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GIGANT(6) (ビッグ コミックス) [ 奥 浩哉 ]
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女神
by JUNKMAN

プロローグ

 ひときわ目立つショッキングピンクのサマードレスを着た少女が、新宿西口
の人混みをかき分けて走っていた。膝上15センチメートルのスカートの裾か
ら眩しい素足が覗いている。急げ。午後のワイドショー番組が始まるまで、も
う時間がない。彼女は、都庁から中継されるインタビューコーナーでアシスタ
ント役を与えられているのだ。
 石川亜里沙(本名同じ)はデビューまもない若手テレビタレントである。ま
だ、とてもトップアイドルと言えるほどの売れっ子ではない。ドラマではちょ
い役しかもらえない。主にヒロインのクラスメート役で、名前がついてないこ
とだってある。CDも出してみたけどさっぱりだった。今のところ、2枚目が
出る予定はない。コマーシャルなんか、農協の共済だ。このあいだファンクラ
ブができたけど、会員はまだ43人である。浦和の自宅から事務所まで埼京線
で出勤している。電車の中でサインをねだられたことはない。
 だから、こうして雑踏を走り抜ける彼女は、十分に人目を惹く服装であった
にも関わらず、誰にもタレントの石川亜里沙だと気づいてもらえなかったので
ある。それは、目深にかぶっている帽子やサングラスのせいではないだろう。
亜里沙は、そんな現実がちょっと悲しかった。
 もっと有名になりたい。
 自分でいうのも何だけど、容姿にはちょっと自信がある。160cm、45kg、ス
リーサイズは90-57-83。Fカップだ。アイドルとしてはばっちりでしょ。顔だ
って可愛いのよ。髪型はアイドルの定番セミロング。さらさらだから、シャン
プーのコマーシャルにだって出られるわ。
 でも、所属プロダクションの上層部は、あまり彼女を評価していないらしい。
今日だって、本番直前に電話一本でロケ現場の変更だ。だからこんなに急いで
いるのだ。失礼しちゃうわ。でも、どうして?どうしてもっと大切に扱ってく
れないの?埼玉県の住民だから、あか抜けていないとでも思っているのかし
ら?この頃はちょっと気の利いたコメントだって言えるようになったわ。歌だ
ってきちんと練習しているのよ。だから、もっと一所懸命にプロモーションし
てくれてもいいのに。
 プロダクションが期待してくれなくたって、亜里沙の目標は、あくまでもト
ップアイドルである。それも本格派のプロのアイドルだ。南沙織が切り開き、
天地真理が受け継いで(ひえー!)、小泉今日子で頂点をきわめ、高橋由美子
で挫折したあの正統派アイドル路線である。いつでもみんなの羨望や憧憬のこ
もった視線を集めていたい。今日だって、本当はこんなひらひらのフリルがつ
いたミニのドレスでは場違いになることはわかっている。でも、これはアイド
ルとしてのこだわりだ。それに、バストは亜里沙の武器である。テレビに出る
のに、これを強調した服装をしない手はない。90センチを寄せて上げると結
構な迫力のはずよ。
 そう、トップアイドルになるためには、何よりもテレビへの露出を増やさな
くてはならないのだ。仕事の選り好みなんてしてはいられない。今日のくだら
ないアシスタント役だって、今の亜里沙にはとっても貴重な仕事である。遅刻
なんかしている場合ではない。亜里沙は走った。そのわずか数時間以内に、全
く意外な方法で、彼女の願いがかなえられることも知らずに。


第1章

 都庁の入口は、いつもにもまして群衆が殺到していた。彼らは、何か都庁の
上の方を指さして騒然としている。そのうえ、その前では、どうやら警察が立
ち入りを制限しているようである。何だろう?でも、気を取られている暇はな
い。亜里沙は急いでいるのだ。なんてったって今日のゲストは淡島知事である。
亜里沙は、人混みをかき分けて前に進み出て、張り渡したロープをくぐり、都
庁の建物の中に入った。たちまち、警戒中の若い警官がやってきた。
「だめだめ、立ち入り禁止、入っちゃダメだよ。」
「あっ、関係者でーす。おつかれさまでーす。では、急いでいるんで、どうも
ー。」
「だめだって、今は誰も入っちゃいけないんだよ!」
 そんなこと言われたってもうスタッフは最上階で待っているはずよ。淡島知
事だって既に到着しているかもしれないわ。失礼があっちゃはいけないでしょ。
それに、何よりも、番組に穴を開けたらトップアイドルへの道が遠ざかってし
まうのよ。幸いこの若いお巡りさんは純情そうだわ。亜里沙は、一か八か、サ
ングラスをはずして、最近覚えたぶりっこスマイルを試みた。
「こんにちわあ、石川亜里沙でえす。」
「あっ!いっ、石川亜里沙さん。こ、これはどうも。」
 若い警官は、明らかにひるんだようだった。亜里沙はその隙に、彼の制止を
するりとすり抜けて、エレベーターホールに駆け出した。
「あっ、石川亜里沙さあん、ちょっと待って下さあい、ちょっとお!」
 制止する警官の声を背中に聞きながら、亜里沙はエレベーターのボタンを押
した。警官たちが追いつく直前にドアは閉まり、エレベーターは最上階に向か
って上昇し始めた。
 「あのお巡りさん、私のこと知ってたみたい。」
 亜里沙は少し嬉しかった。自分のファンだって、着実に増えてきているのだ。
トップアイドルだって、まんざら夢ではないぞ。
 しかし、そんな幸せな気分も、最上階に着いてエレベータードアが開いた瞬
間に、跡形もなく吹き飛んでしまったのである。

 そこには、スタッフも淡島知事も待っていなかった。いや、正確に言えば、
淡島知事はその階にいたのだが、今、亜里沙に向かって一斉に銃口を向けてい
るこのテロリストたちによって、密室に監禁されていたのだ。良く見ると、彼
らは日本人ではなさそうだ。覆面をしているのではっきりとはわからないが、
ラテン系の民族のように見える。
 亜里沙は、おずおずと帽子をとりサングラスをはずして精いっぱい微笑んで
みた。
「こ、こ、こんにちわあ、石川亜里沙ですう.......。」
 効果は全くなかった。彼らは亜里沙のことなど全く知らないのだ。当たり前
だ。世界の松田聖子といえど、ラテン系の国々では知っている人も少なかろう。
亜里沙のような駆け出しのB級アイドル(亜里沙はこの言葉が大嫌いだった)
なんか、見たことも聞いたこともあるはずない。エレベーターのドアを閉める
間もなく、たちまちテロリストたちに取り押さえられてしまった。
 テロリストの一人が、たどたどしい日本語で話しかけてきた。
「誰ダ、オマエ?何シニキタ?」
 亜里沙は思いっきり動転しながら、それでもちょっと見栄を張って自己紹介
した。
「私は、歌手で、女優の、石川亜里沙です。日本では、アイドルと呼ばれてい
ます。」
 いらない見栄は張るべきではなかった。彼らはすぐに知らないラテン系の言
葉(スペイン語かな?と亜里沙は思った)で相談を始めた。
「アレナンディオシオレソナタ、シニョアセレペリャメーナ(歌手で女優とい
うからには、一般大衆にも良く知られている人物だろう)。」
「セあいどるレソンドランツィオナスタニーニョ(アイドルとは特に人気が高
い場合に使われる言葉だ)。」
「イグラツィア、コメンシエステ(これは都合が良い。示威行動には最適だ)。」
 亜里沙は窓際へ連れて行かれた。テロリストの一人が機関銃で窓ガラスを打
ち破り、亜里沙を外に押し出した。
「キャー、何するのよー!!!」
 足場を失って、必死でテロリストの手にしがみついた。右足から真っ赤なロ
ーヒールのパンプスが脱げ落ちた。亜里沙は、遥か240メートル下にゆらゆら
と落ちていくパンプスを茫然と見送った。冗談じゃない、墜ちたら死んじゃう。
亜里沙は振り返って、自分がしがみついているテロリストの顔を見上げ、再び
慄然とした。確かに冗談ではない。彼の眼は真剣だった。
 テロリストは亜里沙に語りかけた。
「我々ノ本国デノ行動ハ、失敗ニ終ワッタ。」
「そ、そんなこと聞いてないわよ。それより、早く私を助けて!」
 彼は、亜里沙の懇願など意にも介さず、自分の話を続けた。
「本国デノ交渉ハ生温カッタ。我々ハ、要求ガ満タサレナケレバ、人質ノ安全
ハ保障シナイ。」
「………!!」
「オマエハ、コノ国デハ名前ノ知ラレタ人物デアル。政府ヤ大衆ニ、我々ガ本
気デアルコトヲ示スタメニハ、最モフサワシイ。」
 亜里沙は恐怖で目がまわりそうになった。私なんか本当はまだそんなに有名
じゃないのに………。
「目的追求ノタメニハ、小サナ犠牲ハヤムヲエナイ。草葉ノ陰デ、我々ノ革命
ノ成功ヲ祈リ給エ。アディオス。」 
 テロリストは、亜里沙の手をふりほどいた。亜里沙は、足場も手がかりもな
い空間に放り出された。
 都庁を見上げる群衆は、ショッキングピンクのサマードレスを着た少女が最
上階から転落してくる姿を見た。一斉に悲鳴が沸き起こった。


第2章

 人は死の直前の一瞬に、その一生を走馬燈のように観るという。まして、地
上240メートルからのフリーフォールは、亜里沙の16年の短い人生を振り返
るにはおつりがくるくらいの長い時間を与えてくれた。亜里沙は想い出した。
幼稚園のころは毎日テレビのアイドルの真似をしていた。小学校の学芸会はも
ちろん主役。中学校では本格的に歌のレッスンを始めた。そして卒業と同時に
オーディションに合格して、デビューにこぎつけた。みんな、夢を果たすため
だった、トップアイドルになって、みんなの憧れの視線を集めるの夢を。死に
たくない。こんな中途半端なB級アイドルのまま飛び降りても岡田有希子には
なれない。ああ、誰か何とかして、誰かあー!!
 その時、もの凄い勢いで降下してしていた亜里沙の身体が、ふいに空中でピ
タリと停止した。同時に何の音も聞こえなくなった。え、もう死んじゃったの
かしら?そんなことないわ、だって地面はまだあんなに下に見えるもの。亜里
沙は両眼をごしごしとこすってみた。

 目を開けてみたら、一層わけがわからなくなっていた。亜里沙は銀色の壁に
囲まれた丸い小部屋に浮かんでいた。どうなっちゃってるの?皆目見当がつか
ない。でも、これって少なくとも都庁の最上階から落下中よりはまだましなシ
チュエーションよね。
 ふいに、傍らにブルーメタリックな服を着た小柄な人物が現れた。彼の真っ
白い顔には鼻がなく、両眼には瞳がなかった。彼は口を開くこともなく亜里沙
に話しかけてきた。
「お嬢さん、どうも初めまして。私は宇宙安全保障省アルメイダ銀河群担当2
等書記官のジ・ボイという者です。」
「………」
これだけ次から次へと変なことが起こっていくと、もう驚く気も起こらない。
好きなようにしてちょうだい。
「平たくいえば宇宙人です。決して怪しい者ではありません。」
宇宙人より怪しい者なんていないわよ。でも、助けてくれたんだからお礼くら
いは言わなくっちゃ。
「私を助けてくれたのね。どうも有り難う、g-boyさん。」
「g-boyではありません。ジ・ボイです。」
彼は慌てて訂正した。
「たまたま通りかかったところ、お嬢さんのお呼びする声が聞こえたのです。
お役に立てたなら光栄です。」
亜里沙はほっとした。変な人ではなさそうだ。
「そのかわり、と言っては何ですが、私もお嬢さんにお願いがあるのです。ど
うですか、この星の安全保障上の最終兵器になっていただけませんか。」
「????」
「つまりですね、万が一、他星からの侵略があった場合、お嬢さんが変身して
これをくい止めていただきたいのです。」
前言撤回。やっぱり思いっきり変な人だった。驚くより先に呆れるわ。これっ
てまるっきりB級SFの世界じゃない。B級アイドルよりもレベルが低いわ。
「地球に攻めてくる宇宙人と私が闘うの?」
ジ・ボイと名のった宇宙人は、にやりと笑みを浮かべて答えた。
「まあ、どこの星でも皆さんそういう質問をなさるのですが、そういうことは
まずないですね。いまどき他星侵略なんてはやりません。だいたい、どこの惑
星も最終兵器で武装していますし、我々宇宙安全保障省の制裁措置も厳しいで
すからね。いいことないです。」
「じゃあ、別に私が最終兵器にならなくってもいいじゃない、ジャイアントボ
ーイさん。」
「そんなわざとらしい間違いをしないで下さい。ジ・ボイです。」
彼は少し機嫌を損ねたようだ。
「安全保障にただのりしちゃいけませんよ。自星の安全は、最低限度、自分た
ちで守らなくちゃね。」
どこかで聞いたことのあるような理屈である。ふーん、これって宇宙に普遍的
な真理だったのか。
「でも、それ、なんか面倒くさそう。危険なことは嫌だし。それに私はトップ
アイドルになってみんなの憧れの視線を集める夢があるの。」
ジ・ボイは、意味ありげに再びにやりと笑った。。
「いや、だから、まずお嬢さんの出番はないと思いますよ。だから、どうぞ日
常はご自分の夢がかなえられるように努力なさって下さい。もし出番があった
としても全く安全です。変身したお嬢さんの攻撃の破壊力は抜群ですし、防御
力は完璧ですからね。大気圏内の闘いなら、どんな攻撃を受けてもまずかすり
傷ひとつ受けません。保証します。」
亜里沙は、ちょっと好奇心がわいてきた。
「どうすれば変身できるの?」
「お嬢さんのOKがいただければ、これから自律神経中枢に変身の起動装置を
組み込みます。あっ、全然痛くないですよ。すぐ終わりますし。そしたら、後
は精神を集中して変身を願うだけで十分です。」
「変身って、やっぱり見た目が変わっちゃうの?」
「遠目じゃ全然わかりませんよ。流石に近くで見ると違いますけどね。」
それは困る。亜里沙は自分でもちょっと可愛いと思っている。ましてや、これ
からトップアイドルになる身である。遠目でわからなくても近くで見たら容姿
が変わっちゃうような変身なんてまっぴらだ。鬱陶しくなってきたぞ。よーし、
ちょっと意地悪な質問をしてやろう。
「例えば、私が変身して悪いことをし始めちゃったらどうなるの?大気圏内で
は無敵なんでしょ?どんどん悪いことしちゃうわよ。」
ジ・ボイの答えは意外だった。
「善いことや悪いことは、それぞれの星で検討すべき概念です。宇宙には特に
そういった定義はありません。少なくとも私たちが口を挟むべき領域ではない
ですね。宇宙安全保障省の役割は異星人による他星侵略を防ぐことだけです。
最終兵器を使ってそこの星の住民がそこの星に対してどんなことを行っても、
それはその星の内政の問題ですから、私どもは一切関知いたしません。」
へえ、そうなのか。驚く亜里沙にはおかまいなしに、彼は話を続けた。
「別にね、異星人が侵略する前に変身しても問題はないんですよ。むしろ最終
兵器の存在を明らかに示しておいた方が侵略に対する抑止力が高いので、本省
ではそちらを勧めているくらいです。勿論、個人的な理由で変身なさっても結
構ですよ。」
「待って、まだ、私、最終兵器になるって同意したわけじゃないわよ。」
ジ・ボイは、またまたにやりと笑った。
「それはもちろんお嬢さんの自由ですよ。でも、もしご同意いただけなかった
場合には、このままお引きとり願いますが、それでもよろしいでしょうか?」
 忘れてた。私は都庁から落っこちてる最中だったんだ。ジ・ボイは勝ち誇っ
たような笑いを浮かべている。
「まあ、私がお嬢さんの立場だったら、すぐにでも変身したくなるような状況
だったと思いますけどねえ。ええ、でも別にいいですよ、気が進まないなら。
あくまでもお嬢さんの自由意志ですから。」
嫌な奴だなあ。このケースは普通地球では自由意志と言わないと思うけど……
…。でも、贅沢も言ってられないわ、もし命が助かるんだったら。
「変身すればこの状況でも助かるの?」
「もちろんですとも。お嬢さん、大気圏内では無敵ですよ。ビルから落っこち
たくらいの衝撃じゃびくともしません。」
「ほんとにほんとね?わかったわ。じゃ、同意します。」
「そうですか、ご協力どうも有り難うございます。それでは早速、変身起動装
置を組み込みましょう。」
彼がそう言うや、部屋の照明が消えた。
「え?もう始めちゃうの?痛くしないでね。」
暗闇の中で、ジ・ボイの声だけがゆっくりと響いた。
「変身に必要なことは、集中力です。落ちついて、姿が変わることを、強く願
うのです。強く願うのです。強く願うのです………………」

 急に明るくなって亜里沙は我に返った。墜ちている。やっぱり都庁の最上階
から墜ちている途中だ。今のは何だったんだろう?なんて熟考してるひまはな
いわね。とにかく死にたくないんだもん。ここはその変身ってのをやってみる
しかないわ。集中して、強く願うのね。うん、強く願うんだ、強く………。
 亜里沙は目を閉じて、強く願った。意識が遠くなった。そして亜里沙の身体
はまばゆい光に包まれた。光は一瞬空中に静止すると急激に巨大化した。都庁
を見上げる群衆の悲鳴は、驚きに溢れたどよめきに変わった。


第3章

 意識が戻ったとき、亜里沙の両足は地面についていた。どこも痛いところは
ない。静かだ。何も聞こえない。いや、待て。耳を澄ませば、遠くで人のざわ
めく声が聞こえる。生きている。私は生きている。やったあ!!!
 亜里沙は目を開けた。辺り一面、ぼんやりと霞がかかっている。その中に、
ぽつん、ぽつんと灰色のお墓が立っている。あそこにもある。ここにもある。
あっ、後ろにもある。特にすぐ後ろのお墓は大きい。高さ2メートル以上はあ
りそうだ。何よりも不思議なことには、人の気配は感じるのに周囲には人っ子
一人見えないのだ。人ばかりではない。車も電車も建物も何もない。見えるの
はお墓ばかりである。
「なあんだ………私、やっぱり死んじゃったんだ.…」
 亜里沙はがっかりしてその場にへたりこんだ。そのとき、遠くから聞こえる
人の声が一瞬騒がしくなったように思った。
 
 マグニチュード8クラスの揺れに伴って都庁周辺はパニックとなった。光の
中から現れた身長160メートル(推定)の巨大少女が、突然その場にへたりこ
んだのだ。中小の建物は崩れ、傾き、道行く人々はみなその場に倒れ伏した。
何よりも、巨大少女の足下近くから避難中であった人々は、もう少しでその巨
大な脚の下敷きになるところであった。人的被害のなかったことは幸いであり
奇跡的であった。
 警備の警察も、報道陣も、群衆も、南米○○○国からはるばるやってきたテ
ロリストたちのことなどすっかり忘れてしまった。当然である。高層ビルサイ
ズの全裸少女のインパクトは強烈である。さすがに報道関係者たちは、特に芸
能番組の関係者たちは、その巨大少女がオリバー企画所属のテレビタレント石
川亜里沙(16歳)であることをすばやく認識していた。

