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カルタゴ

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カルタゴ
𐤒𐤓𐤕𐤟𐤇𐤃𐤔𐤕


←814B.C.-146B.C.↓


地図
*1
公用語 ポエニ語(フェニキア語北アフリカ方言)
宗教 バアル・シャメムを最高神とする多神教
首都 カルタゴ
時代区分 古代
変遷
建国 814B.C.
アレリアの海戦 535B.C.
ヒメラの戦い 480B.C.
フィリノス条約? 306B.C
第一次ポエニ戦争 264B.C.-241B.C.
エブロ条約 226B.C.
第二次ポエニ戦争 219B.C.-201B.C
第三次ポエニ戦争 149B.C.-146B.C.

カルタゴ(古希:Καρχηδών 羅:Carthāgo,Karthāgō 剌: قرطاج)は現代のチュニジアを中心とした地域に位置したフェニキア系の都市国家。ティルスの植民都市として建設され主に西地中海を中心とする貿易により栄えた。

名前

フェニキア語の𐤒𐤓𐤕𐤟𐤇𐤃𐤔𐤕(Qart-ḥadašt)に由来する。
Qart=都市、ḥadaš=新しいという意味。Qartが女性名詞のため形容詞末尾にtがつく。なおカルタゴ・ノウァ(カルタヘナ)もカルタゴ人には同名で呼ばれていた。キプロス島南東のフェニキア人植民都市キティオンもかつてはカルト・ハダシュトと呼ばれていたという説もある。
古典ギリシア語名Καρχηδώνは「カルケドン」と音写できるがカルケドン公会議などで知られる小アジアのカルケドン(現在のカドゥキョイ)はΧαλκηδώνであり綴りが違うので注意。

歴史


建国と拡大


シチリアのティマイオスによるとカルタゴは前814年に建国されたという。しかしシラクサのフィリストスはトロイア戦争の少し前(前12世紀)、エフェソスのメナンドロスは前825-820年としている。

伝承によると、建国者はエリッサ(ディードー)とされる。ティルス王ムットンの後継者としてエリッサの兄弟ピュグマリオン(在位:前820-前774)が選ばれ、エリッサ自身はメルカルト(ヘラクレス)の神官である叔父アケルバス(アエネイスではシュカエウス)と結婚した。しかしピュグマリオンはアケルバスの財宝に嫉妬して彼を殺害してしまう。そこでエリッサはピュグマリオンを憎むものと共にティルスを脱出した。
最初にエリッサ一行はキプロスへ上陸した。キプロスのユピテル(ゼウス)、あるいはユーノー(ヘーラー)の神官は同行を申し出、神官の協力のもと約80人のキプロスの娘をティルスから脱出した人々の妻として連れ去った。
ティマイオスによるとその後多くの試練ののちアフリカへ上陸した。ここからエリッサはアフリカの現地の人々に「さすらう者」という意味の言葉であるディードーと呼ばれるようになったという。
現地人との交渉で、エリッサは牛の皮一枚分の土地を求めた。現地人が快諾すると、フェニキア人は皮を細く切って長い紐を作り、岬の先にあった丘全体を囲んでしまった。
そこでこの丘はギリシャ語で「皮」という意味の「ビュルサ」と名付けられたとされているが、実際はフェニキア語で本拠という意味のbozraが訛ったものと考えられている。現代はサン=ルイの丘と呼ばれている。
そこへ商売のために商品を持参して住みはじめる人々が出始めた。先に入植していたフェニキア系都市であるウティカの使者が都市を建設するように勧め、現地人も歓迎した。
こうしてカルタゴが建設され、また租借地のような扱いとなり地代が設定された。
都市の基礎のため地面を掘ると、牛の頭が出てきた。これは豊かになるが労多く、隷属することの前兆とされたので場所を移した。すると馬の頭が掘り出され、これは国民が好戦的で協力になる証とされた。そこでその場所に都市を建設することとし、その後も馬はカルタゴにとって重要なシンボルであり続けた。
ある日先住民のマクシタニー族の王であるヒアルバスはカルタゴの有力者10人を呼び出しエリッサとの結婚を求め、拒絶すれば戦争を仕掛けると脅した。
10人はまずエリッサに対し、ヒアルバスは「文明的な生活を教える者を求めているが、野蛮な暮らしをする人々の元へ行くことを望む人があろうか」と話した。エリッサは命さえ捧げるべき祖国のために厳しい生活をすることをも拒むのか、と叱った。10人は真相を話し、エリッサ自身がヒアルバスの元へと行くように追い詰めた。
エリッサは亡き夫の名前を泣きながら長い間呼び続けたあと「自分はカルタゴと自分の運命が呼ぶところへ行く」と言った。
エリッサは3か月かけて薪の山を築かせ、アケルバスを鎮めるかのように犠牲獣を捧げた。最後にエリッサは剣と共に薪の山に登り、「あなたたちが望むように私は夫のもとへ行く」と言いながら自害した。
この伝説について、カルタゴはティルスの植民市ではあるが正規のものではなくむしろ亡命者の街として描写されていること、それにもかかわらずメルカルト神官の妻であるエリッサは宗教的にはピュグマリオンよりも正統であり不正から逃れて信仰を護持するために新天地へ逃れたこと、それ故にヒアルバスを受け入れずに死ぬことが信仰護持のために必要であったということが読み取れると指摘されている。

なお、ウェルギリウスは『アエネイス』の中で以下のようにエリッサの伝承を利用している。
カルタゴはユーノー(ヘーラー、タニトと同一視された)が最も慈しんでいた土地であった。ユーノーは運命が許すならばカルタゴを世界の首都としようと考えていた。しかしトロイアの末裔がカルタゴを滅ぼし、世界の王となるという予言があった。トロイアの末裔であるアイネイアスはラティウム(イタリア中央西部)の地でトロイアを再興する使命を負っていた。パリスの審判、またトロイア戦争の恨みもつのりユーノーはアイネイアス一行の航海を妨げた。ユーノーの嵐にアイネイアスは巻き込まれたが、無事にカルタゴにたどり着いた。アイネイアスはエリッサに迎えられ、贈り物をされる。
アイネイアスの母ウェヌス(アフロディーテ)はクピードー(エロース)の力を使い、エリッサにアイネイアスへの恋心を抱かせ、自身に有利に働かせようとした。
一方ユーノーはアイネイアスがイタリアへ行くのを妨害するためにはカルタゴに留まらせた方が好都合とし、好意を装いながらウェヌスに相談する。ウェヌスは見抜きつつも応じ、アイネイアスとエリッサは結ばれた。しかし噂の神により2人の結婚はエリッサに求婚していたヒアルバスにも知られる。イアルバスはユーピテル(ゼウス)に訴え、ゼウスはそれに応じてメルクリウス(ヘルメス)にアイネイアスに早くイタリアへ出発するように伝えさせる。アイネイアスの出航準備を知りエリッサは嘆くも、使命のためとしてアイネイアスは出航する。エリッサはアイネイアスを怨み、呪いの儀式と称して妹アンナに準備させた薪の山の上でかつてアイネイアスに贈られた剣に伏して自害する。
「漂流してきた者が女性に助けの手を差し伸べられる」という『アエネイス』のこの箇所は『オデュッセイア』のオデュッセウスとナウシカアを強く意識したものである。また古代の文学には、アポロニオス・ロディオスによるメデイアとイアソン、カトゥルスのアリアドネとテセウスなど「異国から来た美丈夫に恋する未婚の女性」というモチーフが存在し、多くは不幸な結末を迎える。ディドは未婚ではなく前述の通り未亡人であるが、このモチーフが使用されている。

考古学的にはカルタゴの墓域のうち最古のものと考えられているユーノーの丘が使用され始めたのが前730~720年代であり、建国もその時期だろうとされている。また後述のトフェト最古層、タニトⅠと呼ばれる層が前700年頃のもので、こちらも前8世紀後半の建国とする証拠とされる。
しかし一般的には前814年が建国の年と見做されることが多い。

前7世紀以降、アッシリア(1365B.C.~625B.C.)や新バビロニア(626B.C.~536B.C.)の攻撃で母市ティルスが衰退する一方で本土から自立、前6世紀までに交易圏を築いていった。この交易圏は従来のフェニキア植民市とは違い、カルタゴを中心とする軍事的性格を帯びた垂直的ネットワークによる繋がりという性質が指摘されている。
フェニキア一般の文化に代わりカルタゴ特有の文化が西地中海に広まっていったのもこの時期である。一方でカルタゴからの植民者はサルディニア先住民族によるヌラーゲ文化とは共存していたとも言われている。

ギリシアとの対立

前6世紀からはギリシア人が西地中海に本格的に進出していた。ヘロドトスはポカイア人がイベリアのタルセッソスの王に移住を勧められたとする話を残している。ギリシアとはイベリアの鉱山を巡り対立しており、上記のカルタゴ交易圏はこのギリシア人に対抗するものだという説がスペインのオーベットにより提唱されている。
前612年にアッシリアが崩壊するとイベリアの鉱物の販路は混乱し、また新バビロニアのネブカドネザルによる13年間のティルス包囲、そして陥落などにより本土が不安定な状態に置かれた。結果西方のフェニキア植民市は衰退し、フェニキア人ネットワークに空白が生じた。その隙にポカイア人をはじめとするギリシア人はイベリアに進出を試みた。ティルスとある程度政治的距離があり、またティルス包囲や陥落から逃れてきた人々を抱え人口が急増したカルタゴはこれらの植民市に援助を行い、またカルタゴが築いた植民市に増加した人口を送り出していくことで海上覇権を築いていった。フェニキア文化の衰退とカルタゴの植民の本格化までには空白期間があり、前6世紀の危機、あるいは前6世紀の途絶と呼ばれる。

前600年頃ポカイア人がマッサリア(マルセイユ)を建設したときカルタゴは阻止を試み、敗れたと考えられている。後にバレアレス諸島のイビサに拠点をおきポカイア人のイベリア南部進出に備えた。前6世紀後半に先住民からガデスを守り、以後南スペインを勢力下に置いたとされる。
シチリアも対立の舞台となった。ユスティヌスによると、紀元前6世紀半ばにシチリアで長期間戦勝を重ねたカルタゴは、サルディニアに戦場が移ると大敗し軍隊の大半を失ったとしている。

マルクスのクーデター

シチリア西部をおさえ、アフリカ人との戦争でも貢献したマルクスと呼ばれる人物はサルディニアで敗軍の将となり、責任を問われ生き残りの兵とともに追放された(マルクスという名は個人名ではなく𐤌𐤋𐤊"mlk"、セム語で王を表すものとする見方もある)。兵士たちはカルタゴに使者を立てたが帰国を許されなかっため、マルクスは船でカルタゴの補給路を断ち、軍事クーデターを試みた。その後マルクスはカルタゴを占領したが王権を目指したとの罪に問われ処刑された。なおカルタゴにおいて僭主制への試みはマルクスのもの、前4世紀のハンノによるものボミルカルによるものの3回であると言われているが成功例はない。

マゴ王朝

前550~530年頃、マゴという人物がカルタゴの事実上の指導者となった。さらにその地位は少なくとも3代以上にわたりマゴ一族に占められたと考えられており、実際に王であったかはともかく研究者によりマゴ王朝と呼ばれている。
前550年頃マゴは市民の召集兵に代わり外国人傭兵を採用し、また市民兵は職業軍人とする兵制改革を行った。さらに軍指揮権は毎年交代するものではなく延長されるものとなった。
マゴの時代にカルタゴはエトルリアと深い関係にあった。アレリアの海戦でカルタゴ・エトルリア連合軍はポカイア人に実質的に勝利している。
マゴ王朝期にサルディニア、コルシカは確保され、イベリア南部からポカイア人を撤退させ、西地中海はカルタゴの海となった。
またカルタゴとローマの最初の条約は前509年、ローマが共和制となった年に締結された。

