「籤(くじ)引き将軍」は万人恐怖の独裁者!~足利義教

足利義教と比叡山延暦寺
室町幕府6代将軍足利義教、中央集権化を目指し一種の恐怖政治を敷いたが家臣に暗殺される
足利義教

足利義教(あしかがよしのり)は室町幕府の六代将軍で、政治基盤の弱い室町幕府の権威強化に尽力した人物です。

その姿勢たるや極めて強硬で、瞬間湯沸かし器のような激怒エピソードに事欠かない人物でもありました。

今回はそんな義教の生涯を、恐怖エピソードを織り込みながら紹介します。

開闢以来の逸材座主、足利義教

足利義持は室町幕府4代将軍で父義満の手法をすべて破棄します
足利義持

足利義教は三代将軍義満の子として生まれます。母は義満の側室で、同母兄には四代将軍義持(よしもち)がいました。

義教は14歳で出家し、25歳のときに天台座主(比叡山延暦寺のトップ)になります。

天台座主、すなわち日本仏教界の最大勢力のトップには、平安時代以降皇族や摂関家の縁者が就くのがほとんどでした。

比叡山延暦寺阿弥陀堂

それを受け入れることによって、比叡山が朝廷に一定の影響力を持つことになりましたが、足利将軍家から座主になるのはその慣例を破るものでした。

そのことは父義満による足利家の「格」の上昇が一つの要因として考えられます。

足利義満は室町幕府3代将軍として全盛期を現出しました
足利義満

義満は天皇の位を狙っていたという説があります。真偽のほどは明らかではありませんが、その死後朝廷から「太上天皇」(つまり上皇)を贈位する動きもあったほどです。(ただしこれは義持が辞退しますが)

しかし義教が天台座主になれた理由は、それだけではなかったようです。

天才少年
出典:いらすとや

義教は「天台開闢(かいびゃく)以来の逸材」、つまり日本で天台宗が開かれて以来の天才として評価されていたといわれています。

もちろん「足利家の七光り」という要素はあったにせよ、これは義教が尋常ならぬ才の持ち主であったことを示唆しています。

しかし天台座主にまでなったその義教が、比叡山延暦寺と激しく対立することになるとは誰が想像したでしょうか。

「籤引き将軍」足利義教

兄義持の死

義教はその後10年ほど天台座主を務めますが、足利本家の事態が急変します。兄義持の死です。

義持は一度嫡子である義量(よしかず)に将軍の位を譲り、自らは隠居(といっても実権は握っていましたが)しました。

しかし数年で義量が急死、そしてその義量には子がなく、また義持にも他に子がなかったため将軍不在のまま、義持が前将軍として政務を再び見ることになります。

このような事態であったにもかかわらず義持は後継者を決めようとはしませんでした。

その理由は義量が急死したとき、義持が石清水八幡宮で籤を引いたところ新たに男児が生まれる、と出たからだと言われています。

石清水八幡宮は源義家が元服した場所であることから足利家をはじめ武家から崇敬を集めました
石清水八幡宮(出典:写真AC タキザワあやこさん)

つまり生まれくるであろう自分の男児に将軍の位を継がせたかったからです。このときまだ40歳の義持には十分可能性のある話でした。

しかし実際には男児が誕生することはなく、義持は病に倒れてしまいます。

そうなると足利家を継ぐのにふさわしい人物は義満の子、すなわち義持の弟たちでしたが、義持は後継者を指名することを拒みます

これに困惑した幕府の重臣たちは、解決策として籤引きで決めることを提案しました。

くじびき
出典:いらすとや

当初義持は自分の死後に籤で決めるように言いましたが、結局義持が生きているうちに籤を引き、死後に開封するということで決着しました。

おそらく義持の気持ちとしては自分の死を目の前にして、自分の子供ではない人間が後を継ぐことなど、もうどうでもよくなっていたのかもしれません。弟たちといってもおそらく大して面識もなかったでしょうし…

籤引きで将軍を決める?

