SINK


僕と関わった人間は、幸せになれるんだ。本当に、そうなんだってば。

嘘みたいなホントの話。自意識過剰ではあると思う、でも、僕が面倒を見た人たちはどんどんと階段を駆け上がっていく。

就職の面接練習に付き合ってやった時も、志望理由を考えてやった時も、プロポーズのシュチュエーション、企画、営業、修理、なんだってうまくいく。


そして、僕と関わった人間は成功を収めて、僕を忘れていく。


僕に残ったものは?僕の成功は?

今まで何一つ、自分自身の幸せを感じたことがない。そりゃあ、人の幸せは、幸せだよ。それで満足していた。人の幸せが、自分の幸せだと思っていた。…今までは。

突然強いられた、ベッドの上での生活。好きなものも食べられない、外に出ることも許されない。ただ、鼻や口や腕に繋がれたチューブを見つめ、心音を耳で確認し、今日も生きていることを悔やむ毎日。ああ、僕の幸せってなんだろう。結局、人の幸せは人のものであって、自分には何ら関係のないことだ。


そう思うとやけに虚しくなって、ただ、ぼうっと天井を見つめる日々。こんなにつまらない人生、あんまりだ。誰のせいでもない、自分の情けなさやつまらなさに絶望する。ほこれるものもなく、平凡以上に平凡で、無意識に息をするだけの人生。


こんな人生、嫌気がさした。だから、残りの人生は、僕の幸せのためだけに生きようと思う。もちろん、多くは望まない。すこしだけ。少しだけでいいんだ。


まずは、ここから脱しなければならない。朝の診察を終えて、一服しようと外へ出る。喫煙所に向かう途中で、点滴針を引き抜き、鼻のチューブもとってしまう。全てを捨てて歩き、最寄りのバス停まで。その前にトイレへ行かないと。こんな、患者じみた格好では、外すら歩けない。ささっと着替えを済ませて、最寄りのバス停へ向かう。


まず向かった先は、来たことのないレストラン。ずっと昔、僕がまだ小さかった頃からある店だった。いつも車で通り過ぎるだけの店。営業時間も、メニューも、店員の顔も、何もかも謎に包まれていた。ただ、車窓に映るその佇まいは、どこか世界が違っていて、田舎の町には似合わない、異彩な雰囲気を漂わせていた。西日に反射するステンドグラスがチラチラと揺らめいて、僕を誘惑する。

さあ、夢の世界へ踏み出そう。どんなに高い料理だって、どんなに不味くたって構わない。僕の憧れを、僕のものにする時がきたのだった。


ドアを開けると、カランカラン、とドアベルが鳴って、優しい表情の店員さんが迎えてくれた。席につき、メニューを開く。厨房から漂う、温かなごはんの匂い。家々の夕飯の匂いとは少し違う、上品で、それでいて優しい匂い。

肺いっぱいに吸い込んで、ため息をつく。ああ、これが幸せだな、と。

オーダーは僕の好きなものを頼んだ。ロールキャベツ、リゾット、パスタ、生ハム、アボカドのサラダ。デザートにはジェラートを。

噛み締めると、ジュワッと広がる旨味。体に染み渡る温み。食べることが、こんなに幸せを感じられるなんて、思ってもみなかった。いつも、夕飯は一人で、コンビニ弁当やカップ麺ばかりだった僕には、贅沢すぎる味わいだった。 すごい、すごすぎるよ。なんだか、死にたくなくなってきたじゃあないか。

束の間の幸せ。小さな幸せではあるけれど、この瞬間は僕の心が満たされていた。

次は、何をしよう。そうだな、髪を切ろう。

いつもとは違う美容院にいって、髪を染めてもらおうと思う。おしゃれにグレーアッシュを選び、最近流行りの、よくわかんない髪型。仕上げにワックスでキメてもらう。

うん、なかなか悪くない。その次は髪型に合うような服を買って、新しくなった僕と向き合ってみる。鏡に映る僕の姿。自然と猫背もピンと伸びて、真っ直ぐに前を見つめる。

なんだか、今までの僕じゃないみたい。自分で言うのもなんだけど、本当に、これから死ぬ人間には思えないほど、凛としていて。

少しカッコつけて歩いてみたり、スキップなんかしたりして。


これで、高級な車と美人な彼女がいれば完璧なんだけど。なんて、思ってみるけど、今から用意するのはとても難しい。

さて、せっかくビシッとキメたことだし、何をしようか。

胃から込み上げてくる感覚に気づき、急いでトイレへ駆け込む。服につかないように便器に顔を近づけて、先程とは打って変わって惨めな姿。茜に染まる水面。今日は少しはしゃぎすぎたのかもしれない。


どんどんと近づいてくる暗闇に怯えて、今日も息をする。僕の思い描いていた幸せと、僕が感じる幸せには相違があるのかもしれない。大ホームランなんて簡単には打てなくて。しかしながら、ありふれた小さな幸せを噛み締めると心があったかくなる気がした。ねえ、気が付いたよ。幸せってこんなに近くに隠れていたんだね。こんにちは、ハッピーライフ。さようなら、絶望の日々。今日の日を僕は、いつまでも忘れないよ。


目を開けると、そこはやはりベッドの上だった。もう、体を起こす力も残っていない。冷たい点滴針と心電図の音。こうして今日、僕は一人で死んでゆく。








ありがとう、世界。

ありがとう、お母さん。


この世に生まれてきて、よかったと、心から思うよ。


万歳!万歳!万歳!

