507 日 常
「レーナさん、ちょっといいですか?」
「何よ?」
「この腕章を右腕に着けていただけませんか?」
「え? ……まあ、別に構わないけど……。
……着けたわよ? で、これでどうするのよ?」
「そして、左手でその腕章を引っ張りながら、こう言ってください。……『
「いったい、何の真似よっ! ワケが分からないわよっっ!!」
* *
大陸の北の果て、魔族の居住地区から戻って2週間。マイル達は普通の生活……マイル達にとっては……に戻っていた。
いや、あの遠征も、マイル達にとっては『普通の生活』の一部にすぎなかったのであろうが……。
勿論、マイルは指名依頼で行った、ここティルス王国の北東部に僅かに接する、東西方向に細長く伸びた国、オーブラム王国での出来事を忘れたわけではない。
あの件がなければ、マイルは古竜達の行動について『神子ちゃんの提言が
それは神子ちゃんの嘘や妄想ではなく、神子ちゃんの長年に亘るナノマシンに対する聞き取り調査の結果である。
しかしそれは数千年、数万年、もしくはもっと昔の出来事であり、いつかまた訪れるとしても、高々数十年の寿命しかないマイルの生存期間中に起きる確率は途轍もなく低いものと思われたであろう。なので、自分が心配するようなことではない、と。
……そう、もし『あの件』さえなければ……。
異次元世界と繋がる穴。
明らかにそれを意図的に使用し、
それは、『その時』が近い……非常に近いことを意味していた。
いや、『近い』ではなく、既に始まっているということを……。
そして、それに気付かないようなマイルではない。
(でも、どうしようもないよね……)
ベッドの中で、ひとり物思いに沈むマイル。
(いくら『ヤバいんじゃないかな』と思っても、何もできないよね。
相手は異次元世界に居て、いつ、どこに現れるか分からなくて、正体も強さも数も目的も不明とあっては、何もできないよ。
頼りのナノちゃんも大した情報は持っていないらしいし、攻撃魔法という形でしかこの世界以外のことには手出しできないらしいし……。
もしナノちゃんに制限が掛かっていなければ、どこかに次元の穴が開いた瞬間に、そこへ反陽子爆弾とかを投げ込んでもらえば何とかなるんじゃないかと思うんだけど……。
勿論、起爆させるのは穴が塞がってからだけど、それくらいは『受信している電波信号が途絶えたら、その30秒後に起爆』とかいう設定にしておけば、穴が完全に塞がってから起爆するだろうから安全だし。
……電波が受信できなくなってすぐに起爆させるんじゃなくて30秒の余裕を持たせるのは、勿論、不測の事態が起きた時に緊急停止できるように、だよ。それくらいの時間なら、爆弾を分解されたり、また新しい次元の穴を空けてそこに投入、とかされる時間はないと思うんだよね……。
まあ、異次元世界への爆弾の投入どころか、反陽子爆弾の製造すら完全に『禁則事項』だろうから、この方法はいくら考えても意味がないんだけどね……)
そして、しばらくの間、何も考えずにぼうっとしているマイル。
(……ナノちゃんが話し掛けてこないなあ。やっぱり、どうしようもないか……)
いつもであれば、とっくにナノマシンが何か言ってきている頃である。
なのにマイルから話し掛けない限り自分から喋るつもりはない、という意思表示をしているらしいということは、つまり、そういうことなのであろう。
(ま、自分達の世界は自分達で護る、というのが当たり前だよねえ。私を転生させてくれたあの人……神様……高次生命体さんも、直接の手出しはしないことになっている、って言ってたし。
技術的、能力的には勿論可能なんだろうけど、そういうルールというか、倫理感というか、やっちゃいけないこと、という『規範』なんだろうなあ、あの種族としての……。
とにかく、私にできるのはこの世界の危機をみんなが理解できるような言い方で説明し、次元の穴から来る連中をみんなの力で早期排除に努めて、こっちの世界に橋頭堡を作らせたり繁殖させたり拡散させたりしないようにして、ヒト種を始めとするこの世界の知的生物の滅亡や生物相の激変を防ぐ、ってとこかなぁ……。
少なくとも、自分ひとりでどうこうしようとしてもどうにもならないし、そうしなきゃならないという義務もない。
いや、勿論ひとりの人間として、この世界の住人としての義務は果たすけれど、私ひとりが全部
この世界は、この世界に住むみんなで護ればいい。私は、その中の歯車のひとつとして微力を尽くせばいいだろう。自分にできる範囲で……。
私ひとりが騒ぎまくって、馬鹿正直に『異次元世界からの侵略者が~!』なんて言っても、誰も信じてはくれないよね。みんなに信じてもらえるような話に置き換えて、うまく説明しなきゃ。
……しかし、どういうことなんだろうなぁ……。
異次元世界からの侵略って、普通は次元を越えるための科学的な手段とか、
なのに、どうして魔物の変異種とかが……。
そして、せっかく黒幕らしいのが登場したと思ったら、喋らないしビーム兵器も装備していない下っ端のロボットとか……。
まあ、事態が『意図されたもの』であり、明確な敵対者がいるということが分かったのは大きいけれど、それ以外は何も分かっていないからねえ……。
大昔から何度も繰り返されたというこの行為に、どういう意味があり、何が目的なのか。
滅びゆく世界からの移住? 奴隷を求めて? 食料と資源を求めて?
そして、『実は次元の穴の向こうは、未来のこの世界だった!』とか、『あれは大昔にこの世界から旅立った御先祖様達が植民した世界だった!』とか……)
【……いえ、さすがに、それはないでしょう……】
呆れ果てた、というようなイメージを込めて、マイルの鼓膜を振動させるナノマシン。
(今になって、突っ込みを入れるの……)
どうやら、マイルの脳内ひとり検討会の内容がナノマシンにとって口出しできない範囲から外れたらしく、いつもの調子で話し掛けてきた専属のナノマシン。
【しかし、何という恐ろしいシチュエーションを想像するのですか……。それふたつ共、同族同士の殺し合いじゃないですか。前者なんか、先祖と子孫の殺し合いで、どちらが勝っても滅亡しかないという……。
そんな、荒唐無稽で救いのない……、え? かなり低い確率ではあるけれど、そういう事態も生起し得る? マジか!】
どうやら、マイルとの会話をモニターしていたらしい、ナノマシンの
(可能性、あるんだ……)
【
酷い言われようであった。
(いや、前世の世界では、よくあることだったから……)
【どんな世界ですかっ! 地獄より酷いじゃないですか。そんな世界、最低最悪ですよっっ!!】
(……いや、まあ、実際にあったことじゃなくて、物語なんだけど……)
どうやら、ナノマシンは何かを誤魔化すために驚いた振りをしているわけではなく、本当に驚いているようであった。
何やら、何度目かの『締め切り』が近付いてきたかのような、この世界。
平穏で平凡な、ありふれた人生を望んだマイル。
人々が気付かないうちに、世界は一歩一歩、『その時』に向かって進んでいた。