くじびき
出典:イラストAC マツキヨさん

籤(くじ)引き、といってもあみだくじやガラガラくじではありません。

この当時、籤で物事を決めるということは神の意志を問うという神聖な行為でした。この将軍継承のための籤引きがどのような方法であったかはわかりませんが、石清水八幡宮で厳粛に執り行われたと言われています。

足利義教、誕生する

義教以外の候補者は梶井義承(かじいぎしょう)、大覚寺義昭(だいかくじぎしょう、後の十五代将軍足利義昭とは別人物)、相国寺永隆(しょうこくえいりゅう)の三人で、義教を含め全員出家していました。

そして籤引きの結果、義教が将軍の後継者になりました。

他の候補者たちのうち、義承は義教の後を継いで天台座主となり、永隆は後に鹿苑院主として生涯を終えます。

しかし一人義昭は異なる運命をたどり、義教と不仲になると京都を脱出し四国、九州を転々として最後は義教から執拗に命令をされた薩摩の島津氏に攻められて自害して果てます。義昭の首が義教に届けられると、義教は大いに喜んだといわれています。

こうして義教は還俗しましたが、すぐに将軍になれたわけではありません。

足利義教、将軍就任を拒否される

この肖像画は足利義教が還俗して間もない頃に書かれたものといわれています
足利義教。袈裟のようなものを着ているので、還俗から間もない時期に描かれたものといわれています。

義教は元服前に出家したため、仏教の世界では天台座主にまでなったものの、俗世での扱いは子供と同じでした。

またこれまで出家していた者が還俗して将軍になった先例がなかったため、朝廷は義教の官位叙任、将軍就任は髪が生えて元服ができるようになってからの話と義教がすぐに将軍に就任することを反対します。

30をとうに過ぎた少年義教は還俗してから約1年の後(きっちり髪も生え揃ったのでしょう)、ようやく征夷大将軍に就任することができました。

元服とは?

元服
出典:いらすとや

元服とは貴族や武士などが成人として認められるための儀式です。だいぶ趣は異なりますが、現代の成人式です。

元服の最も重要な儀式は烏帽子親と呼ばれる自分の主君から頭に冠(烏帽子)をかぶせられる「加冠の儀」(かかんのぎ)というものです。

冠をかぶるためには髪を整える必要があります。それが「理髪の儀」というもので、こうしたことからも髪の毛が生えている必要があることがわかります。

またもう一つ重要なこととして、烏帽子親から(いみな)と呼ばれる名前を与えられることです。その諱には主君から一文字与えられるケースがしばしばみられます。

これにより君臣の関係を強固なものにする大事な儀式でした。

元服
出典:いらすとや

ちなみに諱とは忌み名のことを意味しており、口にしてはならない名前というのが語源です。ですからこの時代は人を諱で呼ぶことができるのは烏帽子親である主君だけで、同僚や目下の者が呼ぶことはありえません。

親しい間柄であれば幼名ですし、そうでないなら苗字か官職名で呼ぶのが一般的です。

例えば豊臣秀吉でしたら、豊臣が姓で秀吉が諱にあたります。

若年期は幼名の藤吉郎、信長の家臣として立身してからは官職名である筑前(守)殿、関白になってからは関白殿下といった感じです。(ちなみに最晩年の太閤殿下という名称は、前の関白という意味です。)

