退去できぬ避難者に“罰金” 「今の政治象徴」憤る、ひだんれん幹事 (2ページ目)
水俣病と変わらぬ国の姿勢
村田さんは元全国紙記者。定年退職後、2003年から同県南相馬市小高区に帰郷し、妻と暮らした。妻の両親から継いだ7千平方メートルの畑に桃14本を植えて、大切に育てた。原発事故は、記者生活を終えて迎えた心豊かな晴耕雨読の生活を一瞬で奪った。避難指示を受け震災直後から横浜市に避難した。
国の放射線被ばく対策で痛感したのは、「被災者の命と健康を守ろうとするより、被害を隠そうとし、ごまかし、被害の極小化を図る」というふるまいだ。それは、熊本勤務時代に取材した国とチッソの水俣病への対応と変わらない。今度は当事者としてそれに直面することになった。
「(被害を受けた)当事者が泣いてわめいて、訴えるしかない。それを比較的想像力を持って受け止めてもらえるような人の幅を広げて…」。村田さんは「福島は語る」で、そう語っていた。
国や東京電力に避難支援や賠償を求めて交渉を始めた。その歩みの先で、福島県から神奈川県に避難した人たちが相次ぎ提訴し併合審理となった「福島原発かながわ訴訟」の原告団長として裁判を闘い、全国各地の訴訟原告らでつくる「ひだんれん」の活動につながっていった。
避難者の実態と行政の考え方にずれ
震災原発事故から10年目に入る。「今、社会全体が原発事故は終わったんだろうという雰囲気になっていませんか。避難指示解除が相次ぎ、『(避難者の)あんた方、まだ帰んないの』『賠償金もらっていい生活してんじゃないの』みたいな声が聞こえてくる。だが、帰れないわけがあるんですよ」
村田さんは自身の思いや事情を交えて切々と語る。
「原発事故は終わっていない。汚染水問題は解決していないし、廃炉まで40~50年はかかるとも言われている。核燃料が溶け落ちて格納容器の底にたまったデブリがどんな状態か、まだ分からない。今後、何が起きるか分からないんですよ。被ばくの不安や危険性は消えない」
「ことに(放射線の影響を受けやすい)子どもを抱える母子避難の方々は帰る決断が難しい。除染が進み線量が下がったと言ってもそれは限られた場所で、山林は除染されていない。線量が元に戻るまで150年はかかるというのが現実で、避難指示解除地域の帰還率は3割足らずにとどまっているわけですから」
自宅のあった南相馬市小高区は避難指示が解除されたが、横浜市の借家で避難生活を続けている。南相馬では、病院や介護施設、商業施設がまだ満足にそろわないという。避難の歳月を重ね体力も落ちてきた。汚染された畑をどうするか難題だ。妻には認知症の症状が出て要介護1の認定を受けた。以前の地域のつながりも失われている。
「戻れる条件が整っているなら住宅支援を打ち切られてもしようがないが、そうではない。それぞれ自分の責任ではなく、原発事故で避難せざるを得なくなっているんですよ。国や福島県は『空間線量が年20ミリシーベルト以下になって避難解除したから、帰ればいいじゃないか』と言うが、避難者の実態と行政側の考え方の間のずれが大きい。戻れる条件が整うまでは、人が生きる上での最低限の条件として住宅支援するのが当然ではないですか」