願わくば、一生覚めることのない眠りへ。


僕がこの世で最後に聞いた音は、心音が止まったことを告げる、冷めた機械音だった。


それはそれは、世界で一番美しい、類い稀なる音色だったよ。

もう言葉も紡げない。もう写真も撮れない。何やっても空回りな自分に嫌気がさすと同時に、自業自得って言葉が刺さるよ。馬鹿にしておくれよ、笑っておくれよ。

人と比べられるのは嫌いなくせに、自分の中では勝手に人と比べてしまう。そしてどんどん惨めになって、どうしようもなく涙が出る日。もういっそのこと、堕ちてしまいたいよ。


悪いことは一生続かないし、今ある状況が悪いことなのかもわからない。大したことないかもしれない。けれども、心が悲鳴をあげているのがわかる。

いつからこんなに、弱くなったのかな。

とある読書感想文2


空は、なぜあんなにも青いのか。幾度か考えたことがある。そして、調べたこともある。しかしながら、空の青さは頭の中でよく理解できないものであった。科学的、物理的な法則によって、空の青さは証明されているのだろうが、私の頭の中では、理解しなくてもなんの問題はない。空は青い。

友人に紹介されてすぐ、ネットショッピングの購入ボタンを押した。現代の目まぐるしい文明の進化には、毎日取り残されている気がして怖くなるが、本当に便利なもので、ものの二日で本は届いた。

『空が青いから白をえらんだのです』インパクトのあるタイトルと真っ青な空とは対照的な白い雲の映える表紙。思わず数分間見入ってしまった。本の厚みに反比例するような重み。もちろん本自体が重いのではなく、その本に納められた言葉の重みを感じた。

表題にもなっている詩のタイトルは「くも」。たった十五文字の中には、この詩を書いた少年の人生が描かれているように思えた。大切な人を守ることができなかった悲しみ。刑務所の中にいる彼は、どんな想いを抱えているのか。

逮捕。その手に手錠をかけられる時の絶望と落胆を私は知らない。人は常々小さな罪を抱えながら生きているのではなかろうか。それはある一定の基準を超えていないから逮捕ではいかないのであって、罪悪感という名の綻びが少しずつ心を蝕む。

死んだ人間は、どこにいくのか。その詳細は誰も知らない。新たな生命に変わるのか死後にも世界があるのかは、死んだ人間にしかわからない。死人に口無しとはよく言ったもので、やはり生きている人間にはいつになってもわからない問題だ。

「くも」を書いた少年の母は、「雲になって見守っている」と言う。それは、ある意味で温かく、ある意味で残酷な言葉だと思った。空を見上げて雲を見ても、欲しい言葉はかけてはもらえない。抱きしめてもらうことさえできない。

詩を書いたこともない少年の言葉。自由に紡いだたった一言の詩。我々は勝手に読解をし、勝手に批評の言葉を紡ぐ。それほどまでに想いを込めたのかも分からない。ただ、なんとなく紡いだ言葉かもしれない。

しかしながら、やはり「言葉のチカラ」を感じるほかないのだ。どんなに短い言葉にも、その言葉の持つ意味が魂となって宿るのではないだろうか。心ない言葉には人を傷つける力が、他人を想って紡いだ言葉も受け取る人の状況によっては、甚大な力を持った凶器にもなり得る。

できることなら、心のこもった言葉を。人々の心を揺れ動かす言葉を。そう思ったところでうまくはいかないが、本当に何気ない言葉が人の心を動かすのかもしれない。

とある読書感想文


人は、失敗を恐れるものだろうか。少なくとも私は、失敗することが怖い。学生時代、自分から手を挙げて発表したことがどれほどあっただろう。私の記憶には、ほとんどない。答えが違っていて人に笑われたり、「え?」という空気になったりした時に耐えられないから、自分の意見や考えは自分の中だけで大切に温めていた。

『とりあえずウミガメのスープを仕込もう。』仕事帰りに寄った本屋で、私はそのタイトルに目を止めた。ウミガメのスープ?水族館で見かけるウミガメに、もちろん食用というイメージはなかった。田んぼや川に生きる亀とは少し違う、言うなれば農民と貴族の差のような、優雅で輝きを放っているカメ。私の持つウミガメへのイメージはそうだった。

大きな寸胴の蓋が開いている絵の描かれた装丁から、目が離せなかった。この中にウミガメのスープが仕込まれているのだろうか。美しいウミガメの肢体がバラバラにされ、その寸胴でふつふつと煮込まれているところを想像すると、少し恐ろしいような、でも見てみたいような、不思議な好奇心に苛まれた。そして、気づいた時には手にとって、レジへと向かっていたのである。

私は、エッセイと呼ばれるジャンルの本が好きだ。他人の頭の中を覗いてみると、自分にはない感性に触れることができ、世界が広く見える気がするからだ。この本もエッセイであり、筆者の本音が随所にみられるところが面白い。