ヒメラの戦いとその後の変化

ディオドロスによると、アケメネス朝のクセルクセスはペルシア軍のギリシア攻撃と同時にカルタゴは南イタリアとシチリアのギリシア人を攻撃すると約束させたという。カルタゴとアケメネス朝に明確な連携があったかは疑問視されているが、アケメネス朝の動きにカルタゴが便乗した可能性がある。
シチリアではシュラクサイ(シラクサ)の僭主ゲロンによる体制が成立していた。カルタゴはシュラクサイの旧支配層と協力関係にあり、そこを通じて東方への道を確保していたため、指導者ハミルカルはゲロン政権の転覆を狙っていた。
またカルタゴはヒメラ市を介してレギオン(レッジョ・ディ・カラブリア)と協力していた。しかしアクラガス(アグリジェント)のテロンによりヒメラの僭主テリロスが追放された。レギオンとの協力がなくなるとメッシーナ海峡を失う。これらを理由に前480年、カルタゴはハミルカル自らが軍を率いてシチリア遠征を行ったがヒメラの戦いで敗れ、ハミルカルは死亡した。西地中海におけるカルタゴとギリシアの力のバランスはこの戦いで変化した。ヘロドトスによるとヒメラの戦いとサラミスの海戦は同日に行われた。なおヒメラの戦いで死亡した兵士と思われる成人男性の遺体を含む1万基以上の規模の集団墓地が2008年に発見されている。ここでは他に新生児の遺体やアンフォラ、哺乳瓶なども出土している。

市民が主体となった重装歩兵の集団戦法をとるギリシアに対しフェニキア・エトルリア勢力は後退していき、カルタゴとエトルリアの関係も絶たれることとなった。またギリシアへの対抗のため、重装歩兵となる中堅農民の土地経営の場である田園地帯を持ち、市民による軍を編成する必要に迫られた。これらの理由でヒメラの敗北のあと、カルタゴはアフリカ本土に目を向けた。ユスティヌスによると、カルタゴはマウリー人(モロッコ)、ヌミディア人(アルジェリア)、アフリカ人(チュニジア、リビア)と戦争をした。カルタゴは先住民に土地を借りているとして土地代を払う必要があったが、アフリカ人はそれを免除せざるを得なくなった。アフリカの大所領の発展が始まるのもこの時期であり、カルタゴの貴族層のなかで土地所有に基づくものが成立していった。

ハンノの航海

*2
航海者ハンノによるアフリカ西岸の航海は、エジプトのネコ2世によるフェニキア人のアフリカ周航と同時期の前6世紀であったという説も存在するが、前5世紀のヒメラ敗戦後にカルタゴ人がアフリカ大陸を勢力圏として調査しようとした意味もあるのではないかという指摘もある。また同時期にヒミルコが鉛を求めブリテン島まで航海したとも言われている。
ハンノが航海記を「クロノスの神殿」(バアル・ハモンの神殿?)に奉納したもののギリシア語訳が現在まで残っている。ハンノがどこまで到達したかには議論があるが、現在のカメルーン付近まで航海したとされている。以下は楠田(1995)によるハンノの航海記の試訳である。
1.ハンノがヘラクレスの柱を越えて航海し,リビュフェニキア人のために都市を建設するように,カルタゴ人に命じられた。それで,60艘の50擢船を率いて,食糧や他の物資だけでなく,三万人ほどに及ぶ男女を連れて,航海に出発した。
2.そして私たちは外洋に乗り出し,ヘラクレスの柱を回り,丸二日間そこを越えて航海し,テュミアテリオンと呼ばれる最初の都市を建設した。その足下には大きな平原が広がっていた。
3.こののち私たちは西方に航海し,木々が繁茂したリビュアの岬ソロエイスに到着した。
4.ここで,ポセイドン神殿を建立したのち,私たちは再び上船し,半日間東方に航海した。そして私たちは背の高い葦が繁茂し,海からさほど遠くない潟湖にまで到達した。その潟湖には象や数多くの野獣が生息していた。
5.丸一日その潟湖に沿って航海し,海岸線にカリコン・テイコス,グュッテ,アクラ,メリッタ,アランビュスと名づけた植民市に入植者を残した。
6.私たちはその地からさらに航海したのち,リクソス と呼ばれる大きな河[の河口]に到着した。その河はリビュア [の内陸部]から流れ出していた。そこに居住していた遊牧民はリキシテ人と呼ばれ,羊の群れを放牧していた。私たちは彼らのもとで暫くの間滞在し,友人になった。
7. この遊牧民の住んでいる地域の内陸部には,友好的ではないエティオピア人が住んでおり,そこは野獣で一杯の地域で高い山々が横切っており,彼らが言うにはそこからリクソス河が流れ出している。その山々の周りには,『 風貌の異なった』トログロデュテ人が住んでおり,リキシテ人が言うには,彼らは馬よりも速く走ることができる。
8.リキシテ人の中から通訳を雇い入れて,私たちは丸二日荒涼とした海岸線を南方に航海した。 その後丸一日東方に航海した。そして私たちは周囲が5スタディオン(ほぼ1キロメートル)ほどの小さな島を湾の中に発見した。そこに私たちは植民者を残し,ケルネと名づけた。私たちの航海記録から見積もることができるように,この島はカルタゴとは[地図の上で?]反対側に位置しているはずだった。カルタゴからヘラクレスの柱まで航海した日数はヘラクレスの柱からケルネまでのそれと同じ[距離]であったからである。
9.この地点から,[リキシテ人が]クレテスと呼ぶ大きな河を通過して潟湖にやって来た。この潟湖はケルネよりも大きな三つの島々を含んでいた。その潟湖の端まで丸一日航海して,私たちは大きな山々に圧倒され, 野獣の皮革を着ていた野蛮人がいる地域に到着した。彼らは投石して私たちの上陸を妨げた。
10.そこを出航して,私たちは河馬や鰐が一杯の別の大きく広い河に到着した。そこから方向転換して,ケルネに帰還した。
11.そこを起点にして,のちに私たち12日間南方に航海した。 その海岸線に沿ってエティオピア人が居住しており,私たちの前から逃げ出し,姿すら現わすのをためらっていた。彼らが話している言葉は,私たちと一緒にいたリキシテ人でさえも理解できなかった 。
12.最期の日[12日目?]に,私たちは高く奮蒼とした山々のもとに投錨した。その樹木は芳香で,多くの異なった種類があった 。
13.私たちはこれらの山々を周航して,二日間航海し,低地が両側に広がっている広大な外洋に到着した。そこから, 私たちはその低地から私たちは夜に火が等間隔で至る所に燃え上がっているのを見た。それは時には低く,時には高く燃え上がっていた。
14.ここで水に身をつけて,私たちは大きな湾に到着 するまで,海岸沿いに五日間航海した。 それが西の岬と呼ばれていることを通訳が私たちに告げた。この湾には大きな島があり,そこに塩湖があった。この湖には別の島があり,私たちはそこに上陸した。そこでは昼間森林以外に何も見えなかった。しかし夜になると,私たちはたくさんの火を見て,笛,シンバル,ドラム,大群衆の叫び声の騒音を聞いた。私たちは恐怖に襲われ,通訳は私たちに島から立ち去るように忠告した。
15.私たちは素早く出帆し,燃え盛っている材木の芳香 が漂う土地沿いに航海した。そこから火が海中に流れ込んでいた。私たちは熱気のために,その土地に近づけなかった。
16.それで私たちは恐怖に襲われ,素早く出帆し,四日間航海し,夜火炎で燃えたぎっている土地にやってきた。 この火炎のうち真ん中の一本は他の火炎よりも高く聾え,星に届かんばかりのようであった。この火炎が立ち込めている場所は日中には神々の戦車と呼ばれる最も高い山であった。
17.その地から三日間航海し,火炎の流れを迂回して,南の岬と呼ばれる湾に到着した。
18.そしてこの湾には先述したような島があり,そこには湖があり,その中に野蛮人の一団がいる他の島があった。その大多数は女性で体毛に襲われており,私たちの通訳は『ゴリラ』と呼んでいた。彼らを追跡したが,彼らは濡れた岩山を登り,利用できるあらゆるものを使って身を守っていたので,一人の男性も掴まえることができなかった。しかし,私たちは捕奪者に噛みついたり引っ掻いたりして柔順にならなかった三人の女性を掴まえた。それで,彼女たちを焼き殺し, その皮を剥いでカルタゴに持ち帰った。[ここまでが食糧が欠乏するまでに私たちが航海できた距離であった。]
なお月面の南の海に位置するハンノクレーターは彼の名に因んだものである。

シチリア遠征再び

ペロポネソス戦争はシチリアにも波及し、シュラクサイを始めとするドーリス系ポリスはペロポネソス同盟についた。前415年、アテネはシチリア遠征を開始したが前413年に敗北した。またシュラクサイも打撃を受けており、これを好機と見たカルタゴはハンニバル(ヒメラで死亡したハミルカルの孫、ギスコの息子)指揮の下で再びシチリア遠征を行い、セリヌス、ヒメラを陥落させた。前406年にカルタゴは再度遠征を行いアクラガスを攻囲した。疫病によりハンニバルが犠牲となるなど難航したが、ヒミルコによりアクラガスは陥落した。カルタゴが直接ギリシア文化に触れたのはこの時とされ、本格的な大土地経営を学んだとされる。
シュラクサイはアクラガス陥落により混乱したが、それに乗じてディオニュシオス1世が僭主となった。ディオニュシオスの軍をカルタゴは破り、一旦は講和しヒミルコは帰国した。しかしディオニュシオスは軍拡に乗り出し進軍、前397年にシチリアにおけるフェニキア最古の拠点モテュアを陥落させた。
翌年ヒミルコは再上陸し、カルタゴ優位となったが疫病が蔓延し遠征軍は壊滅した。カルタゴ市民兵とヒミルコ自身はディオニュシオスとの取引により帰国したが、ヒミルコは自殺した。このヒミルコの死をもってマゴ王朝は終わるとする研究者もいる。
抑圧されていたリビア諸都市はカルタゴの敗北、またリビア軍が敵陣に置き去りにされたことを知り蜂起、カルタゴ市を包囲したが兵站の不足や指揮権争いが起き鎮圧された。

前4世紀

前370年までには五人役と百人会が成立し、元老院による貴族政あるいは寡頭政が確立していた。アリストテレスが評価したのはこの時代である。

対シュラクサイ強硬派であるハンノは融和派のスニアトンとの権力闘争に勝ちシチリアでの戦争を再開、西部を確保した。しかし前4世紀なかばにハンノは王権を目指してカルタゴ元老院議員を毒殺しようとし失敗、アフリカ人とマウリー人の王を扇動したが捕らえられ処刑された。

シチリアでは失脚していたディオニュシオス2世が復位し、シュラクサイの亡命者がコリントスに助けを求めた。カルタゴがシチリアに再介入する好機であったが、シュラクサイ亡命者に応じて派遣されたティモレオンはカルタゴとその協力関係にあった僭主に勝利し、ディオニュシオスを追放したためカルタゴは西部の領有のみに留まった。

シチリア諸都市は民主政か僭主政か、体制の選択を迫られる段階にあり、そこに外部勢力の1つとしてカルタゴが存在していた。カルタゴは軍事力だけではなく外交・政治・文化的なアプローチをシチリア諸都市に対して行った。
その流れで、アガトクレスなどカルタゴを利用して権力を得ようとする者も現れた。アガトクレスのシュラクサイ攻囲に対し、シュラクサイはカルタゴに救援を要請した。カルタゴは将軍としてハミルカルを派遣したが、ハミルカルはアガトクレスの誘いに乗り彼と結託、ハミルカルの仲介でアガトクレスとシュラクサイは和解した。
アガトクレスはクーデターを起こしてシュラクサイの寡頭政治を終わらせ、アクラガスやメッセネ(メッシーナ)等を攻撃、再びカルタゴとアガトクレスは和約を結んだ。しかしこの和約の元、ハミルカルの黙認を得てアガトクレスはカルタゴの同盟都市を攻撃した。これに対しカルタゴはギスコの子ハミルカル(アガトクレスと結託したハミルカルとは別人、この時点でそちらは既に死亡) を派遣しアガトクレスを破り、シュラクサイを攻囲した。
アガトクレスはシュラクサイを兄弟に任せ、カルタゴ本土へ侵攻した。カルタゴはボミルカルとハンノを将軍とした。しかしハンノは戦いで倒れ、ボミルカルはアガトクレスにカルタゴが敗れた方が自身が僭主になるには好都合と考え戦線を離脱した。カルタゴはこの戦いで敗れ、それを見たリビア人やアフリカ都市が離反しアガトクレスにつきボミルカルも合流するところであった。しかしボミルカルはカルタゴで捕らえられ処刑、アガトクレスもシチリアに帰還したため事無きを得た。ディオドロスはこのアガトクレス侵攻時、カルタゴ人はクロノス(バアル・ハモン)の怒りを鎮めるため町の有力者の子供200人を犠牲とし、また自ら神の犠牲となったものを含めると300人が犠牲となったとしている。このような儀式に対する現代の研究での見方は後述する


