海西女真であった。海西女真も利害の対立から争いは絶えなかった。
1589年、海西女真のフルン四部(ウラ(ᡠᠯᠠ, ula、烏拉)、ホイファ(ᡥᠣᡳᡶᠠ, hoifa、輝発)、ハダ(ᡥᠠᡩᠠ, hada、哈達)、イェヘ(ᠶᡝᡥᡝ, yehe、葉赫、エホ)の一つ、イェへ(ᠶᡝᡥᡝ, yehe, 葉赫)部首長のナリンブル (ᠨᠠᡵᡳᠮᠪᡠᡵᡠ, narimburu)がフルンの盟主となった。ナリンブルは女真を統一しようとして、ヌルハチに帰順を求めた。ヌルハチはこれを無視して対立を深めた。

この時期の明は、日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていたこともあり、女真への介入は少なかった。明と日本が戦っている間に、女真の争いは頂点に達した。イェヘ部の首長のナリンブルは1593年6月、ハダ(ᡥᠠᡩᠠ, hada, 哈達)部、ウラ(ᡠᠯᠠ, ula, 烏拉)部、ホイファ(ᡥᠣᡳᡶᠠ, hoifa, 輝発)部と連合軍を結成して建州を攻めたが、待ち構えていたヌルハチに追撃されて大敗した。
同年9月、再びイェへ部の首長のナリンブルはハダ部、ウラ部、ホイファ部、ジュシェリ(ᠵᡠᡧᡝᡵᡳ, jušeri, 珠舎哩)部、ネイェン(ᠨᡝᠶᡝᠨ, neyen, 訥殷)部、シベ(ᠰᡳᠪᡝ, sibe, 席北)部、グワルチャ(ᡤᡡᠸᠠᠯᠴᠠ, gūwalca, 卦勒察)部、ノン・ホルチン()部と9部連合軍を結成し、3万の大軍を繰り出し、3方面からヌルハチを攻撃した(グレの戦い)。
9部連合軍が建州の城を攻めている間、蘇子河河(ᠰᡠᡴᠰᡠᡥᡠ ᠪᡳᡵᠠ, suksuhu bira)北岸の古埓(ᡤᡠᡵᡝ, gure)山の山影にヌルハチ軍の精鋭を置き、ヌルハチはわずか100騎で奇襲してそのまま逃げた。連合軍が後を追うと、待ち伏せていたヌルハチ軍に包囲され大敗した。また、イェヘはヘジゲ(Hejige、赫済格)城を攻めたが下せず、その後もヌルハチに敗れた。この戦いで、海西女真と建州女真の勢力が逆転する。これにより、女真の諸部族はヌルハチに従う者が多くなり、明はヌルハチに対し龍虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾され、更迭されている。

その後、黒龍江周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略にかかる。ハダ部もまたイェへと満洲国の間で板挟みの状態にあった。1599年5月、イェへ部のナリンブルはハダ部を攻撃し始めた。ハダ部の首長メンゲブル (ᠮᡝᠩᡤᡝᠪᡠᠯᡠ, menggebulu)は人質と共にヌルハチに援軍の要請を送った。ヌルハチはこれに応じてシュルガチ (ᡧᡠᡵᡤᠠᠴᡳ, šurgaci)と2000の兵を差し向けるも、急遽自ら兵を率いてハダを攻撃して支配下に置き、メンゲブルを捕虜にした。その後、メンゲブルは妾と通じたという罪で死刑になる。ヌルハチはハダの住民を全て満洲に連れ去り、ここに事実上ハダ部は滅んだ。
ハダ部は明の対女真対策の要地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して明は経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけた。そこでヌルハチは、メンゲブルの長子ウルグダイとハダの住民を元の地に帰したが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返したために、結局ハダの住民は満洲に戻されることになった。ウルグダイはその後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。

1607年、ホイファも内乱に乗じてヌルハチに制圧され、滅亡した。この前年に日本軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。
ヌルハチはウラ部の首長ブジャンタイ(ᠪᡠᠵᠠᠨᡨᠠᡳ, bujantai, 布占泰)に対し、娘を嫁がせるなど懐柔を見せるが、内心は快く思っていなかった。またブジャンタイは裏ではイェへと関係を結んでいた。1607年1月、ウラがワルカ地方のフィオ城を攻めた際、ワルカはヌルハチに助けを求め、ヌルハチはこれに応じ弟シュルガチを派遣した。1607年3月、ブジャンタイとシュルガチの軍が烏碣巌(うけつがん)で衝突した結果、シュルガチが大勝した。その後、ブジャンタイは和睦に応じた。ブジャンタイは腹いせに自分の妻でヌルハチの娘のムクシを虐待した。これに激怒したヌルハチは、1613年1月にウラを攻め滅ぼした。こうしてヌルハチはイェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れた。

ウラ部攻略で大功を挙げたシュルガチであったが、次第にヌルハチとの仲が悪化した。権力を握ったヌルハチの自分への態度が尊大になることに不満を覚えた。またヌルハチも、自分の言うことを聞かないシュルガチに対して不満を覚えるようになった。ウラ部攻略で戦い方が消極的だったと叱責し、ヌルハチはシュルガチの兵権を縮小した。さらに城を建設しようとシュルガチに兵を送るように命令するが、兵を送るどころかシュルガチは自分の城を築いた。1607年1月、シュルガチは3人の息子と密謀し、イェへ、明朝へと近づくことした。これがヌルハチに知られて、シュルガチは財産を没収された。シュルガチは深く謝り、許しを請うた。ヌルハチはそれを許し、死は免れた。

後金成立

1616年、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ、盛京(ᡥᡝᡨᡠ ᠠᠯᠠ, hetu ala、赫図阿拉)でハン(ᡥᠠᠨ, han、汗)の地位に即き、国号を満洲国(ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡤᡠᡵᡠᠨ, Manju gurun)から金(ᠠᡳ᠌ᠰᡳᠨ ᡤᡠᡵᡠᠨ, aisin gurun)、元号を天命(ᠠᠪᡴᠠᡳ ᡶᡠᠯᡳᠩᡤᠠ, abkai fulingga)とした。前後してエルデニ(ᡝᡵᡩᡝᠨᡳ, erdeni, 額爾徳尼)とガガイ(ᡬᠠᡬᠠᡳ, gagai, 噶蓋)に命じ、モンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定めた。また、八旗という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。

その2年後、ヌルハチは「七大恨」(ᠨᠠᡩᠠᠨ ᠠᠮᠪᠠ ᡴᠣᡵᠣ, nadan amba koro)と呼ばれる事実上の宣戦布告書を発表し、明に反旗を翻した。
以下、和訳内容。

一、明朝は、理由もなくわが父と祖父を殺害した。
二、明朝は、お互いに国境を越えないという女真との誓いを破った。
三、明朝は、越境者を処刑したことの報復として、使者を殺して威嚇した。
四、明朝は、われらとイェヘの婚姻を妨げ、女をモンゴルに与えた。
五、明朝は、耕した土地の収穫を認めずに、軍をもって追いやった。
六、明朝は、イェヘを信じて、われらを侮った。
七、明朝は、天の意に従わず、イェヘを助けた。

同年、ヌルハチは明の庇護を受けていたイェへ周辺の諸城を攻撃し始めた。李永芳が守る撫順城は兵1000人ほどだったが、ヌルハチは女真人を馬市に参加させて李永芳に通知した。そして李永芳はヌルハチに対する恩義から反攻する意思は全く無く、ヌルハチは楽々と清河城を落とした。このとき抵抗せずに服属した李永芳は将軍の位を与えられた。彼は清成立に大きく貢献し、今でも英雄とされる。

*サルフの戦い

後の1619年、明との最初の重要な戦いである「サルフの戦い」(ᠰᠠᡵᡥᡡ ᡩᠠᡳᠨ, Sarhū dain)が勃発した。 明は十四万の軍を率いて、全軍まとめて攻撃し後金軍の本陣であるヘトゥアラを陥落させる準備をした。四軍の指揮官は、山海関軍総帥杜松、遼東軍総帥李如白、開元軍総帥馬林、遼陽軍総帥劉鋌であった。しかし、明軍の情報が徹底偵察により後金軍に漏れていたため、後金はすでに準備をしていた。ヌルハチは兵力を集中して各個撃破する戦法を採用し、総量では圧倒的に少ない兵力で明軍を撃破し、戦争の有利不利関係を瞬く間にひっくり返し、両者の勢力対比を根本的に転換させたのである。
最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフで行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。明は兵力・装備(連合軍は火器を有し、戦力も12万と二倍だった。)では圧倒的に優っていたにも関わらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者を(後金は僅か2千人)出す大敗北を喫した。

**サルフの戦いの詳細

建州女直を統一して、1616年にハンに即位し後金を起こしたヌルハチは、1618年に明に対して「七大恨」を掲げて宣戦を布告し、遼東における明の拠点である撫順を攻撃した。その後、遼東のすべての要塞を攻撃し、撫順、東州、馬剣潭要塞、富安要塞などを落とし、東州の守護者である李洪洲を殺害し、馬剣潭要塞の守護者である李大成を捕らえた。
撫順の李永芳と衛兵500人が後金に降伏を懇願し、范文成も後金に降伏し、撫順の王命印などを説得で降伏させた。明はこれに対して、楊鎬を遼東攻略に任命し、女直討伐にあたらせた。

しかし、明軍は予算不足のため兵の結集に手間取ったので、楊鎬は兵力を補うため後金に北隣する海西女直のイェヘ部と、南隣する朝鮮にも助兵を要請した。イェヘは女直の統一を進めるヌルハチと対立していたため、これに応じた。一方の朝鮮では、国王の光海君は出兵を渋ったものの、先の文禄・慶長の役において宗主国である明に救援してもらった恩義(「再造の恩」)があったために断ることができず、都元帥の姜弘立と副元帥の金景瑞に1万の兵力を授けて鴨緑江を越えさせた。

1619年、10万の明軍は全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地ヘトゥアラ(Hetu ala、赫図阿拉、興京)を包み込むように進撃を開始した。北路は開原総兵官の馬林がイェヘの援軍とともに開原から、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流してヘトゥアラを目指す計画とした。また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総兵官の劉綎が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接ヘトゥアラに迫った。総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の瀋陽で待機し、全軍の総指揮を取った。