本の中に「失敗ごはん」という話がある。私はタイトルを見て、美味しくないご飯を作ったのか?と安直な想像をした。しかし、紡がれた言葉を読んでいくと、私の安直な想像は一気に覆されたのだった。

内容は、「筆者の子どもが通っている小学校の授業中に失敗をした」というものだった。しょんぼりしている子どもを見て、「失敗ポイントが貯まったね」と励ます筆者。そして、失敗した日には「晩ごはんのリクエスト権」を授けるという話だった。

回避できる失敗はたくさんある。しかし、回避できない予期せぬ失敗にも、生きているとたくさん出会うのである。また、「よし、今日こそは!」と思った時にこそ、失敗してしまうこともある。もう、何にも挑戦したくなくなり、早く消えてしまいたいとさえ思い悩むこともある。私は、失敗をしたくない。人からどう思われるか、独りになってしまうことを想像すると、できる限り失敗を避けるように行動してしまう。しかし、失敗は成功のもとだという。失敗から逃げることで、自らの成長を自らの手で殺してしまっているように思えてくる。

心の中でいくら想いを膨らませても、表現しない限り、誰にも届くことはない。自分を曝け出すことは、勇気のいることだと私は思う。大変なエネルギーを知らず知らずのうちに使っているのだ。

失敗は人生の経験値になるのではないか。失敗をしたことのない人は、思いもよらぬことで崩れてしまうかもしれない。「失敗ポイント」が心の中に貯まっていくと、どうなるのだろう。

そうは言ってもやはり、私は失敗が怖い。いまだに心の中にある本当の言葉は、表現できていないのかもしれない。今晩のごはんのリクエスト権は、いつも私にあるのだけれど、失敗した日には何か別のご褒美をあげよう。生涯、成長しながら生きていきたい。そのためには時に失敗も恐れてはいけないと、この本が気づかせてくれたのだった。

なんで、愛情がほしいんだろう。

服も着ずに、窓に映る満月を見つめる。

女らしくもなく胡座をかいて、フーッとタバコをふかす。煙たいだけの白い闇が部屋を埋めて、虚無を演出してくれる。

これも、なんのために吸っているのかわからない。ただ、口が寂しいから、それだけ。煙を肺に入れることをいいと思ったことも、この煙を美味しいと思ったこともない。

ただ、何かに縋りたいだけ。私のバランスが崩れてしまう前に、支えてくれる棒が欲しいだけ。

愛情はそのひとつ。1人は好きだけれど、独りは嫌だと思ってしまう。出来ることなら、誰かに愛されて、幸せに、笑っていたい。なんて、何処かで聞いたことのあるような、安いセリフをのうのうと頭に浮かべてみる。


でも、それは無理な話なのかもしれない。

私の後ろでスヤスヤと眠るこのセフレとも言えない男に、愛情なんて捧げたことがないし、そんなものなくたってセックスは出来る。


そう教えてもらえただけでも、儲けもんだったりして。


ああ、私は空回り。

何をするにもうまくいかないのは、物事の本質を全て取り違えているから。


もう頑張りたくないの。

努力をしたくないの。


…なんて、嘘。



本当は、もっときちんと、素敵な人になりたかったのに。なんでこうなっちゃったの。っていつも思うけれど、それはいつだって私のせいで。頑張ろうと思えば思うほど、糸の絡まったミシンのように、ガタガタと音を鳴らす。ただのガラクタ。


もう、遅いかしら。まだ、遅くないかしら。



窓をすこし開けると、透き通る風が部屋の中を浄化する。白い闇を照らしてくれた。


ごめんね、ごめんね。きっとたくさん傷つけたのは私の方なのに。

可哀想な顔して、傷付いたようなフリをしてごめんなさいね。



最低なのは私の方。

私の中の最高の男は、あなたではないけれど、本当の意味で優しい人だね。


今晩で最後よ。本当にほんと。

でろんと伸びた腕に頭を乗せて、最後の晩餐の夢を見る。


あなたは幸せ?


…私は、しあわせだよ。



(きっと、ね。)