ピュロス戦争

*3
この頃ローマはイタリア中南部を束ねる国家へと成長していた。マグナ・グラエキアのタラス(タレントゥム、ターラント)はローマとの戦争においてエピロス王ピュロスに援軍を依頼した。ピュロスは前280年ヘラクレイアの戦い、アウスクルムの戦いでローマを破ったがローマと和約を結ぶことは出来なかった。そこへシチリアから救援要請の使者が訪れ、ピュロスは同意した。シチリア北東部を支配していたカンパニア傭兵(マメルティニ、オスク語で「マルスの子ら」の意)だけでなく、カルタゴ勢力の排除まで話が進むことを危惧したカルタゴはマメルティニ、ローマと同盟を結んだ。カルタゴの将軍マゴは「外国の敵に圧迫されるのなら、外国の援軍を受け入れてもいいはずだ」としてイタリアへの援軍を申し出たがローマは断った。ユスティヌスは主戦場をシチリアではなくイタリアにするためにカルタゴは援軍を申し出たと解釈しているが、ピュロスは結局シチリアに渡り、カルタゴは前278-275年までピュロス軍と善戦した。疲弊したピュロスはイタリアへ戻ったがベネヴェントゥムの戦いでローマに敗れた。ピュロスはエピロスへ帰り、タラスはローマの同盟国となりローマはマグナ・グラエキアを完全に征服した。

第一次ポエニ戦争

*4
アガトクレス死亡後、雇われていたカンパニア傭兵は行き場を失いメッセネを占領、自らをマメルティニと称していた。前270年頃、シュラクサイの新たな僭主ヒエロンに敗れたマメルティニの一部はカルタゴに、一部はローマに救援を要請した。メッセネを裏切ったマメルティニを援助するべきでないとする意見があった。さらにポリュビオスは否定しているが前306年にローマはシチリアで、カルタゴはイタリアでいかなる軍事行為をも行わないとする条約が結ばれていたとフィリノスは伝えており、この条約の存在もローマに派兵を躊躇わせた可能性がある。しかしローマはメッセネを見捨てればカルタゴは全シチリアを手に入れ、イタリアへの足掛かりを手に入れるだろうことも危惧していた。さらにもし戦勝すれば、市民に多大な利益をもたらすだろうという予測が生まれていた。
一方カルタゴはいち早くメッセネに到着していた。前264年、ローマがシチリアへ派兵するとマメルティニは策略と脅しによってカルタゴを追い出しローマのアッピウス=クラウディウスを受け入れた。これに対しカルタゴとシュラクサイは同盟を結び、マメルティニとローマに対抗したが、ローマはシチリアに勢力を持つことに成功し戦争拡大の意思を示すと多くのシチリア都市(50市とも67市とも)がローマについた。形勢不利とみたヒエロンはローマと和睦し同盟者となった。ここで「イタリアからの侵入者に対しシチリアを守る」というカルタゴの大義が失われた。
前262年、ローマはカルタゴ勢力下の都市アクラガスを攻撃し、7ヶ月の攻囲戦の末陥落させた。ローマは前261年末、ローマ軍のメッセネへの渡航を迎撃しようとして拿捕されたカルタゴ船を手本として艦隊の建造に着手した。海戦において経験の多いカルタゴは有利であったが、ローマはコルウス(カラス)と名付けられた通路を船に取り付けて相手の船に乗り込んで戦えるようにした結果、海戦は「陸上での戦いと全く同じ」(ポリュビオス)となった。
カルタゴ艦隊を恐れる必要の無くなったローマはカルタゴ本土に侵攻したが、2人のコンスルのうちマルクス=アティリウス=レグルスが40隻の船、1万5000の歩兵、500の騎兵と共にアフリカに留まりテュネスを占領した。またこれを見た遊牧民も蜂起した。
レグルスはカルタゴに和約の条件を突き付けたが、あまりに厳しい条件にカルタゴ元老院も抗戦を決意した。
カルタゴはギリシアからスパルタ人傭兵クサンテイッポスを受け入れた。クサンテイッポスはテュネスの戦いでアフリカに上陸したローマ軍を壊滅させた。
嵐によって既に2度艦隊を失ったローマと、レグルスの侵攻と遊牧民の蜂起に苦しめられたカルタゴは双方決め手に欠け、戦争は泥沼化した。
前249年、カルタゴのアドヘルバルはドレパナの海戦で勝利し90隻以上のローマ船を拿捕、後続のローマ艦隊も嵐で全滅した。しかしカルタゴではシチリアよりもアフリカ本土の平定・拡大を優先する大ハンノが台頭していた。前248年頃、アドヘルバルから海軍を引き継いだハミルカル・バルカはシチリアで孤独な戦いを続けざるを得なかった。
ポリュビオスは兵士の質においてローマが勝るが、しかし指揮官においては判断力、勇気共にハミルカルに勝る者はいなかったと評している。
艦隊を失っていたローマは有力市民が財産を出し合い、再び艦隊の建造を始めた。前242年、ローマはガイウス=ルタティウス=カトゥルス指揮の元で200隻の艦隊を送り出した。これに対しハンノを司令官としたカルタゴ艦隊はシチリアで荷物を下ろしハミルカルの陸軍と合流しようとしたが、それを読んだルタティウスはシチリア上陸前に逆風をおして出航した。重荷を積んだカルタゴ艦隊に対し、必要なもの以外を全て下ろしていたローマ艦隊の動きの方が素早く、アエガテス諸島沖でカルタゴは敗れた。これによりカルタゴは艦隊を失いハミルカルは敵陣に完全に孤立した。カルタゴはハミルカルに全権を委ね、ハミルカルはルタティウスに和平の使者を送った。

カルタゴには和平の条件として最終的に全シチリアの明け渡し、シュラクサイのヒエロン及びシチリア人に対する戦争の禁止、ローマ人捕虜の無償返還、イタリアとシチリアの間の全ての島(アエガテス諸島とリパリ島)の割譲、10年賦で賠償金として3200エウボイア・タラント(約8万3200kg)の銀の支払いが課された。

傭兵反乱とサルディニア喪失

第一次ポエニ戦争後、大ハンノは傭兵を集めた上で給与引き下げを提案した。これに対し傭兵達は蜂起した。様々な民族の寄せ集めであるが故の言語の壁もあり、説明が伝わらず鎮静化は難しかった。傭兵は帰還の手続きをしたギスコとの交渉を求めまたギスコはそれに応じて給与の支払いを始めたが、ローマからの逃亡奴隷で敗戦により主人に引き渡されるのを恐れたスペンディオスと最初の蜂起の中心人物で処罰を避けたいマトースが扇動を行い、カルタゴに戦争をけしかけた。
リビア諸都市に留まらず、最後にはウティカなどを含めた全アフリカ領がカルタゴから離反した。
これを放置しては自らの支配も危ういと考えた各国はカルタゴを支援した。ただしローマは一時傭兵に食糧を送る動きをとったこともある。
各国の支援によりカルタゴは海上から補給を得、また新たに傭兵を雇い、市民軍も利用して盛り返していた。将軍としての手腕はないハンノに代わり、ハミルカル・バルカが指揮を執った。代々カルタゴと親交の深かったヌミディアの名門に属するナラウアスという人物は、多くのヌミディア人が反乱軍に加わる中で部下と共にハミルカルへ助力を申し出た。ハミルカルは歓迎し、娘をナラウアスに嫁がせる政略結婚を行った。カルタゴ人がアフリカの諸民族と政略結婚を行ったことは異例である。ハミルカルはナラウアスの騎兵と象を利用して反乱鎮圧に成功した。
フロベールの小説「サランボー」はこの時期を題材としたものである。サランボーはハミルカル・バルカの娘という設定であるが、彼女は架空の人物である。

傭兵戦争中にサルディニアの守備隊も蜂起していた。傭兵戦争を平定したあとカルタゴはサルディニアを回復しようとしたが、ローマが先にサルディニアへの遠征を決定した。カルタゴは抗議したが、反乱の首謀者の処罰のために軍を編成していたカルタゴに対し、ローマは自分たちに対して戦争準備をしていると難癖をつけ戦線布告した。カルタゴは第一次ポエニ戦争、次ぐ傭兵戦争で疲弊しており、サルディニアを諦めローマに銀1200タラント(約3万1200kg)を支払う羽目になった。コルシカも同様にローマに渡り、カルタゴはティレニア海全体の制海権をも失った。ポリュビオスは第二次ポエニ戦争の原因はこの両島喪失にまで遡ると主張している。

イベリアへ

傭兵をおさえたハミルカルは民衆に人気はあったが、大ハンノとの確執が大きくなったことから前237年にカルタゴを離れた。
ポリュビオスは、まだ戦争意欲があったハミルカル・バルカはサルディニアとコルシカを奪われた市民の怒りを背景として、対ローマのための基地建設のためにイベリアへ渡ったとしている。
しかし現代ではローマにより自国勢力圏を奪われたカルタゴが、交易の最重要な品物である鉱物や銀の供給源、イベリア南部を軍事的に明確な自国領として画定しておくことを目的としたのではないかと指摘されている。
また、公式には東アルジェリアとモロッコの後背地を押さえることを命令されていたが、イベリア南部も権限領域に入っており、さらにアフリカは大ハンノの勢力圏であったためハミルカルはアフリカでの作戦に関心が無かったのではないかという指摘もある。
これに関して9歳のハンニバルは父とともにイベリアへ行くことをせがみ、それを聞いたハミルカルは息子を祭壇に連れて行き決してローマの友にはならないと誓わせた、という話があり、ハンニバル自身が語ったものとして伝えられている。しかしこれはシリアでローマと通じているという疑いをかけられたことに対する返答であり、信憑性は疑われているが、親ローマ的な歴史家が第二次ポエニ戦争の原因をカルタゴ側に求める際にこの逸話がたびたび引用された。
イベリア征服の過程では政略結婚や交渉により同盟関係を結ぶこともあった。ハンニバルはイミルケというイベリア人貴族の娘と結婚している。バルカ家のスペイン統治の手法にはヘレニズム王朝的な面が指摘されているが、これはこのような外交を行う際にカルタゴの将軍以上の立場を得る手段であったとも考えられている。
しかしやはり軍事的征服が主であり、イベリア征服はローマに奪われた分をより弱い敵から奪うことで埋め合わせをすることを意図したものといえる。
広がった領地は実質的にはカルタゴというよりもバルカ家の支配領域となり、イベリア人との関係も個人的なものである。
この動きを当時のローマはある程度警戒していたとされる。前231年頃、ローマの使節がハミルカルを訪れてイベリアで何をしているのかと問い、ハミルカルはローマへの賠償金のために働いていると皮肉を返したという説が伝わっている。しかしローマはイリュリアやガリアなどとの戦争でイベリアまであまり手が回っていなかったとされる。

娘婿ハスドゥルバルとエブロ条約

退却中に戦死したハミルカルにかわり、前229あるいは228年、娘婿ハスドゥルバルがイベリア兵士によって将軍に選ばれた。この地位はカルタゴ民会により追認されたとも言われている。第二次ポエニ戦争期のファビウス・ピクトルは、ハスドゥルバルがカルタゴの国政を変革しようとしたが反対され、身の危険を感じたためスペインへ戻り本国の意向を無視した支配を続けたとしているが、これはハンニバルとカルタゴを分断し、カルタゴ内の親ローマ派と交渉したいという当時のローマ元老院の願望が反映されたものである。

