兄が継がずに後継を意識

――岩下さんが子どもの頃、家業はどのような存在でしたか。

 父は1933(昭和8)年、7人兄弟の長男として生まれました。若くして父親(岩下さんの祖父)を亡くして家を背負い、以後40年以上にわたり社長を務めました。高度成長の波に乗って事業を軌道に乗せ、87年に「岩下の新生姜」を発売した実質的な創業者と言えます。

 ただ、子どもの頃の私は、家を継ぐ気持ちはありませんでした。それは、5歳上の兄がいたからです。昔気質の家父長的な考えや地方の風土もあり、長男が継ぐのが当たり前だとされていました。次男の私は「兄の脇で専務あたりでどうだ」とは言われましたが、家を継げと言われたことはありません。

 しかし、兄は学生時代に進みたい道を自ら見いだし、父に「家を継ぐつもりはない」と宣言して、日本銀行に就職しました。私は、兄貴がやらないなら自分がやるしかないと考えるようになりました。

1955(昭和30)年当時の岩下食品(同社提供)

継ぐことを前提に住友銀行へ

――慶應義塾大学の経済学部に進んだのは、家業を意識したからでしょうか。

 付属高校からですが、私が指標としていた兄が進学した学部であり、家業にとって都合が良いという考えも確かにありました。

――89年に大学を卒業し、住友銀行(現・三井住友銀行)に入行しました。

 家を継ぐことを前提に、食品会社や食品関連を扱っている商社、銀行を考えていました。大学のゼミの恩師に相談したところ、「将来経営を考えるなら銀行ですね」とピシャリと言っていただきました。

 住友銀行を選んだのは、魅力的な先輩がいたのが理由の一つです。当時の住友銀行は勢いがあり、自分には精神的にやわな部分があると自覚していたので、鍛えてくれるのではという気持ちも少しありました。

――銀行ではどのような業務を。

 最初の配属先は支店の外為課で、当時のデリバティブ取引などに詳しくなりました。仕事には全然不満はなく、正確・迅速・丁寧を旨に、事務の仕事をこなしました。語学留学のような形で、半年間、台湾に行かせてもらったこともあります。

 ただ、腰掛けという気持ちでは自分の時間を無駄に使っているだけ。ゼミの同期会で集まると、同じように銀行に勤めていた友人は、自分の仕事とその先における自分の役割に、ビジョンを持っている。でも、私は目の前の仕事を一生懸命やっているだけで、一生の仕事として定めた人との違いを感じました。

家業の知名度が一気に広がる

――入行から4年後の93年に、家業の岩下食品に入りました。

 銀行では、いい上司にも恵まれ楽しくやっていましたが、実家の動きが急だったので戻ることになりました。前年の92年、「岩下の新生姜」のテレビコマーシャルを開始し、一気に会社の知名度が広がり、大卒の新卒採用が始まりました。

岩下食品の名前を全国区にした「岩下の新生姜」(同社提供)

 それまでは、地縁血縁が中心の採用でした。田舎の商店を経営する分には問題はなくても、名の知れた商品を作る会社は、社会的な視線にさらされます。CMで有名になったというだけで、内実が今までと変わらないなら、新しく入社した人たちとのギャップを生んでしまいます。

 父には、大量採用した人たちを育て、企業としての戦力にするのは難しいと思いました。「一歩間違うと、大けがして会社が潰れる可能性もある」という危機感を抱きました。母親が病気がちになるなど複数の理由が重なって、戻ることにしました。

親睦会で新卒社員の不満噴出

――家業に入って、お父様は喜びましたか。

 親は喜んでいました。ただ、体調面で不安のない状態で働いている親が、子供を戻したい理由は一つしかありません。作家の橋本治さんがかつて言っていたことですが、「うちにはこんな立派な後継ぎがいる」と世間様に見せたいだけです。

 口では「頼むぞ」と言うかもしれませんが、全然任せようとは思っていない。そのような状況で家業に入るので、必然的に対立構造になってしまいます。

 私は8月に入社しましたが、その年の4月に入社していた新卒社員20人ほどと親睦会を開きました。広域新卒採用の実施初年度の社員たちです。集合時間に着いたら、全員が正座をして待っていて、こう言われました。

 「和了さんならわかってくれると思って話しますが、これから会社の問題について言います。一人ずつしゃべりますが、全員の総意だと思ってください」

 それは、不満の噴出でした。採用時に言っていたことと実情が異なったり、パワハラまがいなことがあったり、社内のルールが定まっていなかったり。細かい部分は忘れましたが、社会に出たばかりの新人らしい身勝手な「甘え」も含まれていたけれど、私も「これは、会社が間違っている」と思うことが、相当あったのを覚えています。社員を育てるのと同時に、そもそも誇りを持って働ける場所に、会社を変えなければならないと、強く感じるようになりました。

