7月23日、東京オリンピックの開会式が催された。相変わらず東京での感染拡大は予断を許さない状況ではあるが、無観客といえど会場の周囲には多くの人間が集まった。同日朝にはブルーインパルスが飛び、その様子を見るために多くの人々が屋外で空を見上げた。個人的には何から何まで乗れないまま始まったオリンピックだが、人々はさっそく怒りや恐怖から麻痺し始めているようだ。金メダルを取れば人々はすべて忘れるだろう、というような考え方も信憑性を帯びてきたように感じる。それが何より腹立たしいし、医療現場の人々のことを思うと、あまりにやるせない。
死者数は確かに減っているようにも見えるが、新型の「デルタ株」も日本に入ってきており、インド(言うまでもなく温暖な国だ)では400万人以上が死亡した、との見方もある。インドにおける正確な死者数はさておき、7月24日時点のWHOの報告でも累計で1.9億人超が感染し、400万人以上が亡くなっているわけで、さすがに「風邪と変わらない」というのは無理だろう。無観客だから問題ないといった見方もあるが、選手間でも感染は始まっているし、五輪関係者への検査数が明らかに都の検査数を逼迫しているという現状がある以上そうはならないだろう。「バブル」とやらも、到底機能しているとは思えない。
東京では病床は枯渇し、緊急事態宣言が出ている。「酒類の販売規制のため金融機関から圧力をかけるよう働きかけろ」というような要請が問題視されたのは数日前のことだった。彼らが言うには、東京は今まさにろくすっぽ酒も飲めないような緊急事態のはずだ。なのに数万人規模で人の行き来のあるイベントが今まさに進行中である。2つのまったく矛盾している事案が同じ国家/自治体という同じ主体によって行われていく様子はまったく理解不能で、地下芸人のコントのように不条理だった。当事者じゃなければもしかしたら笑えたのかもしれないが、我々の大半はワクチンも未だ摂取できないまま、感染リスクや、やがて来るであろう大増税の気配に怯えている。
各紙によってバラつきがあるが、オリンピックに反対する国民はおよそ半数以上に及んでいる(少なくとも開会式前はそうだった)。東京大会の「延期」(中止ではなく)を決定した安倍晋三前首相によれば、オリンピックに反対するのは反日的な人々であるらしい。(国家運営の中枢たる国会で118回に渡り虚偽答弁をする人間を普通「愛国的」とは言わないと思うが……。)ともかく、オリンピックを楽しむかどうかにはすさまじく政治的な角度がついている、ということは確かで、それは「愛国/反日」などという簡単な二項対立では到底語ることができない(そもそも「愛国であれば良く、反日であれば悪い」という簡単さはどこからやってくるのだろうか?)。
長々と書き連ねてしまったが、僕が何を言いたいかというと「オリンピックを楽しむことももはやかなり政治的」ということだ。自治体や政府によって強行開催され、そのために多額の税金(都税だけでなく国税も含む)を投入して省庁まで作られ、いま、人命軽視や感染拡大をある程度許容するという取捨選択によって行われている。それでもオリンピックを楽しむというならそれは一つの考え方だろうが、もし死者数が増えたり、デルタ株が蔓延したりした場合には(そうなってもおかしくない状況だ)その責任の一端を負うということだ。そんなの真っ平御免だから、僕はオリンピックを見ることはしない。いくら大好きなソニックに言われてもだ。
このオリンピックの開会式でゲーム音楽が使われることの意味
どれだけ距離を置きたくても、このご時世オリンピックの情報を一切遮断することは難しい。開会式では様々なゲーム音楽が使用されたとのことだ。見てないし今後見ることもないので詳細はわからないが、すぎやまこういちによる『ドラゴンクエスト』の曲も流れたらしい。比べるものでもないが、すぎやまこういちが過去にした「オリンピック精神にもとる」問題発言の数々は、それぞれ過去の問題発言や行為を指摘され辞職や解職に至った小山田圭吾や小林賢太郎に劣らない。海外を含め、その目が敏感になっている現状で、オリンピックにおいて氏の楽曲が使用されることの意義について糾弾されることになってもなんら不思議ではないだろうし、現にそうした報道も海外で散見される。勘違いされると困るので言っておくと、これは「『ドラゴンクエスト』を遊ぶな」とかそういうことでなく、オリンピックにとって適切かどうかという話だ。