 柏木巡査にとって、その日は驚くべき出来事の連続だった。それは他の誰で
もそうだったであろう。だが、彼の場合には事情が違う。ファンクラブ会員番
号22番の彼にとって、警戒中の都庁入口で本物の石川亜里沙と話ができたこ
とが何よりものビッグイベントだったのだ。人生最良の日になるはずであった。
つい、さっきまでは。
 しかし、事態は大きく転換した。亜里沙は再び目の前にいる。一糸まとわぬ
姿で目の前にいる。100倍の大きさの巨人となって目の前にいる。夢と現実の
境界がわからない。彼は眼をつぶって何度もかぶりを振ってみた。
 その点、現場を指揮する吉岡警部は冷静だった。彼の疑問は、なぜこの巨大
少女が虚空をみつめ周囲に無関心でいるかであった。周囲の声が明瞭に聞き取
れないことは想像に難くない。普通サイズの人間は、彼女にとって身長2セン
チメートル足らずのこびとだ。足元で叫んだところで蚊の鳴くような声にしか
聞こえないだろう。しかしどうして我々を見ないのだ?興味がないのか?わざ
と無視しているのか?わからない。理解できない。これではその後の対応策も
準備できない。
「いったいどうしちまったんだろうかなあ?見えてねえのかなあ?」
吉岡警部はぽつりとつぶやいた。その瞬間、傍らの柏木巡査が弾かれたように
眼を見開いた。わかった!
「そ、そうだ。そうです。彼女は何も見えていません。石川亜里沙さんは極度
の近視なのです。」
ファンクラブ会報特報付録・亜里沙の秘密(限定出版)に出ていた、とは口に
出せなかった。

 柏木巡査はパトカーを運転して亜里沙の足元に近づいた。フロントガラスか
らは亜里沙の姿を見ることができない。見えるのはとてつもなく大きな足だけ
だ。拇指だけでもこのパトカーくらいある。誰だって思わず後込みしてしまう
光景だ。だが、彼はひるまなかった。大きな使命を持っているのだ。

 現時点で最大の危険はこの巨大な少女が行動を開始することであった。彼女
はどうやら現状を認識していないらしい。しかも、まずいことに我々とはコン
タクトがとれない状況だ。従ってその行動は予測も制御も不能である。しかし、
彼女は我々に敵対している存在ではない可能性が高い。何らかの手段でコミュ
ニケーションが取れれば、被害は最小限に食い止められるであろう。だが、視
覚的コミュニケーションを取ろうとすることは現実的でない。具体的に言えば、
彼女に合うサイズの眼鏡やコンタクトレンズがすぐに入手できるはずはない
のだ。そうなれば聴覚的コミュニケーションしかない。誰かが彼女の耳に受信
機を設置して、受信を可能にすれば良いのだ。
 そして、柏木巡査は迷いなくその任務に志願した。

 右足の指先にできるだけ近づいた時点で、彼は車を止め、クラクションを鳴
らした。何の反応もない。手を振ってみよう。あっ、こっちをちょっと見た。
しめた。気づいたかな。ああ、またあっちを向いちゃった。もう一息かな。も
うちょっと派手なことをしなきゃ。そうだピストルでも撃ってみよう。パンパ
ンパン。よーし、いまのはインパクトあっただろう。だめ押しだ。また手を振
って見よう。そうだ、今度は声もかけてみよう。柏木巡査はハンディマイクを
取り出して、再び運転席から身を乗り出した。
 声を出すことはできなかった。新宿警察署くらいの大きさの顔が、すぐ真上
から彼を見下ろしていた。柏木巡査はあわててパトカーの中に戻り、両腕で頭
を抱え込んだ。ベコンという大きな音がして、運転席と助手席のドアが同時に
内側にへこみ込んだ。次の瞬間、パトカーは空中に浮かび上がった。 

 亜里沙は全裸であることに気がついていた。それがなんだっていうの?どう
せ私は死んじゃったんだから。ここは賽の河原かなんかでしょ。これから、白
い衣でも着させられるのかなあ……
 そのとき、かぶと虫くらいの大きさのものが右足近くにやってきた。虫か
な?気持ち悪い。あれ?小さなクラクションやポップコーンの弾けるような音
が聞こえる。何だろう。近くでよく見てみよう。ミニカーか。よくできてるな
あ。
 軽い気持ちでつまみ上げてみた。中から小さな悲鳴が聞こえてきた。えっ?
何、これ?
 更に眼を近づけて見た。やっと見えるぞ。中で何かうずくまってる。ちょっ
と動いた。えっ?えっ?こびと?
 意外な発見だった。亜里沙は動転した。こびとなんて今まで見たことない。
いたんだ、そんなのが。流石は賽の河原だわ。
 ここで亜里沙は、一つの重要な事実に気がついた。こんなに近づけなければ
見えない。ということは、私はコンタクトレンズをしていないのだ。この世界
がぼやけているのは、私が裸眼で見ていたからだ。
 あわてて周囲を見直してみた。でも、やはり灰色の墓標ばかりだ……。あれ、
このお墓の並び方は、何か見覚えがあるような気がする。何だろう。もしかし
て、まさか………そうだ、これは都庁から見た新宿の景色だ。この左手にある
のが住友の三角ビル、正面は京王プラザ、右手のはNSビル、で、後ろが都庁
……。まるで、ミニチュアの都市だ。そういえば、この遠くから聞こえてくる
人声は、都市の喧噪のようである。
 ひとつの疑念が亜里沙を捉えた。言い様のない不安が沸き起こった。亜里沙
は助けを求めるように手のひらにのせたパトカーを見つめた。

 柏木巡査も恐怖と闘っていた。頭上を視界いっぱいに亜里沙の顔が覆ってい
る。圧倒的な大きさだ。それに比べて、自分は情けないほどに無力である。気
おくれなんてものではない。逃げ出したくなるような恐怖であった。いや、こ
んなものは覚悟の上だったじゃないか。何としても任務を遂行しなければなら
ないのだ。あるだけの勇気を振り絞って、柏木巡査は運転席のドアを開け、亜
里沙の手のひらに降り立った。
「あっあーっ、石川亜里沙さん、石川亜里沙さん、き、聞こえますかあ?」
 柏木巡査は用意のハンディマイクを使って語りかけた。
「本官は新宿警察署勤務巡査の柏木正彦であります。」
「あのお、私、どうなってしまったんでしょう?」
 巨大な亜里沙の声は、雷鳴のように、大きく、重く響いた。なんてことだ。
声だけでもこの威力か。柏木巡査はかろうじて体勢を保ちながら語り続けた。
「お信じになれないかもしれませんが、」
柏木巡査は大きく息をついて話し続けた。
「亜里沙さん、あなたは大きくなったのです。あなたは今、推定身長160メー
トルの巨人なのです。」
 亜里沙の脳裏を電光が貫いた。
 声にならない悲鳴が喉をついた。やっぱり。やっぱりそうだったのか。私は
死んだんじゃない。そのかわり、巨人になってしまったのだ。でも、どうして?
どうしてそんなに大きくなっちゃったの、私?
 錯綜する亜里沙の思考の中に、ジ・ボイの「遠目じゃ全然わかりませんよ。
流石に近くで見ると違いますけどね。」とつぶやいた言葉が甦った。
 ………そうか、こういうことだったのか。

 声を出したら怖さが少し薄らいだ。でも、ゆとりが出たら、今度は目の前に
ある巨大な胸の隆起が気になってきた。大きいなあ。でも、柔らかそうだなあ。
あ、すごく気になってきた。いかんいかん、公務執行中なんだから。しかし、
目のやり場に困る。実際、前方は見渡す限りずうっと胸なんだからほんとうに
困る。物理的に視線をそらすことが難しい。残念だが、なんとしても早めに切
り上げよう。
 純情な柏木巡査は、手短かに用件を切り出した。もっともな提案だった。亜
里沙に全く異存はない。
 亜里沙は柏木巡査を載せた左手を右耳にあてがった。柏木巡査は、受信機、
アンプ、スピーカーを順次亜里沙の耳孔に運び込むと、自らもその耳介に飛び
移った。我ながら大した度胸だと思った。柏木巡査は手筈どおりに機器を接続
すると、ガムテープで厳重に亜里沙の外耳道に固定した。これならば相当揺れ
ても大丈夫。後は電源を入れて交信テスト済ませればOKだ。ほっと一息つい
た。
 このとき亜里沙は、もう一つの重大な事実を思い出していた。今の巡査の説
明どおりだとしたら、周囲には大勢の人々がいて、亜里沙を見ているはずだ。
実際、確かに大勢の人の気配はあるのだ。
 まずい。亜里沙は全裸である。
 慌てて立ち上がり、後ろを向いて、都庁のビルにぴったりと身を寄せた。
 大きい。身長160メートルの巨人になった今の亜里沙をもってしても、都庁
はなお大きい。凹型の引っ込んだ部分でも亜里沙の頭のてっぺんくらいある。
まして最上階には背伸びしても手が届きそうにない。
 そうだ、また重要なことを思い出した。最上階だ。私はあそこから墜ちたの
だ。あそこには私を突き落としたテロリストたちがいるのだ。


第4章

 リカルドは自分の右手を見つめていた。この手だ。この手で振り払ったのだ。
それで、あの少女は墜ちていったのだ。リカルドはピンク色のサマードレスが
小さくなっていく様子を最後まで確認することができなかった。できるわけが
なかった。彼は本当は気弱な青年なのだ。
 彼の家庭は貧しかった。彼の家庭ばかりではない、周辺の人々は皆貧しかっ
た。
 彼は日系企業の下請け会社に勤務して、そこで片言の日本語を覚えた。給料
は少なかった。仲間もみんなそうだった。ただ、日本から来た駐在員だけが、
良い服を着、良いものを食べ、良い家に住んでいた。
 2年前、母が病気になった。貧しかったので薬を買うこともできなかった。
母は苦しみ、悶え、死んでいった。
 町外れの墓地に母を葬ってきた帰り道、日本大使館で華やかなパーティーが
催されているのを見た。美味しそうな食べ物がたくさん並んでいた。ホスト役
の尊大な男が横柄な態度で煙草をすぱすぱ吸っていた。
 社会が間違っていると思った。
 だから、幼なじみの友人から革命活動に誘われると、リカルドは迷うことな
く参加したのだ。
 でも、だめだった。自分には向いていない。弱すぎる。こんな小さな出来事
で挫折してしまう自分が情けない。リカルドは頭を抱え込んだ。
 少女が墜ちていった後、窓の下では何やら騒々しい出来事が続いていた。さ
っきはすごい揺れも起こった。でも、窓の下を覗く気にはなれなかった。眼下
に見えるはずの小さな赤い染みを確認するのが怖かった。だから、窓の外を確
認するのはリカルドの役目であったのだが、適当な返事をして、外では特に変
わったことは起こっていないことにした。さっきの揺れは地震だろう。公安当
局が下から登って来られるはずがない。ここは地上240メートル地点なのだ。

 亜里沙はテロリストなんかもう怖くない。ピストルで撃たれたって平気だろ
う。少なくとも、もう最上階から突き落とされることはあるまい。よおし、さ
っきのお返しだ。
 といっても最上階には手が届かない。どうしたらいいだろう。キングコング
みたいにビルによじ登るしかないか。じゃ、とりあえずこの真ん中の低いとこ
ろにのってみよう。亜里沙は都庁中央の凹部の屋上に両手をかけた。
 亜里沙は計算違いをしていた。キングコングはたかだか体長15メートル程
度の小動物である。今の亜里沙のサイズから比べたらリスのようなものだ。残
念ながら、亜里沙はものすごく重かったのである。亜里沙が両手に体重をかけ
ると都庁の中央部は呆れるほどあっけなく崩れて落ちてしまった。亜里沙は思
わず前のめりにつんのめって倒れ込み、都庁中心を完全に平らにしてしまった。
「あーあ、やっちゃったあ。」
 こうなったらテロリストのいる階に直接登るしかない、んだけど、無理なよ
うな気がする。ためしにテロリストたちのいない方のタワーにちょっと足をか
けてみた。あーん、やっぱりだめだ。倒れちゃった。どーしよ。
「仕方ないわ。丹下先生、ごめんなさい。」
亜里沙は残された都庁タワーの上層部を両手で慎重に抱え込みながら、ローキ
ックで下層部を完全に破壊した。
「うーむ、派手にやってくれるなあ。」
 吉岡警部はこの様子を見上げて溜息をついた。周辺では野次馬たちが血相変
えて逃げ去っている。
「都庁を立入禁止にしておいて良かったな。しかし、テロリストや人質たちは
大丈夫かな?」

 南米も太平洋沿岸は名だたる地震の多発地帯である。遥々やってきたテロリ
ストたちにとって、地震なんか慣れっこだった。しかし、この揺れは物凄い。
とても立ってはいられない。部屋の中はもう滅茶苦茶だ。向かいのタワーは倒
壊してしまった。もう、とてもテロリズムどころの騒ぎではない。床に這いつ
くばってこの地震が収まるのを待つしかない。それまでこの建物が崩れなけれ
ばいいが。
 しかし、彼らの願いもむなしく、ひときわ大きな衝撃が加わると、建物は一
瞬ふわりと浮かび、やがて徐々に沈み込み始めた。テロリストたちは一斉に十
字をきった。
 そして彼らは信じられない光景を見た。一連に連なるガラス窓は、あたかも
細かく分割されたスクリーンのようである。そのスクリーンに映し出されたの
は、まず黒い髪、ついで額、眉、眼、鼻………それは、巨大な少女の顔だった。
 
 亜里沙は都庁ビルの上部を抱え挙げ、さっき平らにした都庁の中央部に据え
置いた。これでテロリストたちの立てこもるフロアも、胸のレベルより下であ
る。さあて、どうしてくれよう。とりあえず、中を覗いてみようかな。亜里沙
は右手の人差し指を屋上に突き刺すと、そこからゆで卵の殻を剥くように屋上
をはがし始めた。

 天井をぶち抜いて大木の幹ほどはあろう手指が現れた。やがて天井は荒々し
くはぎ取られ、さっき窓から見えた信じられない光景が、こんどは真上に現れ
た。大きい。信じられないほど巨大な少女だ。彼らの頭上には会議室ほどもあ
りそうな巨大な手がかざされている。あの手を軽く振り下ろすだけで、この建
物ごと粉々になってしまうだろう。彼らの多くは呆然としてその場にへたりこ
んだ。
 さすがにリーダー格の男は違う。彼は、亜里沙に自動小銃を向け、何事か大
きな声で叫んだ。
「ペリャベレステ、ナンシオンソラムーチョ(やめろ、さもなくば人質に危害
を加えるぞ、というような意味か?)!!」
 亜里沙にスペイン語がわかるはずがない。小首を傾げるばかりだ。頼みのリ
カルドは片隅で頭を抱えて震えており、使いものにならない。うーむ、ならば
ジェスチャーで示すまでだ。リーダーは淡島知事のこめかみに銃を突きつけた。
どうだ、これなら俺たちが本気だってことがわかるだろう。
 だが巨大少女はおかまいなしに手を伸ばしてくる。おいおい、人質はどうな
ってもいいのか?テロリストたちは亜里沙がど近眼であることなんて全然知
らないのだ。これは人質なんてかまってはいられない。勇敢なリーダーは、襲
いかかる亜里沙の指に自動小銃を乱射した。弾丸はみんな情けなく跳ね返され
てしまう。こりゃだめだ。リーダーは淡島知事もろとも、親指と人差し指でつ
まみ上げられてしまった。
 そのとき、亜里沙の右耳でがさりと音がした。うっひゃあ、忘れてた、さっ
きのお巡りさんだ。あーあ、私ってどうしていろんなことを一緒に覚えていら
れないんだろう。亜里沙は左手を右耳にあてがって首を傾げ、外耳道に避難し
ていた柏木巡査を救出した。そして、彼の傍らに今つまみ上げたテロリストの
リーダーと淡島知事を下ろした。2人は完全に気を失っていた。
「お巡りさん、あのう、大丈夫でしたか?」
 亜里沙はおずおずと尋ねた。柏木巡査は手際よくリーダーに手錠をかけなが
ら、ハンディマイクを使って答えた。
「はい、全く異常ないであります。それより亜里沙さん、こちらにいらっしゃ
るのは淡島知事ですよ。」
 柏木巡査は白目をむいて倒れている紳士の猿ぐつわを外した。
「意識を失っているようですが、見たところお怪我もなさそうです。」
やったあ、もう人質が無事に解放されちゃった。やるじゃない、私って。えっ
へん。
 亜里沙はしゃがみ込んで手のひらを地面に下ろした。柏木巡査がテロリスト
のリーダーと淡島知事を抱えて降りたって行った。それを確認した上で、亜里
沙は再び立ち上がり、都庁の最上階を見下ろした。残ったテロリストたちが震
え上がって見上げている。そりゃそうだ、私は圧倒的に強大な巨人なんだもん
ね。うーん、優越感。
 亜里沙はテロリストの一人をつまみ上げ、残りのテロリストたちの頭上にぶ
ら下げてみせた。彼は慌てて手足をばたつかせたが、亜里沙の指はびくともし
ない。
「さあて、悪いこびとさん。大きなおねえさんは怒っているわ。こうやってみ
んなを食べちゃおうかと思うんだけど、」
亜里沙はぽっかりと口を開け、つまみ上げた男のそばに近づけた。
「あーん」
亜里沙の口腔は少なく見積もってもガレージ2軒分くらいある。こんな男はわ
けなく丸呑みだ。男は半狂乱になって逃げだそうとしたが、悲しいかな亜里沙
の指の方が遥かに強くて大きい。男は恐怖の中で、自分の無力さを嫌と言うほ
ど味わった。その様子を見上げる残りのテロリストたちも同様だった。亜里沙
はしばらくこの状況を楽しんだ後、男から口を遠ざけた。
「可哀想だからやめておいてあげる。そのかわり、もう悪いことをしてはだめ
よ。すぐに降参して、この場で謝ったら許してあげるわ。さあ、大きな声で謝
りなさい!!」
誰も答えなかった。当然である。気弱なリカルド以外、誰も日本語がわからな
いのだ。
「…謝らない、ふーん、そう。それなら仕方ないわ。」
亜里沙は捕まえたテロリストをフロアに戻すと、再び両腕で都庁を抱え挙げた。
「よいしょっと。さあて、お仕置きよ!」
亜里沙は抱え挙げた都庁を思いきり前後左右に振り回した。フロアの家具が散
乱する音が聞こえた。小さな悲鳴も聞こえる。怖いんだろうなあ、この揺れじ
ゃ。それにもまして私の力に驚いているんだろうなあ。
 思わずにんまりと笑ってしまった。
 都庁を地面に下ろしたとき、最上階のフロアは物音一つしなくなっていた。
やりすぎちゃったかな?でも、いいや、相手は凶悪犯なんだし。
 そのとき、亜里沙の右耳で声がした。柏木巡査のセットした受信機が作動し
始めたらしい。
「ああ、もしもし、石川亜里沙さん、聞こえますか、どうぞ。」
「あ、はーい、よく聞こえまーす。」
「その後の状況は如何ですか、どうぞ。」
「犯人は、もう、みーんなやっつけちゃいました。」
 亜里沙は得意そうに答えた。
「了解しました。それで、残りの人質たちに変わりはありませんか、どうぞ。」
「……えっ?……残りの人質……?!」
 あわてて最上階のフロアを覗き込んだ。散乱したフロアに動く影は全くない。
一人残らず完全にのびていた。

 亜里沙は気絶している人々を、一人一人こわごわと摘んで、そっと地面に下
ろした。待ちかまえていた警察が、テロリストと人質を手際よく分別し、それ
ぞれ拘置所と病院に移送していった。幸いたいした怪我人もなかったらしい。
ふう、良かった。 

