3.レオ、侯爵夫妻に拉致られる
レオは混乱していた。というよりは、困惑していた。
「さあさ、こちらに座って頂戴、あらあら何を遠慮してるの、さあ座って、ほらクッション! ふふ、これね、おばあ様が刺繍したのよ、ハーケンベルグ侯爵家の林檎の花紋。ふふ、うふふ、おばあ様ですって」
閃光、爆風と共に、恐らく学院なる場所に呼び寄せられたのはわかる。
「さ、どうぞ、温めたチョコレートよ。甘いものは好きかしら? きっと好きよね! うふふ、ディア――あなたの母様もね、お菓子とパンが大好物だったの。熱いから気を付けてね、ゆっくり飲むのよ」
だが、召喚されてからこちら、ずっとまとわりつき話しかけてくるこの老齢の女性は何者なのか。――いや、もちろん話の流れ的に、レーナの祖母なのだろうが。
石造りの地面に勢いよく叩きつけられたものだから、レオはしばらく頭がぼんやりしていた。
だがその間に、周囲がどよめき、老夫婦に骨が軋むほど抱きしめられ、何事かを話す前に温かい上着を掛けられ、抱えられ、風のように連行された。
視界の隅で、何やら慌てたように夫婦を制止する人たちがいたが――学院の関係者だろうか――髭を蓄えた老紳士が身震いするような低い声で鋭く一喝するとそれも止み、レオは呆然としている間に馬車に乗せられ、この王宮と見まごうばかりのハーケンベルグ侯爵家に到着したのであった。
(でけー家……)
レオは繊細な陶磁器のカップを握らされたまま、呆然と辺りを見回した。
ヴァイツ帝国の寒さ厳しい秋を欠片も感じさせぬ二重の窓に、ぱちぱちと火を爆ぜさせる暖炉、足首まで埋まりそうなほど毛足の長い敷き織物に、壁のあちこちにセンスよく飾られた絵画や宝飾品。一糸も乱れぬ姿勢で控え立つ使用人たち。
(やっべー、かぐわしい)
どこかしこからも、金の匂いが漂っている気がした。
「それで、私たちの可愛いあなた、お名前を聞かせてくれるかしら」
きらきらした瞳で老婦人――エミーリアというらしい――に問われ、レオははっと我に返った。
「……ええと、名前。……レーナ。です」
事前のレーナとの打ち合わせでは、「どうせ入学前夜しか会わない」「失踪した娘を探そうともしない親族だから」、込み入った事情は説明しないことになっていた。
だが、どうやら彼らは学院から一日だけ入学を遅らせる許可をもぎ取ったらしいうえ、しかも明らかに娘クラウディアへの愛をだだ溢れさせているのだが、どうしたものか。
(まあ、どっちみち俺もすぐ脱走することになるんだし、あんま仲良くならない方がいい……のか?)
レオは悩みながらも、ひとまず正体の暴露を保留することにした。
実はクラウディアも本当の娘も生きているなどと事情を話したら、すぐにでも町に探索の手を伸ばしそうな彼らだ。今さら下町暮らしを邪魔されるのはレーナ達の本意ではなかろうと考えたためだった。
「まあ、レーナ! レーナというのね! かわいらしい名前だわ」
暴言の呪いのせいでレオはたどたどしくしか話せなかったが、二人はそれを気にしていないようだ。エミーリア夫人は両手を合わせてきゃっきゃと喜んでいる。老侯爵の方も、「レーナ……うむ。よい」と頬を緩めているので、孫の名がわかってご満悦なのだろう。
レオはほっとして、手渡されたホットチョコレートを眺めた。
(すっげーいい匂いがするけど、これ、本当にチョコレートなんだよな?)
レオの知るチョコレートとは、年に一度、精霊祭の時にだけ振舞われる馬糞を丸めたような菓子だ。匂いばかり甘ったるい割に固くて溶けにくく、それでも、その贅沢さに孤児院の皆は敬意を込めて「おチョコ様」と呼んでいるほどなのだが。
(なんかこれ緩いし。まさか、下痢……いやいやいや、落ち着け俺)
自分には縁のなかった高級品にばかり囲まれているせいか、どうも先程から落ち着かない。
許されるならば今すぐ立ち上がって、一つ一つ検分し、更に許されるならばいくつかを頂戴してしまいたいところだ。指先がうずく。この衝動を鎮めるには、レオの隠された趣味である小銭数えをするより他はない気がしてきた。
(……ん?)