軒下に咲いたタンポポも、今は綿毛になって、風が吹けば飛んでいく。そんな、儚いものなんだよ。またね。

3月31日

「君、桜の見頃はどのくらいの期間だと思うかね?」


『…?1週間くらいでしょうか?』


「ふむ、そのくらいまでは確かに花がついているね」


『ええ、どうも、そう思います』


その人は少し黙って上を見上げた。そして、ゆっくりとこう続ける。


「私はね、一瞬だと思っているのだよ」


『…一瞬、ですか?』


予想外な答えをしたその人の横顔を、僕は見つめた。依然として一点を見つめながらこう続ける。


「そう、一瞬だ。君、今日の桜は何分咲きかね?」

『…さあ、七分咲き、というところでしょうか?』


所々満開ではあるが、まだ大きく膨らんだ蕾のある桜の木。ソメイヨシノと呼ばれるこの木は、江戸時代から日本人に親しまれてきた交配種だ。

白に近い花びらは密集して、柔らかなさくら色を作り出す。青く晴れた空によく映えて朗らかに咲いているのであった。


「そうか、七分咲きか。この気候であれば明日の方が見頃と言ってもいいかもしれないな。そう思うかね?」


『ええ、明日の方がもう少し花が開くでしょうね。満開になるやもしれません』


「だろうなぁ。だが、明日、雨が降ってしまえばどうだろう?」


『半分は散ってしまうことになるでしょうね』


「そうだろうとも。すると、やはり今日が見頃だったかもしれないと後悔することにはならないか?」


『ええ、きっとそう思います』


「…自然とは予想ができないものだ。今日どうなるか、明日どうなるかなんて誰もが知り得ない情報だ。一寸先も明暗なのだよ、君。そこで思うのは、一瞬を大切にすることだ。桜はね、寒い冬をじっと堪えて暖かくなると一気に花開く植物なのだそうだ。いつ散ってしまうかも分からぬまま、懸命に咲き乱れる。花開くどの瞬間をとっても、それは見頃なのかもしれない。君、人生においても同じことのように、私は思うのだよ」


『…はぁ、難しいものですね』


「ああ、実に難しい。こればかりは容易い問題ではない。もしかすると、失敗が起こるかもしれぬからな」


1ミリたりとも視線を逸らさず、真っ直ぐに目を細めて桜を望む。ゆっくりと流れる雲は、我々の感じている時の流れとは全く別のもののように思えてきて、慌ただしく心を疎かにしていたことを気付かせてくれるようだった。

もう、桜の咲く時期か。思い返せば、あっという間に時間は過ぎてしまっていて、目の前にあることに一生懸命になり過ぎていた。出会いと別れに慣れすぎて、自分がサイボーグにでもなってしまったかのように思う。いつの日か涙を忘れ、笑顔を忘れ、機械のように動き回り、〈頑張っている、頑張っているんだ〉と言い聞かせるようにして自分を納得させていた。

自分自身で〈頑張らねばならない世界〉に仕立て上げていたのかもしれない。しかし、それはそれで間違いではなかった。不安や焦りに追い越されぬように、自分を保てるようにする術だった。


「君、花は毎年必ず開く。この花を見る人は変わっても、この花を咲かす木は変わらない。誰が見なくたって、この桜は咲くのだよ。ただね、我々のことを見ている人はどこかにいるんだ。良くも、悪くもね。たった一瞬の良い行いも、たった一瞬の悪い行いも、きっと誰かは見ているのだと、私はそう思うのだよ」


『ええ、同感であります』


「だからね、一瞬を大切にしたいと私は思う。死ぬ、その瞬間まで。これは大いに難の多いことだけれども、ね。その一瞬には、花を咲かすまでの苦労と想いと喜びとが凝縮されているように思うからね。そこに気付けるような心を養いたいね」


つまらない話だが、と最後に付け加えてその人は桜並木を歩いて行く。あんなに大きく見えていた背中が、少し古ぼけて映った。ただ、偉大なる背中に変わりはなかった。長く慕ってきたその姿が、どんどんと小さく遠くに行ってしまう。手を伸ばしても、もう届かないところへと旅立っていくように思えてきて、訳もわからず頬に一筋の温みさえ感じた。


僕は春が嫌いだった。新しい一歩を踏むのは楽しみでもあるが、不安にも思うから。ただ、始まってしまえば順応していく。それは経験を積んでからわかるようになったことだった。

僕はその一瞬が嫌いなだけだったのかもしれない。食わず嫌い、みたいなもので。


どんなに遠くに居ても、同じ空の下。その人の姿、言葉、表情を心に焼き付けている。支えてもらっているという温もり。たくさんの感謝で心が溢れる春。なんて暖かい風なんだろうか。


好きだ。

今の僕は、そんなふうに思える。


ああ、今度は。

そう、今度は僕の番だ。

どんな一瞬も、包めるように。


季節外れの雪を溶かして、道なき道を踏み分ける。


『ああ、今日は見頃ですね…見ていますか?』


今は亡き師の面影を桜の花びらに重ねながら、遠くの空を見上げて笑った。


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前に進むことが怖いこともある。きちんと出来るかわからないし、嫌われたくないし、なんだよ弱っちいな俺って思うし、くよくよすんなよ、前向け前って。

