つつじ6/28東2ぬ36a · @tj_ggpama
19th Aug 2012 from Twitlonger
虫のさざめき(アティギマ・虫男の一人称小説)
僕の中にはもう一人僕がいて、そいつはブラックホールの形をしている。
と、十才の夏、母に話したら、小さな僕は何とかクリニックという所に連れて行かれた。大きなソファとおいしいクッキーのある部屋で、ひげもじゃの先生とお喋りする場所だ。『もう一人の僕』について先生は聞きたがった。ペンと紙をくれたので、大体は絵で説明した。今も昔も、僕は口より絵で説明する方が得意だ。言葉よりは絶対ましだと思う。僕は今もテレビのドラマを見るのが好きだけれど、どの番組に出てくる人もみんな、今自分が何を喋ればいいのかきちんと分かっていて凄いなと思う。
世界は森みたいに広くて、僕には受け止めきれないくらい大きなものがある。いろいろある。ヤグルマの森の木の事は分かる。灌木の茂みがある場所も春に咲く花の名前も知っている。でも分からない事の方がずっと多い。『今だけ半額』の札を一年中出している衣料品店とか、駅の入り口で寝ているのにみんな何も見えないみたいに通り過ぎてゆく臭いおじさんの事とか、いつの間にか仲間に入れてもらえなくなった野球とか、もう存在しないのに僕からは光が見えるとかいう星の話とか。僕にはちょっとよく分からない。絵の具でいうなら、何色と何色を混ぜたら、その色になるのか分からない。
握りに金ぴかのペンドラーのついた杖の事もそうだ。
僕がうんと小さい頃から骨董品屋の壺に差してあったのに、ある日突然消えていた。売れた、という事実は分かったけれど、毎日毎日毎日お店の窓に顔をくっつけて、その日あったいろいろを聞いてくれた友達が、ある日突然いなくなってしまった事が理解できなかった。彼とは長いこと友達だった。十才のサマースクールで知り合った誰よりもすてきな友達だった。
どんなに頑張ってジャンプしても捕球できないボールのように、それらの事柄が僕の頭上を飛び越えていく時、後ろでスタンバイしていてくれるのが『もう一人の僕』だ。ブラックホールだ。彼は無限に大きくて、僕には理解できない事を、超強力掃除機みたいに片っ端から吸い込んでくれる。そして随分経ってから、思い出したように球を返してくれる事がある。野球の下手な僕でも受け止められるようなコースで、ハハコモリがクルミルに葉っぱの服を作ってあげるみたいに優しく。あれはこういう事だったんじゃないのかなって。
だから僕はこの世界から振り落とされないで済むんです、と僕は説明した。
クリニックの先生は、僕の頭はおかしくなくて、少し夢見がちなところがあるだけだと言った。それからとても絵が上手ですねと褒めてくれた。うんと嬉しかった。
すると今度は父が、僕を自分の弟の所に連れて行った。彼は絵を描くのとポケモンバトルをするのが仕事で、僕と父と同じ若葉色の目をしていて、とても大人っぽかった。僕がペンドラーの事を話すと、それはうんとつらかったね、と言ってくれた。夕方になって僕がわんわん泣いて帰りたくないと言うと、じゃあここにいるといいよと言ってくれたので、僕は遠慮なく叔父さんのジムに居座って、毎日毎日絵を描いたり料理をして過ごした。父と母は僕の生活用品一式を叔父のアトリエに運び込むのを手伝ってくれた。
僕はいつの間にか十六才になった。ジムトレーナーという肩書をもらった。十九才になった。初めて恋人ができた。叔父さんは生まれた時からの友達だった病気と闘って死んで、アトリエを僕にくれた。僕はジムリーダーになった。二十三才になった。画家と呼ばれるようになった。僕は今までもずっと絵を描いていたのに、『新星発見』と騒がれて変な気分がした。二十七才になった。たまにテレビ番組に出るようになった。カラー刷りの雑誌にいつの間にか自分がアイスをこぼしながら食べている写真が載る。署名活動をしているわけでもない人からサインしてくださいと言われる。サマースクールで会っただけの友達から、結婚式の招待状が来る。行く気になったのは、久しぶりのデートがふいになったからだ。よくある事だ。式場はヒウン中央公園だったので、アトリエから歩いてゆける距離だ。招待してくれてありがとう、はいいけれど、君は僕を野球に誘ってくれなかったよね、と言ってはいけない事くらい分かっている。
「おまえはいつか大物になると思ってたよ!」