小銅貨特有の、金臭く薄っぺらい感触を夢想したレオは、そこではたと気付いた。
「……!」
ばっと胸元を押さえる。
ない。
もちろん胸の話ではない。
あれほど大事にしていたカールハインツライムント金貨が、紐ごと消え失せていたのだ。
「カー様……!」
レオは真っ青になって立ち上がった。
目まぐるしく頭を働かせ、恐らく召喚時の爆風で飛ばされてしまったのだろうと推測する。
うかうかと金貨以外の金の匂いにつられて、大切な重みが消えていたことにも気付かずにいた自分を、レオは心の底から呪った。
ホットチョコレートを見詰めていたと思ったら、突如胸を押さえて立ち上がり、「母様!」と叫んだ――もちろん周囲にはそう聞こえた――レオのことを、エミーリアたちははっとして見つめた。
「どうした、レーナ」
身を乗り出しかけた夫を、エミーリアはそっと視線で制す。今にも泣き出しそうな表情を浮かべた孫娘に向かって、彼女は優しく話しかけた。
「可愛いレーナ、落ち着いて。そうね。ホットチョコレートは、あの子も大好きだったもの。きっと思い出してしまったのよね」
困惑気に見上げてくる少女に、何もかもわかっているというように頷く。そしてエミーリアは、そっと膝をついて彼女の両肩に手を置いた。
「教えてちょうだい、レーナ。クラウディアは……、優しかった? 笑っていたかしら」
レオは眉を寄せて首を傾げた。なぜ突然レーナの母の話になるのだろうか。
「わかん……わかりません。話したこと、ありません」
パン屋の女将としてのクラウディアのことなら少々答えられるが、彼女が家庭内で優しいかどうかはわからない。
「そう……。では、あなたの母様は、あなたが小さいうちに亡くなってしまったのかしら」
レオはことりと首を傾げた。
「わかりません。私、記憶ある、母、もういません」
レオ自身の母親のことについて尋ねられているのであれば、彼は孤児院の門前でへその緒がついたまま見つかった子だったので、当然記憶などあるはずもない。
(ん? いやいや、俺の話を聞きたいわけないよな)
話の流れが掴めていないレオだったが、エミーリアが突然涙を浮かべたので、ぎょっとするあまり疑問はどこかへ消え飛んでしまった。女の涙は苦手である。
「かわいそうに……! ではあなたは、顔もわからないまま、ディアの面影を求めて生きてきたのね……」
「エミーリア。本人の前でかわいそうなどと、レーナに失礼だとは思わないのか」
何やら二人が言い合っているが、肝心のレオはきょとんとしたままだ。
すると何を思ったか、エミーリアが涙を拭って、明るくレオに笑いかけた。
「ごめんなさいね、レーナ。そうだわ、それでは気分転換に、ドレスを見てみない? あなたにぴったりのものを、たくさん誂えたのよ」
彼女がぱんぱんと手を叩くと、使用人が一斉に動き出し――レオは心底びびった――、どこからともなく大量のドレスを並べだした。
「ほら見て、このブルーのドレスを着たら、きっと海の精霊のようよ。それともこちらがいいかしら。シードルのような金色に、あなたの黒髪がきっと映えるわ。ほら、このピンクも女の子らしくてとっても素敵」
次々とドレスを当ててくるエミーリアは、もはや年若い少女のようだ。どうやら自分に服をプレゼントしてくれようとしているらしいことは理解したが、しかしレオはそれどころではなかった。
(早くカー様を探しにいかなきゃ)
爆風で飛ばされたとしたなら、きっと学院にあるのだろう。
古ぼけた金貨を貴族の連中がほしがるとも思えないが、いやいや、金貨は金貨だ、やはりほしがるに違いない。かつて人に貰ってから、大切に大切に金貨を扱ってきたレオとしては、誰かがひょいとそれをねこばばしないかと気が気ではなかった。
年頃の少女であるのに、ドレスには目もくれずそわそわしだしたレオに、エミーリアは唇を尖らせた。
「まあ、レーナ。一緒に真剣に選んでちょうだい。いつまでもその粗末な――いえ、ごめんなさいね、その服でいては寒いでしょう? ヴァイツの秋は冷えるわ。どれか選んで、着替えてちょうだいな」
「ヴァイツ……寒い」
それもそうかと内心で頷く。
孤児院で支給される古着にすっかり慣れているレオとしては、今のレーナの服でも十分温かいくらいだったが、この後学院に忍び込み、カー様を探索して回るとなるなら話は別だ。夜でも温かく、かつできれば動きやすく人目につきにくいものがよい。
真剣な面持ちでドレスを見詰めだしたレオに、エミーリアは微笑んだ。