でも、やっぱり少しでいいから前へ。たまに休んでもいいから、時にがむしゃらに、不器用なりに、もがいてみないと始まらない。

‪自分を見つめ直して、努力をしよう。自分の非は認めて、ちゃんとごめんなさいとありがとうを伝えられるように。曖昧な自分とはさよならを告げて。‬

人が離れていくってことは、もちろん俺に原因があるわけで、きちんと受け止めないといけない。


「自分らしさ」と「自分の好きに生きる」を俺は履き違えていたと思う。本当に頭が悪い。殺したくなるよ、自分を。


でも、そうする勇気もないから今日も息をする。


甘えすぎていた、周りにも自分にも。

嫌いな自分を変えたい。今年は過渡期だと思う。自分に厳しく、負けない。

雨のち春

雨だ。

曇天の中、サーっと降り注ぐ雫たち。

雨樋を伝う音が心地いい。一応作っておいたてるてる坊主が、窓越しに揺れる。白くてふわふわのスカートが、少し透けている。


今日は私のハレの日。この制服に袖を通すのも、今日で最後だ。

世間で話題になっているウイルスのせいで、式が中止になってしまうところもあるらしい。行きたいような、行きたくないような。そんな葛藤が私の中で渦巻いていた。

今までの物語がすべて思い出になってしまう。長編小説を読み切ってしまう時の、切なさとそれでも読み進めてしまう心の早まりが交錯したような、なんかそんな気持ち。


ちゃんと噛みしめたい。

そんな思いに駆り立てられて、今日は少し早めに家を出ることにした。


「いってらっしゃい」


玄関を後にする私の背中に向けて、いつもの声が響く。

今日はカバンがいつもよりずっと軽い。嗚呼、そっか。もうお弁当はないんだ。ファスナーにつけたキーホルダーたちをカラカラと鳴らして、『いってきます』と声を出した。



バッと空色の傘を広げて、てくてくと歩く。3年間、毎日通った通学路。むわっと広がるアスファルトの匂いを吸い込みながら、まっすぐに歩く。草に溜まっていく水に町並みが映ると、なんだか急に寂しくなってきた。


まだ着慣れない制服に身を包んだあの日。新しい友達ができるかどうか不安で仕方がなかった。引っ込み思案だった私は、そんな自分を変えたくて、地元の友達があまり行かない学校を志望したっけ。

名前も知らない人の群れに怯えて、教室の机と椅子に身を隠すように座って、窓から見える雲の流れを必死に目で追っていた。


そんな不安も杞憂に終わり、すぐに何人か友達ができた。


クラスの出し物、なかなか決まらなかったなぁ。夜遅くまで学校に残って、おやつパーティーなんかして先生に怒られたり。

古文の授業はいつも子守唄に聞こえて、ぐっすり眠ってしまっていたり。

日本史でとった33点のテスト、覚えるのが苦手だった。ノート一冊分、歴史上の人物で書き潰したっけ。

友達に貸した教科書、落書きされて返されてたの知らなくて、授業中に笑っちゃった。


失恋に終わった恋も、初めて両想いになった恋も。あー、これはちょっと忘れたいかも。

つまらない時間はゆっくりと、楽しい時間はあっという間に。時の流れは平等なはずなのに、体感速度は違っていたように思う。


そんなことを悶々と考えているともうバス停に着いていた。日に5本しか出てないバスには困らされた。

熱を出して迎えにきてもらった夏の日。あたふたしているお父さんにコンビニで買ってもらったハーゲンダッツ。

甘くて冷たくて、ちょっと高級な味で。熱も悪くないな、なんて。


毎日お弁当を作ってくれた、お母さん。仕事もあるのに、それだけは欠かさず作ってくれた。少し早く家を出る日も、一緒に起きてくれて、「いってらっしゃい」と言ってくれる。


時に喧嘩もするけれど、朝起きたら何事もなかったように「おはよう」をくれて、狸寝入りのときも「おやすみ」と囁いてくれる。


なんだ、こうして考えるとすごく幸せだったんだ。恵まれていた。なんでもない、当たり前のことをだけど。


灰色に霞む景色を眺めて、窓ガラスに伝う雫をなぞった。呆気なく流れ落ちてしまうそれをずっと眺めて。ブロロンと排気ガスを出しながら走るバス。何度寝過ごしてしまったかは数えていない。

あの角を曲がると、私の通う学校が見える。大きくそびえる学舎が、今日に限って少しだけ異世界のものに見えた。


錆びた下駄箱、くすんだ上履き。焦げ茶色のローファーは少しくたびれている。

いつもの教室、ガラガラと扉を引くと少しお澄ましした友達たち。空気が少しだけピリッと感じて、でもいつもと変わらない笑顔がそこにあった。

みんなそれぞれに就職や進学が決まっている。春からバラバラ。遠くに行く子もいる。


こうして、当たり前のようにここで過ごした日々。笑い合った時間。喧嘩した日。泣いた日、怒った日。春、夏、秋、冬。全てが詰まったこの教室。各々で聞こえてくる話し声。胸につけた生花のコサージュ。黒板にあるおめでとうの文字は、担任の先生の字。


式は速やかに、ひっそりと行われた。保護者の参列も二人までとされて、みーんなマスクをして。少し変な感じがする。いつもなら来賓の長ったらしい式辞や祝電披露があるけれど、そんなことも今年に限ってはカットされて足早に済んだ。そそくさと体育館を後にして、最後のホームルーム。一人一人卒業証書が手渡され、思いの丈を話す先生。涙で何言ってるかほとんど聞き取れなかったけれど…。

ただ、「つまずいて転んでも、立ち上がって。生きてたらいくらでもやり直せるから、あなたらしさを忘れないで」って言葉をくれた。

今まで、たくさんの人が私たち子供の前にレールを敷いてくれていた。できるだけ転ばないように、つまずかないようにと願って。大人は経験を重ねている分、後先がわかってしまうらしい。そうしたら失敗する、とか。

でも、私たちはそれを知らずに走っていってしまう。手を引かれると、振り払いたくなってしまう。その気持ちが少しずつなくなっていく感覚が今は少しだけあって、あの時はごめんなさいと思うこともあるけれどやっぱり言葉にはできない。