 けたたましいサイレンの音で目を覚ましながらも、リカルドの意識はまだ完
全には戻っていなかった。霞がかかったような思考の中で、彼は巨大少女の姿
を思い出していた。あまりの至近距離からでしか見られなかったので、はっき
りとはわからない。でも、あの巨大少女は最上階から墜ちていった少女に似て
いるような気がした。そうだったらいいのに、と思った。


第5章

 閣議を終えた山本隆太郎首相は、執務室に戻るなり、不機嫌そうにショート
ホープに火をつけた。よりによって日本国内でテロ活動だ。やつらは本国での
失敗でそうとう頭にきているんだろう。今度ばかりは人質にかなりな被害が出
るな。それにしても日本もなめられたものだ。まあ、今回は無能な外務大臣が
足を引っ張らないだけましか……。
 内閣官房庁付けの浜口秘書官が飛び込んできた。
「総理、たいへんです!!」
 首相の表情が、さっと険しくなった。
「どうした。その後、なにかあったのか」
「テロ事件は解決しました。」
 首相は肩透かしをくらった。どうしてだ?俺はまだ何の指示も出していない
ぞ。
 しかし、秘書官の次の言葉はいっそう意味不明であった。
「突然現れた巨大な少女が、都庁のビルを破壊して、最上階の犯人たちの身柄
を拘束し、警察当局に引き渡しました。」
「………」
「人質にも多少のけが人は出たものの、軽傷であり、全員、東京医大付属病院
に移送中であります。」
「………浜口君、君、公務中なんだよ。いい加減にしたまえ!」
「総理、お信じになれないのはごもっともですが、ともかく、これを見て下さ
い。」
秘書官はテレビのスイッチを入れた。画面から高層ビルサイズの巨大少女が倒
壊した都庁の前でうずくまっている映像が飛び込んできた。首相は危うくショ
ートピースを取り落としそうになった。
「だっ、誰だね、これは?」
「はあ、えーと、石川亜里沙、16歳、高校生、ですが同時にオリバー企画所
属のテレビタレント、とあります。」
 浜口秘書官は、用意したばかりの資料を棒読みして答えた。
「どうしてこんなに大きいんだね?」
「はあ、えーと、それはまだ資料には記載されていないようです。」
 首相は不機嫌そうに椅子を回転させて秘書官に背を向けた。やれやれテロリ
ストどころではない。とんでもないことになった。何か対策をうたなくてはな
らない。だが何をする?前例はないぞ。
 窓に向かって顔をしかめている山本首相に、浜口秘書官はおずおずと尋ねた。
「総理、とりあえず、何かご指示は?」
「……まずは報道管制だ。」
「は?」
 山本首相は吸いかけのショートホープを灰皿に捻りつけた。
「16歳の少女が、素っ裸になっているんだ。こんなもの、真っ昼間から放映
するわけにはいかんだろう。」

 亜里沙は半分崩れた新宿都庁に背をもたれかけ、腰を下ろしていた。股間は
なんとか隠しているものの、もう胸は隠す気もなくなってしまった。あーあ、
脱ぐのは主演映画まで待とうと思っていたのになあ。幸い、京王プラザホテル
の陰になっているので、新宿駅からはあまりよく見えないわね。良かった。こ
んな姿が大勢に見られたら大変よ。亜里沙は、さっきの大立ち回りが、報道管
制がしかれるまで全国に実況中継されていた事実を知らない。
 つかの間の休息は右耳の受信機によって破られた。
「ああ、石川亜里沙さん、石川亜里沙さん、聞こえますか、どうぞ。」
「はあい。」
「これから、新宿御苑まで移動していただきます、どうぞ。」
「はあい…えーっ!?」
亜里沙は我が耳を疑った。新宿御苑っていったら南口の向こう側じゃない。っ
てことはなに、この格好で新宿駅のすぐ横を通り抜けろってこと?冗談じゃな
いわよ!亜里沙は憤然として答えた。
「嫌です。できません。」
受信機の声はひるまない。
「そこは高層建築の密集地ですので、立ち退いていただかないと危険です。新
たな建築物破損を招く公算が大と考えられます。既に被害総額は莫大であり、
石川さん個人の賠償可能範囲を遥かに超えております。それに、いつまでもそ
こにいては倒壊した都庁付近の回収作業が始められません。どうぞ。」
ぐうの音もでない。
「それじゃ、せめて、何か着るものはありませんか?」
「ありません。どうぞ。」
けんもほろろであった。

 亜里沙は受信機のナビゲーションに従って恐る恐る歩き始めた。ちょっと前
屈みになって、股間を両手で隠して歩くしかない。あー恥ずかしい。
 とりあえず、甲州街道に出なくては。それにはこのビルの間をすり抜けるの
ね。ちょっと失礼。
 新宿モノリス、NSビル、KDDビルの上階にいた人々は、息のかかるほど
の近さまで寄ってくる巨大な少女の顔に仰天した。でも亜里沙には悪気はない。
コンタクトレンズがないので思いきり顔を近づけないと距離間隔がつかめな
いのだ。ごめんね、脅かすつもりはないのよ。こうやって顔を近づけているか
ら無事に歩けるのよ……でもないか。なんかKDDビルが傾いちゃったような
気がする。近くを通ったとき、ちょっと地盤が沈んだからなあ…。大丈夫かし
ら?倒れないわよね?怖いから振り返らないでおこう。
 甲州街道は思ったより細かった。田んぼの畦道ほどもない。でも、少なくと
も建物につまずいたりすることはなさそうだ。交通規制をしているから、迷い
出てくる人もいないらしい。ほっとした。何しろ、足元はよく見えないのだ。
間違えて何かを踏みつけても、ごめんなさいっていうしかないと思っていた。
もう大丈夫だろう。あ、なんか踏んじゃった。何?バス?ぺちゃんこになっち
ゃった。こんなところに停めっぱなしにしとくほうが悪いのよ、ふん。あっ、
また踏んじゃった。え?これ、戦車?なんでこんなところにあるのよ?あれっ、
こんどは道が陥没した。これ都営地下鉄の新宿駅だ。やっばーい、踏み抜いち
ゃった。ごめん、わざとじゃないのよお。
 現場を指揮する吉岡警部は苦虫を噛み潰していた。ほうら見ろ。被害が拡大
する一方じゃないか。自衛隊が応援に来るから大丈夫、なんていったってこの
ざまだ。しかも、あの連中、他に出動命令が出たからって言って途中でいなく
なっちゃったじゃないか。ほんとかよ、おい、いくらなんでもこれを放って行
くこたあないだろ。さっき戦車が踏み潰されたんで怖じ気付いたんじゃないの
か?

 新宿駅西口付近に集まった群衆は、信じられない光景を見ていた。重々しい
地鳴りを伴って、身長160メートルの巨大な美少女が一糸まとわぬ姿で歩いて
くる。建物の上に膝小僧が見える。圧倒的なボリュームだ。恥ずかしいのだろ
うか、身体を屈め気味にしている。本人は気づくまい、その姿勢は足元から見
上げる人々になおさら威圧感を与えているだけだ。でも、どうやらこちらに向
かっているわけではなさそうだ。……良かった。
 南口の前で、甲州街道はJR各線と立体交差する。ここで亜里沙は右手に折
れて、高島屋タイムズスクウェアの前で、鉄道線路の上を歩いて渡ることにな
っていた。道が狭くなる上に、一部の建物を跨いで通らなくてはならない。最
大の難所である。現場の警備陣の緊張は高まった。
 しかし亜里沙は別のことに気が取られて、ルミネに顔を近づけていた。
「……お世話になったあの人に。ルミネお中元特売セール全館実施中……?」
ルミネに掛かる垂れ幕である。これはいい。使えそうだわ。ちょっと貸してね。
手を伸ばし、ルミネの建物から垂れ幕を取り去って、股間にあてがってみた。
 あーあ、やっぱり、だめかあ……。垂れ幕の幅4メートルは細いとはいえ許
容範囲だ。だが長さが足りない。今の亜里沙のウエストは57メートル。股間
を前後に渡した後ウエストに巻いて縛るとなると、長さは100メートルでも足
りないだろう。せっかく思いついた代用パンティーのアイディアだったけど、
うまくいきそうにない。ちぇっ、どうにもならないわ、これ1枚じゃあ……。
待てよ、1枚じゃあダメだけど、何枚かつなぎ合わせたらどうかしら。この向
こうには京王百貨店や小田急百貨店があるはずよね。垂れ幕がルミネばっかり
ってことはないわ。
 亜里沙は新宿駅西口に視線を向けた。そしてしばらく考えた後、進路を右手
ではなく左手に向けた。
 新宿駅西口は騒然とした。通り過ぎると思われた巨大少女が、突然こちらに
向かって歩いてくるのだ。そんな馬鹿な。新宿駅には避難命令は出ていなかっ
たはずなのに。でも、確かに足音が近づいてくる。そして、その姿が近づいて
くる。大きい。近くで見ると更に大きい。どうする?もう逃げる間はないぞ。
下手に飛び出しても踏み潰されるだけだ。とりあえず建物の中に逃げ込もう。
人々は慌てて車を乗り捨て、新宿駅構内にかけ込んだ。
 警官隊は色めき立った。まずい、向こうは人混みだ。制止しなくては。だが
どうやって?実力で止めるなんかできるのか?警官の一人が、業をにやして亜
里沙に発砲した。吉岡警部が慌てて彼を制止した。
「やめたまえ!怪獣じゃないんだ!」
「か、怪獣も同然です!」
どっちにしてもたいした問題ではない。ピストルを撃ったところで亜里沙がど
うなるというものでもないのだ。結局、警官隊は指をくわえて見ているしかな
かった。
 亜里沙はけが人を出さないように細心の注意を払った。
「足元の人は注意して下さあい。いま、足をおろしまあす。」
警告しながらだからいいわよね。亜里沙は、乗り捨ててあるバスやタクシーを
遠慮がちに踏み潰しながら、ゆっくりと一歩ずつ前進した。なかなか神経をす
り減らす作業だが仕方がない。ちょっと良心の呵責もある。少なくともこびと
は踏み潰していない、と思うんだけどあんまり自信はないなあ。だってよく見
えないんだもん。なんてことを考えているうちに、ようやく西口前広場にたど
り着いた。
 新宿駅構内に逃げ込んだ人々には、もうその足しか見えない。上空から降り
てきた巨大な裸足は、地鳴りと共にテニスコート一枚分くらいの領域を地下街
へと沈み込ませた。凄い揺れだ。もうもうとした砂煙が起こった。地割れは、
声もなくはいつくばる彼らの目の前まで達した。それにしてもホームレスのお
じさんたちは無事かなあ?
 亜里沙は京王百貨店と小田急百貨店に掛かっていた垂れ幕を取ってルミネ
の垂れ幕とT字型に結び、腰と股間に回して縛りつけた。即席の手作りパンテ
ィーの出来上がりだ。なんだか格好悪いけど、これでやっと下着みたいなもの
もできたし、まあいいか。もう、手で隠さなくてもよさそうね。やっと背筋を
伸ばして歩けるわ。
 と、本人は判断したけれど、実際は紐パンもいいところである。しかも身体
によくフィットしていないので、身体の動かし方によって大事な部分が隠れて
いるようないないような。ある意味では裸よりもいやらしい。
 どたん、という音を立てて、警備に戻っていた柏木巡査が倒れた。吉岡警部
が駆け寄ると、彼は鼻から大量の血液を流していた。

 この間、亜里沙の右耳の受信機は鳴りっぱなしであった。はいはい、勝手な
行動をしたのは悪うございました。でも、私の下着とか用意してくれなかった
じゃない。はい、わかりました。もう、しません、ごめんなさい。戻ればいい
んでしょ。はいはい。もう、うるさいんだから。
 そのときである。
「ギャオース!!!」
 代々木方向から地響きを伴う咆吼が聞こえた。亜里沙は振り返って唖然とし
た。


第6章

 浜口秘書官が、血相変えて首相執務室に飛びこんで来た。
「総理、怪獣です!」
「怪獣?」
山本首相は片肘で頬杖をつきながら、横目で秘書官を覗き込んだ。
「怪獣じゃなくて、巨大少女だろ。」
「いや、今度は、巨大少女とは別の怪獣なんです。16時30分、日の出桟橋に
上陸した怪獣は、浜松町、麻布、六本木に甚大な被害を与えつつ、一路、新宿
に向かっております。」 
秘書官は、今度はメモも使わず一気にまくしたてた。首相は天井を仰いで大き
く嘆息をついた。
「内閣官房長官と防衛庁長官を呼びたまえ。」
「はいっ!」
浜口書記官は駆け出していった。彼の後ろ姿を見送ってから、首相はこの日3
箱めのショートホープの封を切った。

 怪獣は思いっきりワイルドに暴れていた。ビルをぶち壊し、中央線の黄色い
電車をくわえ上げ、逃げ回る人々や自動車をなんの躊躇もなく踏み潰していた。
ちょっとお、少しは気を使いなさいよ。私はあんなに神経すり減らしてたのに。
なんてこと言ってる場合じゃないよ。怪獣はまっしぐらに亜里沙を目指して進
んでくるのだ。その眼には、あからさまに敵意がむき出しである。
 間近で見てみると、怪獣は思いのほか小さかった。亜里沙の腰ほどまでしか
なかったので、身長は80メートルそこそこだろう。しかし亜里沙は爬虫類系
が大嫌いである。自分の腰ほどまでもある大型爬虫類なんて、ほんとだったら
逃げ出したいほど怖い。勿論、この状況では逃げ出すわけにはいかないだろう
が。
 怪獣はついに新宿駅を踏み越えて突進してきた。亜里沙はひらりとかわして、
背後からキックを一発お見舞いした。怪獣はつんのめって倒れ込み、大勢の買
物客もろとも小田急ハルクを粉々にした。しかし、怪獣はすぐに体勢を立て直
し2回目の突進だ。亜里沙が新宿駅を飛び越えて東口方面に身をかわすと、勢
い余った怪獣は今度は高島屋タイムズスクウェアに突っ込んだ。パワーでもス
ピードでも、亜里沙の方が一枚上なようである。
 ただ、亜里沙にも問題がある。まず視力が悪い。だから怪獣がすぐそばに来
るまでは攻撃ができない。そして動きにも制限がある。具体的に言えば、垂れ
幕だけで隠している股間が気になって積極的には動きたくない状況なのだ。だ
が、もっと根本的な問題は決定力不足である。亜里沙には決め技がない。一方、
怪獣の方は相当にうたれ強く、倒れても倒れても起き上がって攻撃してくる。
不屈の闘志だ。
 怪獣の3回目の突進だ。まずい、今度は足場が悪い。どうして新宿3丁目の
小路はこんなに狭いの?かろうじてかわすことができたものの、足をとられて
伊勢丹の真上に倒れ込んでしまった。あーあ、被害は増大する一方である。で
もこういう状況なんだから許してね。
 怪獣は今度は亜里沙の目の高さで迫ってきた。あれ?こうして視線を合わせ
て見ると、なんか、ゴジラに似ている。いやゴジラそのものだ。えっ?という
ことは……
 ゴジラそっくりの怪獣は、亜里沙の目前で立ち止まり、すうーっと大きく息
を吸うと、カッと口を開いた。
 
「いまのところゴジラが攻勢でありますが、未だ予断を許さない状況です。そ
れにしても、ゴジラって意外と敏捷に動けるんですね。」
「ゴジラ?」
山本首相は、不機嫌そうに浜口秘書官を睨みつけた。
「いつからそんな名前がついたんだね?」
「しかし総理、あの怪獣はどこから見てもゴジラそのものです。」
「そんなSF映画と現実の非常事態を混同するのはよしたまえ!」
「まあまあ、総理、名前くらいなんでもいいじゃないですか、覚えやすければ。」
桐山官房長官が、いまだ不満そうな表情の首相をたしなめた。秘書官は退室し
た。
「さしせまった問題は、この非常時への対応策ですよ。それで、自衛隊の対応
はどうなっておるのですかな?」
佐久間防衛庁長官が、老眼鏡を掛けなおて、準備の資料を読み始めた。
「入間所属の戦闘機は、全機、既に現場上空に到着しており、いつでも戦闘態
勢に入れます。ただ……」
「ただ?」
「陸上部隊が間に合いません。攻撃は、陸・空の2方向から挟み撃ちにするこ
とが好ましいと思われます。しかし、敵の性格上、陸上部隊は相当な数が必要
です。いま現場にいる市ヶ谷の部隊だけでは足りません。国内各地から向かっ
ている全ての部隊が揃うのは、どのように急いでも明朝未明になろうかと…
…」
「明日の朝、ですか。」
桐山官房長官がつぶやいた。
「そこまで、どのようにしてもたせるか、ですな。」
「はあ、巨大少女の方はまあなんとかなりそうですが、ゴジラの方は、」
「そのゴジラというのはやめたまえ!」
 黙りこくっていた首相は、急に立ち上がり、両手を机に叩きつけた。
「正体不明の巨大爬虫類というだけだろう。ふざけとる。火を吐くわけでもあ
るまいし。」
「総理、たったいま、新しい情報が入りました。」
間髪入れず浜口秘書官が飛び込んできた。
「怪獣が火を吐きました。巨大少女は炎に包まれています。」
首相執務室は奇妙な静寂につつまれた。ややあって、桐山官房長官が沈黙を破
った。
「……やっぱり、ゴジラですかな。」
 首相はそっぽを向いてショートホープをふかし始めた。浜口書記官は、細か
い事情はよく把握できないながらも、ちょっぴり勝利感を味わった。
 
 ゴジラの吐き出す炎の中で、亜里沙は再びジ・ボイに出逢っていた。
「どうです、お嬢さん、体調の方はお変わりありませんか?」
「体調は変わらないけど、身長はこんなに大きく変わっちゃったわ!」
 亜里沙は膨れっ面で答えた。
「無事に変身なさったようですね。おめでとうございます。」
「ちっとも、おめでたくなんかないわ。なんだか恥ずかしいことばっかりよ。
それに、この怪獣はなに?何も攻めてこないはずだったんじゃないの?」
「いやいや、これも最終兵器のオプションの一つです。」
 ジ・ボイ2等書記官は、薄笑いを浮かべながら説明を始めた。
「申すまでもなく、最終兵器はこの星の財産です。ですが、その財産の所有者
であるこの星の住民がその価値を知らなくてはお話になりません。そこで、変
身時にはオプションとしてデモンストレーションキットをおつけすることに
なっているのです。」
「えっ?じゃ、あの怪獣は、あなたが送ってきたの?」
 ジ・ボイはこっくりうなずいた。
「造形も凝ってるでしょ。この星の人たちになじみやすいようなデザインにし
てみました。」
 亜里沙は目を丸くした。
「ひっどーい!!何千人も死んだり怪我したりしてるのよ。」
「あくまでも実験です。」
 ジ・ボイは少しもあわてず説明を続けた。
「優秀な防衛兵器を持たなければ、異星人による侵略を許して、その結果この
星の住民全てが根絶やしにされる危険と常に隣り合わせなわけです。でも、自
分たちの最終兵器の優秀性がわかれば、そんな心配もなく枕を高くして眠るこ
とができるでしょう。安心に勝る財産はありません。多少の犠牲はやむをえな
いですね。そうそう、お嬢さんの星でも、同じようなことをしていますよ。こ
の星では、平和を維持するために核兵器を開発したんだそうですが、その実験
のために死んだ人だっているんです。」
 ああ、役人の答弁にはかなわない。そうとう詭弁を弄しているようにも思わ
れるのだが、悔しいかな言い返せない。
「お嬢さんも、すぐ気にならなくなります。」
「ねえ、ジ・ボイさん、」
 亜里沙は戦術を変更した。
「私、あの怪獣に勝てません。」
「そんなことはありません。お嬢さん、本気を出せば強いんですよ。」
「だって、こんな格好じゃ本気で動けないんだもん。」
 亜里沙は上目遣いにジ・ボイを見た。股間では、調達してきたばかりのお中
元セールの垂れ幕が無惨にも黒こげになっている。ジ・ボイはやっと状況を察
したようだ。
「何かコスチュームを用意しましょうかね?」
「お願いします!!」
 亜里沙は思わず大きな声を出した。
「ただ、この星の住民用のサンプルはないので、デザインを選んでいただくわ
けにはまいりませんよ。」
「お任せします。でもカッコ悪いのは嫌!!」
 アイドルのプライドである。でもいままであんな格好をしていたんじゃ、い
まさらプライドも何にもないと思うぞ。
「……うーん、じゃあ、お嬢さんが選びそうなデザインにしておきましょう。
ついでに、もうちょっとパワーアップもしときましょうか。こんなのに手こず
った印象を残すと、みなさんが不安になるでしょうから。もっともね、お嬢さ
んが戦う気にさえなってくれれば、いくらでも自然にパワーアップできるんで
すがねえ。」
「ジ・ボイさんもう一つお願い。」
 饒舌なジ・ボイを遮って、亜里沙はつけ加えた。
「コンタクトレンズもつけといて………」