***起因

後金軍は遼東の全要塞を攻撃し、撫順、東州、馬剣潭要塞、富安要塞などを落とし、東州の守護者である李洪洲を殺害、馬剣潭要塞の守護者である李大成を捕らえた。
撫順の李永芳と衛兵500人が後金に降伏、范文成も後金に降伏し、王命印、王学道、唐鍵順などの戦死者もでたが後金はある程度の領域を平定した。
このため明の遼東知事李維翰は至急10,000の軍隊を増援に向かわせるようにに命じたが、後金軍の反撃によって、全員撃破された。
7月、後金軍が鴉鶻関を攻撃した後、遼東を越えて青河の砦を突破、青河の副将軍鄒儲賢、張旗、張云なども戦死し、この戦いの後、後金は30万人の捕虜、9000頭の馬、7000組の甲冑を捕らえた。
後にこれは撫清の戦いと呼ばれ、明はこれのショックを受け、後金を大きく警戒した。

***準備

遼東の防衛線が失われたことで、明が200年以上にわたって築いてきた遼東の防衛体制は崩壊の危機に直面した。そこで明は後金を一掃しようと、大規模な攻撃をすることで短期で決着を付けようとした。
1618年12月、広寧に餉司が設置され、前遼東総督の楊鎬が遼東総監に任命された。新総督の王庭周は遼東軍を視察、軍を監督することになった。また、名将・李承良の次男・李如柏を遼東の軍師長に任命し、故郷への帰郷を認められた老将・杜松や、故郷に隠居した劉彪などの将軍たちに「急ぎで峠に出、戦争の準備をせよ」と命じたのである。この時、明の遼東全体では、各城や駅の守備隊を除いて約6万人の兵士がいたが、遠征に行けるのは僅か2万人程度で、その上後金に何度も敗れていたため、軍勢は士気が著しく下がっており、少なくない人員は過度におびえるようになったという。 そこで明は、遼東方面軍を助けるために福建、江西、浙江、四川、山東、山西、陝西、甘粛、南京などの各地から兵を呼び、旅順などから船団を動員して鎮江、寬甸の兵と合流させ、朝鮮やイェヘの軍勢も呼び出し征伐に臨んだのである。
明朝は、元帥1名、将兵7名、兵員47万人を号する軍団を動員し(実際は16万人)、数・装備の面で後金を圧倒する大軍を形成した。これは当時の明朝が対外戦争に動員できる最大限度に近い規模の軍隊だった。

陸軍大臣の薛三才は軍需食糧が不足しており、既存の国庫ではこの戦争を行うには不十分であるとしたが、神宗は内部資金を使うことを拒否したため、家務大臣である李汝華の助言に従い、税を増額することになった。その後、神宗は内部資金を割り当てたが、10万元しかなかった。

***双方兵力

明軍総数は約八万八千人で、同盟国の海西女真イェヘ部からは一万人,朝鮮からは一万三千人,総数は十一万多だったが,明は四十七万と称した。
明軍兵力内訳
場所 兵力
宣府、大同、山西の三鎮 各精鋭騎兵一万,合計三万人
延綏、寧夏、甘粛、固原の四所 各精鋭騎兵六千,合計二万五千人
四川、廣東、山東、陝西、北直隸、南直隸 各五千から七千人の歩兵と騎兵,合計二万人
浙江 四千人
永順、保靖、石州各処土司兵,河東西土兵 各二千から三千人の兵,合計七千人

明の末期にはすでに名目上、各地での徴兵制は存在していたが、戦のたびに全国から軍勢が移動してくることがほとんどで、通常は九辺重鎮、四川、浙江などから主力部隊が送られてきた。

九辺重鎮の兵は騎兵が中心で、その内遼東、延綏、寧夏など蒙古とよく衝突する鎮以外、長い間平和だったため、陸軍の戦闘力は優れているとは言えなかった。
兵器としては、九辺重鎮はかなりの数“跳盪鐵騎”と呼ばれる騎兵を持っていたし、その騎兵は大量の火器を有していた。また、車営と呼ばれる部隊は砲兵、騎兵が存在し、そのうち砲兵は“大将軍炮”、“虎蹲炮”、“佛朗机炮”等、射程が長く火力も高い砲を所有していた。
また騎兵では、火銃(当時の中国の鉄砲的存在)を装備していた。
しかし、明軍は騎兵が車営のみの編成で,独立した騎兵部隊を持たなかったため,後金軍の騎兵と比べると圧倒的に機動力で劣っていた。

四川の兵は播州の役以来、西南部での戦いの経験を積み重ねてきており、歩兵は特に山地での戦いを得意としていた。浙江の兵は、日本からの侵略に戦った名将・戚継光が中心となって作られたもので、戚の軍事訓練を受けていたこともあり、実践的な訓練が多く兵士には精鋭が多かった。明軍の歩兵大隊には、ヨーロッパ諸国やオスマン帝国から導入した鉄砲や、日本から来た火縄銃が多数装備されていた。また、歩兵や騎兵には、弓箭や刀槍などの非火薬式兵器が相当数装備されていた。しかし、中・遠距離攻撃用武器に偏っていたため、近距離の物理戦闘に耐えられない編成だった。

一方後金軍の兵力は八旗で成り立っていた。
後金軍が八旗で管理されるようになった後、各旗は約七千五百人の兵士を編成し、合計の約六万人が後金の戦力だった。明の半分以下の戦力だったが、いずれも愛新覚羅家の息子や甥が率いていたため、強固な組織結束力を持っていた。緻密に組織された戦術と相まって、後金軍は30年に及ぶ女真統一の間に、豊富な戦闘経験を蓄積し、高い士気を保っていた。これは当時、非火薬兵器が主流だった世界最後の強大な軍隊の一つだった。
後金軍は騎兵の機動力も高く、火力の高いポルトガル砲なども用いることで明軍を各個撃破していった。

***双方の戦略・戦術計画

明軍は、ヘトゥアラを攻撃するために四方から進撃することにした。侵攻ルートは以下の通りである。

まず西路軍、すなわち撫順路軍は、山海税関の総仕官である杜松を総大将とし、宝鼎の総仕官である王宣、総仕官である趙夢麟、遊撃戦都司を担当していた劉遇節、元遊撃戦将校である柴国棟、王浩、張大紀、楊欽、汪海龍、撫順遊撃事都司の楊汝達、参謀総長の李希泌等からなる将校は軍の指揮官として、3万人以上の兵を沈陽から撫順まで、渾河の右岸に沿って、主力軍の支援のために西からヘトゥアラを攻撃する計画だった。

次に南路軍、すなわち清河路軍を率いていたのは、遼東の軍師長・李如柏が主導に、沈陽の副軍師・賀世賢、宜州の副軍師・張応昌、李克泰、遊撃戦の将軍・戴裕光、馮応魁、武靖の軍師長・尢世功、西平の軍師長・徐成名、李克泰、吴貢卿、元遊撃兵の于守志であった。 軍人数は、合計の2万人以上の兵士で構成され、清河から鴉鵑關を出て他の軍を支える部隊として南方からヘトゥアラを攻撃した。

北路軍、即ち開源路軍は、元開源将校馬林を主将とし、開源副将校遊撃司の麻岩、丁美、葛世鳳、右大隊の趙启禎、元参事李応選、元守備江万春、鉄嶺游擊の鄭国良、慶雲管游擊事都司竇永澄、馬燃、馬熠などが真定、保定、河北、山東などから来た二万人以上の兵士を率いた。また金台石率いるイェヘの1万人以上の兵士は、開原兵備道検事の潘宗顏を監軍とし連合軍を結成、この連合軍は靖安堡から出て、海原、鐵嶺を越え、北からヘトゥアラを攻撃するための部隊で、第二の主力だった。

東路軍、即ち寛甸路軍は、遼陽総兵官劉綎を主將とし、管寬奠游擊事都司の祖天定、南京陸営都司の姚国輔、山東管都司事の周文、元副総兵の江万化、靉陽守備の徐九思、淅兵管備禦の週翼明、管鎮江游擊事都司の喬一琦として同知、黃宗周を、また劉招孫などの役人を監軍とし、四川、湖南、湖北、浙江、福建等から一万人以上の人兵を指揮した。また彼らに合流した朝鮮軍は、姜弘立、李繼先、金景瑞、安汝訥、文希聖、金應河、李一元が指揮を執っていて、後金を惑わすための軍として由涼馬佃から出発し、東からヘトゥアラを攻撃した。

また、総兵官官秉忠、遼東部司張承基、柴国柱等を機動部隊として遼陽に駐留させ、李光栄には後方を守るために光寧に部隊を率いて駐留させた。副総兵竇の承武が駐屯し、蒙古各部を監視、管屯都司王紹勳は穀物や物資の輸送を担当した。楊鎬自身は瀋陽で司令部で指揮を執っていた。この際楊鎬は“擒奴賞格”(相手の上層部(今回はヌルハチが筆頭)を捕らえたものに賞を与える)を奏上し、黃嘉善がそれを復奏したため、明神宗は承認、公布された。
賞賛規定
該当人物 条件 賞賛内容
ヌルハチ 確保 賞金10000両を与え、都指揮使に昇格させる
八大貝勒(八大王家) 確保 賞金2000両を与え、指揮使に昇格させる
ヌルハチ 確保 李永芳、佟養性などの明の裏切り者がヌルハチを確保した場合、死刑を免除する
ヌルハチ 確保か殺害 葉赫貝勒金台石、布揚古がヌルハチを斬ることができれば、建州の勅書を与え、龍虎将軍、散階正二品を与える
ヌルハチの十二の親族か弟の甥 確保か殺害 それをした軍の中軍、前鋒、領兵の指揮官、副指揮官などはすべて重用し、世職を与える

楊鎬は後金から脱走した兵を派遣して、ヌルハチに手紙を送り、明朝は天兵四十七万人を攻略の為に集結すると脅し、出兵日を1619年2月21日にするとし、ヌルハチと後金を挑発した。
しかし明軍は集結する前から、軍の集結と出師の時期は全部後金に掌握されていたため、後金軍はとっくに準備をしていた。
ヌルハチは明朝に反逆した将軍、李永芳の上奏の“凭尔幾路来,我只一路去”という方針を承認した。
これに従い、後金軍は兵力を集中して、各個撃破に努めた。