ハスドゥルバルはスペインにカルト・ハダシュト、後にローマによりカルタゴ・ノウァ(新カルタゴ)と呼ばれる都市を建設し、ここを拠点とした。なお現在ではカルタヘナと呼ばれている。以下便宜上カルタゴ・ノウァと呼称する。
カルタゴ・ノウァはローマと関係の深いマッサリアとの勢力の境界に位置した。ローマは警戒しつつもガリア人との戦争に忙しく強硬な態度に出ることは出来なかった。前226あるいは225年、ローマは使節を送りハスドゥルバルと条約を結んだ。これは内容からエブロ条約と呼ばれる。
ポリュビオスによると、カルタゴが戦争行為を意図してエブロ川を越えてはならないとされ、他のスペイン人についての条項はなく、独立の条約だったとしている。
リウィウス、アッピアノスはエブロ川をローマ・カルタゴの境界とする条約であるとしている。またリウィウスはサグントゥムについて平和を保障する特別条項、アッピアノスはサグントゥム以外にもギリシア系都市の自由を保障する条項が含まれたとしている。またリウィウスはこれを第一次ポエニ戦争和平条約の追加事項としている。
なおポリュビオスとアッピアノスにはサグントゥムをエブロ川の北、ローマ側にあるとする地理的誤りが見られる。
史料によってはエブロ条約はカルタゴ元老院で締結されたとしているが信憑性は低い。
さらにポリュビオスの言う「イベルの名で呼ばれる川」は必ずしもエブロ川ではなく「イベリア半島の川」であり、その場合サグントゥムは境界のローマ側の都市であったという学説も存在する。

エブロ条約によりローマの存在感が大きくなるとサグントゥムでは親ローマ派と親カルタゴ派が争いを始めた。双方はそれぞれローマとカルタゴに援助を求めた。また親カルタゴ派はカルタゴ・ノウァに亡命した。

前225年~223年、ローマはガリア人の脅威の中にあったがハスドゥルバルは沈黙を保っていた。カルタゴあるいはバルカ家が真剣にローマを滅ぼそうとしていたとするとこの期間に条約を遵守していた点は不可解とされているが、制海権がローマにあったことが大きいとも言われている。

将軍ハンニバル

前221年にハスドゥルバルが暗殺されると、イベリア軍は25歳のハンニバルを最高司令官に選んだ。なおカルタゴ本国の承認が滞りなく下りたかについては疑問視する説もある。
ハンニバルは将軍につくと、スペインの平定をはじめた。その過程で最も大きかった戦闘がタゴス(タホ)川上流でのものである。
前220年、冬になる前に遠征から帰還しようとしていたハンニバルはカルペタニー族を中心とした10万を超える大群に襲われたが、ハンニバルを追って敵軍が渡河する瞬間に攻撃を開始し敗走させた。これは詳細のわかっている初めてのハンニバルによる戦闘である。

遠征から帰ったハンニバルをローマの使節が待っていた。バルカ家支持の機運がサグントゥムで高まっており、亡命者が帰還する良い機会だと判断したこと、周辺部族がバルカ家を支持していることなどにより孤立したサグントゥム支配者層はローマに支援を求めていた。また海岸沿いで狭くなる平野を望む岩地に位置するサグントゥムを押さえればカルタゴ軍の進軍を阻止しやすいという地形の問題もあった。
サグントゥムへの攻撃を牽制しようとするローマ使節に対し、ハンニバルはローマ人がそれ以前にサグントゥムに介入したことで争いが起きており、亡命者を見殺しにできないとして退けた。
ローマの使者は反バルカ勢力との交渉のためカルタゴ本国へ向かった。またハンニバルも本国に報告を送り正当性を訴え、受け入れられてスペインでの全権を委ねられた。

第二次ポエニ戦争

*5
前219年春、ハンニバルはサグントゥムを包囲した。これに対しローマは最後通告として、ハンニバルを引き渡せという要求をカルタゴに行い、カルタゴは拒絶、開戦となった。
ハンニバルは弟ハスドゥルバルに歩兵1万2千、騎兵3千、象21頭を与えてイベリアの防衛を任せ、進軍を開始した。またエブロ川の北では指揮官ハンノに1万1千の兵を委ねた。
ローヌ川渡河の際は親ローマのガリア人と戦闘になった。
またその頃執政官スキピオはハンニバルのローヌ川接近の情報を得て阻止に動いたが、3日前にハンニバル軍が北東に向きを転じたと聞くと追跡を諦めた。自軍の大部分を兄グナエウスに委ねてスペインへ向かわせ、自身は万が一ハンニバルがイタリアのポー川流域へ現れたとき阻止するため騎兵の一部を連れイタリアへ戻った。
アルプス越えのルートに関しては様々な説があるが、2016年にカナダ・ヨーク大学のビル・マハニー氏率いる国際研究チームがトラヴェルセッテ峠で大量に堆積した動物のふんの痕跡を発見し、炭素同位体分析の結果紀元前200年頃のものだと推定された。ただし後に弟ハスドゥルバルもアルプスを越えているため、ハンニバルの通ったルートだと断定はできない。
15日をかけてアルプスを越えた結果、残ったのはリビア歩兵1万2千、イベリア歩兵8千、騎兵6千、象20頭であった。

アルプスを越えたハンニバルはまずカルタゴに敵対的だったタウリニ族の首邑タウラシア(トリノ)を陥落させたあとティキヌスの戦いでスキピオを敗走させた。なおスキピオが負傷し、息子である後の大スキピオにより助けられたとする記述は創作とされている。トレビア、トラシメヌス湖畔の戦いでもローマ軍を撃破した。その後ハドリアからカルタゴへ戦争勃発以来初めて報告を送ることができた。
ローマは非常事態としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に任命した。また様々な宗教的対策も講じられた。
ファビウスはハンニバルと直接対峙せず、持久戦に持ち込み疲弊させる戦略をとった。カルタゴ軍に食糧が渡らないよう焦土作戦も辞さなかった。しかしカリクラ峠でハンニバルの冬営地への道を遮断しようとしたが、角に松明をつけた牛を利用して突破されたことでファビウスは非難され「クンクタトル(のろま)」の渾名をつけられた。
一方スペインではスキピオの軍がマッサリア艦隊の援護を受けサグントゥムにまで進軍しており、また制海権と拠点の確保によりカルタゴの海上作戦も阻止されていた。
前216年、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロが執政官となった。ローマの元老院は決戦へと傾いていた。
ハンニバルは騎兵の優位を生かせる場所としてカンナエを選び、占拠した。
パウルスとウァロは意見の対立があったが8月2日、ウァロに指揮権があった日にカンナエの戦いは起こった。史上類を見ない包囲戦であり、ローマ軍は5万の戦死者を出し、そのうちの80人は元老院議員であった。一方カルタゴ側の死者は5千でありほとんどがガリア人であった。
カンナエの後、ハンニバルは形式的には捕虜交換として和平交渉を行おうとしたがファビウスが国家の栄誉を護持することを主張し、ローマは戦争継続の意思を示した。ファビウスの持久戦術は見直され、前215-214の2年続けて執政官に任命された。またもう1人の執政官としてマルクス・ クラウディウス・マルケルスが選ばれた。
前216年秋から冬、ハンニバルはカンパニア地方に入っており、カプアと同盟を結んだ。しかしネアポリス(ナポリ)や他のラテン市など大部分は動かなかった。
一方でカルタゴ本国とは連絡が取れるようになっており、弟マゴが送られた。これに対しカルタゴは初めて大規模な戦争支援を行った。スペインではスキピオとグナエウスの兄弟が優勢であったため1万2千の歩兵と1500の騎兵をマゴに率いさせて送り、また同数のサルディニア占領用の部隊を送り出した。ローマ軍のスペインへの補給路を遮断するためである。さらにハンニバルにも数は多くないが騎兵と象、傭兵募集のための金銭を用意した。
シラクサでは親カルタゴ工作が行われ、またマケドニアのフィリッポス5世と同盟を結び第一次マケドニア戦争が起こった。このように個々の作戦を有機的に関連させ、地中海規模でローマを包囲する試みが行われた。しかしスペインでの攻勢は失敗しローマを撤退させることはできず、またサルディニア占領も失敗、マケドニアは直接ハンニバルに支援することが出来ないなど事はうまく運ばなかった。
前214年、マルケルスはシュラクサイを攻囲するがアルキメデスの兵器に苦しめられる。しかし前212年にシュラクサイは陥落、これに乗じてローマはアイトリア同盟を引き込みマケドニアを牽制し、包囲網は崩されていく。
前211年、ローマ軍により前年から包囲されていたカプアが陥落し、ハンニバルの失墜が明らかとなった。一方同年ヒスパニアに遠征を行なっていたスキピオとグナエウスの兄弟が死亡しローマ軍は壊滅状態となった。
前210年、まだ26歳だった大スキピオが異例の年齢での司令官としてイベリアへ送られ、引き潮を利用してカルタゴ・ノウァを陥落させた。スペインにいるより兄と合流した方がよいと考えたハスドゥルバルはアルプスを越え北イタリアへ向かうが、メタウルス川の戦いで敗れ戦死した。また前205年、フィリッポス5世がローマと講話を結んだ(フォイニケの和約)。
スペインにおけるカルタゴ最後の拠点ガデスを落とし凱旋した大スキピオはヌミディアのマッシュリー、マサエシュリー両方を懐柔していたが、カルタゴはマサエシュリーのシュファクスを取り込むためソフォニスバを妻として与える政略結婚を行った。元々ソフォニスバはマッシュリー王国のマシニッサの婚約者であった。そのマッシュリーはシュファクスと賓客関係にある一派に乗っ取られ、マシニッサは祖国を取り戻すためシュファクスとカルタゴを相手に戦っていた。
マシニッサはアフリカに侵攻したスキピオと合流しシュファクスを破りソフォニスバと結婚するが、ローマは容認せずソフォニスバの引き渡しを求めた。マシニッサはソフォニスバに毒を飲むかローマの捕虜となるか選ばせ、ソフォニスバは死を選んだ。
テュネスを占領した大スキピオはカルタゴに講話条件を提示し、カルタゴも和平に傾いていた。ハンニバルには帰還命令が届き、15年間のイタリア遠征は終わった。
ハンニバルの帰還は主戦派を勢いづかせ、停戦中であったがカルタゴ政府はローマの補給船の物資を奪った。大スキピオの使節は抗議したがカルタゴ政府は条約を不服として停戦は破棄された。
前202年、ザマの戦いが始まった。カンナエはローマによって再現された。カルタゴ軍4万のうち死者は2万、残りは捕虜となった。ハンニバルは数人の従者とともに辛うじてハドゥルメトゥムに逃れた。

カルタゴはアフリカ外の領土を全て手放し、アフリカでもマシニッサの故領を全て彼に引き渡すこと、戦艦は10隻を除いてローマに引き渡されること、50年賦で銀1万タラントを支払うこと、カルタゴ貴族の若者百人を人質としてローマに送ること、そしてアフリカ外で一切の戦争をせずアフリカ内でも戦争にはローマの許可を必要とすること、これらの条件を受け入れる外はなかった。

政治家ハンニバル

カルタゴ百人会は敗軍の将を処刑する権限を持っており、それは実際に何度も行われてきたことであった。しかし民会、大衆のバルカ家支持によりハンニバル告発を実行することは出来なかった。
前199年、ローマへ第1回目の賠償が支払われたが粗悪な銀が用いられ、規定量よりも1/4少なかった。カルタゴは元々貢納を中央が全て把握しきっていたわけではなく、歳出や歳入がはっきりしていなかった。海外領を持ち、スペインから銀を供給でき、商業の活発であったときはそれでも成り立っていたのだが、今はそれらを失ってしまった。ここで統治者層は増税、さらに一般市民にも重い税負担をかけたが、当然市民からの批判は高まった。
市民の支持を得てハンニバルは前196年のスーフェースに選出された。スーフェースは任期1年かつ2人選出されるため、貴族層も制御可能と考えていた。なおもう1人の名はわかっていない。
貴族層を代表して政治を行なったそれ以前のスーフェースとは異なり、ハンニバルの支持基盤は民会であった。カルタゴではスーフェースと元老院の意見が異なる場合、最終判断を民会が行うという原則が存在した。貴族支配の打倒、金銭的腐敗の是正、財政組織の改革、この3つを目標とした。貴族達とそれに結びついた財務官はこれに激しく反対した。そこでハンニバルは終身制であった百人会の任期を1年とする提案を民会に提出し百人会改革を断行、その上で財政問題の解決を図った。商業の促進、それによる間税を中核とし税制全般へ改革を行い、また歳入や歳出を監視して納税機構の整備を行なった。

