数学内外での不完全性定理

卒論の季節。早々と一人が書き上げて少し楽になった。あとの4人はこれからがラストスパート。


トルケル・フランセーンの「ゲーデルの定理」を読む。

ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド

ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド

ゲーデル不完全性定理(ある程度の有限的算術を含むどんな無矛盾な形式的体系にも決定不能な算術命題が存在し、さらにそのような体系の無矛盾性はその体系においては証明できない)をシンプルできちんと解説した上で、数学外での誤用の具体例と、そこどこが誤用なのかを正確に解説した名著。といっても意地悪い「揚げ足取り」ではなく、記述がsolidなので偉いと思う。

それらの数々の長所をまず認めた上で、読みながら「どうもなあ」という気持ちがあれこれと湧いてきて不思議だった。その理由は読了数日して思い至った。不完全性定理に強いこだわりを持つ「非数学者」の心情は、「(たぶん)もっとも完全に近い形式体系を築けるはずの数学というシステムでさえ「完全ではありえない」のだから、ほかの全てのシステムはもっと「完全ではありえない」はずだ」というものだと思う。これはもちろん単なる心情であるのだが、「人情としてはごく自然」ではあるまいか。


数学外での誤用についての指摘は例えば以下のようである。

「数学外での不完全性定理の応用もどきは、基本算術を含むという本質的な条件をしばしば無視して、この定理が形式体系一般についての定理であるような間違った定式化をおこなっている」

「『人間の思考』には、形式的に定義される言語、公理、推論規則のようなものがないので、不完全性定理を『人間の思考』に当てはめることには意味がない」

不完全性定理が数学の定理であるのは、まさに『真偽』と『証明可能性』という重要な概念が数学的に定義可能だからである。非数学的な『ゲーデル文』やウソつき文は、以下のようなことについて長い(あるいは果てしない)議論を呼び起こす。証明とは何か、新なる言明とは、健全な論証とは何か、何かが真であると示すこととは、何かが納得できるとは、何かを信じるとは、意味ある言明とは何か、等々。形式言語の文についての算術的に(もっと一般的には、数学的に)定義可能な性質の不動点と、上述の様々な文の間には形式的類似性はあるが、後者では不完全性定理やその証明の何らかの応用を扱っているわけではなく、不完全性定理に触発されて生まれただけの考えや謎を扱っているのだ」

ゲーデルの定理のどこを見ても、”数学で使われているどんな形式体系も、その無矛盾性にはまったく疑いがない”という立場と矛盾してはいない。実際、これらの体系の公理が真であり、そして無矛盾であるという絶対確実な知識を持っていると主張しても、ゲーデルの定理のどこにも相反しないのである」

「人間の心を研究していて、他分野における暗示、比喩、類比を見出すことはもちろん正当であって、そして非常に有用かもしれない。けれども、それは出発点になりうるだけで、人間の心の本当の理論や研究のためには、ホフスタッターのような見解に実質的内容を与えることが必要とされるであろう。ゲーデルの定理を比喩的にもちだす議論の弱点は、それを鋭く明晰な洞察と錯覚させてしまい、満足感を人間の心に与えてしまうことだ」


もちろんこの本の魅力は誤用の解説だけではない。たとえば計算可能性理論を説明した上で、不完全性定理不動点構成法(自己言及文を構文的操作によって構成する方法)によらない証明が、計算可能性理論により可能であることの説明。

「計算可能性理論に基づくこの形の第一不完全性定理は、不完全性の証明にとって自己言及文(の算術的形式化)の使用が本質的に必要ではないことを示している。実際この証明においては、Sが自己言及を形式化できるという仮定を置いていない。もし私たちが不完全性を示したいだけなら、Sの内容と構成は、ある程度の初等算術を含むこと以外、本質的ではない。とくに、Sが一階理論であるか、あるいは2階論理と呼ばれるものを使用するかなどは、Sが形式体系の基本的性質を満たす限り、何ら違いを生じない」

個人的には、不完全性定理の証明とはすなわち「自己言及文を如何にして構成するか」だと思っていた口なので、大変新鮮だった。


こういう言説も切れ味がよい。

「私たちがゲーデルの証明から得られる知識は、Gが真であることと、Sが無矛盾であることが同値になるということだけだ」


ペンローズやホフスタッターの主張を犀利に切り分けた上で、思考に関する不完全性定理の”誤用”の指摘はかなり厳しいものだが、説得力がある。

「できる限り計算機のように機械的に思考しようと努力している時でも、『私たちの思考が形式体系を形成する』というのはせいぜい比喩にすぎない」

「人間の思考が不完全性定理の制約を受けるという議論において基本となるべき前提は、算術について『何を人間の心が証明できるか』を私たちが明確に言えることである」

「体系のゲーデル文あるいは体系の矛盾性は、その体系の中では、つまり体系で形式化可能な証明によっては証明できない。そればかりか真に主張することもできないという意味でなら、これは正しい。でも『体系の外に出る』という表現はやや魅惑的すぎる。その体系で証明できないものを証明可能にするような体系を『外から』見るという一般に適用可能な方法があることを意味しているように響く。しかし、そのような一般的な方法を知られていない」

非人間的にエレガントで破壊力のある本。

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