***戦争の過程

明軍は1619年に出陣する予定だったが、明の四方調兵により、遼東軍への給与が三百万両も上昇した。このため明朝の人間は上下問わずすべてがこの役が速戦速決であり、十日以内に後金を打ち負かさねばならないとしていた。当時明には数百万の金が蓄えられていたが、当時の明王朝の貧しい財政状況にとって戦争は重荷であったため、破産の危険を冒すことを拒み、配分しなかったため、閣僚の方功哲、黄嘉山、陸軍大臣の趙興邦、その他の廷臣たちは師団への給料が欠乏することを恐れて、絶えず出兵部の紅色旗を出して、楊鎬にできるだけ早く出兵するように促した。そこで楊鎬は2月21日に出征することにしたが、大雪のために、行軍が困難だった。馬林は楊鎬に「王師(官軍)は万全を期して兵を並べ、力を合わせて前進し、罪人を捕らえ、彼らの隠れ家を砕くべきだ」と忠告した。劉綎は、地形がよく理解されていないため、雪が失われるまで行進の日付は延期されるべきであるとし、また軍の戦闘力に疑問を呈し、3万人の四川の軍を動員するよう要請したが、兵部は5000人の四川の軍の動員しか許可しなかった。杜松も朝廷の補給が足りない上、兵卒は長い間訓練していなく、各大隊はお互いについて知らず、将校の間の関係も良くなかったため、大挙して兵を動員することができなかった。しかし楊鎬はそれらの問題を全て無視し、2月25日に出陣することに決めた。白雲龍を祭旗とし、各四路の明軍は同時に遼陽教場から分道して出征した。

***薩尔滸(ᠰᠠᡵᡥᡡ, Sarhū, サルフ)の戦い

2月28日、西路軍の杜松は瀋陽を出発して撫順峠に向かい、少し休憩した。杜松は最大の報酬を獲りたがっていたため、夜になると松明を灯してまで、一日にして雪の中を百マイル以上も行進した。2月29日、渾河の岸に到着した杜松は、約15,000人の後金の兵士が明軍の進撃を阻止するために鉄背山の上に防衛陣地を築いていることを知った。
この頃、界凡の状況が切迫しており、後金の都であり喉元であるヘトゥアラの要塞を落とすことの、戦略的価値は非常に大きかった。界凡の北は渾河の東岸の吉林崖で、界凡第一の危険な場所だった。また、界凡の城南は扎喀関で、扎喀関の側の蘇子河の対岸はサルフ山だった。これらは全て後金の都ヘトゥアラから100マイルしか離れていなかった。
界凡を越えた後は見渡す限り平坦な原野が続くため、後金にとっては守りに向いた土地がない。そのため、界凡の戦略的価値は非常に高かった。そこで、杜松は大軍の兵を二か所に分けて2万人をサルフ山の攻略に、1万人は渾江を渡らせた。しかし、杜松はこの時、金軍が界凡城で防衛しているという情報だけを知っており、後金はすでに界凡の方向に軍隊を大規模に動員していたことを知らず、結果として杜松に敗残をもたらした。

3月の初めの朝、杜松は総兵の趙夢麟から兵を休息させた方がよいとの忠告を聞かずに、代わりに川を渡るように命じた。この時、輜重営は渡河困難のため、川の岸に残された。結果、杜松軍は軽装で川を渡り、大量の火砲などの重形火器を持ち込めなかった。杜松軍が渾河を渡っている最中、ヌルハチは渾河の上流で堤を壊し放水することで、川の水を一気に増させることで明軍の多数を溺死させ、兵士や馬の死傷者を出させ大勝した。残った杜松軍は川を渡った後、小要塞を壊し、14人の後金の兵士だけを捕らえた。その後杜松は残った全軍で吉林崖を攻撃した。昼過ぎ、後金軍は既に界凡城南の扎喀関に着いた。二貝勒代善は界凡に隣接する鉄背山への進軍を命じた。この時吉林の崖を攻撃した明軍も大量の後金の軍隊が続々と到着するのを見たが、自分の率いる明軍が再び川を渡ってサルフ大隊に合流するにせよ、対岸の二万の明軍を渡河させて吉林崖まで運び合流させるにせよ、必ず渡河時に後金軍に阻まれるため、杜松は戦略を変えることができず、引き続き吉林崖を攻撃していた。後金側は明軍を食い止めていたが、じわじわと後退しており、突破される危険があったため吉林崖の増援を命じた。一方明軍には火器の利があったが、完全には落とせなかった。
遂にはヌルハチも直接八旗軍の内六旗を率いて駆けつけた。四旗には、サルフ山の明軍を討てと命じ、そのままサルフ山の明軍を破った。この結果に吉林崖を攻撃していた明軍は動揺した。一旗の兵力を加え、五旗の三万七千騎兵を合わせて、絶対的な優勢兵力でサルフ近辺の明軍に攻め込んだ。
サルフ近辺を守る明軍は、敵軍はキリンハダの守備隊と合流して界凡に向かうとみていたために、まったく奇襲を受けた形になり、混乱と暗さのため火器をほとんど生かせないまま接近戦に持ち込まれた。サルフ近辺の大隊は総兵王宣、趙夢麟などの指揮によって後金兵の攻撃を力の限り防ぎ止めたが、数に押されサルフの大本営は壊滅、王宣、趙夢麟は戦死した。逃げた明軍は最後に達力阿哈に到達した時に後金軍に追い抜かれ、壊滅した。後方部隊の壊滅により界凡、吉林崖の明軍は動揺し、士気が暴落、後金軍はサルフを攻撃する兵力と吉林崖、界凡の後金軍も集結し杜松軍を攻撃した。杜松は将兵を率いて戦ったが、金軍は河畔、草林、山麓、谷地を占拠し、杜松の数倍の兵力で明軍を包囲した。夜まで戦ったため、明軍は火を付け、明るくしてから攻撃をしたが、これにより後金軍は暗い場所から攻撃ができた。この時杜松は貝勒賴慕布に射殺された。この後、牽制の2旗とギリンハダの守備隊、そしてサルフから転進してきた後金軍主力6旗の全軍による三方向からの突撃の前になすすべもなく明軍は壊滅し、柴国棟、遊撃王浩、張大紀、遊撃楊欽、汪海龍、及び管撫順遊撃事備御楊汝達も戦死した。これで名実ともに西路の大軍は全軍壊滅した。このため生き残った将校は敗残兵を率いて脱走したが、監軍の張銓被は捕虜となった。彼は降伏しないと述べたため、処刑された。

***尚間崖(ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ ᡥᠠᡩᠠ, Sanggiyan hada, シャンギャンハダ)の戦い

北路軍の馬林は2月28日に三岔児堡を出発、2月29日には西路の杜松軍が先頭に立っていることを知り、馬林は急いで進軍した。3月1日に軍勢を率いて尚間崖に着いたが、3月2日に杜松軍が敗戦したため、驚愕した馬林は、潘宗顔など諸将の提案を聞かず、馬林主営はサルフの西北30マイル余りの富勒哈山の尚間崖まで退陣し、潘宗顔などに斐芬山を軍を三つに分けて駐屯させ、戦車で囲み、塹壕を立て、守勢に転じた。また李希泌軍の援助を残された杜松の輜重隊の龔念随部にさせ、‶犄角之勢"を採り、後金兵の攻撃に耐え、葉赫(イェヘ)軍の援軍到着を期待していた。3月3日の朝、ヌルハチが杜松を破った後、後金軍は馬林軍の三倍の兵力で馬林を攻撃した。明軍は分兵立営を採っていたため、各個撃破された。ヌルハチと後金四貝勒皇太極と龔念を攻撃、そのまま潘宗顔の顔営を囲み、助けを遮断、そのため龔念と、李希泌は戦死した。残りの戦死者は張天祚、顔天佑、王弘化、丘起鳳、劉友才、於景柱、楊朝武、代運旺などがあり、全体で5000人が戦死した。ヌルハチは尚間崖の馬林を攻撃するために転進した。

しかし尚間崖にある馬林大隊は守備が厳重だったが。ヌルハチは莽古尔泰と阿敏率軍に指示し馬林大隊に突入した。馬林は副総兵の麻岩、丁碧、葛世鳳などを前陣として後金を防ぎ止め、鉄嶺遊撃事都司の鄭国良と配下の中軍、趙廷蘭、麻進忠、魏相、姚守冠、曹文烈、趙奎などを守り、馬林は後方に陣取って、命令を下した後に金軍が押し寄せ、前部明軍と接戦した。後金軍は火器への対策として、戦場で下馬した乗馬歩兵が接近して塹壕を突破し、その後に騎兵が突撃をかけるという戦法を編み出しており、この戦いでもその作戦を採ろうとした。しかし尚間崖に到着したヌルハチ率いる後金軍の本隊が、高地を占領して明軍の塹壕を上から攻撃しようとすると、明軍はこれを阻止しようと後金軍に攻撃をしかけ、後金軍が騎馬のまま突撃を敢行する乱戦となった際、魏相、姚守冠が戦死したことを知った馬林は龔念がすでに大敗したことを悟った。‶犄角之勢"による防衛はすでに失われていた。加えて、後金軍はすでに後陣に突入してきており、参将李応選、馬熬、朱邦孝、楊科、李鶴、総候補、江斉国王、陳斉などが戦死した。馬林は情勢が悪化するのを見て、親兵を率い、数千人の包囲網の薄いところをなんとか逃げ隠れして開原に逃げた。

北路軍兵は主帥が消えたのを見て、司帥の馬林はすでに戦死したと思ったため、士気の壊滅が浮き彫りになり、四方に逃げ惑い、統制が崩れ始めた。葛世鳳と右営は趙啓禎と指揮下の中軍になった。またこの時、閻有功、鄭国忠、高良玉、趙鎮、李中、朱万和、陸進忠等が戦死した。鄭国良と曹文烈、麻岩、丁碧は乱戦の中でやって来たが、戦闘中の半日の間は退役しなかった。最終的には、麻岩と鄭国良、曹文烈と配下の中軍周大盛、千総程廉、王仲賢、冷負荷裳、麻実、麻進忠、総打代、趙仲挙、頬介哈監代、李尚仁、曹秉忠、万人英、胡国弼、周大受、李天復、孫冲良、伯兔、雑流傑などが率いる全大隊は壊滅したため、丁碧は脱走して、開原に逃げ帰った。馬林が統率した軍の戦死者は増えていき、管坐営、詹国繹、杜福、王国印、李日篁、張桂、総天台、唖汗兎、猛克虎、魏思賢、庫承恩、尚民雄、王応干、単秉徳、馬灼、馬觀、楊登科、李毓薬、王懐智、劉尚胤、王忠義なども戦死した。この際、馬林と不仲な潘宗顔を司令官とする明軍の後方部隊は自陣を固めて馬林の本隊を救援しようとしなかった。