しかし、ハンニバルへの権力集中を恐れたカルタゴ貴族と、カルタゴ貴族と結びついたローマの介入が決定的となり、シリアのアンティオコス3世とハンニバルが反ローマ協定で繋がっているという疑いをかけられ翌年失脚することとなった。自身がいることで外部からのカルタゴへの干渉が大きくなり、また命の危険を感じたハンニバルはカルタゴからティルスへ渡り、シリアへ亡命した。

Carthago delenda est

マシニッサは第二次ポエニ戦争以降、度々カルタゴを侵略していた。侵略開始時期については史料によって異なるが、リウィウスとアッピアノスにより前190年代に侵略があったことが指摘されている。またポリュビオスは前160年代以前北アフリカで「古代の平和」があったとしている。リウィウスは前180~170年代にかけての侵略を記述しているが、これはポリュビオスには存在しない。
ローマは第二次ポエニ戦争以降、カルタゴ牽制のためヌミディアの保護を行っていた。ローマはカルタゴとヌミディア間の領土紛争の調停を行っていたが、前167年の調停でカルタゴに従属していたエンポリア地方全領域のヌミディアによる攻囲戦を許可したことでローマのヌミディアへの肩入れが明白となった。第三次マケドニア戦争のローマへのヌミディア・カルタゴそれぞれの支援がローマとの信頼関係に影響を与えたとする指摘もある。

前153年、マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス(大カトー)を長とする調停団がカルタゴを訪れた。ローマに不信感を持っていたカルタゴが調停を断ったため帰国したが、大カトーはカルタゴの経済的繁栄を目にした。ローマに帰ってからは全く関係のない演説であっても「それにしてもカルタゴは滅ぼされなければならないと考える次第である(Ceterum autem censeo Carthaginem esse delendam)」という句で終わりにした、という逸話は有名である。もっともこのように定式化していたかは議論があるが、カルタゴ強硬論を説いたというのはどの史料でも肯定されている。
これに対し翌年カルタゴに派遣されたスキピオ・ナシカ・コルクルムが「潜在的脅威が無くなればローマは堕落する」としてカルタゴ存続論を主張したという。しかし結局強硬論が通り、カルタゴに対する戦争が決定され、前149年に宣戦布告されることとなった。

一般的にカルタゴの経済力を目にしたローマが、それを脅威であると認識して戦争へと傾いた、という説明がなされる(脅威-恐怖理論)が、ローマ人がカルタゴをどう認識していたかに関しては全く脅威の気持ちがなかったという説から根強い恐怖があったとする説まで様々である。
また戦争の原因も脅威論の他にカルタゴ内部にハンニバル改革の流れをくむ民主派が台頭したこと、逆に弱くなったカルタゴがヌミディアに併吞されかねず、ヌミディアが強大化する前に滅した、など議論は絶えない。
以上に挙げたようにカルタゴ側に原因を求めるのではなく、ローマ内部の情勢を考えるものもある。当時のローマ支配層の中では政務官選挙で有利となるための軍事的、特に凱旋式挙行の栄誉をめぐる争いが起きており、また征服した土地を安定支配することが共和制ローマには出来なかったためコリントスなどこの時代破壊された都市は珍しくなく、カルタゴもその一つであったという説、あるいはローマの軍紀が乱れてきており体制への革命的な性質も見られ、混乱していたことで外敵の脅威のアピールだけでは不十分となったことなどが挙げられる。
さらにスキピオ・ナシカ・コルクルムの温情論においても、そもそもこの論の存在自体に疑問が挟まれてもいるが、存在したとしても理念の対立に基づくものではないという指摘も存在する。
以上のように、第三次ポエニ戦争の原因については多種多様な意見があり、恐怖が存在していたかも実際は確定しているわけではない。

第三次ポエニ戦争

前150年代、カルタゴには寡頭派の親ローマ派、民主派の反ローマ派に加えて領土問題で譲歩してでもヌミディアと妥協を図り、ローマとの戦争を回避しようとする親ヌミディア派が存在した。しかしヌミディア強硬派が優勢であり、民主派の指導者カルタロは係争地に陣取るマシニッサ臣下を攻撃、またリビア人の対ヌミディア反乱を扇動したがこの時点ではローマは問題にはしていない。
マシニッサがテュスカと呼ばれる穀倉地帯の領有を主張するとカルタゴ民主派は親ヌミディア派40名を議会から追放した。追放された人々はマシニッサに宣戦布告を勧め、マシニッサは2人の息子を送り追放者の帰還を求めた。しかし城門は閉ざされ、さらに民主派のハミルカルが息子の1人を襲い従者を何人か殺した。
ヌミディアはこれを口実としオロスコパという都市を包囲、カルタゴはハスドゥルバルの指揮で対ヌミディア戦争を始めたが敗北した。カルタゴ政府はカルタロとハスドゥルバルに死刑を宣告、またローマに使節を送り弁明を行ったが効果はなかった。またこの時期形勢を悟ったウティカがカルタゴから離反している。ローマ元老院はこれを受け戦争を決議、マニウス=マニリウスとルキウス゠マルキウス゠ケンソリヌスをシチリアまで派遣した。カルタゴはローマに訴え、執政官の命令に従うならば自由と自治は保たれるとされた。命令に従い300人の貴族の子供を人質として差し出し、全武装解除を行った。しかし最後の海から最低80スタディオン(約14.2km)以上離れた場所への移住、つまりカルタゴ市そのものの引き渡しは受け入れられなかった。

カルタゴ市は大混乱に陥ったが、カルタゴ元老院はその日のうちにローマに宣戦布告を行った。奴隷や解放自由民をも動員可能とし、平地指揮官として死刑宣告をされたハスドゥルバル、また都市内の指揮はマシニッサの孫であるハスドゥルバル(別人)が担当することとなった。
カルタゴ人達は交代で昼夜休みなく武器の製造を行った。投石機や弩の材料のため女達は髪を切った。
マニリウスの陸軍とケンソリヌスの海軍による3度の共同攻撃は簡単に跳ね返され、それを見てケンソリヌスは破壊槌を利用しようとしたが夜のうちに城壁は修復され、破壊槌に火を放たれた。
カルタゴは火をつけた帆船を放ったことでローマ艦隊は壊滅的打撃を受け、またケンソリヌスの選挙が重なったことでマニリウスの単独指揮となった。しかしマニリウスの成果は少なく、スキピオ・アエミリアヌスが活躍したとされる。
前148年、ローマはルキウス゠カルプルニウス゠ピソを送ったが撃退された。カルタゴはマシニッサが死亡したヌミディアから騎兵の一部を取り込み、マウリー人達やマケドニアのアンドリスコスに支援を求めるなどローマの隙をつき外交を行った。
前147年、超法規的措置によりスキピオ・アエミリアヌスが執政官となった。アエミリアヌスはカルタゴ地峡部を封鎖し陸上からの補給を遮断、次いで海からの補給も遮断しようと港の前に突堤を築きはじめた。これを見たカルタゴは軍港から海に出る水路を築き、また最後の艦隊も建造された。しかし攻撃の機会を逃したためローマ艦隊に打撃を与えることはできなかった。

冬、アフリカ本土から続いていた補給の拠点であるネフェリス要塞が陥落し、残るはカルタゴ市のみとなった。
前146年、ローマ軍は市街へ突入した。ビュルサの要塞へとローマ軍は進軍していった。攻撃の際家屋という家屋は火を放たれた。市街戦は6日間続いた。
7日目、ビュルサの丘頂上のエシュムンの神殿に逃げていた人々が助命を嘆願すると、アエミリアヌスはそれを受け入れ、5万人がローマ監視下に置かれたあと奴隷として売り払われた。ハスドゥルバルがアエミリアヌスに命乞いをしたとき妻は子供達を脇に盛装をし、夫を激しく罵ったあと子供達を殺して彼女自身と共に炎に投じたという。都市は10日余り炎上し続けた。エリッサの建国から668年後、ここにカルタゴは滅亡した。

その後

前122年、ガイウス・グラックスはユノを守護神としてコロニア・ユノニアという植民市を建設しようとしたが、これは1年と保たなかった。前44年、ガイウス・ユリウス・カエサルは再び植民市を創設しようと試み、今度は成功した。アウグストゥスは和合の女神コンコルドをシンボルとするこの植民市にコロニア・ユリア・コンコルディア・カルタゴという名をつけ、アフリカ属州の首都とした。ローマの都市計画にそって整備され、2世紀にはローマ・アレクサンドリアに次ぐ地中海世界の中心となり、「アフリカのローマ」(サルウィアヌス)と呼ばれるまでになった。また聖アウグスティヌスを輩出するなどキリスト教世界に大きな影響を与えている。
430年、ヴァンダル族がアフリカに侵入しカルタゴを首都と定めた。当時の詩によるとヴァンダル王国は記念碑の修復を行ったとしている。533年ヴァンダル王国は東ローマ帝国の攻撃を受け、カルタゴは東ローマの支配下に入り、復興が行われた。
しかし647年に始まるイスラームの征服によるチュニス建設、また聖都カイルアンの建設によりカルタゴは放棄された。

再発見

フェニキアやカルタゴの研究は、当事者のフェニキア・カルタゴ人の手によるもので現存するものは碑文資料のみであり、文学作品は現存しないため必然的にギリシア・ローマという他者の目を通した研究となる点に加え、オリエントに出自を持ちながら地中海、特に西地中海が主な活動の場であったという二重性による難しさが存在する。ギリシア・ローマ研究からは大きく遅れをとっているが、ユネスコによる発掘以降徐々に研究は進みつつある。

11世紀、アブー・ウバイド・バクリーは波打ち際の城壁からカルタゴの位置を海岸に特定し、またローマ期の闘技場や「城のような建造物」(=アントニヌス浴場)などについての記録を残した。また12世紀のイドリーシーも(ローマ期の)カルタゴ遺跡を訪れ、闘技場や貯水池(現代ではラ・マルガの貯水池と呼ばれる)について述べている。しかし、イドリーシーは廃墟から大理石が持ち去られたことも報告している。イドリーシー以降も遺跡から石は切り出され続け、オスマン帝国やイタリアで建築資材として利用された。
18世紀、ポンペイの再発見により西洋では考古学が脚光を浴びるようになった。1831年、パリにカルタゴ調査のための会社が設立された。その後チュニスのデンマーク総領事であるC.T.ファルベが11年間の現地調査の上で著した『カルタゴの遺跡調査』という本が考古学地図、地形図とともに出版され、これは近年正確さが検証された。1859年、フランス研究所のビュレーによって科学的な性格を持つ最初の発掘が行われ、ビュルサの丘でローマ期の遺跡が発見された。またカルタゴの港を現地調査し、アッピアノスの叙述と比較した。1874年、チュニスのフランス総領事館員のド・サント・マリは「碑文・芸術アカデミー」から碑文調査を委託され、研究成果は『セム語碑文集成』の分冊本と『カルタゴにおける委任調査』という本に著された。1884年に「チュニジア古代遺跡・美術研究所」が設立された後はカルタゴ遺跡の科学的調査・発掘が定期的に行われるようになった。
1921年、イカールとジーリーにより多数のポエニ期の石碑が発見されたが、この場所がトフェトと呼ばれるようになった。
1957年のチュニジア共和国成立により、初めてチュニジア人による考古学チームが結成され、チュニジアという国家の歴史に組み込まれアイデンティティの一つとなった。チュニス市街の拡張が遺跡を脅かす危険が恐れが生まれていた1970年代、ユネスコによる救援、調査が行われた。
ユネスコによる「国際保護運動」は10か国、600人以上の専門家が参加したカルタゴ遺跡における初めての体系的発掘であり、当時の都市構造が復元され、様々な陶器、美術品、工芸品が発見されたことでカルタゴの活動領域と交易の多様性が明確となった。
1974年、イギリスの考古学隊がカルタゴの港であると漠然と考えられてきた場所で桟橋の土台や乾ドック、冬季停泊用ドックの船台を発掘し、その場所が港であったということを証明した。
1982年、カルタゴ美術館近くでポエニ期の住居跡が発見され、S.ランセル率いるフランス考古学調査隊により「ポエニ式モザイク」とローマ人に呼ばれたものについての詳細が判明した。さらに陶器や硬貨などの考古学的資料などより、紀元前202年から紀元前146年までの間に整備された地区であることが分かった。この地区は現在ハンニバル街と呼ばれている。また同時期にビュルサの丘南でドイツの考古学隊により海岸線に沿って形成された前8世紀の住居跡が発見された。ここは最古の入植地であった可能性がある。