新郎は僕の肩をばしばし叩いた。お嫁さんはフシデの目みたいに鮮やかな金色の髪をしていた。一年半前に二人がどこで知り合ったのか、どうやって付き合ってきたのかの紹介に始まって、お祝いの言葉やプレゼント交換のパーティがえんえんと続いた。ケーキの上で立ちんぼうのお飾り人形みたいに、僕にはする事がなかったので、ずっと紙ナプキンに絵を描いていた。隣の席に新婦さんの友達だという女の子がとっかえひっかえやってきて、何を描いてるのと尋ねてきた。僕はブラックホールの中身ですとだけと答えた。みんなそれで去って行った。紙ナプキンを捨てていくつもりだったのに、新郎がやたらと欲しがるので、結局あげる事にした。僕だったらあんな『お祝い』はほしくないなと思ったけれど、多分お祝いの品を買って行かなかった僕が悪いのだ。
ほとんど家になっているジムに帰る途中、ビールケースの上でトランプを広げている男の子と出会った。あぶらっ気のないパサパサの金髪をしていて、一着しか持っていないと一目で分かるシャツとジーンズ姿だった。お札一枚でポーカーをしないかというので、路上の賭博営業はだめだよと言うと、彼は何だか悩ましい顔をした。僕のライブキャスターの番号を知りたがった。どうやらジーンズの下にはパンツを履いていないようだった。
「おにいさん恋人いる?」
いるよと答えても、彼はしつこく番号を聞きたがった。おみやげに持たされたウェディングケーキをあげると、大笑いして喜んだ。
ライブキャスターのメールが来た。
差出人は僕の恋人だった。
件名はいつもと同じ『こんにちは』だ。
『お元気ですか。私は元気です。挑戦者勝利。久々に負けましたが、とても楽しかったです』
満員バスの先頭に乗っている時、後ろにいる人全員に読まれても全然問題ない文章だ。いつもそうだ。帰らなくちゃと僕が言うと、路地裏の賭け屋はちょっと皮肉っぽい顔で笑った。十七才くらいだろうか。
僕はメールを三回読み返してから削除した。互いの都合でデートがふいになるのはよくある事だけど、『デートができなくて寂しかった』と僕の恋人は一度も言った試しがない。僕は自分が一日に何回息をしているのか知らないけれど、大体その十分の一くらいの間隔で、あいつとデートができたらいいのになと考える。離れて暮らし始めてからずっとそうだ。はじめのうちはメールを全部とっておいたけれど、そのうち怖くなってやめた。ばらばらに切った手や足の形のおもちゃをピンで刺して、部屋いっぱいに飾っているみたいな気がしてくる。全部集めてつなげたら、いつか本物ができそうな気がしてしまう。でも『全部』っていつ揃うのだろうか? もう二度とメールが来ない時?
そんなのは嫌だ。違う。僕が欲しいものじゃない。
がらんとしたアトリエに戻ると、僕は返信を書いた。文字はとても苦手なので、中身を考えるだけで三十分も五十分もかかる。それを一つながりの文章にするのはもっと苦手だ。間違って全部消してしまう事もよくあるので、僕は電話をする方が好きだ。でも好きな人といつでも電話できるわけじゃない。死にそうなくらい声が聞きたくても電話できない事もある。世界の不思議の一つを、僕の後ろのブラックホールがまた食べてくれる。
『こんにちは僕は元気です今日は寂しかったよ。結婚式に呼ばれました。ケーキをもらったので子どもにあげたら喜んでたよ少しおまえに似てました。ブラックホールの絵を描いたらほしがられて困りました。寂しいです。次はいつ会える?』
結婚式と子どもとケーキの部分を消して送った。短いメールになった。本当はもっと言いたい事がたくさんあったはずなのに、文字にしようと思うとこうなってしまう。
返信は三秒後だった。
『ブラックホールの絵?』
手抜きの返信だった。電話すればいいのにと思ったので通話ボタンを押した。ボタン一つでつながる設定にしたいんですとお店の人に相談したらすぐやってくれた。母の電話番号を登録してもらったので、ジムに戻ってから自分で恋人の番号を登録した。とてもめんどくさい事に、僕が付き合っている相手の電話番号を雑誌に投稿すると、多分お金になるのだ。それが男でハンサムでとんでもなく強いトレーナーだったりしたら、それはもうお金になるのだという。僕の好きなチョコレートの銘柄とか好きなアイスだったら幾らでも教えてあげるのに、どうしてそんな事はお金にならなくて、僕だけが知っていればいい事を知りたがるんだろう。
ブラックホールは同じ謎を食べ続けてくれるが、一向にこの問いの答えを返してくれる気配はない。