後金軍は一度攻撃した潘宗顔に奇襲を掛けに行った。潘宗顔と慶雲管の遊撃事都司竇永澄などは火銃、大砲を指揮して防ぎ止めた。火器の優勢は後金軍の多大な損害をもたらしたが、ヌルハチは尚間崖の馬林大隊を攻略した後の兵を集め、潘宗顔大隊を次々と包囲、猛烈な攻勢を続け、最後には明軍は破られ、潘宗顔も矢で討たれた。その死に様を「骨がただれていて、見るに堪えない」と江万春は言った。紅旗の元の守備郭之翰、監軍察院監督陣が劉興周を指揮したが、伊湯招聘なども最後には敵わず戦死しました。また戦死者には、管鳴宮、康民望、丁継盛などもいる。

後金軍は多くの死傷者を出したが、ついに攻略し、明の北路軍は全軍壊滅した。また、葉赫(イェヘ)部の首領の金台吉、布揚古は中固城に進軍していたが、明軍の大敗を聞いて諦め、撤兵した。ヌルハチは軍を回収してヘトゥアラを安定させ、そして勝利を大々的に祝った。

***阿布達里、富察(ᠠᠪᡩᠠᡵᡳ ᠵᠠᡳ ᡶᡠᠴᠠ, Abdari jai fuca, アブダリ、フチャ)の戦い

東路軍は総兵の劉綖と朝鮮の元帥姜弘立などの統帥者が一万三千人を率い、東にある寛甸堡からヘトゥアラに攻め込んだ。劉綖が東側に派遣されたのは、万暦援朝(朝鮮出兵)の際のことで楊鎬が恨みを持っていたからで、楊鎬が楊鎬のために工夫を凝らして手配された兵員は砲兵や火器を大して持たないため四軍の中では最弱だった。そして、二人の側近を手配して劉綖を監視し、劉綖を死地に送り込もうとした。もし劉綖が駐留をしたら、即時に兵権を奪い、楊鎬が自ら軍を指揮するつもりだった。そのため劉綖軍が孤軍で突っ込んだせいで、西路の杜松軍と北路の馬林軍がすでに敗退したという知らせは伝わらなかった。その上東路軍は陽動攻撃が目的だったため、西路明軍、北路明軍に先んじて2月25日に出撃しなければならなかった。

劉綖軍は出発した後まず驚馬佃を横切った。この時大木が道を塞いで道が通りにくくなっていた上、東路軍の兵士の多くは南方出身で、遼東の厳しい気候に適応できず、軍が孤立状態で食料の供給が間に合わなかったため、東路軍はゆっくりとしか進軍できなかった。二月二十八日に牛毛寨、馬家寨を攻略し,榛子頭に到着したが、そこで食料が尽きた。3月1日まで待ち、軍用食糧が輸送されてから40マイルほど董鄂路に進軍、明軍を撃退した後金軍の騎兵と戦闘が発生した。劉綖軍は後金軍を破り、300マイルほど深く入り込んだ。その後大雪が上がり晴れたが、未だに渡河予定の川は寒く、3月1日になってようやく川を渡り、後金軍の托宝大営と激戦を繰り広げた。東路軍は強力で火器を持たずとも託宝大営を壊滅させた。この時後金は2千人余りの死傷者を出した。3月3日には、劉綖軍はすでにヘトゥアラから僅か70マイルまで迫り、阿布達里岡を越えヘトゥアラに攻撃しようとしていた。

この情報を得たヌルハチは降伏した漢人を杜松軍卒に扮装し派遣して、劉綖孤軍をおびき寄せようとした。この結果、劉綖は杜松の功績独占を恐れて前方を一気に前進させた。阿布達里岡一帯の地形は重畳した険しい山岳地帯に囲まれていたため、劉綖は兵士と馬を一列で前進させた。3月4日の明け方、ヌルハチは大貝勒代善、三貝勒莽古尔泰、四貝勒皇太極と4万人余りの大軍を率いて迅速に東路に向かい、敵を迎撃した。ヌルハチは二万人の大軍を率いてヘトゥアラを守り、南路の李如柏軍の攻撃を防いだ。3月5日に、皇太極は阿布達里岡の頂上を占領し上から下へ攻撃し、代善は明軍の片翼を攻撃した。劉綖は敗れたために瓦尔喀什の前まで退却した時、西路杜松軍を偽った後金軍に遭った。増援が到着したと勘違いしたため、明軍は不意を突かれ、兵士は混乱した。劉綖はさらに瓦尔喀什の広野まで逃れたが、金軍は三方向から攻撃して劉綖軍を包囲、劉綖と義理の息子である劉肇順はそこで戦死した。

阿布達里の戦闘があったとき、朝鮮軍と明の劉綎軍後方部隊は兵糧不足で劉綎の主力より遅れ、阿布達里の南の富察という地点に留まっていた。後金軍は劉綖の後方部隊と朝鮮軍を攻撃しようとした。鎮江遊撃事都司の喬一崎、海蓋兵備副使康応干率いる明軍と朝鮮軍を率いる主帥姜弘立は富察の野原に軍隊の駐留を命じた。しかし、後金の大貝勒代善が数万の騎兵を率いて富察の野原で喬一崎を打ち負かし、敗れた喬義基は軍勢の残党を連れて朝鮮軍に逃げ込んだ。後金軍が朝鮮軍への攻撃に転じた後、朝鮮軍の姜弘立は鳥銃(日本式鉄砲)と長槍で前面に防御線を展開してこれを迎え撃ったが、大風が吹いたことによって火器の発した煙が巻き上がり、それに朝鮮軍が視界を奪われた隙をついて後金軍の騎兵が接近、突撃して前衛を突き破った。左翼副将・金応河は戦死し、右翼副将・李一元は敗北した。3月5日、朝鮮の元帥の政府左参事官姜弘立、総大将の副元帥で平安道節度使の金景瑞、中軍官の虞侯汝訥は後退して国境を分担し守ったが、文希聖、中将軍で元任節度使の李継先は敗戦し、投降した。明の将軍・喬一崎も遺書を残して崖に投死した。東路の明軍は全軍壊滅した。後金は朝鮮軍に対しては降伏を勧告し、観念した姜弘立は朝鮮軍の残兵を率いてヌルハチに投降した。これをもって東南路軍は全軍消滅した。

***李如柏の逃亡

南路軍の総兵李如柏は二万人余りを率いて南からヘトゥアラに攻撃するために出師したが、李如柏は晩年付近には死を恐れて少しも戦意がなかったため、南路軍の進軍は遅かった。この時西路の杜松軍、北路の馬林軍は相次いで敗戦したことを知った李如柏は大いに驚いたが、3月4日、副参将の賀世賢は進軍して急速に劉の方向に進軍し、東路の劉綖軍を救おうとした。李如柏は採用しなかったが、結局東路の劉綖軍は全軍壊滅した。3月6日、楊鎬が、南路の李如柏軍に帰還命令を下した。李如柏は命令を受けて、急いで軍を帰還させる最中、盛んに略奪していたが後金軍に奇襲され、千人余りの死者が出た。李如柏は清河に逃げたが、朝廷の言官から弾劾されたため、処刑を恐れて自殺した。また、楊鎬は投獄され、1629年に処刑された。

***結果

この戦いは遼東での明軍と後金の勢力を決定づける戦いであり、明軍は戦力で圧倒的優位に立っていたが、軍勢が分散していたため連絡が取りづらい上、将軍と司令官の不仲、将軍の不適切な採用、師団の漏洩、上に反抗的な将軍、迅速な戦闘が急務であったことと相まって、各個撃破された明軍は戦略的優位から戦術的不利へと変化し、部隊が一本化する前に四方全部隊が圧倒的な敗北を喫してしまった。この戦いは遼東の主導権を変え、その後王化貞は失われた土地を取り戻そうとしたが敗北し、後金は徐々に守勢から攻勢へと変化していった。明はついに遼東の領土の大部分を失い、山海関以外の部分の土地は寧遠、錦州、杏山、塔山などの関寧錦防線と後日毛文龍が率いる東江軍が回収した鴨緑江口一帯の領土だけしか維持できなかった。明朝は全国から兵を集め、1年近く兵を動員したが、5日足らずでサルフの戦いでヌルハチに完敗しただけだった。損害では、45,800人以上の死傷者、310人の軍の役人の死傷者、馬、ラバ、ラクダやその他の動物の損失以上28,000、銃器や銃器の損失以上20,000個が失われた。これで明の国力が大きく損なわれ、財政も悪化し、これ以上大規模な戦争をする余裕は消えた。

また、後金が新たに支配した地域は漢民族の社会であり、ヌルハチは漢民族の武臣や商人に遊撃と都司の職を与えて行政を任せた。税制では、銀で納税する明の一条鞭法に代わり、満洲族の習慣である現物納税を命じた。役人の監視のもとで市場を開き、満洲族が漢民族を圧迫しないように公定価格を定めて、八旗の兵士には物資の購入用に銀を持たせて強奪を防ごうとした。工業面では陶工などの職人を奨励し、武器職人を集団化して製品を買い取った。満洲族は遼東への移住を始め、後金は漢民族の土地を没収して満洲族に渡し、満洲族は八旗として与えられた土地(旗地)を運営した。漢民族には満洲語の習得を義務づけて満洲族とともに居住させたため、満洲族と漢民族の間でトラブルも起き、後金政府はときに漢民族の弾圧も行った。

満洲族は明全土を征服するには少なすぎたが、モンゴル族を取り込んで蒙古八旗を創設した。さらに満洲族は捕えたり投降した漢民族兵を取り込むために漢軍八旗を創設して、満洲族による本来の八旗は満洲八旗と呼んだ。漢民族(nikan)旗は黒色の旗を用い、ヌルハチは八旗以外の漢民族兵にも守られていた。1618年から1631年まで満洲族は漢民族亡命者を積極的に受け入れ、その子孫は漢軍八旗となり、戦死者は追悼された。

**開鉄の戦い

開鉄の戦いは、サルフの戦いの後、後金が勝ちに乗じて戦果を拡大し、東北重鎮開原、鉄嶺(ᡨᡳᠶᡝᠯᡳᠶᡝᠨ ᡩᠠᠪᠠᡤᠠᠨ, tiyeliyen dabagan)などを攻略した戦である。明に忠実だった葉赫部は孤立無援の状態に陥り、一ヶ月後には後金に攻められ、併合された。