政治

ギリシア人によるカルタゴ政体への評価はおおむね好意的な意見であった。エラトステネスは全ての人々に対するギリシア人の優位性を主張する意見に対し、ローマ人とカルタゴ人は優れた国政を持つ故にバルバロイ(蛮人)とはいえない、と反論している。カルタゴの国政に関して、アリストテレスは『政治学』の中で論じている。
アリストテレスはクレタとスパルタ、カルタゴの国政を比較し、これらを最善の国政に近いとした。カルタゴの政体は王政、貴族政、民主政の要素を併せ持つ混合政体であり、権力の均衡をとっていたという。
アリストテレスは2人の「バシレイス=王(複数形)」、元老院、百人会、民会の存在を指摘している。しかし、第二次ポエニ戦争期についての記述においてポリュビオスはゲルーシアとシュンクレートスという2つの民会の存在、リウィウスは元老院と30人からなる評議会の存在に言及しており、さらにアリストテレス以前にカルタゴ政体に変化があったのではないか(特に王政に関して)という議論も存在する。またこれらはいずれもギリシア語・ラテン語によるものであり、カルタゴの制度や役職をどう翻訳したかという問題もある。
アリストテレスにより「バシレイス」と表現されたスーフェース(𐤔𐤐𐤈)は北西セム語のšpṭ、「裁く」という動詞の語根から派生したもので「裁判官」を意味し、ヘブライ語ではשׁוֺפֵט、『旧約聖書』では士師などとも訳されている。しかしカルタゴにおいてはそれ以上、最高政務官を意味した。スーフェースは元老院や民会を招集でき、おそらく司法においても権限を持っていたと考えられている。また最終的に国家財政を管理したのもスーフェースであった。任期1年で定員は原則2人でありこの職に就いていた人物の名により年が表され、この点でローマのコンスルと比較される。さらにスーフェースは世襲ではないが生まれと富により選出され、誰にでも開かれた役職ではなかったという点もコンスルと類似している。しかしこの両者の最も大きな相違点としてコンスルの持つ軍指揮権はスーフェースにはなかったことが挙げられる。なおカルタゴにおいては一人が複数の役職を兼任でき(この点はアリストテレスに批判されている)、前5~4世紀には将軍に選ばれるスーフェースも存在したことはある。また時代によっては定員が3名や4名の時期もあったという説もある。スーフェース職は遅くとも前400年あたりには存在していたとされるが、起源は不明である。
母市ティルスには世襲の王(mlk)が存在していたが、カルタゴが王政であったかという問題は王政が続いていたという立場、あるときから王政が廃止されたとみる立場、最初期から王政ではなかったとする立場による議論がなされてきたが未だに結論は出ていない。さらに王の存在を認める立場であっても王=スーフェースとみなすか、王に代わる立場としてスーフェースが現れたか、あるいは併存していたかという学説に分かれている。王政の存在を支持するものとしてエリッサ伝説が取り上げられるが、王の存在を示す碑文はこれまでに出土していない。
スーフェースに代わり軍指揮権を持つのが将軍であり、原則としては誰でも選ばれたが特定の家系から輩出される傾向があった。将軍が死亡したとき、後継者の選出は陸軍に権利があったが民会により任命される必要があった。将軍の任期や権限、権限領域は本来制限されているが状況に応じて拡大されうるものであった。また定員も状況によって変化した。将軍の権限は強大になる可能性があり、将軍職をほぼ独占したマゴ家に対して将軍やスーフェースなど国家機関の行動を監査する百人会が誕生したとされている一方、カルタゴでは死刑となる将軍も少なくなかった。
百人会(構成員は104人)はアリストテレスによりカルタゴにおける最も重要な機関であると評されている。司法において最高の権限を持ち、設立されてからアリストテレス時代までに影響力が増大したと見られている。百人会は元老院議員の中から補充され任期は終身であったが、ハンニバルによる改革の際に任期を1年とし延長は認めないと改められた。
元老院はカルタゴの商業あるいは土地経営に基づく富裕層により構成され、定員は数百名、一説では300名であったとされる。カルタゴにおいても初期からスーフェースなどに外交や戦争の決定、軍招集、統治についての助言をする機関であったと考えられている。元老院とスーフェースの意見が一致した場合、民会に問われる必要はなかったため混合政体とは言っても貴族性的な面が強かったといえる。またアリストテレスが言及していないため彼の時代にはまだ存在していなかったと考えられることもあるが、リウィウスにより元老院議員で構成される30人の評議会の存在が指摘されており、前3世紀には存在していたと考えられている。将軍とともに海外へ行く、また政治的な問題に対処するなどをしていたとされるが権限については不明である。
アリストテレス以外の言及は見られず証拠となる碑文も出土していないが、重要な案件を処理したり百人会成員を補充するなどを行ったとされる5人委員会が存在したと考えられている。
カルタゴにおいても民会は存在し𐤏𐤌(ʿm、国民の意)と呼ばれた。民会はスーフェースと将軍を選出したと考えられているが、基本的にその権限は限定的であった。ローマとは異なり通常の裁判には関与しなかった。民会はスーフェースと元老院の意見が異なったときに議題を提出されたが、これがハンニバルの改革の際には大きな意味を持ち、カルタゴ史で民会の発言力が強化された例外的な時期となった。また民会は追放判決を下す権利を持っていた。民会における意見開陳や投票は自由であったが、投票の方法は不明である。

軍事

海軍

カルタゴは紀元前5世紀以降に地中海で流行した三段櫂船、それから発展した四段櫂船、そして五段櫂船を運用した。なお五段櫂船は上段と中段の櫂をそれぞれ2人、下段を1人で漕ぐものである。
船の部品にはフェニキア文字が印として書かれ、部品の位置を示した。これにより速やかな製造を可能としていた。
一般に戦闘用のガレー船は最低限の積荷しか乗せないので遺跡として海底に残ることは衝角を除きほぼないと言われているが、マルサラ(古リリュバエウム)沖でカルタゴのガレー船の一部が見つかっており貴重な資料となっている。
艦隊数は60隻という数字がしばしば挙げられ、またヒメラの戦い時点で200隻にまで増加していた(ディオドロス)とされる。

陸軍

初期は市民軍だけが存在し、緊急事態の際のみ招集された。前550年頃のマゴの兵制改革によりカルタゴの兵士は名家出身の2500人の若者により構成される騎兵隊である神聖隊のみとなった。神聖隊は他の部隊の指揮官の訓練も行った。しかし一方で本土が危機にさらされるなどの緊急時にはカルタゴ市民も戦いに参加した。
カルタゴはその兵力を同盟国や属州からの徴集兵と傭兵に大きく依存していたが、それにより忠誠心の欠如や傭兵反乱などに度々悩まされることとなった。
武装は均一ではなく、出自によっても異なっており、出身によって分けられた部隊はそれぞれが慣れた方法で戦った。カルタゴ人とアフリカのカルタゴ植民市で徴集されたリビア・フェニキア人はファランクスで戦っていたと考えられている。前339年のクリメッサスの戦い(ティモレオンとの戦いであり、カルタゴは敗北した)では鉄の胸当てと真鍮の兜、大きな白い盾を身に着けていたという。また側面はチャリオットに援護されていたが、少なくとも前3世紀以降までにこの役割はヌミディアや時としてイベリア、ケルトの騎兵が取って代わった。第一次ポエニ戦争でレグルスに2度敗れたときはギリシア後期のような、金属製の兜とすね当て、麻あるいは金属の胸当て、ホプロン(直径60cm程度の丸い盾)、5mから7m程度のサリッサと短い剣を装備していたと考えられている。トラシメヌス湖畔の戦い以降はピルムを含むローマの装備、訓練法やマニプルスなどが取り入れられた。軽装歩兵に関してはザマの戦いで弓兵が記録され、またトレビアの戦いでもそれらしき存在が現れるという。さらにマルケルスによるシラクサ包囲戦ではカルタゴの援軍が弓兵を使ったという。なお前150年にはクレタの弓兵が使われた。またカルタゴ人は複合弓を知っていたと考えられている。
戦象は有名であるが、ピュロス戦争によりもたらされたものである。現在は絶滅しているアフリカの森林象が主に利用されたと考えられている。インド象の体高が約3mなのに対しカルタゴの象は2.5mほどと小柄であったとされる。そのため櫓などは乗せず象そのものを武器として利用したと考えられている。しかし象は味方にも混乱をもたらし被害を与える扱いにくさがあり、第一次ポエニ戦争以降はあまり活躍していない。
射出兵器としては大型・小型のカタパルトやバリスタが用いられた。
前3世紀から多く徴用されるようになったヌミディア(ローマによる呼称、ラテン語で「遊牧民の土地」)人は幼少期から馬を交通手段としていた。なお当時ラクダはまだこの地域に存在しない。ヌミディア騎兵は馬の首にかけた綱の他に一切の馬具を使用せず、呼び声と鞭で馬を操った。馬は小型であったが荒れた土地に慣れた頑強なものであった。
戦いの際の服装は普段と同じもので、簡単な袖無しの短い上着の腰あたりを縄などで結んでベルトのようにするというようなものだったため、防具は軽く小さな丸い盾のみであった。武器は投げ槍と軽量の槍を主に使用し、ナイフや短剣の類をベルトに挟んでいた。またスリングショットを利用した可能性もある。『ガリア戦記』では前57年のベルガエ族との戦いでヌミディア人(とクレタ人)射手を使ったとしているが、ポエニ戦争においてヌミディア人が弓を使ったという記録はない。
ヌミディア騎兵は軽騎兵でであり、遮蔽物の利用や機動力で不意をついたり追跡することに長けた。一方でマケドニアのヘタイロイに見られるような突撃力はなく、重装騎兵としてはむしろスペインの騎兵が運用された。
カルタゴについて戦った南部のイベリア人とケルト・イベリア人(ケルト人とイベリア人の混血民族)は第二次ポエニ戦争の時点で装備が似通ったものとなっていた。重装歩兵がスクトゥムに似た楕円形の大きな盾を使用したのに対し、軽装歩兵はカエトラと呼ばれる円形盾を使用した。また紀元前400年以前よりイベリア人に特徴的な剣としてファルカタが挙げられる。ファルカタは刃渡り55から63cmほどのやや湾曲した剣であり、手元から2/3は片刃、残りは両刃である。歩兵と騎兵双方がこの剣を利用した。ケルト・イベリア人はケルト特有の両刃剣に似た、だがそれが刃渡り75から80cmに対しケルト・イベリアのものは60cmと短い剣を使った。しかし特筆すべきはその形というよりもスペインの高純度の鉄やその製造技術である。ハンニバルはスペインの剣の優秀さに注目し自分の部隊にも採用した。また大スキピオも質の高さに気づき、カルタゴ・ノウァ征服後に剣の作成を命じている。
ファルカタ再現:Forged in Fireという番組で見た目のお題になっていましたが鍛冶職人の腕を競う番組なので参考程度に

