理研が脱毛、薄毛を克服する「毛髪再生医療」を開発 実用化のタイミング、費用は?
2021年08月03日 10時56分 デイリー新潮
日本を代表する自然科学の研究機関「理化学研究所」のチームが、脱毛症や薄毛を完全に克服する世界初の治療法を確立した。国内だけで2400万人という、男性型・女性型脱毛症患者への福音はいかに実現されたのか。開発責任者が語った“夢の技術”のレポート。
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新東京国際空港(現・成田国際空港)が開港し、日中平和友好条約が締結された昭和53年、遠ざかって行くカウボーイに向かって、少年が「シェ~ン! カミ(髪)バ~ック!」と叫ぶ西部劇風のアニメCMがあった。
第一製薬(現・第一三共ヘルスケア)が売り出した、脱毛予防・発毛促進・育毛剤の「カロヤン」の宣伝で、「抜け始めて分かる、髪は長~い友達」とのキャッチコピーで話題を呼んだ。ご記憶のある読者の中には「もはやカミバックなんかできない」と嘆息している方もいるかもしれない。
そうした薄毛に悩む人々が待ち望んだ朗報が、業界の内外で注目を集めている。先の育毛剤などに頼るものとは一線を画し、先端科学を用いた研究の賜物で、いうなれば「人体の器官を丸ごと再生する技術」でフサフサの髪を蘇らせるものだ。
「私のチームは、この技術を『器官原基法』と呼んでいます。2007年(平成19年)にイギリスの科学雑誌『ネイチャーメソッズ』に、歯や髪の毛が再生できることを証明した論文を発表したところ、国内にとどまらず、世界各国から大きな反響がありました」
こう語るのは、兵庫県神戸市の理化学研究所生命機能科学研究センターで、器官誘導研究チームを率いる理学博士の辻孝氏(59)だ。
「ただ、この時は細胞の正しい組み立て方を開発したことを報告しただけで、何かを再生したわけではありませんでした。にもかかわらず、それこそ世界中から私宛てにメールが届きましてね。中には“ボランティアとして日本に行くから、俺の頭を実験に使ってくれ。とにかく早く実現させてほしい”という切実な訴えもあったほどです。一方で、どこかで私の顔写真でも見た方なのか“本気で実用化を急いでほしい。あなたは脱毛症に悩んでいるように見えないが、本当に真剣に研究しているのか?”といった声も寄せられました。改めて、世界中の多くの人にとって、薄毛や脱毛症は深刻な悩みだということを痛感しました」
早速、研究内容を伺うと、
「私たちが研究しているのは『毛包』という髪の毛を作り出す“工場”と、さらにその元となる『毛包原基』と呼ばれる毛包の“タネ”になるもの。毛包は人体を形成する『器官』のひとつです。複数種類の細胞が集まって固有の機能や構造を持つに至ったもので、耳や目もそうだし、臓器と呼ばれる心臓や肺、胃なども器官に含まれる」
辻氏は「究極の再生医療は器官を作ること」と言う。キーワードはあくまで「器官」なのだ。
「例えば、肝臓を丸ごと1個作り、ガン患者のそれと入れ替えるという治療法です。ただ、大型で機能や構造が複雑な器官は再生する際の難度があまりに高い。そこで同じ原理を利用できる実験モデルとして、歯や毛髪の器官再生を目指しました。ここで技術が確立できれば、将来的には肝臓をはじめとする臓器の再生にも応用できると考えたからです。結論から言えば、その一歩はすでに始まっているんですよ」
その辻氏は、新潟大学大学院の理学研究科を修了後、山之内製薬や日本たばこ産業など民間企業の研究施設を渡り歩いた。それらに在籍した当時は血液細胞の研究、とりわけ白血病治療のための造血幹細胞(骨髄細胞)や肝臓の再生をテーマにしていたという。
辻氏が独自開発した毛髪再生のメカニズムを紹介する前に、その前提となる再生医療の原理を詳らかにしておく必要がある。
再生医療における技術開発は、三つのステージに分類される。
■毛髪の“タネ”
第1ステージは骨髄移植のように幹細胞を移入して行う治療法だ。その代表例が急性骨髄性白血病患者への造血幹細胞移植で、東京五輪に出場する女子競泳の池江璃花子選手(21)が一昨年に受けた治療法も、この造血幹細胞移植だった。
続く第2ステージは人体の組織を再生するもの。例えば、腕や足などに酷い火傷や熱傷を負った際、お尻や背中の皮膚を採取・培養して患部に張り付ける治療法。これは皮膚という同じ細胞種を組織化して移植する治療法だ。