「ね、色とりどりできれいでしょう? 全部あなたのものよ。でもそうね、今日はこれなんてどうかしら」
好みなのだろうか、彼女はさりげなくピンクのドレスを推してくる。
だがレオは眉を下げて首を振った。
「きれいすぎ、ます。もっと、黒、灰色」
「まあ……どうして? そんな暗い色が好きなの? あなたはこんなに愛らしいのに」
エミーリアはぎゅっと孫娘を抱きしめようとしたが、しかしレオは慌てて両手をつっぱり、それを退けた。
「だめ、です! 汚れて、しまいます」
エミーリアは明らかに高価なドレスを着ていた。うっかりそれに皺を付けて、後で請求されてはたまらない。
というより、レオの性分として、服であれ小物であれ、美しい物はなるべく美しい状態を保っておきたかった――もちろん、転売する際に少しでも価格を釣り上げるため刷り込まれた、さもしき習性である。
「汚れて……? 何を言っているの? ああ、今あなたの着ている服が少し汚れているからかしら。ちょっと粉っぽいわね。でもほら、だからこそ、好きなドレスを選んでいいのよ」
困惑気に、しかし優しく話しかけたエミーリアに、レオは再度首を振った。
「いけません。私、汚します。しゃがむ、這う、ひざまずきます」
なにぶん落し物の、しかも夜の探索だ。月光を頼りながら、地を這うことになるだろう。
「這う、ひざまずく……? どういうことなの? なぜあなたがそんなことをしなくてはならないの?」
「カー様、無くなった、私のせいです。だから……」
今すぐにでも探さなくてはならない、と、きりりと宣言しようとしたが、なぜか涙を流すエミーリアに強く抱きしめられた。
「馬鹿なことを言わないで! あなたの……あなたのせいであるものですか!」
「ぐ……」
思いの外、この老婦人はいい腕力を持っていた。レオは何も言い返せぬまま、じたばたともがいた。
「レーナ、レーナ! よく聞いて。あなたの母様が亡くなったのはあなたのせいなんかではない。全てフローラの……いえ、わたくしたちのせいなのよ。あなたが気に病む必要なんて、どこにもないの!」
金貨が無くなったのは自分のせいだと告げる彼女に、レオは目を白黒させた。
「エミーリア様の、せい?」
「そうよ、全てわたくしたちのせいよ。あなたはけっして、汚れてなどいないわ」
では、エミーリアがレオの大切な金貨をねこばばしたのだろうか。
「……なら、カー様、くれますか?」
取ったならすぐにでも返していただきたい。
いや、この家は金持ちそうだから、なんなら新しい金貨に替えてもらっても、ついでにもう一枚二枚増やしてもらってもかまわない。
そんな邪な気持ちで、じっと相手を見つめると、エミーリアは悲しげに首を振った。
「……ごめんなさい。それは、わたくしたちにはどうすることもできないのよ」
どうも、彼女に返してくれるつもりはないらしい。
というより、記憶を遡る限り彼女が金貨を奪ったとは考えにくいので、返すも何もないのだろう。
(それでも、お貴族様なら銅貨の一枚くらいは恵んでくれてもいいのに)
ケチだな、とレオは唇を尖らせた。
「でもね、レーナ、母様はいつもあなたのそばにいるわ。ここに――」
そう言ってエミーリアはそっとレオの胸に手を当てた。
レオはきょとんと首を傾げる。いるも何も、胸に無いと気付いたからこそ自分は今こうして焦っているのだが。
孫娘の頑是ない様子を見て、エミーリアは再び悲しげに微笑んだ。
「今のあなたには、少し難しいかしら。でも、覚えておいてね。母様も、わたくしたちも、いつもあなたの傍にいるわ――」
彼女はそっとレオにキスを落とすと、「今日はもう休みましょうね」とその場をお開きにした。
レオは今すぐ学院に戻りたい旨を伝えようとしたのだが、口を開くたびに、わかっている、何も言うなという視線で黙殺され、適わなかった。
(……仕方ねえ、明日行くことにするか)
金貨を落としたと告げるには警戒が勝った。それを聞いた誰かが先んじて、金貨をねこばばしてしまうかもしれないからだ。探索には、レオ自身が向かう必要があるのだ。
幸い、馬車の中で聞いた限りでは、あの中庭は普段は閉鎖されているとのことだ。自分たちは最後にあの場を後にしたので、明日くらいまでなら大丈夫だろう。
(ひとまず、寝よ)
