インターネットを検索していると不完全性定理に関する誤った理解が普及しているのを痛感します。なかにはそのことを利用して他人を欺こうとしているように見受けられる人もいます。
よく見受けられるのが「ゲーデルの不完全性定理によって、この世に完全な理論はあり得ないことが証明された。」という風な言説ですが、全く間違っています。今回は不完全性定理の「不完全」ということについて説明したいと思います。
不完全性定理の解説本には必ずと言っていいほど「嘘つきのパラドックス」というのがでてきます。
かいつまんで説明すると、世界には正直者と嘘つきの2種類の人間しかいないと仮定します。正直者は本当のことしか言わず、嘘つきは本当でないことしか言いません。
そこである人が「私は嘘つきです。」と言ったします。この言葉は本当でしょうかそれとも嘘でしょうか。
言った人が嘘つきなら本当のことを言ったことになり、正直者が言ったとしたら嘘を言ったことになり、パラドックスとなるわけです。
この世が正直者と嘘つきにきっぱり分けられるなら、「私は嘘つきです。」という言葉は使用されることはありません。現実の人間はあいまいで矛盾を含んでいるものですから、このような言葉が使われる局面があるかもしれませんが‥。
「この言葉は嘘である」という風な、その言明が自分自身のことを言及しているものを「自己言及命題」と言います。数学に集合論が導入された時から、数学者は数学の世界に「自己言及命題」が入り込まないように頭を悩ませてきたのです。
哲学者であり論理学者でもあるバートランド・ラッセルはホワイトヘッドとともに、苦労に苦労を重ねてパラドックスを避けるための工夫をして、わずかな公理と推論規則から数学の体系を積み上げた壮大な論文「プリンキピア・マティマティカ」(数学原論)を書き上げました。
「プリンキピア」はまさに偉大な業績でしたが、天才クルト・ゲーデルが「プリンキピア・マティマティカおよびその関連体系における決定不能な命題について」という題名の論文を発表しました。これが第一不完全性定理と呼ばれるようになります。
・第一不完全性定理
≪初等的な自然数論を含む無矛盾な公理的理論Tは不完全である。その中で証明も反証もされない決定不能命題が存在する。≫
ここで云う「決定不能命題」というのは「自己言及命題」のことです。ゲーデルは普通我々が数学と呼べるほどの内容をもった公理系には必ず自己言及命題が必ず紛れ込むと言っているのです。
その自己言及命題を仮にGとしますと内容的には「Gは証明できない」というような内容です。数学的にはあまり意味のない命題です。Gが証明できないとそれは意味的にも正しい命題ということになります。正しい命題であるのに証明できないから「その公理系は不完全である」という風に言うのです。
Gのような命題は演繹的にたどり着くことができないので、「独立命題」とも言います。独立命題は大抵は数学的にあまり意味がありません。正直者と嘘つきの国における「私は嘘つきです。」という言葉のように必要のない言葉だというだけのことです。
不完全性定理における「不完全」の意味が辞書的な意味の「不完全」ではないということが理解していただけたでしょうか。
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