【緊急事態宣言下の五輪】平野啓一郎さん

◆アスリートの胸中は?

 スポーツの世界戦のあとには、「元気をもらった」といった類いの言葉がよく聞かれる。競技者の一番の目的は、試合に勝つことだろうが、しかし、誰からも見向きもされないのであれば虚(むな)しく、表彰台の栄光は、やはり「シェア」されるべきものであろう。

 五輪は民間イベントに過ぎないが、巨額の税金が投じられる以上、市民からもその意義が求められる。コロナ渦中であれば猶更(なおさら)である。

 選手は相変わらず国家の「代表」として期待されている。近年は、ナショナリズムのプレッシャーも多少軽減しているが、そこで求められるのが、「元気を与える/もらう」という関係性なのだろう。

 ナショナリズム以外に、私たちが競技者に感情移入してきたのは、「努力」という美徳が「成功」と直結する物語を長らく信じてきたからではないか? しかし、格差社会では、その根底が揺らいでしまう。大谷翔平選手のような超絶的な存在への称賛の一方で、努力がまったく報われない経験が社会には蔓延(まんえん)している。また、勉強や遊びに多大な犠牲を強いる学校の部活動の「猛練習」も、パワハラや体罰の温床として反省されており、試合を目指して部員を一律に鍛え上げるというより、能力に応じて楽しく、という方が、多様性の尊重という時代に合致していよう。

 そもそも、ドーピングを決して撲滅できない五輪の勝利至上主義に対しては懐疑もある。その堕落した商業主義やIOCの傲慢(ごうまん)な態度については、ここでは繰り返さない。市民社会のアマチュア・スポーツの頂点に、一つの目標として五輪を掲げることは、本当に適切だろうか?

    ◆   ◆ 

 私は、コロナ渦中の五輪強行開催に反対だが、選手は不憫(ふびん)だ、という意見はわかる。が、彼らとて、この民主主義社会に生きる成人した市民であり、「アスリート・ファースト」などと称しながら、その当事者の声がなかなか伝わってこないことにはもどかしさがあった。協会や関係者から、「何も言わなくて良い」と庇(かば)われていたのかもしれないが、それは「何も言うな」という抑圧と表裏である。

 人生を懸けて何事かに取り組むのは、どんな職業の人も同じである。実のところ、飲食店の経営者でも小説家でもピアノ教室の先生でも、人に「元気を与えたい」という意味では、さして変わらないのかもしれない。しかし、その規模はどの程度だろうか? アスリートは、五輪という機会に、メディアを通じて何千万もの人に「元気を与えたい」と願うものだろうか? 開催の意義として、そう言わざるを得ないのか? 個々の競技の世界大会だけではなぜ不十分なのか?

 スポーツにそのポテンシャルがあることは事実である。しかし、地元で長い時間をかけて市民にスポーツの楽しさを教える時、そこで想定される「元気を与える」人の数は、飲食店の顧客数と同程度かもしれない。それではダメなのだろうか? 飲食店の経営者は、今、その顧客さえ失う危機に瀕(ひん)している。

    ◆   ◆ 

 私は選手を責めたいわけではなく、誹謗(ひぼう)中傷など以(もっ)ての外だが、ただ緊急事態宣言下の五輪についての彼らなりの考えが、もう少し伝わってきたならば、市民との関係も、違っていたのではないかとは思う。これはメディアの責任でもある。そして、彼らが何も言わないならば、IOCやJOCの絶望的な体質は今後も変わらないだろう。

 首相は、感染が拡大しようと、日本人がメダルを取れば、国民はのぼせ、秋の選挙に勝てると考えているそうである。こんな侮辱的な話を聞かされて、選手の胸のうちはどうなのだろうか。

 【略歴】1975年、愛知県蒲郡市生まれ。2歳から福岡県立東筑高卒業まで北九州市で暮らす。京都大在学中に「日蝕」で芥川賞。「マチネの終わりに」で渡辺淳一文学賞。「ある男」で読売文学賞。最新刊「本心」は文芸春秋刊。

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