またソリフェレウムという投げ槍も利用されていたが、後の時代、紀元前2世紀にはローマ式のピルムに取って代わられた。
スペインの騎兵ヒネテスはカエトラ、ファルカタの他にランスも使っており、先述の通り重装騎兵として配置された。必要であれば馬を降りて歩兵とともに戦う、別の兵士を一緒に馬に乗せて戦場に運ぶなどの運用も行われた。
バレアレス諸島の投石兵は少なくとも337年以降、カルタゴ軍でスリングを使用していた。ローマのウェリテスによる投げ槍よりも射程が長く有効性も高かったため、軽装歩兵との戦いでは圧倒的に有利であった。
ハンニバルのイタリア侵攻の際、軍の4割はケルト人であった。首長と裕福な戦士は防具をつけることが多く、ギリシア・ローマとの接触後は装備が取り入れられた一方で、初期のケルト人は武具を軽蔑し防具なしで戦った。第二次ポエニ戦争においても防具なしで戦うものは多かったと考えられているが、トレビアの戦いやトラシメヌス湖畔の戦い以降はローマ兵から奪ったロリカ・ハマタと呼ばれる鎖帷子を身に着けたとされる。それ以外は大型の盾(楕円形が多い)と兜、剣で武装し基本的に重装歩兵として戦った。騎兵も歩兵とほぼ同じ装備であったが盾は丸いものを使った。
イタリアでハンニバルに味方した同盟軍については詳細は分かっていないが、ローマ式のマニプルスで戦っていたと考えられている。装備も基本的にはローマ式であったとされるが、アプリア人は前4世紀のケルト人による侵略の影響で一部ケルト風のものが見られる。
第一次ポエニ戦争でカルタゴに味方したギリシア傭兵、またザマの戦いに参戦したソパトロス率いる4000のマケドニア兵は伝統的な装備で、ファランクスの陣形で戦った。

宗教

カルタゴの神々

*6
*7
カルタゴの最高神はバアル・シャメム(𐤁𐤏𐤋𐤟𐤔𐤌𐤌"bʿl šmm"、天空の主の意)であり、この下に様々なバアル(主)が存在した。その中でもバアル・ハモン(𐤁𐤏𐤋𐤟𐤇𐤌𐤍"bʿl ḥmn")がカルタゴで重要視されていた。この神の名前の由来は様々な説があり確定していない。前5世紀からは女神タニト(𐤕𐤍𐤕"tnt")が登場するが、カルタゴの後背地の占領と関係すると見られており、またカルタゴ宗教のヘレニズム化とも結びつける説がある。タニトの起源はリビュアであったと考えられてきたが、現代ではオリエント起源であるという説が有力である。タニトは多面的な性格を持ち、処女神であると同時に母神でもあり、また豊穣の女神、死者を護る女神という性質もあった。なおタニトの印として知られるシンボル(図*6、但し揺れがある)は実際はタニトを表すものというよりもエジプトのアンクに影響されたものであると考える研究者もいる。このシンボルは護符的な役割も持っていたとも考えられており、様々な出土品に登場する。またローマ期に作られた獅子頭の女神(*7)をタニトと見る研究者もいる。しかし「タニトの印」をタニトとする研究者は、タニトはより抽象的に描写されることが多いためその可能性は低いと見ており、むしろエジプトの表現技法やセクメトの影響を受けたと考えている。ローマ期においてこの像はアフリカの人格化とされた。なお余談であるがタニトの印は1956-57年のチュニジア王国の国章に描かれており、現代のチュニジアにおいても国章からは削除されているがカルタゴ(市)の象徴としてデザインに使用される例がある。
エシュムン神殿はビュルサの丘の頂上にあったが、元々エシュムン(𐤀𐤔𐤌𐤍"ʼšmn")はシドンの神であり、ギリシアのアスクレピオスと同一視された。
ティルスの都市神メルカルト(𐤌𐤋𐤒𐤓𐤕"mlqrt")信仰はそこまで大きくはなかったがカルタゴでも信仰が見られる。ハンニバルのフィリッポス5世との同盟条約において神々の前での誓いという形式が取られたが、このときヘラクレス=メルカルトも対象とされている。
長谷川博己は『カルタゴ人の世界』の中で、ギリシア・ローマの神々とそれに相当するカルタゴの神々を以下のように整理している。
バアル・シャメム ゼウス、ユピテル
バアル・ハモン クロノス、サトゥルヌス
タニト アルテミス、ヘラ、ユノ、キュベレ、アフロディテなど
エシュムン アスクレピオスなど
レシェプ アポロン
メルカルト ヘラクレス、ヘルクレス
しかしこれらの比定については研究者の間でも意見の一致しないものも多い。

他にも楯の神、奴隷の神など様々な神が登場した。さらにギリシアのデーメーテール信仰、コレー信仰が前4世紀以降見られるようになった。ディオドロスはヒミルコの敗北を知ったリビア人の蜂起により迷信的になったカルタゴ人による導入としており、また前396年のカルタゴによるデーメーテールとコレー神殿破壊の罪滅ぼしという説があるが現代はカルタゴ在留のギリシア人が持ち込んだものと見られている。

トフェトと幼児犠牲?

*8
1862年、ギュスターヴ・フロベールは傭兵反乱を舞台にした小説『サランボー』を発表した。この小説はポリュビオスやディオドロスなどを参考にして書かれたものであるが、「モレク」という題の章にはカルタゴ人が幼児を炎に投げ入れる幼児犠牲が描写されており、議論を巻き起こした。作家サント=ブーヴとルーヴル美術館学芸員のフロネールは、「ギリシャ・ローマのカルタゴに敵対的な文献を信用しすぎている」と激しく非難した。かねてよりギリシャ・ローマの歴史家により幼児犠牲の存在は書かれてきたが、『サランボー』はこの悪名高い「カルタゴの風習」を現代人に再び思い出させるきっかけとなった。
1921年、「子供を抱く神官の石碑」(画像)と呼ばれるものがチュニジアの古代港跡の近くで発掘された。その後の発掘により、その場所からは炭化した幼児や胎児、また羊などの動物の骨が入った骨壺が発見され、幼児犠牲の存在を裏付けるものとされた。この場所は1920年代以降、『旧約聖書』に登場する犠牲を捧げた場所に由来しトフェトと呼ばれるようになった。(エレミヤ書7:32、列王記下23:10などに登場する。)
1970年代のユネスコによる「国際カルタゴ保存運動」により行われたトフェトの発掘は様々なことを明らかにした。埋葬は規則正しく個人単位で行われたことがわかり、古典資料にある突発的な集団供儀は否定された。さらに動物の骨は幼児や胎児などと同様丁重に扱われていた。これにより動物は幼児の代替であったと考えられた。そしてこの動物の骨は最初期から存在し、時代が下るにつれて減少することが明らかとなった。これは従来考えられていた、文明が成熟するにつれて人間の犠牲から動物による犠牲へと変化していったという説を否定するものであった。また埋葬された子供の年齢層は後の時代のほうが高いこともわかった。
トフェトを発掘したアメリカ隊を率いたステイガーは幼児犠牲を肯定し、さらに宗教的目的だけではなく人口抑制策として機能していたと主張した。また従来言われていた長男のみを犠牲とするという説は否定された。しかしステイガーの研究については出土史料の母数の少なさなどから批判も存在する。さらにモスカーティなどによりカルタゴの他の共同墓地からは幼児の骨はほとんど見つかっていないことを理由に、トフェトはギリシャ・ローマの歴史家によって記述されたような儀式の場ではなく、子供の共同墓地としていたとする説も主張されている。幼児の死亡率が高い古代において死産の子供や自然死した子供を共同体の構成員とはみなさず、神への供物として捧げ死後の再生や生まれ変わりを願ったとするものである。
しかし動物の骨の存在は明らかにトフェトがただの墓地ではない、ある種の聖域であったことを示しているとされる。またトフェトは儀式の場であり、かつ子供の埋葬場所であったという説も存在しておりより精密な調査を待つ必要がある。
トフェトはアイデンティティを示す一種の「装置」として利用されたという説も存在する。トフェトはカルタゴだけでなくモテュアやサルディニアなどにも見られるが、同じトフェトといってもモテュアでは幼児の土葬も行われており犠牲者が女性である例は1例を除いて存在しないなどカルタゴのものとは相違点が多く見られる。さらに地中海中央地域のみでトフェトは発見され、東西地中海では発見されていないなど地域差が指摘されている。
なお『サランボー』の章の名前に使われた「モレク」という語は従来考えられていた神ではなく、「供物」を表す語であると現代では考えられているが実体については不明点も多い。

石碑の奉納

トフェトからはいくつもの石碑が出土している。これらの石碑は3つの時代に区分でき、前7世紀~前6世紀にかけてはエル・ハワリア(チュニジア北部ボン岬に位置する)で採掘された石を用いた長方形や玉座型と呼ばれるL字型の石碑が奉納された。前6世紀末にはナオス(神殿型)と呼ばれる石碑が登場する。これらは貝殻の混じった荒い石灰岩で作られ、キッピと呼ばれる。現代でも僅かに残る塗料から、当時は全体が白い漆喰で覆われ鮮やかに色がつけられていたことがわかっている。前5世紀末には純白の石灰岩で作られたステラと呼ばれるものに取って代わられ、刻まれる図像はさらに多様化し、またギリシアの影響も受けるようになっていった。

奉納石碑の一例

原文(右から左に読む)、前3-2世紀頃
𐤋𐤓𐤁𐤕𐤋𐤕𐤍𐤕𐤐𐤍𐤁𐤏𐤋𐤅𐤋𐤀𐤃𐤍𐤋𐤁𐤏𐤋𐤇𐤌𐤍𐤀𐤔𐤍𐤃𐤓𐤌𐤕𐤍𐤁𐤏𐤋𐤀𐤔𐤕𐤀𐤈𐤍𐤀𐤁𐤕𐤇𐤌𐤋𐤊𐤕𐤄𐤔𐤐𐤈𐤍𐤔𐤌𐤀𐤒𐤋𐤀
アルファベット翻字
l rbt l tnt pn bʿl w l ʼdn l bʿl ḥmn ʼš ndr mtnbʿl ʼšt ʼṭnʼ bt ḥmlkth špṭ nšmʼ qlʼ

逐語訳
l:~へ、to~
rbt:女主人
tnt:タニト(神)
pn:顔
bʿl:バアル、主の意味
w:そして、and
ʼdn:主人
bʿl ḥmn:バアル・ハモン(神)
ʼš:関係代名詞、ここではwhich
ndr:(~によって)誓われた[受動の意]
mtnbʿl:ムトン・バアル(人名)
ʼšt:妻
ʼṭnʼ:アトゥナ(人名)
bt:娘
ḥmlkth:ヒミルカト(人名)
špṭ:スーフェース(役職)
nšmʼ:聞いてくださいますようにor聞いてくださった、本来セム語の「聞く」は𐤔𐤌𐤏(smʿ)だが音の混同により𐤏が𐤀に変わっている
qlʼ:声

全訳
女主人「バアルの顔」であるタニトへ そして主バアル・ハモンへ これは、アトゥナの妻でスーフェスであるヒミルカトの娘 ムトン・バアルが誓願したものである。なぜなら彼ら(神々)が彼女の声を聞いてくださったから。(『セム語碑文集成』による)
文面からわかるように、これは上流階級の女性による奉納である。女性による奉納碑文はカルタゴにおいてしばしば見られ、女性にも奉納、宗教活動においては一定の権利が与えられていたとされる。

葬儀と死生観

カルタゴでは死後の生や霊魂の不滅を信じており、またタニトは死者を守護するという側面があったと言われている。土葬と火葬のどちらも行われたが、火葬の場合骨壺に灰に至るまでも集められ、上には死者の名前が記された。また埋葬の際には日用品、後には死者個人に関連するものなどが副葬品とされた。具体的には鏡や彫像、再生の約束の象徴である黄土色の口紅を入れた化粧箱などである。また魔除けの目が描かれ、彩色されたダチョウの卵(生命の象徴)も安置された。シンバルや鈴などの音は悪霊を遠ざけ死者に平穏をもたらすと考えられ、これらも出土している。
共同墓地は最初期から存在した。死者の世界と生者の世界を分けて考えていたとする説が有力でありその説に従うと居住区の外に墓地が作られたとしているが、一方でその後早い時期に作られた墓地が居住区に入れられており生者と死者の世界を分けていなかったとする説も存在する。
またハンニバルは国のために死んだ兵士は遠くないうちに甦ることを兵士に訴えたとする逸話があるが、それはこの霊魂不滅の考えに則ったものである。
死者は即座に甦るのではなく、霊魂は冥界を船で旅したあと、つまり暫く時間をおいてから復活するという考えが存在したとされる。