 ゴジラはどのくらい火を吐き続けていただろう。巨大少女はその炎に包まれ
て全く姿が見えなくなった。黒こげになってしまったのか?やっぱり、ここは
戦い慣れたベテランのゴジラの方が一枚上か………。
 しかし、巨大少女は炎の中に立ち上がった。いや、炎の上に立ち上がった。
その姿を見上げ、群衆は一様にどよめいた。こんどはちゃんと服を着ている。
ひらひらのフリルのついた、ショッキングピンクのサマードレスを。真っ赤な
パンプスも履いているらしい。でも、そんなことよりも何よりも……でかい。
でかすぎる。この少女は更に巨大になった。周囲に良い比較の対象がないので
わからないが、身長300メートル以上はありそうだ。いや、この近さからでは
スカートのフリルの上が見えないので、本当にはっきりとはわからないが…。

 大きくなった亜里沙は、開けた視界を悠々と眺め渡した。コンタクトレンズ
のおかげで細かいところもよく見える。気分爽快だ。やっと自分の大きさが実
感できる。こんなコスチュームを選ばれちゃったけど、ないよりはよっぽどま
し。むしろ自分のアイデンティティが出てて良いかもしれない。
 そんなことを考えていたら、右脚の臑に何かがぶつかってきた。なんだろう、
あっ、さっきのゴジラだ。スカートの真下にいたんでわからなかった。可愛い。
うさぎみたい。
 亜里沙はゴジラの首根っこを右手で掴み上げ、顔の前にぶら下げた。不屈の
ゴジラは、手足をばたばたさせながら亜里沙の顔面に火を吐いた。亜里沙は笑
いながら左手でゴジラの頭を軽く叩いた。
「そんなことしたって、全然効かないわ。」
 ゴジラの顔にあせりの表情(どんな表情だ?)が浮かんだ。亜里沙は絶望的
な状況のゴジラを憐れむように見下ろした。
「さあて、こんどは私の番よ。」
 亜里沙は泣く子も黙るレッズのホームタウン浦和の住民である。ゴジラを空
中に放り出すと、2~3歩助走をつけて、右足のインフロントで思いきり蹴り
上げた。ゴジラは大久保上空1000メートル地点を経由して目白の学習院大学
に墜落し、更にキャンパスの建物をひきずりながらグラウンダーで突き進んだ
すえに、狙いどおり池袋サンシャインに命中した。ブッフバルトもびっくりの
ボールコントロールである。これではゴジラも思い残すことはあるまい。享年
何歳だったかよくわからん。


第7章
 
 うーむ、勝利!亜里沙は大きく息をついた。改めて周囲を見渡してみる。ど
こまでも見渡せる。街はおおむね亜里沙の膝より下の高さに広がっている。さ
すがの新宿の高層ビル街にも、もう亜里沙の肩に届くほどの建物はない。いい
眺め。うふふ、私はミニチュアの街にそびえる無敵の大巨人よ。みんな信じら
れない思いで私を見上げてるんでしょ。気分がいいな。よーし、じゃ、サービ
スしちゃおう。私もせっかく大きくなったんだから行ってみたかったのよ、東
京タワーに。
 東京タワーはすぐそこに見える。亜里沙の今の尺度では、新宿から直線距離
で25メートルちょっとというところだ。しかも、うまい具合に浜松町から上
陸したゴジラがまっすぐ道をつけておいてくれたので、歩くのに困ることもな
い。あっと言う間に着いてしまった。
 亜里沙は東京タワーの傍らに立った。このあたりはゴジラが派手に暴れてい
った後らしく、あまり足場を気にしなくても良さそうだ。目の前の東京タワー
は、ちょうど亜里沙の背の高さと同じくらいである。そうか、私って、いま身
長300メートルちょっとってところなんだな。
 周辺にヘリコプターが集まってきた。足元には小さな車両が30台くらい、
亜里沙を取り囲んでいる。これはきっと取材陣だわ。私の取材に来たのね。や
ったあ、来週の週刊誌のグラビアはみんないただきよ。夕陽をバックに、東京
タワーと戯れる超ビッグアイドル、なあんちゃって。あの売れなかったCDの
歌でも歌っちゃおうかな。はいはい、待ってて、いまポーズをとるから。
 亜里沙が東京タワーと並んでポーズをとると、地上の車がちかちかと光った。
フラッシュかな?
 違った。彼らは取材陣なんかじゃなかった。自衛隊の戦車が亜里沙に向かっ
て砲撃を始めたのだ。

「これはシビリアンコントロールを侵しませんか?」
「政治家や役人に任せていては、いつだって後手にまわるんだ。」
片岡一佐の質問に対して、栗原部隊長は平然と答えた。
「地震直後の神戸のことを考えてみたまえ。我々の行動が制限されたために、
あたら助かる命が何百も失われたんだ。」
「しかし、我々に攻撃を加えようとしたわけでもない彼女にこちらから攻撃を
仕掛けるのは……。しかも彼女はれっきとした日本の国民です。」
「これは国家存亡の危機だよ。まさか君まで平和ぼけしてしまったんじゃある
まいな?」
部隊長は新宿方向を指さした。亜里沙とゴジラが戦ったあとには、無惨な瓦礫
の山が残るばかりであった。
「東京がこんな有様になっていいのか?誰かが防衛しなきゃならんだろう。そ
れが自衛隊の使命なんだよ。」
片岡一佐は黙りこくった。わかっている。この男にはそんな悲壮な使命感なん
かない。ゴジラとの戦いで地に堕ちた陸上自衛隊市ヶ谷部隊の面子を立てなけ
ればならないと考えているだけだ。そう、これは彼の保身のためなのだ。
「とりあえず、われわれの部隊だけであの巨大少女の侵攻を食い止めてみるの
だ。片岡君、現場の指揮は任せたよ。」
「部隊長はどうなさいますか?」
「私は後方から支援する。いいね。」
「わかりました。」

 片岡一佐の予想通り、戦車の攻撃は全然効かなかった。なにしろ亜里沙は大
気圏内では無敵である。戦車の砲撃など踝にゴマ粒を投げつけるようなものだ
った。亜里沙は足元を見下ろしてにっこりと笑った。
「やめて。私は怪獣じゃないわ。」
 砲撃は止まらない。無理ないか。ならば実力で止めるまでのことよ。亜里沙
はしゃがみ込んで、戦車隊をじっと見た。すごい。本物みたいである。そりゃ
そうだよ本物なんだから。でも弟の持ってた玩具より小さいわね。手を伸ばし
て最前列の戦車の砲台を指先でぷちりと潰してみた。簡単だった。亜里沙は慎
重に戦車の砲台だけをぷちぷちと潰していった。戦車の中からは搭乗していた
自衛隊員が逃げ出していった。全員、信じられない顔つきだった。
 30台全ての戦車の砲台を潰すのには、ものの一分とかからなかった。それ
でなくてもゴジラとの戦いで消耗していた陸上自衛隊市ヶ谷部隊の戦力は、こ
れで完全に枯渇したに等しい。もともと作戦に疑問を抱いていた片岡一佐は、
あっさりと退却命令を出した。自衛隊員は全員六本木方向に走って退却してい
った。
 と、思ったらまた戻ってきた。後方から新手の戦車が一台現れ、まるで彼ら
をせき立てているかのようだった。どういうことかしら?
 自衛隊員たちは、今度は自ら携えた迫撃砲で亜里沙に攻撃してきた。勿論、
全然効かない。でも、あまりがっかりしているようにも見えなかった。そもそ
も初めからやる気なさそうなのだ。そうよね。だって、さっき私のパワーを存
分に見せつけられたばっかりだもんね。かといって逃げるわけでもない。なん
か中途半端だ。
 亜里沙にもだんだんわかってきた。そうだ、あの新手の戦車だわ。あの中に
いる人が止めさせてくれないんだわ。みんな、ほんとうはこんな馬鹿馬鹿しい
戦いなんてしたくないのよ。そういうことね。
「ねえ、」
 亜里沙はその戦車の上にかがみ込んだ。
「悪いけど、こんな攻撃じゃ私には全然効かないわ。もう止めましょ。私も怒
らないから。」
 戦車の中から男が現れて砲塔の上に登った。しめた、もう大丈夫だわ。私の
大きな姿を見るだけで怖じ気付くはずよ。ほうらおちびさん、よーくごらんな
さい。亜里沙は戦車の上の男に吐息のかかるほど顔を近づけた。
 確かにそれだけでも相当な威嚇効果はあるはずだった。だが、それでも男は
攻撃命令を撤回しなかった。
 戦車の上に登った男、栗原部隊長は、思いのほか狡猾な男だった。彼はもと
もとこの戦力で亜里沙に立ち向かうことが無謀であることを知っていた。だが、
同時に亜里沙が本気で反撃してこないことも計算済みだった。自分たちの安全
が脅かされることはあるまい。それならば、絶望的な戦況の中でも最後まで戦
い抜くポーズを崩さないこと、これが自分のポイントを上げるためにはベスト
の選択だ。まずは後方支援という姿勢をとっておいて、いよいよ戦況がダメに
なった時に現れる。そして勇敢にも戦車の上に登ってくじけそうな隊員を鼓舞
したうえに、奇跡の生還を成し遂げる。このストーリーなら今日の失態を取り
戻しておつりがくるだろう。だからなんとしても退却することはできない。な
あに、そのうちこの巨大少女の方が根負けしてこの場を立ち去ってくれるさ。
そうすれば、形の上では我々が撃退したことになる。
 だが見込み違いもあった。亜里沙は負けず嫌いなのである。そのうえ、ちょ
っとだけ気分を害していた。
 亜里沙はちょっと面白いことを思いついた。悪ふざけかもしれない。でも、
いつまでも攻撃をやめてくれない人の方がもっと悪いわ。亜里沙は立ち上がり、
まず左足をその辺りに乗り捨てられていた戦車の上にのせた。栗原部隊長の視
線を意識しながら、徐々に左足に体重をかけていくと、戦車はあっけなく平坦
な金属スクラップになってしまった。そこで次に、右足を上げ、栗原部隊長の
戦車の目前に踵を下ろした。
 栗原部隊長は仰天した。ふいに目の前に大きな高い壁が現れたのだ。靴底だ。
それは亜里沙のパンプスの靴底だった。
「踏みつぶそうかなあ、どうしようかなあ。」
ヒールは地面についているが、つま先は宙に浮いている。靴底は戦車の周囲を
覆って余りある広さだ。徐々に、つま先が下に降りてきた。あわてて戦車の後
方に飛び降りる。だがそこまでだ。もう逃げようとしても間に合わない。戦車
の前半分は既に靴底に接して変形し始め、ぎしぎしと金属の軋む音がしてきた。
「いつまでも降参しないと、ほんとに踏みつぶしちゃうわよ。」
 これはただの威嚇だ。それはわかっている。しかし、わかっていても、身体
はいうことをきかない。恐怖というのはそういうものだ。頭の中が真っ白にな
った。股間がなま暖かくなった。だめだ。ここは降伏するしかない。栗原部隊
長は慌てて攻撃の中止命令を出した。速やかに銃声が止んだ。
「有り難う。」
 亜里沙は足をどかすと、しゃがみ込んで、そっと栗原部隊長をつまみ上げ手
のひらにのせた。
「おじさん、脅かしちゃってごめんなさい。でも、もう二度と私を攻撃したり
しないでね。そしたら、私もおとなしくしているわ。ね、約束して。」
 栗原部隊長は、呆然として声もなくゆっくりうなずいた。自分が何をしてい
るのかよく把握できなかった。
 亜里沙はにっこりと笑って、彼を足元に下ろした。これで一件落着。胸がす
くような結末だったわ。
 しかし、足元の栗原部隊長はなお震えが止まらず歩けない。
 少女の靴底の下で降伏を迫られることより大きな屈辱があるだろうか。栗原
部隊長の目論見は瓦解した。その後もしばらく、彼の震えは止まらなかった。
もはや恐怖のためではない、この屈辱に対する怒りのためである。

 山本首相からの特使が現場に到着したのは、その後小一時間もたってからだ
った。今回の自衛隊の砲撃は政府の意図によるものではないという説明するた
めにである。亜里沙は「もう自衛隊からの攻撃はない」という事項を十分に確
認した上で、彼の説明を了承した。 
 亜里沙は警官隊に先導されて日比谷公園についた。今日はここで寝ろという
ことらしい。野宿かあ、しょうがないわよね。いまの亜里沙は東京ドームにだ
って入らないのだ。
 亜里沙は皇居を背にして日比谷公園に腰を下ろし、そして身体を横たえた。
 夜空を見上げた。東京には珍しいきれいな星空だった。
 今日はいろいろなことがあった。はらはらすることばかりだったけど、終わ
ってみたら面白かったわ。怪獣や自衛隊と戦ったアイドルなんて今まで誰もい
なかったわよね(当たり前だ)。いろいろ建物とか壊しちゃったけど、許して
もらえるかなあ。もし賠償請求とかされたら、事務所は払ってくれるかしら?
けちだからなあ、うちの社長は。あれ、そういえば、どうすれば変身を解くこ
とができるのか聞いてないぞ。まあいいか。大きいのも結構楽しめる。何より
も宣伝効果抜群だ。もうちょっとこのままでいよう……
 そんなことを考えているうちに、いつしか亜里沙は眠りに落ちた。

 亜里沙が熟睡するのを見計らって、数百人の黒い影が彼女の身体を取り囲ん
だ。ぐっすり寝ている亜里沙は知る由もない。


第8章

「次に、日本道路公団管轄の被害概況について報告いたします。」
「もういいよ、浜口君。」
山本首相はうんざりした口調で秘書官を制した。
「どれもみんな同じようなものだろ。」
「いえ、先ほどまでは港湾関係、その前は鉄道関係、その前は住宅関係、その
前は、」
「まあまあ浜口君。」
こんどは桐山官房長官が口を挟んだ。
「総理はお疲れのようだ。そのくらいにしておきたまえ。」
「しかし長官。」
「これからもっと重要な案件について検討しなくちゃならんのだよ。」
官房長官は軽い笑みを浮かべながら浜口秘書官を見やった。穏やかな、しかし、
有無をいわさぬ冷たい眼であった。浜口秘書官はこの官房長官が苦手だった。
「現状の把握はこのくらいにしておいて、そろそろ今後の対応策について考え
始めませんか?総理。」
首相はうなずいた。佐久間防衛庁長官が立ち上がり、老眼鏡を掛けなおして、
手持ちの資料を読み始めた。
「自衛隊陸幕・空幕の合同作戦の概要を申し上げます。」
「また彼女に攻撃するんですか?」
思わず浜口秘書官が声を出した。
「君は黙っていたまえ!」
官房長官が睨みつけた。秘書官はすごすごと引き下がった。
「それでは続けます。」
佐久間防衛庁長官は、こほんと一つ咳払いをして、幕僚長が用意した資料を読
み続けた。
「本日の攻撃は正規の命令系統に沿ったものではなく、あくまでも偶発事故で
ありました。しかしながら、その戦意の有無に関わらず、巨大少女の存在は我
が国の安全と秩序の維持のために大きな障害となること自体は明白でありま
す。国力の全てを挙げるもこれを排除しなければなりません。」
防衛庁長官は、ここまで言うと、同意を求めて首相の視線を伺った。首相が小
さく頷くのを確認した上で、彼は言葉を続けた。官房長官は素知らぬ顔でそっ
ぽを向いていた。
「本日の攻撃の失敗は、一にわが自衛隊の戦力が集結しきれなかったこと、二
に巨大少女の自由な反撃を許したことにあります。」
それだけかな?首相は防衛庁長官にいぶかしげな視線を送った。佐久間長官は
その視線には気づかなかった。
「そこで、明日は以上を教訓として奇襲を行います。まず、巨大少女の反撃を
最小限にとどめるため、就寝中にその身体を束縛すべく、現在、特殊部隊が任
務を遂行しております。具体的にもうしますと、瀬戸大橋の建築の際に用いま
したものと同様のケーブルで巨大少女を日比谷公園の地面に縛り付けるとい
う計画です。この間に、国内の全戦力は東京に向かってって進行中です。明朝
未明までに日比谷公園周囲に集結いたします。陸空からの巨大少女への攻撃は、
夜明けを待って7時に一斉開始の予定です。まず地上から戦車部隊が一斉砲撃
を行い、空中からは戦闘機が爆撃を行います。巨大少女の体重を36万トンと
見積もって、これに十分対処しうる火力を用意しました。なお今回の作戦は完
全な機密事項であり、住民避難、公共交通機関の閉鎖等は、敢えて行わない予
定であります。」
「待ちたまえ佐久間長官。」
今度は首相が驚いて声を出した。
「それでは被害があまりにも大きくなるだろう。」
「しかしですな。」
桐山官房長官が口元に笑みを浮かべて話し始めた。
「もう既に、大きな被害が出ておるのですからなあ。一刻を争う非常時となれ
ば、急がねばならんのも、無理からぬことです。被害を最小限に食い止めるた
めには、われわれ政府と自衛隊が、密に連絡を取り、そしてお互いに信頼しあ
うことが必要でしょうな。」
意味不明だ。煙に巻きに来ている。さては、こいつらぐるだな。根回しや腹芸
をさせてこの桐山の右に出る者はいない。今回の筋書きもこいつだ。間違いな
い。首相は苦々しく思った。
「ここはひとつ、現場と佐久間先生が練り上げたプランを、積極的に検討して
みては如何ですかな。」
実に巧妙だ。決して自分の意見という形にはしない。それでいて、対立意見の
芽は摘む。議論にならない。そもそも議論以前に、この男のことだ、この筋書
に沿って根回しは完了済みだろう。ここで俺が何を言っても始まらないな。
 首相は渋々自衛隊の行動計画を了承した。
「では、この計画に沿って行動を進めます。明朝は私も現場に向かう予定で
す。」
「いやいや、佐久間先生がそんな危険な場所に赴く必要はないでしょう。現場
のことは現場の担当者にお任せしては如何ですか?」
官房長官の言葉に防衛庁長官はかぶりを振った。
「いや、自分の目で確かめなければ気が済みません。この計画の最終責任は、
私にあるのですから。」
お前じゃない、俺だよ、と首相は心の中でつぶやいた。そんなことには気づき
もせず、実直な老防衛庁長官はそそくさと首相執務室を後にした。官房長官も
その後を追うように退室した。
「総理。」
 執務室に残った浜口秘書官は、首相にそっと耳打ちした。
「なんとなく、うまくいかないような気がするんですけど。」
首相は黙ってショートホープに火を付けた。秘書官を叱る気にはなれなかった。

