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この作品「失われた姉の物語」は「百合文芸3」「姉妹百合」等のタグがつけられた作品です。
失われた姉の物語/tinu. hayaseの小説

失われた姉の物語

6,497 文字(読了目安: 13分)

トンチキ姉妹百合SF短篇です。

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2021年1月31日 15:28
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 守護らねば――。
 従妹の西島沙穂との二人だけの生活を乱すものは何であれ悪だと室戸香菜は認識していた。それがとくに、〈姉〉に似たモノである場合は。
 例えば鏡を伝ってやってくる巨大な烏賊に似た生き物がそれだった。昨日、最後に見た沙穂は、窓に覆いと目張りをしたあと、家中の鏡を次々と叩き割っていく香菜の姿に怯えていた。
 恐れと不安の入り混じった瞳を向けられたことは悲しかったが、すべては沙穂のためだった。右腕にはバースデーケーキの苺のように円形に並んだ〈姉〉十二号の歯型が残っている。十二号は手ごわい〈姉〉だったが、最初に思いついた手段で退治出来たのは幸運だった。
 鏡の割れた洗面台で顔を洗うと、ゴルフクラブを抱えて朝が来るまで沙穂の部屋の扉の前で頑張っていたのが祟って、手のひらにはむくみが感じられた。スマホのカメラで顔を映すと、案の定ひどい状態だった。安全を確信してから昼まで貪るように眠ったにも関わらず、目元には半月状の隈が浮いていた。
「香菜ちゃん、おはよう」
 陽光にかざしたステンドグラスのようにきらめく沙穂の笑みは身体の芯にこごった疲れと睡眠不足を消し飛ばしてくれた。
「お昼はお姉ちゃんが作ってくれたよ。香菜ちゃんの分もあるから、今起こしに行こうと思ってたの」
 沙穂の向かいには〈姉〉零号の西島伊緒が座っていた。得意料理というより得意の手抜き料理だったベーコンとキャベツのペペロンチーノを頬張っている。慌てて〈姉〉二号に貰った眼鏡を掛けると、人型に切り取られた空間が薄紅色の淡い光を漏らしていた。
 〈姉〉零号、つまり西島の両親から生まれた本物の伊緒は米国に留学中、行方不明になっている。伊緒と沙穂の両親は消えた娘を捜索するために渡米中だった。沙穂は愛する姉が帰ってくるための場所を守るために、実家に残った。二人の従姉妹である香菜は、沙穂の保護者という名目で西島家に逗留して一年になる。
「沙穂の好きなプリン、冷蔵庫に入ってるから食べていいよ。洗い物はあたしがやっとくから。お姉ちゃんは香菜と大人の話があるから部屋で食べること」
「えー、分かった……」
 不満そうに頬を膨らましてみせた沙穂はそれでも素直に冷蔵庫からコンビニの季節限定マンゴープリンを取り出して二階へ上がった。プリンを割れ物でも扱うように両手で抱え、スプーンを口にくわえているさまには小動物ちっくな愛らしさがある。高校二年生にもなるのに、沙穂はまるで小学生のようなところが抜けなかった。
 怯えていた沙穂が元気を取り戻したのも、沙穂の笑顔を引き出したのも、沙穂に不満げな顔をさせたのも、目の前にいる伊緒の姿をして伊緒の声と口調で喋る〈姉〉に似たモノだと分かり、香菜は心底憎悪した。
「私たちの家から出てって」
「いきなりひどいよ、香菜。あたしたちが喧嘩してたら、沙穂が泣くよ? しかし、すごいね、それ。あたしのことはどう見えてるのかな」
 香菜は目の前のナニカを〈姉〉十三号と心内で呼称することに決めた。対話が可能な〈姉〉ナンバーズは〈姉〉二号以来だったが、説得で立ち去ることに同意し、異形の〈姉〉のカモフラージュを看破することが出来る姉眼鏡を譲ってくれた〈姉〉二号と違い、〈姉〉十三号は危険な相手だと香菜の姉としての本能が告げていた。
 香菜が〈姉〉ナンバーズとの戦いの中で得た秘密兵器《姉の遺産(アーネンエルベ)》の一つである眼鏡の存在を見抜いたのが、その証左だった。