コール九回で応答があった。僕の恋人はいつも律儀に九回で出るので、待っている時間が僕はとても嬉しい。もしもし、という声が聞けた時、ブラックホールは遠ざかって行った。恋人の声にはそういう力があるものだ。これは特に世界の不思議ではなく、砂漠を彷徨って井戸に辿りついた人が、特定の宗教を信じていなくても神さまと叫ぶのと同じようなものだ。
『次の画題はブラックホール?』
「かもしれない」
『どんな?』
僕は口をへの字にした。『どんな』を口で説明するのがどれくらい難しいのかといったら、半分でいいから海の水を飲み干してと言われるようなものだ。でもどれだけ黙って考えていても、僕の恋人は電話を切らないでくれる。もしライブキャスターを充電器に差しっぱなしにさえしてくれたら、実際に半分くらい飲めるかもしれないとたまに思う。『死ぬぞこのばかやめろ』と恋人に言われたからしないけれど。僕の思考は時々こんがらがって変な方向へ転がってゆく。
「海みたいな味がするブラックホール」
『ふうん。それで』
「いつも僕の後ろにいてくれて、取れない球を取ってくれるブラックホール」
『……シュルレアリスム絵画でも始めるのか?』
「ああぁうう」
シュルレアリスムというのは、おおまかに言うと画家自身が何を描いてるのか分からないけど描いてる絵の事、だそうだ。多分嘘だ。絶対みんなお腹へったとかトイレに行きたいけどまだいいやとか考えながら描いている。僕の恋人は嫌になるくらい色んな事を知っているので、ベッドの回数の話をしていたはずが、いつの間にか世界の裏側の神話の事を話しているような事がよくある。つまり話をはぐらかすのが天才的にうまい。はぐらかされたふりをしてあげないとたまに怒るので面倒くさい。
「いやらしい事の話していい?」
『いきなり俗になったな。どうぞ』
「知り合いの結婚式に行ってきたんだよ。馴れ初めからバイト歴まで全部聞かされた。『私たち今までたくさんやらしい事してきました』ってお披露目パーティ」
『やけに露悪的だな。それで帰りに風俗に寄って一発抜いてきた?』
「ううん。路地裏で賭けやってる子がいたからデートした」
パンツはいてなかったよ、と僕は付け加えた。ほう、という声が応えだった。何だかよく分からない声が喉の奥から出て行った。僕は時々、いやかなり、変な声で呻くけれど、これはヨーテリーがお客さんの足元に吠えかかるようなもので、気が付いたら飛び出しているのでどうしようもない。
「嘘だぞ! 嘘だから! デートなんかしてない。絶対してない。会話しただけだ。寂しいよ。おまえがもう二人いたらできるかもしれないけど一人じゃ無理だ。あう。それも浮気になるのか。ぐあう」
『浮気をしてもしなくても構わないが、次は早くて三週間後だ。手土産にケーキでも買ってゆくよ』
「甘くないのにしなよ」
『そうする』
僕の恋人は甘いものが苦手だ。重い煙草を吸って、割とお酒にも強く、目つきが悪くて人が悪い。やたらめったらギャンブルには強いので、『エリート』ギャンブラーとか呼ばれる始末だ。エリートじゃないギャンブラーさんは何が違うんだろうと質問したら、年収だと即答された。最近では俳優さんもしている。ドラマに出ている人たちの一人になった。僕の作るオムライスが好きで、虫を肩に載せると壊れた機械みたいな声で絶叫する。寝顔がとても可愛くて、感じている時の足の指の形は信じられないくらいセクシーだ。
今僕が腰掛けているベッドで、四年間一緒に眠っていた。それから三年と八か月違う場所で寝起きしている。でも三年と八か月のうち、合計したら二十八日はデートなり何なりで僕と一緒だったので、実際は三年と七か月くらいしか離れていない。どっちにしろ長いけれど。
「最近は大丈夫?」
『何が』
「や、変な夢を見てないかなって、おにいさんは心配ですよ」
『一人で寝ているのに分かると思うか?』
「あうん。それもそうか」
『まあ、最近は見ていないようだぜ。推測だが』
僕の恋人は少し、人の悪い声で笑った。
それは一緒に寝ている誰かがいて、その人が『あなたうなされてましたよ』って言わないという事なのだろうか。それともただ単に、一人で寝ていると分からないけれど寝起きがいいので、多分悪夢は見ていないという意味だろうか。どっちだろう。どっちだったら自分が嬉しいのかは分かるのに、どうしてこいつがこんな事を言うのか僕には分からない。自分の恋人に同じ事を言われたら死にたくなるくらい辛いと思わないんだろうか。思っているのに言うんだろうか。だとしたらどんな理由があるんだろう。またブラックホールが口を開ける。仕方ないなあという顔でむしゃむしゃ食べてくれる。