**戦前の様子

サルフの戦いの戦後、後金によって壊滅しなかった明軍の馬林と李如柏は開原と瀋陽からそれぞれ退避した。また後金の首領であるヌルハチの姪を娶った。李如柏はヌルハチの親戚で、後金が開原、鉄嶺を攻める時に協力、後金の勝利のための功労を立てた。
開原は宋金時代には黄龍府が置かれていたが、元朝に咸平府が設けられ、咸平県になった。明の時代には遼東軍の重鎮となり、地理的な位置が極めて重要であったため、全遼東の中枢となった。西は蒙古各部と接し、北には後金、葉赫部と隣接、南には遼沈が存在したため、万一喪失した際は、遼陽、瀋陽、鉄嶺は危険な状況に陥る。そのため、後金にとっても開原の攻略は必須であり、サルフの戦いを勝ち取り戦場の主導権を得た後、開原を第一に攻略する目標とした。

***戦争の経過

1619年7月20日、ヌルハチは四万の大軍を率いて、開原へ向かった。3日後、大雨が続き、ぬかるんだために大軍が移動しにくくなった。明に察知されることを心配して、百人を瀋陽に駐屯させた。2日後、開原は雨が止み、道が元に戻ったため、7月26日に開原城の下に到着した。
葉赫部は後金の大挙攻撃の情報を知り、使者を開原に派遣して手紙で伝えたが、開原の備道の鄭之範は信じなかった。この前、羅萬言は高額を払って馬を大量に買い、応援に行ったが、鄭之範は職務を果たさず草を送らなかったために一日で二百頭以上の馬を餓死させた。将兵たちは仕方なく城を出て放牧したが、後金はちょうど攻撃に来た。明は馬を回収できず、効果的に抵抗することができなかった。鄭之範は総兵の馬林と共に戦ったが、鄭之範は情勢が悪いと見て、城を捨てて逃げ、官印すら無くした。武将の馬林は死戦を戦い、部下と共に前線に立ち遊撃官の葛世鳳、任国忠、遼海衛の兪承胤、李為梁、歴中寛などを指揮し、全員が国に殉じた。葉赫部は2000人を派遣して開原を救おうとしたが、開原が陥落するのがあまりにも速く、成功しなかった。
この時捕虜の将校4人と城外守堡官1人が後金に降伏したが、後金はこれらの気節のない裏切り者を信用していなかった。一人は後年東江総兵毛文龍に反間計で処刑された。

***蒙金同盟

開原はもともと東蒙古各部と後金の関係を遮っていて、蒙古各部も表面上明朝に臣従していた。しかし、後金が開原を占領した後ヌルハチは最初に喀尔喀(ᠬᠠᠯᠬ᠎ᠠ,Xalxa)各部に書簡を送り、同盟の誓いを立てた。喀尔喀蒙古弘吉拉部(ᠬᠣᠩᠭᠢᠷᠠᠳ ᠠᠶᠢᠮᠠᠭ, Khongirad)の首領である宰賽は本部の兵馬を率いて、扎魯特部(ᠵᠠᠷᠤᠳ,Jaruud)と科尔沁部(ᠬᠤᠷᠴᠢᠨ,Khorchin)の連合軍と慶雲堡に侵入し、鉄嶺で後金と合流した。

***鉄嶺陥落

1619年9月3日、後金軍は鉄嶺を攻撃し始めた。明軍は猛抵抗したが、後金の扇動が引き起こした内部からの開城によって、ついに陥落した。参将丁碧以下、将兵の殉国者が多数でた。千総盧孔は鉄の棒を持ち、数十人の後金軍を殺してから死んだ。鉄嶺が包囲された時、瀋陽総兵李如柏と虎皮の総兵賀世賢に助けを求めた。李如柏は近くにいたが、黙殺した。賀世賢は離れていたが、急いで助けに行った。しかし途中で後金を援助する東蒙古各部連合軍に出会いました。

======内輪揉め======
鉄嶺攻略後、蒙古連合軍の宰賽は後金が取得した鉄嶺の財物を奪うため、攻撃を行った。後金軍は最初に一定の損失を受けたが、ヌルハチはすぐさま大貝勒代善らと反撃、蒙古連合軍は大敗した。遼河まで追撃され、溺死者が多数沸き、宰賽は捕虜になった。

***戦争の影響

開原、鉄嶺の二つの戦略要地の陥落によって、明は後金のストッパーである葉赫部との連絡を失い、葉赫部は孤立無援の下で迅速に後金に攻められ、後金は女真各部の統一を完成した。戦後、後金は宰賽を捕虜にしたため、これを利用し脅迫して後金と同盟させた。しかし全蒙古の主、林丹汗氏(ᠯᠢᠭᠳᠡᠨ ᠬᠠᠭᠠᠨ,Ligden khaan)は喀尔喀五部の首領、粆花が明を裏切ったと叱責した。粆花は後悔し、また明朝に肩入れした。怒ったヌルハチは最終手段として、後金は武力で喀尔喀を征服し、蒙古を併合した。そして明朝連蒙制の計画を失敗させた。

***遼東を巡る戦い

サルフの戦いの後の1619年6月、楊鎬に代わって遼東経略に就いたのは熊廷弼であった。その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により、遼東における後金の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、鉄嶺は既に落ちており、蒙古も後金を恐れて明に就こうとしなかった。治安も悪く、農民も離村して社会混乱を起こした。そこで熊廷弼はあえて守勢に回り、軍備を整え、軍律を厳守して18万人の兵で守りを固め、朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制した。この方針により農民は耕作を再開したが、中央政府の目からは消極策に映り、熊廷弼は更迭された。
この時期は後金も、戦後処理での戦功の配分や朝鮮との通商停止、モンゴルの中立化など様々な国内問題を抱えており、1620年まで積極的な戦争を仕掛けられなかった。
熊廷弼の後任には袁応泰が就いた。袁応泰は消極的と批判された熊廷弼を反面教師として、撫順と清河を奪い返す計画を立てた。しかしそれに先んじて1621年の春、ヌルハチは明朝の皇位交代による抗争が激しく、遼東の大飢饉などによる守備の軟化などの要素を鑑みて遼沈の戦いを始めた。2月、ヌルハチは前後して遼東重鎮瀋陽周辺の奉集堡、虎皮駅、王大人屯などの地を攻撃した。攻撃場所が定まらず、明軍はその真意を推測しにくくなっていた。3月10日、ヌルハチは突然兵を率いて瀋陽城に現れた。
明は瀋陽方面で連敗し、遼陽では後金を抑えるための障壁を失った。これに加えて連戦連敗したため将兵を失い、遼陽城の守備軍は万に満たなかった。そのため、瀋陽を攻略するたため、二路の援軍を殲滅した後、わずか五日後の3月18日、ヌルハチは遼東の首府遼陽を攻撃した。しかし、遼陽城は堅牢で、外郭は堀に沿って火器、環城に沿ってまた重砲があった。また水を城の堀に注入して、城の防衛を配置し、防御を強化していた。翌日、後金軍は遼陽を包囲した。袁応泰は侯世禄、李秉誠、梁仲善、姜弼、鍾万良の五総兵を率いて城を出て結陣した。
ヌルハチは城の攻略が困難なことを知っていて、挑発を繰り返して城の守将の賀世賢を誘い出し、待ち伏せ攻撃に遭わせた後、賀世賢は戦いながら退却したが、西門に辿り着いた時には後金軍に攻略されかけていた。賀世賢は指令を繰り回し、全力を尽くして防ぐ中、尤世功は西門を出て救おうとしたが、戦死した。また、賀世賢に不満を持っていた蒙古人が後金軍に内応して中から城を開けたため、すぐに陥落した。ヌルハチは賀世賢、尤世功余部を追いながら城を攻めるよう命じた。
この時、袁応泰は陳策に瀋陽へ援軍に行くよう命じたが、陳策が駆けつけた時には既に城は落ちていた。
陳策は引き返そうとしたが部下に止められ、勝ち目がないとわかりつつ進軍した。迎えたヌルハチは追撃して明軍をほとんど戦死させた。
3月8日、袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固めた。城が堅いと認識したヌルハチは、山海関に兵を進めるよう見せかけた。袁応泰はヌルハチの計略を見抜けず、5万の兵を出して野戦で交戦してしまい敗北した。また東の入水口を土濠で塞ぎ、排水口を開こうとした。すると明兵が出てきて両軍が激突した。橋を奪取した後金軍は、後金軍は梯子をかけて城に侵入した。もはやここまでと袁応泰は自害した。
城を得たその日のうちに、後金は遼陽に居を構えた。明、朝鮮、蒙古に近く、建築資材を川に流せば資源に欠かさず、山に獣、川に魚が多く食料も欠くことがないとしたためであった。1625年に正式に遷都を決定し、重臣たちの反対を押さえてこれを決行した。瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチであったが、この2つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残した。一方で、瀋陽と遼陽を失った明政府には大きな動揺が起こり、以前は遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任が強く推されるようになった。

1621年5月、朝廷に召還された熊廷弼は「三方布置策」という遼陽奪還策を提言した。三方布置策とは、
三方布置策
広寧には騎馬・歩兵部隊を置いて守りを固める。
天津と山東半島の登州・莱州に水軍を設け、隙をついて遼東半島を攻撃する。
遼東経路は山海関を本営として全般の指揮を執る。

そうすれば後金は本拠地が気になり兵力が分散され、その間隙を縫って遼陽を回復するという作戦であった。また朝鮮とも連携を取ることを進言した。皇帝天啓帝はこれを採用し、熊廷弼を経略に起用した。しかし、熊廷弼は遼東巡撫の王化貞と意見が衝突することが多く、また王化貞が兵を自由に動かせる権限を持っていたため統一した戦いができなかった。加えて王化貞は軍事知識に乏しく、大言壮語して後金を侮っていた。その上、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も、王化貞配下の毛文龍が後金から鎮江を奪還してしまったことで崩れた。

**鎮江の戦い

1621年に後金政権が遼陽、瀋陽、南四衛などの広大な土地を占領し、明軍は重鎮広寧から遼西に敗退した。明は王化貞を遼東巡撫に任じ事態を挽回するため、兵士を募集して後金の攻略へ向かわせた。毛文龍は197人を率い、7月9日に出発、敵に深く入り込んだ。8月20日、広鹿島を占領し、胡可賓を捕えた。さらに、石城島を攻略した。店島、大、小長山島、獐(麞)子島などでも任光先、何国用など10人余りを捕らえ、3人を切り落とした。千人余の民衆を宥めた後、鎮江城下に迫った。
後金は鎮江の鎮守を明軍の降将、陳良策を中軍(副官)として、また司令官として佟養(ᡨᡠᠩ ᠶᠠᠩ, tung yang)に任せていた。(後金の外戚勛(勲)貴、ヌルハチの元妃の佟佳氏佟佳氏(ᡨᡠᠩᡤᡳᠶᠠ ᡥᠠᠯᠠ, Tunggiya hala)の親族)。毛文龍は陳良策と配下将校の丁文礼との過去の交友関係を聞いて、丁文礼を派遣してひそかに内応するように唆した。ちょうどこの時、黄嘴堡、双山一帯の漢族の民衆が後金支配に反抗し蜂起が発生した。