足利義教最初の激怒~上皇との対立

天皇家は両統迭立時代を経て北朝の血脈が今日まで続いています
鎌倉時代後期~室町時代前期の天皇家

朝廷の後小松上皇が出家をしようとしたところ、義教は自分に事前の相談がなかったとしてこれに激怒、結局上皇の出家は2年後になりました。

ちなみにこのとき皇位にあったのは後花園天皇で、現在の皇室はこの皇統が継がれています。

足利義教第二の激怒~比叡山延暦寺との対立

比叡山延暦寺根本中堂

これまで見てきたとおり、義教はもともと天台座主であり10年近くその座にいました。そして還俗後も弟の義承を座主に送り込み、友好関係を築こうとしました。

しかしその目論見は外れ、延暦寺は義教の側近で寺社の奉行に不正があるとして訴訟を起こしました。

怒り

義教は怒りを顕わにしますが、幕府の重臣たちが延暦寺との対立は避けるべきと進言したため、ここはぐっと堪えて訴えられた側近を流刑にすることで幕引きを図りました。

しかし延暦寺はこれでは収まらず、同じ天台宗の別派である園城寺(おんじょうじ)を焼き討ちするという暴挙に出ます。

怒り

義教はかなり怒って自ら兵を率いて延暦寺を包囲しました。これに驚いた延暦寺は慌てて降伏して、和睦が成立しました。

この翌年鎌倉公方からの依頼により延暦寺が義教を呪詛(じゅそ)したという噂が京都に流れます。

怒り

義教はついに激怒して再び比叡山を包囲、延暦寺に物資が入ることを許さなかったばかりか、今度は門前町である坂本に火をかけました。再び比叡山は降伏の意を示しますが、今度は騙されてなるかとばかり義教はこれに応じようとしません。

最終的には幕府の重臣たちが義教を説き伏せ、ようやく和睦が成立しました。

しかし義教は延暦寺を心から許したわけではありませんでした。

刀
出典:写真AC hiroshi nomuraさん

翌年、延暦寺の4人の僧を京都に招くと、義教はこの4人を捕らえ首を刎ねてしまったのです。延暦寺側もこの義教の行いに憤り、根本中堂(こんぽんんちゅうどう)に自ら火をかけて何人もの僧侶が焼身自殺をしました。

火事
出典:いらすとや

延暦寺が燃える姿は京都からも見えたため世間に動揺が走りますが、義教は京の街で比叡山の噂をする者は斬首すると触れを出して噂を圧殺しました。

そして義教に従順な者を僧侶に任命して、義教は延暦寺を力で屈服させました

足利義教第三の激怒~鎌倉公方との対立

鎌倉公方とは

足利基氏は尊氏の次男で初代の鎌倉公方になりました
足利基氏

鎌倉公方とは足利尊氏の次男基氏を祖とする関東と東北の統治機関です。鎌倉公方のもとには関東管領といわれる補佐役がおりこの職は上杉氏が世襲していました。

鎌倉公方は室町将軍の下位の存在でしたが、代を重ねるにつれて将軍に対して独立・反抗の色を見せるようになっていきます。その兆候はすでに基氏の子である2代目氏満(うじみつ)の頃から見られています。

足利義教と足利持氏

関東公方は室町将軍に反抗的な態度を取るようになっていきます
室町将軍家と鎌倉公方家

義教が将軍になったとき鎌倉公方は4代目の持氏(もちうじ)がその地位にいました。持氏は将軍義持の猶子(ゆうし、ごく軽めの養子関係)となっていたことから、義持が没すると自分が将軍になるものと信じていました。

しかし実際には義教が継いだため、持氏は大いに不満を持ち義教のことを「還俗将軍」と呼び馬鹿にしただけではなく、祝賀の使者も送りませんでした。このようなことを見逃し放置する義教ではありません

足利義教に口実を与えてしまった持氏

けんか
出典:いらすとや

二人の間に次々と対立の種が蒔かれていきます。上記の延暦寺での呪詛問題以外にも持氏の嫡子命名の問題があります。

鎌倉公方の嫡子が元服するときには将軍の名前の「義」ではない方の一文字をもらうことが慣例になっていました。

この場合は「教」の字がそれにあたりますので、「教氏」などと命名するのが妥当なのですが、持氏はこれを無視して義久(よしひさ)と命名します。

鎌倉五山の筆頭建長寺
建長寺(出典:写真AC 源五郎さん)

また義教の意向によって元号が「正長」から「永享」に変わりましたが、持氏はこれも無視。さらに持氏が鎌倉五山の僧侶を勝手に任命するなど、幕府と義教の存在をまるで無いかのように振る舞います

義教は激怒して、いよいよ持氏の討伐を検討します。そして大軍をもって持氏を葬ろうとしますが、大軍を動かすことは周囲の反対があったため、義教は頭を使います。

足利義教、持氏討伐に動く

足利学校は足利義兼によって創建されました。
上杉憲実によって再興された足利学校(写真AC TO-TOさん)