「……三週間後どうしよう。おまえまだ僕の恋人かな」
『虫野郎のくせにやけに弱気だな。どうした』
「ああう。誰の所為だと思ってるんだよ! いやごめんリーグの挑戦者が増えるのはいい事だし、文句言っても始まらないのは分かってるし、おまえが悪くないのは分かってるし」
『分かっているが納得できないという声だな』
「その通りですっ!」
ブラックホールに吸い込まれるはずだった球が、全速力でUターンして恋人にぶつかっていった。球がグラブに吸い込まれる音が聞こえそうなくらいだ。
たった一回誘ってもらった野球でも、僕はそんなにいい守備だった覚えがないし、三塁に向かって走ってしまうランナーで、よく考えると野球と言うよりスポーツ全般が苦手なのだけど、キャッチボールはきっと好きだと思う。あんまりした事はないけれど、きっと好きだ。最長一メートルくらいの間隔で向かい合って、下手投げしてもいいというルールでやりたい。
恋人とやりたい。
向かい合ってゆっくりゆっくりボールを投げ合う。
三回くらいうまくキャッチできたら、ハイタッチして抱き合ってどうでもいい知り合いにまでケーキを配って喜んでいいというルールも追加して公園の真ん中でやりたい。うまくキャッチボールができたんです! ほんとにうまく! 信じられないくらい! 七年もかかったんです! と叫んでいいというルールとなら交換してもいい。
僕は自分のお腹をつねった。最近放っておくと肉がついて困る。でも動物と違って人間は色んな体勢で恋人と愛し合うので、あんまり重いと申し訳なくなる。それに僕の恋人のお腹や背中には何か所か、押すと痛がるのに絶対に痛いと言わない部分がある。古い傷があちこちにあるのだ。どうしてそんな傷があるのと僕は聞けない。どれくらい痛かったのか思い出してほしくない。でも気になる。何にしろ僕の体はやっぱり軽い方がいいなと思う。
考え事があんまりにも飛躍すると、僕の口は頭と直結して勝手に喋り始めるので、どこかつねってブレーキをかける必要があった。頭の奥がちかちかする。
『……要約すると、君は公園で運動がしたくて、太り気味が気になっていて、通常位か背面位でいやらしい事がしたいのだな』
「あう。おまえほんとに凄いよ。川で砂金見つける人になれるぞ」
『光栄だね。それだけの事に機銃掃射よろしく喋れる君ほどではないと思うが』
僕の恋人は皮肉っぽい。それでも昔ほどじゃないと思う。もっと前は自分で自分を切りつけながら喋っているような事がちょくちょくあった。僕はそれがとても辛くて、理由はうまく説明できないけれどお願いだからやめてねと何度も頼んだ。僕は当時からこんな調子だったので、伝わったのかどうか分からないが、ともかく僕は七年前より今の恋人の喋り方の方が好きだ。七年間僕の好きな人番付ぶっちぎり第一位なのは変わらない。二位がお母さん叔父さんお父さんアロエねえさんキダチさんジムトレのみんなとえんえん続く。三位以下は分からない。カミチュラさんなんかは二十位くらいに入っているんだろうか。彼女の鼻の形は好きだ。
また話が脱線する。頭と口が直結する。ああうと僕は呻く。
『ごめ、ごめんね。ああう。おまえの声たくさん聞きたいのに、何だろうな、今日は芸術家のスイッチじゃなくてアナウンサーのスイッチが入ってるのかもしれない。ええ、アトリエから実況中継でお送りいたします。さあ各ギャロップ一斉にゲートを出走、最初のコーナーに差し掛かりました!』
「六・四で買ってくれ」
『ああうっ! じゃあそのギャロップが一位と二位ね』
僕の恋人はちょくちょく小さな幸運を拾う。カジノという場所では土壇場でとんでもない『手』というのを作るから、尻尾のないぺてん師と呼ばれて嫌がられる事もあるらしい。それでもギャンブルをやめないのは、多分運がいいからではなく、ギャンブルの神さまに魅入られてしまっているからなのだろう。きっと目を逸らしたらどうなるか分からない大型の動物みたいな神さまで、いつの間にか目と鼻の先で見つめ合っているのだ。それは別に構わない。僕の恋人はスリルを楽しむ名人だ。僕にはルールすら分からないけれど、目をぎらぎらさせている時のあいつはとても楽しそうだ。
その割に僕の恋人にはけっこう怖がりな所があって、火事で子どもが泣き叫んでいるドラマを見たりすると、寝ぼけて抱きついてきたりする。抱き返すと安心してよく眠る。うなされても寝ぼけてもいない時に、突然抱きついてくれたらもっといいのになと思う。一年半でお披露目パーティをして抱き合って派手にキスするカップルもいるのに、どうしてこいつは自分から抱きついてこないんだろうか。二人きりの部屋でも同じだ。本当はもっと筋骨隆々な人とか美人のお姉さんがいいけれど僕で妥協しているんだろうか。