 今回は正式な指揮系統を経てきた命令であったが、それにしても気の進まな
い任務である。
 現場を指揮する片岡一佐は、亜里沙の身体の大きさに改めて呆れはてていた。
今、彼は亜里沙の右の乳房の頂上に立っている。正確に言えば、乳首の上に立
っていると言った方が良いかもしれない。彼の足元には、ピンク色のドレスの
下にそれとわかる半径1メートル弱の隆起が認められたからだ。亜里沙のあど
けない寝顔が目の前にある。日比谷公会堂よりも大きいだろう。振り返ると、
爪先は200メートル以上も向こう側だ。その間に広がる腹部や脚部の上では、
数百人もの自衛隊員が危険を承知で作業を行っている。
 この高さに登ると、作業の状況がよく把握できる。ここは12階建ての建物
の屋上に相当する高さであった。彼は、作業の効率上、この地点を起点として、
南北に横たわる亜里沙の身体を定義した。すなわち、頭頂部は北側80メート
ル地点、足底部は南側240メートル地点である。
 彼の眼下に広がる広大なピンク色の平原の下には、直径20メートルはある
巨大なドームが2つ埋没している。乳房だ。それぞれのほぼ北側半分は露出し
ている。すなわち、両方の頂点の間にピンク色の布がピンと張られていて、し
かもその間ではそれが大胆に南側にえぐれているのだ。ここは作業に危険の伴
う箇所である。ついさっきも、ケーブルを抱えた若い自衛隊員が、向こう側の
ドームの頂点から誤って内側に転落したところだ。幸い、墜ちたところは柔ら
く弾力があったので怪我はなかったようである。しかし、そこから直接登って
来ようとしたが無理だった。標高差は20メートルもないが、傾斜がきつい。
しかも手がかりになりそうなものもない。亜里沙の肌は200倍に巨大化しても
まだすべすべなのである。彼はやっとのことでその隙間から這い出すと、胸元
から肩口を廻って持ち場に戻って行った。それにしても、自力では登ることも
できないほど巨大な乳房である。片岡一佐は、自分たちの無力ぶりを見せつけ
られ、更に身が縮むような思いにとらわれた。
 南側80メートルの地点も、ある意味では困難な箇所であった。両下肢の付
け根である。巨大少女の運動能力を奪うためには、特に念入りに固定しておか
なければならない。そこで、この部分は着衣の上からだけでなく、直接素肌の
上にもケーブルをかけることになっていた。すなわち、ケーブルをかかえた特
殊工作部隊が、スカートの下に潜り込んでいくのである。片岡一佐の立ってい
る地点からでは、フリルで遮られてよく見えない。しかし、若い特殊工作部隊
員らの苦闘は目に見えるようであった。
 明け方5時には作業が終了した。亜里沙の身体は太いケーブルによってがん
じがらめになり、地面に縛り付けられた。とりあえず任務は完了だ。しかし、
点呼をとって、南側80メートル地点で作業をしていた特殊工作員が一人行方
不明になっていることが判明した。さっき乳房の間に転落した人物らしい。嫌
な予感がした。片岡一佐は自ら部隊を率いて捜索に出た。
 そんな趣味のない片岡一佐をもってしても、思わず畏怖の念を抱くほどの光
景だった。両脇に、最高点では高さ40メートルに迫ろうかという巨大な肌色
の壁が、160メートルの長きにわたってそそり立っている。亜里沙の脚である。
この壁に挟まれた谷間の地面を前進していくのだ。巨大な壁が前方で合流する
と南側80メートル地点である。薄い白い布で覆われた合流地点まで、彼らの
進行路からは視界を遮るものがない。近づくにつれ、正面に見える白い壁は、
高く、もっと高く、もっともっと高くそびえ、彼らを威圧した。
 南側80メートル地点付近の地表には、行方不明の佐藤工作員の姿は見あた
らなかった。やれやれ、またこの肉体の壁を登らなくてはならないのか。
 初めの予想よりは容易であった。白い布の編み目は意外に粗く、登っていく
際の良い手がかりになったのだ。ただ、若い工作員たちにとっては、場所が場
所だけに、精神的に負担の多い行動であっただろう。なにしろ、この自分たち
が這いつくばってしがみついている布の正体はパンティーなのである。その事
実からは目をそむけたくてもそむけられない。臭いがするのだ。無理もない。
亜里沙は特に体臭に悩まされるような少女ではなかった。しかし、いくらなん
でも、はいているパンティーに全身で直接しがみついていれば、そりゃ臭いも
わかる。うーむこれが女子高生の臭いか、とか考えそうになってしまって、片
岡一佐は思わずかぶりを振った。
 そのとき、垂直に切り立った白い壁の中程でもそりと動く影があった。片岡
一佐は慎重に動いた影の方に近づいた。
「誰だ、そこにいるのは?佐藤か?」
「あっ、はい、佐藤二尉であります。」
 布の内側から答える声が聞こえた。なんてことだ。パンティーの内側に潜り
込んでいやがる。
「そんなところで何をしている?」
「はっ、工作活動中に帰路を見失いまして、途方に暮れておりました。」
本当かな?片岡一佐は疑った。
「作戦は既に終了した。速やかに退却するように。」
「はっ。」
 佐藤工作員はパンティーの外側の片岡一佐の動きをなぞるように、亜里沙の
股間から下腹部方向に移動した。寝息に伴ってゆっくりと上下に波打つ下腹部
の上に登ったところで、片岡一佐はパンティーの隅を両手でつかみ、佐藤工作
員の這い出る隙間を作ろうと試みた。固い。びくともしない。とても一人の力
では無理だ。捜索隊全員で力を合わせて引っ張り上げ、なんとか隙間ができた。
蒸れた閉鎖空間からもわっとした甘酸っぱい体臭が吹き出し、片岡一佐は思わ
ず顔をそむけた。佐藤工作員は意外なほど元気に這い出てきた。全身がしっと
りと湿っている。右手には長さ6メートルほどの黒い縄を握りしめていた。何
だろう。縮れているが、ケーブルとは違うようだ。
「何だそれは?」
「はっ、これにつかまって、何とか私も生き延びることができました。今や大
事な私の宝物であります。」
佐藤工作員の表情はいまだに恍惚としている。片岡一佐は気分が悪くなった。
この場は速やかに退却しよう。
 帝国ホテル前の前線本部で作戦部隊は解散した。片岡一佐は佐藤工作員を呼
び止めた。
「わざとじゃないだろうな?」
「いえ、とんでもありません。暗い中で、全く方向がわからなくなってしまい
ました。偶然であります!」
佐藤工作員は直立不動の姿勢で答えた。顔には嘘だよと書いてある。だいたい、
捜索隊全員が力を合わせてやっと隙間ができるくらいのところに、どうやって
偶然一人で潜り込んでいけるんだよ?きっと凄い執念があったんだろう。
「あの中の、どこに行ってたんだ?」
「はっ、全くわかりません。情報収集を試みましたが、はっきりとした成果を
挙げるには至りませんでした。いくつかの危険はありました。」
だめだこりゃ。佐藤工作員は敬礼をして去っていった。
「理解できんよ、GTSフェチの行動は。」
嬉々として巨大な陰毛を引きずっていく佐藤工作員の後姿を見ながら、片岡一
佐はつぶやいた。
「最近はホームページなんか立ちあげてる奴までいるそうだな。」