これからは、自分の道を自分で作っていかなければいけない。みんなの目は不安と、それよりも大きな希望でキラキラと光を含んでいる。



一人佇む教室。机の上にあるたくさんの文字が書かれたノートのページの最後に、ありがとう、と一言書き足した。

裏表紙をそっと閉じてしまうと、幕を閉じた一つの物語。


新しいノートの真っ白なページには、なんて書こう。



いつまでも色褪せない思い出を、心の片隅にそっとしまって。新しい一歩を踏み出す。



そう、明日桜が咲く。

漠然と、しかし何かを確信した私は、軽いカバンを背負って教室を後にした。


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いつの日か、また。あの日と変わらぬ笑顔で。

頑張ったけど、努力はしてない、出来てない。「頑張った!」って胸張ってる自分が惨めに見える。努力するのは苦手。でも努力あってこその「頑張った」だと思ってる。結局表面だけ。薄っぺらいね、俺。

やるしかないんだよ。やれよ。立てよ。

好きなことばっかして生きてんなよ。

なんとなく心にはあるんだけど、どう言葉で表せばいいかわからない。そんな気持ちを言葉にして物語に乗せることのできる人は本当にすごい。だから、文字が好きだ。

コーヒーは苦いから苦手。

どんどんと体は大きくなって、それに伴っているのかはわからないが、それなりに心も成長していって、すっかり大人になってしまった。毎日仕事に追われて、忙しいを理由に自分を疎かにしてしまう。

心が死んでいく感覚が、これほど苦しいなんて知らなかった。


ただ味覚だけはまだまだ子供で、コーヒーはブラックで飲めない。そして甘いコーヒーもまた苦手だ。

牛乳を並々に注いで、少しだけコーヒーを。要は甘くないコーヒー牛乳が好み。


たまに、自分の殻に閉じこもってしまう時があって、どうしようもなく苦しくて。深く、深く、海のそこに沈んで行く感覚。自分の口からもれる空気が海面へ消えていく。自分を輝かせる何かが、少しずつ失われていくような。もがけばもがくほど苦しくて、自分のことが嫌いになりそうで。助けを求めて伸ばした手が、空を切る。


そんなとき、君の言葉がどこかで聞こえてくる。ゆっくりと心に染みて、少しずつ空気が戻ってきて。


はっ、と気がついたら夕方だった。

ゆっくり、どこかで過ごしたい。


馴染みの喫茶店に足を運びメニューを見る。

穀物コーヒー。優しい響き。迷わずそれを頼んだ。もちろん牛乳多めで。


あたたかいカップ。立ちのぼる湯気。

初めて感じた、甘いコーヒーの香り。

ふーっと一息ついて、ひとくち。


なんだか、ふわふわと柔らかな君を思い出す。大きな毛布に包まれているような、安心感。

初めて、甘いコーヒーを飲みたくなった。和三盆のような、滑らかな砂糖をスプーンに2杯。サラサラとコーヒーへ溶けていく感覚も心地いい。


少し甘くなったコーヒーを飲んで、出されたクッキーを齧って。心に栄養を補充した気分。


帰ってから昼寝をしたせいで眠れなくなってしまったけれど、今日はもう一度目を閉じよう。


嫌なこと、苦しいこと、忙しいこと、辛いこと、現実の世界にはたくさん壁があったりして、たまには行き止まったりするけれど。遠回りでもいい、休んだっていい、マイペースに苦しみも包み込んで。



オロナインを塗ってくれた君の、指先の温もりを忘れない。

slowly


チュンチュン…


どこからともなく鳥の声が聞こえる。窓から入ってくる眩い光が、ちょうど目の当たりに差している。その光から逃れるように寝返りを打って、瞼を固く瞑る。起きてる、起きてるんだけど起き上がりたくない。俺は朝に弱いんだ。休みの日くらい、寝かせて欲しい。