ブラックホールはまたしても大食漢になる。
もちろんこんな頭がとろけたような事を言うと『もう恋人やめるばか』と言われそうなので、僕はちゃんと口をつぐんでいた。架空のギャロップ競馬の実況もうるさいのでやめた。
「……何か、喋って、くれる?」
『今日のチャンピオンロードは曇りだった』
「ヒウンもだよ。雨になりませんようにって、式の最中みんな言ってた」
『その中で君はブラックホールの絵を描いていたのか』
「うんまあ、ボールペンで紙ナプキン塗り潰してたんだけど」
『大層なお祝いだな』
「僕だったらあんなのは欲しくないな。絵じゃないよ。悪戯書きだ」
『僕ならほしい』
ほんとに? と確認すると、本当に、と答えてくれた。
僕の恋人は僕の絵のファン第一号で、もう何だかよく分からないほど僕の絵を好いてくれている。僕の古いスケッチブックを見て喜んでいたし、パステルで川の流れを描いたものは額縁に入れて飾ってくれた。よく分からないけれど僕の絵は彼の胸を温かくするらしい。この『分からない』はブラックホールに喰わせたくない。万が一喰われたら両腕と頭を口の中につっこんでも取り返しに行くと思う。
七年前に彼に出会わなければ、もし彼が僕の絵を見て『これを売ればいい。自信を持て。この絵が好きだ』と言ってくれなかったら、多分僕は今も、写真の代用品みたいなポケモンの絵や人物画を、苛々しながら描いていたんじゃないかと思う。
「じゃあ今度、そういうのを描くよ。多分描いてるうちに、僕の描きたいものに変わってくと思うから」
『そういうものが一番見たい』
「ああう。うあう」
僕はベッドに倒れこんだ。枕はあったが恋人はいなかった。もともと一人用のベッドなのだけど、四年間ダブルベッドとして使っていたので、その後の三年と八か月はとても広く感じる。四年間に比べれば三週間なんて大した事ない。一年は五十四週間だから三週間だってかなりの割合を占めているだなんて現実的なギャンブラーみたいな計算はしない。しない事にする。
『……オムライスの材料買っておく。これでもかってくらい野菜入れるよ』
「ハムだけでいいのに」
『おまえさ、煙草吸いまくって野菜食べなくて夜更かしでギャンブルなんて生活してると、十年後大変だぞ!』
「心配するなよ。来年あたりどこかで野垂れ死にしているかもしれないから」
『ぐあああうそんな事はないと思うね虫男レスキュー活動するから!』
僕の恋人は大抵未来に悲観的だ。一秒後どうなるか分からないのがギャンブルと人生の共通点だから、人生設計なんてものに大した意味はないのだそうだ。僕だって毎日晴れの日が続くとは思わないし、出先で思いがけないスコールに降られてびしょ濡れでジムに戻る事だってある。
でもそういう時に、帰ってくる場所に好きな人が待っていて、バスタオルをかけてくれたら、雨でも晴れでも関係なく嬉しい。これは人生設計なんてものじゃなく、単なる事実だ。こいつが僕の作ったオムライスや絵を好きなのと同じ事だ。理由は何でもいい。
「……あのさ、来年あたり、またここで一緒に暮らしたりしない? 期間限定でいいからさ。久しぶりで新鮮かもしれないよ」
『不可能だ』
「理由を聞かせてよ」
『四天王挑戦者が一年のうちの数か月に集中して来てくれるとでも思っているのか』
「去年は全部で四十人だったじゃないか。すごく面倒くさい手続き踏んで書類見せてもらったんだぞ。こんなの絶対におかしい。今年が吸血鬼映画とかおばけ小説とか格闘技チャンピオンとかのテコ入れで増えてるだけで、また減るよ。チャンピオン挑戦は呼び出し式とか予約制にすればいいって、散々上申してるのに、どうしてリーグは聞き入れてくれないのかな。チャンピオンロード関係の支出も減って万々歳じゃないか』
『そのチャンピオンロード勤務の事務方が君やらジムトレやらの給料や保険を握っている事を忘れるなよ。制度改革をしたいなら書類を作れ。意見広告を出せ。飼い主の手を噛む覚悟でやれ』
「それは難しそうだねえ―――っと、これくらい付き合ってあげればいいかな。また話はぐらかしてるよ。僕はおまえと一緒に暮らしたいだけなのに、どうして企業サスペンス映画みたいな話になるんだ」
『……何故だろうな』
わざとらしい俳優さんの声だった。