「私と沙穂の生活を邪魔しないで。沙穂は伊緒がいなくなって傷ついてるの。その傷を癒せるのはもう一人の姉である私だけ」
「沙穂、香菜のことは昔と違って香菜ちゃんて呼んでるんだね。あたしのことは〝お姉ちゃん〟呼びだけど」
 奥歯をぎゅっと噛み締めると、かちりと心の歯車が噛み合う音がして、香菜の全身からすっと血の気が引いた。
「お前は伊緒の姿と声をしてるだけだろ。気持ち悪い。沙穂の愛情を利用して、汚らわしい。出て行かないなら消し去ってやる」
「これで?」
 〈姉〉十三号はシュモクザメを模したぬいぐるみをテーブルの上に載せた。それは普段は沙穂に見つからないように隠匿してある《姉の遺産(アーネンエルベ)》の一つであり、初めて西島家に現れた〈姉〉に似たモノでもあった。
 最初に沙穂がぬいぐるみをお姉ちゃんと呼び始めた時、香菜は姉恋しさからくる逃避行動だと思っていた。しかし周囲の人間もぬいぐるみを伊緒として扱い始めたことから、その異常性に気づき、ひそかにぬいぐるみを沙穂の部屋から盗み出し、〈姉〉と名づけた。
 〈姉〉がナンバーズになるのは二号と出会って以後のことである。シュモクザメのぬいぐるみがおそらくはシュモクザメに似ているだけであり、ぬいぐるみですらないことは、背びれを掴んで引っ張った時に、眼柄の正面に置いてあった化粧台が跡形もなく消失したことではっきりした。
 〈姉〉一号の〝性質〟は〈姉〉ナンバーズとの戦いで度々役立ってきた。物理的な干渉を一切受け付けなかった〈姉〉六号を倒すことが出来たのも、この《姉の遺産(アーネンエルベ)》のおかげだ。
 〈姉〉十三号は〈姉〉一号を知らぬ間に盗み出し、香菜にその矛先を向けている。予想以上の脅威だった。
「これが切り札のつもりだったんだね。でも、警戒はしなくていいよ。あたしに敵意はないから。話し合いがしたいんだ。これは返すよ」
 〈姉〉十三号はテーブル上でシュモクザメを滑らせた。香菜はひったくるように取って、眼柄を対手に向けて背びれを握った。
「一応言っておくけど、あたしには効かないよ。この姿は水面に映る影のようなものだから、あたしの本体はここにはない。それは大事に仕舞っておいた方がいいんじゃないかな。規則上は没収すべきなんだけど、あたしにはもっと大事な仕事があるからお目こぼししてあげる」
 目の前にいるのは、今まで出会った中でもっとも恐ろしい〈姉〉であると認識せざるを得なかった。手のうちが分からない以上、こちらから暴力的な手段はとれない。話し合い、という相手の提案に乗るしかなさそうだった。
 本物の伊緒が帰ってくるまで、不在の姉の空白に入り込むことで存在ごと成り替わろうとする〈姉〉ナンバーズから沙穂を守り抜くという誓いを胸に、香菜は交渉のテーブルについた。
「あたしの役目はこの宇宙を守護ること。〈姉〉の空白に侵入しようとするモノには色んなのがいるけど、中には一つの宇宙そのものを滅ぼしてしまうようなモノもいるの。完全ではないけど、あたしが姉の空白を埋めることで抑止効果も期待できる」
 他にも理由があるんだけどね――〈姉〉十三号はかすれた小声で独りごちた。
 突拍子もない話だったが、常識では測り切れない〈姉〉と戦い続けてきた香菜は〈姉〉十三号のいうことを大筋で信じた。信じたが、何か隠していることがあるに違いないと香菜は姉としての直観で読み取った。
「お前……その、呼び名がないと不便。何か考えて。伊緒とか〈姉〉の付くものは却下。紛らわしいし、私は、私と沙穂以外に〈姉〉を定める権利を与える気はない。まがい物は沙穂には不釣り合いだから。それと、お前の本体は、自分たちの宇宙にあるってこと?」
 表情を読むために眼鏡の《姉の遺産(アーネンエルベ)》を外す。〈姉〉十三号は苦笑していた。伊緒が困った時にする顔にそっくりだった。
「あたしのことは〝ジャネット〟でいいよ。この宇宙の言葉ではあたしの本来の名前は発音出来ないけど、一番近いのはそれかな。質問の方はイエスであり、ノーでもある。たしかにあたしの本体は……」
