by ぼそっと池井多
小山田圭吾事件が喚起するもの
とうとう大方の国民の意向を無視して、東京五輪が開催された。
開会式の音楽は無事に流れたようだが、開会式の音楽を監督していた小山田圭吾の辞任と、開会式の演出を担当していた小林賢太郎の解任を水に流すわけにはいかない。
小山田圭吾は、過去のいじめ加害を得意然と語っている記録が掘り返されたわけだが、いじめの内容は、「魂の殺人」といってよいほど壮絶なものであった。
小山田圭吾から始まって、いろいろな芸能人のいじめ加害にまつわる過去が芋づる式に発掘されているようである。
おおざっぱな見方だが、社会の第一線で活躍している人は、いわゆる「強い人」が多いだろうから、昔にはいじめっ子だった傾向も強いのではないかと推測する。
すると、今後も芋づるの発掘はしばらく続くかもしれない。
しかし一方では、人はいったんいじめ加害者となったらもう一生、社会的な事業を行うことが許されないのだろうか。
そういうものでもないと思う。
きちんと反省し、更生すれば、よいのではないか。
けれど、その「きちんと」という部分が大切なのだ。
小山田圭吾の場合は、反省しないまま五輪という世界的なハレの舞台に出ようとしていたから、人々の怒りを買ったのだろう。
他方では、小山田圭吾が反省をし、辞任したあとでも、その息子に対してバッシングが行われているらしい。
これもまた異常である。
息子にバッシングをしている者たちは、小山田圭吾にいじめられた被害者たちの仇を取っているつもりかもしれない。
私自身も、どうしてもいじめられた側に自己投影してしまうので、そういう人々の動機はわからないでもない。
けれども、加害者とは別人である息子をバッシングするのでは、今度は自らが無実の人をいじめる加害者になってしまうことに他ならない。
「反いじめ」という、社会的に受け容れられることがじゅうぶんに保証されている安全な大義名分を口実として、自分のうっぷんを晴らしているのにすぎないのだ。
半世紀前、学園紛争のころはうっぷん晴らしをするのに、人々が口実として用いるために反帝国主義、大学解体といったイデオロギーがあった。
最近では、うっぷん晴らしをするのに、「ジェンダー平等」「LGBT差別反対」「SDGs」など、すでに社会的に確固たる正当性を保証された概念が、安全な大義名分として使われることが多い。
小山田圭吾の息子を攻撃するのでは、その「安全な大義名分リスト」に「反いじめ」が加わっただけになってしまう。
私は聖人でも君子でもないので、うっぷん晴らしをすることは、精神衛生を保つためにこのうえなく重要である。
しかし、そのために犠牲となる無実の他者、すなわちスケープゴートが出てくるとなると、これは捨てておける問題ではなくなるのだ。
いじめ被害はなかなか告白できない
本ブログでもときどき書かせていただいているように(*1)、私は幼少期からいじめられっ子であった。
そして、それは過去形ではない。
精神医療にかかったところが、功名をあせる治療者から冤罪を着せられ、他の患者たち一同からいじめられ、患者村を追い出された。
その顛末をリアルタイムな報告と回想によって書いているのが、本ブログ「治療者と患者」シリーズである。
患者村から追い出されて、ひきこもり界隈という新たな村にたどりついたならば、今度は2月に始まるネット暴力事件(*2)が起こり、またしても集団でいじめられ、当事者活動もオチオチ続けていけないような危機に瀕している。
よく、
「いじめは、いじめる側の問題であって、いじめられる側の問題ではない」
という。
なるほど、それは一般論としていじめられる側を救うために必須の考え方ではある。
しかしこのように昔と同じ構造をしたいじめが、私が人生で行く先々で起こるとなると、何か私の側にも問題があるのにちがいないと考える。
