東京の北区池袋駅から赤羽駅まで結ぶ
路線に国鉄赤羽線という鉄道があった。
元々は品川まで通っていたが、赤羽線
の山の手エリアは山手線となった。
そして私が小6の時の1972年に山手線
から分離して池袋-赤羽間が赤羽線と
いう名称で分離された。
車両は以前は内装木造で中に柱がある
通勤車両が使われていた。その車両は
京浜東北線や鶴見線で使われ、鶴見線
では1980年代にもまだ現役だった1950
年代の車両だ。
赤羽線はその後、総武線のお古の黄色い
車両が使われた。これが1970年代末期。
やがて山手線が新車両になるに伴い、
山手線の黄緑の旧車両と黄色の車両が
連結されて運行された。これが1980年代
前半。
その後、赤羽線は埼京線開通に伴い、
5.5kmの短い区間に4駅あった路線は
埼京線に吸収された。
赤羽 十条 板橋 池袋
〇-----〇-----〇-----〇
東京都最北の路線だった赤羽線は通勤
通学で朝夕は常に超満員だった。
特に埼玉県から都内に通勤通学する
乗客が多く、埼玉から都内に出る国電
中央ルートは、東の京浜東北線と高崎線・
東北線、西の赤羽線だった。
その更に東には私鉄の東武鉄道があり、
西の外れには池袋から所沢方面に延びる
私鉄の西武鉄道があった。
赤羽線の十条駅には主として三つの
高校の高校生が乗降した。
一つが帝京高校で、とんねるずで有名
になる前は入試難易度偏差値35程の
高校だった。(とんねるずが通った頃)
ブレザーの制服で、さしてツッパリ校
でもなかった。
東京都の高校の場合、地方の田舎の
ように「ツッパリ=学力が低い生徒」
というのは全く該当しない。学力が
高くともツッパリ揃いの学校もあれば、
学力が低くともまったくツッパリが
少ない高校もあった。地方とは異なる。
帝京高校は埼玉栄高校の制服に似ていた
が、埼玉栄高校も1970年代中期には
受験偏差値は35以下だったことは現在
の状況からは想像がつかない事もある
だろう。
埼玉県内で一番入試難易度の低い高校が
埼玉栄だった。公立工業高校受験者の
滑り止め。名前が書ければ合格した。
今でいうボーダーフリー校だ。
今では埼玉栄は偏差値70近い進学校に
なったが、これはスポーツに力を入れ
て人気が出たため学力を上げる事にも
成功した全国的な典型例だった。
似たような現象として早稲田実業がある。
早実は1970年代には偏差値も65あたりで
少しだけ入試が難しい学校、という程度
だったが、荒木大輔が投手の時代の甲子園
出場以降、人気が沸騰し、一気に難関校
になった。男女共学にした事も幅広い層
の中学生の入試希望者を募れた事も大きい
だろう。それと中高一貫を強めたことだ。
早稲田大学近辺から都下に移転して大改革
をして学校が変身した。早実から早大に
進んだ経歴の職場の上司は「俺、今なら
早実受かんねえよ(笑)」と言っていた。
十条駅のもうひとつの高校は朝鮮高校
だった。南北朝鮮分断以降では北朝鮮
となった国の高校。もともとは朝鮮は
一つの国だが、アメリカとソ連・中国
の冷戦のあおりを食って国が二つに
分断された。
この十条の朝鮮高校生のスタイルは
日本の大学の応援団とまったく同じ
スタイルだった。ある意味国士館高校
のスタイルと一緒。
頭髪は短いストパーかアイパーで固め、
ヤクザと同じ髪型。長ランにズボンは
スカパンのような幅広のドカン。
ぺったんこの「チョンバッグ」と呼ば
れた通学鞄のスタイルは日本人たち
も真似していた。ループが手に持つの
ではなく腕に通せたので便利な鞄だが、
日本人のツッパリたちは襲撃防御用
にぺったんこ鞄の中には鉄棒を必ず
隠し持っていた。太めの文鎮や特殊
警棒や短い鉄パイプ等。
そして、1970年代の朝鮮高校の男子は
都内のどの駅でも日本人のツッパリを
見かけると襲撃してきた。
十条駅以外では。
これほんと。
私と私の中学の時のツッパ高校の同級
生もいきなりすれ違いざまに襲撃され、
国電大宮駅構内で大乱闘になった。
2対6。かなり激戦奮闘したが、最終的
には負けた(?)。朝鮮高校生はメリ
ケンサックを使っていた。中学の同級
生は顔面骨折で入院。私は全身入院まで
の深手は負わなかった。
あれ凄かった。連れを狙い打ちで6人
で蜂が襲い掛かるように一斉に攻撃
した。瞬時。止めに入って大乱闘と
なった。相手も一人通路に完全に伸び
ていた。私も一人を狙い打ちにして
集中攻撃してから次にかかった。時間
的には一人にかかるのは極めて短い。
だが、最後は警官隊が駆けつけて来て
伸びてる奴は仲間に抱き抱えられて
逃げるように去って行った。高1の
6月だった。
また、池袋駅と巣鴨駅でやはり朝鮮高校
生と乱闘になった事があった。こちらは
鉄道公安が割って入ったので双方怪我人
なく解散で解決。あとはこちらの警察
での取り調べだけ。
一方朝鮮高校の女子生徒にはツッパリ
女子は一人もいない。制服はチョゴリで
愛らしく、性格も純朴でお嬢様のような
女の子たちばかりだった。大人しく
しおらしい性格のいい女子高生ばかり
だった。ただし、日本人と朝鮮人が
付き合う事は禁忌とされていて、恋が
実ったケースは耳にしたことがない時代
だった。
この頃から25年後以上経った頃、日本人
の男たちが朝鮮高校の女子生徒たちに
暴力的いやがらせをして、カッターで
チョゴリの制服を切ったり、朝鮮に帰れ
と罵声を浴びせたり、非道の限りを尽く
した。
純朴な女子中学生や女子高生に日本の
男たちはそれをやった。ネトウヨが
大発生した頃だ。
かくも日本の男子はクズになり果てた
かと呆れたが、ネトウヨやレイシスト
の日本人というのはそういう卑怯千万
な事を平気でする。今でも匿名ネット
やSNSを生き甲斐としているクズたち
は同類の思考性を持っている。
朝鮮中高は、日本人の暴力により、
民族衣装のデザインのあのかわいい
制服を廃止せざるを得なくなった。
チョゴリを見たら日本人の男どもに襲わ
れるからだ。
国際的にとんでもない事を日本のクズ
どもはやらかした。
もう一つ、十条には東京家政大附属女子
という女子校があった。
入試難易度は偏差値62程の中堅だったが、
いわゆるお嬢様学校だった。
制服は紺のジャンパースカートで、上は
王子の桜丘女子のようなボレロでは
なかった。この家政大附属の制服がまた
とてもカワイかった。十文字女子とも
異なるジャンパースカート。
そして、この高校の女子高生たちは、
どういう訳か可愛い子ばかりが揃って
いるという不思議な学校だった。
都内には時々、こうした謎の女子校が
あり、可愛い子が多数いる学校がある。
慶應女子などもそれで、どういうカラクリ
かわからぬが、美人ばかりいた。
それでも、一番の別嬪揃いの高校は
堀越学園だった。特に芸能コース(笑)。
都内通学、いろんな事がある。
毎日ありきたりの固定的日常は、首都
東京には存在しない。