そして辻氏が率いるチームが取り組む再生医療が、第3のステージだ。
「人間を含め、哺乳類の身体は受精後の初期発生から作られ始めます。哺乳類のほとんどすべての器官は、それを作り出す能力を持つ上皮性幹細胞と間葉性幹細胞という2種類の細胞からできています。この二つを上手く組み合わせることで、細胞同士がコミュニケーションを取ってあらゆる器官や組織の元になる細胞の塊である“タネ”に相当する器官原基を作ります。使う幹細胞の種類を変えるだけで歯や毛包はもちろん、臓器を含めたさまざまな器官原基を作ることが可能。つまり、それぞれのタネを、器官が本来ある場所に移植すれば、後は増殖と分化を繰り返して器官固有の形と機能を獲得していきます」
本来ある場所での再生とは、髪の毛なら頭部、歯なら口の中、心臓や肺なら胸部に移植するということ。米なら田んぼに稲を植え、キュウリは専用の畑にタネを蒔いて生育を待つのと同じ理屈だ。
「器官原基を作る際に、上皮性幹細胞と間葉性幹細胞を一緒に培養する必要があることは、かねてから研究者の間で知られていました。ただ、長らく効果的な培養方法が見つからなかったのです。その点、私たちはネバネバした液体コラーゲンの中に、高い密度で区画化したおよそ10万個の上皮性幹細胞を入れ、そこに間葉性幹細胞をピッタリ貼る方法により、生体内、つまり人間の体内と同じ環境を作り出すことに成功したのです」
こうして作られる器官原基の大きさは、約100マイクロメートル(0・1ミリメートル)。顕微鏡でしか目にすることができない極小さだ。
「本来、器官のほとんどは胎児期にしか作られません。そのため心臓や肝臓、胃などのひとつしかない器官(臓器)が機能不全に陥れば、代わりに新たな臓器を入れ替える治療法、いわゆる移植治療を受ける必要が出てきます。ところが例外的なのが人間の歯です」
人間の歯は、最初に乳歯が生えてくるが、6歳前後になるとそれが抜け落ちて永久歯に生え替わる。理由は、母親の胎内にいる時に歯胚と呼ばれる歯の器官原基を二つ授かって生まれてくるからだという。
「そこで私たちは最初の実験をマウスの歯で試すことにしました。09年のことです。器官原基法で作った歯胚を成体マウスの歯を抜いて歯がない状態にした歯茎に移植したのです。すると、神経線維もそろった完全な歯が新たに生えてきた。これで器官原基法が、正常な組織構造を有する新たな器官を再生できると実証できたのです」
さて、問題は頭髪である。すでに触れたように、人間のほとんどの器官は胎児の時にしか作られることはない。ところが人体には周期的に再生を繰り返すものがあった。言うまでもなく、頭髪や体毛などの毛髪である。
頭髪を例にその構造を見てみると、毛髪は皮膚の上に出ている毛幹と皮膚の中に埋もれている毛根の部分とに分けられる。毛根の最も深いところには毛乳頭と毛母細胞があり、毛球と呼ばれる。
毛包は「毛髪の製造工場」といわれ、一定期間ごとに毛髪を生み出していく。その周期が「毛周期」で、〈初期成長期→後期成長期→退行期→休止期→脱毛〉というサイクルを繰り返す。古いものが抜けて新しい毛髪が生まれるのが初期成長期で、その後は後期成長期まで成長、つまり伸び続ける。毛周期には個人差があるものの、頭髪は男性で3年から5年、女性は4年から6年とされている。成長期は生えている場所によって異なり、眉毛は1カ月から2カ月、睫毛は3週間から1カ月、手や腕などの産毛は約2週間とされている。頭髪が他の体毛と違って数十センチから数メートルの長さまで伸びるのは、飛び抜けて成長期が長いからだ。
退行期には成長が止まり始め、やがて寿命を迎える休止期になると、その務めを終えることになる。
■“記憶”を失くして誕生
「その時には毛幹だけでなく毛根も一緒に無くなるわけですが、毛包は毛母細胞と毛乳頭に繰り返し毛髪を作り出させる力を持っています。つまり、胎児の時に母親から授かった毛髪の器官原基が失われることなく保管され続けている、ということになります」
毛包の働くさまは、さながら古くなった設備を繰り返しリニューアルして稼働する製造工場のようだ。
「毛包は人体の中でも、生涯にわたって再生能力を失わない唯一の器官です。そこで私たちは器官原基法で毛包を大量に作り出し、それを頭髪が抜け落ちたところに移植すれば、再びフサフサの状態に戻ると考えたわけです」
最初の実験は12年に行われ、マウスの毛包から取り出した上皮性幹細胞と間葉性幹細胞を使って、器官原基法によって毛包器官原基を再生した。この「毛包原基」を先天的に毛が生えていないヌードマウスの体に移植した。
