横八会員投稿 No.284

題名 歴史探訪、真珠湾攻撃に宣戦通告が遅れた真相
投稿 伊藤 博 (7組)
掲載 2008.08.22

歴史探訪

        真珠湾攻撃に宣戦通告が遅れた真相

時の流れに従って秘匿とされていた資料が解禁となり、歴史を見直す機会が増えてくる。
史実を正確に伝承することは、今を生きる者の後世へ為すべき義務である。

本夏も終戦記念日を迎えたが、太平洋戦争の発端に纏わる事情もこの類に漏れない。

野村吉三朗駐米大使と来栖三朗特命大使が米国国務省を訪れ、ハル国務長官に交渉断絶の
通告を渡したのは、ワシントン時間で1941年(昭和16)12月7日午後2時20分。
これは、外務大臣東郷茂徳が指定した渡す時間から1時間20分も遅れていた。

(ハワイ時間で、日本の機動部隊が真珠湾の米太平洋艦隊の奇襲の55分後にあたる)

これが、同時に進められていた米国との戦争回避の交渉に対する背信行為として、
卑劣な無通告攻撃と喧伝されて、日本の虚偽と汚名となって、
The  day  of  infamy は真珠湾攻撃の
同義語として定着した。

これまでは、この遅れた理由は、駐米日本大使館での暗号解読と翻訳の遅れによる事務手続上の
原因説が通説となっているが、実は、「日本政府・軍統帥部が奇襲を成功させるために無通告
開戦を決定していた
」という真相が記録の上で明らかに物語っている。

同年11月27日の参謀本部「機密戦争日誌」に、無通告開戦という結論が明瞭に記載されている
箇所がある。

連絡会議は、「対米交渉不成立大勢を制し、今後開戦に至までの諸般の手続きに就き審議決定す」
と前置きして、

第三項に、

開戦の翌日宣戦を布告す。宣戦の布告は宣戦の詔書に依り公布す」

 宣戦布告は、X日+1においている。日露戦争や第一次世界大戦の時の詔書にあった
「国際法を遵守し」の一行も無い。

宣戦通告は、日本も1911年(明治44)11月に批准した国際法の取り決めがある。

1907年調印されたハーグ条約第3条の、「開戦に関する条約」第1條に、

「締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を
有する明瞭かつ事前の通告無くしてその相互間に戦争を開始すべからざることを承認する」(定訳)

このハーグ条約が存在しなかった日露戦争(1904)の時でさえも、2月9日の仁川港外と旅順港で
の奇襲の直前の2月5日、在ロシア日本公使館を通じて、国交断絶の通告を申し送っていた。

この無通告開戦について、戦後東京裁判において、当時の東郷外相(真珠湾奇襲攻撃は軍の機密で
知らされていなかった)がこれに同意した理由を、彼の宣誓供述書を見ると、

「この戦争は自衛の戦争であるから、宣戦の通告を要しないという意見の存するのを知っていた」
と述べている。

その例として、1916年、アメリカのメキシコ遠征軍の派遣(議会にの承認なしに戦闘開始)、
1937年、ドイツのポーランド侵攻に際して、フランスはポーランドに対する義務を遂行するとして
対ドイツへの戦端を開いたが、いずれも自衛のためであった、としている。

この判断は、挑発されて武力を行使せざるをえない側は、宣戦通告は不要との考え方に基づく解釈である。

しかるに、東郷は後に述べているところでは、ワシントンの駐米野村大使から交渉打ち切りの事前通告
の必要を諄々と意見具申があり、

「通告の手続きをとることが実際には不必要であることが明瞭であるにしても、国際道徳遵守の点において、
日本の信用に疑を残すよりは、かかる手続きを踏む方がよいと考え」始めたと述べている。

同年12月1日の御前会議の後に、参内した東條首相に、天皇は

最期通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」とのきい注意があったが、その聖意
(統帥権)は完全に無視される結果となった。

そして、軍統帥部に対して誰よりも強く、必ず宣戦布告の事前通告をすべきであるとの意見を開戦に
至る土壇場まで主張し続けていたのは、他ならぬ真珠湾奇襲攻撃を発案した連合艦隊司令長官・
山本五十六その人であった。

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