理由なら何度も説明してくれた。男同士だから、目立つから、絵のイメージダウンになるから。ほんとに変な話だ。僕は変人だから既に十分に目立っているし、世界の港ヒウンシティを拠点にしている画家相手に絵のイメージダウン云々というのは、正直筋が通っていないように思うのだけど。
一つ確かなのは、僕の恋人は浮気をするという事だ。
相手はいろいろで、同僚の人だったり行きずりの相手だったりとバラエティに富んでいる。自己申告してくるわけではないけれど、何となく分かるものは分かるし、こいつも否定しない。死にたいくらいつらい。でも僕は死ぬまでにもっとたくさん絵が描きたいので、これらの思いは仕方なくブラックホール行きになる。
もう一つ確かな事。僕の恋人は僕に『愛している』と言わない。『好き』も一度しか言わなかった。絵は好きだと言うけれど、それは絵で僕ではない。酔っ払いと酔っ払いのゲロくらいの違いだと思うけれど、それでも違うものは違う。料理の味を褒めただけなのに、奥からコックさんが出てきてありがとう結婚してくださいと迫ってきたら僕でも逃げる。
これも事実だ。
「何だかさあ、今日も空は青いね」
『曇りだろう。白いの間違いではないのか』
「純粋な『白』って色は自然界にはあんまりないんだよ。灰色とか薄茶色とかはあっても。青いよ。飛行機乗れば青い」
事実だ。
でも初めてベッドで抱き合った時に、こいつが僕に『好き。君がほしい』と言ったのも事実だ。死ぬまで忘れないだろう。七年と八か月前だ。僕は二十七才になった。あと七年と八か月経っても、僕の番付一位は変わらないだろう。でも僕は、いや僕だけではないのは分かっているけれど、人は他人の『好き』ランキングの番付表を見られないのだ。それが自分の恋人でも。
もう僕の事をそんなに好きじゃないならそう言えばいいのにね、とは言えない。ではさようならと言われた瞬間から、僕は恋人ではなくただの引っ付き虫だ。ストーカーだ。犯罪はちょっと困る。それでも絵だけは好きだなんて言われたらどうすればいいのか分からない。最悪なのは絵が見たいから付き合ってあげるよというパターンだ。もっと最悪な話だけど、恋人にふられてもきっと僕は絵を描くと思うから、そんな心配はいらないと思うのだけれど、僕はそれをこいつに教えてやりたくない。自分がいないと僕は絵が描けなくてほんとに駄目な干乾びた虫男になってしまうので絶対に離れてはいけないそれは許されない、くらいに思っていてほしい。ほとほと最悪だ。
「……ん、でも、悪い夢を見てないっていうのは、よかったな」
『人の枕の事情よりも、自分の頭の心配をしろよ。さっきから青だの、白だの、語り口も落ち着かないぞ。湯を沸かして茶でも飲め』
「いいんだよ。たまにはこういうのも」
僕はたまにブラックホールと抱き合おうとする。わけの分からないものを全部分かる形にして返してほしくて、頭から飛び込もうとする。ブラックホールは宇宙的に気前がいいので拒まないけれど、ぶよぶよするだけで何も返してくれない。時が来るまで待って、と促すだけだ。だってグローブ持ってないだろ、と優しく諭すみたいに。僕は虫男だから、どんな悪球だって素手や口でキャッチしてやりたいと思うけれど。
僕の恋人は悪い夢にうなされる。でも恋人にどんな夢を見たのか話さない。僕の恋人はライター以外の火がとても嫌いで、生きていくためには全く役に立たない様々な礼儀作法を知っていている。僕の恋人はベッドの事が上手だ。とても気持ちよくしてくれる。抱き合っていると行った事もない南国の海にいるみたいな気持ちになる。僕もそんな気分にさせてあげられないかなと思って、試しに一度自分の方に指を突っ込んでみた事がある。頑張ってちょっと揺らしてみたりした。氷のつららをぶっ刺されたように痛くて痛くて、しばらく硬い椅子に座れなかったし、トイレに行くのは悪夢だった。全然、全く、気持ちよくなんかない。
という実験の事を話したら、僕の恋人は床を転がって壁を叩いて、笑い死ぬんじゃないか心配になるような勢いで笑った。その後とても優しく僕を抱いてくれた。気持ちよかったけれど、僕はあんまり嬉しくなかった。自分の事をややこしい男だなと思う。
胸の内側を一万匹の透明なクルミルが這い回っているような気がする。ブラックホールはむしゃむしゃ食べてくれるけれど、食べても食べてもまだ湧いてくるから困ってしまう。どうして絶対にしたくないと言わないのか、たまにうなされてやめてと言うのか、考えると勝手に泣きたくなる。恋人に抱きしめてほしくなる。変な絵の構図が浮かぶ。
