ツイート
会話
コレね…
僕は一期と2の差として、明らかに2が酷い方向になった証だと思います。
端的に言えば2は「感動ポルノ」なんですよ。
ラッキービーストが破損→修理する行為をした時、その想いが通じたという物語がここに添えられている。
「修理したヒト側からの視点によって」美化しているのが問題。
1
2
5
感動ポルノとは
・ある特定の人達やグループをモノ扱いして、他の人達が得するようになっている
という定義が重要で
・健常者から見て、障害者は「健常者にとって勇気づけられる存在と勝手に扱われ」
ていたから批判された。
Aの主体は、Bの主体性を認めてないに等しい。
1
2
6
ラッキービースト(LB)を修理する設定においては
1. LBが壊れている
2. ヒトが直し機能が回復する
までで本来は十分のはず。
しかし
3. ヒトの想いが通じ、LBの機能を維持せしめている
まで設定されていると、それは「ヒトの視点が優先され」「LBの主体性よりもヒトの主体性が優先されている」。
1
1
5
この時点で、感動ポルノに片足を突っ込んでいる。
LBを直す過程を、ヒトの想いを中心に物語と化し、美化に酔えるようになっている。
更に感動ポルノを強めるのは
0. LBが壊れたのは私達ヒトの去ったパークにいたから
という前段が加わること。
愚かさを嘆く主体はヒトなので、やはり自分達に酔う。
2
1
5
「LBが壊れたら直す」という単純な話で済む所を、ヒトの想いを中心に美化した物語にしている。
それは、あらゆる動物を救おう!という動物ファーストの理念になる。
動物を分かろうとしたんだ!というキュルルに体現される。
しかし、その主体はあくまでヒト中心。
だから批判されるだろう?と。
1
1
6
1期と2の集合なんかはその主体性の良い例ですね
ボスの呼びかけによって自発的に集まった1期と、とりあえず集められて不満言い出す奴まで出だす2
ボスの主体性は「3人での旅、楽しかったよ」とそれに繋がるシーンがよく表してたなと思ってます
1
2
返信先: さん
2には、ヒトの主体性=キュルルの視点が最優先されていることこそ本来批判されるべきです。
(批判的に捉える=否定する、ではない)
キュルルが描くフレンズの集合絵とは、ヒトが動物と共生する証ではなく「ヒトが動物達を分類していく行為」そのものでしょう。
キュルル=ヒトの視点で描いたのだから。