『ね、起きて?』


耳元で、聞こえるか聞こえないかくらいの声がする。んんっと喉を鳴らしながら体を伸ばす。春はまだ遠く、布団から出した腕が瞬時に冷たくなっていく。


「おはよ…」


目を擦りながら挨拶をすると、『おはよう』と返事が返ってくる。当たり前、だけども幸せ。


今日は特に何も予定がない。どこへ出掛けるでもなく、かと言って1日家で寝ようとも思っていなかった。ちょうど君も、仕事が休みらしい。


『ごはん、食べる?』


こくんと頷き時計を確認する。時刻は9時。休みの日にしては上出来な起床時間だ。


重い腰を上げ、キッチンへと向かう。窓から差し込む光は白くて眩い。冬の柔らかな暖かさが部屋に充満していた。


さらに乗せられた半熟の目玉焼きと少し焦げたパン。不器用さが少し見えるところ、きらいじゃない。パリパリと音を鳴らして頬張り、もくもくと噛んで飲み込む。

向かいに腰掛けた君は、ボーッとその様子を見ながら『今日は何する?』と首を傾げてきた。



んー、何しよう。家でのんびり?外に出掛ける?とりあえず思いついたのは「ゲーム、しようか」


『いいよ』


ふっと笑った君は立ち上がりテレビの前へスタンバイ。コントローラーを握って待っている。


「早いよ」


やっと全てを口に入れた俺は、もぐもぐしながら君の隣に腰掛ける。


『今日は負けないからね』


画面に釘付けになる君を横目に、ふっと口元が緩む。アナタ、ゲーム強いからなぁ。臨むところ、って感じ。もう負けず嫌いが顔に出ちゃってて、それもまた面白い。


肩を並べて気が済むまでゲームに打ち込んだ。もう何戦目?太陽も高く昇ってきたので薄いカーテンを閉める。

昼飯も食べず、ずーっとゲーム。少し疲れてきたなーっていうタイミングで君が立ち上がった。


『お昼寝したい』


俺の心の中を読んでるかのように呟く君。

いいよ、昼寝でもしよう。コントローラーを置いて、くっつくわけでもなくその場に寝転ぶ。ふかふかのラグと程よく入り込む太陽の日差しが二人の体を包んでくれる。

誘発される眠気に耐えきれず、自然と目を瞑ってしまった。


次に目が覚めたのは、午後6時。

なんだか腹が減ったなーと思って目を開けると、君はまだ夢の中だった。鼻を摘んでみると、ふがっと息をついて目をパチリと開く。

怒るわけでも笑うわけでもなくむくりと起きて『お腹減ったね』


なんか、買いに行こうか。

「俺、ハンバーグ食いたい」


作れと言わんばかりの独り言に、君はこくりとうなずいて立ち上がる。


まだまだ冬だった。コートを羽織りニット帽を被って二人で外へ行く。

はーっと白い息が夜空に溶ける。天を望めばちらついている星屑たち。


澄んだ空気に、冬もなかなか悪くないなと思う。ま、寒いのは苦手だけどね。


並んでテクテクと歩いている途中、ふと思い立ったように君は

『作るの、めんどくさくない?』

と、ばつが悪そうな顔をした。


「はは、俺もそう思ってたところ」


なんとなく、君とは気が合う。居心地がいいんだよ。さて、ここらでUターン。さっき通り過ぎた店で、ピザでもテイクアウトして帰ろっか。


君と過ごすゆるい週末。明日からも頑張れそう。

世界はどこも同じ空の下にある。恙無く過ごせますように。

DEEP IMPACT


久しぶりに休みが重なった今日。

2人で出掛けようかという話になった。

「どこに行きたい?」と聞くと、

『あなたの好きな場所』なんて、慎ましい言葉が返ってくるもんだから、張り切ってしまう。


好きで好きで、君のことばかり考えて。

君の驚く顔が見たくて。

だから、飛び切りのデートプランを用意した。

気に入ってくれるといいんだけど。


君の姿が映る。僕の大好きな真っ白いワンピースに袖を通して、お化粧をして、香水を振って。そして、結婚指輪を大切そうに眺めている。

ああ、早く迎えに行かないと。


愛車に乗り込んで勢いよくドアを閉める。

君の家まで約10分。会えるのが待ち遠しい。


そよ風に揺れる、白いワンピース。清楚な出で立ち。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

君にぴったりの言葉だと思う。

車を停めると、すぐ助手席へ回ってドアを開ける。


「どうぞ、乗って」


紳士を気取ってみたりなんかして。

その姿にクスリと笑いながら『ありがとう』と返事がくる。


隣へ君を乗せて、シートベルトが閉まったことを確認すると、ゆっくりとアクセルを踏み込む。


『どこへ連れて行ってくれるの?』

君の声が弾む。


「それは、お楽しみだよ」

クスリと笑いながら運転する。


もうすぐお昼だし、ランチでも食べよう。君の好きなお店へと車を走らせた。僕はここで食事をするのは初めてだから、どんなおいしいものが食べられるか楽しみだ。


カランカランと店のドアを開けて、予約していた窓際の席へと通される。ランチメニューに目を通すまでもなく、僕は一目散にナポリタンに決めてしまった。


メニューを見ながら、うーんと眉間にシワを寄せる君。


「ハンバーグは、食べちゃったから違うものがいいんじゃない?」


『えっ?』


驚いたように僕の顔を見る君。


「この間、ハンバーグ食べたんでしょ?」


首を傾げながら聞くと


『そうなの!ハンバーグ以外の物にしよっかな』


にこにことメニューへ視線を落とす。


『今日はオムライスにしよっと』


「うん、決まりだね」


店員にメニューを告げてから頬杖をつく。

君の顔をじっと見つめて、にこりと微笑む。本当にこうして二人で出掛けるのはいつぶりだろう。最近はお互いに仕事が忙しくて、会う頻度も減っていた。連絡は取り合っていたが、少しの時間でも会おうということはなかった。君は忙しい人だ。しかし、片付けはどんな時でも怠らない。素晴らしいことだなって思う。僕の部屋も片付けてほしいくらいだよ。


他愛のない会話。仕事のことが主になってしまう。ポンコツな上司、世間知らずな後輩、鬱陶しい同僚。君は色んな人からモテる。いつ言い寄られるか心配だよ。魅力的な男なんてこの世に腐るほど居るから、僕とこうして過ごしてくれること自体が奇跡のようだった。やってきた料理をペロリとたいらげた僕に対して、君はゆっくりと味わっているようだった。