後世のカルタゴ観

異物として、同胞として

カルタゴは西洋において、中世以降「ローマに抵抗した国家」として文学や芸術の題材とされてきた。しかしそれは専らローマの記述、特にウェルギリウスの『アエネイス』やリウィウスの『ローマ建国史』などを参照して描かれたカルタゴ像であり、カルタゴ側からの史料は何世紀もの間存在しなかった。題材としてはディドやハンニバル、マシニッサとソフォニスバの悲恋が好まれた。また『サランボー』出版後は架空の人物でありながらもサランボーはマトース(実在)と共に題材とされた。
長い期間カルタゴはギリシア・ローマとそう変わらない古典的都市として描写されてきたが、19世紀あたり以降からはオリエンタリズムの流行と共にカルタゴも非ヨーロッパ性、異国性が強調されるようになった。「文明的なオクシデントに対する未開なオリエント」という対比が用いられることも多々あり、カルタゴもオリエントの象徴として登場した。伊土戦争ののち上映された無声映画「カビリア」では「寛容なローマ」に対する「残酷なカルタゴ」という対比が強調されるが、これはカルタゴにオスマン帝国を重ねたある種のプロパガンダ的な役割も担っている。
ナチズムの時代、ドイツでは反セム主義が吹き荒れたのは言うまでもない。勿論矛先の向けられる主体がユダヤ人であったのは周知の通りであるが、フェニキア・カルタゴも「セム」としての目で見られることとなった。この時代においてポエニ戦争とはまさしく「インド=ゲルマン族(印欧語族)とセム族の対立」であり、「ザマの勝利はイタリアがローマに、ローマが世界に贈った贈り物である」と受け取られた。
1975年、当時セネガル大統領であったレオポルド・セダール・サンゴールはチュニジア大統領であり旧友のハビブ・ブルギバに「カルタゴ哀歌」(Élégie de Carthage)を捧げた。ネグリチュードの詩人であったサンゴールは詩の中でカルタゴに想いを馳せた旅行者や詩人の足跡を辿りながら、「アフリカ性」の源を訪ねている。
(略)今夜、おまえはアフリカに敬意を表し,
合わせた両手を振って挨拶する,
そしてわたしはおまえに敬意を表し,
おまえに平和の挨拶を送る,
最後の兵士のおまえに!

「日本=カルタゴ論」

1980年代後半にかけて、日本をカルタゴと比較しようとする動きが知識人を中心に現れた。カルタゴの第二次ポエニ戦争敗戦とその後の復興は、第二次世界大戦後、高度経済成長を経験しアメリカと貿易摩擦を引き起こすまでとなった日本と重ね合わされたのである。そうした中で最も有名な本は森本哲郎による『ある通商国家の興亡 カルタゴの遺書』(1989年,PHP文庫)であると思われる。なお余談だが氏はTBSの番組『新世界紀行』で実際に象を雪のアルプスに連れ出している。
じっさい、ローマとカルタゴとの戦いは、「つい昨日のこと」であった。というのは、その争いの構図は、そっくりいまに引き継がれているからである。現在世界で超大国といわれる国が、かつてのローマの役割を引き受け、そして、カルタゴにあたる「経済大国」が、昔とおなじような摩擦を引きおこしているではないか。
この本はギリシアをEC(後のEU)、ローマをアメリカ、そしてカルタゴを日本に類似した存在であるとし、「日本の今後について、この歴史のドラマが現代世界に、なかんずく日本に鋭い警告を発しているように思えてならなかった」と述べている。
ここでは脅威-恐怖理論が採用され、「カルタゴの悲劇」の原因を「富以外を求めなかったこと」、つまり文化に乏しかったこととし、文化的にローマを征服して「人類に非類のない遺産を贈ることができた」ギリシアと対比している。
カルタゴ滅亡について、楠田は1989年の論文前書きにおいて森本氏とは立場が異なるとしながらも日本人にとってショッキングな出来事と捉え、その原因についてカルタゴと日本との間には「似たもの同士的な何かをイメージさせるものがあるからではないだろうか」としている。
一方で長谷川は「文化に乏しく、オリジナル性がない」という指摘に対し、スーフェースをはじめとしたカルタゴの行政組織や、はじめは支配言語、後には内陸・民衆の言語としてのポエニ語が北アフリカで受け継がれている点、カルタゴには図書館が存在しアウグスティヌスがこの書物に言及している点、バアル・ハモンやタニトの信仰が時に名前を変えつつも生き残り、信仰に結びつく行動様式とともにアフリカのキリスト教へと浸透している点などをもって反論している。さらにカルタゴの個性を外来文化を摂取・融合させ、それを広く伝播させることにあり、これを文化創造力の下に置いてきたのはギリシア・ローマの伝統の上に立つ欧米の偏見ではないかと指摘する。精神文化と物質文明に二極化し、ギリシア・ローマと比較する、このこともまたカルタゴの独自性を見失わせたのではないかとしている。また後に氏は「日本とカルタゴとの対比、というよりも類似性の強調などは危なっかしいものであった。」と回顧している。
「カルタゴの教訓」について、弓削達はアラン・ロイド著『カルタゴの滅亡』の解説「今、カルタゴを見なおす」において、以下のように述べている。
こんにち、ひとはカルタゴの歴史を読んで何を思うであろうか。経済立国の弱さを思うであろうか。軍事力増強の必要を説くであろうか。貿易大国の、「砂上楼閣」性を憂うるであろうか。
もしそれだけのことであるなら、歴史の教訓とは、あまりに軽薄な、短見的なことしか教えてくれなかったことになる。大国の横暴、大国同士の意地のつっぱり合い、そして一国利害のみを視野におく外交の基本意識。それがもし今、この核の世界に暴走したなら、何が起こるか。このことをこそ、カルタゴは無言のうちに物語っていると言うべきであろう。

ブームは過ぎ去ったものの、この「日本=カルタゴ」という図式は今も持ち出されることがある。しかし「富の蓄積による嫉妬」というより「敗戦時の条約によって軍事行動がとれない」という点をよりクローズアップする論者が現れるなど、かつてとは異なる持ち出し方をされることもある。
なお外務省も「歴史に学ぶ」としてカルタゴの滅亡を例に挙げているが、「カルタゴは、ローマとの関係を重視し、約束を守り、友好関係をつづけてきたつもりでいたにもかかわらず、ローマ国内にカルタゴに対する嫉妬、憎しみ、いらだちが充ちあふれていたことに気づかなかった。」と脅威-恐怖理論が引用され、「強力な軍事力をもたないカルタゴは、その巨大な経済力で近隣諸国との友好関係を築いておくべきだった。」としてODAの意義を説いている。また外務省の記事に関して、第二次ポエニ戦争講和条約の条件として「(2)専守防衛に限り自衛軍の存続を認めるが海外派兵は認めない」としているが、軍艦は10隻残ってはいるもののカルタゴはアフリカ内部においても自衛を含め戦争をするにはローマの許可を必要としていた。さらにギリシア都市の一つであるコリントスもカルタゴ滅亡と同年の前146年に完全に破壊されている。

トリビア集

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・カルタゴ人の信義(羅:fides Punica 英:Punic faith)は「背信」「裏切り」を意味する。対義語はAttic faith(アッティカ=アテネの信義)
・1985年2月5日、第三次ポエニ戦争の平和条約がローマ市とカルタゴ市の間で2131年ぶりに締結された。調印された場所はかつてのカルタゴの迎賓館であり、地中海海域及び東西陣営(冷戦中)の平和を呼びかけたものであった。チュニジアのブルギバ大統領(当時)夫人やムザリ首相(当時)が調印式に訪れた。
なお象徴としての平和条約には1996年のペロポネソス戦争のものが存在するため世界一「長い」戦争ではない。
・カルタゴ含むフェニキア人の特産品である貝紫の主成分は6,6'-ジブロモインジゴというものである。アクキガイ科の貝の鰓下腺に含まれるチリンドキシル硫酸塩がプルプラーゼという酵素によりチリンドキシルに変化、さらに酸化したものが二量化してチリバージン(緑色)となり、それを日光に当てるとできる。なお最後のプロセスで凄まじい悪臭を放つ。
・近縁種の貝紫染めは吉野ヶ里遺跡でも発見されている。また伊勢志摩の海女はセーマン、ドーマンを貝紫(あるいは黒糸)で描いて魔除けとする風習がある。またメキシコの一部などでも行われている。
・ディードーはダンテの『神曲』においてアエネイスへの恋に狂った罪として地獄の第二圏で責苦を受けている。理不尽
・大カトーの『農業論』には「カルタゴの粥」というレシピが存在する。
Pultem Punicam sic coquito. Libram alicae in aquam indito, facito uti bene madeat. Id infundito in alveum purum, eo casei recentis P. III, mellis P. S, ovum unum, omnia una permisceto bene. Ita insipito in aulam novam.
訳(忠実ではない):カルタゴの粥のレシピ。スペルト小麦あるいはエンマ―小麦1リブラ(約327gのはずだが=1ポンド:約454gという説明が多い)を柔らかくなるまで煮る。それを清潔な深皿に盛り、3ポンドのフレッシュチーズと1/2ポンドの蜂蜜、卵を1つ入れ全体をよく混ぜる。新しい器に変える。

遺跡・関連スポットなど

チュニジア
・サン=ルイ(ビュルサ)の丘、国立カルタゴ博物館(英語)
ケルクアン(英語)
・トフェト
・カルタゴ軍港跡、海洋博物館

スペイン
・カルタヘナ(カルタゴ・ノウァ)、Centro de Interpretación de la Muralla Púnica(スペイン語):ポエニ期の壁が残る、2重城壁の間の空間を兵士詰所や食糧庫などとして利用するcasermettaと呼ばれる構造が見られる

イタリア(シチリア島)
・パレルモの大聖堂司教館、ポエニ墓地
モツィア(モテュア)(英語):コトン(人工港)であると思われていた場所で近年の発掘により神殿遺構が発掘され聖域だと判明した

参考文献

栗田信子,佐藤育子『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』講談社学術文庫,2016年
本村凌二『興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国』講談社学術文庫,2017年
長谷川博隆『カルタゴ人の世界』講談社学術文庫,2000年
長谷川博隆『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』講談社学術文庫,2005年
森本哲郎『ある通商国家の興亡 カルタゴの遺書』PHP文庫,1989年
アズディンヌ・ベシャウシュ著,藤崎京子訳『カルタゴの興亡』創元社,1994年
ウェルギリウス作,泉井久之助訳『アエネーイス(上)』岩波文庫,1991年
ゲルハルト・ヘルム著,関楠生訳『古代海洋民族の謎 フェニキア人』河出書房新社,1978年
マドレーヌ・ウルス=ミエダン著,高田邦彦訳『カルタゴ』白水社,1996年
マリア=ジュリア,アマダジ=グッゾ著,石川勝二訳『カルタゴの歴史 地中海の覇権をめぐる戦い』白水社,2010年
アラン・ロイド著,木本彰子訳『古代貿易大国の滅亡 カルタゴ』河出書房新社,1983年
テレンス・ワイズ著,リチャード・フック彩色画,桑原透訳『カルタゴ戦争 265BC-146BC ポエニ戦争の軍隊』新紀元社,2000年
『古代カルタゴとローマ展』(展覧会図録),2009-2010年
日本聖書協会『聖書 口語訳』
Roald Docter, Ridha Boussoffara and Pieter ter Keurs "Carthage fact and myth",Sidestonepress,2015
楠田 直樹,「ハンノの航海史料に関する一考」,1995年, 創価女子短期大学紀要18号p45-66, https://soka.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repos...
楠田 直樹,「カルタゴと天敵マシニッサ」,1986年, 創価女子短期大学紀要2号p161-185,https://soka.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repos...
楠田 直樹, 「カルタゴの滅亡とスキーピオー・アエミリアーヌス」,1989年, 創価女子短期大学紀要7号p109-136, https://soka.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repos...
https://shingi.jst.go.jp/past_abst/abst/p/12/1225/...
https://sites.google.com/site/fluordoublet/%E3%82%...
http://classics.mit.edu/Aristotle/politics.2.two.h...
http://www.thelatinlibrary.com/cato/cato.agri.html
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Ancient_Carthage
https://el.wikipedia.org/wiki/%CE%9A%CE%B1%CF%81%C...
https://en.wikipedia.org/wiki/Coat_of_arms_of_Tuni...
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Hanno_(crater)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/...
https://www.afpbb.com/articles/-/3083239
フェニキア・カルタゴ研究会 第6回公開報告会,2021年3月21日(Zoom)

関連書籍リンク

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