旅
僕と関わった人間は、幸せになれるんだ。本当に、そうなんだってば。
嘘みたいなホントの話。自意識過剰ではあると思う、でも、僕が面倒を見た人たちはどんどんと階段を駆け上がっていく。
就職の面接練習に付き合ってやった時も、志望理由を考えてやった時も、プロポーズのシュチュエーション、企画、営業、修理、なんだってうまくいく。
そして、僕と関わった人間は成功を収めて、僕を忘れていく。
僕に残ったものは?僕の成功は?
今まで何一つ、自分自身の幸せを感じたことがない。そりゃあ、人の幸せは、幸せだよ。それで満足していた。人の幸せが、自分の幸せだと思っていた。…今までは。
突然強いられた、ベッドの上での生活。好きなものも食べられない、外に出ることも許されない。ただ、鼻や口や腕に繋がれたチューブを見つめ、心音を耳で確認し、今日も生きていることを悔やむ毎日。ああ、僕の幸せってなんだろう。結局、人の幸せは人のものであって、自分には何ら関係のないことだ。
そう思うとやけに虚しくなって、ただ、ぼうっと天井を見つめる日々。こんなにつまらない人生、あんまりだ。誰のせいでもない、自分の情けなさやつまらなさに絶望する。ほこれるものもなく、平凡以上に平凡で、無意識に息をするだけの人生。
こんな人生、嫌気がさした。だから、残りの人生は、僕の幸せのためだけに生きようと思う。もちろん、多くは望まない。すこしだけ。少しだけでいいんだ。
まずは、ここから脱しなければならない。朝の診察を終えて、一服しようと外へ出る。喫煙所に向かう途中で、点滴針を引き抜き、鼻のチューブもとってしまう。全てを捨てて歩き、最寄りのバス停まで。その前にトイレへ行かないと。こんな、患者じみた格好では、外すら歩けない。ささっと着替えを済ませて、最寄りのバス停へ向かう。
まず向かった先は、来たことのないレストラン。ずっと昔、僕がまだ小さかった頃からある店だった。いつも車で通り過ぎるだけの店。営業時間も、メニューも、店員の顔も、何もかも謎に包まれていた。ただ、車窓に映るその佇まいは、どこか世界が違っていて、田舎の町には似合わない、異彩な雰囲気を漂わせていた。西日に反射するステンドグラスがチラチラと揺らめいて、僕を誘惑する。
さあ、夢の世界へ踏み出そう。どんなに高い料理だって、どんなに不味くたって構わない。僕の憧れを、僕のものにする時がきたのだった。
ドアを開けると、カランカラン、とドアベルが鳴って、優しい表情の店員さんが迎えてくれた。席につき、メニューを開く。厨房から漂う、温かなごはんの匂い。家々の夕飯の匂いとは少し違う、上品で、それでいて優しい匂い。
肺いっぱいに吸い込んで、ため息をつく。ああ、これが幸せだな、と。
オーダーは僕の好きなものを頼んだ。ロールキャベツ、リゾット、パスタ、生ハム、アボカドのサラダ。デザートにはジェラートを。
噛み締めると、ジュワッと広がる旨味。体に染み渡る温み。食べることが、こんなに幸せを感じられるなんて、思ってもみなかった。いつも、夕飯は一人で、コンビニ弁当やカップ麺ばかりだった僕には、贅沢すぎる味わいだった。 すごい、すごすぎるよ。なんだか、死にたくなくなってきたじゃあないか。
束の間の幸せ。小さな幸せではあるけれど、この瞬間は僕の心が満たされていた。
次は、何をしよう。そうだな、髪を切ろう。
いつもとは違う美容院にいって、髪を染めてもらおうと思う。おしゃれにグレーアッシュを選び、最近流行りの、よくわかんない髪型。仕上げにワックスでキメてもらう。
うん、なかなか悪くない。その次は髪型に合うような服を買って、新しくなった僕と向き合ってみる。鏡に映る僕の姿。自然と猫背もピンと伸びて、真っ直ぐに前を見つめる。
なんだか、今までの僕じゃないみたい。自分で言うのもなんだけど、本当に、これから死ぬ人間には思えないほど、凛としていて。
少しカッコつけて歩いてみたり、スキップなんかしたりして。
これで、高級な車と美人な彼女がいれば完璧なんだけど。なんて、思ってみるけど、今から用意するのはとても難しい。
さて、せっかくビシッとキメたことだし、何をしようか。
胃から込み上げてくる感覚に気づき、急いでトイレへ駆け込む。服につかないように便器に顔を近づけて、先程とは打って変わって惨めな姿。茜に染まる水面。今日は少しはしゃぎすぎたのかもしれない。
どんどんと近づいてくる暗闇に怯えて、今日も息をする。僕の思い描いていた幸せと、僕が感じる幸せには相違があるのかもしれない。大ホームランなんて簡単には打てなくて。しかしながら、ありふれた小さな幸せを噛み締めると心があったかくなる気がした。ねえ、気が付いたよ。幸せってこんなに近くに隠れていたんだね。こんにちは、ハッピーライフ。さようなら、絶望の日々。今日の日を僕は、いつまでも忘れないよ。
目を開けると、そこはやはりベッドの上だった。もう、体を起こす力も残っていない。冷たい点滴針と心電図の音。こうして今日、僕は一人で死んでゆく。
ありがとう、世界。
ありがとう、お母さん。
この世に生まれてきて、よかったと、心から思うよ。
万歳!万歳!万歳!
願わくば、一生覚めることのない眠りへ。
僕がこの世で最後に聞いた音は、心音が止まったことを告げる、冷めた機械音だった。
それはそれは、世界で一番美しい、類い稀なる音色だったよ。