それを析出するために、いじめられた記憶を掘り起こしている。
いじめ被害を掘り起こし告白するのは、とてもつらいことだ。
まず、みじめになりやすい。
記憶とともに埋もれていた感情の氾濫とも戦わなくてはならない。
「被害者にまわりこんで得をしようとしている」
という疾病利得の親戚のような概念とも戦わなくてはならない。
しかし、「被害者にまわりこむ」のが一つの弱さであるとしたら、強がっていじめ被害をなかったことにするのも、またもう一方の弱さだと思う。
2月のネット暴力事件の本質
小山田圭吾は謝罪して辞任したが、「2月のネット暴力事件」のいじめ加害者たちは、いまだに反省も謝罪もしていない。
そして謝罪前の小山田圭吾と同じように、いじめ加害を得意然として語っているのである。
そんな言葉を拾ってみよう。
ひらのしょういち (2月16日)
いいね数、484対 13(今現在)。数の面ではおがたけさんの圧勝。
(……中略……)
「数の力でいじめられた」と相手方が言うくらいには、数で圧倒したのだろうか。
太線部、編集者
よく、
「いじめ加害者は、自分がいじめているという自覚がないのではないか」
といわれるが、「2月のネット暴力事件」に限っては、このように首謀者が明確に「いじめ」の意識を持っていたことがわかる。
わかったうえでやっているのだから、なおさら悪質であり、罪は重い。
「2月のネット暴力事件」の序章は、今年の2月7日に開催された庵-IORI- というひきこもり系のイベントであった。
庵-IORI- は、「タブーがなく何についても話すことができる場」という主旨で開催されており、参加する人はすべてその主旨を理解して参加している。
その日、オンラインで開催された庵-IORI- は、4つのテーブル(分科会)に分かれて進行し、私はそのうちの1つである「ひきこもりは地域に支えられたいのか」というテーマのテーブルでファシリテーター(進行役)を務めた。
そこで、参加者の一人である男性ひきこもり当事者から、このような主旨の意見が出た。
「ひきこもりだって恋愛もしたいし、セックスもしてみたい。
当事者同士を紹介してくれるひきこもり支援があったらいいなと思う」
私個人としては賛同できない部分も含まれる意見ではあったが、意見は意見であり、私が発言を止める立場にはなく、止める理由もなかった。
ファシリテーターは参加者の発言を「言いやすくする(=ファシリテートする)」のが役目であり、議長(チェアパースン)とは異なるのである。
だから私自身の意見もあえて言わず、当然のごとく出てきた反対意見を女性自身の立場から発言していただくのが精いっぱいであった。
その場で起こったのは、たったこれだけのことである。
そのテーブルは、何の問題もなく終了した。
そこでは、のちに語られるように「性暴力」も「性被害」も起こっていないし、「女性がモノとして扱われた」事実も、また女性が「踏まれた」事実もなかった。
何でも発言できるという場で、一人の男性が自分の意見を言った。
ただ、それだけである。
ちなみに、私のこのときのファシリテーターとしての進行は、のちにこの件について開かれた庵-IORI- の反省会でも「問題なし」と判断された。
歪曲と誇張の始まり
ところが、その場には居なかったおがたけという人物が、このテーブルの報告を書いた本ブログの記事(*3)の一部だけを切り取り、以下のように歪曲してインターネット上に発信したのだった。
(前略)
単刀直入に、女性は、ヒトは、モノではないぞよ、と……。
あと、わたしは庵の運営に最後にかかわったのは、2019年の9月が最後で、わりと暴力について色々と論じてたと思うんだけど、この男性の当事者の発言、話、かなり暴力、ハラスメントではないかしら?
そこ色々と考えてきた庵が、そこを止める側でないのは、ちとまずいのではないかしら……?