 ソトガワ――そうソトガワ、ジャネットは舌の上で味わうように言った。
「宇宙という呼び方は不正確だし、むしろ余計なイメージが混じってしまうから、ソトガワと呼ぶことにするね。あたしの本体はソトガワにあるけど、そこはあたしたちの故郷というわけじゃないの。あたしたちの故郷のソトガワは〈妹〉に滅ぼされた。あたしの本体があるのはまた別のソトガワ。でも香菜たちの宇宙もあたしたちから見れば、ソトガワということになるよ。ちょっとわけわかんないかもね。〈妹〉というのも不正確だけど、宇宙とソトガワよりは近い概念かな。つまりは不在の妹の空白に侵入して、あたしたちのソトガワを滅ぼしたやつのことを便宜上〈妹〉と呼んでるってわけ。あたしたちは自分たちのソトガワを失ったけど、他のソトガワを〈妹〉から守護ることを種族の目的にした。他のソトガワを守護ることが〈妹〉への復讐にもなるし」
「なんとなく理解は出来る。そういうやつがいるってのも信じられる。もしかしたら遭遇したこともあるかも知れない。私が戦った中には危険すぎる〈姉〉もいたから。でも、信用は出来ない。ジャネットたちが守るのはソトガワなんでしょ。〈姉〉が侵入の足掛かりにするのが不在の姉の空白なら、妹である沙穂を消して、姉妹ごとなくしてしまえば〈姉〉の侵入も防げるんじゃない?」
「頭いいね、香菜。でもあたしたちはそんなことしないよ。規則で禁止されてる。それに不届き者が規則を破らないように、守護者の役目につく時に記憶処置が施されるの。あたしの場合は沙穂の姉としての模造記憶が植え付けられてる。模造記憶と言っても、あたしが伊緒として沙穂を愛する気持ちはホンモノだよ。それまで持っていた愛着も封印する処置が施されるから、あたしにとって今一番大切なのは沙穂なの。あたしより沙穂を愛してる人間はこの世界にいない。だからあたしは沙穂のいるこのソトガワを守護る」
「それはあり得ない。何故ならこの世界で一番沙穂を愛してるのは室戸香菜、つまり私だから。伊緒のいない今、沙穂の姉は私だけなの。ジャネット、あんたは所詮、空のソケットを保護するために嵌めるダミーカートリッジに過ぎない。虚無はどこまで行っても虚無。宇宙の姉の空白を埋めたとしても、沙穂の心の空白を埋められるのは私だけ。私が唯一にして至上の姉。でも沙穂を守護るというのなら、私の手伝いをさせてあげる」
 香菜は、沙穂を守護るためには、〈姉〉から奪ったモノも、〈姉〉そのものでさえも、《姉の遺産(アーネンエルベ)》として利用してきた。この〈姉〉を名乗る不審者も、同じように利用するだけだ。
 猫の鳴き声が聞こえた。よく沙穂が餌をやっている野良猫の鳴き声だった。香菜の姉としての聴力は沙穂の部屋からする物音を何一つ聞き逃さない。沙穂を惑わす〈姉〉の声も、伊緒を想って沙穂が一人漏らす嗚咽も、何もかも。
「沙穂の様子を見てくる。プリンももう食べ終わったはずだから。せっかく帰ってきた姉に遠ざけられて、悲しんでるはず。ベランダに侵入した泥棒猫じゃ駄目、私が慰めてあげないと」
 外したイヤホンをジャネットに見せ、香菜は席を立った。
「あたしも行くよ。嫌な予感がする。香菜が沙穂を想う気持ちに負けないくらい、あたしも妹を想ってる。まがい物なんかじゃない、その想いの力があたしの力。すべてを失ったあたしに最後に残された《姉の遺産(アーネンエルベ)》」

 扉を開けずとも、沙穂の〈姉〉を呼ぶ声は廊下にまで響いていた。
「おね……お姉ちゃん、お姉ちゃん……お姉ちゃんが、いっぱい。なんでこんなにいっぱい伊緒お姉ちゃんがいるの? 頭が、すごく痛い」
 ふてぶてしい面構えのぶち猫を抱きしめたまま、沙穂は床に寝転がっていた。ベランダの窓は開いたままだ。床に投げ出されたプリンの空とスプーンを黒猫がぴちゃぴちゃと美味そうに舐めている。
 塀や雨どいや屋根を伝って、続々と猫が侵入してくる。よく見れば野良猫ばかりではなく、首輪をつけた飼い猫と思しき猫もいる。沙穂の部屋は猫の洪水に押し流されつつあった。