 東の空に薄く陽が射してきた。気がつくと、日比谷公園周辺には全国からか
り集められた無数の戦車が集結していた。


第9章
 
 ぱんぱんぱん、という連続花火のような音で亜里沙は目醒めた。もう日は昇
っている。
 何かしらと思って身体を起こそうとした。抵抗がある。
 縛られていた。身体中に細い糸のようなものが幾重にも張り巡らされ、地面
に打ちつけた無数の杭に縛り付けられている。寝ている間にこんな失礼なこと
をされたのか。目を覚まさない自分も間抜けだけど。
 その間にも、ぱんぱんぱんの音は鳴り続ける。耳元で鳴らされるのでうるさ
くてたまらない。何だろう?横を向いてみた。
 驚いた。また戦車が一斉に私に向かって砲撃している。凄い数だ。数え切れ
ない。蟻の這い出る隙間もないだろう。改めて真上を見る。飛行機がたくさん
いる。おそらく戦闘機だ。こちらも今すぐ攻撃を始めそうである。
 自衛隊がまた私を攻撃してきたのだ。
 亜里沙は慌てて立ち上がった。地面に縛り付けていたケーブルは、ぶちぶち
という音をたてて、あっけなく切れてしまった。何の役にも立たなかった。立
ち上がって、服に付いた埃をはらい、周囲を見下ろした。無数の戦車は砲撃を
やめない。
「どういうことなの?昨日、もう攻撃しないって約束したばっかりだったじゃ
ない!」
 亜里沙は強い憤りを覚えた。
 亜里沙は、砲撃中の戦車を一台、右手の2本の指でつまみ上げ、目の高さに
持ってきた。マッチ箱くらいの大きさだ。
「出てきなさい。」
 戦車を挟み込む2本の指にほんの少しだけ力を入れた。戦車は軋みながら変
形し始めた。
「出てこないと、このまま潰しちゃうわよ。」
 ほんとうは、そんなつもりは更々なかった。しかし、戦車はいよいよきりき
りと軋む音をたてながら歪みつづけた。たまらず兵士が天蓋を開けた。彼は外
を見るなり絶望的な悲鳴を上げた。彼の眼に映るものは、視界いっぱいに広が
る巨大な少女の視線だった。
 亜里沙は摘んだ戦車をひっくり返して兵士を左手のひらに落とすと、更に両
眼を近づけて彼を観察した。
 小さい。改めて驚く。ほんとうに小さい。亜里沙の尺度で判断すれば、身長
は1センチメートルもない。彼は何かきいきいと叫んでいる。聞こえない。小
さすぎて聞こえないのだ。
 ふと考えた。この手のひらの上の小さなものは、ほんとうに自分と同じ人間
なんだろうか? 私の意図を全くわかろうとしないし、私も彼らの行動が理解
できない。そして何よりも、彼らは小さい。小さすぎる。これでは同じ人間と
しての一体感が持ちえない。
 そのとき、恐怖のあまり自暴自棄になった自衛官が、短銃を亜里沙の顔面に
向けて発射した。至近距離から撃ったにも関わらず、弾丸はいとも簡単に跳ね
返されてしまった。
 違う。これは虫だわ。隙あらば私を刺そうとつけ狙うヤブ蚊のような虫なの
だわ。
 亜里沙の意識の中で、自分の行動を制限する境界のカーテンがはらりと落ち
た。すうっと気分が楽になった。亜里沙は、ゆっくりと、左手を握りしめた。
 彼の最期の叫びは300メートル下の地上にまでは届かなかった。いや、300
メートルではない。亜里沙は、冷たい笑みを浮かべながら、再びぐんぐんと巨
大化し始めたからである。
 地上の戦車隊は狼狽した。彼らの任務は地上に横たわる巨大少女を集中して
砲撃することだった。亜里沙が立ち上がってしまった時点で、この任務はほぼ
遂行不可能になってしまったともいえる。しかし、予測される範囲内での誤算
であった。だが、この目の前の出来事は何だ。また巨大化しているじゃない
か!!特に主要な攻撃対象であった巨大少女の目は、もう上空遥か彼方で仰ぎ
見ることもできない。まるで彼らは、長径100メートル、短径30メートルの
巨大な赤い靴に対峙しているようだった。この信じられない巨大少女の前では、
彼らは蟻ほどのサイズにしかすぎないだろう。はかり知れないほどの恐怖が広
がった。
 彼らが、巨大な赤いパンプスに対峙していると感じたことは、ある意味では
正解だった。向かって右側のパンプスが、ふいに上空150メートルに舞い上が
ると、一瞬そこで静止して、次の瞬間にうなりをあげて振り下ろされた。巨大
な黒い靴底が288万トンの重量をのせて大地に激突した。轟音が炸裂し、大地
はすさまじく振動しながら、そこに立つ者を一人残さず空中へと放り投げた。
やがて、もうもうとした土煙が晴れると、巨大な赤いパンプスは、たっぷりと
ローヒールの根元まで、およそ地中20メートルほどめり込んでいた。もちろ
ん、かつてそこにいた戦車や自衛隊員は、完全な平らとなって地中深くに沈め
られたことであろう。この予測はすぐに裏付けられた。ほどなく空中へ帰って
いった黒い靴底には、金属の残骸と無数の赤い染みが残っていた。
 応戦どころか、退却することもできなかった。衝撃が襲う度に、大地が突き
上げ、戦車はコントロールを失った。半数近くは既に仰向けにひっくり返って
いる。戦車を捨てて逃げようにも、大地に無数に刻み込まれた亀裂が行く手を
阻む。砂煙に覆われた大地の日差しが翳ると、ふり仰ぐ天上から真っ黒な靴底
が降りてきて、やがて彼らの視界いっぱいに広がり、更に広がり、どんどん広
がり、そして慈悲もなく彼らを押しつぶした。
 それは、この日のために配備された地対空ミサイルの部隊も同じであった。
万が一、巨大少女が立ち上がった場合には、彼らが戦闘の主力になる予定であ
った。更に巨大化したことは誤算だったが、それでもまだ射程範囲である。だ
が、この激しく揺れる地面の上では、照準を合わせることすらままならなかっ
た。中には、まぐれで目標に命中したミサイルもあった。眉間で爆発したかの
ように見えたそのミサイルは、しかし、亜里沙に痣一つ残すことができなかっ
た。
 絶望的な地上部隊の戦況を見て、戦闘機が一斉に援護射撃を始めた。すると
亜里沙はサマードレスを脱いで、頭上でぐるぐる振り回した。半径1キロ以内
に近づいた戦闘機は、ことごとく一振りで払い落とされた。運の悪い戦闘機は、
直接、鷲掴みにされ、握りつぶされてしまった。やや距離を置いていた戦闘機
ですら、巨大なサマードレスが巻き起こすすさまじい風圧にあおられて、バラ
ンスを崩し、次々に墜落していった。一方、戦闘機からの爆撃は、亜里沙にか
すり傷すら負わせることができない。空中戦は全く意味がなかった。撃墜を免
れた戦闘機は速やかに退却していった。
 しかし、地上の戦車はそんなに素早くは行動できない。戦闘機による援護射
撃を受け、ようやく彼らは退却し始めることができたが、その敗走する有様は、
亜里沙にとって蝸牛が逃げていくようなスピードであった。いまの亜里沙は、
これをそのまま見逃してあげるほどお人好しではない。
「あらあら、おちびさん、もうおしまいなの?もうちょっと、大きなおねえさ
んと遊んでいかない?」
 戦車隊は絶望的な逃走を試みた。亜里沙はしばらく彼らに自由に逃げさせて
おいて、その先にゆっくりと足を下ろした。幸運にも踏み潰されなかった戦車
は慌てて方向転換した。しかし、しばらく進むとまたしてもその先に巨大なパ
ンプスが降りてきた。逃げても逃げても、その先に赤いパンプスがあった。彼
らは亜里沙の歩幅のうちから出ることができなかったのだ。常に彼らの頭上に
は巨大な少女の姿があった。底知れない無力感が彼らを包みこんだ。
「そろそろ、鬼ごっこも飽きてきたわね。」
亜里沙は座り込んで両脚を開げた。戦車部隊は、亜里沙の臀部と両脚によって
3方を塞がれた。6台の戦車が、急いで残る一つの方向へ逃亡を試みた。亜里
沙は手を伸ばして、これらの戦車を拾い上げた。
「ほうら捕まえた!」
最初にしたのと同じ要領で、戦車を軽く摘んで中の自衛隊員を外に出そうとし
た。ただ、今回はさっきほど慎重ではなかったことと、亜里沙自身が更に大き
くなってしまったことから、自衛隊員が出てくる前に戦車を完全に潰してしま
った。
「おっと失敗。」
亜里沙は笑いながらその潰れた戦車を指で弾きとばした。これを見て、残った
5台の戦車から、自衛隊員たちが自主的に降りてきた。
「あらあら、素直なおちびたちね、感心感心。」
亜里沙は空になった戦車を同様に指で弾きとばして、手のひらの上に5人の自
衛隊員だけを残した。彼らは亜里沙の尺度では身長5ミリメートルにもみたな
い。5人集まってもその手のひらは広すぎた。
「うふふ、ほんとうにおちびね。そんなに小っちゃいくせに、私に刃向かおう
としたの?おばかじゃないかしら。」
亜里沙は顔を近づけて嘲笑した。彼らには頭上で雷鳴が轟いたかのように思わ
れた。何を言われてもじっと耐えるしかない。この圧倒的に巨大な16歳の美
少女の前では、彼らは虫にも劣る無力さだ。唇を噛みしめて、亜里沙が次に発
する言葉を待った。
「でもね、素直なことはいいことよ。ご褒美に、あなたたちは潰さないであげ
るわ、今わね。」
 彼らはとりあえず一息ついた。つかの間のであった。亜里沙は左手でブラジ
ャーのホックを外し、手早く脱いで放り投げた。5人の目の前で、巨大な乳房
が、誇らしげにその全容を現した。ぶるんぶるんと揺れ弾んでいる。巨人にな
る前でも亜里沙はFカップである。バスト360メートルとなった今は恐るべき
迫力だ。5人は気圧されて言葉もなかった。
 亜里沙は、彼らをのせた右手を左の乳房の上にあてがった。
「さ、降りなさい。」
乳房に乗り移れ、ということらしい。この娘は、大の男に向かって乳房の上に
載れというのか。さすがに彼らも屈辱のあまりに身がこわばった。
「あらら、素直だから潰さないであげたっていうのに、今度は言うこと聞かな
いの?。じゃ、ぷっちんしちゃおうかな。」
言うが早いか、彼らの頭上に、直径4メートル、長さ20メートルあまりの巨
大な円筒が現れた。左手の小指である。逃げる場所もない。既に手のひらの上
にのせられているのだ。5人のうちの一人がその下敷きになった。ばきぼきと
いう鈍い音がした。
 こうなっては屈辱とかの問題ではない。残った4人のうちの2人が、意を決
して左の乳房の上に飛び移った。すると亜里沙は右手を右の乳房の上に移動し
た。最後の2人は速やかに眼下の右乳房に飛び降りた。他に選択肢はないので
ある。
 彼らはすべすべした亜里沙の肌を滑り落ちて行った。つかまる手がかりがな
い。このままでは地上まで落ちてしまう。だが待て、急に凹凸がはっきりして
きた。これならばどうにかしがみつくことができるぞ。このあたりは肌の色が
ピンク色だ。どうやら乳輪らしい。直径10メートル以上はありそうだ。なん
とか全身でしがみついていられるが、まだ傾斜が急なので安心はできない。幸
い、中心に突出した部分が見える。とりあえず、ここに立つのが最も安定が良
さそうだ。彼らはそろそろと乳輪を下って、その突起部、すなわち乳首の上に
到達した。乳首は彼らの身長よりも高く突出し、2人がその上に立ってもゆと
りのある広さであった。亜里沙の小さな動きにも呼応して、足元がぷるぷると
揺れたが、これだけの広さがあれば落ちることもあるまい。ただし、もう上、
すなわち亜里沙の肩の方向に向かって登って行くことはできそうにない。眼下
は目の眩むような奈落の底である。かくして4人の自衛隊員は、亜里沙の乳首
の上の虜となった。
「うふふ、いい眺めでしょ。しばらくそこで、ゲームでも見ていて。」
 亜里沙は左手のひらを上に向け、地上の戦車部隊の頭上にかざした。
「さて、問題です。この小っちゃい戦車は、私の片手の上に何台のるでしょ
う?」
そして右手で逃げる戦車を一台ずつ丁寧につまみ上げ、左手の上にのせていっ
た。
「ひとーつう、ふたーつう、みいーっつう、」
再び絶望的な鬼ごっこが始まった。これから何が始まるのかわからないが、つ
まみ上げられては終わりである。ともかく逃げるしかない。無闇に逃げている
うちに、戦車を操縦する彼らには、ある確かな傾向が掴めてきた。あまり遠く
へ逃げようとしたり、同じ所に長くとどまっていたりすると、確実につまみ上
げられるのである。誰もそうしていないときは、最もゆっくり動いている者が
狙われやすい。すなわち、巨大少女の手の届く範囲内で、休むことなく、全力
で逃げることが強制されていたのだ。勿論、その方が亜里沙が楽しいからであ
った。数十台の戦車は、いまや一人の巨大な美少女の玩具と化していた。
「24いー、25おー、26うー、」
亜里沙の左手の上には、まるでキャラメルでも集めているかのように、戦車が
無雑作に積み上げられていった。何段にも重ねられているため、中の搭乗員は
脱出することができない。
「32いー、33ー、34いー、35おー、」
そこまで数えたところで、一台の戦車が手のひらからこぼれ落ち、120メート
ル下の地上に激突して爆発炎上した。
「はい、答えは34台でした。では、まとめて握り潰します。」
亜里沙は右手を握りしめた。きりきりという金属のひしゃげる音に混じって、
120メートル下の地上からでも、はっきりそれとわかる断末魔の悲鳴が聞こえ
た。34台の戦車は、搭乗中の自衛隊員もろとも、手のひらの中でくしゃくし
ゃのスクラップに変わっていった。乳首の上に囚われた4人の自衛隊員は、巨
大な指の隙間から機械油に混じって滲み出る赤黒い液体を目の当たりにした
ばかりか、その生臭い匂いまで嗅ぎ取ることができた。亜里沙は左手を添え、
両手でおむすびを作るように金属のスクラップを更に固く握りなおした。
 亜里沙が手を開くと、いまや一つのまあるい金属塊となった34台の戦車が、
どすんと地上に落ちた。残りの戦車たちは、もう無駄な逃亡を試みる気力も失
せ、惚けたように立ち止まり、エンジンを止めた。
「どうしたの?元気ないじゃない。」
亜里沙は立ち上がった。天を摩す2本の脚がそびえ立ち、その遥か上方から、
眼も眩むほど巨大な美少女が勝ち誇って彼らを見下ろしていた。あたかも、天
上から地を這う虫けらを裁こうとするかのような荘厳な姿であった。
「どう、私の力は?びっくりした?うふふ、あなたたちは、アリさんみたいに
小っちゃなこびとだものね。」
亜里沙は地上を見下ろして高らかに笑った。
「ほうら、このおちびたちをご覧なさい。」
亜里沙は両方の乳首を指さした。それぞれの上には、哀れ囚われの身の自衛官
が2人ずつのっている。
「このおちびたちは、女の子の乳首の上に立たされているのよ。うふふ、小っ
ちゃいと便利ね。みんなもうらやましい?」
亜里沙は、足元のこびとたちにもよく見えるように、少し前屈みになった。そ
れでもなお巨大なバストに遮られて、地上から彼らの姿を捉えることはできな
かったようだ。ただ、足場が大きく傾いたため、囚われのこびとたちは亜里沙
の乳首にぴたりとしがみついた。
「いやあん、くすぐったいじゃない。もう、お仕置きよ。」
亜里沙は両手を後ろに組んで、上半身をゆさゆさと動かした。揺れは柔らかな
乳房で大きく増幅され、ゆっさゆっさと揺れ弾んだ。乳首の上の自衛官たちは、
ひとたまりもなく振り落とされた。
「あらら、落ちちゃったわ。大丈夫かしら?」
そんなわけはない。彼らは、不安そうに見上げていた地上のこびとたちの目の
前で、地面に激突するや否や4人仲良くぐしゃぐしゃになって手も足も頭もわ
からない血と肉と骨と内臓の塊になった。
「さて、残ったおちびたちはどうしてほしい?今みたいに乳首の上から落とし
てほしい?ひと思いに握りつぶしてほしい?それとも踏み潰してほしい?ど
れにしても簡単よ、私はこーんなに大きいんだから。」
 彼らの自尊心が弾きとばされた。無敵のはずであった陸上自衛隊戦車部隊は、
いまや戦闘力ばかりか、闘志も、誇りも全て失い、次々に天蓋を開け、上空の
巨大少女に向かって白旗を振った。全面降伏だった。
 亜里沙は眼を閉じた。勿論、実際にはそんな彼らの声は聞こえない。しかし、
彼らの叫びは亜里沙にびりびりと伝わってきた。
「私たちは負けました」
「降参します」
「許して下さい」
「どうか命を助けて下さい」
「見逃して下さい」
「潰さないで下さい」
祈っている。必死になって祈っている。極限の恐怖の中で、一縷の望みを抱い
て、この私に慈悲を求めている。素晴らしい。この彼らの血を吐くような真剣
な願いを、にべもなくはねつけることは素晴らしい。こんな快感を与えてくれ
たご褒美に、彼らは靴底で踏みにじるのではなく、もっと特別な方法で潰して
してあげよう。
 亜里沙は腰を屈め、真上から彼らを見下ろして嘲笑した。そして、おもむろ
にパンティーを脱ぐと、彼らの真上にしゃがみ込んだ。直径100メートルを超
える巨大な臀部が、戦車部隊の上空をすっぽり覆い、日差しを遮った。
「踏み潰したりなんかしないわ。私が、直接、上にのってあげる。」
 亜里沙の耳には、今度ははっきりとわかる絶叫が聞こえた。心地よい響きだ。
ぞくぞくしてきた。亜里沙は背後に両手を付くと、彼らの絶望的な恐怖を存分
に味わい楽しみながら、ゆっくりと、ゆっくりと、地べたに臀部を押しつけた。
 地震も、地響きも、何もない。ゆっくりと天上から降臨してきた巨大な白い
肉塊は、最後まであくまでもかわらないゆっくりとしたスピードのまま、大地
をすっぽりと押し包み、そしてその上に立つ者全てを、その想像を絶する荷重
の力で平坦に圧し潰した。その瞬間、さっきまで響きわたっていた悲鳴はピタ
リと止んだ。
 むき出しの臀部を介して、彼らの無念が伝わってきた。亜里沙は心臓が掴ま
れるような熱い快感を覚えた。
 だが、同時に、もう一つの欲求も頭をもたげてきた。そういえば、昨日巨大
化してから一度もトイレに行っていない。ちょうどパンティーを脱いでいるこ
とだ、今なら都合が良いだろう。亜里沙は腰を浮かせ、もう一度彼らの真上に
しゃがみ込む姿勢をとった。
 足元には、2つの偉大な大臀筋の狭間、肛門から尾てい骨にかけてのわずか
な窪みの下に這いつくばって奇跡的に生存していた自衛隊員たちがいた。しか
し、彼らに与えられた平安はつかの間であった。頭上で天が張り裂けた。轟音
を立てて山吹色の滝がほとばしり、なま暖かい激流が湯気を立てて襲いかかっ
た。人も、戦車も、全てその激流に呑み込まれ、大河の上を流れる木の葉のよ
うに皇居のお濠に向かって押し流されていった。亜里沙の臀部の襲撃から逃れ
た戦車も同様である。あっという間であった。残されたものは、わずかの差で
この激流から逃れた10台の戦車と、鼻をつくアンモニア臭だけであった。
「ふう、さっぱりした。」
 生理的欲求を満たした亜里沙が立ち上がってパンティーをはき直したとき、
日比谷公園周辺を埋め尽くした大戦車部隊も、わずか10台を残すのみとなっ
ていた。この10台に搭乗している自衛官も、もはや無事に帰還できる望みは
なかろう。そのうちの一人は栗原部隊長であった。
 彼は周囲の制止を振り切って、この戦いに一兵士として志願していた。一つ
には復讐の思いからである。昨日受けた屈辱は、誇り高い彼のプライドをずた
ずたに引き裂き、冷静な判断を鈍らせたことは否めない。しかし、その半面、
彼独特の功利的な計算が働いていたことも事実である。彼は今日の作戦は成功
すると信じていた。そもそも、この作戦の遂行を強硬なまでに幕僚長に上申し
たのは誰あろう栗原部隊長本人であったのだ。必ず勝てる。ならば、勝ち戦に
乗じない手があるか?あわよくばとどめの一発でも浴びせかけ、昨日の復讐を
果たすと同時に、自分の責任問題も帳消しにしてやろう。そんなことを目論ん
でいた。
 だが、戦闘が始まって、すぐに彼は後悔した。亜里沙はあまりにも強大だっ
た。これはとても勝ち目はない。彼は一発の砲弾すら発射せず、ひたすら逃げ
回っていた。それでも、度重なる危険をすり抜け最後の10人に至るまで生き
延びていられたことは幸運であったとしか言いようがない。
 亜里沙は、両手を使って10台の戦車をまとめてすくい上げ、立ち上がった。
「おちびたち、出てきなさい。」
 10人の自衛官たちは、亜里沙の手のひらの上におずおずと降り立った。亜
里沙は得意そうに鼻先で笑いながら、彼らを片手の上に集めると、あいた方の
手の人差し指で戦車を次々と弾きとばした。栗原部隊長は、他の9人の陰に隠
れながら、彼らの肩越しに巨大な美少女の表情を伺った。
 ななめ上空の視界に巨大な眼があった。眉毛の一本一本ですら、彼の身長よ
り長いであろう。二つの黒い眼には、侮蔑と嘲りに満ちた笑いが浮かんでいる。
昨日との大きな違いは、そこに茶目っ気とか、人なつっこさとかを見いだすこ
とが全くできないことである。何か近寄りがたい冷徹さであった。そして、何
よりも恐ろしいことに、その視点はいま明らかに栗原部隊長に照準をあわせて
いた。
「見つけたわよ。」
亜里沙は周囲の自衛隊員たちを戦車同様に人差し指の先で払い落とし、手のひ
らの上に栗原部隊長一人だけを残した。昨日とは次元の違う、底知れない恐怖
が襲った。
「嘘をつくなんて最低なちびだわ。厳しいお仕置きが必要ね。」
 栗原部隊長は土下座をしながら声を限りに命請いをした。泣いているようだ
った。亜里沙は彼に着ている服を全て脱ぐように命令した。彼は何のためらい
もなく、すぐに全裸になった。
 亜里沙はぽっかりと口を開けた。栗原部隊長の目前に直径20メートルの巨
大な洞窟が現れた。なま暖かい、湿った空気が吹き込んできた。彼は絶叫をあ
げ逃げようとした。逃げられるわけはない。彼は亜里沙の手のひらにのせられ
ているのだ。地面は遥か600メートルも下である。
 栗原部隊長は、亜里沙の顔に背を向け、うずくまって頭を抱え込んだ。背中
越しに暖かい吐息が更に近づいきた。叫びだしたい恐怖が彼を包んだ。そのと
き、ピンク色の巨大な舌の先端が、彼の身体を軽々とすくい上げ、背後へ放り
投げた。彼はもんどりうってその上に転がり込んだ。ざらざらした舌は、彼を
のせたままゆっくりと暗い口腔の中に引き込まれていった。彼の背丈の倍はあ
る門歯列の下を通過した後、最後の希望の灯を消すかのように、ゆっくりと唇
が閉じられた。
 後は暗闇が残るばかりであった。闇の中で、裸の栗原部隊長は、死にもの狂
いで舌の上を這い進み、門歯と犬歯の間のわずかな隙間をかいくぐった。そし
て下歯槽骨の前歯に沿って唇の裏側に達すると、全身の力をふりしぼって、そ
こに隙間を開けようと試みた。びくともしなかった。まるで、錠のかかった大
きな鉄扉を素手でこじ開けようとしているようだった。
 栗原部隊長を取り囲む空間が大きく揺れ始めた。亜里沙が笑いをこらえてい
るのだ。勿論、彼にはそのような状況はわかるまい。やがて、唇が閉じられた
まま、上下の門歯が大きく開き、その奥から巨大な舌が現れて再び栗原部隊長
を虜とした。彼は巨大な舌の導くがままに硬口蓋に沿って口腔の奥へ押し込ま
れ、ねばねばした軟口蓋の粘膜に張り付いた。真っ暗闇で何も見えない。しか
し、その奥に何が待ちかまえているのか、彼には十分に理解できた。
 幸いなことに、舌による圧迫はそこで止まった。すぐさま咽頭から食道へ突
き落とされることはなさそうだ。ただ、危険な状態であることは間違いない。
飛び降りる場所を一つ間違えば、反射的に唾液とともに食道に押し流されてし
まうだろう。だが、いつまでも張り付いていられるわけではない。何とか策を
講じなければ。
 とはいえ、彼も疲弊しきっていた。身体的にも勿論であるが、精神的に打ち
のめされていた。あれほど力を込めても、この巨大娘が軽く閉じた唇に隙間を
作ることすらできないのだ。挙げ句の果てには、舌の動き一つでやすやすとこ
んなに奥に引き戻されてしまった。漆黒の暗闇の中に絶望的な無力感が漂った。
 再び断続的な揺れが始まり、栗原部隊長は舌のほぼ中央に突き落とされた。
周囲をなま暖かい液体が覆っている。唾液の量が増えてきたようだ。息苦しい。
酸素も乏しくなってきた。ああ、新鮮な空気がほしい。そして、願わくばもう
一度、太陽の光が見たい。
 ふいに、彼の願いは叶った。暗闇から勢いよく押し出された彼の周囲はぱっ
と明るくなり、新鮮な空気が吹き込んだ。そのかわり、身体を支えるべき足場
は見あたらない。ねとねとした唾液に包まれた栗原部隊長は、600メートルの
フリーフォールを存分に楽しんだ後、地面にたたきつけられた。
 亜里沙はついに笑いをこらえきれず栗原部隊長を口から吹き出してしまっ
た。そして、足元の小さな肉塊を確認すると、これを念入りに、何度も、何度
も踏みにじった。

 片岡一佐は佐久間防衛庁長官を護衛しながら六本木の防衛庁に向かって退
却していた。彼は徹夜明けであったため、前線での戦闘は免除され、VIPの警
護と先導役を命じられていた。結果的に彼にとっては幸いだったとはいえ、不
満の残る命令だった。
 実際、防衛庁長官が戦闘現場に現れたことは迷惑以外の何物でもなかった。
こんな足手まといのために人手を割かれるくらいなら、もっと前線に戦力を補
強したかった。少なくとも、片岡一佐は絶望的な戦いに臨んでいる部下たちを
置いて自分が退却していくのは嫌だった。自分だけ生き残るわけにはいかない
と思った。
 彼の願いも叶えられた。戦車部隊を完全にせん滅させた亜里沙は、信じられ
ないスピードで彼らの乗った軍用ジープを追ってきた。
 ジープに乗った片岡一佐と佐久間防衛庁長官の周囲は薄暗がりとなり、やが
て、頭上から天が堕ちてきた。天は、大音響と共に地上深く沈み込むと、次の
生け贄を求めて上空へ戻っていった。大地には、大小無数の亀裂と共に、長径
100メートル、短径30メートルの巨大な足形が刻み込まれた。そこには瓦礫
と、スクラップになった金属と、散在する赤い染みだけが残されていた。

 亜里沙と社会の対立は決定的になった。もう、今までのような形で共存する
ことはできない。それならば、社会を破壊しよう。亜里沙は丸の内方面に向か
った。


第10章

 パンティーとソックスとパンプスだけを身につけた巨大な美少女が、丸の内
に現れた。その身体は、周囲の風景から完全にはみ出していた。足元では無謀
な警官が全く無意味な抵抗を試みていたが、あっさりと踏み潰されるだけであ
る。といっても、それは逃げまどう群衆も同じことであった。抵抗しようが、
逃げようが、踏み潰されることに変わりはない。この巨大な少女は、足元に気
をつけるつもりなんて全然ないのである。それどころか、道路にこだわるつも
りもなくなった。この辺りの建物は、おおむね彼女の膝よりも低いのである。
建物を直接踏み潰す方が便利である。
 群衆は、半狂乱になって逃げまわった。だが、冷静に考えれば逃げることに
はあまり意味がない。いまや、このそびえ立つ巨大少女の足は、どこに振り下
ろされるかわからないのだ。建物の中も、外も、同様に危険だ。通り過ぎたと
思っても、また戻ってくる。まるで楽しんでいるかのようだ。しかも、一見遠
くに離れていたように見えても、その驚異的な歩幅で、あっという間に近づい
てくる。いったいどこに向かって逃げろというのだ。
 そんなこびとたちの絶望感は、亜里沙にしびれるような快感を提供していた。
街を破壊することが、こんなに楽しいとは思わなかった。亜里沙は、自分の無
敵の力を心ゆくまで満喫しながら、丸の内を蹂躙した。

 崩れ落ちた拘置所の壁の隙間をすり抜けて、リカルドは表に飛び出した。通
りには逃げまどう群衆が溢れている。断続的に起こる大地の揺れはあらゆる建
物を揺すり、傾げ、破壊した。立ち止まっていては危険である。リカルドは人
の波に身を任せた。
 ふと、リカルドは振り返ってみた。遠くで身長640メートルの巨大少女が、
高らかに笑いながら、まさに足を振り下ろしているところであった。雷鳴が轟
き、大地は悶えた。
 間違いない。あの少女だ。リカルドは右手を見つめた。この手を放れて堕ち
ていった少女だ。極限の恐怖の中で、哀願の表情をいっぱいにため、墜ちてい
った少女だ。
 今、彼女の足下を逃げまどう数万の人々は、おそらく同じような表情で彼女
を見上げていることだろう。だが、彼女がその表情を見ることはない。例え見
たとしても、彼女は動じることもないはずだ。人々は彼女の前であまりにも小
さい。彼女は巨大だ。彼女は偉大だ。僕なんかとは違う。
 良かった。僕は殺してはいなかった。
 再び大地が大きく揺れた。リカルドの背後の10階建てのオフィスビルが倒
壊し、立ち尽くす彼の姿を呑み込んだ。
 
 東京駅は、大勢の乗客でごった返していた。政府は公共交通機関の運行制限
をしていなかったのである。巨大少女と自衛隊との戦闘による電気系統の破壊
によって、いまや全ての鉄道路線は運行不可能に状況に陥った。そして、あふ
れかえる人の波は、その恐るべき巨大少女が東京駅に向かってくることを知っ
ていた。なんとかして、この人々を避難させなくてはならない。JR職員の超
人的な努力によって、山手線の運行が再開されようとしていた。
 地響きがほんのすぐそこまで近づいてきた。日差しがさっと翳った。間一髪、
黄緑色の電車がすし詰めの乗客をのせ上野方面へと滑り出していった。間にあ
った。乗客は全員胸をなで下ろした。
 間にあってはいなかった。徐々に速度を上げるはずの電車は、急に停止する
と、ずるずると逆行し始めた。