地域のノンケ男性のひきこもりのかたがた、わたしに性的にあてがわれてくれる??いや、ありえないのでは。あ、「ノンケとセクマイはそもそもセクシュアリティーがかち合わないから」って思うかもしれないけど、隠れて男同士でえちえちなことをしてるノンケ男なんて、ザラです、ハイ。
うーん。うーん。
ダメじゃないかなぁ、この話。しんどくないですか??(しんどいと思ってんのに、共有して、すみません……)
「いや、男はこの気持ち分かる」とかいう結論になって、話を続けてしまえるところがあるなら、それって男はなにかと「踏む側」でいられるから、ではないでしょうか……?(*4)
この時点で、読んだ私が、
「それはいったいどこで起こった話をしているのでしょうか」
と訊きたくなるほど、すでに全然ちがう話になっているのである。
「男はその気持ちわかる」
などという結論にはなっていないし、その話題が続けられた事実もない。
なお参考までに、このおがたけという人物は、ゲイであることを公表しており、自身の性別に関してはこう書いている。
性別の認識が「男とは思えないし感じないし、かといって女性ともつかない、女性ではない……」といった感じで、「性別の認識がつかない感じがある」といった感じです。
(……中略……)
カラダの性別は、生まれてからずっと男性の身体です。(*5)
したがって、おがたけを性別代名詞で受けるときには「彼」で受けることにする。
彼は、どういうことに女性が脅威を感じ、女性が怒りをおぼえるか、よく知っている。
そのため、そうした知識と感覚を使い、自ら歪曲した話を「踏む / 踏まれる」という、女性の体感にうったえるのに効果的な語彙を用いて拡散していった。
こうして、
彼ら彼女らは群集心理に酔い、互いに互いの怒りを
事実から感情をおぼえるのではなく、感情があってそれに見合う事実がつくられていった。
そうした投稿のいくつかを見てみよう。太線部や下線部は編集者による。必ずしもこの順番で発言されたものではない。
おがたけ
瀧波ユカリさんが別件で書いてた「人が踏まれてるのを眺めながら「でもこれはこれで考えるきっかけに」とか言っちゃうの恐ろしすぎるでしょ。」と言うことでもあると思う。
Tomoko Ito
左東茉奈
これだけ周りからボコボコに叩かれてて「俺が悪い?どこが?」という態度はちょっと人間性疑い始めます。
(*7)
ひらのしょういち
ひらのしょういち
(*8)
(*9)
(*10)
*7.8.9.10. 時期的には本件に関連してのちに開催された第1回VOSOTオンライン対話会のころのもの。その対話会についてはこちらをご参照のこと。
このように暴力による脅迫が、現実のものとなっていった。
庵-IORI- では、昨年の10月に実際に暴力者の乱入事件が起きている。
そのため庵-IORI- も、また私が主宰するVOSOTも、暴力者たちに対しては厳戒態勢を取るようになった。
しかし、その次に行われた4月の庵-IORI- には、実際にフラワーデモの人たちが乱入してくることはなかった。
それはそうだろう、と思う。
フラワーデモの人たちも、おがたけからこのような話を持ちかけられて困惑したのではないか、と想像する。
なぜならば、ちゃんと事実関係を調べれば、おがたけが歪曲と誇張をしているだけであって、フラワーデモの人たちが抗議している性暴力が実際に現場で起こったわけではないことは、すぐにわかるからである。
「こんなことを相手にしている時間はない」
と判断されたのかもしれない。
そうなのだ。
2月のネット暴力事件は、男性vs女性の対立の問題などではない。
フェミニズム vs セクシズムの問題でもない。
「フェミニズム」「性暴力」「ジェンダー平等」は口実として利用されているだけであり、おがたけやひらのしょういちが持つ私への投影が真の問題なのである。
いじめ被害者は泣き寝入りしなくてはならないか
幼時から、私はストレスが重なると皮膚にアトピーなどのかたちで疾患に出ることは、以前このブログでも書いたことがある(*6)。
ネット暴力を受けるようになって、大きく
しばらくかゆみ止めの軟膏を塗ってごまかしていたが、あまりにひどくなってきたので、福祉事務所に連絡し、医療券をいただいて皮膚科へ行った。