***戦争の経過

1621年9月4日夜、毛文龍は先に酒を197人と痛飲し、激励した。また、鎮江を回復すると宣言し、守備のはずの張元祇も率先して城に登った。陳良策と弟の陳良漢なども内応し、後金を攻撃した。佟養真は不意を突かれた状態だったが防備し、自ら敵を迎撃した。その子佟豊年、甥の子佟恒年は親兵数十人を率いて頑強に二更の時まで抵抗したが、縛られた。この戦いの後、全遼東は歓喜の渦に包まれ、寛奠、湯駅、険山、靉陽などの城下の民は相次いで毛文龍率いる兵においしい食べ物と飲み物をささげ、次から次へと明軍を歓迎した。

***意味

「鎮江大捷」は明の対後金戦での初勝利で、局面を逆転させ、全国の人々を鼓舞した。この戦いのもう一つの結果は、明軍が遼東に新たな軍事的存在である東江鎮の誕生をもたらしたことであり、明末清代の初めに歴史の流れに影響を与えた多くの輝かしい人物がここに生まれた。

**広寧

1622年1月18日、ヌルハチは十ヶ月ぐらいの準備を経て、軍を率いて広寧に向かった。20日後、後金軍は遼河を渡り、西平堡に迫った。副総兵の羅一貴は三千人の守備軍を率いてヌルハチ六万の大軍の囲いを防いだ。後金軍は城を包囲したが羅一貴は引き続き援軍を固守し、後金軍はなかなか攻められず、死傷者は数千人に達した。明の諸鎮は最初は自保していましたが、熊廷弼は王化貞を激し、王化貞は総兵に劉渠を命じ、鎮武の兵と総兵祁秉忠の兵に救援に赴かせた。しかし、孫得功はとっくに後金に寝返っていた。援軍の兵士たちが後金と交戦している最中、孫たちは先に出戦し、わざと後金兵と接触した瞬間即座に退却、明軍の大乱を引き起こし、劉渠、祁秉忠、副総兵の麻承宗などは皆戦死した。また援軍が大敗したせいで、西平堡は孤立無援に陥った。結局、羅一貴は李永芳の勧降要請を拒絶した後、自殺した。後に金軍が西平堡を攻略した後、さらに鎮武、間陽を貫徹し、広寧周辺を落としたが、簡単に広寧に攻撃する勇気はなかった。西平堡で敗れた孫得功が広寧に戻った後、後金軍が来たというデマが広がり、城内は混乱した。王化貞は驚き、孫得功に広寧城を鎮守させました。しかし孫得功は広寧城を制圧した後、王化貞を捕まえてヌルハチに献上したかったが、江朝棟に参加されてしまい一足先に王化貞が広寧城から脱出した。23日、王化貞が逃げた後、孫得功はヌルハチを広寧に入れた。後金はついに広寧を占領した。続いて義州、錦州、大凌河などが陥落させた。熊廷弼、王化貞は明軍の残部と数十万の流民を率いて山海関に退却した。
ヌルハチは遼沈を占領した後、後金は広大な土地を獲得、屯田制を実行して、「計丁授田令」を公布した。

**後金の失速とヌルハチの死

明朝は四年間の間撫、清、開、鉄、沈、遼、広、義などの都市を連続で失い「伝首九辺」で王化貞は投獄されて処刑された。明は王在晋で経略を継承した後、帝師、大学士兼兵部尚書の孫承宗を起用した。孫承宗は馬世龍、袁崇煥、満桂、祖天寿、趙率教などの善戦の将を起用し、また袁崇煥の提案を受けて関寧錦防線を建設し、山海関を防衛、後金からの攻勢を防ぎ、戦況は落ち着いた。しかし1625年10月に牽制を受けて、孫承宗は官職を放棄した。後継者の高第守遼の策は孫承宗と違って、彼は関寧錦防線を山海関内に撤収し、関外四百里の地を放棄、関所のみを守ることとした為に、関外兵民は撤退した。ただ、寧前道、鎮守寧遠の袁崇煥は山海関の撤収を強硬に拒否し、城と共に存亡すると表明した。寧遠はついに孤立した。しかし袁の指揮下には2万名が留まった。

1626年にヌルハチは明が撤退したとの知らせを受け、寧遠に前進することを決定した。寧遠攻略のため、ヌルハチ自らが10万から13万の兵を率いた。当初ヌルハチは寧遠の防衛者を簡単に降伏させる為の説得を企図し、20万の軍勢であることを誇る手紙を送ったが、袁は信じず、約13万人でしかないだろうと言い返した。更に袁は配下の将満桂、左輔、祖大寿、朱梅、何可綱ら将士を集め、死守の誓いを立てた。この時「必死則生、幸生則死」(死を必すれば則ち生き、生を幸えば則ち死す。という古代の格言を引用した。
袁は清野作戦を行い、家など寧遠外の物を全て焼き尽くすよう命じ、後金軍が何も使えないようにした。紅夷大砲が城壁沿いに据え付けられ、福建省出身の狙撃手が割り振られた。硝石の列が工兵を防ぐ為に城壁の基礎に置かれた。戦闘の前日袁は自ら防衛状況を点検する為に壁沿いに歩き、公然と残った兵士と血盟をすることで後金への挑戦を表明した。袁はこの時山海関に見付けた脱走兵は処刑するとの命令を送り、従って都市の戦意は大いに盛り上がった。
袁崇煥の名声を聞いたヌルハチは、降伏勧告をして高位につかせると約束したが、袁崇煥ははねつけた。明軍はわずか2万人ながら、遼人をもって遼を守る防衛策で農民を登用・総動員し、袁崇煥は援軍が来ると言い続けて士気を鼓舞した。

***戦いの流れ

後金軍が到着し寧遠の周辺に宿営したが、発砲する明軍の大砲の射程距離を見誤り、退却を余儀なくされた。
戦闘は最も脆いとみなした寧遠の南西角に対する攻撃をヌルハチが直率することで始まった。明の大砲が火を噴き、後金の騎兵隊に大量の死傷者を齎した。
後金軍は防御を強化した攻城兵器を弓兵による火力支援下で用いて別の角を攻め、守備に当たる明軍を誘引し重騎兵でその側面を突くことを目論んだ。しかし通常の砲撃に加えて防御部隊は有毒の爆弾によって後金軍の進撃を阻み、攻城車は楼や城壁からそれぞれが撃たれる結果に終わった。一部は城壁に取り付こうとしたが、事前に明が設置しておいた硝石の列が燃え出し、寧遠周辺に火炎の防御柵が巡らされることになった。続いて袁は「消耗」分隊を送り出し、残りの攻城兵器を処理した。そうしている内に後金は寧遠の別の角を攻撃していたが、燃える油と焼夷性の攻撃で撃退された。火薬と油が布地でくるまれたものが投下されていた。後金軍はその夜撤退した。
包囲がうまくいかないのを見てヌルハチは寧遠の主要な穀倉地帯である覚華島を攻撃するモンゴル騎兵部隊を派遣した。覚華島の防衛は、後金は舟がなく水兵が貧弱なために覚華島に侵攻できないと信じ込んでいたため、緩いものであった。しかしこの年覚華島周辺の海水は凍結し、後金軍は騎兵隊と共に渡ることができた。攻撃で数千人が死に穀倉が破壊されたが、覚華島は結局当面明の勢力下に保たれた。
攻撃失敗の数日後、寧遠は依然として陥落せず、それどころか後金軍に多大な損失を与えていた。ヌルハチ自身が砲撃で負傷し、盛京(瀋陽)への撤退を決めた。
明軍の徹底抗戦に後金軍は散々に討ち減らされ、退却した。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ、ヌルハチは覚華島を攻撃し、食料と軍船2千を焼いた。

***余波

269個の首が袁崇煥の部隊に取られ、勝利の証として北京に送られた。袁は右僉都御史に昇進した。袁は失地を取り戻すために主要都市の要塞化を進行させ、寧遠の北にある錦州の防備を構築した。天啓帝は袁の建設事業を支援する4万の部隊を派遣した。
ヌルハチは8か月後に瀋陽で死去した。8男で序列第4位の貝勒であるホンタイジが、新たな大汗となった。父と同様にホンタイジもまた、1年後に寧錦の戦いで敗れた。寧遠奪取に失敗したことが一時的に後金の進撃を停滞させたが、後金は渤海沿岸と李氏朝鮮の征服で明への圧力を増した。
しかし全体として女真は袁崇煥の死後でさえ寧遠守備隊の防御を破れなかった。

***朝鮮との最初の戦乱

李氏朝鮮は1619年のサルフの戦いで1万人の援軍を明に送ったが、朝鮮の将軍であった姜弘立は後金のヌルハチに降伏した。姜弘立は、「朝鮮は後金に対して戦う意志はなく、明の要請によって援軍を送ったのだ」と弁明し、ヌルハチもヌルハチの子であったダイシャンも朝鮮への侵攻には興味を持っていなかったので、後金はヌルハチの死まで朝鮮へ侵攻することはなかった。

ところが、朝鮮で1623年に西人派のクーデターが起こり、それまで明と後金の両者に対し中立的な外交政策をとっていた光海君が廃位され、仁祖が即位した。西人派は後金との交易を停止するなど反後金親明的な政策を取り、後金をひどくいらだたせるようになる。また明の遊撃部隊の指揮官であった毛文龍が、朝鮮半島において後金に対しゲリラ的な戦闘を行うようになった。

最初の後金による侵攻のきっかけは、1624年の仁祖に対する李适の反乱による。李适は前年のクーデターの首謀者の一人であったが、その論功行賞に不満を持ち、平安道で反乱を起こした。この反乱はすぐ沈器遠に鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者の一部に韓明璉の子の韓潤と従子の韓澤がおり、ホンタイジに朝鮮を攻めるよう進言し、これが大義名分となった。