『……すごく喉の渇いた男がいるとするだろ。そいつはたった一人で小舟に乗って、見渡す限りの水の上にいるんだ。海の上だよ。飲んだら死ぬけど水なんだ。ぴちゃぴちゃって音がする』
「古典的な拷問だな」
『おまえだったらどうする?』
「塩分の過剰摂取で死ぬより、干上がって死ぬ方を選ぶよ。運命の思い通りになってやるのは癪だ」
『そうじゃなくて。うう。うまく言えないなあ。ほら、あれだよ。うぐ。振り向いたらいけませんの拷問。不眠不休? う? ストップモーション?』
「君の言語は分かるが意味の通る言葉で喋ってくれ」
僕の頭はフル回転する。頭の中にはもう一枚の大きな絵ができあがっているのだけれど、どうやってこれを言葉にすればいいんだろう。永遠に続きそうなくらい横長の風景画で、空と海が半々くらい、真ん中にごみくずみたいな大きさの舟。題名は『うみかみずうみ』だろうか。『みずうみかうみ』の方がいいだろうか。
「死ねないんだ。飲まないと死ねないんだよ。干上がって死ぬってコースは選べない。絵の中の、時間の存在しない場所だから。何か飲まない限り喉はカラカラで、周りは全部水なんだ。まるで『好きに飲んでください、あなたのために私はここにいます』って、すごく優しい声で囁いてるような水音がする」
『なら潔く飲んで死ねばいいだろう』
「飲んだら海の水だって分かっちゃうじゃないか! 飲まなかったら、まわりは全部真水だーここは天国だーって思いながら死ねる夢が見られるだろ。まあ、どっちみち、死なないんだけどさ。ああう。自分で言っててわけが分からなくなってきた。いやこれは仮想実験ですよ。うう、こういうモチーフは好きじゃないけど、あう、とにかく心配しないように」
『今日は本当に調子が悪いんだな。悪かったよ』
傍にいたかったよ、という風に、僕の耳には聞こえた。本気の言葉だった。
海か湖かよく分からない絵が、またしてもぐーんと遠ざかって行った。一緒に食べようと思って買っておいた、甘くない煙草型のミントチョコをばりばり噛んで食べた。意外においしかった。売り文句そのままに、頭すっきり気分爽快になる。便利だ。次ブラックホールと取っ組み合いをしたくなった時にも、またこのチョコを食べようと決める。
「あふ。大丈夫だよ。虫男は強いのです。三週間楽しみが伸びただけだし。あーう。おまえちゃんと体調整えて来なさい。野獣のように襲うよ」
『その野獣というのはあう、あう、と鳴きながら鼻づらを押し付けてくるふわふわした生き物の事か? 喰い千切るくらいのつもりで噛めよ。歯型もすぐ消えてしまう』
可愛くて好き、と言われた気がした。最後の言葉は寂しいよ、と聞こえた。僕は思わず腹の底から怒りそうになった。そんなのこっちの台詞だこの悪党、と言いかけて、結局いつも僕は言わない。どうしてだろう。言わない理由ではなくて、どうして僕はあんなにきっぱりこいつをこの部屋から送り出してしまったんだろう。どれくらい大切なものなのか、四年前の僕はちゃんと分かっていたんだろうか。ひとりで合同の誕生日を祝う時、どれくらいブラックホールが大喰らいになるか、考えた事はあったんだろうか。
一度もなかったはずだ。
少しでも想像しておけば、僕の恋人は有名人にならなかっただろう。映画なんかにも出なかっただろう。浮気相手も新しい友達もひょっとしたらできなかっただろうし、ひょっとしたら僕の絵も売れなくて、二人で貧乏暮らしで、レパルダスはチョロネコのままだったかもしれない。でもそれは全部『もしも』の話だ。僕はジムリーダーをしているし、僕の絵は画商の人を拝み倒さなくても売れる。
でも昔誰かが言ったように、どれだけお金を積んでも時間は戻ってこないのだ。
ぴんぽん、と音がした。ジムの来客用だ。今日は閉館日なので、画材屋さんだろうか。
『ところで、まだ何も届かないか? そろそろだと思うが』
「何が」
『プレゼント。君に』
「……まだ誕生日じゃないよ?」
『日付に意味はない。不要物の押し付けだから』
僕はライブキャスターを持ったままベッドを立った。ジムトレ用の食事室を抜けて、誰も使っていない喫煙室を横目に見て、正面玄関に回る。サインをお願いしますというメッセンジャーは、大きなつつっぽを僕にくれた。頑丈なボール紙製だ。掛け軸でも入っているのだろうか。
「むう。おまえ水墨画にチャレンジした?」
『絵ではないが壊れ物だ。開ければ分かる』