「その際、数ミリ程度の長さの細いナイロン糸を1本添えました。あらかじめ毛包原基に糸を挿入しておけば、それが毛穴を確保する役目を果たすので、新たに生えてきた毛髪がスムーズに成長できると考えたからです。毛穴を確保しないと、せっかく生えてきた毛が皮膚の下から顔を出せないまま育ってしまいます。それを防ぐための工夫でした」
移植から21日目になると、ヌードマウスの皮膚から黒っぽい毛髪が生えてきた様子が確認できた。辻氏のチームが「再生毛」と呼ぶその経過も順調で、毛根と表皮をつないで毛髪を立たせる役目を果たす立毛筋や、周囲の神経線維とも接続するなどの正常な生理反応が認められた。
「ナイロン糸はまるで古い毛髪と生え替わるかのごとく、再生毛の成長とともに毛穴から押し出されるように抜け落ちていきました。さらに観察を続けていると、再生毛はマウスの正常な毛周期に従って何度も生え替わりを繰り返すことが確認されました」
辻氏のチームが歯の再生をヒントに取り組んできた、器官原基法を用いた頭髪の再生医療の実用化に道が拓かれた瞬間だった。
「ただ、この時点では大きな課題が残りました。頭髪や眉毛、産毛など各部位の毛髪は、自身の発生過程のボディプラン(個体が発生するときの設計図)、言い換えれば、自分の毛質や毛周期を記憶しています。ところが培養して増やした間葉性幹細胞に由来する毛乳頭細胞にはその働きがコピーされなかった。つまりは“記憶”を失くした状態で生まれてきてしまったのです」
正常な毛髪を再生させるには、上皮性幹細胞と間葉性幹細胞由来の毛乳頭、さらに髪の毛に色を付ける色素幹細胞という三つすべての記憶を保たせなくてはならなかったという。
「そこで、それぞれの幹細胞があった場所と同じ環境になる培養液の再現にようやくこぎ着け、それで試したところ、記憶を持った毛包原基を増やすことに成功したのです。しかも、その数は20日間で100倍にまで達しましたから、これで実用化への目途が立ちました。とはいえ、この課題の解消までに7年の月日を費やさざるを得ませんでした」
■異なる種類の毛乳頭
現在、日本の15歳以上の男性の数は約5300万人とされる。そのうちの約3割に相当する1800万人あまりは、男性型脱毛症(AGA)だとみられている。AGAは20代以降に発症するケースが一般的だが、遅い場合は50代から60代になってからというケースも少なくない。
「AGAの症状にはさまざまなパターンがありますが、代表的なのは前頭部と頭頂部の毛が産毛に生え替わって、全体的に頭皮が露出している状態になるもの。サザエさん一家の波平さんが良い例ですね。側頭部や後頭部、襟足付近の毛髪が残りやすいのは、毛乳頭が脱毛を促進する男性ホルモンの影響を受けにくいからです。頭髪の毛乳頭は場所によって種類が異なるんです」
この特性を逆手に取った治療法が、すでに実施されている「自毛植毛」だ。毛包原基を培養するような手間をかけずに、生え残っている後頭部や側頭部の皮膚を毛包ごと採取して、薄毛が気になる箇所に植え替える方法である。
「生える場所を“引っ越す”だけなら、毛乳頭細胞は自身の記憶を失いませんから、脱毛が進行した場所に移植されても移植前と変わらず成長し続けます。現時点では有効な治療法の一つとされていますが、切除された部分では毛髪は再生しませんので、その切り取られたスペースを目立たなくするため、縫い合わせるなどの必要があります」
日本人の頭皮には、1平方センチメートル当たり約100本の毛包があるとされる。そのため仮に自毛植毛で1・5センチメートル×10センチメートルの後頭部の皮膚組織を採取しても、約1500本の毛包しか移植はできない。成人男性の頭には、頭頂部だけで約3万本が生えているので、植毛では全体をカバーするには到底数が追いつかない。つまりは、あくまで応急処置に近い位置づけなのだ。
「その点、器官原基法を用いれば、後頭部や側頭部から採取した毛包を大量に培養することが可能。必要な面積に、必要なだけ培養して増やした毛包原基を植えるだけで豊かな頭髪を取り戻すことができるのです。しかも記憶を保持しているので、未来永劫、髪が生え替わり続けるのです」
辻氏によると、中高年になってもAGAが発症しない人は、後頭部や側頭部型の毛乳頭が頭部全体に分布している場合が多いという。では、その差はどうして生じるのか。