**ホルチンとの同盟

1626年、蒙古のホルチンはヌルハチと同盟を結び、ハルカ族とチャハール族からの保護のためにヌルハチの支配を容認した。1625年には7人のホルチン族の貴族がハルカ族とチャハル族の手によって死亡した。これが後金とホルチンの同盟関係を加速した。また1626年にはヌルハチが亡くなり、後継者を会議でホンタイジとした。

*ホンタイジの即位

ホンタイジ(皇太極)は11歳の時に生母の葉赫那拉を亡くした。以後、マングルタイ、デゲレの生母の富察に面倒を見てもらった。マングルタイはヌルハチの五男だったためスンジャチ・アゲ(sunjaci age、五阿哥)と呼んで敬意を示した。幼少の頃から文武に励み、騎射に熟達し、経典を諳んじ、何事も兄より優れていた。父に従い若い頃から戦場を駆け巡り、烏拉攻略では6つの城を落とすことに成功している。1615年に正白旗の旗主に取り立てられ、1616年には四大貝勒となり、後金の最高指導者の一人となった。
ヌルハチの後継者として長男チュイェンと次男のダイシャンの2人は外され、その後ヌルハチは正式な後継者を決めなかった。ヌルハチが死亡すると、ダイシャンの品性をホンタイジは批判した。ダイシャンの息子のヨトやサハリャンも積極的にホンタイジに協力し、結果的にダイシャンが折れてホンタイジが後継者となった。ヨトとサハリャンの2人は、ダイシャンの後継者の候補から外されていた。<br>
また、ホンタイジは公の場では西藏仏教を贔屓していたが、内心は蒙古人の仏教信仰を軽蔑し、蒙古人のアイデンティティを破壊するものと考えていた。ホンタイジのように満州人自身は西藏仏教を個人的には信じておらず、改宗を希望する者はほとんどいなかった。ホンタイジは何人かの西藏仏教のラマを「無頼者」とか「嘘つき」とかと表現していたが、それでも西藏人と蒙古人の信仰を利用するために仏教を贔屓にしていた。

**蒙古遠征

西ではモンゴルのチャハル部も明と同盟を結び、後金に敵対するようになった。1627年、リンダン・ハーンがカルカ部に侵入し、ナイマン部、アオハン部はホンタイジに助けを求めた、またカラチン部、オルドス部、アバイ部、アスド部など諸部が手を結び、リンダン・ハーンと戦った。勝利はしたものの報復を恐れた諸部は、ホンタイジに救援を求め、ホンタイジは満蒙の連合の盟主となった。1628年、自ら兵を率いたホンタイジはトラド部の軍勢を破った。この年の秋、カラチン部、ナイマン部、アオハン部などの諸部と連携してシルガ、シベトゥ、タントゥなどに進軍し、大興安嶺まで勢力が達したが、それから数年間にらみ合いが続いたが、ホンタイジは1631年にリンダン・ハーンに勝利した。しかし1632年3月にリンダンが明に投降したことを知るとホンタイジは激怒し、ドルゴン、アジゲ、ドドを連れてジョーオダ(昭烏達)に着き、モンゴル諸部の兵と合流して総兵力は10万となった。しかしリンダンは捕まらず、6月に瀋陽に帰還する。その途上、ホンタイジはリンダン・ハーンが死去したことを知る。リンダン・ハーンの妻子がいることを知ったホンタイジは、次に妻子を捉えようと再び兵を進める。ドルゴン、ヨト、サハリャン、ホーゲはそれぞれ万騎を従え、1か月捜索を続けた。
後金は、明と同盟を結んでいた蒙古人のリンダン・ハーンの残軍勢を撃破し、明の蒙古の支配に終止符を打った。
1634年のリンデン・ハーンの軍勢の敗北は、リンダン・ハーンを通して明に支配されてきた南方蒙古各部を開放し、リンダン・ハーンの脅威から救ったことで彼らの忠誠を得ただけでなく、清に膨大な馬の供給をもたらした。
しかし逃亡生活に疲れた王妃とリンダンの息子エジェイは、元の玉璽「制誥之宝」と護法尊マハーカーラ像をホンタイジに献上して帰順を願った。この帰順を喜んだホンタイジはリンダン・ハーンの罪を許し、エジェイを外藩親王に封じた。また、大ハーンを継承し蒙古諸部皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲(manju)に改めた。この玉璽は蒙古ハーンのシンボルであり、ホンタイジは東アジアの支配権を建前でも得た。これで明の「西遼」をもって「東夷」を制するは挫折した。また1635年、貂皮などの産物を朝貢する黒龍江下流地域の部族に兵を派遣する。

**ヌルハチの後継者

しかしホンタイジがヌルハチの後を継いだ時、朝鮮で政変が起き、明と後金の双方との外交関係を維持する中立外交政策を採っていた光海君が廃され、朝鮮は後金に叛いて親明政策を取るようになり、明の武将なども積極的に登用するようになった。後金は明と断交しているために、当然朝貢が出来なくなっていたが、朝貢の利益は後金にとって非常に重要で、それまでは朝鮮を抜け道として間接的に明と通商していた。しかし朝鮮が叛いたことによってこの道が絶たれ、後金の国内には出荷することのできない人参や貂の毛皮などが山積みになった。この状況を打開するため、1627年1月に宿敵であった袁崇煥と和議の交渉をした。交渉は上手くいかず頓挫するが、明には朝鮮を援助する力がなく、ホンタイジは1627年に従兄のアミンに3万の大軍を預けて朝鮮へ遠征させた。

***本格的な朝鮮との戦争

同年1627年、ホンタイジはアミン、ジルガラン、アジゲ、ヨト、ショトらの率いる3万の軍勢を、蒙古遠征中ながらも姜弘立ら朝鮮人の同行の下に朝鮮へ派遣した。朝鮮軍は後金軍に対して何の備えもしておらず、文禄・慶長の役による被害からも立ち直っていなかった。後金軍は朝鮮領内に侵攻し、その途上で毛文龍の軍も破ったが、毛文龍を捕らえることは出来なかった。後金軍が漢城に到達すると、仁祖は江華島に逃亡した。

朝鮮の仁祖は17日になってやっと後金侵攻の上奏文を得たが、この時金兵はすでに安州を包囲していて、そのまま安州は陥落した。仁祖は張晩を都体察使に任命し、金起宗が随行して北方前線に赴き、畿甸の軍を海西に派遣して支援し、残りの部隊は李時白が都漢陽を守るように命じた。また、李曙は南漢山城を守り、申景禛は臨津を守り、金は自ら江都を守り、戸曹の雑物と版籍を全部江都に持ち込むことで、敗戦したときそこに撤退するつもりだった。また金完走は海西別勝軍千七百名を派遣して支援に行かせた。仁祖は平壌の防衛強化を命じた。朝鮮の仁祖は開始時に戦局に対して悲観的な態度を持ち、兵力を南漢の山城、京の漢陽及び江華島一帯に重点的に守ると主張した。この時朝鮮は北方の戦報を収めることができず、後金がもう南下しないと思っていた。申欽の提案で、仁祖は安州の軍隊を支援して臨津江一帯を守ることにした。

21日、後金は凌漢山城、定州、郭山などを撃破した。大将定州牧使金拾、郭山郡守朴惟健は捕虜になった。
平安兵使南以興は戦況を報告した後、朴蘭英に遺書を残し、そこには戦争を終わらせたいと書いた。仁祖が壬辰倭乱の時の老将、李元翼を派遣して南方の人心を抑えに行った。22日、阿敏に投降した朝鮮人が後金の書を持ってきて、和平交渉を求めた。仁祖は張晩に書を拒否するよう命じ、明にも援軍を求めた。

24日、後金兵は鄭梅の案内で青泉江を渡り平壌に着いたが、平壌軍は戦わずに降伏した。また黄州、平州の兵器は不足し、仁祖は申景瑗を派遣して黄州、平州を救援させた。後金兵は粛川城の下に着き、城中の守備軍は敗れたが、将校四十人余りは中和に逃げた。仁祖は忠清、全羅両水軍を急遽北上させて増援を命じた。

25日、城を守る平安兵が南以興率いる諸将を中軍大隊に集め、火薬を燃やして自滅させ、明の援軍都司王三桂も戦死した。同日、後金も騎兵は直進し、大同江を渡って中和に迫った。黄州兵は丁好容率いる千人余りを連れ城を捨てて往蒜山に逃げた。士気を安定させるため、仁祖は尹軟を斬首したが、黄州兵には丁好を許すよう命じた。阿敏は平壌を後金の中軍の本拠地とし、黄州に先鋒を送った。朝鮮の援軍の将校である申景瑗の軍は夜中に逃げ、平山は防備力のない城となった。後金兵が王京の漢陽に迫ってくると、朝鮮全体が動乱する恐れがあり、仁祖は何度も使節して和睦を求めましたが、全て後金に見放された。仁祖は金尚容を残して漢陽を守るように告げ、自分は戎装南巡の名義で露梁に逃げただけでなく、その後も陽川、金浦、通津に沿って江華島に逃げた。平山、開城が後金兵に落とされたことを知った仁祖は、都民を江華島に避難させることにした。また南方で新たに徴集された三道精兵に江華島を防衛させ、李曙に兵器を江華島に送らせた。

こうした状況で、ホンタイジと諸貝勒は明朝と蒙古諸部が機会に乗じて後金を襲撃することを心配し、阿敏に朝鮮と講和するように命じました。そこで阿敏は平山に駐屯して、使節を送り朝鮮に仮和平交渉案を提出しました。1月29日、後金は講和使節を江華島に送った。朝鮮の多くの大臣は後金との講和を嫌っていたが、仁祖は衆議を排して、自ら使者を接見した。権璡も中和に行き、阿敏は中和にいた金兵を平壌に帰還させた。

2月2日、阿敏は再び使節を江華島に派遣し、正式に朝鮮に要求書を提出した。その内容は、

大金国の二王子は,朝鮮王の要請に答える。両国は講和し,和平を宣言する。貴国は明朝に仕えず,同盟の付き合いを絶てば, 我国を兄とし,貴国を弟とする。もしこれで明朝に脅されても,近くに我国があるのに,何を恐れる必要がある?我等両国は,永遠に兄弟として平和を共有することを誓う。議論が終わったら貴国との裁定において、国事大臣を務めさせて、即決する。

だった。

5日、仁祖は姜絪を派遣して阿敏軍に和平文書を送った。しかし、後金の使者が帰ってこなかったため、朝鮮は講和したくないのではないかと疑っていた。7日には、阿敏の使節が江華島に行き、引き続き天啓(明の年号)を使用していることや、朝鮮が引き続き派兵するのかを問い詰めた。その間、双方は約1ヶ月ずっと膠着していた。

