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■ 増支部経典 7集 第5 大供犠品46
〈 和 訳 〉
比丘たちよ、これらの 七想 は 修習せられ、
しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露に 浴し、甘露に 究境す、
── 何をか 七 となす。
不浄想 ・ 死想 ・ 食不浄想 ・ 一切世間不可楽想 ・ 無常想 ・ 無常苦想 ・ 苦無我想 なり。
比丘たちよ、これらの 七想 は 修習せられ、
しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、── と、
このように 言われる のは、これは何を 基 にして 言われるのであろうか?
1.不浄想
比丘たちよ、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
淫欲 を 行なうことに著せず、それを 厭 ( いと ) い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発が持績 するのである。
比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、
あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) しである。
比丘たちよ、是の如く、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
淫欲 を 行なうこと に 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、もし、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
淫欲 を 行なうこと において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 不浄想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、もし、不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
淫欲 を 行なうこと において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 不浄想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、不浄想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、
── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。
2.死想
それでは比丘たちよ、死想が修習せられ、しばしば行われて大果あり、大称賛あり、甘露に浴し、甘露に究境す、
── と、このように 言われる のは、これは何を 基 にして 言われるのであろうか?
比丘たちよ、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
活命の希望 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、
あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。
比丘たちよ、是の如く、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
活命の希望 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、もし、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
活命の希望 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 死想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、もし、死想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
活命の希望 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 死想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、死想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、
── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。
3.食不浄想
比丘たちよ、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
味への渇愛 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、
あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。
比丘たちよ、是の如く、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
味への渇愛 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、もし、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
味への渇愛 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 食不浄想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、もし、食不浄想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
味への渇愛 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 食不浄想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、食不浄想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、
── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。
4.一切世間不可楽想
比丘たちよ、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
世間心 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、
あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。
比丘たちよ、是の如く、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
世間心 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、もし、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
世間心 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 一切世間不可楽想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、もし、一切世間不可楽想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
世間心 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 一切世間不可楽想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、一切世間不可楽想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、
── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。
5.無常想
比丘たちよ、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
利養・尊敬・名声 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、譬えば、それは、火の中 に投げ入れられた 鶏の翼、
あるいは腱の欠片が、著せず、厭い、転出し、進まざるが如 ( ごと ) し である。
比丘たちよ、是の如く、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
利養・尊敬・名声 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するのである。
比丘たちよ、もし、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
利養・尊敬・名声 において 著し、それを 厭わずして持績 しなければ、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 無常想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、もし、無常想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
利養・尊敬・名声 において 著せず、それを 厭い、転出し、進まず、捨 あるいは 反発 が 持績 するならば、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 無常想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、無常想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、
── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。
6.無常苦想
比丘たちよ、無常苦想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘に、
怠惰・懈怠・奔放・放逸・不勤行・不観察 において、
── 譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対している かのような、
激しい 畏怖想 が 現前する。
比丘たちよ、もし、無常苦想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘に、
怠惰・懈怠・奔放・放逸・不勤行・不観察 において、
譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対している かのような、
激しい 畏怖想 が 現前 しなければ、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 無常苦想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、もし、無常苦想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘に、
怠惰・懈怠・奔放・放逸・不勤行・不観察 において、
譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対している かのような、
激しい 畏怖想 が 現前 するならば、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 無常苦想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、無常苦想 が 修習せられ、しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露 に 浴し、甘露 に 究境す、
── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。
7.苦無我想
比丘たちよ、苦無我想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心は、
この 有識の身 において、および一切相において、
我我所慢 を 離れ、偏見 を 超越し、寂静 にして 妙解脱 している。
比丘たちよ、もし、苦無我想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
この 有識の身 において、および一切相において、
我我所慢 を 離れず、偏見 を 超越せず、寂静 ならず、妙解脱 していなければ、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 苦無我想 が 修習されておらず、以前 と 後との 区別 がつかず、修習果 が 得られていない、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、もし、苦無我想 が 集積する心 に 満ちて 住する比丘 の 心が、
この 有識の身 において、および一切相において、
我我所慢 を 離れ、偏見 を 超越し、寂静 にして 妙解脱 しているならば、
比丘たちよ、比丘はまさに、是の如く知る べきである。
私には 苦無我想 が 修習されており、以前 と 後との 区別 がつき、修習果 が 得られている、
── と、是の如く 知って そこに 正智 を 生ず。
比丘たちよ、苦無我想 が 修習せられ、しばしば行われて大果あり、大称賛 あり、甘露 に浴し、甘露に究境す、
── と、このように 言われる のは、それはこれを 基 にして 言われるのである。
比丘たちよ、これらの 七想 が 修習せられ、
しばしば行われて 大果 あり、大称賛 あり、甘露に 浴し、甘露に 究境するのである、 と。
〈 和 訳・おわり 〉
● 解 説
この「七想」の中で、私が、注目をしたポイントは、〈 6.無常苦想 〉です。
〈 譬えば、まるで、刃物を抜いて手にした殺人者と相対しているかのような、 激しい畏怖想が現前する 〉
── これを実際に「体験」すると、時代劇などで剣豪が、相手の「殺気を感じる」ということの意味が解ります。
その瞬間、周囲の温度が一瞬で冷え込み、シン、と静まり返るのです。
そして、私の場合は、私を狙う誰かが、今まさに凶器を手にして部屋の中へ侵入して来る…
というビジョンが、はっきりと脳裏に浮かびました。
それが、あまりにも明瞭なビションだったために、しばらく落ち着かず、何度も外を確認〈点検〉したことを覚えています。
── このような「体験」をその人が実際にしていないと、経典が示している「意味」を、掴むことが出来ないのです。
〈 編集中 〉
最終更新:2013年06月03日 09:47