持氏の補佐役である関東管領上杉憲実(のりざね)は、主君持氏に義教との対立を避けるようにしばしば諫言をしていたことから、二人は徐々に対立するようになっていました。

義教はここに目を付けます。

そして持氏が憲実を討伐しようと兵を動かすと、義教は憲実を助けることを口実に持氏を攻め滅ぼすことを決意します。

しかし関東の武将達は原則持氏の配下であり、いくら将軍の命令であってもどれほどの武将が従うか不安がありました。

錦の御旗
出典:いらすとや

そこで義教は朝廷の権威を借りて持氏を朝敵とする綸旨(りんじ、天皇の命令書)を出させて、関東の諸将に持氏討伐を命じたのです。

義教のこの策は図に当たり、関東の武将の多くが義教の側につき、持氏は敗れ剃髪して降伏を願い出ます。また敵対した上杉憲実も持氏の助命を義教に申し立てます。

しかし義教は断じてこれを許さず、結局持氏・義久親子は自害に追い込まれてしまいました。(永享の乱

切腹
出典:いらすとや

この後、持氏の遺児を担いで結城氏朝(うじとも)が幕府に反旗を翻しますが、義教は大軍を送ってこれを鎮圧して葬り去ります。(結城合戦

義教の死後、持氏の別の遺児を鎌倉公方に立てることが幕府から許されます。成氏(しげうじ)と名乗るこの人物もまた我の強い性格で、後の関東に長期間の戦乱をもたらすことになります。

足利義教による守護大名抑圧政策

義教は自らの権力強化を目指して、守護大名たちの権力の抑圧を図るようになります。

室町幕府はその成立時点から、有力守護大名が強く将軍といえどもその力なくしては立つことができませんでした。

細川氏、斯波氏、山名氏、赤松氏などは幕府の要職に就くだけではなく、複数国の守護を兼任しており、経済的・軍事的にも強力な存在でした。

細川頼之は義満を補佐した名管領です
細川頼之は義満をよく補佐し、名管領と呼ばれました

義教の父である義満は土岐氏、山名氏、大内氏といった有力な守護大名を反乱に追い込み鎮圧して、その抑制に一定の成功を収めます。また細川・斯波の両管領家の対立を巧みに利用して、両者の頭を押さえました。

義持の代ではそのような政策が行われることはなく、義満の時代からは一歩後退しました。

義教は義満のやり方を見習い、それら大名の家督相続に積極的に介入することで、守護たちの力を制御しようと試みます。

義教は本来家を継げる立場ではない自分が気に入った人物に家督を継がせたり、分家を立てさせたりして勢力を削ごうとしたのです。

中には義教の命で当主が暗殺されるような家もありました。

恐怖
出典:いらすとや

この義教の動きは守護大名たちにとっては脅威でした。強圧的に事を運ぶ義教ですから、いつ自分の地位、いや命までも狙われるのではないか。

そのような不安をもっていた人物の一人に赤松満祐(あかまつみつすけ)がいます。

赤松氏とは

赤松円心はひとたび尊氏に臣従するや生涯従いました
赤松円心

赤松氏は播磨国の豪族で、鎌倉時代末期の当主赤松則村(法名円心)が足利尊氏に従います。

則村はこの当時楠木正成と並ぶゲリラ戦の名人で、尊氏が九州に落ちたときには播磨で新田義貞率いる朝廷の大軍を引きつけて城を守り切り、そのことなどで尊氏から絶大な信頼を得るに至ります。

赤松則佑は義満からの信頼が厚く、公家からもその武名を知られていました
赤松則佑

また則村の子則祐(のりすけ、そくゆう)は義満から信頼され、三男ながら家督を継ぎこの系統が赤松氏の宗家となっていました。

赤松満祐は則祐の孫にあたり、播磨(現兵庫県)・備前・美作(ともに現岡山県)の守護に任じられていました。

足利義教に恐れおののく赤松満祐

イエローカード
出典:いらすとや

実は満祐には前科がありました

それは義持が政務を執っていたころ、義持は満祐から赤松氏の本国である播磨を取り上げて、それを義持の側に仕え寵愛の厚かった満祐の遠縁にあたる赤松持貞(もちさだ)に与えようとしたことがありました。