2月24日、仁祖の弟の李玖は馬百匹、虎豹の皮百枚、絹織物四百個、布万五千人を後金の軍中に奉納して、交渉したいと伝えた。2月28日、後金の使者は劉興祚などを連れ、江華島に向かった。3月3日、仁祖と劉興祚は江華島で誓文を読み上げて、正式に講和した。

朝鮮側の誓文は、

朝鮮国王は、今をもって卯年の月に、大金国と誓う。我等両国はすでに講和を結んだ。今後はそれぞれ約束を守り、国境を保つ。今後、細かいことや、道理に合わないことで争ってはいけない。もし我が国が、大金国との講和を背き、兵を挙げるならば、天からの災いを招くだろう。また、大金国が悪心を抱き、講和を背き、兵を挙げても、天からの災いを招くだろう。両国の君主は,それぞれ約束を守り,平和を分かち合う。天、土、岳などの神々は、この誓いを見ているのだ。
朝鮮の三国老、六尚書某、大金国八大臣の南木太、大児漢、何世兔、孤山太、托不害、且二革、康都裏、薄二計は誓う。今後、大金との間に、もしくは大金の大臣が悪心を持っていれば血を流し死ぬ、ということで合意した。二国の大臣は,すべて平等で,少しも不当に扱わない。共にこの酒をのみ、この肉を食べれば、天からの祝福を受け、全ての福を得るだろう。

後金側の誓文は、

朝鮮王、大金国の二王子と誓う。両国は共にもう既に仲がよいと言っているが、これから更に心を一つにする。今後朝鮮が大金国と戦うために兵馬を整理して、城を新築し、悪心を抱くならば、また、二王子も悪心を持つならば、天は災いを齎すだろう。しかし両国の王が、心を一つにして正義に基づき行動するなら、天の加護によって、全ての幸福を得ることができるだろう。

以下の文は、江華島で合意された講和内容である。

後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約であること。

朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。

朝鮮は朝鮮の王子の代わりに、王族の李玖(イグ)を人質として差し出すこと。

後金と朝鮮は、今後互いの領土を侵害しないこと。

この交渉中、ホンタイジがアミンに和議の署名をするよう命じる前に、アミンの軍は平壌で数日間略奪を行っている。この和議は後金にとって有利な内容であり、侵攻開始から4ヶ月で後金軍は瀋陽に撤退した。

***戦後

戦後の交渉は双方の国で進められた。後金は明との長期の戦闘によって経済的に疲弊しており、朝鮮に対して国境付近の義州と会寧に市場を開くことを要求した。朝鮮はワルカ部の野人女直を後金に返還した。

このように、後金は朝鮮に対して一方的に自国が有利になるような要求を押しつけたので、両者の関係は良いものにはならなかった。丁卯胡乱は、朝鮮にとって9年後の丙子胡乱ほど壊滅的なものではなかったが、「文禄・慶長の役で支援をしてくれた明を無下にするような和議を後金と結んだことは裏切り行為である」という非難の声が、当時の儒学者や儒教派の政治家から挙がった。

こうした感情は、1636年にホンタイジが皇帝に即位したことを認めるように要求してきた際に噴出する。この時、反後金派で占められていた朝鮮の政権はこの要求を断り、それによって同年の丙子胡乱を引き起こすことになる。

**再敗と強化

ホンタイジは、明へ再び征服を開始した。1627年2月、彼の軍は凍った鴨緑江を渡った。1628年には明への侵攻を試みたが、父ヌルハチが敗れた袁世凱に再び敗れた。この敗北は、明が新たに獲得したポルトガル砲によるものであった。その後5年間、ホンタイジは明の大砲の強さを脅威とし、軍費を特に大砲の訓練に費やした。
ホンタイジは後金の武器を改良した。彼はポルトガル砲の優位性に気付き、購入して軍隊に投入した。明の方がまだ大砲を多く持っていたが、ホンタイジは質も入れれば同等の大砲とアジア最強の騎兵を持っていた。またこの時、ホンタイジは何度か明北部への軽度な攻撃を行ったが(最初は承徳峠を通過し、1632年と1634年には山西省への襲撃を行った)、敗北した。

**大凌河城の戦い

ホンタイジは1631年8月錦州の前線基地の大凌河城を攻めた。それまでは梯子をかけて斬り込む作戦を取っていたが、この戦いでは兵糧攻めを採用した。明軍は完全に身動きが取れなくなり、敵将袁崇煥の部下の祖大寿が10月に清に投降した。この時、ホンタイジは祖大寿を抱擁して籠城の苦労をいたわった。ホンタイジは祖大寿に錦州城の攻め方を聞くと「自分が投降したことを隠して錦州城に行き、後金軍が攻めてきたときに城内で呼応する」と提案した。ホンタイジはそれを信じ、祖大寿とその弟祖大楽を錦州城に行かせた。実はこれは策略であり、ホンタイジを欺くものであった。ちょうどその頃、毛文龍の副将だった孔有徳、耿仲明は大凌河城救援を朝廷から命じられた。彼らは毛文龍を敬愛しており、毛文龍を処刑した明に叛旗を翻した。しかし明が察知して逆に撃退され、2人は逃亡した。1633年5月、船数百隻と共に2人は清に投降した。ホンタイジはこの知らせに大いに喜び、彼らに接見した時に抱擁して迎えた。また1633年10月、毛文龍の副将の尚可喜も帰順した。この3人は大砲、軍船を持参しており、後金軍の作戦に大いに役に立った。この3将は朝鮮や、入関戦争でも活躍し、後に王号を授けられて、漢三王と呼ばれることになる。しかし敵将袁崇煥の知るところとなり、敗退した。

**北京攻略

ホンタイジは北京攻略をはかり、モンゴルの協力を得て承徳方面から万里の長城を越えた。袁崇煥は救援のために北京に急行したが、崇禎帝は彼が後金に通じていると疑い、袁崇煥を死罪にした。袁崇煥が疑われたのはホンタイジの計略によるもので、名将の死亡は明の滅亡を早める結果となる。明の有能な司令官は、のちにほとんどが後金の忠実な従者となった。

1621年に少数民族の彝族が四川で反乱を起こし、明は1629年に鎮圧した。1618年に満洲族対策として重税が課せられ、民衆の間では腐敗した官僚、郷紳、軍隊に対する不満が高まった。明末には白蓮教をはじめとして新興宗教が相次いで創設され、この世の終末を告げる末劫説や救世主出現を告げる説が流行した。1622年には、白蓮教徒だった徐鴻儒が聞香教と呼ばれる教団を指導して、中興福烈帝を名乗って反乱を起こした。徐鴻儒は山東省の運河沿いを拠点に活動し、首領は多くがあだ名を持ち、一丈青、黒旋風、混江龍など『水滸伝』の登場人物名を使う者もいた。反乱軍は子供にいたるまで一人として投降せず、徐鴻儒は捕らえられて鎮圧された。

1627年と28年に中国西北部の陝西省で干害が起き、飢餓に襲われた農民は反乱を起こした。1628年7月の王嘉胤が起こした反乱が陝西各地に拡大し、李自成や張献忠らも反乱に加わった。給与の支払いが滞っていた兵士や駅卒も反乱に加わり、1630年代には大規模な反乱が山西省、河南省、湖広行省、安徽省、四川省へと拡大した。
1631年には孔有徳と耿仲明による呉橋兵変が起こった。兵士たちは、補給物資と賃金が不足していたために明に対して反乱を起こした。彼らはその後、渤海を渡って後金に帰順し、広鹿島からは尚可喜が帰順した。孔有徳や尚可喜の軍はホンタイジが欲していた西洋式の大砲を装備しており、ホンタイジは孔有徳に恭順王、耿仲明に懐順王、尚可喜に平南王の称号を与えて皇族として待遇した。

**清の建国

始めホンタイジが望んでいたのは、明との取引であった。明が後金の経済に有益な支援と資金を提供してくれるならば、後金は国境を攻撃しないだけでなく、明より一つ下の従属国となるとしていたが、明の宮廷関係者は北宋の金との戦争の前の取引を思い出し、明はこれを拒否した。ホンタイジは「あなたの明の皇帝は宋の子孫ではないし、我々は金の後継者でもない。それはまた別の時だった。(なお、満洲実録には本来ならば国名が金なのだから「金」と表記するべきなのに(公式文書なのだから現代の通称としての後金とは考えにくい)しっかりと「後金(amaga aisin gurun)」と書かれていることから金を意識していたのは明らかである。)」としたように、ホンタイジは明の征服に前向きではなかった。しかし范文成、馬国珠、寧万和をはじめとする漢民族の官吏は、皇帝であることを宣言し明の領地を奪取するよう助言した。ホンタイジは明が要請を拒否したことや、助言を受け入れて、1636年5月14日に国号を金(ᠠᡳ᠌ᠰᡳᠨ ᡤᡠᡵᡠᠨ, aisin gurun)から大清(ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ ᡤᡠᡵᡠᠨ, daicing gurun)に変更し、儒教式の式典で皇帝に即位した。ホンタイジはモンゴルで大元伝国の玉璽を手に入れており、満洲族のハーンのみならず、モンゴル族や漢民族を含む三民族の君主となった。

ホンタイジは漢民族の社会的地位や生活水準を改善した。奴隷となっていた漢民族の一部を解放し、漢民族の学術官吏を新規雇用する科挙を行い、法律には明の制度を採用した。行政組織も明を参考にして設立され、中央官庁の各部の長官(承政)以下のポストには満洲族・モンゴル族・漢民族それぞれに民族別の定員を定めた。漢民族の官吏が統治する漢民族軍事自治区を形成して、満洲族の不法侵入を禁じた。明の司令官の降伏を歓迎し、並んで食事をするなど明の皇帝であれば不可能な関係を構築した。これに対してアミン率いる満洲族は、乾安と永平の人々を虐殺し、ホンタイジに不満を表明した。ホンタイジはアミンを収監することで応え、アミンは獄死した。
のちにホンタイジが明の投降者である洪承畴を寛大に扱った時には、満洲族の軍人から不満が上がった。ホンタイジは軍人たちに「道ゆく人にたとえれば、君らはみな盲人のようなものだ、いま道案内を得たのだから、どうして喜ばずにおられよう」と言ったとされる。ホンタイジはこのように説明して、漢民族の手助けが必要であることを認めさせた。

以後、後金は清として中華統一を成し遂げた。

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