面倒臭い梱包をハサミなしで解くのと恋人の服を脱がせる事にかけては、僕は天才的な腕前である。世界選手権があったらかなり上位に食い込めると思う。これが本業なんですと言えそうなくらいだ。僕はアトリエの床にあぐらをかいた。筒の仲には緩衝剤の筒が入っていて、ライブキャスターを肩と顎で固定しながら、またそれをほどく。
最後に赤いびろうどの布に包まれた棒が残った。きゅっと音を立ててほどく。
古物の杖が現れた。
グリップの部分に金色のペンドラーの頭がついている。
ふにゃうむぐっ、と僕が呻くと、ライブキャスターの向こうで恋人が噴き出した。ぱしんとグラブにボールが収まるような、乾いた声だった。
『今の呻き声は初めて聞いたぜ、虫野郎。アンティークの杖。貰い物だ。ドラピオンなどを最後に控えさせている所為かな、虫が好きだと思われたのかもしれない。おぞましい勘違いだ。使い様がないから君に送った。まあ、好きに使えよ』
「……ペンちゃんだよ。これはペンちゃんだ」
『もう名前をつけたのか』
何年ぶりだろう、と考えて、二十年ぶりだね、とペンドラーの目が教えてくれた。握り込まれた額の部分には僕の知らない黒い染みができていて、杖木は新しく交換されていたけれど。
間違いなくシッポウの骨董品屋にいた彼だ。
「何で? え? 何でだ?」
『恋人に贈り物をするのに理由が必要なのか』
「そうじゃなくて! ペンちゃんっていうのは、僕の……! あぁぅう! うまく説明できない! ぬあぉう! 何だこの『嬉しい』の塊みたいなプレゼント! 三週間かけてペンちゃんとお礼考える! あう! おまえは今僕がどれくらい感動してるかきっと分かってない! 言葉にできない! ペンちゃん! 僕の友達!」
『間違いなく分かっていない自信があるよ。三週間頑張って考えてくれ。絵にしてもいい。君の言葉は絵の方が分かり易い。そろそろ出かける用事があるので切る。それではまた』
「またね! 愛してるよ!」
回線は切れた。僕の恋人は大体『愛してるよ』の『し』のあたりで通話を強制終了させる。僕は段々早口言葉が得意になってきた。恋人の親指の瞬発力と、僕の滑舌の勝負である。三週間後は受け取り拒否できないくらいたくさん言ってやろうと思う。それからペンちゃんの話もしよう。それにしても自分の友達が自分の恋人と知らない間に友達になっていたようで恥ずかしい。今日の新郎の気分が少しだけ分かった気がした。
僕はライブキャスターを放り投げて、考え直して机の下から発掘し、枕元の充電器にセットした。『最後に何て言ったの? 途中で切ってしまったから分からない』とあいつが電話を掛け直してくれるんじゃないかなと考えると、癖にするのもそんなに難しくなかった。
僕はアトリエ中を引っ掻き回して、奇跡的に使われていない傘立てを発掘した。これからは杖立てになる。
杖立てを枕元に置いて、僕はベッドに横になった。枕を抱いた。
ペンちゃんはじっと僕を見ていた。僕はペンちゃんの頭を撫でた。つるつるひんやりでとても気持ちいい。二十年どんな道のりを渡ってきたのか、どれだけたくさんの人の手と一緒に散歩をしてきたのか僕には分からない。でも一番最後にこの頭を撫でたのは、きっと僕の一番好きな指の持ち主だ。
「羨ましいな。僕の事も撫でてよ」
ペンちゃんは何も応えてくれなかった。でも僕の目は、ペンちゃんの頭の上を滑るほっそりした指を幻視する。僕の背中を撫でる時の、あいつの指の使い方を思い出す。箱にぎっちり詰まったパステルみたいにたくさん種類がある。一つ一つ取り出して眺めるみたいに思い出す。全部丁寧に。あいつにとって世界で一番特別な相手はやっぱり僕で、僕が傍にいない時にはあいつもと寂しい気持ちを味わっているんだろうと、デートのたびいつも信じさせてくれる。
僕はなんとなく枕を抱っこして、ベッドのスプリングをぎしぎし言わせた。そろそろ日が落ちきってしまう。今日は天気が悪いので、そろそろ雨になるかもしれない。絵を描く気分でも、ヤグルマの森に行く気分でもないので、僕はそのまま昼寝をする事にした。夜に目が覚めたらきっと絵を描くだろう。
ペンちゃんと僕の関係をどう絵にしよう、三週間くらいでどのくらいまで目途が立つだろうと考え始めると、頭がどんどん冴えていった。楽しい。マチエールの素材に金属を混ぜたらどうだろう、いや木材はどうだろう、色使いはなるたけ無機質にして緑を際立たせたらどうだろう、でもそういう絵はこの前にもあったら今度はこうして、等々など考えるだけで体が震えるくらい楽しい。
少なくとも当分、ブラックホールの出番はなさそうだ。今度は僕がボールを投げる番だ。
受け取ってもらえたら、ほんとに嬉しい。
おわり