「これを言うと絶望する方がいるかもしれませんが、最大の理由は遺伝です。“頭皮を不衛生にしていると禿げる”といった巷説(こうせつ)もありますが、AGAと頭皮が清潔か不潔かということにほとんど因果関係はありません」
以前、とあるテレビのバラエティ番組で、頭髪が薄くなってきたという芸人が“治療のために薬を飲み始めたら、2カ月くらいでさらに薄くなって、むしろ脇毛ばかり伸びて、乳首が大きくなった”と嘆いていた。さらに続けて“あの治療薬には男性ホルモンの分泌を抑えるために女性ホルモンが入っている。それで乳首が大きくなった”と笑いを誘っていた。いかにも芸人らしいトークだが、AGA治療薬にはこうした副作用がつきものなのだろうか。
「基本的には薄毛の治療薬が男性ホルモンに影響を与えることはありません。身体の変化が本当なら、たまたま別の要因が重なっただけだと思いますが……」
■治療はたったの一度
では、AGAの人にはご先祖様からどんな遺伝情報がもたらされているのか。
「遺伝しているのは、思春期以降に男性ホルモンが異常に活性化し、『5αリダクターゼII型』という酵素の作用で毛乳頭細胞の働きが著しく抑制される現象です。これによって数年単位だった頭髪の毛周期が、わずか2週間程度にまで短縮されてしまう。太くて硬かった毛髪が抜けた後に新しく生えてくるのは、それまでとは打って変わって細くて短いひ弱な産毛。それで地肌が目立つことになるんです。実際、AGAに悩む男性の頭を間近で見れば、まったく毛がないわけではなく、うっすらと産毛が生えています」
ところで、抜け毛や薄毛に悩むのは女性も同じ。昨年秋には、フリーアナウンサーの傍ら女優やモデルもこなす“美のカリスマ”こと、田中みな実(34)が、ラジオ番組で“薄毛治療を始めた”とカミングアウトしてファンを驚かせた。撮影現場でヘアメイク担当者が彼女の髪の分け目に“黒い粉をトントンした”ことがショックだったという。女性の薄毛について辻氏に尋ねると、
「国内の男性型脱毛症患者はおよそ1800万人ですが、女性型脱毛症の患者はAGAのおよそ3分の1に当たる600万人程度といわれています。決して少ない数ではありませんが、女性型脱毛症のメカニズムについては、いまだに詳しいことは分かっていないんです。ただ、女性は古い毛が抜けてから新しい毛が生えてくるまでの期間が男性より長い。そのタイムラグの間は毛が減ったように見えるので、田中さんはちょうどその端境期だったのかもしれません。今後、器官原基法がAGAの治療で成果を出せば、次は女性型脱毛症の、さらにその次には難治性脱毛症の方々に朗報を届けたいと考えているところです」
辻氏の技術は人類への大いなる福音となるはずのものだ。昨年6月には厚生労働省の委員会から承認を受け、いよいよAGAの男性患者に対する臨床研究が可能になったところだが、ここに至って彼の歩みは止まったままの状態にある。
共同研究開発を進めてきた理研内のベンチャー企業が、経営に行き詰って事業停止に陥っているからだ。実用化を目前にしながらの思わぬ足踏みだが、辻氏の表情はあくまで明るい。
「最初の毛包再生の臨床試験には5億円程度を投じ、成果が確認されたら追加で10億から15億円くらいかけて、徐々に治験数を増やしていこうと考えています」
実用化が実現した際の治療費はどれくらいなのか。
「最初の100人くらいまでは5千万円ほどでしょう。1万人になれば2500万円、それ以降は1500万円という具合に下がっていく。利用者が増えるほど、それだけコストダウンが可能になります」
振り返れば、最初は月額約3万円以上もした携帯電話も、普及率の上昇とともにいまや家族全員、小学生でも持てるほどに基本料金が下がっていった。
「既存の植毛治療では1回100万円から200万円という例もありますし、それを2回、3回と繰り返さなければなりません。それに引き換え、私たちの器官原基法は一度の治療で済みます。伸びしろは大きいですよ」
薄毛治療にパラダイムシフトをもたらす最新技術。世界中が実用化を、いまかいまかと待ち望んでいる。
飯田 守(いいだまもる)
ライター。1954年、徳島県生まれ。講談社「現代」の記者を経て、フリーのライター・編集者に。週刊誌や月刊誌で、政財界関係者やスポーツ選手などのインタビューを手がける。鉄道にも造詣が深く、著書に『みんな知りたい! ドクターイエローのひみつ』(講談社)がある。
「週刊新潮」2021年7月29日号 掲載