帯状疱疹という診断であった。
過労やストレスで発症するという。
ひきこもりで働いていない私は、過労というのは考えられない。
原因はいじめ加害者たちから与えられるストレス以外に考えられなかった。
皮膚科医には注意された。
「湿疹だ、などと高をくくってはいけません。
このままひどくなれば内臓疾患や失明にもつながる、こわい病気ですよ」
しかし、こういった通院は、
「暴力をふるわれて怪我をし、病院へ行った」
と同じであるとは、一般に考えてもらえないだろう。
「肌がかゆいだけじゃないか。蚊に刺されたのと同じなのに、大騒ぎしやがって」
と馬鹿にされてオシマイかもしれない。
それでもネット暴力事件との因果関係が証明できれば、加害にくわわっている一人一人は傷害罪で訴えられるだろうか。
いや、それも、そう簡単にいかないだろう。
こういった病症が「外傷」と同じことが法的に認められたとしても、事件との因果関係を立証するハードルが残る。
もし、そういうことが簡単にできるならば、プロレスラーの木村花さんを同じくネット暴力によって死に追いやった者たちは、とっくに皆、殺人罪で起訴されているはずである。
実際はそうではない。せいぜい侮辱罪で、一人また一人と略式起訴が遅々と進んでいる程度であるらしい。
被害者が自死して一年以上経っても、そんなものなのだ。
大方のいじめ加害者たちは、その数が多いゆえに罪悪感も分散されて薄くなって、誰も責任を取らず、何事もなかったように今日も幸せに生きているのだと想像されるのである。
そういう想像から来る怒りが、冒頭の小山田圭吾に投影されたのだとも考えられる。
結局いじめは、数の面で
そして、加害者の側が数の面で
なぜならば、いじめが始まると、「自分の頭でよく考えない人」が群衆心理によって加害者に加わるから、加害者側の人数は増えていく。
かたや、「自分の頭でよく考える人」は加害者側に加わらないかわりに、被害者側にも加わらず、遠巻きにして見ていることが多いから、被害者側の人数は増えない。
そのような冷たい態度を、私はけっして責められない。
同じ立場だったら、私もまずは傍観に留まるだろうと思うからである。
キング牧師は、
「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である」
といった。
それはまったくそのとおりなのだが、いじめのような人から人への暴力は、ちょっと見ただけでは、第三者にどちらが正しいかわからない。
とくに、「性暴力」「ジェンダー平等」「人権擁護」のように、いまどきの正義の記号を利用しているいじめはそうである。
だから賢い人、すなわち「自分の頭でよく考える人」は必然的に態度を保留し、どちらの側にもつかず遠巻きに眺めていることを選ぶだろう。
すると被害者は孤立し、加害者は数の面で
加害者は、これを多数決原理による勝利のように喧伝し、自分たちのいじめの正当化の根拠にするのである。
上にも掲げたひらのしょういちの言葉は、まさしくそれを裏づけている。
ひらのしょういち
いいね数、484対 13(今現在)。数の面ではおがたけさんの圧勝。
(……中略……)
「数の力でいじめられた」と相手方が言うくらいには、数で圧倒したのだろうか。
こう考えてくると、あらゆる面でいじめは加害者が得をし、被害者が損をする現象のように見えてきて、私たちは
それでは、いじめ被害者はただ泣き寝入りをするしかないのだろうか。
私はそうは思わない。
ここは、皆さまにいろいろな意見がおありだろうが、ひとまず「憶えておく」というのが、いじめ被害者ができる一つのささやかな抵抗だと私は思うのである。
「いやな思い出は、さっさと忘れてしまいなさい」
というアドバイスがあることは知っている。
そして、そういうアドバイスが有効であることもある程度わかる。
しかし私は、忘れてしまわない、なかったことにしない、いじめ被害者の抵抗としてしっかり憶えておく、という選択肢をひとまず採ろうと思うのだ。
なぜならば、どんなにつまらなく見えても、人生に起こっていることにはすべてきっと意味がある、と考えるからである。