「間違いない。〈妹〉の侵入が始まってる。いやこの場合は〈姉〉だけど。増殖型の〈姉〉は一匹一匹の力は大したことがないけど、完全に滅ぼすことは不可能に近いんだ。とにかくハブを叩かないと」
 おびただしい量の〈姉〉=〈妹〉に、ジャネットは隠しきれず怯えを現した。
「お姉ちゃんは一人だけだって……姉は一人しか存在しちゃいけないんだって、香菜ちゃんが言ってたのに……なんで、おかしいよ。頭が割れそう……」
「沙穂ッ!」
「香菜、早く沙穂をここから出して。この〈姉〉の量は、伊緒という一人の姉の空白には多すぎる。〈姉〉の器が決壊してしまう」
 ジャネットは猫を飛び越えてベランダの窓を閉めた。ベランダにはもう猫はいない。
 香菜は沙穂から猫を引きはがして廊下に出した。にゃあにゃあ鳴きながら沙穂に群がってくる猫を部屋から出さないために、断腸の思いで蹴り返していく。いくら沙穂が最優先の香菜とはいえ、いたいけな猫をサッカーボールのように蹴るのはつらいことだ。
「外にはもう猫は見当たらない。たぶん〈姉〉の射程範囲にいる猫は全部ここに集まってるんだと思う」
 犬やハムスターやその他の生き物がいないところを見ると、〈姉〉は猫にしか伝染出来ない〝性質〟のようだった。増殖型の〈姉〉=〈妹〉は特定の生物を乗っ取って〈姉〉に変えていく。加えて乗っ取りが可能な射程が、その弱点だった。
「たぶんこの中に本体はいない。本体というか〈姉〉ネットワークのハブなんだけど、一定以上まで個体数が増えるまでは〈姉〉=〈妹〉はハブを増やせない。駆除不可能なほどに〈姉〉が増殖して、ハブも増えたらもうこのソトガワも滅びるしかなくなる。猫以外も〈姉〉が乗っ取り始めたら、〈姉〉エントロピーが崩壊して、宇宙は熱的死を迎える。だから増殖型の〈姉〉は厄介なの。あたしたちのソトガワを滅ぼした〈妹〉も、増殖型だった」
 香菜の決断は一瞬だった。
「今だけ、あんたに沙穂を任せる。〈姉〉の増殖は本体を中心にした円が射程範囲だから、本体はおそらく家の中にいる。これ以上、〈姉〉の射程範囲に猫が入ってくる前に、そのハブを叩く」
「どうやって? それにどうして増殖型の〈姉〉のことをそんなに知ってるの?」
「沙穂を連れて家を出て。私はここで〈姉〉とけりをつける。私が一人で家から出てくるまで、絶対に玄関を開けないで。あなたは今からジャネットじゃなくて、伊緒。だから絶対に沙穂を守護って!」
 香菜は沙穂の両頬を優しく手で包み込んだ。
「沙穂……私のこと、また昔みたいに呼んで。〝香菜お姉ちゃん〟ってもう呼んでもいいんだよ。あなたのお姉ちゃんは一人じゃない」
「香菜、まさか――」
「そう、そのまさか。増殖型の〈姉〉とは前にも戦ったことがある。その時は私自身が〈姉〉のハブになったあと、香菜に〝姉は一人しかいない〟と強く思い込ませることで、私の中で〈姉〉の活動を抑制した。そうしてから増殖した〈姉〉の端末を一人残らず始末することで封じ込めた。その代わり、私は沙穂にお姉ちゃんと呼んでもらえなくなった。私がマインドコントロールのために禁止したからなんだけど、本当に苦しかった。香菜お姉ちゃんと呼んでもらえないなんて。でも、沙穂のためにこの〈姉〉を解放する。本体の分からない〈姉〉を倒すためには、同じ〈姉〉をぶつけて対消滅する可能性に賭けるしかない」
「一歩間違えたら、倍の速度で〈姉〉は増殖するんだよ。そんな危険な賭け、香菜がどうなるかだってわかんない」
「妹の危機なのに、姉なのに、伊緒は私の心配をするんだね。そんなだから沙穂を悲しませるんだ。私は沙穂のためなら、躊躇なく〈姉〉になれるよ」
 苦しむ沙穂の瞳を見つめ、香菜は口づけした。苦鳴を漏らす沙穂の唇に舌を差し入れる。完全な姉権濫用だ。そもそもキスは必要ない。
「私のことをお姉ちゃんと呼んで!」
「――香菜、お姉ちゃん……」
 規格外の〈姉〉の量に苦しむ沙穂を抱きかかえ、伊緒=ジャネットは〈姉〉たちの決戦が始まろうとする西島家を脱出した。
 宇宙の危機は〈姉〉たちの戦いにゆだねられた。

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