どのみち、明日いっぱいこの屋敷で過ごした後は、一日遅れの入学をすることになっている。明日早々、それを一日縮めるよう――つまり所定の入学期日に合わせるよう二人を説得して、大手を振って学院に戻ればいいだろう。なにせ、ここから学院まで、どこをどう向かうべきか、レオにはさっぱりわからないのだから。
変な時間に昏睡し、今かなり遅くまで起きているため、とても眠い。
(金と眠気にはかなわん。いいや、明日、明日――)
レオはレースと刺繍がふんだんに施されたベッドに案内され、三つ数える間に眠りに落ちた。
***
「――あの子はもう寝たのか」
「ええ、ベッドにもぐったと思ったら、すぐでしたわ。……子どもってそういうものでしたわね。懐かしいわ」
孫娘のために用意した子ども部屋から居間へと戻ったエミーリアは、ソファに掛けた夫が厳しい表情を浮かべているのを認めて、静かに呼び掛けた。
「あなた」
「ああ」
二人が連れ添って、もう四十年近くなる。互いの意図は、たったそれだけの言葉で伝わった。
「私は、間違っていたのだろうな」
やがて、侯爵が髭を撫でながら、ぽつりと呟いた。
エミーリアは何も言わない。
「……クラウディアが禍に巻き込まれた時、彼女なら身に降りかかった火の粉を払いのけられると、そう信じて疑わなかった。死んだと噂で聞いた時も、半信半疑だったし――もしその程度で命を落とすのであれば、それがディアの運命なのだと思ったのだ」
侯爵は、武勲で名を上げた男だった。彼の思想は戦争の場で形作られ、平穏な日々を生きていてもなお、その根幹は戦場に根差したままだ。それを知っている妻は、ただその横顔を見守るしかできなかった。
「だが今日、あの子を――レーナを見て、私は精霊の奇跡と、そして自らの罪を知ったのだ。あのように愛らしい、何の罪もない子が、汚泥にまみれ、自分を責めながら生きてきたという事実……そしてその境遇に追いやったのは、他でもない私であるということを」
「……あの子は、ひどく痩せておりましたね」
「それに、ヴァイツ語も流暢に話せぬようだった。恐らくだが、周囲にそれを教える人間がいなかったのだろう」
侯爵はぎり、と拳を握りしめた。
「時折、あの子が感情を高ぶらせそうになるたびに、言葉に詰まっていたことに気付いたか?」
「ええ、びくりと、何かに怯えたように肩を震わせて……」
「誰かがレーナをそうさせたのだ。大声で喚かぬよう、大人の機嫌を損ねぬよう、あの子が叫ぼうとするたびに、おおかた殴るなりして躾けたのではないか」
エミーリアが涙を浮かべた。
「ええ、ええ。そうでなければ、どうして年端もゆかないあの子が、自分は汚れているなどと言いましょう。きっと誰かが、レーナを詰り、食事も十分に与えぬまま、地に這い蹲らせていたのだわ」
実際には、偏食気味のレーナが、毎日出される残り物のパンに飽きてハンストを起こしたり、特に最近は入れ換わりの魔術を実現するために、寝食を忘れて研究に没頭していただけなのであるが、そんなことを与り知らぬ夫人は、先程の一連のやり取りで孫の不幸を確信していた。
「ねえ、クラウス」
エミーリアは久しぶりに夫の名を呼んだ。大切なことを告げる時の、彼女の癖だ。
「わたくしは、あの子を守るわ」
はっきりとした口調だった。
「孤独からも、凍える寒さからも、わたくしが持つ全てを捧げて、あの子を守ってみせる。協力してくださるでしょう?」
「もちろんだ」
クラウス侯の返事もまた、短く力強かった。
「あの子には、誰もが羨むような、祝福された人生を用意しよう。手始めに――新しい人生に相応しい名を与えようと考えているのだが、どうだろう」
「まあ、素晴らしいですわ!」
ヴァイツ帝国では、名付けによって人から人へと祝福が渡されると考えられており、誰かに名を授けることは、即ちその人物の後見人になることを意味する。
エミーリアにもちろん否やはなかった。
「それでもレーナというのは生まれた時から親しんでいる名なのだから、なるべく響きが近い方がいいですわね。レーナ、エレーナ、エレノア……レオノーラ」
夫人はぱっと顔を上げた。
「レオノーラなんてどうでしょう」
「ああ、実は私もそれがいいと考えていた」
ハーケンベルグ侯爵夫妻は顔を合わせて微笑んだ。それは、二人が久しぶりに、心からの笑みを浮かべた瞬間だった。
「レオノーラ……わたくしたちの、愛しい子」
そしてまた、それは、この世にレオノーラ・フォン・ハーケンベルグが誕生した瞬間でもあった。
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