 亜里沙にとって東京はこびとの住むミニチュアの街である。全てのものは玩
具にすぎなかった。だが、数ある玩具の中でも、面白いのは動く玩具である。
今、動き始めたばかりの電車など、拾い上げて下さいと言わんばかりであった。
亜里沙はしゃがみ込んで、いちばん後ろのの車両を握りしめた。手の中で、ぐ
しゃりと金属のひしゃげる感覚がした。そのまま片手で列車をつかみ上げた。
前から3両めと4両めの間の連結が外れ、前3両は地面に激突し炎に包まれた。

 すし詰めの乗客たちは、急に横倒しになって空中に浮かび上げられた。真下
で大きな爆発音がした。そして彼らは、車窓から覗き込む巨大な美少女を目の
当たりにした。絶叫が起こった。自分たちは、この巨人娘の手の中にいるのだ。
その巨大な黒い瞳は、玩具を与えられた幼児のように、悪戯っぽくキラキラと
輝いていた。
 亜里沙は一両の車両を連結からはずし、残りは後ろに放り投げた。また爆発
音が響いた。そして、取り外した車両をゆさゆさと揺らして、中のこびとたち
を左の手のひらの上に落とした。亜里沙は、まだ中に何十人かのこびとたちが
取り残されているはずの車両を、興味なさそうにぽいと放り出した。車両は神
田橋に激突して燃え上がった。こうして、手のひらに数十人のこびとが残され
た。
「整列!」
号令に従って、こびとたちは慌てて亜里沙の手のひらの上で整列した。4、5
人が、うまく整列できず右往左往していた。亜里沙は右手の親指と人差し指で
彼らをまとめてつまみあげた。
「どじなおちびに用事はないわ。」
亜里沙が放り投げると、彼らは軽く1.5キロメートルほど東に飛行し、箱崎タ
ーミナルの真上に落下した。亜里沙は何事もなかったかのように、手のひらの
こびとたちに命令した。
「番号!」
こびとたちは、恐怖に身を硬直させながら、次々に大声で番号を唱えた。番号
が一回りしてみると、全員で76人しか残っていなかった。
「76人かあ、意外と少ないわねえ。でも仕方ないわね。こびとさん、これか
らゆっくり遊びましょうね。勿論、私の言いつけには逆らってはだめよ。」
 亜里沙は明らかに彼らの人間的尊厳を認めていなかった。彼らはそのほとん
どが丸の内勤務の中年オフィスマンであった。社会的にも経済的にもある程度
恵まれた中年男たちである。しかし、彼らはいまや16歳の少女の玩具であっ
た。どんな屈辱的な命令にも逆らうことは許されない。それは自分たちはこび
とだからだ。この巨大な少女の前では、自分たちはごみだ。彼女がそう思って
いるだけではない。自分たちは実際に虫けらだ。目の前でその圧倒的な巨大さ
を見せつけられ、彼らのプライドは崩壊していた。
 彼らは、亜里沙の命ずるがままに、手のひらの上で全裸になって組体操を行
った。勿論、運動不足の中年男たちが取りくむ組体操は稚拙なものであった。
失敗も多かった。だが、亜里沙はその出来映え以上に彼らの芸を堪能していた。
救いのないこびとの中年男たちが、必死になって少女の手のひらの上で組体操
を行うのである。本当に真剣そのものである。これ以上滑稽な見世物はあるだ
ろうか。実際、亜里沙は笑いをこらえるのが精いっぱいだった。
 しかし、ついにこらえきれなくなった。亜里沙は思いきり大きな声を出して
笑ってしまった。亜里沙の口から放出された恐るべき風圧が手のひらを襲い、
彼らの半分近くが散り散りに吹き飛ばされてしまった。
「あーあ、やっちゃった。ごめんね。」
亜里沙は手のひらの上で唾液まみれになって這いつくばっている残りの30人
あまりのこびとに謝った。勿論、誰も不平を唱えるわけでもない。怖ろしさに
すくみながらも、黙々と自分の運命を受け容れるて行くしかないのだ。亜里沙
はそんな哀れなこびとたちを心底かわいいと思った。
 こんなに可愛いこびとたちなんだから、このままにしておくことはないわ。
 亜里沙はこびとたちをもういちど顔に近づけ、意味ありげににやりと笑った。
「どうも有り難う。とっても楽しい芸だったわよ。ところで、みんな私の言い
つけには逆らわないわよね?」
こびとたちは一斉にうなずいた。亜里沙の眼が悪戯っぽくきらりと輝いた。
「うふふ、そう、それじゃみんなは、これから私のあさごはんになるのよ。あ
ーん。」
亜里沙は大きく口を開けた。こびとたちは悲鳴を上げて手のひらの上を走り回
った。ぴちぴちしていて新鮮そうだ。そのまましばらく彼らが絶望的に駆け回
る様子を観察した後、手をもっと口に近づけた。彼らの絶叫のトーンが上がっ
た。かわいい。もう我慢できない。べろりと舌ですくい上げた。5人くらいの
こびとが口腔の中で暴れている。さっきの自衛官とは違ってとても元気だ。ゆ
っくりと噛み合わせてみる。ぷちり。左の上下の臼歯で間でなにかが潰れた。
生ぐさい臭いがする。ちょっと苦い。意外と美味しくなかった。
 亜里沙は残りの4人をまだ口腔の中にいれたまま、左手を頭上高くに上げ、
そこから口に向かって残りのこびとたちをさらさらと落とした。叫びを上げな
がら、30人ほどの小さなこびとが口腔に満ちてくる。口を閉じた。彼らはま
だ暴れている。ちょうどサイダーを口に含んだ時のように、口腔粘膜がつんつ
んと刺激される。これは気持ちよい。しばらくこのままでいよう。
 だんだん粘膜への刺激が弱くなってきた。叫び声も止んできた。弱ってきた
のだろうか。それとも様子を伺っているのだろうか。どちらでも良い。もう唾
液が溜まってしまったのだ。さっきは噛み潰してしまって失敗した。こびとは
あんまり美味しくない。ひと思いに呑んでしまおう。
 ごくり、という音とともに、舌と咽頭の筋肉がきれいに協調して、30人あ
まりのこびとを一人残らず食道の奥深くへとたたき落とした。彼らの最期の絶
叫が咽頭から直接中耳に抜けてきた。奈落の底で彼らを待ち受けるものは
pH1.0の胃液の海である。

 そうよ、これは悪ふざけよ。それがどうしたというの?誰が私を咎めるとい
うの?私はオールマイティーよ。何事も思い通りよ。まるで、こびとの国に君
臨する偉大な女王さまよ。
 「そうだ、女王さまはいいな。」
 亜里沙は、いま自分が思いついたアイディアに満足して、軽く頷きながら、
東京駅を完全に破壊して、八重洲方面に歩き出した。

 吉岡警部は京橋の群衆整理に駆り出されていた。特に東京駅方面から逃げて
くる群衆の数はすさまじい。中央通りは、ここ京橋から銀座・新橋にかけて、
ものすごい人波だ。建物の陰で作業している彼には、亜里沙の姿はまだみえな
い。しかし、確実に近づきつつある地鳴りから判断して、彼女がこの場に現れ
るのは時間の問題である。
「警部!」
 柏木巡査が持ち場を離れてやってきた。
「彼女には罪はありません。もとはといえば、このたびの件は、全て我々が悪
いのです。私が、彼女に謝り、許しを願ってきます。」
「やめろ、柏木、お前には無理だ。」
 そのとき、八重洲通りの角から、ふいに巨大な靴が現れた。2人はその足の
上空を見上げた。亜里沙が角を右に曲がろうとしていた。
「警部、お世話になりました。」
柏木巡査は駆け出した。
「柏木、やめろ、戻れ!!!」
吉岡警部の止める声を背後に聞きながら、柏木巡査は人混みをかきわけて通り
の真ん中へ飛び出していった。
「亜里沙さあん、石川亜里沙さあん、聞いてくださあい!!」
地を這うアリの如き柏木巡査の声が、遥か上空の亜里沙の耳に届くはずもない。
「亜里沙さあん、ごめんなさあい。みんな、私たちが悪かったんでーす!」
亜里沙がちょっと下を向いた、かのように思えた。しめた。もう一息だ。柏木
巡査は、更に声を張り上げた。
「亜里沙さんはどこも悪くありませえん。だからあ、」
亜里沙は興味なさそうに視線を切ると、柏木巡査の頭上に右足を挙げた。背後
で見守る吉岡警部の顔色が変わった。悲鳴がわき起こった。彼を中心に人波の
空白が生まれ、同心円を描いて拡がっていった。しかし一途な若き巡査は、一
歩も退かなかった。
「亜里沙さあん、だからあ、もう許してくださあい。街で暴れるのはもう、や」
彼は最後まで言いきることができなかった。亜里沙の右足は、彼女の小さな信
奉者をゆっくりと包み込み、その計り知れない荷重によって、彼の姿を中央通
りの地中深くへと沈み込めた。
 その直前まで自分の部下が立っていた地点を占拠する巨大な赤いパンプス
を見つめ、吉岡警部は茫然と立っていた。亜里沙が既に左足を挙げていたこと
など全く気がつかなかった。周囲がさあっと暗くなった。天を埋め尽くす靴底
が、こんどは彼の頭上に降りてきた。

 逃げまどう人々を慈悲もなく踏みつぶすのは心地よい。やはり道路に沿って
歩いた方が良さそうだ。亜里沙は中央通りを銀座に向かった。
 ふと右前方を見た。霞ヶ関の官庁街の向こうに国会議事堂が見える。亜里沙
は思いついた。
「女王さまになるためには手続きが必要ね。」
亜里沙は踵を返して、永田町方面に向かった。


第11章

「私は残る。」
山本首相はきっぱりと言い切った。
「しかし、総理、この周辺は危険です。巨大少女は、霞ヶ関を経て永田町方面
に進行中という情報が入っております。今すぐにでもこの場を発たなければな
りません。北海道では臨時政府の設立準備を整えています。ここはひとまず避
難して、米軍の援護を待ちましょう。」
「この作戦に最終的な指示を出したのは私だ。私には責任がある。私の指令が
どのような結果を招くことになったのか、この眼で確認する責任がある。」
首相は航空幕僚長の執拗な説得にも耳をかさなかった。そうこうしている間に
も、不気味な地鳴りが近づいてくる。首相執務室を張りつめた沈黙が覆った。
 破ったのは桐山官房長官だった。
「……総理のお気持ちが堅いようならば、いたしかたありますまい。それでは、
我々はこの場を退却することにいたします。」
首相は黙って小さくうなずいた。執務室に浜口秘書官が飛び込んできた。
「総理、私も残ります。」
首相は驚いて秘書官の顔を見上げた。
「君は行きたまえ。」
「いいえ、私も残ります。」
「君なんかいたって、目障りなだけだ。」
「総理、私にも責任があります。」
浜口秘書官は首相の眼をみつめた。
「最期まで、総理をお守りする責任があります。」
 首相は横目で若い秘書官の眼を見た。馬鹿な男だ。俺も若い頃は相当馬鹿だ
ったが、こいつは輪をかけているな。政治家としての鍛え方が足りなかったか。
いや、政治家なんかにさせるのはもったいない。それほどの大馬鹿だ。まあ、
俺の秘書ならこんなものか。
「ふん、勝手にしたまえ。」
山本首相は椅子を回して秘書官に背中を向けた。

 総理官邸に山本首相と浜口秘書官の2人だけを残し、残りの一行は航空自衛
隊のヘリコプターに乗り込んだ。地鳴りの震源は、もうすぐそばに近づいてい
た。ふり仰げば、そこに巨大少女の姿が見える。ヘリコプターは、全速力で高
度1000メートル地点にまで上昇した。もう、ここならば巨大少女が手を伸ば
しても届くまい。機内の緊張が緩んだ。あちこちで安堵の声が漏れた。
 わからない。眼を閉じて、桐山官房長官は考えていた。山本隆太郎という男
は何を考えているんだ?こんなところで片意地を張ってどうする?日本は非
常事態なんだぞ。確かにお前が対策を決めるわけではないさ。いちばん上で座
って見ているだけだ。勿論、物事を決定するのは俺だ。だから俺の首をすげ替
えるわけにはいかない。困るんだよ。すげ替えても良い頭がないと、俺が筋書
きを書けないんだよ、この非常時に。
 昨日の晩だってお前は腰が引けていただろう。作戦を成功させるためには、
迅速かつ秘密裏に遂行させなければならない。住民の避難や交通規制なんかし
ている余裕はないはずだ。お前だってわかっていただろう。お前がしぶった理
由はわかっている。世論が怖いんだ。そんなことで大胆な行動が起こせるか。
この非常時に小さな犠牲には眼をつぶってでも大局的見地に立った決断を下
すことができるのか。
 だから俺が必要なんだ。俺が筋書きを書いてやらなければ、誰も満足な行動
をすることができないんだ。
 次の首相は誰にしよう?とりあえず、暫定的には蔵相の大塚あたりでいいか。
あいつなら御しやすい。この非常時だ。山本みたいに意味不明の行動を起こさ
れてはかなわんからなあ……
 桐山官房長官の思考は、そこで永久に停止した。突然空中に現れた10階建
てのビルにヘリコプターは激突し、即時爆発炎上した。こっぱみじんであった。
 亜里沙は放り投げたビルが見事にヘリコプターに命中したのを見て、躍り上
がって喜んだ。足元の建物が大きく揺らいでいた。国会議事堂であった。

 会期中であったが、国会議事堂に集結していた議員たちは衆参あわせて500
人あまりであった。亜里沙は国会議事堂の裏手に跪き、そこから身を乗り出し
て、正面玄関前に両手をついた。
「はあい、みなさあん、中に入って下さあい。外に出ちゃいけませんよお。」
 亜里沙は建物から避難しようとする議員たちの行く手を両手で塞いだ。彼ら
の前に10階建ての建物ほどもある巨大な壁が出現した。左右は肘で塞がれた。
真上からは巨大な美少女の笑顔が覗き込んでいる。完全に包囲されていた。
 1台の黒塗りの車が指の隙間を通り抜けて逃げようと試みた。無謀な試みで
あった。
「だめだめ、大きなおねえさんの言うことを聞かないと、プッチンよ。」
車は人差し指一本で平らに潰されてしまった。もはや、誰も逃走を企てようと
する者はいない。巨大な手に追い立てられるように、議員たちは議事堂の中へ
と戻っていった。
 議員たちはとりあえず衆議院本会議場に集結した。彼らが建物の中に戻った
ことを確認すると、亜里沙は中腰になって国会議事堂の屋根に両手をかけた。
「よいしょっと」
 すると屋根はやすやすとはずれて、中にいた議員たちは、覗き込む亜里沙の
巨大な姿を直接仰ぎ見ることになった。
「さーて、みなさん。」
亜里沙は話しかけた。
「今日から私はこの世界の女王さまになることにしました。はい、反対意見の
ある人は手を挙げて下さい。」
上空から見下ろす山のように巨大な美少女に、誰が反対など唱えることができ
るだろう。衆議院本会議場は水を打ったように静まり返った。
「あら、だーれも反対しないのね。それじゃ決まりだわ。皆さんは今日から私
の家来です。」
 なおもしばらくの沈黙が続いた。この静寂を破って、誰かが手をたたき始め
た。あちらで一人、こちらで一人と徐々に手をたたく人の数が増えてきた。や
がて本会議場全体が万雷の拍手の渦に包まれた。
 亜里沙は満足そうににっこりと微笑んだ。
「それでは、これから大事なことはみんな女王さまである私が決めるので、も
う国会は要りません。ここで解散します。みなさん、さようなら。」
 亜里沙は大きく息を吸うと、バースデーケーキのロウソクを消すように、本
会議場に向かって思いきり吹き付けた。
「ふー!!!」
 最大瞬間風速1500メートル毎秒の暴風が衆議院本会議場を直撃した。次の
瞬間、500人ほどの議員たちは、一人残らず上空に吹き飛ばされて散り散りに
なっていった。瞬時にして国会は解散になった。
「さて、そうなると、こんな建物ももう要らないわね。」
亜里沙は今度は空になった国会議事堂の土台に手をかけた。
「どっこいしょっと。」
めきめきという音がして、議事堂は土台から引きはがされ、亜里沙の両腕の中
に抱え込まれていった。そして亜里沙は国会議事堂を頭上に差し上げて、遠く
から様子を眺めていた群衆に自分の力を見せつけた。
「要らないものは、ポイしちゃいましょう。」
亜里沙はかつぎ上げた国会議事堂を放り投げた。ふわりと空中に浮き上がった
国会議事堂は、大小の瓦礫を吹き蒔きながら空中を遊覧し、赤坂プリンスホテ
ルに激突して炎上した。
 亜里沙は燃え上がる国会議事堂の残骸をしばらく楽しそうに見つめていた。
やがて、振り返って背後の白い建物に眼を止めた。首相官邸であった。

 地鳴りが間近に近づいてくるや、首相執務室の床が大きく斜めに持ち上がり、
部屋中に高速エレベーターのような加重がかかった。窓ガラスは破れ、部屋中
に書類が散乱した。ややあって、加重が急激に失速しかけた頃、四つん這いに
なった首相の上にサイドボードが倒れかかった。
「総理、危ない!」
浜口秘書官が首相を突き飛ばし、自らサイドボードの下敷きになった。
「浜口君!」
 首相は倒れた秘書官に駆け寄ろうとした。
 身がすくんで、駆け寄ることができなかった。破れた窓からとてつもなく巨
大な瞳が室内を覗き込んでいた。首相はその場に座り込んだ。
 妙に落ちついた気分だった。
 親の地盤を次いで政界に進出して以来、ずっと、のし上がってやろうと考え
てきた。のし上がって、天下を取って、俺の手で俺の理想の政治を行うことが
夢だった。しかし、俺の目の前には常に強大な政敵がいた。俺は精一杯背伸び
をして、そいつらに手を伸ばし、引きずり下ろし、踏みにじって上に登ってき
た。親族も、後援会も、俺を後押ししてくれた。彼らの期待は、俺に息つく暇
を与えない鞭だった。
 そして俺は総理の椅子をつかんだ。長年夢見てきた首相の地位に登り詰めた
のだ。やった。これで、俺の休みなき戦いの日も終わったんだ。
 そんなことはなかった。登り詰めてみると、下から無数の手が伸びてきて、
俺を引きずり下ろそうとした。俺は背伸びをするかわりに、総理の椅子にしが
みつき、伸びてくる手を次から次へと蹴り落としていった。
 そんな日々を続けているうちに、ふと、気がついた。俺は確かに総理大臣に
なった。だが、俺は、俺の意志を政策に反映させているか?俺の理想の政治を
行っているか?全然そんなことはなかった。政策は常に誰かの筋書きに沿って
進めれられていた。妙に意見を盛り込もうとしようものなら、たちまち大勢の
敵が集まって、この椅子を揺らし、俺を放り出そうとした。敵ばかりではない。
日頃は味方のようなふりをしている者も、俺の窮地には簡単に寝返った。誰も
信用できなかった。そして、いつしか俺は、可能な限り自分の意志を押し殺す
ようになっていた。いつまでも、この総理の座を失わないために。
 俺はいったい何だったんだ?俺の夢は、所詮かなわぬ夢だったのか?
 前後の壁が近づき初め、天井の一部が落ち、その上に直径6メートルほどの
手指が現れた。床の軋む音が聞こえ、壁に掲揚してあった国旗が落ちた。
 不気味に軋む音を立てながら天井が目前に迫ってきた。山本首相は静かに眼
を閉じた。