満祐は理不尽な義持の行いに腹を立て、京都の自邸を焼いたうえで播磨に帰国し戦の準備を始めます。このように満祐は剛腹な人物でした。

義持はこの動きに対してさらに他の二国も取り上げて討伐せよと命令を出しますが、さすがに周囲がこれに反対して、最終的に満祐は赦免されました。

なかよし
出典:いらすとや

義教の代になると、満祐は義教の相談相手をするなど幕府の重臣として義教と良好な関係を築いていたかのように見えました。

しかし義教の守護大名抑制策が次々と実施される中、こんな噂が流れます。

「将軍は赤松満祐から守護の位を取り上げて、持貞の甥である貞村(さだむら)に与えるらしい」

この当時貞村の娘が義教の側室となって寵愛されており、貞村は義教から信頼される存在になっていました。

恐怖
出典:いらすとや

「前科持ち」の満祐はこの噂に不安を掻き立てられます。

というのもこの噂以外にも、満祐の家臣が義教によって殺害された、満祐の弟の領地の一部が義教によって没収されて貞村に与えられるなどの事件も起こっていましたからです。

そして満祐は幕府での役職を罷免させられると、ついに決心します。

「殺される前に殺そう。」

独裁将軍義教のあっけない最期

鴨の親子
出典:写真AC YUandNaNaさん

満祐は子の教康(のりやす)を使者として義教に送ります。先述の結城合戦の戦勝祝いと自邸の庭に鴨が子を連れてやってきているので見て欲しいと言って義教の赤松邸への「御成り」を要請したのです。

なにも知らない義教はこの申し出を快諾し、大名や公家を連れて赤松邸に赴きます。満祐は多数の武士を屋敷に伏せ義教の首を挙げます。(嘉吉の乱

あまりにもあっけない最期でした。

パニック
出典:いらすとや

独裁者の突然の死により幕府は機能不全に陥ります。それを横目に満祐は堂々と播磨に帰国しました。

無事帰国したまではよかったのですが、満祐は義教を暗殺したことで安堵してしまったのか大した戦準備もしないまま幕府軍の攻撃を許してしまいます。

細川持之はこの乱を平定し、後に家督を勝元に譲ります
幕府管領の細川持之

管領細川持之(もちゆき)を中心に態勢を立て直した幕府は朝廷から綸旨を得て満祐を攻め立て、およそ三か月後に赤松氏は滅ぼされてしまいます。(後に許されて別の一族によって赤松氏は守護大名に復帰します。)

足利義教の性格について

激怒
出典:いらすとや

これまで見てきたとおり、義教は気が短いうえ火が付くと誰も手が付けられなくなるような激しさがあり、さらには猜疑心が強く、根に持つ性質というどうにも手に負えない人物でした。

そもそもこのような曲がった性格であったうえに、還俗して将軍になった経緯がコンプレックスになっていたのでしょう。

そのような人間が幕府のトップの座に君臨していたのですから、周囲はたまったものではないでしょう。

ここでいくつか義教の激ギレエピソードを紹介します。

俺の顔見て笑ったな!

怒り
出典:いらすとや

朝廷の儀式に参加した義教はそこである公家の人から挨拶を受けます。

その人物はにこりと笑って義教に挨拶をしたところ、義教は将軍を小馬鹿にするような笑みを浮かべたとして激怒、その公家の領地を没収して蟄居(ちっきょ、外出禁止)の処分を下しました。

行列を邪魔するやつは追放

にわとり
写真AC potetoさん

ある公家の邸宅で闘鶏が催され、多数の見学客でその家の周辺はごった返していました。このため義教の行列は前に進むことができません。

激怒した義教は京都での闘鶏を禁止します。

これだけならまだしも、そのうえ京都にいた鶏をすべて町から追放させました。

恨みは忘れません

恨み
出典:いらすとや

義教がまだ天台座主になる前、あることで公家の日野義資(ひのよしすけ)に恨みを抱くようになりました。そして将軍になると義資の所領を没収のうえ、蟄居処分にします。

完全な職権乱用…

そして義教の側室で義資の妹が子を産み(後の七代将軍義勝)、叔父である義資のもとに祝賀の客が多数集まっているという話を義教が耳にすると、これに激怒。義教は訪問客を調べ上げて全員を処罰したそうです。

義理の兄なのですけど…

刺客
出典:シルエットAC

そしてついに義資は何者かに暗殺されます。これは義教の差し金であろうという噂が流れました。まあ当然でしょう。しかもその噂をした公家を義教は島流しにしています。

どのような恨みかはわかりませんが、よほど根が深いものだったのでしょう。

説教は無用!