社内ルールを整備

――どう会社を変えたのでしょうか。

 地縁血縁で採用していたような会社なので、組織もルールもありません。「俺がルールブック」という世界でした。父親だけがルールブックなら、まだいいですが、専務の叔父(既に退職)との間で、言うことが違っていたのです。

 そこで、目標への貢献が公正に評価され、納得感のある査定につながるよう、目標管理と人事評価制度を構築しました。それまで、ほとんどトップが鉛筆をなめて決めるようなやり方だったので、資格・役職の制度を整理し、実効性のある賃金表を作り、人事考課面接を行うなどの仕組みを整えました。

 業務面においては、整っていなかった社内ルールの整備に向けて、ISO9001の認証取得に取り組み、その後の基盤となっていきました。それまでろくに社内ルールのマニュアル化ができていなかったからです。企業としての仕組みを整えることで、社員が安心して、やりがいを持って働ける環境を作ることが、CMを通じて社会の公器となった会社には必要だと思い、改革を進めました。

 とはいえ、社員の側に立って動いても、ポジション的には経営者側で父親に近い。当時としては、独裁的封建的ではない考え方を持っているということで、社員は私に期待してくれた一方、後継ぎでもあるというダブルバインドを感じていました。

プッシュ型からプル型へ

――2004年に社長に就任しました。当時の会社は、どういう状況でしたか。

 漬物の市場は00年くらいがピークで、それ以降は下降します。マーケティングを重視した体質に転換する必要があったのですが、そう簡単には進みませんでした。

「岩下の新生姜」はロングセラーとして、ブランディングに貢献し、銚子電鉄とのコラボなど、様々な企画が生まれています

 父の頃は、商品をお客様にプッシュしていく戦略で、高度成長からバブル期にかけて、モノ不足の時代でした。だから、作れば売れるという感覚があり、作り手こそが本物を知っているという自信の下、それを布教するようなやり方でビジネスを捉えていた。また、そうやって成功してきたという自負がありました。

 しかし、時代は変わり、お客さんが求めるものこそが売れるのであって、我々が本物と思うものが売れるわけではありません。お客様にプルされるような品物を作らなければいけない。しかし、過去の成功体験を持っているので考えを変えにくい。父とは、そういう面でも衝突がありました。

屋号としてただ続くことに意味はない

――改めてお父様との関係について、どのように振り返りますか。

 私が社長で代表権をもらって筆頭株主でいながら、父の考えを完全に切り捨てることができませんでした。私も遠慮してしまったのが実態なのです。自分の気持ちにブレーキがかかっていることを、社員は敏感に察知するから、思い切って改革を進められない。14年に父が亡くなるまで、中途半端な時代を過ごしてしまいました。

 一番の対立は、組織・人事系に関することでした。社員にできるだけ任せることでやりがいと成長を促そうとした私の試みは、組織の肥大化や間接職の膨張という結果も副次的に生んでしまった。一方で、売り上げは回復せず、業績にも影響し、父との諍いの種となりました。

 今は、権限移譲を進めつつも、コンパクトな組織に回帰させ、安心安全な商品を製造するためのルールも組織の血肉となりました。また私も前線に立つことで、商品の将来が展望できるようになっている。父との対立は、幾つもの伏線で、それをいつの間にか回収していくドラマとなっています。

 父が最期に言いたかったことは、「お前のやりたいようにやれ」ではなく「会社を頼んだぞ」だったと思います。自分の生命はここで終わってしまうけど、会社や商品は生き続けてくれという気持ちをもって亡くなりました。

「岩下の新生姜ミュージアム」で取材に応じる岩下さん

 ただ、私はそれを思い出さないようにしています。裏切っているような気持ちはあるけれど、幸い、父が生み出した「岩下の新生姜」を新しい時代につなげることができ、命がけで守っています。今は好き勝手にやっていると自分では思うようにしているけれども、その土台も父が生んだものなんです。 複雑な気持ちですね。

 商品が愛されて支持されているなら、残す努力をしなければならない。ただ、組織体や屋号として続くことには意味がないと考えています。

 ※後編は「岩下の新生姜」の売り上げをV字回復させたSNSの活用や、「岩下の新生姜ミュージアム」の設立など、岩下さんが進めた独自のマーケティング施策に迫ります。