ここ数日で起きた大量の首の挿げ替えには様々な言い方がある。「キャンセルカルチャー」との批判もあったが、そもそもオリンピック自体が「オリンピック憲章」という理念に基づいて運営されている(はず)のイベントであるので、その批判は当たらない。ポリティカル・コレクトネスがお嫌いなら、まずはオリンピック憲章を批判し、そして、そんなイベントを誘致した連中を批判してみてはいかがだろう。僕が思うに、これはキャンセルカルチャーなどではなくトカゲのしっぽ切りだ。起用した人間、責任者は誰が辞めただろうか? ナチス・ドイツに親和的な発言を(小林賢太郎よりも遥かに最近に)した大臣も辞めてないし、ここにきて(問題発言のバーゲンセールで知られる)森喜朗を名誉最高顧問に、という動きまであったそうだ。
ここ一年で流れたニュースによって分かったように「商業オリンピックの本質とは邪悪であり、差別主義者が作った音楽が流れるべき」とするなら、すぎやまこういちはまさにこれ以上ないほど適任であるだろう。しかし開会式では他の様々な楽曲も用いられたということだ。『ファイナルファンタジー』や『サガ』シリーズは、“かみ”を殺したり、環境テロリストが主人公だったり、その世界の仕組みそのものを恨むような反権威的なシリーズのはずだ(もちろん解釈は人それぞれあってよいが、少なくとも僕はそう思う)。件の『ドラゴンクエスト』シリーズ然り、その他の作品にも、単に勧善懲悪の(悪は滅ぼすべき存在であり、みんなで団結し消滅させれば小さな問題は考える必要もない)短絡的なメッセージをもつ作品は少ないのではないだろうか。そういうものが、本来そのゲームがもつ文脈とはかけ離れ、こんな時だけ(香川県の例を思い出してほしい)国や自治体に都合よく切り出されて使われるのは、ビデオゲームファンとして全く許しがたいことだった。
僕がなにより絶望したのが、同業のゲームライターたちをはじめとして、ゲームファン、クリエイター、インフルエンサー、場合によっては作曲家当人もが、この件に感動しここまで指摘してきた諸問題を見なかったかのように「ゲームが認められた」というような論旨の発言を恥ずかしげもなく振りまきだしたことだ。国威発揚に都合よく利用されることは認められていることとは全く違う。同性婚の認められていない国で虹色のドレスが登場するのと同じで、つまりは「利用価値があるうちは、使ってやる」と言われているだけだ。表現は不当に規制され、バッシングの矢面に立たされてきたビデオゲーム文化を、こんな時だけ都合よく使われるのは(繰り返しになるが)本当に許しがたいことだ。ゲームというものは一人で作るものではないし、『ドラゴンクエスト』シリーズも、最新作では同性婚を実装するなど、一人の思想だけが反映されるわけではなく、進歩の兆しをみせてきたはずだ。そうした政治的に一枚岩でない集団の成果物としてのビデオゲームのイメージをここまで「政治的」なメッセージを持つイベントに借用すること自体に問題があるということも指摘しておきたい。
とにかく、今回の開会式にはムカついた。それについてビデオゲームライティングに携わってきた自分が批判的な目線を向けられないのであれば、それは批評の死だし、自分の「ゲームレビュー」にどれだけの価値があるだろうか?そう考えて今、机に向かっている。
「ゲーム音楽」の演出“だけ”はよかったという素朴さだけでは語れない
……語気が荒くなってしまったが、もちろん「オリンピックを楽しむ」という立場はあり得る。あり得るがそれも「反対」と同等(かそれ以上)に政治的な意味合いがある、という自覚をもった上で楽しんでほしい。「ゲームファンだからゲームの音楽が流れると純粋に嬉しい」という素朴さだけでは全く語れない様々な機微がそこにはある。ゲームファンの中にだって直接的であれ間接的であれコロナによって亡くなった人もいるはずだ。それだけではない。家族でコロナを失くした人もいれば、時短営業により経営難に陥ってしまった店の店主やその家族もいるきっといるだろう。彼らの血や涙の上に新国立競技場は屹立していて、その上で「国家が承認する最良の娯楽」たるスポーツ大会が行われる、という構図になっている。
そういう機微を想像すること、“描画されない”物事への「想像力」はゲームファンの、いや、すべての創作物を愛するものの武器であるはずだ。我々はゲームを遊ぶことで様々なことに想像を働かせてきたのではなかったか?「反対」だけに政治性を押し付けないでほしい。気難しいバカだけが反対していて、何も考えずに楽しむのが賢いなどと考えないでほしい。
秋には衆院選がある。もちろん選択は自由だが、老人たちに「ゲームファンは大増税しても何しても、ゲーム音楽を流してれば文句言わずに従うチョロい連中」などと思われないことこそが本当にゲーム文化を守ることや、リスペクトすることにもつながるはずだ。オリンピック開会式が本当にゲーム文化をリスペクトしたものであったか、そしてそもそも東京オリンピックがこのまま行われるべきなのか、今一度考えてみてほしい。
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