日親は日蓮宗の高僧です
日親

日親(にっしん)という日蓮宗の僧侶が義教に対して次のようなことを言いました。

「世の中が乱れるのは法華経を信仰しないからです。」

幕府の政治が悪いと言わんばかりの発言に激怒した義教は日親を捕らえ投獄し、灼熱の鍋を頭からかぶせられたうえ、話すことができなくなるように舌を切られたそうです。

さらには日親が住持を務める本法寺(ほんぽうじ)も破却されてしまいました。

本法寺は日親により創建され、現在は京都の別の場所にあります
本法寺(出典:京都の桜 フリー写真)

しかし日親はこのような仕打ちにめげることはなく、義教没後に赦免されるとしゃべれないながらも熱心に布教活動を行って、80歳を超える長寿を記録しました。

これ以外にも、侍女の酒の注ぎ方が下手だと激怒して、尼にしてしまったとか、料理がまずいからと激怒(何度目の激怒だ…)して料理人を罰したなど、義教のこの手の話はきりがありません。

見ざる言わざる聞かざる
出典:いらすとや

後花園天皇の父で義教とは良好な関係を構築していた伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王でさえ、自らの日記にこう残しています。

万人恐怖、言フ莫レ(なかれ)、言フ莫レ

その後の室町幕府

足利義政は義教の五男として生まれ八代将軍に就任します
足利義政

白昼堂々家臣の邸宅で将軍が暗殺されるという事態は、将軍と幕府の権威を深く傷つけました。また後を継いだ義勝(よしかつ)がすぐに没してしまったこともこれに拍車を掛けてしまいます。

義政は銀閣をつくり、東山文化を形成します
銀閣寺(出典:写真AC HIDEOUTさん)

その後を義勝の弟義政(よしまさ)が継ぎます。

義政は若い頃父のように積極的に政治に取り組んだものの、父に似ず優柔不断であり、却って政局を混乱させてしまいます。

そしてついには応仁の乱を招くと政治に興味を失い、趣味の世界にのめり込んでしまいました。

足利義教の歴史的評価

激流
出典:写真AC dronepc55さん

このようにいろいろな意味で激しい生涯を送った義教ですが、その評価はやはり否定的なものが多いようです。

前述のとおり義教の目指したものは将軍権威の確立でした。しかしそのあまりにも強権的・高圧的な姿勢は家臣たちの恐怖をあおり、結局その手にかかってしまったのは稚拙だったと言わざるを得ません。

恐怖をもって人民を支配することは一時的に成功することはあっても長続きしません。そのことは歴史が証明しています。フランス革命のロベスピエールなどはまさに好例でしょう。

ロベスピエールはフランス革命における最左翼として恐怖政治を敷きますが、反動に遭い逆にギロチン送りにされます
ロベスピエール

義教は自分の感情をコントロールできない人物だったのでしょう。

手法はともかく、目的自体は幕府の長として間違ったものではありません。

しかも義教は天台座主になったほどですから、知能的には相当な人物だったと思います。また為政者として必要な信念や決断力も持っていました。

もし自制心があったら、足利義教は名君と呼ばれていたかもしれません。

人間、辛抱です。

2件のコメント

天皇の系図、将軍の系図がたとえ抜粋でも載っているだけで
解かり易さが格段に上がることがこの記事を読んで解かりました。

足利義教のことを読むのは初めてではありませんが。
歴史雑誌に載っている記事は
詳しいけれども体力脳力を結構使うので
この記事のように
さらっとあらましを書いて下さっているのを読む方が
記憶に残りますし、
予備知識がない人にとってもきっと有難い記事だろう
と思いました。
写真が豊富なのもありがたかったです。

ありがとうございました。

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