次に訪れたのは小さな水族館。君はこの世で一番水族館が好きだという。幻想的な世界が広がるここを君と歩いてみたかった。

ペンギン、蟹、ラッコ、サメ。愛らしさ満点の水槽内。僕は雑学を話すのが好きで、ここに来ると何かと口が動いてしまう。一言一句同じことを聞かされても、君は嫌な顔をせずうんうんと頷いてくれる。


そんな姿がいじらしく思えて、一番大きな水槽の前で思わず後ろから抱きしめてしまった。


『ちょ、みんな見てるよ…』


「そんなの、気にしないで」


館員のお姉さんがこちらに気がついたようだ。君の顎をクイと上げ、お姉さんの方を向かせる。二人とも目を逸らしてしまう。そりゃあそうか、こんな甘いシーンを直視できる日本人はそういない。気を遣って、なのだろうか。初めてじゃないくせに。



『ねぇ、ほら、次のところ行こう?』

そう言って僕の腕を離れて行ってしまう。

何をそんなに恥ずかしがっているのかな?

恋人同士なんだからさ、もっと近くにいてよ。

するりと手を伸ばして小さくて華奢なその手をしっかりと握る。指と指を絡めるように。もう逃げられないよ、なんて思いで。


陽が傾き始めた。カフェのテラスへ出て椅子に座る君は、さっき僕が買い与えた白いイルカのぬいぐるみを抱えて俯いている。売店でコーヒーを買って、差し出した。砂糖なしのミルク多め。君は甘いコーヒーが飲めない。


『疲れちゃった?』


声をかけると「んーん」と首を横に振って笑う君。作り笑顔が輝かしい。

そうやって、嘘がつききれないところも愛らしい。

まだもう一つ行きたいところがあるんだ。



再び車に乗り込んで、アクセルを踏む。僕の話にもだんだん返事をしなくなっていく君。そんなことはお構いなしに話を並べる僕。

久しぶりなはずなんだから、たくさん喋ったってバチは当たらないだろう?ほら、君もこんなに、疲れ切っていることだしね…。間がもたなくなってきた。



30分ほど車を走らせると、もうすでに空は暗くなっていた。大きな橋桁の近くにある広場に車を停める。そこから星のように広がる夜景が煌めいて見えた。コートに首を埋めながら歩く君。最早何を話しかけても返事をしてくれなくなった。瞳に映る夜景すらも、光を失っているようだ。ボーッと柵の前へ歩いて『きれー…』とだけ呟いた。


「見飽きちゃった?」


『…!何言ってるの?!どういうこと?』


ついに怒り出しそうな君。あらら、今日のデートプラン、気に入ってもらえなかったかな?


クスクスと笑いながら耳元で囁く。

チラッと時計を確認すると夜の7時まで、あと30秒。これで君は…。


ご、よん、さん、に、いち。


プルルルル…プルルルル…

君の携帯へかかる着信。


「電話、出たら?」とわざとらしく言う。


君は画面を確認して『いい…』とだけ残す。


あらら、最後の着信だったかもしれないのに。

彼女の体を包み込んで、優しく頬に口付ける。おや、涙かな?少ししょっぱい。


『…知ってたの?』


なんのことだかさっぱりわからない。

首を傾げて、君を見る。怒りに震えている、肩。赤くなる耳。吊り上っていく目。


知らないわけがないだろう。僕の方が君の浮気相手だったなんて。お見通しに決まってる。

ほら、この薬指だって、しっかり指輪外しちゃってさ。

僕以外を愛すなんて、許すわけないじゃない。だから、少し怖がらせちゃおうって思って。


全部、同じにしたんだ。そう、全部。一言一句ね。


旦那さん、単身赴任なんだってね。もう2年かな?

赴任先で一緒に暮らそうって言われたんでしょう。知ってたよ。

本当は今日、僕に別れを告げようとしてたことも。忙しいって嘘ついたのは、引っ越しの準備でしょ?


甘いんだよ。なんか、おかしいなって思位始めた頃に君の部屋にカメラをつけた。ほら、一度家にお邪魔したでしょ?あの時だよ。

君の鞄にはマイクをつけて。セリフ、完璧にするまで何回聞き直したことやら。ああ、ごめんごめん。そんな怯えないでよ。僕が怯えさせてるんだけどね。


さっきの電話、旦那さんでしょ?

僕が電話してって頼んだんだよ。奥さん、浮気してるから、夜7時きっかりに電話してごらんって。


何その絶望に満ちた顔。堪んないね。

君はどこから異変に気が付いたんだろう。ハンバーグの件?それとも水族館のお姉さんかなぁ?すごい怪訝そうな顔してたよね。それもそうか、この間見た男とは違う人に同じことされてるんだもんね。

でも、言えないよね、気がついちゃったとしても。自分が悪いんだからさ。言い出せるわけがない。

ほら、もう僕から逃げられないよ。





『今日はもう帰る?それとも、これから二人で…ねぇ、聞いてる?』


呆然と立ち尽くす君には、もう僕の声なんか聞こえていないのだろう。


プルルルル…ピッ

今度は僕の携帯に着信が入った。

用件だけ聞いて電話を切る。



『あ、旦那さんのことだけど。今、したi…