 亜里沙は、鷲掴みにした首相官邸を顔の高さで粉々に握りつぶすと、にっこ
り笑ってその残骸を地上に撒き散らした。降り注ぐ瓦礫の後を追うように、上
空から一枚の布が舞い落ちてきた。
 日の丸の旗であった。


第12章

 新橋周辺は亜里沙と自衛隊との衝突で壊滅状態になり、既に炎に包まれてい
た。日比谷も同様である。唯一の逃走経路である晴海方面は交通渋滞で身動き
のとれない状況だ。必然的に、八重洲・日本橋から逃げてきた人々は銀座の街
をびっしりと埋め尽くし、その数は20万人を超えていた。満員電車のように
身動きがとれない。その間にも、日比谷方面から確実に地響きが近づいてくる。
 ひときわ大きな地鳴りの後、マリオンの背後に巨大な脚がそびえ立った。左
脚らしい。次は来る、と誰もが思った。右足は中央通りの松屋の角に着地した。
大きな悲鳴が起こった。間髪入れず、左足が、やはり中央通りの松坂屋の角に
着地した。左右が入れ替わって、ちょうど今までの進行方向の反対を向いた格
好だ。亜里沙の目の前、というより目の下が有楽町マリオンである。人々が呆
然と見上げる中、亜里沙は腰に手を当て、銀座の街並みを悠々と跨いでみせた。
その両脚の間には銀座の中心のブロック2つがすっぽりおさまってまだまだ
余裕がある。当然だ。身長640メートルの超巨大娘である亜里沙は脚長も優に
300メートルを超えているのだ。
「こびとのみなさん。こんにちわ。石川亜里沙です。」
 亜里沙は足下を見下ろして、群衆に語りかけた。
「私はこの世界の女王さまになりました。さあ、これからみなさんは、新しい
女王さまのために、お祝いのパレードをするのです。」
 命令に抗うという選択肢はない。銀座を埋め尽くす群衆の動きに、はっきり
とした流れができた。彼らは、まずJR銀座駅周辺に集結し、そこから晴海通
りに沿ってそびえ立つ亜里沙の両脚の間をくぐり抜け、築地へ進んでいった。
流れに逆行するものは誰もいない。流れが滞ることが何を意味するか、誰もが
よく知っていた。
 ガリバー旅行記にこんなエピソードがあったかもしれない。しかし、スケー
ルも、状況も、全く異なっている。この行進は、哀れ無力なこびとたちが、巨
大な美少女の圧倒的な力に屈服し、慈悲を求めて、絶対の服従を誓う、屈辱の
行進であった。
 群衆は亜里沙を見上げて歩き続けた。それでも、せいぜい膝小僧くらいまで
しか見ることができない。それ以上の高さを見ることはこの近距離からでは不
可能だ。亜里沙の姿は周囲の風景から突出していた。
 彼らは夢をみているようであった。しかし、必ずしも悪夢ではない。こうし
て近くからふり仰ぐ亜里沙の姿には、女王さまという言葉に収まりきらない
神々しさが漂っていた。実際、群衆たちは、亜里沙の足元を歩き、その偉大な
姿と自分たち無意味な小さな存在とを直接比較することによって、この状況を
積極的に、むしろ前向きに受けとめることができるようになってきた。彼らの
心のうちから、徐々に屈辱感が失われていった。
 ふと亜里沙は真下の交差点を指さし、見上げる群衆に告げた。
「女王さまはここに座ります。みなさんは場所をお空けなさい。」
 この大勢の人出である。速やかに亜里沙の巨大な臀部を受け入れるだけのス
ペースを作ることは到底不可能に思われた。
 だが、可能であった。亜里沙の前方の群衆が移動を止めると同時に、後方の
晴海通りを埋めた群衆は、直ちに、秩序正しく、築地方向への移動速度をはや
めた。中央通りを埋める群衆も、同様に、左右によどみなく広がっていった。
流れを止めるものも、逆らうものもいない。亜里沙の号令に従って、誰もが、
粛々と、自分のとるべき行動をとった。驚くべきことだった。確かに全員が一
様に移動していれば渋滞というものは起こるはずがない。渋滞が起こるのはそ
の流れを乱す勝手な行動をする者が後を絶たないからである。亜里沙の指示に
従うことで、銀座の街が初めて渋滞から解放された。素晴らしいことではない
か。
 とはいえ、巨大な臀部である。その占めるであろう広大な領域から脱け出せ
きれない人々も多かった。そこで亜里沙は左足を上げ、右足を軸にして左側に
90度身体を開くと、昭和通りに着地させた。今度は晴海通りが目の前である。
「早くおどきなさい。」
 亜里沙は腰を屈めて、右手を晴海通りに伸ばし、まだ残っている人々を一撃
に払いのけた。脱出できなかった人々は、恐怖を覚える前に命令に応えること
ができなかった自分たちのふがいなさを悔いた。
 自分の座る座る場所を平らにならすと、亜里沙は左足を軸にしながら、再び
晴海通りを跨いで右前方に踏み出し、銀座東武ホテルの傍らに右足を置いた。
そして両膝を曲げると、はかり知れないほど巨大な臀部を着地させ、座ったま
まの姿勢で後方に少し移動した。
 ものすごい衝撃だった。耳をつんざく大音響が轟き、周囲1キロ半径に立つ
群衆は一人残らずもんどりうってその場に倒れこんだ。
 地面に這いつくばったまま、人々はおそるおそる顔を上げてみた。もうもう
と立ちこめた砂煙が、徐々に晴れてきた。巨大な臀部は、銀座の四つ角を完全
に占有し、三越や和光はその下敷きになったらしい。視線を上にたどると、前
方には果てしなく伸びやかな大腿が膝をピークにしてそそり立っている。その
ちょうど真後ろあたる高みには、むき出しの巨大な乳房が2つ並んで突出して
いる。大きい。まさに山だ。そしてその更に上空はるかに高く、しかし今度は
確認可能な高さに、群衆は初めて亜里沙の顔を仰いだ。
 美しい。身体の巨大さにばかり気を取られていて全く気が付かなかった。な
んと美しい少女なのだろう。
 姿形は昨日までの亜里沙と変わらない。ただ400倍に巨大化しただけ、のは
ずだった。だが違う。明らかに何かが違う。もう亜里沙はかつてのB級アイド
ル石川亜里沙ではない。彼らの上に君臨する、気高く、美しい支配者であった。
 銀座を静寂が包んだ。数十万の熱い視線が亜里沙に集中していた。快感が全
身に突き刺さった。その痛みにも似た感覚は、戦車や戦闘機の攻撃が与えたも
のとは比べものにならないほど強烈であった。亜里沙の思考がとろりととろけ
た。いままで味わってきた様々な快楽の中でも、飛び抜けて甘く、官能的な刺
激であった。
 亜里沙の美しく巨大な姿に引き寄せられるように、人々は再び銀座を目指し
て、ゆっくりと、しかし着実に移動し始めた。ついさっきまで狂ったように逃
げ回り、ようやく安全な場所へ逃れたはずの人々まで、何かに憑かれたように、
言葉もなく、亜里沙のもとを目指して戻ってきた。誰も会話を交わさない。し
かし、奇妙な平安と充足感に満ちていた。あたかも、ずっと、ずっと、ずっと
待ち望んでいた日が来たかのように。
 亜里沙と群衆は、一つの大きな集合体になった。
 亜里沙は、両足のパンプスを脱いで、群衆の目の前に揃えて置いた。彼らの
前に、新たな赤い小山がそびえ立った。ふんわりとした足臭が漂った。次に、
ソックスを脱ぎ、背後に放り投げて、素足を露出した。そして、腰を浮かせる
と、唯一身につけていたパンティーを片手でずり下ろし、脱ぎ捨てて遠くへ放
り投げた。いまや巨大な女王は一糸まとわぬ姿となり、16歳のみずみずしい
裸体を群衆の前に惜しげもなくさらけ出した。いわゆる大開脚の姿勢である。
未だ、そしておそらくこの後も永遠に、男を知らない女性自身が、昼下がりの
陽光を受けて眩しく輝いた。亜里沙は左手を背後について反り返り、リラック
スして、静かに眼を閉じた。
 音のない時間が流れた。誰もが固唾をのんでいた。ややあって、亜里沙は、
他の3本の指でその黒々とした茂みをかき分けながら、右手の人差し指と中指
を花弁の奥深くにずぷりと挿入した。そして、肩で大きく息をつくと、その指
をゆっくりと前後に動かし始めた。
 静寂の中で、肉襞が指をしゃぶるくちゅくちゅという音だけが聞こえていた。
2本の指の狭間に、陰核がきらりと光った。かすかに吐息が漏れてきた。指を
伝ってとろりとした蜜がしたたり落ちた。甘酸っぱい匂いが鼻をついた。吐息
が荒くなった。声が漏れた。小刻みに震える肌がしっとりと汗ばみ、薄紅色に
染まった。
 人々は、皆、感動していた。言葉に尽くせないほどの美しい光景であった。
このような偉大な統治者を戴いた喜びに、誰もが胸をつまらせていた。恐怖は
去った。そのかわりに、憧憬と、歓喜と、突き上げるような敬慕の念がわき起
こった。人々は、亜里沙の大きく開いた股間に向かって殺到した。万歳の声が
沸き起こり、いつまでも、いつまでも、銀座の街にこだまし続けた。
 そして、亜里沙はオルガスムスを迎えた。
 
「たいへんなことになったね、トム。」
 偵察衛星からの最新情報ビデオを見終えて、米国防長官マーク・ワルツェン
ハイマーは、トム・カールトン大統領に語りかけた。
「これはもう日本の国内問題じゃない。放置できないよ。」
「マーク、介入しろっていうのかい?」
 大統領はビデオのスイッチを切って立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩いて、
外の景色を見渡した。背後から国防長官がたたみかけた。
「あの戦闘力は半端じゃないよ。アジア太平洋地域だけじゃなく、世界全体の
安全保障への脅威になると思う。」
「………」
「躊躇している場合じゃないよ、トム。周囲の国々は、あの戦闘力に屈服して、
早晩支配下に入ってしまうよ。」
「じゃあ、どんな形で介入するんだい?」
 大統領は振り返って重い口を開いた。
「日米安全保障条約を拡大適応してはどうかな?」
「マーク、それは無理だ。あの条約は日本に侵攻してくる第3国に対して我が
国が攻撃を加えることを認めているだけだ。いま介入すれば、それは日本自身
へ攻撃を加えることになる。」
「だったらなおさら、日本に攻撃を加えるのは我々の使命だよ。」
 国防長官の眼鏡がキラリと輝いた。
「いいかいトム、他国は日本を攻撃できないんだ。日米安全保障条約によって、
我が国から報復を受けてしまうからね。でも、いま、誰かが日本を攻撃しなけ
ればならない。日本を攻撃しなければ世界の秩序は保てないんだよ。それがで
きるのはわがアメリカ合衆国だけだ。違うかい?トム。」
 しまった。罠だった。大統領は小さく舌打ちをした。
「明らかに侵略行為に該当するよ。」
「それがどうしたっていうんだい。あの国には交渉すべき政府はもうないんだ。
例え侵略行為に該当したところで、誰が異議を申し立てるというんだい?」
「しかしマーク、国際世論への配慮はどうなる?」
「そんなものはなんとでもなるさ。勝ちさえすれば、理由はつくよ。中国やロ
シアも、相手が日本となれば難癖はつけてこないだろう。やつらは日本との間
に領土問題を抱えているんだ。」
 カールトン大統領は再び窓外に広がる青空を見上げた。彼は決して生やさし
いヒューマニストではない。むしろ、自国の繁栄は他の多くの国々の犠牲の上
にしか成り立たないという事実を、冷酷なほどに知りつくしている現実主義者
であった。
 マークの意見は正しい。しかし、このなんとも言い様のない座り心地の悪さ
はなんだ?
 僕の決定で数千万の罪のない命が奪われるからか?それは世界平和のため
に必要な行程の一つなんだぞ。世界の最高峰に立つアメリカ合衆国大統領とし
て、当然の義務じゃないか。
 そんなことはわかっている。それにしても、この決断は重い。重すぎるんだ。
僕にはできない。僕はこんな重責を担うには値しない人物なのかもしれない。
いや、僕ばかりではあるまい。マークだって、僕の立場に立てばあんなに積極
的な意見は言えないはずだ。僕たちは、所詮、人間だ。限界がある。神や悪魔
のように人々の生命を弄ぶことはできないんだ。例え、それが必要なことであ
っても。
 この不合理は、人間が人間であることをわきまえるための鏡なのだ。この一
線を踏み越えた者は、自ら神になるか、あるいは神からの制裁が下るかのいず
れかだろう。
 カールトン大統領は悩み続けた。そのとき、傍らの大統領特別回線電話のベ
ルが鳴った。大統領は受話器をとった。
「ハロー。」
「やあ、トム、元気かい?」
「アンディー……!」
イギリスのアンディー・ブルー首相であった。
「日本がひどいことになっているね。」
「全くだ。」
「USAはどんな対応をとるんだい?」
「いや、何も決めてはいないよ。」
「地球規模の問題だ。」
ブルー首相は言葉を続けた。
「この問題が極東の一国の運命と引き替えに解決できるものならば、それは結
構なことだと考えている。この意見は、EU諸国の総意と思ってもらってもい
い。」
「………」
「事後の国際世論操作は、僕に任せてくれたまえ。君の悪いようにはしない。」
「………」
「決断を期待しているよ、トム。じゃあ。」
 電話は切れた。カールトン大統領は受話器をおいて、天を仰いだ。
 大統領は背中越しに国防長官に尋ねた。
「マーク、我が軍が彼女に総攻撃をかけたとすると、こちらの被害はどの程度
になるだろう?」
「日本の自衛隊は壊滅させられたんだ。かなり甚大な被害を覚悟しなきゃなら
ないよ。」
「……それならば、答えは一つだ。」
 大統領は国防長官の方に向き返った。
「核を使おう。」

 既にとっぷりと日が暮れていた。廃墟の東京には明かりすら乏しい。しかし、
未だ誰一人、銀座から立ち去ろうとはしなかった。新しい女王の誕生を祝福す
る祭典は、終わることなく夜通し続くかに思われた。
 ふいに、北北東の空にキラリと光る物体が現れた。人々は猛スピードで近づ
いてくるその光る物体をいぶかしそうに見守った。
 亜里沙の正確に真上で閃光がきらめいた。辺りは真昼のように明るくなった。

 その直後、米軍偵察衛星は、関東平野に巨大なキノコ雲の発生を確認した。


第13章

「その長い歴史にも関わらず、この惑星の知的生命体には、未だに統一された
意志の決定機関がありません。」
「ほう。」
「中小の意志決定機関が林立し、しかもその意見は往々にして対立しています。
武力衝突が起こることも稀ではありません。また、一つの機関の意志を決定さ
せるためにも、多くの個体がそれぞれ勝手な主張を述べ、結局その決定は骨抜
きにされてしまうことがほとんどです。」
「無秩序状態だな。」
「おっしゃるとおりです。更に致命的なことは、この星の最高知的生命体の精
神構造の特徴です。彼らは目前の感情によって支配され、客観的な状況判断を
行動に移しきれないという驚くべき習性を持っております。逆に、敢えて全く
非合理な行動に走ることも珍しくありません。」
「驚いたな。それでは、彼らは理性的な生物ではないのだね。」
「はい。ですから、全惑星的な問題を解決する方法がありません。環境問題、
人口問題、富の不平等、民族間対立など、重要案件はことごとく手つかずの状
態です。」
「ひどいな、それは。それで君は、この星の初めての統一した意思決定機関と
して、あれを作ってみたのだね。」
「そうです。」
「うまくいっているかい?」
「順調に進行しております。彼女には適性がありました。中小意志決定機関の
対応も、良い方向へと作用しています。」
「彼女自身がこの星の住民を滅ぼしてしまうような危険はないのかね?」
「ないと確信しています。彼女の場合、常に、誰かに仰ぎ見られていなければ
気が済みません。すなわち、大勢の観衆が必要なのです。観衆を根絶やしにし
てしまうような行動は決してとらないでしょう。これは、彼女の天性の性格で
す。今回のプロジェクトでは、私は一切マインドコントロールを用いておりま
せん。全て、彼女の自発的行動に任せてあります。ですから、この傾向はいつ
までも変わることがないと思われます。」
「なるほど。ところで、君は、さっき、この星初めての統一意志決定機関とい
ったが、過去のこの星の歴史の中でも、それに相当するような概念が生まれた
ことはないのかね?」
「漠然とした概念はありました。人智を超えた全能の存在、その存在の前には
全ての人間は無に等しい小さな存在であり、ただ絶対の服従を誓うのみである。
彼らはその存在を神と呼びました。かつては、この概念が社会を支配しようと
していた時代もあったのです。ところが、彼らの歪んだ理性や表面的な合理主
義が、この神の概念を押しのけて、これを過去の時代の遺物としてしまったの
です。これは不幸なことでした。おそらく、深層では彼らも未だに神の出現を
待ち望んでいたのではないでしょうか。」
「ふむ。それではこの星の住民は、この後、彼女を神と呼ぶわけだな。」
「はい。いや、おそらく女神と呼ぶでしょう。」
「女神か…。よし、わかった。ごくろうさん。しかし、君はこういった内政改
革の援助は上手だねえ。」
「恐縮です。」
 ジ・ボイは軽く会釈をすると、銀色のアタッシュケース抱えて、惑星自治省
の次官室を後にした。


エピローグ

 朝がやってきた。かつて東京であった場所は、巨大なクレーターに姿を変え
ていた。全ての存在は焼きつくされ、吹き飛ばされ、塵芥に帰していた。ただ
一つ形をとどめた存在、亜里沙を除いては。
 亜里沙は焼跡に残っていたパンプスを拾って履き、サマードレスを着た。埃
まみれになってはいたが、穴一つ空いていない。勿論、亜里沙自身も全く無傷
であった。
 亜里沙は大きく深呼吸した。身長640メートルの巨大な身体が、朝日に映え
て黄金色に輝いた。しかし、その壮麗な姿を地上から仰ぎ見るべきこびとたち
は、周囲にはもういない。見渡す限り茫漠とした荒野である。
 奇妙なことに怒りを覚えてはいなかった。むしろ、これから始まることへの
期待でときめく思いを抑えきれなかった。私に対してこんな失礼な振る舞いを
することは、断じて許されない。彼らは知らないのだ。教育してあげなくては
ならない。大勢の人々の恐怖と、畏敬と、憧憬の入り交じった視線を浴びなが
ら、彼らに罰を与えてあげなくてはならない。ゆっくりと時間をかけながら、
彼らに心ゆくまで絶望と、屈辱と、無力感を味わわせてあげなくてはならない。
このような愚かな行動を起こすものが二度と現れないように、私の巨大な力を、
無敵の力を、全能の力を、余すところなく見せてあげなくてはならない。
 そして、全世界の人間が、私の足下にひれ伏して、私に服従し、私の命令の
下で、幸せに暮らせば良いのだ。それが、人智を超えた存在である私の務めな
のだ。
 いつしか、亜里沙は笑っていた。大きな声で笑っていた。高らかに、厳かに、
その笑い声は、荒野にこだまして、全世界へと響きわたって行った。

 渚に着くと、亜里沙はもう一度深呼吸した。そして、朝日の昇る太平洋に向
かって、一歩ずつ踏み出していった。


完